「コミンテルンから見た第二次世界大戦と戦後日本」
(弘志会・中京青年会講演レジメ)

T.コミンテルン(Comintern)の歴史、コミンテルンの変貌
1.コミンテルン(第3インターナショナル)の創設
(1)世界共産主義体制(革命の輸出期)プロレタリア国際主義
 @資本主義の打倒、プロレタリアート独裁と国際ソピエト共和国の樹立
 A「民主集中」の独裁体制→前衛組織(フロント)→少数精鋭主義
(2)一国共産主義(ソ連擁護体制期)への転換
 @27年テーゼ:帝国主義戦争の危機に対する闘争 中国革命の支援 ソ聯邦の擁護
 Aブハーリン議長「世界プロレタリアートの3つの本質的任務は、来たるべき帝国主義戦争の危険に対する闘争、中国革命の防衛、ソピエト連邦の防衛である」
(3)連合共産国家期→人民戦術(Front Populaire)シンパの総動員
 @スターリンの失政「社会ファシズム」論の採用、社会民主党を共産党に対する最大の敵としためドイツ共産党がナチス党と協力→  社会民主党を攻撃→1933年ヒトラー政権誕生
 A階級闘争を放棄→民主主義擁護、「反ファシズム統一戦線」の結成→セクト主義の排除

2.中国革命の重視と日中関係の混迷
(1)中国におけるコミンテルンの策動
排日・利権侵害件数(1927年―1930年)(広瀬彦太『太平洋二千六百年史』)

権益の侵害 20 邦貨搬入阻止  6 軍隊・軍人の攻撃 18
不当課税  6 邦人の不当抑留 33 艦船攻撃 11
邦船不当臨検  6 立ち退きや事業中止要求 10 営業妨害 15
邦人への暴行傷害 31

(2)コミンテルン(共産党)の歴史年表
   1916年 ロシア革命
   1919年 コミンテルン結成(第1回モスクワ会議)バイエルン・ソヴィト共和国樹立←5月政府軍弾圧
        「ロシアと東洋の全労働者と回教徒へ」の宣言 朝鮮→三・一独立運動、中国→五・四運動(対華二十一ヶ条の要求)
        ウイルソン大統領「平和14カ条」(議会演説)レーニンの提案を流用
   1920年 コミンテルン東方部長の中国派遣、中国各地に共産党支部を結成
        「民族・植民地解放政策」→中国重視→国民党(孫文)
         ヴァンダー=リップ協約(シベリア資源の開発)調印
         日米→シベリア出兵(米・極東共和国を支持、1922年11月、ソ連への併合を決議)
         (日本・シベリア共和国(緩衝国家構想・セミニョノフを支持) 
   1921年 民族植民地担当マリーン中国へ、上海で第一回中国共産党大会を開催
   1922年 政治顧問ボロジン派遣
   1924年 国民党「連ソ容共」方針を採択(第1次国共合体・国民党を乗取る戦術開始)
   1925年 青島の日系紡績工場で大規模なスト「五・三〇事件」:反英から反日へ
         孫文死去→国民党分裂→蒋介石の指導権確立
   1926年 国民党軍→第1次北伐、 1928年に第2次北伐を開始
         コミンテルン「日本問題特別テーゼを決定」、中ソ友好中立条約締結
   1927年 蒋介石の反共クーデター→漢口・九江の英租界奪回、第一次南京事件
   1928年 ソ連の政争(トロッキー国外追放→スターリンの独裁粛正開始)
   1930年 スペイン革命(共産主義政権樹立)
   1931年 国家社会主義労働者党(ナチ党〜第1党(1933年ヒトラー首相就任)
   1932年 日本満州国樹立(1933年・国際連盟脱退)第一次上海事変(日本の陰謀)
   1933年 ナチ・ドイツ誕生、中華ソヴィエト政府樹立(瑞金)
   1935年 第7回コミンテルン大会「日独をコミンテルの敵」と規定
   1936年 西安事件(張学良、蒋介石拉致)国共合作成立→第2次国共協力体制構築→日独防共協定締結
   1937年 廬溝橋事件「運命の一発」(劉少奇・抗日救国学生・日支両軍に発砲)
         西安事件(第2次国共合体・スターリンの命令)「対日戦」で一致
         大山勇中尉虐殺事件(中国保安隊の張治中司令官の命令)→第二次上海事変、南京攻略→第二次南京事件
         大山事件の背景:ドイツの武器・軍事顧問団で自信:蒋介石側から
   1940年 日独伊三国同盟締結
   1941年 ソ連KGBの「雪作戦(ハルノート)」の成功→太平洋戦争へ

U.コミンテルンと日米中関係
1.米国とコミンテルン
(1)米国のコミンテルンの誤解(1945年の朝鮮戦争まで続く)
 ウイルソン大統領の「パリ講和14ヶ条」の宣言(レーニンの主張を流用12ヶ条)

(2)ルーズベルト政権と共産主義
@エレノア・ルーズベルト夫人はピンコ(ピンコ:共産主義の同調者、社会主義者など)
 ピンコ→ル夫人に取り入る→マーシャル大将の国務長官抜擢(序列14位)戦功なしの将軍
Aルーズベルトは容共的+親中国的(祖母の影響)+大海軍主義者(叔父の影響)
  ニューディール連合に共産主義者と社会主義者が入会→ニューディール左派連合結成
  共産党員数の増加:1930年7500人→38年には7万人
B政権内(特に国務省)に200名余の共産主義者あるいはピンコ(VENONA文書1996年公開)
 ☆側近ナンバーツウのハリー・ホプキンズ ☆大統領補佐官(中国担当)ロークリン・カリー
 ☆国務省アルジャー・ヒス ☆ハリー・ホワイト←「ハル・ノート」の作成者
C在中国アメリカ大使館のピンコ:エヴァンス・カールソン大使、ジョージ・アチソン(来日・初代駐日大使)
 ジョージ・エマーソン(来日)など10-12名のピンコ

(3)在中国軍事顧問団のピンコ(政治顧問)ジョン・ディビーズやジョン・サービス
@オゥエン・ラテモア「大平洋調査会」編集長(コミンテルンの援助の中国支援雑誌)
Aアグネス・スメドレー:朱徳将軍の伝記『偉大なる道』→ゾルゲを尾崎に紹介
Bエドガード・スノー:『中国の赤い星』中国共産党はソ連とは異なる大土地所有制度の改革者、毛沢東はジェファーソンのような人物と賞賛

(4)国府側の策謀
@外国人新聞記者の活用(金銭供与)
A宣教師の活動 
B宋美麗の魅力 宋慶麗の共同
Cヘンリー・ルースの『タイムズ』と写真週刊誌『Life』社長
(5)最大の陰謀→田中上奏文の偽造:1944に米陸軍省映画化→東京裁判→東京判史観の原点
「支那を征服せんと欲せば、まづ満蒙を征服せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ずまづ支那を征服せざるべからず。これ明治大帝の遺策である」

(6)ソ連(コミンテルン)の戦略:
@「資本主義国同士を戦わせて共倒れにさせ、最後に覇権を握る」
A人種論(トロッキー)(白色人種)の協力→「クルミ殻割器論」
  「なぜ共産主義を嫌うか、われわれ共通の敵は黄色人種の日本ではないか」「白色人種の
  米ソ両国が協力しクルミ割りのテコのように両側から押せば割れる」
Bレーニンの氷砕船論←日独の脅威排除→「反ファシズム統一戦線」の結成

V コミンテルンに操られた日本
1.ゾルゲ事件と尾崎秀実

 赤軍情報部第四部諜報員ゾルゲと尾崎秀実「インベスト(情報源の秘匿名)」

(1)尾崎の策動→ソ連の脅威の削減→日本を中国の泥沼へ
  「前進、前進、その声は絶えず叫びつづけなければなるまい。・・・・日本が支那と始めたこの民族戦の始末をつけるためには、軍事的能力をあくまで発揮して、敵の指導部の中枢を残滅する以外にない…」(『改造(1938年5月)』)

(2)日本の北進を南進に転換→日独の2面作戦を阻止→日本の南進(仏印進駐・開戦)北進は「近視眼的な誤った行動である。なぜなら日本はそのような戦争をしても、東部シベリアで獲得できる政治上及び経済上の利益は何一つない」。「もしドイツがソ連を破れば日本は指一本挙げないでも、シベリアは日本の懐にころがり込むかもしれない」。「南方こそは進出の価値ある地域である。南方には日本の戦時経済になくてはならない緊急物資がある」「南方にこそ日本の発展を阻止しようとしている敵がいる」。

(3)大東亜共栄圏の建設(日ソ中の東アジア共同体・ユーラシア大陸同盟)
@尾崎の「獄中記」「われわれはソ連の力を借り、先ず支那の社会主義国家への転換を図り、これと関連して日本自体の社会主義国家への転換を図ることでありました」。「日本は南方への進撃においては必ず英米の軍事勢力を一応打破し得るでありましょうが、その後の持久戦により消耗がやがて致命的なものとなって現はれて来るであらうと想像したのであります」。「英米帝国主義との敵対関係の中で日本がかかる転換を遂げる為には、特にソ聯の援助を必要とするでありましょう。さらに、中国共産党が完全なヘゲモニーを握った上での支那と、資本主義機構を脱した日本とソ連の三者が緊密な提携を遂げることが理想的と思われます」。「英米仏蘭等から解放された印度、ビルマ、タイ、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を各個の民族共同体として、……前述の三中核体と……密接なる提携に入る」。
Aゾルゲの功績「ソ連邦英雄」、中央軍事博物館に功績を展示、巨大なゾルゲの銅像

2.尾崎に踊らせれた者・煽った者
(1)近衛文麿 マルクス主義者 河上肇教授に師事、『社会主義下の人間の魂』(発禁)
  アジア主義者 「英米本位の平和主義を廃す」(『改造』)
  近衛内閣発足:朝日新聞主筆の風見章内閣書記官長、尾崎秀實は内閣嘱託
@風見卓書記官長(官房長):左派社会党に入党、憲法擁護国民連合、日中ソ国交回復国民会議理事長、アジア・アフリカ連帯委員会代表
A朝食会、尾崎のネットワーク:外務省、内務省、陸軍統制派・南進派、満鉄調査部、企画院、興亜院、昭和研究会、朝飯会、東京朝日新聞社、東亜同文書院、昭和塾、霞山会・勝間田精一(社会党委員長)和田耕作(民社党代議士会長)稲葉秀三(産経新聞社長)

(2)革新官僚と外務・企画院官僚:松岡洋右や白鳥敏夫など30名→革新主義(国家社会主義者)
アジア主義者→反資本主義者(反米・親独)→日独伊三国同盟を推進

(3)陸軍皇道派(近衛)と統制派(木戸)
@近衛文麿:皇道派(陸軍:荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑俊四郎、海軍真崎勝次少将など)
天皇に忠誠(軍人勅諭)→対ソ警戒・対中和平(2,26事件えん罪で追放←親米派=海軍条約派
A木戸幸一:統制派(東條英機、池田純久、南次郎、小磯国昭、武藤章)
      →高度国防国家の建設(軍部主導)→対中強硬・対ソ融和=海軍艦隊派
B2・26事件当時の陸軍部内の状況
内大臣斉藤実大将(元総理)送付した山本英輔海軍大将の手紙(暗殺2ヶ月前)
政治が乱れ財閥が全盛横暴を極め、陸軍上層部までもが政争や権力闘争に明け暮れているのを見ている正義感の強い若い将校が、「ファショ気分トナリ」、これを「民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国ノ魔手、赤化運動」が策動している。これが「所謂統制派トナリシモノナリ」。林前陸軍大臣や永田軍務局長等は「之ヲ知リテセシカ知ラズシテ乗ゼラレテ居リシカ知ラザレドモ」、その「最終ノ目的点ニ達スレバ資本家ヲ討伐シ」、あらゆる組織を「国家的ニ統制セントスルモノ」で、それは「『ソ』連邦ノ如キ結果トナルモノナリ」。しかるに重臣や政府は天皇に忠実を尽くすべしとする皇道派を支援せず統制派を援助している。民間各種団体も「自己ノ欲望又ハ主義野望ヲ達セソガ為メ仮装偽装シテ」取り付き、このため「血気ノ将校ハ一刻モ早ク」祖国を救おうと、「無我夢中ニ飛ビツクコトモアルベク赤化運動ノ乗ズル所此ニアリ」。

(4) 近衛(皇道派)と木戸(統制派)の戦時中の戦い
近衛の反撃「近衛上奏文」(木戸史観、統制派の昭和史観の見直し)
「少壮軍人の多数はわが国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く」、これら軍人を「共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候」。「満州事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明確なり、満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候」。支那事変当時に「事変永びくがよろしく、事変解決すれば国内改革が出来なくなると公言せしは、この一味の中心的人物に御座候。これら軍部内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部新官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵し居り、無智単純なる軍人之に踊らされたりと見て大過なしと存候。

(5)近衛と木戸の戦後の戦い→近衛の敗北
@近衛、マッカーサーに赤化の危機を訴え新憲法の起案
 A近衛、GHQのピンコから戦犯に指定 ピンコの都留重人(木戸の縁戚)の同志の尋問者ハーバート・ノーマン(ピンコ・後の駐日カナダ大使、スパイを疑われて自殺)
 BGHQピンコの巣(国務省系、重慶組、ピンコ系)→アチソン初代駐日米大使(重慶系)
 Cハーバート・ノーマン(都留重人→木戸の親族→近衛を戦犯に→近衛自殺「黙」

(6)陸海軍の終戦構想
@陸軍(陸軍・革新官僚)の終戦構想「日本国家再建方策」→ソ連型国家の建設
(松谷誠大佐:のち陸将の所見)参謀本部戦争指導班長・首相補佐官(大平洋調査会に依頼)
「スターリンは独ソ戦後、左翼小児病的態度を揚棄し、人情の機微に即せる左翼運動の正道に立っており、したがって恐らくソ連はわれに対し国体を破壊し赤化せんとする如きは考えざらん。ソ連の民族政策は寛容のものなり。右は白黄色人種の中間的存在としてスラブ民族特有のものにして、スラブ民族は人種的偏見少なし。されば、その民族政策は民族の自決と固有文化とを尊重し、内容的にはこれを共産主義化せんとするにあり。よってソ連は、わが国体と赤とは絶対に相容れざるものとは考えざらん。ソ連は国防・地政学上、われを将来親ソ国家たらしむるを希望しあるならん」。東アジアの「自活自戦態勢の確立のために満洲、北支を必要とするとともに、さらに海洋への外核防衛圏として日本を親ソ国家たらしめんと希望しあるならん。戦後、わが経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿るべく、この点より見るも対ソ接近可能ならん。米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方が将来日本的政治への復帰の萌芽を残し得るならん」。

参考1:32年「三二年テーゼ」ソ連に刃向かう戦争の反対、ソ連との戦争が始まれば各ソ連のために銃をとり反動的な政府と戦い、赤軍を解放軍として迎い入れよ。
参考2:1945年7月、陸軍瀬島竜三大佐が満州軍、種村孝大佐を朝鮮軍幕僚として派遣
上記の対ソ認識が兵士の労働提供、長期シベリア抑留→瀬島、沈黙

A海軍の終戦行動と戦後構想
米内光政(高木惣吉)、宮中(高松宮)、重臣、吉田グループ→英米型民主国家の建設
→ソ連の暫定利用(中国へソ連の導入)→米ソ対立の激化→米国の日本援助

W.大東亜戦争とは3つのイズムの戦争 
 モンロー主義と共産主義に敗北したアジア主義
1.米国=海軍モンロー主義
(1)キリスト教の「神の摂理」+「社会ダウニズム(弱肉強食)」
+「門戸解放・機会均等(市場獲得)」+「大海軍主義」の合体
・門戸解放・機会均等とモンロー主義との合体→覇権確立のモンロー海軍主義
(2)アメリカの西進と共産主義への誤解

2.ソ連=国際共産主義運動
(1)コミンテルン(ソ連邦)を中心とした共産主義連邦→スラブ・メシア教的覇権主義
(2)破壊と争乱と独裁国家の誕生(権力闘争→暗殺・流刑・亡命・難民)
虐殺数:ソ連2000万人、中国6500万人、朝鮮・カンボジャ200万人
ベトナム・東欧100万人  全世界で1億人を虐殺(クルトワ『共産主義黒書』)
(3)コミンテルン→日本の敗戦後は人種平等と民族国家の独立闘争を支援
3.日本のアジア主義―後進帝国主義の中華大日本帝国主義
日本=天照大神(天皇)を家長の「八紘一宇」の大家族主義→日本中華アジア主義
・キプリング「白人の重荷」と徳富蘇峰「黄人の重荷」の戦争

4.日本の一世紀の戦争の総括

(1)日露戦争:黄色人種・非キリスト教国家が白色人種・キリスト教国家に勝った戦争
@アジア・アラブ・アフリカに民族国家の独立、人種平等への烽火となった戦争
(イスラム圏に対日期待と共同作戦の夢を持たせた戦争)
Aロシアに共産主義国家を成立させる衝撃を与えた戦争
B米国に人種差別とモンロー海軍主義を強めた戦争

(2)第一次世界大戦:人種平等法案の提出→白色人種国家からの敵視→孤立
 ・アジア主義⇒大東亜共栄圏⇒大東亜戦争←西欧の反撃(黄禍論と恐日論)

(3)大東亜戦争と冷戦の勝者と敗者
@大東亜戦争の勝者(日本)と敗者(西欧の植民地保有国)
  アジア主義の敗北と人種平等と民族国家独立の勝利
A大東亜戦争5年後(朝鮮戦争勃発1年後)の敗者→米国と西欧植民地保有国
  ジョージ・ケナン『アメリカ外交50年』(岩波書店、1952年)
「アジアにおけるわれわれの過去の目標は、今日表面的には殆んど達成されたということは皮肉な事実である。逐に日木は中国大陸からも、満州および朝鮮からもまた駆逐された。これらの地域から日本を駆逐した結果は、まさに賢明にして現実的な人々が、終始われわれを警告した通りのこととなった。今日われわれは殆ど半世紀にわたって、朝鮮および満州方面で日本が直面しかっ担ってきた問題と責任を引継いだのである」

(4)大東亜戦争は自衛・防共戦争 (マッカーサー司令官1951年の上院の証言)
@自衛戦争:They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
A防共戦争:ひとり日本帝国は北方ではロシアと直接境を接し、西北方に広がる無主の大地満洲や統一主権国家の体を為していない中華民国は赤化勢力に対する障壁ではなく、むしろ吹き抜けの回廊だった。一方、米国は日本が直接肌身に感じていた共産主義の危険なるものに対し全く鈍感であり、むしろ容共的ですらあつた。共産主義に対する日本の警戒と現実の防共努力について何らの理解も同情もなかつた。それは明らかに米国の国家戦略上の誤謬だった。米国人が自らの犯したこの誤りに気づいた劇的な契機が、1950年6月の朝鮮戦争である。
B総合所見(中国の強大化容認):It is own personal opinion that the greatest political mistakes we made in a hundred years in the Pacific, was in allowing the Communists to grow in power in China.

X 壊された日本の歴史とその責任者

1.米国の日本弱体化政策

@国家観の消滅と絶対平和主義の定着、天皇制の消滅(皇室典範の強制)
・神道指令:国体の本義、大東亜戦争の呼称、神道の教義、アジア主義団体などの解散
AWar Guilt Information Program (SCAP4号)→自虐史観、国家観の解消、強国日本の阻止

2.ソ連によるコミンテル史観の攻勢(東京裁判と冷戦を利用)
(1)冷戦時の対日攻勢→コミンテルンの反軍国主義(1938年テーゼ)日本ファシズム論
(2)社会科学的歴史「資本主義・帝国主義論」→社会発展論・侵略史観の定着
(3)中立条約に違反し参戦したことを正当化するため東京裁判に提出した偽造文書が世界史に

3.中国(人民解放軍史観)・韓国(李王朝史観)の中華歴史観
4.連合国(国連)・NHK・新聞・雑誌社・進歩的学者など東京裁判史観を堅持

・東京裁判史観は、これらの組織や人文に責任回避の「心地よい歴史観」 


Y.昭和史再考
1.東京裁判再考T インド(ネルー)と東京裁判
(1)東京裁判とサンフランシスコ講和会議
(2)広島にある2つの原爆記念碑
@平和公園の原爆記念碑「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」
A大東亜悲願の碑のパール博士の言葉(広島市中区小町・本照寺)
「抑圧されたアジア開放の聖なる誓いに身を捧げた魂よ。安らかなれ、貴方の啓示を私は護持する」

2.東京裁判再考U 外務省と東京裁判史観の拡散と浸透
(1)外務省の開戦責任再考:野村外交再考「偽りの外交」と宣戦布告なしの開戦(外務省隠蔽)
  ワシントン大使館の責任者2名を裁判中は隠し、その後2名とも外務次官に
  外務省の謝罪は53年後:責任者は吉田茂・扇動者は加瀬俊一
(2)外務省の開戦責任と戦後責任再考(東郷外相と海軍の「イカ墨論争」
  軍部に責任を転嫁し、外務省解体と追放を免れ外務省史観(東京裁判史観)を流布
(3)外務省の戦後責任
@東京裁判史観を世界に発信 A国連外交の壮大な失策 B中国に対する朝貢外交
(4)吉田茂の功績:西欧陣営・経済復興・寛大な講話
     罪過:国防の軽視、国家観の消滅(自立心・自尊心の欠如)
(5)文部省の責任:学術基金の配分・学術会議の左傾化・外国留学生の招待10万人計画
(6)厚生省の責任:平和祈念館、平和活動の推進
(7)地方自治体責任:思想的偏向→市民講座、平和展覧会、空襲展覧会などの反戦活動
(8)NHK・新聞・雑誌社の責任:

おわりに:歴史に学ぶ
1.平成の危機(日清・日露開戦時に類似)
(1)日清・日露戦争時の国際情勢に類似(しかし、明治の気概なし)
  奈良時代の聖徳太子・江戸の水戸学、福沢諭吉の『脱亜論』再考
(2)偽造「田中上奏文」が、偽書『南京事件』が国を滅ぼす。
田中上奏文→反日プロパガンダ→米国を日米開戦へ
東京裁判→冒頭陳述キーナン検事→満州事変以来、世界制覇の共同謀議→東京裁判史観
(3)「孫子の兵法」+ペキンテルンはコミンテルンより毒性が強い
(4)東アジア共同体は中国・韓国の中華体制(大東亜共栄圏の失敗に学べ)
(5)親中国派を統制派、親米派を皇道派と置き換えたら、何が見えるか
(6)大川周明の興亜主義(アジア+アラブーユーラシア構想)再考
 (7)米国の対日理解度と中国傾斜(経済的に発展すれば民主化され不通の国になる)
2 所見
(1)世界は東京裁判史観を支持→多勢と無勢と背後の敵
・日本:尾崎秀実は反戦運動や反体制運動の英雄→2003年に映画「ゾルゲ事件」
・多摩のゾルゲの墓「戦争に反対し世界平和のために生命を捧げた勇士ここに眠る」
(2)「歴史を忘れた民族は砂漠の砂のように消え去る」(宮崎駿「千と千尋の神隠し」
  歴史は国家の骨髄→東京裁判→願罪意識→自尊心の喪失→中国・韓国の属国化
  米国(日本と中国の和解を希望)民主党、進歩派、学者の9割は民主党支持
(3)英語で書かれなければ世界史にはならない。
  歴史は嘘でも繰り返し語られ書かれ、ドラマとなり映画となって忠臣蔵のように確定する。しかし、英語で書かれなければ世界史とならない。