第6回市来会講演録

左近允尚敏(2009年11月14日、於いて水交会
「アメリカ(ワシントン)から見た真珠湾攻撃」(本文の引用・利用は自由ですが、ご利用された場合は平間までご連絡下さい)



はじめに
 アメリカから見た真珠湾攻撃という題でお話するが、戦争前にアメリカが対日戦をどうみていたか、日本の開戦時機をどう判断していたか、真珠湾攻撃の可能性をどの程度みていたか、真珠湾攻撃によってどのようなインパクトを受けたか、といった問題についてお話したいと思う。アメリカと言っても、ワシントンとハワイではかなり違いがあるので、今日はワシントンからみた真珠湾攻撃についてお話する。ワシントンとは大統領のルーズベルト、国務長官のハル、海軍長官のノックス、陸軍長官のスティムソン、制服のトップである海軍のスターク、陸軍のマーシャルであって、この6人は戦争会議、ウォーカウンシルを構成していた。日本の最高戦争指導会議(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)とよく似ている。ハワイのキンメル、ショートから見た真珠湾攻撃は、今申したとおりワシントンから見たそれとは大分ちがっているので、いずれ日を改めてお話する。

真珠湾の責任
 真珠湾の責任はどこにあるかかの問題は、当初はハワイのキンメルとショートにあるだったのが、いやワシントンの責任の方が大きいという主張が出た。この点は日本の最後通告が遅れた責任によく似ている。在米大使館の怠慢と不手際によって遅れたというのが通説だったが、最近出た井口武夫元大使の『開戦神話』という本は遅れた責任は本省にあると説得力のある証明をしている。日米とも責任は出先にあるのか、それとも政府にあるのかの論争が今も続いているのは興味深い。

 開戦に至るアメリカ側の経過をお話する前に、強調しておきたい第1点は、アメリカでは戦争をすることを決める権限は議会にあるということである。大日本帝国憲法の第13条は「天皇は戦を宣し和を講じ、及び諸般の条約を締結す」となっていた。実質的には政府と統帥部が戦を宣する権限を持っていたのである。一方合衆国憲法は第1条第8節で連邦議会の権限を決めていて、その第11項で「戦争を宣言し」と規定されている。ルーズベルトが戦争したいと思っても議会が承認してくれない限りできなかったのである。

 その議会では孤立主義が根強く、国民の多くもそうであったから、英国が苦しい戦争をしていても対独参戦はできず。ルーズベルトは繰り返し、アメリカが攻撃されない限り、アメリカの青年を戦場に送ることはない、と繰り返し国民に対して言明し、対日戦が避けられない状況になった11月25日の会議ではあとで触れるが、いかに米軍に大きな損害を出すことなく、日本に1発目を打たすかだと発言している。
ドイツは真珠湾攻撃から数日後の12月11日、アメリカに対して宣戦布告をして英米を大喜びさせた、ヒトラーが犯した最大の大失敗とされている。真珠湾攻撃で日本と戦争することに問題はなかったが、それだけでドイツと戦争することはできなかったのであり、ドイツが宣戦布告をしてくれたからアメリカはヨーロッパ戦に参戦できた。もっともアメリカはドイツが宣戦するであろうことは知っていた。11月に在米ドイツ大使館のトムソン参事官がラベルという政府関係者に「日本がアメリカと戦争したらドイツはすぐにアメリカと戦争する」と語っていたのである。もし日本が開戦時にフィリッピンや真珠湾を攻撃せず、マレーや蘭印を攻撃したらどうなったかであるが、日本海軍では米英不可分論、つまり英国と戦争したらアメリカは必ず英国と戦うという見方が強かったといわれる。日本が英領、オランダ領だけを攻撃したらルーズベルトは議会の承認を得るのに苦労したであろう、あるいは得られなかったであろうと言われている。

第2点は、アメリカはヨーロッパ第1であり、戦争するならヨーロッパでの戦争が優先し、日本と戦争は二の次だったということである。これはウォープランドッグでもレインボー5でもABC1会議でも強調されてきたところだった。

第3点は、アメリカは軍事的に対日戦の準備ができておらず、日本と戦争しなければならないのであればなるべく遅くになることが望ましかったということである。海のスターク、陸のマーシャルは戦争準備の完成は順調に言って42年の春だと政府に告げていたのである。第4点は、アメリカは11月になると日本は東南アジアを攻撃するであろう、しかしハワイを攻撃することはあるまい、と思っていたことである。

 さてワシントンの動きであるが、ワシントンは41年春にフィリッピンの防備を強化することにした。オレンジウォープラン以来、日本が侵攻したら所在兵力で極力守るという方針であったのを変更し、フィリッピン防備を固めれば日本に対する抑止力になると判断したのである。このためフィリッピン政府の顧問とフィリッピン国民軍司令官だったマッカーサーを現役に復帰させて米極東陸軍司令官にする、フィリッピン国民軍に装備、兵器を供給する。日本に対する有効な抑止力としてB‐17爆撃機、戦闘機、対空砲など多数をフィリッピンに送り込む。ワシントンはこれらを決めて実行に着手した。

爆撃機、戦闘機、対空砲についてはハワイから要求が来ており、英国もB―17爆撃機の供与を約束されていたが、すべてフィリッピンに回されることになった。英国はこのあと8月のカナダ沖におけるルーズベルト、チャーチル会談の際、フィリッピンの増強は、マレー、蘭印の防衛に大きく役立つとアメリカから言われて、B-17がフィリッピンに送られることを納得している。Bー17の最初の9機は9月12日にフィリッピンに到着した。42年4月までに200機とする計画だったが、開戦までに配備できたのは35機にすぎず、抑止力にはほど遠い兵力であり、開戦直後の日本の航空攻撃でたちまち壊滅することになる。
前回申したとおり、1941年7月の南部仏印進駐に対してアメリカは8月初めに在米資産凍結と石油の禁輸という措置をとった。海軍のトップであるスタークは、海軍の準備ができていないところから対日経済制裁には反対であり、10日前の7月20日、石油を禁輸にすれば日本はマレー、蘭印に侵攻するという警告をルーズベルトに提出しているが、政府内の強硬派の意見が通ったのだった。

 石油は初めから全面的禁輸だったわけではなく、ルーズベルトは航空ガソリン以外の石油については輸出を許可制にしたが、強硬派のイッキーズ内務長官やアチソン国務副長官が財務省の担当者に圧力をかけ実質的に全面的禁輸になってしまった。このころルーズベルトはイッキーズ内務長官に「私の目標は日本と戦争することではない。海軍力が充分でないからだ。日本との間に何か起きれば大西洋の艦隊の兵力が減少することになる」と語っているが、8月9日カナダ沖の巡洋艦オーガスタにおける首脳会談の際、ルーズベルトはチャーチルに「日本との戦争は間違った時機、間違った大洋における間違った戦争である」と述べている。

 日本は9月6日の御前会議で対米英戦を辞せずとし、10月下旬完成を目標として戦争の準備を進めることになったが、天皇から特にお言葉があり同時に外交交渉を進めよと言われたので、両様の構えで進めることになった。近衛首相はルーズベルトとの首脳会談を思いつき、ルーズベルトも一時は関心を示したが、10月中旬のアメリカの回答は中国からの日本軍の撤退や、3国同盟の実質的廃棄といった基本的な問題が片付かないで首脳会談をやってもムダだというものだった。アメリカは近衛首相がはたして軍を抑えているのか疑問視していたのである。10月17日近衛内閣は総辞職して東条内閣となった。

 11月5日、海陸軍のトップであるスタークとマーシャルはルーズベルトに覚書を送ったが、その要旨は「太平洋艦隊は現在日本艦隊より劣勢であり、西太平洋で攻勢に出ることはできない。したがって日本が米、英、オランダ領を直接攻撃するまでの間は極東における防衛力の造成に努め、対日戦は避けなければならない」というものだった。4月に始った日米交渉は11月に入っても続いた。前回申したとおり、日本の主要外交暗号、暗号機を使うものだったが、前年の1940年9月に解読され、暗号機の複製が数台作られて陸海軍省や英国などに配布されていた。したがって外務省、在米大使館の電報もすべて解読されていたのである。アメリカはこれをパープル暗号と呼び、パープルから得られた情報をマジックと呼んだ。

 11月14日、野村大使は甲案をハルに渡した。ワシントンは甲案と乙案が日本の最終提案であることを知っていた。甲案の要旨は「日中間の和平が成立した場合は、日本は中国北部、モンゴル、海南島については必要な期間駐留する。その他の地域からは2年以内に撤退する。仏印にある部隊は日中間の和平が成立するか、極東の平和が確立されてから、直ちに撤退する」というものだった。アメリカから所要期間とはどれだけか聞かれたらおおむね25年間と答えるよう大使宛の訓令が付いていたが、14日にアメリカは拒否した。

 11月20日、大使は乙案を提示した。要旨は「日本は仏印以外の東南アジアに武力進出はしない。アメリカは日本が蘭印から必要な物資の獲得ができるよう協力する。日米通商関係を在米資産凍結以前の状態に戻す。アメリカは日本に所要の石油を供給する。そうすれば日本は南部仏印の部隊を北部に移す。日本は日中事変が解決するか、あるいは太平洋のおける平和が確立した場合には、仏印から撤退する」というものだった。その前日の11月19日に日本は在外公館にいわゆるウィンド・メッセージを送った。日米関係が著しく悪化したら「東の風、雨」、日ソ関係の場合は「北の風、曇」、日英関係の場合は「西の風、晴れ」を日本語のタンパ放送で流すというものだった。ワシントンやハワイで受信したという日本側の話があり、アメリカ側でもあるがどうもはっきりしない。日本で放送したという記録なり証言はなく、アメリカ側の文献の多くも出ていないとしている。もっとも真剣に追及するほどの問題ではないと思う。

 11月22日外務省は大使に「交渉の期限は従来25日としていたが、29日に延ばす、これは絶対に変えられない。この日までに交渉が成立しない場合は、ことは自動的に進む」と打電した。東京時間11月30日であり、交渉不成立の場合は12月1日に開戦を決定するつもりだったのである。
 11月24日、スタークはキンメルとアジア艦隊のハートに次のように打電した。日本との交渉がまとまるチャンスについてははなはだ疑わしい。本官の見方によれば、日本政府の言明と日本陸海軍の動きはフィリッピン、グアムを含むどこかに奇襲攻撃を加えることを示唆している。マーシャル参謀総長はこの電報を見て同意し、貴官たちが所在の陸軍部隊の指揮官に伝えるよう要請した。この電報の内容は極秘とする必要がある。

 25日の戦争会議でルーズベルトは「日本は次の月曜日(12月1日)にも攻撃するかもしれない。奇襲攻撃をやることで悪名高い国だからだ。問題はいかにしてわが方に大きな損害を出すことなく日本に第1発を打たせるかである」と述べ、ハルは「これからの情勢がどうなるかは日本が握っている。いつなんどきでもどこか重要な地域を奇襲攻撃するかもしれない」と述べている。ルーズベルトがなぜ12月1日にも、と言ったのか分かっていない。

 さて乙案を拒否することにしたワシントンは11月25日に暫定協定案を作り、日本に提示することにした。「日中は3ヶ月間の休戦をする、日本は7月26日以前の状態に復帰する。その間、アメリカは日本の民需が必要とする石油を供給する。アメリカは日中平和の仲介をする」といった趣旨のもので時間が必要な陸海軍は原則的に賛同した案だったが、26日の朝になって急に引っ込め、いわゆるハルノートを野村、来栖両大使に提示した。
その理由についてはいろいろの説があり、上海南方で日本の大船団発見の報告が入り、激怒したルーズベルトが変えさせたというものや、蒋介石が暫定協定に猛反対し、これをチャーチルが後押ししたからというものがあるが、いずれにせよルーズベルトの決定であって、暫定協定に望みを託していたハルは不満だったようである。

 ハルノートはアメリカではテンポイント・プロポーザル、つまり10項目提案であり、あくまで提案の形をとっているが、日本軍の中国と仏印からの全面的撤退と日本が蒋介石の政府だけを中国政府として認めることなどを盛り込んだ提案だったから、日本は侮辱的最後通牒だとして拒否を決めた。ワシントンも日本が受け入れるとは思っていなかったから、最後通牒といってもよかった。ハルがスティムソンに今やことは陸海軍の手に移ったと言ったという話はよく知られている。もっともアメリカが暫定協定案を示しても日本は7月26日以前の状態に戻す、つまり南部仏印から撤退が条件に入っているから日本が受諾したとは思われない。

 27日、スタークはルーズベルトに「日本はビルマロード、タイ、マレー、蘭印、フィリッピン、あるいはロシアの沿海州を攻撃するかもしれない」と報告している。この日スタークはキンメルに「この電報を戦争の警告とみなせ。日本は数日中に攻撃するかもしれない。日本の船団と海上部隊の動きはフィリッピン、タイあるいはクラ半島、さらにはボルネオに上陸する可能性がる。ウォープラン所定の使命を遂行するため適切な事前の防衛的配備となせ」と打電した。

 スタークの24日とこの27日の警告電には日本軍の攻撃が予想される地域として東南アジアは挙げているが真珠湾は出ていない。ワシントンは真珠湾が攻撃されることはないと考えていたことが分かる。マーシャルもまたショートに「日本との交渉はほとんど終わったように思われる。日本の行動は予測できないが、いつ攻撃するかもしれない。もし戦争が避けられないならば、アメリカは日本が先に公然たる行動にでることを望んでいる。しかしこのアメリカの政策が、貴官が防衛のためにとるべき行動を制約すると解釈してはなならない。貴官は日本が攻撃する前に、偵察その他適当と考える措置をとるものとするが、市民を驚かせたり、あるいは意図を暴露するようなことをしてはならない。とった措置を報告せよ。戦争になったらレインボー5所定の使命を遂行せよ」と打電した。

 28日東郷外相は野村、来栖の両大使に「アメリカは侮辱的な提案をしてきた。しかし交渉は決裂したとの印象を与えないよう注意されたい」と打電、ワシントンはむろんマジックで知った。12月1日の外相からベルリンの大島大使への電報は「日本と米英は突如として戦争になるかも知れず、その時機は何びとの予想よりも早くなるであろう」ということをヒトラーとリッベントロップ外相に伝えられたいという内容だった。

12月2日、ルーズベルトは英国のハリファックス大使に、極東の英領が攻撃されたらアメリカは武力で支援すると約束し、4日にもこの約束を繰り返した。ルーズベルトは、この約束を8月の大西洋におけるチャーチルとの会談でもしたと言われているが、冒頭で述べたとおり戦争をするかしないかは憲法で議会が決めることになっているから問題のある約束だった。しかし極東の英領が攻撃されたとき、どうしてもアメリカの武力支援を必要とするチャーチルは6日にルーズベルトにあて「日本に攻撃されてもアメリカが介入しない限り、英軍は反撃しない、多少の犠牲はやむを得ない」と打電したが、これはルーズベルトに揺さぶりをかけたもので、実際には極東英軍の司令官に反撃しろと命令を出していた。結局は日本が英領と同時にフィリッピンを攻撃したから問題は解消したのである。このころノックス海軍長官は定例会議の都度、大統領と私は、海軍が日本を挑発するような行為は決してしないという決意である、と強調していた。アメリカがハワイにあるドイツ、イタリアの領事館は閉鎖させたが、日本の領事館はそのままにしていたのは、こうした政策の一環であったとされている。

 真珠湾攻撃はワシントン時間12月7日の午後1時半であるが、前日の12月6日、ルーズベルトは1115からスミス予算局長と会い海兵隊の増員などについて話した後、「天皇に親電を出すつもりだが、太平洋の平和について楽観はしていない。まもなく日本とは戦争になるだろう」と言っている。ルーズベルトは数週間前から戦争会議の際、親電を出したいと言っていたが、メンバーは反対していた。一つ、単なるジェスチャーなら時間の無駄である。一つ、親電が成功するには具体的提案が必要だが、そうしたものはもうない、一つ、警告であるならば天皇に対しては適当でない、といった理由からだった。この日の朝、日本の大船団と強力な艦隊がシャム湾で西に向かって航行中との報告がアジア艦隊のハートから入りスミス局長と会談中のルーズベルトにも報告された。ノックス海軍長官は11時からの定例の会議で提督たちの意見を求めたが、ターナー戦争計画部長の答えは、日本はまだアメリカと戦うほど強力ではありませんと答えている。ハートの電報を呼んだスティムソンとマーシャルは協議し、カリフォルニアで待機しているBー17の1隊を急いでフィリッピンに向かわせるよう指示した。ハワイ、ミッドウェーなど経由して10日ほどかかるから、このことは二人が、ターナーもそうだが、日本は米領を攻撃しないと思っていたことを示している。

 さてルーズベルトは昼食後、戦争会議のメンバーには何も言わずに自ら親電を起案し、夕方ハルに字句の修正を求めた上で発信を命じ、午後の9時にグルー大使あて送信された。内容を要約すると次のようになる。

われわれは日中戦争が終わることを望んできました。太平洋が平和になって諸国の人々が侵略される心配もなく、耐え難いほどの軍備の重荷から解放され、どこの国にも平等な通商が再開されることを望んできました。そのためには日米がいかなる形の軍事的脅威も除去することで合意しなければならないことを陛下もよくお分かりのことと思います。ここ2週間ではっきりしてきたのは、仏印に送られた日本軍は大規模なものであり、諸国の人々がその目的は防衛ではないと疑問を抱いたのは当然です。仏印における兵力の集中が続き大兵力になったことから、フィリッピン、蘭印、マレー、タイの人々が、これらの日本軍は一方向あるいは二方向以上を攻撃するために準備しているのではないかと思っているのは当然です。陛下はこうした人々の恐れは、彼らの平和と国の存立にかかわるものであることをよくご理解なさると思います。

これらの人々は何時までもダイナマイトの箱の上に座っているわけにはいきません。日本軍が仏印から全面的に撤退した場合、アメリカとしては仏印に侵攻する考えは全くありません。同じ保障は蘭印、マレー、タイ、中国から得られるでありましょう。
したがって日本軍が仏印から撤退すれば、南太平洋全体の平和が確立します。陛下は諸国の人々のために黒雲を払いのけ、世界に死と破壊がもたらせるのを阻止する神聖な義務をお持ちであると信じております。

この電報は東京時間の7日正午ころ中央電信局に着いたが、陸軍省軍務課と通信課の中佐クラスが10時間差し止めてしまったのでグルー大使のところには夜の10時に届いた。これは日本側の話なので省略する。差し止めがなくもっと早い時間に解読清書されて首相と天皇に届けられたとしても、親電は別に開戦を再考するような内容でもなく、翌日の早い時間のマレー、真珠湾攻撃を止めることもできなかったのである。

 親電の起案と発信の指示を終えたあとルーズベルトは1700ころから豪州のケイシー公使、1800ころから英国のハリファックス大使とあっている。ハリファックスは1900にロンドンに次のように打電した。ルーズベルトは天皇に親電を送ろうとしていたが、月曜までに返事がない場合は公表する。返事がないか、不満足の返事だった場合は、火曜の午後か夜、日本政府に警告し、英国とオランダも水曜の午前には追随すると言ってやる。日本が早く動けばこちらも早くする。自分は日本が早く動くとは思わないがハルはそう思っている、と語った。さらに大統領は本官に仏印にある日本軍の兵力について説明し、ラングーンに対する日本軍の陸空からの脅威を懸念していると言った。

 大統領が12月1日にも日本は戦争を始めるかもしれないと言ったことは先に述べたが、この6日夕方のことばは、ルーズベルトが少なくとも数日は戦争がないと思っていたことを示している。ルーズベルトはハリファックスと会ったあと、エレノア・ルーズベルトが連れてきたポリアという判事に「普通の男の息子が神の息子にファイナルメッセージを送ったところだ」と言った。ファイナルメッセージは別に回答を求めていないことを意味したとされている。ルーズベルトも親電が効果を生むとは思っていなかった。

 そのあと来客と夕食中に日本からの通告がきたので中座して海軍のシュルツ大尉が2130ころ届けた通告を読んだ。交渉打ち切り通告で14部にわけて送信されまず第13部までが届いたのである。シュルツの後の証言によると大統領顧問のホプキンズが同席しており、次のやり取りがあった。読み終わったルーズベルトは「これは戦争を意味する」と言いホプキンズが「われわれが先に攻撃できないのは残念です」と言うと「それはできない。われわれは民主主義であり平和を愛好する国民だ。しかしいい記録を持っている」と言った。シュルツはまた「二人の間で真珠湾ということばは出ませんでした。いつ戦争が始るかについてもです。話の調子から明日にでも始るという風ではありませんでした。ですから私は真珠湾攻撃のニュースに驚きました。新たに警報を出すという話も出ませんでしたが、大統領はスターク海軍作戦部長に電話しようとしました。しかしナショナルシアターにいますと電話交換手が言ったらしく、大統領はあとにしよう、彼が席を立つと観客が驚くだろうから、と言われました」と証言している。事実ルーズベルトはスタークが帰宅してから電話した。

 交渉打ち切り通告で肝心なのは翌7日の朝届く第14部であって「交渉を打ち切る」と述べている。第13部までは打ち切りに至った理由を長々と述べているだけである。これを読んだ海陸軍の情報部長や通信部長は別に重大な内容とはみていない。ハルら3長官も同様であり、マーシャルにはどうしたことが届けられなかった。シュルツの証言と第13部までの内容からすると、ルーズベルトはなぜ「これは戦争を意味する」と言ったのか、諸説があるが謎である。外務省は13部までの発信から15時間後に最後の第14部を発信した。ワシントンに着いたのは7日朝である。大統領の海軍副官ベアドール大佐が届けたのは1000だった。通告の最後の文句は「アメリカ政府の態度にかんがみ、これ以上交渉しても協定を結ぶことは不可能と考えざるを得ないことを遺憾ながらアメリカ政府に通告する」というものだった

 ルーズベルトは読んで、日本は交渉を打ち切るようだ、と言ったが、ベアドール大佐は後に「大統領は数時間のうちに攻撃を予想している様子ではなく、戦争や警告を出すことについては何も言わなかった」と証言している。ルーズベルトはそのあと1230から1300ころまで中国のフーシュー大使と会ったが、親電の内容を説明してから「これはいい記録になるだろう」と言った。つまり前夜、ホプキンスに「いい記録を持っている」と言ったのは、親電のことだったのである。打ち切り通告はどうしたことかマーシャルに届けるのが遅れたが、ルーズベルト、国務、海軍、陸軍の3長官、スタークの誰もすぐに戦争が始るとは思わなかった。始ると思ったのは海陸軍の一部の情報士官だけである。日本の軍部はこの通告で開戦を察知されることを恐れてギリギリの時間に発信し、通告の遅れという問題が起きたが、無用の心配だったことになる。ところが第14部から1時間ほどしてから午後1時手交電がきて、ワシントンは一気に緊張した。外務省から大使あて打ち切り通告を午後の1時、それも日曜日の午後1時にハルに手交せよという内容である。日曜日に時間を指定したのであるから、これはその時間、あるいはその少しあとの攻撃を意味するのではないかと、突如緊張が走ったのである。

 海軍のクレーマー少佐は10時から会議を始めた直後の3長官にまず第14部を届けたが、1100ころ午後1時手交電を届けた際、午後1時はハワイの午前7時半、マレーのコタバルで午前3時であることを強調した。海軍のスタークは8時に登庁して第14部を読んだが、まもなくクレーマーが午後1時手交電を届けた。情報部のウィルキンソン部長とマッカラム中佐は直ちにハワイのキンメルとマニラのハートに警告するよう進言し、スタークは直通の秘話電話をいったん取り上げたがやめてしまった。理由は分からずじまいである。ここでキンメルがスタークの警告の電話を受けていたら、真珠湾の状況は多少変わったはずだった。ハワイをやめたスタークは、今度はルーズベルトに電話したがつながらなかった。一方陸軍ではブラットン大佐がマーシャルをつかまえようと必死になって探し、乗馬をしていたマーシャルが登庁したのは11時か11時半だった。彼はゆっくりと打ち切り通告を読み、マイルズ情報部長とブラットンはいらいらしながら、マーシャルが読み終わるのを待っていた。ようやくマーシャルが読み終わったので二人は午後1時手交電を示し、その重大性を強調した。

 マーシャルは自ら電報を起案した。「日本は東部時間の本日午後1時に最後通牒に相当するものを提示しようとしている。また(大使館)は直ちに暗号機を破壊するよう命じられた。この時間がどれほど重要なのかは分からないが、しかるべく警戒せよ。この電報は海軍に届けよ」というもので陸軍はすぐにハワイのショート打電しようとしたが、空間状況が不良なのでウェスタンユニオン社が送ることになり、普通の電報並みに扱われてショートに届いたときには真珠湾攻撃は終わっていた。

 ルーズベルトは中国の大使が辞去してから顧問のホプキンスと食事をとり、趣味の切手の整理を始めたが。午後1時37分にノックス海軍長官から電話がきた。「日本が真珠湾を攻撃したようです」とノックスは言い、ルーズベルトは「ノー!」と叫んだ。ノックスは「詳細はまだ分かりません。追ってご報告します」と言って電話を切った。

 ホプキンスは信じられず、「日本がホノルルを攻撃したなど、何かの間違いにちがいありません」と言ったが、ルーズベルトは冷静さを取り戻しており「これこそ彼らがやりそうなことだ。平和を話しながら戦争を企んでいたんだ」と言った。ルーズベルト以下トップの長官、参謀総長らは戦争がまもなく始るだろうということ、冒頭に述べたが日本軍は南方を攻撃するだろうということは充分に知っていたが、だれも真珠湾を攻撃するとは予想していなかったのである。

 よく知られた話としてこの41年の1月、東京のグルー大使は大使館員がベルーの公使館の館員から、日本は真珠湾攻撃を計画しているという情報を聞いたと1月27日に打電している。グルーは幻想に過ぎないとは思うが多くの情報があったので、と付言したが、ワシントンの受け取り方はグルーともあろう人がこんな情報を送るなんて、というものだった。スタークは2月1日に、このグルーの情報をキンメルに知らせたが、「海軍情報部はかかるウワサに信をおいていない。日本軍の動きからして予想しうる将来まで日本が真珠湾を攻撃し、あるいは攻撃を計画するとは思われない」と付け加えている。

 3月末にはハワイの陸軍航空部隊司令官だったマーチン、海軍航空部隊司令官だったベリンジャーが連名で出した報告は、ハワイに対する航空攻撃と潜水艦による攻撃を予測し、毎日の偵察哨戒の必要性を強調したものだった。マーチンの部下の爆撃機隊指揮官ファーシング大佐は7月に報告書を作成し、マーチンは8月20日にワシントンに送ったが、ハワイはBー17を180機と魚雷攻撃のできる中型爆撃機、36機を必要とする、というものだった。しかし41年夏から開戦までのワシントンは、真珠湾が実際に攻撃されるとは思わなかったので、太平洋艦隊の艦艇を大西洋艦隊にまわしたり、潜水艦をアジア艦隊に移したり、要望のあった戦艦、駆逐艦は太平洋艦隊にはまわさず、やはり要望のあった爆撃機、戦闘機、対空砲はすべてフィリッピンに送ったりしたのである。

 さて野村、来栖両大使は訓令にあった7日の午後1時から1時間あとの2時5分に国務省に着き15分ほど待たされた。このときハルはルーズベルトから真珠湾が攻撃されたという電話を受けていたのである。交渉打ち切り通告を受け取ったハルは初めて読むふりをしてから午後1時にというのはなぜかを尋ね、野村大使は分からない、本省からそう指示されたと答えている。

 ハルは「私は50年間政府の仕事をしているが、かくも虚偽と歪曲に満ちた文書を示す国がこの地球上に存在するとは夢にも思わなかった」と述べている。交渉打ち切り通告の最初の部分をご参考として資料に書いておいたが、日本は100%正しく、悪いのはすべてアメリカという交渉打ち切りの理由になっており、ここまで言っていいのかという印象を受け、ハルが怒ったのもなるほどという気がする。両大使が真珠湾攻撃を知ったのは大使館に戻ってからだった。

 ハルはルーズベルトと会ってから国務省に戻って1600から会議を開いたが、全体の空気は「日本はハワイを攻撃してアメリカを結束させるという、なんてバカなことをしたんだろう」というものだったが、軍の被害の大きさが分かるにつれてそうした見方は弱まっていったとなっている。スティムソンは、二ユースを聞き、「ある種の安堵感を覚えた。これで国民は結束すると思った」と書いている。アメリカはリメンバーパールハーバーをさかんに呼びかけ国民の結束を図ったと思っていたが、二人の長官がニュースを聞いてすぐ国民は結束すると自信を持ったことは注目される。ルーズベルトは2000に閣僚らを集めた。彼らは日本がかくも見事な奇襲に成功し、大戦果を上げたことに信じられない思いをしていた。ここで興味を引くのは、ドイツがやったのなら分かるが、日本がやったとは信じられないとワシントンが思ったことである。

 海軍のスタークはハワイの第14海軍区司令官と電話で話した際、潜水艦を沈めたというが、ドイツの潜水艦かと聞いている。この会合でルーズベルトが言ったことばの中にも攻撃機にはドイツ機が2機いたというウワサがあるが、真偽のほどは分からない、があった。同様な話は8時間後のフィリッピン空襲の際にも起きており、マッカーサーの報告には「日本機の少なくとも一部は、白人が操縦した場合以外には爆撃の正確さの説明がつかない」とあった。要するに日本軍の能力を著しく過小評価していたのである。

 会合には数人の上院議員が加わり、コナリー議員は海軍のノックスに「あなたは、海軍は準備万端ととのっている。日本にアメリカを傷つけるようなことはさせないと記者会見で言ったではないか。なぜフネを1ヶ所にまとめていて攻撃されたのか」と言い、ノックスが「日本の潜水艦の攻撃から守るためだった」と答えると、「では航空攻撃のことは考えなかったのか」と聞き、ノックスは「考えなかった」と震える声で答えている。会合は2300すこし前に終わった。最後に、チャーチルの反応をみることにする。チャーチルは12月8日の夜9時ころ、アメリカのウィナント大使やハリマン特使らと夕食をとっていた、ロンドンの午後9時はワシントン時間7日の午後4時ころであり、真珠湾攻撃の開始から2時間半後だった。

チャーチルの執事がラジオを持ってきたのでスイッチを入れると、BBC放送の9時のニュースが始ったところだった。チャーチルは上半身を起こし「アメリカの基地が攻撃されたと言わなかったか」と尋ねたが、アナウンサーがすぐに日本機が真珠湾を攻撃したことを繰り返した。

チャーチルは椅子から立ち上がって日本に宣戦しようと言った。マレーはすでにだいぶ前から攻撃されていたが、まだ情報は入っていなかった。ウィナントがホワイトハウスに電話し、チャーチルはルーズベルトに「日本が何かやったんですか」と言うと、ルーズベルトは「報道のとおりです。彼らは真珠湾を攻撃しました。われわれは今や同じボートに乗ったのです。明日議会に行き日本に宣戦することにする予定です」と言い、チャーチルも「議会を召集してアメリカのすぐあとで宣戦します」と言った。

チャーチルは大喜びしていた。極東の英領が攻撃されたときアメリカが武力支援してくれるかどうかの問題が一挙に解消したからだった。彼は著書“WWII”の中で「アメリカが味方についてくれたことは大きな喜びだった。英国1国だけの長い悪夢は終わった。結局は勝利するのだ。私はこれで救われた、有難いことだという気持ちで眠りについた」と書いている。

さて最後にいわゆる「騙まし討ち」と言われていることについて私見を述べたい。ルーズベルトの議会におけるスピーチの一部は次のようなものだった。
昨日アメリカは突如、日本の海空部隊に攻撃された。米日は平和の状態にあり。アメリカは日本の要請によって会話を続けていた。日本大使は攻撃を初めてから1時間後に、最近のアメリカのメッセージ(ハルノート)に対する回答を渡した。回答には現在の交渉を続けても何にもならないと思われる、と述べてあったが、戦争や武力攻撃を示唆するものは何もなかった。

肝心なのは最後の、「日本の回答には戦争や武力攻撃を示唆するものは何もなかった」、つまり無通告で戦争を始めたというところである。日本人の多くは、通告の遅れこそ大きな問題であり、それが騙し打ち(sneak attack)という非難につながったと思っている。たしかにルーズベルトのスピーチに「攻撃を初めてから1時間後に回答を渡された」とあるが、単なる事実の説明であって、そのことを重大視しているとは思われない。

そもそもアメリカは無通告の開戦について、本当はさして重視しなかったのではないか。ドイツは39年9月にポーランドに侵攻し、その後ヨーロッパの多くの国に侵攻し、あるいは攻撃したが、いずれの国についても宣戦はしておらず、それをアメリカが非難した様子はない。ではなぜ「騙まし打ちだ、リメンバーパールハーバー」と声を大にしたのか。ワシントンは、日本が東南アジアを攻撃することは分かっていた、フィリッピンも攻撃されるかもしれないと思っていた、しかしワシントンもハワイも真珠湾とは思っていなかったから悔しくてたまらず、それが「騙し打ちだ」となった、というのが私の見方である。フィリッピンだったら「騙し打ちだ」とも「リメンバーフィリッピン」とも言えなかったであろう。強力な海軍部隊に護衛された日本の大船団の動きは11月下旬には充分に分かっていたからである。

もう一つ、今述べたように、アメリカはドイツ軍なら分かるが、日本軍がかくも見事に作戦を成功させたとは信じたくなかったということがある。アメリカは黄色人種である日本人の軍事力を著しく過小評価していたのであり、大打撃を受けたあとも日本人だけでやったとは思いたくなかったのである。
以上述べたところから私の結論は、通告の遅れたことや、遅れの責任はワシントンの大使館が本省かを議論することはあまり意味はないし、アメリカから「騙し打ち」だと非難されても、あれは悔しがって言っているだけだから気にする必要はない、というものである。

【資料】
 1941年12月7日の開戦時における太平洋の彼我の兵力

     兵力 日本 米国 その他の連合国 連合国合計
艦上機  545  280   0  280
陸上機 2140 1180 600 1780
空母   10    3   0    3
重巡   18   9   2   11 
軽巡   17  11  10   21
駆逐艦  104  30  20  100
潜水艦   67  73  13   86


  記事:基地機には陸軍機を含む。アメリカの航空機はカリフォルニア、ワシントン、オレゴン各州にある機を含む。その他の連合国は英連邦(英国、豪州、ニュージーランド、カナダ、インド)とオランダ。