「市来会」講演記録

左近允尚俊
(2009・1・20)
「真珠湾奇襲ーハワイから見た真珠湾攻撃」

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 前回はワシントンから見た真珠湾攻撃と題してお話したが、今日はハワイから見た真珠湾攻撃という題目でお話しする。若干前回と重複することがあると思う。前回ふれたが、日本で最後通告が遅れた責任は当初現地大使館にあるとされていたが、次第に本省にも大きな責任があるとなってきた。同様に真珠湾が奇襲された責任は当初キンメル、ショートにあるとされていたのが、ワシントンにも大きな責任があるとなって二人の名誉回復の運動が長いこと続いてきた。これまで完全な名誉回復には至っていないようである。1941年12月アメリカ時間の7日朝攻撃されたのは真珠湾の艦艇だけでなくオアフ各地の飛行場も攻撃されたから真珠湾攻撃ということばは必ずしも正確ではないが、真珠湾に含めるのが常識になっている。

 さて真珠湾が日本軍に攻撃される可能性をハワイがどうみていたか、という点から話を始めたい。
1年前の40年12月にハワイのブロック第14海軍区司令官はワシントンに敵がハワイに航空攻撃を加える場合には、先ず攻撃前に敵を発見撃破しなければならないが、陸軍の中型爆撃機Bー18、59機では不足であり、来襲したら対空砲火と戦闘期をもって撃退しなければならないが、いずれもごく限られている、と報告している。

41年2月1日に太平洋艦隊司令官はリチャードソン大将からキンメルに代わった。太平洋艦隊は本土西岸を基地としていたが40年4月から5月にかけての演習で真珠湾にきた。そしてルーズベルトはそのまま艦隊の主たる基地を真珠湾に移し、このことで太平洋艦隊を対日抑止力とすることに決めた。リチャードソンはこれでは艦隊は日本海軍の脅威にさらされると反対したが、これが4更迭の理由だった。彼は40年1月にブロックに代わり司令官となったが、わずか1年で更迭されたのである。キンメルはそれまで太平洋艦隊の戦艦、巡洋艦部隊司令官だった。

余談になるが、リチャードソンの前任者はブロックだった。ブロックが大将から少将になり、後任者と、そのまた後任者の実質的な部下になったわけであるが、日本では考えられない人事である。アメリカで将官のパーマネントランクは少将であり、中将、大将の配置にある間だけ中将、大将になる。つまりブロックは降格になったわけではなく大将の配置の次が少将の配置だったというだけの話である。真珠湾攻撃後にニミッツが太平洋艦隊司令官になったが、ハルゼーからみるとアナポリスの後輩であり、少将だったニミッツがいきなり上司になったわけで、これまた日本海軍では考えられない人事だった。

 さて話を戻すが、40年の11月にイタリアのタラントにあった艦隊が英空軍機に攻撃されて甚大な被害を出したことから、スタークは41年1月24日に艦隊の防衛には全力を尽くす必要があるとし、従来予想された潜水艦の攻撃に加え、航空機の雷爆撃についても考慮しなければならないとキンメルに伝えた。しかし2月15日には、真珠湾はタラントと違って水深が浅いから、防雷網の必要性はない、主たる脅威は潜水艦である、とトーンダウンした手紙を送っている。

 前回お話したが、グルー駐日大使が1月27日に日本が真珠湾を攻撃するというウワサがあると打電、スタークは2月1日にこれをキンメルに伝えたが、情報部としてはかかるウワサを信用していない、予想し得る将来まで日本が攻撃したり、攻撃を計画したりすることは考えられないと付言した。

 3月末にハワイの陸海軍の航空部隊司令官である二人がマーチン、ベリンジャー報告をワシントンに提出し、真珠湾が攻撃される恐れがあると書いたこともお話したが、二人は報告の中で、日本の潜水艦1隻ないし2隻以上、巡洋艦に護衛された空母1隻ないし2隻以上による奇襲攻撃を予想し、現有の航空機では対処できない、360度の哨戒飛行には大型爆撃機180機、中型爆撃機36機が必要であるとし、アメリカが先に攻撃されるか、あるいは敵の攻撃が今にも始るという状況にならない限り、こちらからは攻撃できないのは大きな問題だと付言した。

 ワシントンの陸海軍の指導部はこの見積もりを歓迎したというが、アメリカはBー17を合計して108機しかいなかったから、到底要望に答えることはできなかった。真珠湾攻撃の際の保有Bー17は12機、うち可動は6機に過ぎなかったのである。マーチンの部下で爆撃機隊の指揮官ファーシング大佐はワシントンからの要望もあり、研究の上、8月20日に「オアフ防衛のための爆撃機の使用」という報告書を提出した。
報告書は必要なこととして第1に、ハワイ地域を昼間、完璧に哨戒飛行すること、第2に、発見した敵を命令あり次第攻撃できる部隊を保有すること、第3に、もし敵が空母である場合は、空母が攻撃隊を発進させる前日にこれを攻撃すること、となっていた。

 そして真珠湾の防衛の責任は海軍ではなく陸軍であることを確認してから、日本は空母を最大6隻まで使う、夜間接近し夜明けとともに攻撃隊を発進させるであろう、と今から思えば正確に予想し、さらに敵は攻撃後避退するよりも全力をあげて犠牲をいとうことなく徹底的に攻撃を加えるであろうとした。南雲機動部隊は第1波、第2波の第1次攻撃だけで引き揚げたが、連合艦隊司令部は大いに不満であり、機動部隊内部にも残念に思った上級士官やパイロットが少なくなかったようである。

 さて一方において米陸軍の4月3日の研究報告は、オアフは世界中で最も難攻不落な要塞であって、真珠湾に対する最大の脅威はサボタージュである、敵の空軍や輸送船がハワイに接近したら、750マイルの距離からハワイの爆撃機に攻撃される、とした。マーシャルは4月24日のホワイトハウスの会議でハワイの防備は万全であると述べている。しかし実際に攻撃できる爆撃機の数はきわめて少なかったことは今述べたとおりである。

 ワシントンは、対日戦になったらフィリッピンは所在兵力で対処するが、結局は日本に占領されるであろうから太平洋艦隊が西に進んで日本艦隊と決戦し、しかる後にフィリッピンを奪回するという従来の戦争計画を41年の春に改め、フィリッピンに多数のBー17を配備し地上兵力も増強すれば対日抑止力になると方針に転換した。具体的にはBー17を42年2月までに165機、3月までに200機の予定だった。この政策の転換でワシントンの目はフィリッピンに向いてしまい、ハワイが攻撃されることはあるまいという見方が支配的になって、ハワイの両指揮官も同様な見方をとるようになった。

 次はハワイがワシントンからもらった情報についてである。前回触れたが、アメリカは日本外務省の主暗号、機械を使ったものでパープルと呼んだが、40年9月に解読に成功、暗号機の複製を8台製作し、4台は陸海軍、2台は英国、1台はアジア艦隊に送り、あと1台をハワイに送るつもりであったが、英国がドイツのエニグマ暗号機と引き換えにさらに1台を要求し、ワシントンはこれに応じてしまった。このためパープルの解読から得られた情報、アメリカはマジックと呼んだが、ハワイはマジックをもっぱらワシントンに頼ったのである。アメリカは日本海軍の主暗号、JNー25Bについては真珠湾攻撃まで解読できなかった。理由は解読作業をワシントンの暗号課とアジア艦隊の無線情報隊にやらせ、解読能力の高い太平洋艦隊のロシェフォート以下の無線情報隊には通信量のきわめて少ない将官用暗号の解読を命じたからである。

 さてハワイは41年7月半ばまではワシントンのスタークから極東情勢、日米関係の推移などについてマジック情報をもらっていた。スタークはキンメルやアジア艦隊のハート司令官に要約を打電し、あるいは手紙で知らせていたのである。もっともアジア艦隊にはパープル暗号機の複製を持っていたからハートやマッカーサーは直接入手することができたのである。スタークは7月13日には「日本は将来の政策を決めたようである。近く戦争を始めるかもしれない。英領、蘭領に出てくる可能性がある。日本の南方における行動は今のところ仏印における基地の取得に限定されているが、太平洋で何が起きるかは予測できない」、次いで7月24日には「極東情勢は悪化の一途をたどっている」、26日には「日本は北方に進出するかもしれないが、どうなるか予測はできない」と書き送っている。

 6月にドイツのソ連侵攻があって、日本の一部が北進論を主張した時期である。7月26日に日本が南部仏印に進駐し、27日にアメリカが日本の在外資産を凍結したことは前回に述べた。石油についてはルーズベルトは一部の輸出は認める考えだったが、許可制にしたため財務省あたりの対日強硬派が実質的に全面的禁輸にしてしまった。海軍は対日戦の準備ができていないので、対日制裁に反対したが押し切られてしまった。7月中旬からワシントンはマジック情報をハワイに送らなくなった。理由はいくつかあり、まず3月に国務省でコピーの紛失があり、またホワイトハウスの大統領陸軍副官のごみ箱からコピーが見つかったことがあった。

 次に東京は5月、野村大使に「外交電報が読まれているフシがあるが調査されたい」と打電した。漏洩元をワシントンの大使館と見たからだったが、実際はワシントンの英国大使館がマジック情報を強度のごく弱い暗号で送信し、ドイツが傍受解読してベルリンに報告、リッベントロップが東京に通報して野村大使への照会になったのである。アメリカは日本が外交暗号を変えたらたいへんなことになるから息をのんで経過を見守っていたが、日本外務省はどうしたことか、何もせず、アメリカをほっとさせたのである。後の話だが日本海軍でも一部の者は海軍の主暗号が解読されているのではないかと疑念を抱いていたが、上層部は解読されるはずがないで通してしまった。外務省、陸海軍ともこうして自分のところの暗号は解読されていないと終戦まで信じていたのである。

 アメリカは日本の外交暗号を解読している事実を日本に知られないよう、保全には充分な注意を払った。配布先はワシントンのごく限られた上層部に限定されていたが、今述べたような事件があって要約をハワイに送ることすらやめたのである。マジックについては毎月陸海軍が交代して担当していたが、陸軍はルーズベルトへの配布もやめてしまい、困ったルーズベルトは海軍副官に指示して見ることができるようになった。マジックは送らないことになったが、スタークはむろんキンメルに必要と認める情報や見積もりは送った。10月17日にはキンメルに次を打電しショートにも伝えるよう付言した。「日本の内閣は総辞職した。日本とロシアが戦争する可能性が大である。日本は現状については米英に責任ありとしているので、米英を攻撃するかもしれない。準備的配備を含むしかるべき予防措置を取れ」。しかしスタークは翌10月18日に送った手紙には「私個人としては日本がアメリカと戦争するとは思っていない。昨日私が送った電報はただ可能性を述べたに過ぎない」とトーンダウンした。この手紙は1週間後にキンメルに届いている。

 スタークはキンメルに打電した同じ10月17日にあてハート、通報先キンメルで「極東を往復する船舶は日本の委任統治領を避け、ニューギニア南部と豪州の間にあるトレス海峡を通れ」と打電しているが、そのスタークが個人的には日米戦にはなるまいと考えていたのは不思議である。しかし翌月の見積もりは大きく変わっていた。すなわちスタークは11月24日にはキンメルにあて「日米交渉がまとまるかどうか大いに疑問である。日本政府と陸海軍の動きは、フィリッピンを含むどの方面にも奇襲攻撃をかけてくる可能性があることを示唆している。グアムにもくるかもしれない。マーシャル参謀総長はこれをショート司令官に伝えることを望んでいる。米日間の緊張を激化させたり、日本の行動を促進したりしないために本電は極秘とする」と打電した。

 ルーズベルトは翌11月25日の戦争会議で「日本は次の月曜日にも攻撃してくるかもしれない。日本は宣戦布告なしで奇襲攻撃をやることで悪名高い国だからだ。問題はいかにしてわが方に大きな損害を出さずに日本に一発目を打たせるかである」と発言している。次の月曜は12月1日であるが、ルーズベルトが何を根拠にかかる発言をしたかは分かっていない。前回にお話したようにアメリカの方から戦争を始めるわけにはいかないから日本に1発目を撃ってもらわなければならなかったのである。

 ゴードン・プランゲは「キンメルとショートは危険が近づいていることを警告されなかったが、これはワシントンのだれもが、ハワイが攻撃されることを知らなかったし、予想もしなかったからである。ルーズベルトもその一人であって、日本が何かやるとは予想していたが、実際に何をやるかは分からなかったのである」と書いている。

 スタークは続いて11月27日にキンメルとハートに次を打電した。
「この電報を戦争の警告とみなせ。対日交渉は終わり、ここ数日のうちに日本の侵略的行動が予想される。日本陸軍部隊の数と装備、海軍任務部隊の編成は日本がフィリッピン、タイ、クラ半島に上陸侵攻することを示唆している。あるいはボルネオに上陸するかもしれない。ウォープラン所定の使命を遂行するための準備として適切な防衛的配備となせ。海軍区、陸軍部隊に通報せよ。陸軍省も同様な警告を作成中である」

 キンメルはこの電報を別に重要とは思わなかったとなっている。24日の電報と同様、予想される日本の攻撃目標に真珠湾を挙げていないからであろう。マーシャルもショートに打電した。「日本との交渉は実質的に終わった。日本がどう出るから予想できないが、いつでも敵対行動に出るおそれがある。敵対行動が避けられないのであれば、アメリカは日本が最初に公然たる行動に出ることを望んでいる。
しかしこの政策が、貴官がとるべき必要な行動をを制約すると解釈してはならない。貴官は日本が敵対行動に出る前に偵察その他の手段を実施するよう命ずる。しかしこれらの手段が住民に警戒心を抱かせたり、貴官の意図を暴露したりしてはならない。貴官がとった手段を報告せよ。敵対行動が始ったならばレインボー5所定の使命を遂行せよ」

 マーシャルはさらに翌28日にも打電した。
「情勢の緊迫にかんがみ、ただちにサボタージュに対する、あらゆる予防措置をとる必要がある。また貴官が担当する施設、装備を適切に防護する手段をとり、人員を破壊活動の宣伝から守るよう望む。ただし非合法的手段を許可するものではない。無用に住民を驚かすようなことをしてはならない」。マーシャルの2通の電報は、住民の7割を占める日系人のサボタージュ、謀略、破壊活動の懸念を強く表明している。つまり内部の脅威を強調していたのである。スタークとマーシャルがハワイに警告を発した11月27日、キンメルはスタークからウィンド・メッセージのことを知らされた。7月中旬以来4ヶ月ぶりにマジック情報をもらったのである。ウィンド・メッセージはご承知のとおり、対米関係が著しく悪化した場合はラジオで東の風雨、対ソ関係は北の風曇り、対英関係は西の風晴れと放送するという内容だった。実際には放送されなかったようである。

 同じ11月27日、キンメルは空母を使ってハワイの陸軍戦闘機、Pー40の半数をウェーキとミッドウェーに輸送せよという命令を受けた。ワシントンはハワイが攻撃されるなど全く予想していなかったことを示している。ワシントンは11月に入ってから真珠湾攻撃まで日本の南方部隊の動きは充分に把握していたから英領、蘭領、あるはフィリッピンが攻撃されることは予想していたが、真珠湾とは予想していなかったのである。ハワイではキンメルとショートが協議し、陸軍の強い反対で結局海兵隊の戦闘機を送ることになった。そしてハルゼー指揮のエンタープライズと巡洋艦、駆逐艦から成る第8任務部隊が翌28日にウェーキに向かい、12月6日、つまり真珠湾攻撃の前日にニュートン少将指揮のレキシントンを中核とする第12任務部隊が真珠湾を出港してミッドウェーに向かった。両島に戦闘機を送ったのは、フィリッピンに進出するBー17の中継点になっているからだったが、こうして日本にとってはきわめて不幸、アメリカにとってはきわめて幸いなことに、両空母は真珠湾攻撃の際、いなかったのである。

 真珠湾攻撃後、キンメルと支持者たちはマジック情報や東京ホノルル間の日本の電報についての情報をワシントンから知らされなかったことをもって、奇襲された理由の一つに挙げている。例えば東郷外相がドイツの大島大使にあてた次のマジックはハワイに伝えられなかった。
「ヒトラーとリッペントロップに極秘として、米英と日本との間で戦争が勃発する極度の危険が存在すると伝え、その時機はなんびとの予想よりも早くなるであろうと付言されたい。日本の南方への動きは、ソ連に対する圧力が減ることを意味せず、もしロシアが米英といっそう固く手を握って日本と敵対するならば、日本としては全力をもってこれに当たる用意があることを伝えられたい。しかしながら、現在のところでは南方を重視することがわれわれの利益になる」

 この報告や、前回にふれた11月5日の日の外務省から野村大使あての「交渉期限は11月25日である」という電報、11月22日の「交渉期限は29日に延ばす。これは絶対に変えられない。この期限を過ぎればことは自動的に進む」という電報、12月1日の「交渉の期限は切れ、情勢はいよい緊迫しているが、アメリカ側に疑惑を持たせないよう、東京ではメディアその他に、交渉はなお続いていると話している」という電報、これらのマジック情報もキンメルはもらわなかった。もっともこれらは対米開戦の切迫を示したものであって真珠湾が攻撃される可能性とは関係のないものだった。

 12月3日にスタークはキンメルやハートにワシントンの日本大使館が1台を除くパープル機や機密書類の破棄を命じられたと打電した。このときキンメルはパープルとは何かとレイトンに尋ね、最近ワシントンから来たコールマンという大尉に聞いてようやく分かったという経緯があった。アメリカにとってのもう一つの重要な情報源として外務省とホノルル総領事の間の電報があった。実質的には軍令部とホノルルの吉川予備少尉との間のやり取りである。吉川予備少尉は軍令部の命を受けて41年3月末に森村 正という偽名でホノルルの総領事館員となって機動部隊のための真珠湾の情報収集に当たった。ホノルルにはパープル暗号機はなかったのでJ−19という領事用の暗号書が使われた。

 9月24日、外務省は総領事あて、真珠湾を5つの小水域にわけ、そのそれぞれにある艦艇の在泊状況を詳しく報告するよう指示した。後にボムプロットメッセージ、爆撃計画電報と呼ばれて有名になる電報である。これに注目したのはワシントンの情報関係中堅士官の一部であって、スターク、マーシャル以下上層部はどうしたことかさして重視しなかった。理由の一つは、日本海軍は真珠湾以外のアメリカや極東の各地についても情報を求めているということがあった。カーク情報部長はキンメルに知らせようとしたが、ターナー戦争計画部長が必要なしとして打電させなかった。

 真珠湾攻撃後にいくつもの調査委員会が開かれたが、キンメルとショートが釈明ないし非難した一つはこの電報のことをハワイが知らせてもらえなかったことだった。これはよく分かる気がする。この電報で使用されたアメリカ名J−19という領事用暗号はパープルの解読翻訳に多忙なワシントンにとって優先度は低くされ、この解読は10月9日になっている。その後東京はラハイナ泊地の状況を求めたり、報告は週2回と指示したり、動きがない場合も報告せよと指示したりしている。

 ハワイのFBIや第14海軍区の情報部は当然吉村少尉に目をつけており彼の東京への報告に大きな関心を抱いていた。ところが報告は民間の通信会社の有線通信、つまり海底ケーブルで送られたため、法律によって会社は電報のコピーを軍に渡さなかった。そこで第14海軍区のメイフィールド情報部長は11月中旬にホノルルを訪れたRCAのサーノフ社長に要請し、サーノフは了承したが、この11月はRCAでなくマッケイ社が担当していたため入手できず、12月になってようやく手に入ったのである。

 外務省は12月2日にこれまた重要な電報をホノルルに送った。「戦艦、空母、巡洋艦の所在が重要である。できれば毎日知らされた
い、真珠湾上空に阻塞気球は揚がっているか,揚げる兆候はあるか、また戦艦は防雷網を付けているかどうかも知らされたい」。吉川少尉の手記には、この電報で彼と喜多総領事は真珠湾攻撃が分かったと書いている。ワシントンの大使館はあの時点で開戦するとは思っていなかったというから皮肉である。太平洋艦隊の無線情報隊はRCAから12月4日にこの電報のコピーを入手したが、解読が遅れて真珠湾攻撃の翌日、12月8日になってしまった。速やかに解読していたら、キンメルは警戒を強めたことと思われる。外務省は12月1日、ホノルルに暗号機、暗号書の破棄を命じていたから、2日以降はJ-19よりもやさしいPAK-2という暗号が使われていた。

 ワシントンでも暗号課のエドガーズという女性が12月6日に今触れた12月2日の東京からホノルルへの指令、11月24日、28日、12月3日のホノルルから東京への報告の暗号電報を手にして急ぎ解読の必要性があると思い、上司のクレイマー少佐に進言したが、クレイマーは「もう帰っていい。来週やろう」と言って特に関心を示さなかった。吉川少尉は12月6日に数通を送り「気球は上がっていない、上がる兆候もない、防雷網は付けていない模様、飛行偵察はやっていないらしい、艦隊に異常な空気は認められない、臨戦準備の態勢はとっていない」などと報告している。吉川少尉の手記によると、彼は5月12日から12月6日までに177通を東京に発信、その80%は軍事情報であったとなってている。吉川少尉の報告は東京の中央放送系で流されて機動部隊は受信しているが、機動部隊のヒトカップ出港までの海軍当局の秘密保全は完璧であり、機動部隊もまた完全な無線封止を続けたが、今から思えばアメリカが11月から12月までの東京、ホノルル間の電報を遅滞なく解読していたら、真珠湾奇襲はできなかったかと思われる。日本にとっては幸いだった。

 ここで注目されるのは、アメリカでは軍が要求しても信書の秘密という法律によって民間の会社が扱った電報の内容を示さなかった。これはスティムソンが国務長官時代に「紳士は他人の手紙を読むものではない」と言ったことが契機になったと聞くが、一方日本では陸軍省通信課と軍務課の少佐、中佐クラスの圧力で開戦直前のルーズベルトから天皇あての親電を10時間差し止められてしまった。実に対照的な歴史の一こまだったように思われる。さて次はハワイが日本艦隊、特に空母についてどのような情報を持っていたかである。ワシントンもハワイも日本の南方への動きについては11月からかなり詳しく把握していた。中国の港で日本の輸送船が増えていることや、その動きなどが、中国にある海軍武官、あるいは商船の船長たちからの報告で分かったからである。

 しかし南雲機動部隊については全く分からなかった。太平洋艦隊の無線情報隊のロシュフォートは11月に小型空母の1ないし2個戦隊は南方部隊と共にあると見ていたが、主力空母については11月下旬に内地にあると報告した。主力空母が11月23日に内地を発しヒトカップ湾に向かったことも、26日にヒトカップ湾を出港したことも分からなかったのである。日本海軍は11月1日に変えたばかりの呼出符号を1ヵ月後の12月1日にまた更新した。ハワイは2日には約200の呼出符号を特定できたが、空母のそれは一つも分からなかった。

 この12月2日にレイトン情報幕僚とキンメルとのやり取りはよく知られているが、「どうしたんだ。空母の所在はわからないのか」
「第1、 第2航空戦隊とも電報の発着信者に出てきません」 「どこにいると思うかね」「分かりません。推測でもいいから言ってみろということでしたら、本土海域、多分呉付近かと思います」「第1、 第2航空戦隊は分からないというんだな」「分かりません。多分本土海域でしょうがはっきりしません。その他の空母は分かっています」「では君は日本の空母がダイアモンドヘッドを回ってもわからないというんだな」「その前に発見できることを期待します」こういうやり取りであったようだが、第1航空戦隊は赤城、加賀、第2は蒼龍、飛龍である。その他は分かっていると言ったが、レイトンは第5航空戦隊の瑞鶴,翔鶴については分かっていなかったようである。小型の1隻が2隻はマーシャル諸島のヤルートにいるみていたがコレヒドールにあるアジア艦隊の無線情報隊は疑問視しており、実際にはいなかった。

 ハワイの12月3日の見積もりは、空母についての情報はない、というものだった。翌4日に無線情報隊はキンメルに「日本海軍が多数の緊急信を発していることは、何か大きなことをやろうとしていることを示しているのかもしれない、また通信情報から多数の日本潜水艦がヤルート方面に集中しつつあることが判明した」と報告した。この日海軍省情報部のマッカラム少佐は、戦争の切迫をキンメル、ハートに知らせるべきであると電文を起案し、部長は承認したが、今度もターナーが、11月27日の戦争の警告電で充分だとして打電させなかった。

 12月5日のホワイトハウスでの閣議は日本がシンガポールを攻撃する可能性が大きいということが議題となり、ルーズベルトは同意したが、ほかも攻撃するかどうかはっきりしない、アリューシャンにくる可能性もある、と発言している。このとき閣僚の多くは、日本が英領を攻撃したらアメリカは武力支援に踏み切るべきだということで意見が一致したが、むろん議会が認めるかの問題は残っていた。

 12月6日の太平洋艦隊司令部の見積もりは、焦点は南シナ海であり、タイかマレーに対する攻撃が切迫している、空母の発信がないのは1ないし2個戦隊が南方部隊にあるからであろうというものだった。この12月6日にアジア艦隊からは、強力な水上部隊に護衛された日本の2つの船団が西に向かっているとの情報が入った。レイトンはキンメルの指示で戦艦、巡洋艦部隊のパイ中将と会い、日本は蘭印を攻撃するであろう、翼側にあるフィリッピンをほおっておくことはないであろうと述べたが、パイの意見はアメリカはあまりにも強大であるから、日本が攻撃することはあるまい、というものだった。レイトンは太平洋艦隊のだれも真珠湾が攻撃されるとは思わなかったと書いているが、この6日にホノルルの日本総領事館では書類を盛んに燃やしているという情報が入った。

 次に失われたラストミニッツチャンスとも呼ぶべきことについて述べる。真珠湾は完全な奇襲に成功したが、アメリカにはぎりぎりになって奇襲を免れるチャンスがいくつかあった。そのチャンスをことごとく逃したのである。12月2日に東京がホノルルに阻塞気球や防雷網の有無を問い合わせた電報がハワイ、ワシントンの両方で解読が遅れてハワイに警報を与えるチャンスを失ったことは先に述べた。また次は前回お話した。すなわち交渉打ち切り通告では切迫感を抱かなかったワシントンが「午後1時手交電」に接して、これは午後1時か、あるいは少しアトで日本が戦争を始めることを意味するとみてスタークはキンメルに直通電話で知らせようとし、いったんは受話器を取り上げたが、どうしたことかやめてしまった。遅くに登庁したマーシャルは時間をかけてショートあての電文を起案、打電を命じたが、陸軍の通信系は調子が悪かったのでRCAに頼んだが、届いたのは攻撃が終わってからになってしまった。ワシントンの12時はハワイの6時半である。マーシャルの電報は陸軍の通信センターに1217に下りてきたというから、暗号化して打電し、ハワイで平文に戻す時間を計算すると間に合ったかどうか微妙なところである。

 現地のハワイでもチャンスを逃している。よく知られたことだが、まず特殊潜航艇の撃沈があった。12月4日、5日と潜水艦騒ぎがあったが、攻撃当日の12月7日早朝、真珠湾湾口沖には駆逐艦ワードと掃海艇コンドルとクロスビーの2隻がいた。0342にコンドルが潜水艦を発見、通報を受けたワードは1時間捜索したが探知できなかった。0630に補給船アンタレスが潜水艦を発見、今度はワードも発見して発砲命中弾を与え、さらに爆雷を投下した。上空にあったPBY飛行艇も発見して対潜爆弾2個を投下している。ワードが撃沈したのは0645となっている。ワード、PBYとも至急信を打電したが、暗号化したので受けた第14海軍区のオペレーションセンターは平文に戻すのに時間を要し、キンメルの司令部が受けたのは0716だった。電話を受けてキンメルは事実の確認を命じ、ショートとのゴルフの予定を取りやめて着替えをして司令部に赴いた。ワードの乗員は撃沈したと信じていたが、確認されたのは数年前、海底でこの特殊潜航艇が発見されたときである。

 最後は真珠湾攻撃隊のレーダー探知である。ハワイの陸軍は移動式レーダーを5台持っていたが、オアフの北のオパマのレーダーについていた二人の2等兵が0645から1機を探知したのち、0702に距離137マイルから大編隊と思われる目標を探知し、次第に近づいてくるので報告した。当直士官はこの日フィリッピンに向かうBー17、13機がカリフォルニアからオアフに飛来すると聞いていたので、それだと判断、レーダー員には「心配しないでいい」と答え、文字通りのラストチャンスも消えたのである。

 最後はハワイの兵力と警戒態勢についてである。ヨーロッパ情勢の悪化に伴ってアメリカの戦時生産は飛躍的に向上したが装備兵器のほとんどは英国に送られ、太平洋艦隊の兵力は増強どころか大西洋にとられるようになった。4月から5月にかけて空母1隻、戦艦3隻、軽巡4隻、駆逐艦17隻という艦隊兵力の4分の1が大西洋にとられ、太平洋にくる予定だった空母1隻もヨーロッパに回された。ワシントンは6月さらに戦艦3隻、巡洋艦4隻、駆逐艦2個隊を大西洋にとろうとしたが、キンメルが直接ルーズベルトに会って強く反対したためとりやめとなっている。11月には潜水艦12隻がアジア艦隊に回された。

 キンメルはワシントンに兵力の強化を要請していた。PBY哨戒飛行艇は250機の要請に対し100機との回答があったが、実際には10月から11月にかけて54機がオアフに到着した。新型戦艦2隻、航続距離の長い潜水艦1個隊、駆逐艦2個隊といった要望もかなえられなかった。人員、対空砲、弾薬、部品なども著しく不足していた。しかし要望どおり戦艦、巡洋艦などが配備されても当日の被害が増大しただけと思われる。効果があるためにはPBY哨戒飛行艇とBー17重爆撃機が大量に供給されることが必要であり、この両機種によって北方の哨戒が可能になり、攻撃隊発進前の機動部隊を発見できたであろう。ただし、中途半端な増強であれば、地上で捕捉、破壊されたものと思われる。なおハワイの陸海軍は長距離の哨戒偵察飛行は海軍の責任であるということで合意していた。

第14海軍区のブロックも10月17日にワシントンに以前から出してある要望はどうなったかと手紙を出し、もらったのは旧式の砲艇1隻だけ、保有する駆逐艦4隻のうち1隻にはソナーがない、それとコースとガードのカッター3隻で広大な海域を防衛しなければならないと不満を述べ、小型の高速艇多数と偵察機2個隊を要望している。

警戒態勢については、一言で言えばキンメルは潜水艦に対して警戒し、ショートは日系人による破壊活動を警戒した。先に述べたが、10月17日にスタークから「日本の内閣は総辞職した。ソ連を攻撃する可能性が大きいが、米英を攻撃するかもしれないからしかるべき予防的措置を取れ」といわれたキンメルは22日、艦隊行動海域における警戒措置を強化せよ。/パイ中将の戦艦、巡洋艦部隊は12時間待機とせよ。/、潜水艦6隻は命令あり次第、日本に向け出港できる準備をなせ/ミッドウェーにある潜水艦2隻は10マイルまでを哨戒せよ。/ミッドウェーにさらに潜水艦2隻を派遣せよ。/ミッドウェーの哨戒機は毎日100マイルまでを哨戒せよ。/各部隊の指揮官は攻撃されたら戦闘せよ。ジョンストン島とウェーキに海兵隊員、弾薬、補給品を送れ、などの指令を発した。11月27日の「戦争警告電」を受けたキンメルは28日、それまでは3マイル以内にいる国籍不明の潜水艦に対する爆雷攻撃を命じていたが、これを艦隊行動海域に拡大した。

 真珠湾攻撃当日、キンメルは担当することになっていた哨戒偵察飛行を実施しなかった。各種真珠湾調査委員会でキンメルが最も批判されたのはこの点である。直接の担当はブロックだったが、当時保有していたPBY哨戒飛行艇は81機、うち27機は旧式の3型で、あとの54機は新型の5型だったが、後者はまだ慣熟訓練中だった。81機のうちの可動機については44機から60機までと文献によって差があるが、60機の場合、ミッドウェーに24機、オアフに36機となっている。1機が7度700マイルまで哨戒できるが、夜明けから日没まで1日16時間、360度を哨戒するにはPBYを250機を必要としたから36機ではカバーできる範囲はごく限られ。毎日使えばたちまちにしてダウンしてしまう。ハワイは日本の空母が北方からくるとは全く予想していなかったから、必要なときまでは訓練を続けさせることにしたのである。

 キンメルは11月末にミッドウェーの6機をウェーキに回し、その補充をオアフから出して、移動中の哨戒を命じたがこれは北方をカバーするものではなかった。彼は日本の艦隊がハワイにやってくる場合はマーシャル諸島からと考えており、かってマーシャル方面に300マイルまでの哨戒を実施したこともあったが、北方は全くの考慮外だったのである。一方ショートはマーシャルからの11月27日、28日の電報に対して部隊に第1配備を令した。普通は1,2,3の順に強化されていくが、米陸軍の場合は逆で第1は対サボタージュ、謀略、破壊活動、第2はこれに対潜水艦が加わり、第3は航空機を含むあらゆる種類の攻撃に対処するものだった。マーシャルの電報にはサボタージュ、謀略活動、破壊活動についての懸念を表明してあったからこれに答えたのである。

27日のマーシャルの電報にあった「偵察その他の手段」については、先に述べたように以前ブロックと協議して海軍が担当することになっており、ワシントンにも知らせてあるから、このマーシャルの「偵察」は多分マニラに向けられたものであろうと考えたのである。ショートは第1配備にしたが、高射砲に配員したのは31門中4門に過ぎず、砲弾は大分離れた弾庫におかれたままだった。破壊活動を考え航空機は翼端が触れんばかりにして並べたから、攻撃にはきわめて脆弱になっていたのである。こうして真珠湾は南雲機動部隊に奇襲された。