建艦計画から見た比較海上防衛論ー日本海軍編

はじめに

 帆船海軍時代の軍艦の分類は大砲の搭載数で200門戦列艦、 300門戦列艦などと呼称され、 また、大きさによりフリゲート艦、 コルベット艦、 スループ艦などと区分されていた。 これら旧来の帆船海軍の分類に別れを告げたのが産業革命による武器の発達で、 艦艇の推進機関は帆から蒸気機関に、 海戦は触角や前込め砲から後込め砲に、そして機雷は魚雷へと変化し、 艦艇も多数の砲を搭載し強力な装甲を施した主力艦(戦艦)、 砲は少ないが高速軽快な偵察や通商破壊を任務する巡洋艦(当初は通報艦などと呼ばれた)、 新しく発明された魚雷を搭載した水雷艇と、 それを駆逐する駆逐艦などと細分化されていった。

 さらに、 第1次世界大戦となると、 科学技術の発達は潜水艦、飛行機を生み、戦闘も水上艦艇対水上艦艇の砲戦や水面下の潜水艦と水上艦艇の魚雷や砲と爆雷の“Sea Power"対“ Sea Power"の争いから、 第2次世界大戦では空母という“Sea Power"から航空機という“Air Power"を、 揚陸艦という“Sea Power"から海兵隊という“Land Power"を陸上にまで投入する“Sea Power"対“Land Power"の戦いなどの複合化した戦力の衝突となり、 戦争様相を複雑化し、 多様な軍艦を必要とするに至った。 そして、 艦艇の多様化が単に大型艦を多数保有するだけの建艦計画を各国の置かれた国際関係、 仮想敵国の地理的位置などから、 どのような種類の海軍兵力を、 どのような比率で整備すべきかなどの問題を提示し、 各国は自己の国際環境や国家戦略に応じて海軍力を整備するに至った。

 本シリーズでは海洋国家で攻勢的海軍を建設したアメリカ海軍と、 海洋国家でありながら防勢的海軍を建設した日本海軍の2つの海洋国家の海軍戦略と海軍軍備、 大陸国家でありながら大海軍を建造した帝政ロシア海軍と共産党指導下のソ連海軍の海軍戦略と建艦思想、 兵力整備の変遷などについて考えて見たい。

1仮想敵国と海軍戦略

 科学技術が未発達な時代の仮想敵国は近隣諸国であり、 その仮想敵国に対する海軍戦略や海軍兵備は国家戦略や国防戦略と科学技術によって決せられる。 日本海軍の海軍戦略を確立する上に大きな影響を与えたのは佐藤鉄太郎少佐(のち海軍大学校校長、 中将)であったが、 佐藤は明治32(1899)年5月から34年12月までイギリス・アメリカに留学し、 広く西欧の海戦史を研究した。 そして、 佐藤は帰国後に『帝国国防史論』を著し、 先例を見るに「制海権を有し島嶼または海岸要塞を攻撃した場合は失敗した例は70回中2回しかなく、 制海権なくして島嶼または海岸要塞を攻撃した例は18回あるが成功した例はない」と制海権の重要性を強調し、 「海上を制せずして防守の実をあげたる前例なし」、 「海上を制するのは帝国国防上先決すべき問題なり」と、 陸軍軍備より海軍軍備が日本には重要であると主張した。

 しかし、 佐藤の制海権思想はマハン大佐(海軍大学校校長、 のち少将)の攻勢的制海論と異なり、 軍備を整へる目的は「必ズシモ征伐代戮ノ惨事ヲ演ジテ、 己ノ主張ヲ貫徹センガ為ニアラズ。......戦ハズシテ兇暴ヲ威圧シ平和ヲ維持シ戦争ヲ未萌ニ防グノガ真ノ目的デアル」と、 戦わずして敵を屈する孫子の兵法の「不戦屈敵」思想に基礎を置く自強自衛の国防論であった。佐藤はこの思想に基づき「真ノ国防ハ敵ヲシテ一歩モ国内ニ侵入セシメザルヲ主トシ」、 国家防衛戦は第1線は海上で、第2線は海岸で、第3線は内陸で行われ、 第1線防衛線が敗られた場合には第2防衛線、 第2防衛線が破られた場合には第3防衛線で食い止めなければならないが、 第1線の防備が破られない限り第2線や第3防衛線の兵力は不要でると、 第1線の防衛を担当する海軍軍備を重視した国防論を展開した。 このような佐藤の主張を受けた日本海軍の海軍戦略は専守防衛的なもので、 国家の享有すべき発展や権利に他国の干渉を許さないため「侮り難い海軍力」を建設し維持するが、 他国を攻めることはしない「不戦の海軍」をモットーとしてきた。

 そして、 開国早々にはロシアを、 次いで日清戦争までは清国を、 日露戦争まではロシアを仮想敵国とし、 それに必要な防勢的な海軍力を建設し維持してきた。 しかし、 日本が日露戦争に勝っと人種問題や中国市場をめぐる対立が高まり、 仮想敵国が太平洋を越えたアメリカに変わった。 とはいえ、 日本海軍は「対英米作戦ヲ不可トスルハ誰モ異論ナク」。 「米国ニ対シテハ軍備ヲ後盾トシテ為シ得レバ戦ハスシテ我国策ヲ遂行スル」ため、 「攻めるに足らず守るに充分」な抑止的な軍備の整備に努め、 決戦海面を日本近海(小笠原諸島ついでマリアナ諸島)とし、 海戦の原則や日清・日露戦争の戦訓に従い、 明治40年には「帝国国防方針」を決し「露米仏」の三国を仮想敵国として、 その侵攻に対して「東洋ニ在リテ攻勢ヲ取ランガ為」の最低所要兵力として戦艦8隻と装甲巡洋艦8隻(のちに巡洋戦艦となる)が必要であるとして、 いわゆる88艦隊の整備に努めた。

 その後、 日本海軍が第1次世界大戦で得た戦訓は列国と同様に、 「弩級艦ハ依然トシテ海軍力ノ基幹タル価値ヲ失墜セス」。 「弩級艦隊ハ今日尚ホ海戦ノ大勢ヲ決スル最大要素ニシテ、 海軍兵力ノ基幹タル位置ヲ失ハズ」という戦艦中心主義であり、 「巡洋戦艦ノ価値倍々大ナリ......防禦力ノ薄弱ニ帰因セシ一部論者ノ杞憂ヲ一掃シ、 今ヤ用兵上欠クヘカラサル艦種ナルコトヲ一般ニ是認セシムルニ至レリ」と、 戦艦と優速軽快な巡洋戦艦の価値の再確認であった。 そして、 日本海軍はその後も「各国相競フテ高速ノ巨艦ヲ実現シツツアリ」との認識に立ち、 大正5(1917)年には84艦隊(第39議会で可決)、 大正6(1918)年には86艦隊(第40回議会で可決)、 大正8(1920)年には88艦隊(第43議会で可決)の予算案を通過させ、 昭和2(1927)年には戦艦8隻、 巡洋戦艦8隻、 巡洋艦22隻、 駆逐艦75隻、 潜水艦80隻などからなる理想的な88艦隊を見る予定であった。

3 邀撃漸減作戦とその武器体系

 しかし、 アメリカが豊富な財力をもとに大艦隊の建設を始め、 さらに大正11(1922)年のワシント軍縮会議で、 主力艦や航空母艦の保有比率を5・5・3の劣勢に押えられると、 日本海軍は大正12年に「帝国国防方針」を改定し、 主力艦9隻、 航空母艦4隻、 大型巡洋艦12隻、 中型巡洋艦12隻、 駆逐艦96隻、 潜水艦65隻、 補助空母2隻、 機雷敷設艦2隻に兵力を縮小した。 このように対米兵力を劣勢に追い込まれた日本海軍は、 この不足を補うために新しい戦法および武器を開発しなければならなかった。それが大正11年以降慣例となった邀撃漸減作戦であった。 そして日本海軍は以後終始一貫してこの戦略構想のもとに、 兵力整備も編成も、 そして戦術や訓練もこの思想のもとに準備し太平洋戦争を迎えたのであった。 この邀撃作戦は東洋所在のアメリカ艦隊を開戦初頭に撃破し、 フィリピン・グアム攻略後は、 太平洋を横断して来攻するアメリカ艦隊を潜水艦・航空機によって逐次撃破し勢力の漸減に努め、 機をみて決戦により撃破するという作戦で、 この作戦は次の3段階から構成されていた。
  
  1 潜水艦部隊をアメリカ艦隊の所在地(ハワイ)に派遣して、 その動静を監視し出撃し た場合にはこれを    追跡触接し、 その動静を明らかにするとともに反復襲撃し敵兵力 の減殺に努める。
  2 基地航空部隊を内南洋諸島(旧日本統治の南洋群島-マリアナ・カロリン・マーシャル 諸島)に展開し、    敵艦隊がその威力圏に入ると陸上航空部隊と母艦航空部隊が協力し て航空攻撃を加え、 さらに敵     勢力の減殺に努める。
  3 敵艦隊が決戦場に到着したならば高速戦艦に護衛された水雷戦隊が夜間の魚雷攻撃 を決行し、敵    艦隊に大打撃を与え、夜戦に引き続き黎明以後、 戦艦部隊を中核とす る全兵力を結集して決戦を行    いこれを撃滅する。

(1)第1段邀撃戦(潜水艦)


 第1次大戦においてドイツの潜水艦戦が世界の注目を集めたが、 日本海軍も潜水艦を「真ニ恐ルヘキ新兵器トシテ今ヤ其ノ価値ヲ疑フノ余地ヲ存セス」と認識し、 ドイツから技術者を招いて開発に努め、 ロンドン会議前後には日本独特の運用構想のもとに開発した海大型(海軍大型潜水艦)も実用の域に達していた。 当時の潜水艦の用法として、 日本海軍は巡洋潜水艦6隻程度を開戦前からハワイ方面に派遣してアメリカ艦隊を監視・追跡させ、 敵主力部隊の出撃後は、 3ケ潜水戦隊(35ー36隻)を南洋群島方面、 あるいは敵の来航予想海面に配備し攻撃させることとしていた。 このため日本海軍はロンドン会議では「劣等ナル我海軍ハ優勢ノ敵ニ対シ尋常手段ニテハ対抗困難」であり、 「潜水艦ノ利用ニ依リ勝目ヲ求ムルノ外、 策ナシ」、「潜水艦ハ弱者自カラヲ護ル武器トシテ必要欠クベカラザル」ものであると、 「廃止ニハ絶対ニ反対」し7万8000トンの保有を主張した。 しかし、 ロンドン条約では補助艦艇だけでなく潜水艦兵力も5万2000トンに制限されたため、 大型潜水艦の整備隻数を削減し中型潜水艦を南洋群島の前進基地に展開することとし、 対米戦争時には次のように潜水艦を配備することに計画を変更した。

    北米西海岸方面 機雷敷設潜水艦         4隻
    ハワイ方面監視用 巡洋潜水艦           9隻
    アメリカ艦隊追跡攻撃用 大型潜水艦(海大型) 27隻
    マリアナ方面 中型潜水艦(海中型)         9隻
    南方諸島方面 同上                  9隻
    南東方面 同上                     9隻
    フィリピン方面 大型潜水艦              9隻    合計 85隻

 日本海軍はこのような潜水艦の運用構想から無補給で太平洋を往復できる航続力を持ち、 アメリカ艦隊を追尾できる高速大型潜水艦の開発に努め、 大正13(1924)年にはドイツ大型潜水艦Uー142の技術導入により艦隊型大型潜水艦「海大1型」、 伊51号(1390トン、 水上速力20ノット、 水中10ノット、 魚雷発射管8門)を竣工させ、 さらに偵察能力を強化するためアメリカ・イギリス・フランス海軍などが断念した潜水艦への航空機搭載を推進し、 ハインケル社の技術を基礎に1924(大正14)年から潜水艦搭載航空機の開発を開始した。

 そして、 昭和2年には横廠式1型水上偵察機を完成し伊21号潜水艦に搭載し、 昭和4年の演習に参加させ、 昭和7年にはさらに91式偵察機を完成させ、 昭和8年にはカタパルトからの発艦に成功させるなど、 世界で初めて潜水艦搭載航空機の実戦化に成功させた。 また、 昭和12から13年には多数の潜水艦を指揮する旗艦型巡洋潜水艦「巡潜3型」の伊7・8号(2231トン、 水上速力23ノット、 水中速力8ノット、 航続距離1万4000マイル、 偵察機1機搭載、 司令部要員16名乗艦)を、 続いて昭和14年から15年には第3次軍備充実計画( 計画と呼称されている)で、 甲型潜水艦伊9・10号(2434トン、 水上速力23・5ノット、 偵察機1機搭載、 航続距離1万6000浬)を完成させ、 さらに15年には3ケ潜水戦隊を指揮し効果的な邀撃作戦を実施するため偵察機6機を搭載し、 対潜水艦用通信能力を強化した潜水艦指揮用の巡洋艦大淀を完成させるなど世界をリードし、 列国海軍は駐日海軍武官に潜水艦出身者を配置するなど日本の潜水艦に注目し脅威を感じていた。

 しかし、 太平洋戦争ではニミッツ元帥に「日本海軍の潜水艦部隊は勇敢でよく訓練されていたが、 一つの偏向した方針と近視眼的な最高統帥部によって徹底的に無益に消耗され、 また実力発揮を妨げられた」と言われたように、 日本海軍は艦隊決戦にとらわれほとんど成果を上げることなく消耗してしまった。 すなわち、 日本海軍はシュノーケルも装備されない潜水艦を警戒厳重な空母部隊や揚陸部隊の攻撃のため、多数の潜水艦を狭い限定された海域に反撃阻止兵力として投入し、 ガダルカナル・ソロモン方面で19隻、 サイパン方面(マリアナ海戦前後)で18隻、 レイテ沖とルソン沖海戦で10隻、 沖縄戦で9隻を失なってしまった。 さらに、 日本海軍は戦局が不利となり征空権や制海権が失われると、 潜水艦を孤島への輸送任務や孤島からのパイロット救出作戦に投入するなど、日本海軍は潜水艦の隠密性のみを利用し、 各種雑用に投入して東奔西走の末に壊滅させてしまったのであった。

 さらに、日本海軍は潜水艦の建造も誤ってしまった。 ドイツやアメリカ海軍が同一形式で効率を上げ多数の潜水艦を建造したにもかかわらず、 日本海軍は建艦方針が一定せず用兵者の「作戦の要求」を錦の御旗とした多様な要求を受け、巡洋潜水艦大型、 巡洋潜水艦小型、 艦隊付属潜水艦、 中型潜水艦、 水中高速潜水艦、 水中空母型、 燃料補給潜水艦、 輸送潜水艦など8種の艦種と15種類の艦型に及ぶ多様な潜水艦を建造させた。 そして、この繁雑な艦種転換が各方面に影響を及ぼし、 資材の無駄、 竣工の遅れをもたらし、 潜水艦部隊が本質的に要望する微妙な性能の向上などに精力を傾倒する余裕など全くない状況に技術者を追い込み、 ドイツ海軍が大戦中に1150隻を進水させたにもかかわらず、 日本海軍は118隻を建造したに止まったのであった。

(2)第2段邀撃戦(航空機)

 ロンドン条約の調印により主力艦に次いで補助艦艇の制限を受けると、 日本海軍は兵力不足の補完を航空兵力に求めた。 そして、 ロンドン条約による兵力不足の補填として昭和5(1930)年には16隊、 アメリカの航空軍備増強対応分として12隊を要求し、 昭和6年度の第1次軍備充実計画( 計画)で、さらに14隊、昭和9年度の第2次軍備充実計画( 計画)で8隊を増勢した。とはいえ、 昭和初期までは航空機の性能も低く、 航空兵力への期待は征空権を獲得し、 味方観測機の弾着観測下に有利な態勢で主力部隊の砲戦を行う程度であった。 しかし、 日本海軍の航空運用思想の発展に大きく寄与したのが昭和7年から始まった上海事変であり、 昭和12年から拡大した日中戦争であった。 日本海軍は中国との戦いで、 戦闘術力や運用に関して多くの戦訓を学び、 その実戦経験から運用法・戦術・装備・練度や後方支援能力などを急速に向上させていった。

 特に、 昭和8年には94式艦上爆撃機が制式化し、 さらに昭和10年代に入ると単翼の96式艦上戦闘機や97式艦上爆撃機、 96式陸上爆撃機などの新鋭機が次々に開発され、 雷撃精度や爆撃精度も向上した。 このような大型航空機の実戦化の進展から昭和10頃には大型飛行艇、 陸上攻撃機などによるアメリカ艦隊主力の捕捉、 航空撃滅戦、 艦隊決戦に対する有効性などがが急速に認められるに至った。 特に、 昭和11年には航続距離2700海里、 速力175ノットの96式陸上爆撃機が完成し、 昭和12年7月には航空本部教育部長大西滝次郎大佐から、 航空威力研究会の結論として大型爆撃機の行動圏内では、 戦艦などの水上部隊は「制海権保障ノ権力タルコトヲ得ス」。 「帝国領土約1千浬ノ海域ニ於テハ、 如何ナル敵国モ艦船(空母等随伴航空兵力ヲ含ム)ヲ以テスル進攻作戦ハ殆ンド不可能」である。 航空兵力を整備するならば「水上艦艇ノ比率ノ如キハ(中略)殆ンド問題トナラザルコトニ注意スベシ」との「航空軍備ニ関スル研究」が提出されるなど航空主兵思想が強まった。 さらに、 昭和14年には新鋭空母の蒼龍・飛龍の就役と翔鶴型2隻の着工、 母艦搭載機の攻撃圏200海里への伸延なども加わり、 さらに、 昭和12年1月初頭には南洋委任統治領の軍事利用を制限したワシントン条約を破棄したため、 南洋諸島が陸上攻撃機の前進基地として対米戦略上にわかに脚光をあび、 南洋群島の航空基地化の進展は空母航空兵力のほかに陸上航空兵力を対米邀撃漸減兵力に加えることになった。

 また、 ワシント条約破棄通知後の空母建造は「相手国をして建艦競争を誘ひ易いのである程度忍び、 我のみ有する地の利を活用」するため、 陸上航空兵力の整備に努め昭和12年度の 計画で14隊、昭和14年度の 計画では75隊(合計128隊)を増設したが、 日米関係が緊迫した昭和15年度の第 計画では実用67隊、 練習93隊(合計271隊)、 空母5隻、大型空母4隻、 水上機母艦2隻の大幅な航空兵力の増強を計画するなど、 徐々に艦艇重視から航空重視へと兵力整備の重点を変え、 邀撃漸減作戦の主役を潜水艦、 水雷戦隊から航空部隊へと移行させて行った。

 航空兵力の戦力化にともない編成や運用法も逐次改善され、 昭和13年には陸上航空兵力を機動運用する「海軍連合航空隊令」が制定されたが、 さらに昭和15年6月9日には第1航空戦隊司令官小沢治三郎少将(のちの中将)から、 航空部隊の戦力を最大限に発揮させるためには全航空機の運用を統一する必要があり、 そのためには平時から全航空部隊を統一指揮下に訓練しておく必要があるとの「航空艦隊編成ニ関スル意見」が海軍大臣に提出された。 そして、 昭和16年4月10日には陸上航空部隊を統一指揮するため第十1航空艦隊が、 同年4月には空母8隻に駆逐隊を付属させた4個航空戦隊からなる第1航空艦隊が編成された。 しかし、 この編成は護衛部隊に戦艦や巡洋艦を加えず警戒用の駆逐艦を加えただけのもので、 戦略単位とは認められない中途半端なものであった。 とはいえ、 日本海軍は太平洋戦争開戦時にはアメリカの8隻(太平洋正面は3隻)に対し10隻を、 次のように5航空戦隊に編成するなど世界第一の海上航空兵力を保有していた。

           開戦時の空母部隊の編成
   第1航空戦隊 ー 赤城・加賀     第2航空戦隊 ー 飛龍・蒼龍
   第3航空戦隊 ー 瑞鳳・鳳翔     第4航空戦隊 ー 竜驤・春日丸
   第5航空戦隊 ー 瑞鶴・翔鶴

 そして、 開戦劈頭には空母6隻の“Sea Power"に搭載された350機の“Air Power"がハワイを奇襲し、 戦艦4隻、 標的艦1隻、敷設艦1隻を撃沈し、 戦艦1隻、 軽巡洋艦2隻、 駆逐艦3隻を大破し、戦艦3隻、 軽巡洋艦1隻、水上機母艦1隻を中破し航空機231機を撃破した。 現在の第7艦隊の用法に連なる世界最初の戦略的海上航空作戦であった。 そして、 さらに翌年1月23日には空母4隻(第1・第5航空戦隊)と陸上航空部隊の連合航空部隊がラバウルを、 また、 2月19日には空母4隻(第1・第2航空戦隊)から飛び立った188機がオーストラリアのダーウィン港を、 4月5日には空母5隻(第2・第5航空戦隊と赤城)の128機が、 セイロン島のコロンボ港の港湾施設や在泊船舶を爆撃し、 さらに航行中のイギリス重巡洋艦ドーセットシャーとコーンウォールを撃沈した。 続いて4月9日には121機がドリンコマリー港(セイロン島北部)を強襲し、 軍事施設や停泊船舶に多大の被害を与えたが、 同日午後には91機が空母ハーミス、 駆逐艦1隻を襲撃し撃沈した。ハワイに次ぐ大規模な戦略的航空機動作戦であった。 そして、 世界はこの空母6隻を使用した大規模なハワイ攻撃と、 それに続く南雲機動部隊の太平洋からインド洋へと地球を3分の1を駆け抜ける空母機動部隊の絶大な破壊力と機動力に驚嘆したのであった。

 一方、開戦2日後の12月10日には、 対空砲火も当時としては極めて充実していると考えられていたイギリス東洋艦隊の最新鋭の戦艦「プリンス・オブ・ウエルス」と巡洋戦艦「レパルス」が、 3機を撃墜したたけで陸上基地から飛び立った87機の大型陸上機により行動中に撃沈されてしまった。 これは航空機対戦艦の世界最初の海戦であり、 主要海軍国の戦艦至上主義を根底から覆した海戦であった。

(3)決戦段階(水上艦艇)


 ワシントン・ロンドン条約で劣勢な比率に押えられた日本海軍は、 その対応の一つを個艦能力の向上に求めた。 日本海軍は大正12(1923)年には5500トン級巡洋艦と同等の性能を持つ2890トンの軽巡洋艦夕張を、 大正15年には1万トン級巡洋艦に比敵する7100トンの古鷹を、 続いて昭和7(1932)年には排水量1万トンで、 8インチ砲5連装10門、 魚雷発射管12門の重装備艦高雄型巡洋艦を進水させた。 また、 日本海軍は軍縮条約の適用を受けない駆逐艦の重武装を推進し、 昭和3年には魚雷発射管9門、 13センチ砲2連装6門で1680トンの特型駆逐艦吹雪を建造した。

 日本海軍は日清戦争における威海衛の夜襲の体験からか、 訓練により他海軍を凌駕し得る戦法と考えたためか、 魚雷を利用した水雷戦隊(巡洋艦・駆逐艦)の夜襲を特に重視した。そして、 アメリカ海軍がソルト・シティーなどの優れた巡洋艦を建造し、 水雷戦隊の前衛部隊突破が困難となると、 昭和4年度の艦隊編成では前衛部隊指揮官である第2艦隊司令官に全夜戦の責任と部隊(重巡洋艦戦隊)を与え、 第2艦隊を夜戦専門部隊として再編成し、 昭和8年には金剛型巡洋戦艦を夜戦に投入するための高速化改造工事を開始した。 また、 昭和10年には射程4万メートルの酸素魚雷が開発されたため、 昭和12年には有事に水雷戦隊の旗艦である軽巡洋艦北上、 大井、 木曾の3隻に4連装魚雷発射管10基(魚雷40本)を装備する重雷装巡洋艦への改装計画を年度出帥計画に組み入れた。

 このように昭和14年年から15年には決戦前の水雷戦術もほぼ完成し、 決戦部隊の編成も次のとおりとされ、 艦隊決戦前夜には本隊の前方20キロに配備された水雷戦隊から280本の魚雷を発射し、 その到着時(20分後)に本隊である戦艦群が砲戦を開始することとされた。

    前衛部隊 本隊
       高速巡洋戦艦戦隊 1隊 戦艦戦隊 2隊
    巡洋艦戦隊 3~4隊 巡洋艦戦隊 1~2隊
    水雷戦隊 2隊 水雷戦隊 2隊
        重雷装巡洋艦戦隊 2隻

 さらに、 1932(昭和7)年には小型潜水艇(甲標的 25トン)を艦隊決戦時に活用する研究が開始され、 昭和8年には平時は水上機母艦として使用し、 戦時には甲標的母艦として艦隊決戦直前に敵艦隊の前提に進出し、 20ノットの高速航行中に艦尾から魚雷2本を搭載した12隻の特殊潜航艇(甲標的50トン)を1000メートル間隔で発進させる構想のもとに、 昭和9年には水上機母艦千歳(1万1023トン)、 昭和11年には千代田、 昭和13年には日進の建造を開始した。

3 開戦までの軍備


 次に、 これら艦艇の建造隻数を見てみよう。 開戦にいたるまでの軍備拡張計画は次の通りで、日本海軍は昭和9(1934)年ころから軍縮離脱後の研究を始め、 戦艦を3隻3隊編成(合計9隻)とするほか、 新たに空母が主力艦に継ぐ兵力として位置づけられ、 昭和11年5月の第3次国防方針の改定では主力艦12隻、 航空母艦10隻、 巡洋艦28隻、 水雷戦隊6隊(旗艦6隻、 駆逐艦96隻)、 潜水戦隊7隊(旗艦7隻、 潜水艦70隻)、 常備基地航空兵力65隊を整備する軍備充実計画が立案された。

 そして、昭和12年度以降6カ年計画の継続費で建造することで、昭和11年12月26日開催の第70回議会で予算を成立させ、  計画として戦艦2隻以下艦艇66隻(予算上は70隻)と陸上航空隊14隊(既定計画と合わせれば53隊・827機と艦載機1089機)の増勢に着手した。 この計画で建造されたのが戦艦大和と武蔵、 航空母艦翔鶴と瑞鶴、 水上機母艦日進、 敷設艦津軽、 駆逐艦陽炎型18隻、 潜水艦12隻など70隻、 26万9510トンであったが、 この計画は日本海軍が軍縮条約を離脱し、 全く自主的構想のもとに計画されたもので、 量的欠陥を質的向上によって求めようと企図した軍備であり、 また、 これが日本海軍が長期計画的にあまり変更することのなかった最後の建艦計画でもあった。
                
                     艦艇建造計画
計画 建造艦種 隻数 排水量(トン)  継続年度
巡洋艦・駆逐艦・潜水艦など 39 7万3000 昭和6年ー昭和11年(6年計画)
空母・巡洋艦・駆逐艦・潜水艦など 48 13万5000 昭和9年ー12年(4年計画)
戦艦・空母、駆逐艦・潜水艦など 66 27万 昭和12年ー16年(5年計画)
4     同上                 80  32万1000  昭和14年ー19年(6年計画)  
             

        航空兵力増勢計画
計画航空隊数 継続年度
   14 昭和6年ー11年(6年計画)
    8 昭和9年ー11年(3年計画)
   14 昭和12年ー15年(4年計画)
   75 昭和14年ー18年(5年計画)
  
 その後にアメリカやイギリス、 特にアメリカ海軍が昭和9(1934)年にはビンソン・トランメル法案(1般に第1次ビンソン案と呼称)を可決し、 軍縮条約許容限度一杯の艦艇、102隻の建造を決定したが、 昭和11年には主力艦2隻の代艦建造のほか駆逐艦20隻、 潜水艦6隻、 航空機333機の増勢に着手し、 昭和12年度計画および昭和13年の第2次ビンソン案では主力艦3隻、 航空母艦2隻を含めて戦闘艦艇46隻、 補助艦艇26隻(駆逐母艦3隻、 潜水母艦2隻、 水上機母艦大型3隻、 水上機母艦小型7隻、 工作艦1隻、 油槽船4隻、 機雷敷設艦1隻、 掃海艇3隻、 艦隊用曳船2隻、 航空機950機(累計第1線機3000機)、 飛行船1隻などの建造を決した。 この計画が完成すればアメリカ海軍の主力艦は24隻、 航空母艦は8隻、 巡洋艦は48隻など艦艇190万トン、 第1線機3000機が整備されることになり、 この兵力増強は日本海軍が計画した 計画の約4倍の量であった。この増強計画に応じて日本海軍は昭和14年度から6カ年にわたる 計画(昭和14年度着手)を立て、 艦艇兵力は大和型戦艦2隻を含み合計80隻32万トン(このうち戦闘艦艇56隻29万トン)が増強され、 この計画が完成する昭和19年度には海上兵力は主要戦闘艦艇280隻、 130万トンに達する予定であった。

 一方、 航空兵力は実用隊、 練習隊75隊を昭和18年度までに完成し、 既存の兵力と合わせ実用隊65隊、 練習隊63隊、 合計128隊、 さらに艦載航空機が空母建造とともに準備されるので、 これらを含めれば実用機の保有機数は総計2400機、 練習機850機となる予定であった。 しかし、 アメリカは昭和15年には、 さらに艦艇22隻、 16万7000トンの建造と航空機1500機を整備する第3次ビンソン案、 続いて艦艇257隻、 132万トン、 航空機1万5000機に増勢するスターク計画と呼ばれる両洋艦隊法案(完成年度昭和21年)を策定した。 この増勢に日本海軍は第3次ビンソン計画に対しては 計画、 スターク計画に対しては 計画を立案し、昭和16年9月には軍令部総長から海軍大臣に商議された。

  しかし、 その3カ月後には太平洋戦争が始まり 計画は改 計画に変更され 計画は消滅した。 計画は戦艦3隻、 超大型巡洋艦2隻を含む158隻の艦艇と航空隊93隊を整備するという膨大な計画で、 昭和15年度にはおおむね成案を得たが、 その実行は財政、資材、施設、能力などから幾多の困難が予想され、 これ以上の軍備拡張競争は日本の国力から不可能であり、 海上勢力の中心である戦艦の対米比率が近い将来に5割又はそれ以下となると見積もらざるを得なかった。 このため、 日本海軍は量的均衡を断念し個艦能力の隔絶に期待することとした。 それが超大型大戦艦大和であり武蔵であった。 そして、  計画と 計画で大和型戦艦4隻、  計画で3隻、  計画で4隻の合計11隻の追加建造を計画し、 さらにアメリカの戦艦を射程でアウトレンジし隻数の不足を補おうと昭和16年には50センチ砲を完成し試射を行った。 しかし、 昭和14年に発足した 計画は駆逐艦や潜水艦などの工事は一部年度初頭から着工できたが、各海軍工廠や民間造船所では船台などが確保できず、 昭和15年度に入ってから着工されるなど、 これが当時の支那事変などで低下しつつある日本の国力の実情であり、 艦艇増強の限界であった。

 一方、 航空機は対米均衡を理想とし、 第2次ビンソン計画に対する 計画まではおおむね均等主義の続行を可能と見積もっていた。 しかし、第3次ビンソン計画の6000機の増強に対しては対応策なく、 さらに支那事変による消耗補充に追われ、 機数比率の維持は極めて困難であった。 そのうえ、国際情勢が緊迫し昭和15年11月15日には第1次出師準備の第1着作業が、 昭和16年8月15日には出師準備第2着作業が発動され改装工事などが増加して新艦建造は遅延した。 さらに、 開戦が決定されると「マル急計画」として空母1隻(雲竜)、 巡洋艦2隻(進水後空母に改造中工事中止、 1隻は建造中止)、 駆逐艦26隻(夕雲型16隻、 防空駆逐艦10隻)、 潜水艦24隻を含む293隻の建造計画が立案された。 この計画は戦時消耗に対する補充や大部分は戦時急増計画によって充足する予定であった防備用の小型艦艇であったが、 開戦後は資材の不足や戦局の変化にともなう変更から建造中止や、 改造か必要となり当初の計画から大幅に縮小された。 とはいえ、 日本海軍は太平洋戦争開戦の時には主要艦艇261隻、 約100万トン、 その他の艦艇130隻、 49万トン、 合計390隻、 145万トン、 特設艦艇約610隻、 135万トン、 徴雇船約20万トン、 航空機約2300機で、 次に示すとおり開戦時における対米軍備の対比を空母で94パーセント、 艦艇の総合比率で72・5パーセントで開戦することができた。
戦艦 空母 甲巡 乙巡 駆逐艦 潜水艦 合計隻数 合計トン数
日本 10 10 18 20 113 65 236 98万5900
米国 18  8 18 19 172 111 345 136万2000


4 ミッドウェーから敗戦まで

 昭和17(1942)年6月5日のミッドウェー海戦で空母4隻を失うと、 日本海軍は航空兵力の画期的増勢、 航空母艦多数の急速建造を含む既定計画の大改定を行い、 航空隊を 計画の232隊から347隊に改め、 1万6000機以上の航空機を昭和21年末までに完成し、  計画の空母3隻を18隻に増強するかわりに戦艦、 巡洋艦など37隻の建造を取りやめ、  計画で建造中の戦艦1隻を空母(信濃)に変更し、戦艦1隻および「急 計画」で建造中の巡洋艦3隻の建造を取りやめたが、特に空母を重視し「急 計画」で1隻建造のほか、 既製艦からの改装3隻及び商船改造5隻などにより昭和23年までに合計29隻を建造することとし、 この計画を「改 計画」と略称した。しかし、「改 計画」の実行に着手して間もなくガダルカナルの戦いが始まり、艦隊決戦主義に基づき計画された艦種では局地作戦に対応できない事態となり、昭和17年10月には海上輸送能力の強化、 対潜兵力や陸上防備兵力の緊急な整備が必要となり、 輸送用潜水艦11隻、続いて昭和18年初頭には駆逐艦丁(護衛用小型)42隻の建造などが「改 計画追加」要求として提出された。

  しかし、 計画の変更はさらに続き、 昭和18年4月には軍令部次長から海軍次官に「マル戦計画」と呼ばれる「昭和十8年度戦時艦船建造補充並ニ陸上兵力等増勢ニ関スル件協議」が送付された。 この協議によれば建造艦艇はさらに小型多様化し、 要求された艦艇は高速輸送船32隻、 輸送潜水艦19隻、 魚雷艇480隻、 海防艦330隻、 哨戒特務艇390隻、潜水艦(中型)50隻など合計1301隻を昭和18年度から着手し、 おおむね昭和20年度末までに完成するというものであった。 また、 これと平行してアメリカ軍の反攻が本格化し本土空襲が予想される事態となったため、 それまで全く無視してきた陸上部隊の新編や増加が必要となり、 内戦部隊として防空砲台400基、 機銃台80基、 防空隊120隊、 外戦部隊として防空大隊120隊、 防備隊15隊、 特別陸戦隊5隊、 通信隊5隊、 気象隊3隊、 測量隊3隊、 潜水艦基地隊3隊、 設営隊80隊を昭和20年末までに整備する要求が提出された。 この要求により既定計画は中止あるいは延期されたが、 さらに、 対米戦力が格段の開きが現実のものとなり、 ガダルカナルからの撤退など戦局が不利に展開し始めると 軍令部から海軍省に次のような兵器(機密保持上「金物」と呼称した)の緊急実験要望が提出された。

     @金物 潜水艦攻撃用潜航艇
     A金物 対空攻撃用兵器
     B金物 S金物(のちの海龍)及び可潜魚雷艇
     C金物 船外機付衝撃艇(のちの震洋)
     D金物 自走爆雷
     E金物 人間魚雷(のちの回天)
     F金物 電探等
     G金物 電探防止
     H金物 特攻部隊用兵器(のちの震海)

 一方、 昭和18年中期に至りアッツ島が玉砕しソロモン方面の敗北が続くと、 第1線の部隊の一部からも必死必殺の攻撃を決行すべきであるとの考えが台頭した。 しかし、 中央で特攻作戦の実施に踏み切ったのは翌昭和19年になってからであった。 戦局の不利が続くと2月には極秘に 兵器(のちに回天と呼称)の試作を呉海軍工廠魚雷実験部に命じ、 7月10日には「特殊兵器緊急整備計画」が立案され、 8月には特攻機桜花(A部品と呼称)の設計試作が開始され、 9月には海軍特攻部が設置された。 そして年末ころには「一億特攻ノ戦ニ徹シ必勝施策ノ急速具現ヲ目指」す「一億特攻」の精神のもとに、 特攻隊兵器が日本海軍の正面装備へと変化していった。

 これら特殊兵器中から実用・装備化された主要なものを上げると、 艇首に爆装を装着し舷外機を装備した高速水上特攻艇「震洋(略称マル4艇)」を約6000隻、 水中特攻兵器の「回天(略称マル六兵器)」420隻、 魚雷2本又は艇首に爆薬を装備した有翼小型潜航艇「海竜(略称SS金物)」約200隻、 「甲標的」約130隻とこれを大型にした「蚊竜」約120隻、 敵の艦艇の艦底に爆薬を固着する小型潜航艇「震竜(略称マル9金物)」、 潜水服を着用した隊員が停泊中の敵の艦艇を棒地雷によって爆破させる「伏竜」、 さらにロケット機「桜花」などの航空特攻隊兵器を主とする末期的な兵器生産へと変化していった。

 日米海軍が太平洋戦争中に建造した艦艇兵力及び航空機の年度別生産機数を比較すると下表の通りで、 日本海軍は空母16隻、 戦艦2隻、 軽巡洋艦5隻、 駆逐艦63隻、 潜水艦118隻を建造したが、 アメリカ海軍は空母102隻(正式空母26隻、 護衛空母76隻)、 戦艦8隻、 重巡洋艦15隻、 軽巡洋艦32隻、 駆逐艦746隻、 潜水艦203隻を進水させ、 航空機を日本陸海軍は6万5300機、 アメリカは21万8620機生産した。
  太平洋戦争中の日米艦艇戦力の比較
   
       開戦時の保有数 戦争中の建造数  総合計
艦種   日本  米国   日本   米国  日本 米国
正規空母   6   7  5  18  11  25
特設空母   4   1  10  86  14  87
 戦艦  10  17   2   8  12 52
 甲巡  18  18   0  15  18  33
 乙巡  20  19   5  33  25  52
駆逐艦 112   175  55  352  167 572
潜水艦  65  111   126  203  191 314
    出展:冨永謙吾『定本 太平洋戦争』

  日米海軍航空戦力の推移
      日米航空機生産数   太平洋戦線の日米航空機数
年度 日本 米国 日本 米国 
1942年 8861 3万4796 2625(開戦時) 1962 
1943年 1万6693 6万5894 3200 3537
1944年 2万8189 7万7122 4050 1万1142
1945年 1万1066 4万810 4100 2万1908
    出展:富永謙吾『定本 太平洋戦争』

 航空機の生産については昭和18年度生産要求は1万1636機、 うち作戦機9136機、 昭和20年には生産要求3万200機、 うち作戦機2万1200機であったが、 海軍省は18年度9818機、 19年度2万5905機の生産計画を立て、 昭和18年度には年度末には月産1000機を越えた。 しかし、 昭和19年、 特に12月以降には本土爆撃が始まり工場や輸送機関が破壊されれ、 資材や労働力が不足し生産機数が急激に低下し、 昭和20年には年間生産機数は1万1066機、 と計画の50パーセントしか達成できなかった。

5 戦術思想の特質
(1)先制・奇襲・夜襲の重視


 日本海軍の兵力整備や戦術を見ると、 国力に欠けるためあらゆる点で、 攻撃重視・防御軽視の思想と「奇兵により寡兵よく衆を制す」との奇襲的作戦など貧乏海軍の体質が目立つ。 日本海軍は日清戦争で排水量4278トンで32センチ砲1門を搭載し、 砲を旋回すると艦体が傾き、 砲を前方に発射すると後ろに下がる海防艦松島など2隻を主力に28隻、 5万7631トンの兵力で、 30センチ砲4門を砲塔内に装備した7335トンの重装甲の大戦艦定遠、鎮遠などを含む82隻、 8万トンと戦わなければならなかった。 また、 日露戦争では戦艦18隻、 巡洋艦16隻、 総トン数45万トンのロシア海軍に戦艦6隻、 巡洋艦8隻、 総トン数26万トンと半分の勢力で戦わなければならなかった。 このため、 開戦直後に2隻の戦艦を機雷で失うと、 それを補うために戦艦と同一口径の30・5センチ砲(4門)を搭載するが、 装甲は巡洋艦並の1万3750トンの巡洋艦筑波(巡洋戦艦のはじまり)を建造した。

 それは戦艦を建造する予算がなく、 攻撃力を低下させたくなかったためであった。 その後にドレッドノートの出現などで建艦競争が始まると、 日本海軍はイギリスで建造された巡洋戦艦金剛を参考に扶桑を建造したが、 攻撃力を重視し砲塔数を2連6基12門と金剛型より砲塔を2基(4門)増やし、 世界で最大の砲を搭載した最強の攻撃力を持った戦艦扶桑型を造った。 しかし、 問題は砲装上の問題から第3・第4砲塔を煙突をはさんで装備せざるを得ず、 この防御不足の欠陥からレイテ沖海戦では魚雷を受けて船体を二つに裂く大爆発を起こし、 1名の生存者もいないという悲劇を生んだのであった。 このように日本海軍は常に劣勢な兵力比率のもとで戦わざるをえなかったため、 「如何にして寡をもって衆に勝つか」というテーゼが用兵思想や戦術に影響を与え、 水雷戦隊や重雷装巡洋艦、 甲標的などによる艦隊決戦直前の隠密魚雷攻撃、 潜水艦や航空機による奇襲や先制攻撃が重視され、 武器や戦術などもパナマ運河攻撃用の航空機3機を搭載した伊400型潜水艦、 敵の艦隊泊地攻撃用の潜水艦搭載の特4式内火艇の建造など、 正攻法より奇襲的な要素を重視する武器を開発させた。

 また、 貧弱な国力などに起因するものであろうか、 日本海軍は武器だけでなく戦争も日清戦争、 日露戦争、 そして太平洋戦争と常に先制攻撃で開始し、 太平洋戦争ではハワイを奇襲した。 このハワイ奇襲攻撃は山本司令長官の強い意志で実行されたが、 ハワイ奇襲攻撃の着想は昭和2(1927)年に既に海軍大学校の図上演習で学生により実施されており、 昭和11(1936)年には同じく海軍大学校作成の「対A国作戦要領」に、 「開戦前、敵主要艦艇、特ニ航空母艦AL(真珠湾)ニ在泊スル場合ハ、 敵ノ不意ニ乗ジ航空機(空母機並ニ大艇・中艇)ニ依ル急襲ヲ以テ、 開戦ノ着意アルヲ要ス」と、 空母あるいは飛行艇による奇襲が推奨されていた。 また、 同研究の「GK(マーシャル諸島)東端付近ヨリ発出シ、 予メ洋上静穏ナル地域ニ配備セル水上機母艦ニ於テ中継補給」しハワイを奇襲すべきでとの研究を受け、 昭和15(1940)年には水上機母艦神威を飛行艇母艦に改造し、 昭和15年の 計画では8機の飛行艇に2週間分の戦闘行動に必要な燃料や弾薬を補給し、 1機を艦上で整備できる水上機専用母艦秋津州(4650トン)の建造を開始した。

(2)アウト・レンジ思想
 
 劣勢日本海軍のもう一つの対応に「特攻攻撃」と自己の兵力を消耗することなく、 敵を倒そうとするアウト・レンジ戦法があった。 戦艦がワシントン条約などにより対米比率を5対3、 隻数比率で17隻対8隻の劣勢を強いられると、 日本海軍は1艦で多数の艦艇と戦える個艦能力の優越と、 訓練による練度の向上と相手の射程外から攻撃するアウト・レンジ戦法を開発した。そして、 このアウト・レンジの思想が日本海軍に常に列国海軍より射程の優る大口径砲や酸素魚雷、 さらには航続距離が長い0式戦闘機などを開発させた。 アメリカ海軍が大正3年に竣工させた戦艦ニューヨークに初めて35・6センチ砲を装備し、 大正10年に戦艦コロラドに40・6センチ砲を搭載後は、 終戦まで主砲の口径を変えなかった。 しかし、 日本海軍は大正2年に世界で最初に36センチ砲を搭載した巡洋戦艦金剛を、 大正8年には41センチ砲を装備した戦艦長門を、 昭和16年には46センチ砲(射程4万メートル)を搭載した世界最大の超大型戦艦大和を進水させるなど、 日本海軍は常に大口径砲を世界に先駆けて装備してきた。

 そして、 「我が主力艦ハ射程ニ於テ4、5千米優越シ」ているので、 「『アウト・レンジ』ニヨリ先制ヲ加フル」べきであるとし、 昭和14年6月策定の連合艦隊戦策では、 「我主砲ヲ以テ敵主力トノ射程差ヲ利用シ、 遠大距離ヨリ先制射撃ヲ実施シ敵ノ射撃開始ニ先立チ之ニ一大打撃ヲ加ヘ、 以テ戦勢ノ均衡ヲ破リ勝敗ノ帰趨ヲ決スルハ帝国海軍ニ執リ戦勝ノ一大要訣」であるとした。 このアウト・レンジは「敵航空母艦ヲ『アウトレンジ』シテ先制空襲ヲ行ハントセバ、 我攻撃機ハ敵攻撃機ニ比シ、 少ナクトモ150浬以上ノ航続力ヲ必要トス。 故ニ飛行機能力ガ敵飛行機ト大差ナキ場合ハ、 爆弾量ヲ減ジ(250キロ1発程度ニ)遠距離攻撃ヲ企画スル外、 攻撃機ノ半数ヲ以テ空中燃料補給ヲ行ヒ、 爾余ノ給油ヲ以テ攻撃距離ヲ延伸セシメル方策ヲ工夫訓練スルノ要アリ、 又情況ニ依リ搭乗員ノミヲ救助スルノ手段ヲ講ジ、 片道攻撃ヲ企画スル要アルベシ」と日本海軍のアウトレンジは徹底したものであった。

 しかし、 この兵力温存のアウトレンジの戦いが、 ジャワ沖でコマンドルスキー沖で、 日本海軍に不徹底な戦いを戦わせ戦機を失わせたのでもあった。 昭和18年3月27日のコマンドルスキー沖の海戦ではアメリカ海軍の重巡洋艦1隻、 軽巡洋艦1隻、 駆逐艦4隻に対して重巡洋艦2隻、 軽巡洋艦2隻、 駆逐艦4隻と優勢であり、 一時は巡洋艦ソルトレーク・シティは被弾し航行不能に陥るなど有利に先頭を進めていたにもかかわらず、 近接戦闘を避け4時間にわたる超遠距離のアウトレンジ射撃で、 2141発の砲弾と43本の魚雷を発射しながら命中弾は7発(命中率0・33パーセント)、 魚雷の命中なしで1隻も撃沈できないという前代未聞の臆病な不徹底な戦いを行わせたのであった。 また、 日本海軍は航空機の開発においても、アウトレンジを極度に重視したため防御設備を無視し、航続距離2200キロの零式戦闘機や主翼総てを無防御の燃料タンクとし、 アメリカのパイロットからは“One Shot ligter"と揶揄された航続距離6110キロの1式陸上攻撃機を造り続けたのであった。