戦艦大和ー沖縄特攻への道
 
1944年末には「一億特攻ノ戦ニ徹シ必勝施策ノ急速具現ヲ目指」す「一億特攻」の精神のもとに、 特攻隊兵器が日本海軍の正面装備へと変化し、海軍は45年3月1日には練習航空部隊も特攻隊に改編し、全航空機が特攻部隊に指定され、3770機を投入する計画を作成した。そして、3月中旬にはウルシー泊地へ梓特攻隊、18日から21日には九州方面に来襲した米機動部隊に、彗星の菊水部隊、桜花の神雷部隊が特攻攻撃を行うなど、航空部隊は総力を挙げて特攻作戦を進めていた。また、国内では3月18日に東京大空襲があり、19日には焼け野原の戦災地を徒歩で昭和天皇が御巡幸され、その写真が大きく新聞に掲載されていた。そして、朝日新聞は社説で「帝都に敵機の侵入するのさえ恐縮極まり」ないと書き、新聞には菊水隊、金剛隊の「必死必中・新鋭特殊潜航艇」、「本土決戦に国民義勇隊組織」、「一億の総力結集」、「国民総特攻」などの言葉があふれていた。このような雰囲気が大和を沖縄に突入させる決断を連合艦隊司令長官に迫ったのであろう。

 さらに、大和の沖縄突入には沖縄戦の考え方について陸海軍に対立があった。海軍は沖縄戦を最後の決戦と位置付けていたが、陸軍は沖縄で米軍の侵攻を遅滞させ、その間に本土決戦の準備の時間を稼ぐ作戦と位置づけ、本土決戦を計画していた。そこに、上陸早々に北と中飛行場が占領されるという事態が生起した。陸軍にとっては第32軍の飛行場地域からの撤退は、第9師団を台湾に引き抜かれたための予定の行動であった。しかし、これら飛行場に米軍の航空機が展開されれば、空母機動部隊が陸上支援任務を解かれ、本土への空襲が激化することが予想された。この事態を最も恐れたのが連合艦隊であり、連合艦隊から「貴軍ニ於テハ既ニ準備中トハ存ズルモ」、約10日間だけでも、敵の北と中飛行場の使用を封止するため、「主力ヲ以テ当面ノ敵主力ニ対シ攻勢ヲ採ラレンコトヲ熱望スル」、「全般ノ状況ヲ慮リ失礼ヲ顧ミズ意見ヲ具申スル次第ナリ」と、きわめて強い飛行場の奪回要望が第32軍に出されていた。海軍は沖縄が最後の決戦であることを陸軍に示すためにも、第32軍に飛行場奪回の総攻撃を行わすためにも、大和以下の可動全艦艇に特攻を命じざるを得なかったのではなかったであろうか。

大和の特攻推進者の主張

軍令部勤務時に米軍がサイパンに上陸すると、戦艦部隊をサイパンに突入させるべきである。「大和、武蔵を惜しんでどこに使い道があるのか、もし幸いにしてサイパンにたどりつき、海岸砲台にすることができれば、少なくとも6ヶ月間は、その侵攻作戦を足踏みさせられるのに残念至極だ。島田総長、伊藤次長らにその決断ができないのは終生の恨みだ」と、教育局長の高木惣吉少将に怒りをぶつけた神重徳大佐が、少将に進級して首席参謀として連合艦隊司令部に着任、持論の大和の特攻を強硬に主張した。大和の特攻に連合艦隊通信参謀の市来崎秀丸中佐も、「今度の機会をなくしたらもう使い道がない。(略)航空特攻だけに期待して、水上部隊は何もしなくていいのか? 成算があるかないかより、どうやって花道を飾るか、どうやって最後の花を咲かせるかだ」と考えていたという。大和の特攻作戦を決断した豊田長官は決断の理由を次のように語っている。

「当時連合艦隊では若し沖縄が失陥すれば、いよいよ本土決戦の軒先に火がついたも同様で、海軍としてはありとあらゆる手段を尽くさねばならん。(略)私は成功率は5○パーセントはないだろう、五分五分の勝負は難かしい。成功の算絶無だとは勿論考えないが、うまく行ったら奇蹟だという位に判断したのだけれども、急迫した当時の戦局において、まだ働けるものを使わずに残しておき、現地における将兵を見殺しにするということはどうしても忍び得ない。かといって勝目のない作戦をして、追駈に大きな犠牲を払うことも大変苦痛だ。しかし、多少でも成功の算があれば、できることはなんでもしなけれぱならぬという心持で決断した」。

 一方、連合艦隊に比べて軍令部はやや消極的で、軍令部次長小澤治三郎中将は連合艦隊司令長官がそうしたいという決意ならよかろうと了解を与えた。全般の空気よりして、その当時も今も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」と述べている。また、軍令部総長及川古志郎大将は「そこまでやらんでもという気持であった」が、「他に道がない」ということで承認したという。
 
大和特攻への海軍部内の批判

 大和の特攻を非難する急先鋒は海軍のブレーンと言われた高木惣吉少将で、「いかなる戦いも、軍隊の面目や威信が最後の決をあたえるものであってはならない。『ソロバンずくでは勝利のめどはない。しかし、民族の名誉のために戦い続けるうちには、何らかのチャンスがある』というような考え方は、国民の名において国民を犠牲にするもので、ヤクザの決闘と同じなのである。個人は時には名誉とか理想とか、信念のために生命を賭けることがあるが、民族の興亡を賭けて戦う価値はどこにもありえない」と批判している。
また、海上護衛総司令部の幕僚であった大井篤大佐は、「伝統、栄光、みんな窓の外に見える桜のように美しい言葉だ。しかし、連合艦隊主義は、連合艦隊の伝統と栄光のために、それが奉仕すべき国家の利益まで犠牲にしている。このさい、4000トンという重油があれば、大陸からの物資輸送は活発に行われ、また、日本海への敵潜の進入を食い止めるのに大いに役立つのに、大和隊に使う4000トンは、いったい日本に何をもたらすだろう。敵航空部隊をして、『大和討ち取り』の歓声をあげさせるだけではないのか」と批判は厳しい。

 部隊指揮官では第5航空艦隊司令官の宇垣纏中将が、4月5日には「GFは大和および2水戦(矢矧、駆逐艦6隻)を水上特攻隊として6日豊後水道出撃、8日沖縄島西方に進出し、敵を掃蕩すべき命令を出せり。決戦なれば之も良からん」と書いていた。しかし、大和が沈んだ2日後の7日には「余は同隊の進撃については、最初より賛意を表せず。GF(連合艦隊)に対して抑え役に廻りたるが、今次の発令はまったく急突にして如何ともなしがたく、わずかに直掩戦闘機をもって協力し、敵空母群の攻撃をもって、これに策応するほか道なかりしなり。全軍の士気を昂揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き、痛慣復讐の念を抱かしむるほか、何ら得る処なき無謀の挙といわずして何ぞや」と批判している。

特攻推進者の自決

 その後も特攻隊を鹿屋で見送っていた宇垣中将は、終戦の報を聞くと部下ともに沖縄に散花した。また、特攻隊生みの親と言われた大西中将は天皇の玉音放送の後の8月16日に、「特攻隊の英霊に申す。良く戦ひたり深誠す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。しかれどもその信念はついに達成し得ざるに至れり、死をもって旧部下の英霊と遺族に深謝せんとす」との遺書と、「これでよし百万年の昼寝かな」との辞世の句を残して割腹し自決した。このように大和の特攻作戦の「烽」となり、大和を沖縄に導いた特攻部隊の指揮官や、特攻兵器の発案者たちは敗戦とともに大和のあとを追った。

 一方、大和の特攻を強力に主張した神参謀は大和の特攻が決まると、幕僚副長に「人事局に掛け合って、私を2艦隊参謀にして下さい」と申し出たが許されずに生き残った。しかし、終戦業務で出張中に飛行機が津軽海峡で不時着水すると、「はじめ浮いて泳いで」いたが、「空をずうつと見まわして、一通り空を見まわしてから、ぷくぶくと沈んで」しまった。連合艦隊参謀副長は当日は「天気は良いし、神大佐は兵学校以来水泳の名人」であり、「神大佐は第2艦隊参謀として戦死しなかつた償いを自らしたんだ」と語っている。
 大和の特攻については多くの批判があるが、これをどのように解釈すべきであろうか。先に書いたように、大和の特攻を決断した時には、菊水特攻作戦などで若者たちが毎日、特攻隊として突入しており、陸海軍10万の将兵が血みどろの苦戦を強いられ、30万の沖縄県民が逃げまどう中、ひとり水上部隊だけが内海に隠れて傍観していることが許されたであろうか。もし大和が沖縄に出撃せずに戦い破れ、爆撃で焼け野原となった呉軍港に横たわっていたならば、後世の史家は果たして海軍を、大和を許したであろうか。祖国の危機に直面したとき、最後の一艦一機まで護国の任に倒れるのが海軍の伝統ではなかったか。勝敗を無視し情義を捨て民族の抵抗の意志を発揮すべき最後のチャンスと、指揮官たちは判断したのではなかったであろうか。当時は国家に対して忠誠を尽くす、国民として民族のために命をかけるのが当然の務めであった。大和の特攻を現在の価値観で判断してはならない、歴史は当時の価値観で見ないと真実の歴史にはならない。大和の真実を解明したいならば、1945年の4月の新聞を読んで頂きたい。