特攻隊をめぐる日米の対応ー国民性の視点から

はじめに

 戦争の仕方には科学技術の影響を受け、 その時代に応ずる各国に共通する戦い方と、その国の風土に根ざし、その国民性を反映したその国特有の戦い方があるように思われる。 そして特に、 国の命運を賭した戦争という極限状態では、 総ての表面的虚飾が剥ぎ取られ、そこには風土に育まれ歴史に育てられた、 その国特有の戦争に対する特定の行動パターンが露呈されるものである。 太平洋戦争中に示された日本人の戦い方の中で、際立った特色の一つが「特攻」と「玉砕」であった。日露戦争時の旅順港閉塞隊、 開戦劈頭の特殊潜航艇によるハワイ攻撃など死を覚悟した決死的攻撃はあったし、 「斃れて後やむ」の精神から被弾後に敵艦に自爆した例はアメリカ側にも多々あったが、 日本のように「十死零生」の体当り攻撃を、 部隊単位で組織的に実施した国家はなかった。

 しかし、 何が「特攻」攻撃を日本人に可能とさせたのであろうか。 「特攻」攻撃の創設者は大西滝次郎中将といわれているが、 これは1人や2人の思い付きや力で突発的に始められたものではなく、 それは「海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ」という古歌が示すように、 日本民族2000年の歴史体験や日本の風土に定着した日本民族の国民性から生まれたものであった。 一方、アメリカはこの「特攻」攻撃にいかに対処したであろうか。 以下、 特攻隊の是非なとには触れず、 この問題を単に国民性という視点から考えてみたい。

1 日本人はなぜ、 「特攻」攻撃ができるのか
(1)風土と宗教の影響
ア 霊魂不滅思想


 和辻哲郎は「歴史と離れた風土もなければ、 風土と離れた歴史もない(和辻哲郎『風土ー人間学的考察』岩波書房、1938年、 18頁)」と述べているが、 ある一定の気象や地形など特定の自然環境に囲まれて育つと、 生活様式、 風俗習慣、 価値観などが、 その土地特有なものとなるといわれているので、 まず風土、 歴史と宗教の観点から「特攻」をみてみたい。 宗教は民族の価値観や行動様式が凝縮されたものであり、 その民族の死生観が大きく影響するが、 春夏秋冬の季節変化の明確な日本では、 冬に葉を落とした草木が再び春に緑を取り戻すことからか、 人間が死ぬと魂は清められ祖先の魂に溶け込み神となって、 いつまでも子孫とともに生き子孫を守ると信ずる霊魂不滅の神道となった(森田康之助『やまと心 日本精神史』錦正社、1991年、205頁)。

 また、 この風土から仏教の「三界六道」に生死を無限に繰り返すという「輪廻転生」思想が強く根付いた。 すなわち、 日本人の体質ともなった神道の霊魂不滅思想と仏教の根底に流れる「極楽浄土と現世」、 「生」と「死」との連続性の思想が日本人に「死」を超越させ、 例え死んでも生成発展する民族の永遠の生命体の中に生き続けるという安心感を与え、 それが特攻隊員を生み特攻隊員に七生報國の精神を授けたのであった。 人間魚雷回天の副田斎藤斎中尉は「皇国三千年の歴史を擁護し奉らんとする小官等の志の赴く所、 何卒御酌取被下度候、 なお斎死すと雖も魂は永久に生きて皇土を守護し奉るものに有候(回天刊行会編『回天』サン・エポック社、 1978年、147頁)」と記し、 沖縄防備軍司令官牛島満中将は「矢弾尽き 天地染めて散るとも 魂還りつつ皇国護らん(金城和彦『嗚呼 沖縄の学徒隊』原書房、1976年、 457頁)」との辞世の句を残すなど、 霊魂不滅思想が特攻隊や戦死者の遺書の中に数多く見られるのはこのためであろうか。

イ 散華の美化と神道

 突発的に猛威を奮う台風や洪水などのためか、 日本人の抵抗はある限界を越えると猛烈となるが瞬発的で、 また突発的であり、 日本では「反抗や戦闘は猛烈なほど賛美されるが、しかし、それは同時に執ようであってはならない。きれいに諦めるということは、猛烈な反抗・戦闘を一層嘆美すべきものたらしめる(前掲、 和辻、 163頁)」のである。 このように日本人の戦い方は台風のように激烈ではあるが「台風一過秋晴れ」という日本の天気のように、 その戦い方は淡泊でなければならず、 その死は桜のように潔くなければ賛美されなかった。 そのため、 敗れて敵に捕えられ屈辱を受けるよりは自分の意志で、 しかも困難な死に方を選ぶ切腹に代表される武士の「散華の美化」という独特の死生観が生まれた。この「散華の美化」を代表しているのが、 敗戦4ケ月前に豊田福武連合艦隊司令長官から戦艦大和の沖縄出撃に際して発せられた、 「特ニ海上特攻隊ヲ編成シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ、 帝国海軍力ヲ此ノ一戦ニ結集シ光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揮スルト共ニ、 栄光ヲ後崑ニ伝ヘントスルニ外ナラズ(防衛研修所戦史室編『沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社、 1968年、631頁)」との電報ではないであろうか。

 また、 日本では伝統的な武士道が日本の精神文化を導いてきたためか、 西欧や中国の兵法では合理性や理論性が強調されてきたが、 日本では最古の兵書『闘戦経』では「漢の文は詭譎あり、倭の教えは神鋭を説く」、 「孫子十三編は懼字を免れず」と、 孫子の兵法は「まこと」がないと批判し、 ただ「兵の道は能く戦うのみ」と説かれていた。 それが、 さらに昭和に入ると「国内一般ニ溢ルゝ日本精神復興ノ影響」から、 天皇の神格化が始まり日本が神国となると、 「神武の国であり『まこと』の国」の戦争、 正義の戦争には「『誠』ノ体得ニヨリテ宇宙ノ本体ヲ理解シ、 之ニ帰一スルコトニ依リテ始テ完璧ヲ得ルモノトス。 『誠』コソハ兵術ノ総テノ根本ヲナスモノナリ(徳永栄「戦略講義録 上」海軍大学校、 1935年、 14頁)」と勝敗を度外視し、 ただ「正々堂々」と「誠」をもって戦うべきことが強調された。 そこに「技法の末端よりは心の据え方」、 勝敗を度外視した「非理法権天の諦観」が生まれ、さらに、 第二次大戦ではアジア民族の解放などという聖戦意識も加わり、 「悠久の大義」という価値観となり「特攻」に昇華されたのであった。

 一方、 鈴木大拙は宗教の観点から『世界』(昭和21年3月号)に「特攻隊」という一文を乗せ、 「神道には各種の武神はあるが大慈大悲の観音菩薩がない。 敵を殺す神はあるが、 敵を救う神はない。 このため敵に向かえばいかなる形式にせよ殺傷さえすればよいということになり、 これを味方に向けると『武士道とは死ぬことと見付けたり』という思想になる。 戦前の日本では神道思想が過度に重視されたため、戦争は一途あるのみとの思想となり、それが特攻隊となったと述べている。

(2)大家族国家の強烈な愛国心
ア 大家族国家

 日本人に「特攻」攻撃を可能とさせたものは何んであったのであろうか。 「特攻」攻撃開始の契機となったのは搭乗員の絶対的不足、 訓練不足による練度の低下、 その結果としての犠牲の増大、 それに反比例する戦果の低下により「そこで、 特攻、 体当りということが誰いうとなくみんなの頭に考えられるようになった」という(草鹿龍之助『連合艦隊参謀長の回想』和光堂、1979年、 293頁)。 しかし、 国民性という視点から見るならば、 「特攻」攻撃を可能とした精神的基盤は、 稲作民族の体質から生まれた大家族主義に総てが凝縮されているように思われる。 すなわち、 稲作民族が構成する水平的広がりが「ムラ社会」であり、 歴史的垂直的構成が「タテ社会」であるといわれているが、 「ムラ社会」では稲が水を必要とするところから、 水路を通じて強く結び付けられ移動が困難なところから定住し、 そこに運命共同体的な一体感が生まれ、 個人よりも集団を重視し、 個人の集団に対する忠誠心を重んじる社会制度を発達させた。 稲作によって結ばれた「ムラ社会」は閉鎖的で強い郷土意識を特徴とするが、 日本の場合は東南アジア諸国と異なり、さらに、 この「ムラ社会」に島国的特性も加わって、 一民族・一言語・一国家という世界史上に類を見ない極めて均質的な家族国家を形成した。

 しかも、 この日本民族は欧米諸国の遊牧・狩猟民族を祖先とする国家と異なり、ある部族が他部族を侵略して奴隷のように支配する、 支配階級と支配者に生殺与奪の権を奪われた被支配階級とからなる階級構造をもたなかった。このため被支配者の力に訴えて服従を引き出す支配体験はなく、 同質の人間のみによる「ムラ」の共同体的集団原理をそのまま国家レベルに昇格させてしまった。

 また、農耕社会では狩猟社会とは異なり、 新しい技術や発想よりも経験が優先されるところから長老支配が生まれ、 家の中では家長の絶対的な支配という家族制度が発達した。 この家長の絶対支配、 家長への服従は時代とともに変化拡大し、戦国時代には主君に対する忠誠心へと進んだが、 さらに近代明治国家が誕生する家長の支配体制は天皇に集中され、 「一国全体が一大家族として天皇をその家族と仰ぎ奉る(陸・海軍省編『勅諭奉戴五十年を迎え奉りて』陸・海軍省、 1932年、 45頁)」と、 国民の総てが「皇祖皇宗を共同の祖先」とす天皇を国家の家長、 国民の総てが天皇の赤子とする天皇崇拝が家族意識を総動員した祖先教の形で定着した。 そして忠誠心が天皇を核とする国家に集中され、 これに島国的「ムラ」社会から生まれた強い同族意識と同族愛が、 国家への愛国心となり、この家族国家のために個人の生命を捨て得る特攻隊を生んだのであった。

次は『太平洋戦争特別攻撃隊遺芳録』に掲載された特攻隊員の遺書中の表現を項目毎にまとめたものであるが、 これらの項目中の祖国、両親、 悠久の大義、 天皇に触れたものが138名、49パーセントに達しており(長嶺秀雄『日本軍人の死生観』原書房、 1982年、 154ー155頁)、 特攻隊隊員が生命を捧げたものが天皇に表徴される家族(国民)、 家(国家)であり、 特攻隊への動機が大家族主義にあることが理解できるであろう。
      項目  人数 比率
皇国(祖国・民族) 44名 16%
両親(感謝・お詫び) 36名 13%
悠久の大義(永遠・不滅) 29名 10%
天皇陛下 29名 10%
任務(奉公・必勝) 22名  8%
名誉・栄光 22名  8%
魂(霊魂) 19名  7%
武人の本懐 17名  6%
後続(信じる・頼む) 16名  6%
無心(平常心・淡々)  7名  3%
美しい死(桜)  7名  3%
七生報国  5名  2%
(複数回答である、 また人数の少ない項目は削除した)。

  最初に「特攻」を命ぜられた関行男大尉は同盟通信社の小野田政記者に「ぼくは天皇陛下のためとか、 日本帝国のためとかで行くのではない。 KA(海軍の隠語で妻のこと)のために行くのだ。命令とあらばやをえない。日本が敗れたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。 ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしだろう(森本忠夫『特攻 外道の統率と人間の条件』文芸春秋社、1992年、 123頁)」と答えたというが、 これも天皇陛下、 国家、 民族、 家族という価値の円と同心円の関係、 すなわち大家族主義の延長線上にあるのではないであろうか。


イ 武士道と忠誠心

 「ムラ」社会の家長への忠誠は中世の武士社会では主君への忠誠心として広く国民の中に根付き、 また武士社会では忠誠心を発揮するために死を恐れることが最も恥じるべきこととされ、 「武士道というは死ぬ事と見付けたり。 ......別に仔細なし。 胸すわって進むなり。 図に当らぬは犬死などということは上方風の打上りたる武士道なるべし」との『葉隠れ武士道』に表徴される逃げることの出来ない厳しい掟を生んだ。そして、 忠誠心を最大限に発揮する手段とし「死」して主君に尽くすことが武士道の華として武士社会を律し国民の称賛を得てきた。 特に楠木正成の湊川への出陣、 敗北後における一族の集団自決は「義に殉じた武人の潔さ」として、 『太平記(第16巻)』に「智仁勇ノ三徳ヲ兼テ死ヲ善道ニ守リ、 功ヲ天朝ニ播事ハ自古至今正成程ノ者ハ未有」と称賛され、 その後も『梅松論』や『日本外史』称賛されてきたが(谷省吾「楠公敬慕」『神道言論』皇学館大学出版部、 1984年)、昭和に入ってからも楠木正成に「何か美しい、 純粋な、 爽やかな、 澄んだ、 すきとほったもの」と感じて、 武者小路実篤はその伝記を書いている(武者小路実篤『楠木正成』講談社、 1927年、 366頁)。

 現在では正成が「金剛隊」「菊水隊」「七生隊」「建武隊」など特攻隊の名前に結び付き、 正成の死が天皇への殉死であったため、 乃木大将夫妻の殉死とともに無視されている。 しかし、 白虎隊の自害や忠臣蔵の主君の仇討ちが、 今に至っても多くの国民の心をつかみ、 崇敬と支持を受けていることから、 忠誠心賛美と死の美意識が日本人の源流として流れ続けているのではないであろうか。 この忠誠心は明治に入り近代的軍隊が誕生するとると、 「軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本文トスベシ」と天皇に集中され、 軍人は「只々一途ニ己ガ本分ノ忠節ヲ守リ義ハ山嶽ヨリモ重ク死ハ鴻毛ヨリモ軽シト覚悟セヨ。 其操ヲ破リテ不覚ヲ取リ汚名ヲ受クルナカレ」との軍人勅諭となった。

  さらに昭和に入ると「忠節の徳は我等が日本国民たる一切の価値を総合するものであるから、 この徳を欠かば国民にして国民にあらず。 人にして人にあらず。 自我一切の価値を喪失するものであって、 天地の間、 更に人として身を措くに処がない。 故に、 この徳の為には代えるに他の何者を以てする事も出来ない。 忠節の本分は即ち国民の大義であって、 此以上の義はないのであるから、 この忠節の義の為には『義は山嶽よりも重く死は鴻毛より軽し』と覚悟すべきは当然の事である」と教えられた。 そして、 それが特攻隊となり玉砕となったのであった。また、 正々堂々と戦うことが武士道では要求され、 そこに、 他人が助力しない「一騎打ち」の思想が、 また弱者が強者に対するには生死を賭した「肉を切らせて骨を切る」劍法が生まれた。 この武士道から生まれた「一騎打ち」の思想と、 弱者の劍法から生まれた「相打ち」の思想も、 特攻隊を可能とした一要素ではなかったであろうか。

(2)恩と恥の意識

 アメリカの社会学者ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)は、 日本人の戦い方について恩と恥の観点から論じ、 日本では恩とは情けをかけることであり、受けた方が有り難く思うべき行為で、 親の恩に対する感謝として孝、 天皇に対する感謝として忠が強調された。 そして、 カミカゼ搭乗員は皇恩(天皇の恩)に報じたのであり、 太平洋の島々で玉砕した兵士は生命を捧げることによって天皇への恩を返したのであったと述べているが(ルース・ベネディクト『菊と刀ー日本文化の型』社会思想社、 1967年、 117頁)、 軍隊では「国と自我とは全と分との一体関係を為して居る。 其の一体関係において国の大なる生命愛が、 自我の分を成り立てている事を国恩と称するのである」。 「分の愛が其の本源たる全に通い還って行く事を国恩に報ゆると称する」などと、 国家と個人の関係が教えられた(単理章三郎『軍人勅諭述義原論』海軍省教育局、 1931年、 52頁)。 そのためか、 関行男大尉は「本日帝国のため、 身を以て母艦に体当りを行い、 君恩に報ずる覚悟です(北川 衛『あゝ 特別攻撃隊ー死を賭した青春の遺書』徳間書店、 1967年、 6頁)」との遺書を残している。

 一方、恥とは世間にたいして面目、 名誉を失い家族に不名誉を与えることであるが、 日露戦争時に旅順港の閉鎖作戦に決死隊として参加した広瀬武夫中佐は、 長兄宛に「弟ハ天祐ヲ確信シ再ビ其成功ヲ期スルト共ニ、 武士トシテ決シテ家声ヲ汚スコトナキ自信(広瀬武夫『広瀬武夫全集』下巻、 講談社、 1941年、 378頁)」があるとの決別の辞を送ったが、 特攻隊員の遺書にもこのような表現が多々見られる。このように稲作社会の日本では移動が困難なたことから、 世間体や名誉を過度に重視する独特の恥の文化が育ち、 「他人がどう自分の行動を判断するか」、 「他人にどう評価されるか」などの「みてくれ(名を惜しむ)」が過度に意識されてきた。この国民性を利用して明治の軍隊は「軍人に賜りたる勅諭」で、 「操ヲ破リテ不覚ヲ取リ汚名ヲ受クルナカレ」と諭したが、 昭和の軍隊は太平洋戦争開戦直前の昭和16年の「戦陣訓」では、 さらに「恥を知る者は強し。 常に郷党家門の面目を思い、 愈々奮励して其の期待に答ふべし。 生きて虜囚の辱を受けず。 死しして罪禍の汚名を残す勿れ」と捕虜になることを否定した。

 このため西欧の軍隊では戦死者が兵力の4分の一から3分の一に達すると、 部隊としての戦闘力を失うことから降伏するのが当然とされ、 戦死者と捕虜の比率は1対3から1対4が普通であるが、 日本軍のビルマ戦線での戦死者と捕虜の比率は142名対1万7166名(1対121)、 しかも142名中少数を除いて総てが負傷者か気を失しなっていたものであり(前掲、 ベネディクト、48頁)、 捕虜の自殺者もヨーロッパ戦線では100人中4人しかいなかったが、 太平洋方面では100中29人であったという(エドウィン・ライシャワー『ザ・ジャパンニーズ・トウディ』文芸春秋社、 1990年、 77頁)。

 また、 特攻隊への志願について言えば、他人の評価を過度に意識する世間体という拒否・選択を許さぬ「ムラ」社会の体質が、 隊員(陸軍の調査)の三分一が特攻隊を希望していなかったにも拘らず(生田淳『陸軍航空隊特別攻撃隊史』ビジネス社、 1978年、 210頁)、 志願による「特攻」という「十死零生」を若人達に、 自分の意志に反して志願させたのではなかったであろうか。

(3)母性国家のヒステリー症
ア 集団エクスタシー現象


 会田雄二氏は日本が「産ぶなす国」の農耕国であることは、 「産む」という行為に高い価値観を与え、 この価値観が日本人の思想を女性的にしたと、 日本を女性国家と規定した。 そして、 女性国家の特質の一つに女性特有のヒステリー的国民性があり、 このヒステリー症の特徴として周囲の状況や自分の立場、 能力など、 いわゆる客観的条件を無視した願望や要望をし、 しかも要望達成の準備や努力を一切せずに要望が即座瞬間的に満たされないと荒れ狂う傾向があると指摘している。 また、 同氏はヒステリー体質の人間は本質的に「勝気」であり、 この「勝気」の性格から日本人は絶えず他人に負けまい、 人に遅れを取るまいと焦り、 虚勢をはる傾向があるが、 「勝気」人間の何よりの弱点は自主性がなく扇動に乗り易く、 一人の時には弱く柔順であるが集団となると一気に強気となって、 一定の方向に突き進む集団的ヒステリー症を呈すると述べている(会田雄次『リーダーの条件』新潮社、 1979年、 68ー72頁)。

 このようなヒステリー症からか、 日本人の戦い方はある程度までは耐えるが、限界を越えると敗戦直前の1945年6月8日裁可の「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」のように、 「七生尽忠ノ信念ヲ源力トシ地ノ利、 人ノ和ヲ以テ飽ク迄戦争ヲ完遂シ、 以テ国体ヲ護持シ皇土ヲ保衛シ聖戦目的ノ達成ヲ期ス(参謀本部編『敗戦の記録』原書房、 1967年、 226頁)」と、 合理的打算や戦力比などを無視し、 「信念ヲ源力」とし精神力を前面に、 「もうこれまで敵に一矢を」と勝敗を度外視した窮鼠猫を噛む行動をとることが多い。

 そして、 ドイツの敗北が確定的となった、 1945年4月30日に裁可をえた「独屈服ノ場合ニ於ケル措置要領」では、 さらに「一億特攻ノ戦ニ徹シ必勝施策ノ急速具現ヲ図ル(前掲、 252頁)」と、 国民総てを特攻化し竹槍訓練が始められた。一方、 国民の間には「どうせ死ぬなら早く死にたい」、 「美しく死にたい」という日本人特有の散華の美化も加わって集団エクスタシー現象が出現し、 それが玉砕となり「特攻」となって死を急がせたのかもしれない。 すなわち、 「特攻」攻撃も初期には一殺必中の効率を期待し、 戦果もそれなりに高かったが、 後期になると技量の低下と、 米軍の防御対策の向上によってフィリピンで「特攻」攻撃を開始した時には、 奏効率は27・1パーセントであったものが、 沖縄では13・4パーセントと急速に低下していた(『日本海軍航空史 (1)用兵編』時事通信社、 1970年、 513頁)。 しかし、 その時には敗戦色の漂う中、 感情や雰囲気に支配され、特攻は「戦果」よりも「死」を重視する方向に変わっていたのであった。

イ 集団自決

 朝海浩一郎駐米大使が太平洋戦争中の日本軍の戦死者が、 アメリカ軍の九倍から十倍もあった理由をアメリカの軍人に尋ねたところ、 「戦闘初期には両軍の損害に大差はなかったが、 戦況が不利になると日本軍は「バンザイ突撃」を繰り返した。「バンザイ突撃」はなんとなくざわめいているので予測ができるので、 機関銃を並べて待ち構え、 攻撃してくる日本兵に屍の山を築かせた。「バンザイ」突撃は高度に機械化さられた相手には殆ど効果がないのに、 日本軍はそれを繰り返した。後退して後方の味方と合流すれば勢力が強化され抵抗力も増すのに、 なぜか日本軍はそれをせず分断殲滅された(朝海浩一郎「私の履歴書」「日本経済新聞」1988年3月6日)」と答えたという。

 しかし、 なぜ、 日本軍はこのように死に急いだのであろうか。 集団自決現象は十八世紀のロシアにおけるラスコール派キリスト教団の集団焼身自殺、 最近では南米の密林で発生した新興宗教の集団服毒自殺などがあったが、 このような集団自殺は大体において、 その時代やその地方の一般の常識から逸脱した行動と考えられている。しかし、 日本では武士団が集団的に自殺することを狂気とは見なかった。「ムラ」社会主導の日本の精神史の歴史は、 一団となって目的に驀進するという生き方を育て、 そこから「共生同死」の団結を生んだ。 このため落城とともに主要な家臣が集団で自害した例は歴史上に多数あったが、 第2次大戦においてもサイパンや沖縄で生活を共にしてきた住民が婦女子を含めて集団的に自決している。

 これは日本人の集団の中で、 共に生き共に死ぬことに「安心立命」を覚える「ムラ」意識から生まれたもので、 強い集団指向が「死に場所」を自分の属する集団と結び付け、 その集団が滅びるとき、 そこが死に場所となるのであった。 終戦時に自決したものが上は大将から下は一介の兵士まで、 568人に達したという事実がこれを証明しているであろう(額田担編『世紀の自決』芙蓉書房、 1975年、 4頁)。 このような現象は世界共通ではあるが、 特に日本人は生死を共にする集団の大多数が運命的な死を遂げる時、 一人でけ生き残ることに強い罪責感を持つからでもあった。 このため日本兵は戦友や同僚といった生死を共にして来たものが死ぬと、 しきりに突撃し死に急いだという。

2 アメリカ海軍の特攻対処

 合理性を重視し総てをプラグマチックに考える国民性のためか、 アメリカ人には特攻隊を理解できなかったのであろう。 終戦後に来日した戦略爆撃調査団は「特攻隊攻撃は強制的にやらせたのではないか」、 「特別な特攻隊隊員の養成機関を設立したのではないか」と繰り返し質問したという(猪口力平・中島正『神風特攻隊の記録』雪華社、 1963年、 186ー190頁)。 確かに、アメリカ軍にとり「特攻」攻撃は、 西欧の観念が発生して以来初めて目撃したショックであり、 第58機動部隊司令官のハルゼイー(William F. Halsey)少将は計画的自殺攻撃の背景に潜んでいる心理は、 われわれにとって、 あまりにも受け入れがたいものであった。 生きるために戦うアメリカ人にとって、 死ぬために戦うというという事実を認識することは困難であった。 「ハラキリ」の伝統があるとはいえ、 日本軍が多数の特攻隊志願者を集めることができるとは、 われわれには信ずることができなかった。 しかし、 翌日に神風特攻機が2隻の空母フランクリン(Franklin Roosvelt)とベリューウッド(Belly Wood)に命中したとき、 この考えを厳しく修正された(E・B・ポッター『キル・ジャップーブル・ハルゼー提督の太平洋戦争』光人社、 1991年、 498頁)、 とアメリカ軍は「特攻」攻撃に最初は狼狽した。

 しかし、 アメリカ海軍は「特攻」攻撃に対して日本軍飛行場の攻撃や日本機が飛び上がれないよう24時間飛行場上空に戦闘機を配備するため、 空母搭載の急降下爆撃機を半分以下に減し、 代わりに艦上戦闘機を2倍以上に増加した。 一方、低下した攻撃力はヘルキャットやコルセア戦闘機に900K爆弾を搭載できるように改造し、 空母としての戦力を維持するとともに、 反撃手段として対空砲火と空中哨戒機を集中するため、 機動部隊の空母群の数を従来の4グループから3グループに減らし、 さらにレーダー装備の駆逐艦を特攻機の来襲方向の前方60海里に配備し、 早期警戒と帰投機のチェック・ポイントとした。 しかも、 このレーダー警戒艦には直衛機を付け、味方航空機が攻撃から帰投する場合には必ずこのレーダー警戒艦の上空を旋回後に空母に帰投させることとして、 帰投機に紛れて侵入する特攻機を捕捉撃墜する戦法をとった(C・W・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋戦争』恒文社、 1966年、 403頁)。

 また、 大学教授などを動員したOR研究班を沖縄沖の第3艦隊に派遣し、 これら科学者に特攻機に狙われた場合、 火力を発揮して特攻機を撃墜したほうがよいのか、 火力発揮をある程度犠牲にしても、 回避運動を行なったほうか被害を減少し得るのかという問題までも検討させ、 現場に派遣された科学者はあらゆるデータを集め次の数値をえた。

      旋回運動と被弾との関係            
旋回運動をした場合
の被体当たり率
旋回運動をしなかった場合の被体当たり率
大型艦      22%      49%
小型艦      36%      26%
    旋回運動と対空砲火命中率との関係
旋回運動をした場合の対空砲火命中率 旋回運動をしなかった場合の対空砲火命中率
大型艦      77%     74%
小型艦      59%     66%

 そして、 OR班からは「特攻」攻撃を受けた艦艇の対応策として次ぎの結論が報告された(柳田国雄「零戦燃ゆー本土決戦編」『別冊 文芸春秋』第184号、 1988年夏)。

  1 戦艦、巡洋艦、空母は特攻機に狙らわれたら急速回避運動をすべきである。 急速旋回運動をすること    により被体当り率は49・7パーセントから22 パーセントに低下する。 また、 急速旋回運動をした方が    対空砲火の命中率 も74から77パーセントに向上する。
  2 駆逐艦などの小型艦艇は急速回避行動をすると、 対空砲火の命中率は7パ ーセント低下する。 しか    し、 被体当り率は10パーセント低下できる。

 このように日本軍の精神力を発揮した「特攻」攻撃に、 アメリカ軍はレーダーピケット駆逐艦、 要撃機の配備、 OR手法の利用などアメリカ人の伝統的国民性である科学的プラグマティズムで応じたのであった。

おわりに
(1)特攻隊は日本だけのものか

 「十死零生」の「特攻」攻撃は日本だけのものであろうか。 第二次大戦末期のドイツで、 女性飛行家ライチュ(Hanna Raiche)の提唱により英米の爆撃機に対して何度か体当りをした例があり、 ソ連にも独ソ戦争の初期にドイツ爆撃機や戦車に体当りした8人のソ連飛行士があった。 また、 戦後にはパレスチナ・ゲリラが航空機のハイジャック、 レバノンのアメリカ海兵隊司令部へ爆弾を搭載した自動車で突入するなど、 特攻的「十死零生」の自殺攻撃を繰り返しており、 この点から「特攻」攻撃が日本民族だけに特有なものではないともいえよう。 しかし、 これら「十死零死」の「特攻」攻撃と日本軍の「特攻」攻撃が大きく異なる点は、 日本軍の「特攻」攻撃が武器・戦術の開発から、 特攻隊の編成まで組織的計画的に、 そして大規模に部隊単位に実施されたことであった(小沢郁郎『特攻隊論 つらい真実』たいまつ社、 1978年、 8頁)。

 前述の例の中で、 アラブ・ゲリラの「十死零生」的テロ行動が数量的にも、 動機的にも日本の特攻隊に近いように思われるが、しかし、 アラブ人になぜ、 「特攻」攻撃ができるのであろうか。 それはアラブ人の風土から生まれた日本人と共通する強固な部族意識と、 その死生観・宗教観にあるように思われる。アラブ人は最も乾いた不毛の砂漠を生活空間とし、昼間は50度を越す灼熱の酷烈な自然の中で、 オアシスをめぐる闘いに勝たなければ水が得られず、 敗れればその瞬間に死と対決しなければならなかった。 このようなオアシスをめぐる争いから運命共同体としての強力な仲間意識、 部族としての強固な団結が生まれ、 それが宗教にまで昇華した。

 すなわち、 回教ーイスラムという言葉は「献身」を意味し、 聖典コーランではジハード(聖戦)という形で戦争を義務の一つと取り上げ、 転進と合流以外の目的で敵に背中を向けるものはアラーの怒りを受け、 地獄に落ちると脅かし、一方、アラーのために戦うものは、 たとえ死でも素晴らしい褒美が授けられ、 死後はアラーのそばに養われて生きるので死者とは考えられないと教えている。 この仏教と通じる輪廻の「死後の楽園」思想がアラブ人の死への恐怖を取り除き、 アラブ兵士の勇気を鼓舞し、 ここにパレスチナゲリラが「十死零生」のテロ攻撃を繰り返し得る原動力となっているのではないであろうか。

(2)特攻隊はまた生まれるか

 日本で出版された特攻隊に関する本はおびただしいものがあるが、 多くは否定的であり、 「特攻」を敢えて実行した指揮官たちを痛烈に非難し、 無謀で狂気の沙汰と断定している。 確かに、 非合理的であり非人間的であり、 「特攻」を容認することはできない。 しかし、 このように「特攻」攻撃を非難してみても、 私は日本人の国民性が変わっていない以上、 良かれ悪かれ特攻隊は再び状況が変われば、 再現されると考えざるを得ない。確かに戦後、アメリカ軍によって行われた占領政策が日本人の価値観を大幅に変えたようにみえる。しかし、 戦後の日本人の思想を揺るがした大改革にもかかわらず、 現在でも至るところに見られる同窓会への求心や会社への忠誠など、 日本民族の原点である「ムラ」意識に変化は少ない。 また、 「単独講和反対」「安保反対」「消費税反対」「PKO反対」とただ感情のままに、 言葉に酔いムードに反応して集団ヒステリー現象を続けてきた日本の戦後史を見るかぎり、 日本民族の集団ヒステリー症も、 また、 かってドイツの電撃的勝利に「大転換必至の帝国外交(朝日新聞昭和15年7月13日)」「外交一新の要請は国民的信念にまで高揚(毎日新聞6月22日)」と、 日本を三国同盟のバスに乗せてしまった新聞の煽り現象も消えていない。

 このように日本民族に集団ヒステリー症があり、 それを扇動し発行部数競争に血道を上げる新聞があるかぎり、 情緒やムードに振り回されていながら自分は全く理論的だと信じ、絶対にその非を認めないという致命的欠陥が、 いつかは表面化しないであろうか。 かって、 日本は世界に通用しない日本を家長とした大アジア主義の「八紘一宇」、 「アジア人のアジア」の「大東亜共栄圏」を唱えて世界の孤児となり、 「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏の建設」などという「悠久の大義」に殉じたが、 今後も自己のみに通じる価値観に頑なにこだわり、 ムードに流され「やるしかない」をモットーに、 再び集団ヒステリー症を発揮して「神風特攻隊」となり「玉砕」となるこのはないであろうか。

 ロベール・ギャラン(Robert Guillain)は、 『第三の大国日本』(朝日新聞社、 1971年)において日本の発展を称えたあと、「日本は何時、どこで予想外のことが飛び出すかわからない国である。........日本は急激な転換をしやすい国であり、それは過去百年の歴史を概観しただけでわかる。少なくとも重大なシヨックを受けると、昨日まで賛美していたものを今日は焼き払ってしまうことができる。.....だいたいは同じようなやりかたであるが、 思いもよらない爆発を起こす国である。 その原因が日本国民をとり囲んでいる自然ー地震、 火山、 台風ーの影響によるものか、 それとも彼らに霊示を与えている哲学ー仏教・禅・神道等によるものか、 誰もわからない。 長い沈黙と忍耐のあと、 いきなり電撃的な行動の稲妻が発生する。 そして旅順となり真珠湾になったりする。 忍耐強いこの国民が突然しびれを切らすのを知り、また、その上に個人がしばしば日本では「瞬間主義者」であり、状況のままに変身したり、 大衆としては時に極めてパニュルジュの羊(付和雷同的)でだったりすることを知るとき、何時かは事故を起こすのを心配しなくてはならないのではなかろうか」との警告を紹介して本論の結びとしたい。