「孫子の兵法」と日本海軍
1 明治期(1867ー1912年)の海軍と孫子

8世紀後半に留学僧の吉備真備によって伝えられた「孫子の兵法」は、 その後数々の流儀に分かれて江戸時代へと伝わったが、 明治の政府指導者や軍事指導者に伝わったのは、 五事・七計および詭道を重視した山鹿素行の流れを汲んだ吉田松陰の山鹿流武学、 薩摩藩の徳田 興の合伝流武学であった。 しかし、 明治維新によって生まれた新陸軍は創設期にはフランス、続いてドイツから新海軍はイギリスから武器とともに兵術を取り入れ西欧化による近代化を急いだ。 創設期の陸海軍は武器の操法やその戦法の習得に追われていたが、 特に海軍はこの時期、 帆走軍艦から汽走軍艦、 木造軍艦から鉄製軍艦、 前装式滑腔砲から後装式旋条砲への転換期にあり、 さらに魚雷や潜水艇の発明などが続いたため、 日本海軍の主たる関心は列国海軍同様、 新式武器の用法やそれにともなう戦術など主として術科や戦術の分野に止まっていた。
1888年8月に海軍大学校が創設され、 兵術教官の島村速雄少佐(後の大将、海軍大臣)が日清戦争(1894ー1895年)の体験に西欧の戦略や戦術を加味して教育を開始したが、
この時期は確固たる海軍戦法は確立されておらず、 主たる研究は陸軍戦略や戦術の海軍戦略戦術への適用であった。
1903年に海軍大学校専攻科学生となった八代六郎大佐(後の大将、 海軍大臣)は、
課題対策としてジョミニーの『兵術要論(Art of War)』、 イギリス陸軍少将ハルトの『兵術回想録(Recollection
on the Art of War)』を『兵術精髄』として摘訳抄録したが、 八代大佐はその緒言でこれら2書を「熟読玩味し原理原則を咀嚼消化し、
これを実践に活用するを得るならば、 その人は必ず名将となることができる(1)」と、
ヨーロッパの陸上戦略や戦術を高く評価していた。 しかし、 この『兵術精髓』の各所には西欧の兵法と孫子・呉子・三略などとの対比があり、
その名言が多数引用されており、明治海軍の戦略・戦術の創設者が中国の兵法に関する深い知識に裏付けされていたことを示している。
創設初期の混沌とした海軍兵学を脱却し、 明治海軍の戦略戦術の基礎を形成したのが佐藤鉄太郎(のちに中将、
舞鶴鎮守府長官、 海軍大学校長)と秋山真之(のちに中将、 軍務局長)であった。
佐藤は主として国家戦略や海軍戦略の分野で、 秋山は海軍戦術、 戦務などの分野で日本海軍の基礎を作った。佐藤はアメリカ・イギリスに留学し、
戦史を研究して多数の名著を残したが、孫子を「古今東西の兵書中、 戦略を論ずること最も宏遠であり、
しかも良く徹底して研究した好著である(2)」。 「深奥な兵理を悟り雄大な、 しかも威力ある訓戒に接しようと欲するならば(中略)孫子や三略のような大作(3)」に学べと高く孫子を評価し、
自身で『意訳孫子』を書くほ「孫子の兵法」や中国の兵術を深く研究していた人物でもあった。
佐藤は海軍大臣山本権兵衛の命を受けて、 陸主海従の思想を打破するため1902年に『帝国国防史論』を著述し、 同年10月28日に明治天皇に捧げたが、 佐藤はそののち史例を追加し1908年9月に『帝国国防史論』として脱稿した。 佐藤は「国家が軍備の創靭を維持する目的の第一は自衛にある(4)」。 「戦はずして凶暴を威圧し平和を維持し戦争を未萌に防ぐのが国防の真の目的である(5)」、 と孫子の戦わずして敵を屈する「不戦屈敵主義」を奉じていたが、 その国防論は 「海上を制することなく防守の実を挙げ得た前例はない」、 「海上を制するのが帝国国防上先決すべき問題である」との海主陸従の海防論であった(6)。 佐藤は日清戦争に勝ち大陸に発展しようとする当時の世論や陸軍に対抗し、 「帝国国防の本義である自衛の道に照らして、 大陸発展の利害を論ずるとき、 殆どその利益を認めることはできない」。 韓国や満州は「国防上の見地から見れば、 寧ろこれらの地方を捨てる方が利益が多い」のであり、これらの地方は「清人を誘って北門の鎖鑰を厳守させる方法を議じ、 その実行を期すべきである」と主張した(7)。
一方、秋山少佐は1897年に渡米しマハン大佐に師事し、 帰国後は主として海軍戦術や作戦要務を海軍大学校で講じ、
日露戦争(1904ー1905年)には連合艦隊作戦参謀として対露作戦計画を立案したが、
その計画には日本古来の「待ち伏せ」、 「朝駆け」、 「夜討ち」、 「追い討ち」などが適用され、
特に敵前の直角回頭で有名な「T字戦法」は甲越軍記の「車係り」戦法の応用と言われている。秋山は日露戦争後に再度、
海軍大学校で艦隊編成や艦隊運動などについて海戦の体験を加味して講じ、 「海軍基本戦術」、「海軍応用戦術」、「艦隊運動程式」などを作成したが、
これらの講義資料が長らく日本海軍の戦術を律する「海戦要務令」の基本理念となった。
また秋山は「日本は仁義の国であり、 憎悪に駆られ必要以上の殺傷を避けるべきである」との孫子の戦はずして敵を屈する「屈敵主義」を重視したといわれている(8)。
しかし、 秋山が海軍大学校の学生に推薦した古今東西の戦略家10名の中で、 中国の兵家から選ばれたのは孫子ではなく呉子であった(9)。
このように明治海軍は欧米の武器を導入し、 西欧の戦略や戦術を基礎に、 孫子、呉子、三略などの中国古来の兵法や日本古来の海賊の兵法、
日清戦争の体験などを加味して戦術を構築し、 日露戦争では勝利を収めた。 しかし、
明治の軍事指導者はクラウゼビッツ(Carl von Clausewitz)のいう「闘争手段の相互的無限界性、
対敵観念の無限界性」などの教義は適用しなかった。 日本海海戦に勝ち奉天で勝利すると、
大山巖は満州軍の実情を政府首脳に訴え停戦を進言し、 日本はアメリカの調停を受けて講和を結んだ。日本における代表的孫子研究家である佐藤堅司氏は、
断言し得ないが明治政府のこの対応の背後に、 孫子を源流とした合伝武学が西郷従道、大久保利保、大山厳、川上操六、伊東祐亨、東郷平八郎などに、
また山鹿流兵学が伊藤博文や木戸孝充などの政府指導者に影響し、この政府決定となったのではないであろうかと述べている(10)。
2 大正期(1913ー1926年)の海軍と孫子
明治末期から大正初期に入るとマハン(Alred Thayer Mahan)によって、 国家の盛衰と海上権力(Sea
Power)の優劣との密接不可分の関係が立証され、 海上権力が国家政策を支援する道具としてその価値が着目されるに至り、
海軍の関心は列国同様に大艦巨砲による制海権の確保へと進んでいった。 一方、
戦術的には「先制集中」、「攻撃優先」、「見敵必戦」などのイギリス海軍の戦術思想が日本海軍を支配し、
大艦巨砲時代を反映して艦隊編成、 その陣形や運動法などが主要な関心事となった。しかし、
第1次世界大戦を境に日米の対立が顕著化し、 さらにワシントン条約やロンドン条約によって、
劣勢な兵力で優勢な兵力に当たらなければならない状況となると、 海軍は巡洋艦や駆逐艦などを主体とする水雷戦術、
味方の全力の「実」を以て敵の「虚」に乗じ、 「奇」を以て勝つ奇襲や夜襲などの「奇法戦法」が重視されていった。
一方、 ベルサイユ講和会議を経て、 世界の三大海軍国となると大国意識も生まれ、
日本独自の戦略・戦術を構築しようとの空気が高まり、 日本古来の兵学や中国の兵法が見直されるに至った。大正6年に「今日の如く西洋思想に独り冽漫して、
東洋の文物を閑却せむとする(11)」傾向があることを憂慮した陸軍中将落合豊三郎が『孫子例解』を完成すると、
海軍はこれを教育常備図書に指定した。 海軍教育局の図書配布基準によれば『孫子例解』『海軍戦略(マハン)』『戦争論(クラウゼビッツ)』の配布区分は下表の通りで、
『孫子例解』は駆逐艦以上の全海上部隊、 学校や各鎮守府など総ての陸上機関や部隊に配布されていたが、
『戦争論』や『海軍戦略』などは学校などの教育機関や各鎮守府文庫と戦隊以上の海上部隊の司令部にしか配布されなかった(12)。
常備図書配布区分
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軍艦 |
駆逐艦 |
隊司令部 |
艦隊・戦隊 |
学校 |
陸上部隊 |
鎮守府文庫 |
孫子例解 |
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
海軍戦略 |
○ |
|
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
戦争論 |
|
|
|
○ |
○ |
|
○ |
この配布区分が示す通り、 海軍は大正から昭和初期には孫子をマハンやクラウゼビッツ以上に重視し高く評価していた。
また、 この配布区分は西欧の戦略や戦術を身につけた日本海軍が、 新しい戦略戦術を考究しようとしていた強い意欲を表徴しているようにも思われる。
事実、 1919年には太平洋を横断して来攻するアメリカ艦隊に対して、 潜水艦や航空機による攻撃を反復繰り返し敵勢力を漸減する。 さらに敵艦隊が決戦場に入るや高速戦艦が護衛する水雷戦隊をもって夜戦を決行し、敵艦隊に大打撃を与え夜戦に引き続き黎明以後、
戦艦部隊を中核とする全兵力を結集して決戦を行う対米戦略「邀撃漸減作戦」をほぼ概成していた。
3 昭和期(1926ー1940年)の海軍と孫子
(1)兵術思想と孫子
昭和初期の日本海軍は「支那古兵学、 すなわち七書流の兵学は内容豊富であり西欧流の兵学の及ばない所を補う(13)」ものと位置付けていた。
しかし、 1930年台に入ると海軍の機関誌である『水交社記事』に、 「五輪書を読む剣道」、
「日本の兵法を生かせ」、 「日本古兵術とその特質」などの日本古来の兵法に関する記事が増え、
時代の進展とともに日本兵法は「今や国内一般に溢れる日本精神復興の情勢を受けて我海軍の兵術思想に一大影響を及ぼすに至った(14)」。
海軍大学校では寺本武治少将が日本最古の兵術書である『闘戦経』の講義を始め、
精神的要素の重要性を強調した。
『闘戦経』は大江匡房(1041ー1111年)によって書かれた日本最古の兵術書で、
その内容は仏教、 特に般若思想を基にし、 「漢文有詭譎、倭教説真精」、 「孫子13編不免懼字他」と(15)、
「孫子の兵法」を策謀の書で功利的であり「誠(まこと)」がないと批判したものでもあった。
講義では戦闘において正確な情報が得られるとは限らず、 一刻を争う場合は冷静に究理を尽くす暇はない。
従って戦闘には直感的情勢判断も必要で、 「結局『誠』を体得することによって宇宙の本体を理解し、
之に帰一することによって初めて完璧を得るものである。 『誠』こそは兵術の総ての根本をなすものである(16)」と精神的な直感、
主体的情勢判断が強調され、孫子や西欧の思考に基ずく合理的、 数理的な情勢判断は徐々に軽視されていった。
その後も「孫子の兵法」は戦略や戦術の講義や教科書などにおいて、 戦術の固定化を戒めるために「兵無常勢、
水無常形」などの言葉が、 また情報の重要性を強調するために「知彼知己者、 百戦不殆」などの言葉がしばしば引用された。
しかし、 さらに国粋主義が高まると「孫子は兵戦科学を総合した観があり超理智的最高事象を認めては居る。
しかし、 これに深入りしていない。 『心を清く明るくし、 神を信じて作戦を企画せよ』と教える日本の兵術書(楠妙要)とは程遠い感がある。
此の点から孫子は日本兵法の下にあると見ざるを得ぬない(17)」。 日本は「神武の国であり『まこと』の国」であるので、
日本軍は正々堂々と戦うべきであり、 中国のように陰謀を主とすべきではないなどと「孫子の兵法」を軽視する傾向が強まって行った。
(2)国防観と孫子
昭和に入ると第1次世界大戦の総力戦の影響を受け、 海軍大学校の講義などで「戦争は敵を屈服させて自己の意志を実現するために用いられる暴力行為である」。
また戦争で勝利を得るためには「完全に敵国民又は敵国軍を殲滅するか、 又は敵の領土を全部占領することが必要である」などと(18)、
クラウゼイッツ的な殲滅戦思想が取り上げられるようになった。また、 さらに時代が進むとドイツの生存圏思想が加わり「国防の本義は他国の侵略を防御し、
その非道な圧迫を排除し、 国家の利益名誉を守り安泰を図るにある。 とはいえ国家は自然に発展する性質を持っており、
国家の発展に伴って国利民福を増進させ国是国策の遂行を保証することも、 また国防の目的である(19)」と変化した。
また、 一方「皇軍思想」の高まりから、 国土・主権・国民を守る国防観から「国家体制の変革は必ずしも常に外敵による攻撃を必要としない。
国内的な国民精神の崩壊、 思想の混乱、 階級闘争等による革命に依って行はれるものである。
このため国内的であると国外的であるとを問はず、 国家体制を破壊しようとする者に対する防衛も又国防の一種と見做すべきである(20)」。
「皇軍の本分は、 その頭首と仰ぎ奉る天皇の防護にある(21)」と、 皇軍化の進捗とともに守るべき国防の対象が「天皇」や「国体(国家体制)」へと大きく変わり、
そこにはもはや孫子の合理的兵法を適用する余地はなくなっていた。 一方、 財力、軍事力、技術力において完全に劣る日本が、
西欧列強の軍事力に対して劣勢を補う方策は「月月火水木金金」の訓練と精神力しかなかった。
日清戦争や日露戦争で強大国中国およびロシア軍を敗った日本陸軍が得た結論は、
「勝敗は必ずしも兵力の多少に依らず。 精錬でかつ攻撃精神に富む軍隊は、 よく少数で多数を破ることができる(22)」。
「精神精到で必勝の信念の堅い軍規至厳で攻撃精神が充溢する軍隊は、 よく物質的威力を凌駕して戦捷を完し得るもの(23)」であった。
陸軍は戦力の量的不足を「忠君愛国の精神」と、 その「忠君愛国の至誠から発する軍人精神」と「必勝の信念」に求めたが、
それは海軍も同様であった。 海軍も日本軍の軍紀は「諸外国のように権利義務の観念や利害がからむ打算的な軍紀とは全然その発足点を異にするものであり(24)」、
日本軍の軍紀の根源は「忠という一語を以てあらわすことが出来る」と、 天皇への忠誠心が過度に強調された。
天皇は生き神であり天皇の命令には絶対に従わねばならない。 日本は神国であり必ず神の加護がある。
神国日本の生命は永遠であり、 この国家の一員であり分身である国民に忠節という徳以上の義はないのであるから「義は山嶽よりも重く死は鴻毛より軽しと覚悟」して忠節を尽くさなければならないと指導された(25)。
すなわち日本軍は敵が来れば逃げるという生物である以上は本能的に生を欲する当然の心理、
孫子が敵にとり味方にとり当たり前と考えていた真理を無視し、 敵が来れば「愛国心」を発揮し、
「必勝の信念で迎え撃つ」ことを要求したのであった。 このように人間の心理を無視した非合理的な統率へと変質した日本軍に「聚三軍之衆、
投之於険、 此謂将軍之事也」などという戦場心理を利用した冷酷な、打算的かつ合理的な「孫子の兵法」は無用であった。
4 太平洋戦争と孫子
第2次世界大戦に日本が突入してしまった原因には各種の要素が考えられるが、
海軍が開戦を決意するに至った背景の一つに邀撃漸減作戦への自信と、 ドイツの快進撃への幻惑があった。
1941年6月5日に海軍第1委員会は「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ採ルヘキ態度(26)」という「敵を知らず、
己を知らず」世界を見ざる一人よがりの文書を提出した。 それによれば、 日米の国力や戦力を徹底的に比較検討すべきところを、
「物資の動的真相は多くの要素が複合しているので把握は至難なことであり、 この数的結論だけで国力の実相とし、
和戦決定の唯一の資料とするのは危険である」と逃げ、 結論として「タイ・仏印への軍事進出は一日も早く断行すべきである」と進言し、
この進言を受け日本は7月28日には南部仏印に兵を進めた。 そしてこの結果、 アメリカの対日石油全面輸出禁止の制裁を受けると、9月6日の御前会議で海軍軍令部総長長野修身大将は「アメリカ艦隊を予定決戦海面に邀撃する場合には、
飛行機の活用等を加味すれば勝利の算は我に多いと確信致します」。 第1次攻勢作戦が成功すれば「たとへアメリカの軍備が予定通進みましても帝国は南西太平洋に於ける戦略要点を既に確保しているので、
犯されない態勢を保持し長期作戦の基礎を確立することができます(27)」と上奏した。
また11月1日の和戦を決した政府大本営連絡会議では、 「強い語調で」、 開戦は「今! 戦機は後には来ぬ」と即時開戦を主張し(28)、 11月2日には「敵が短期戦を企図するのはわれわれの最も希望するところで、 邀撃し勝算我にありと確信致しておりますす(29)」と上奏した。 海軍はドイツの勝利に期待するとともに邀撃漸減作戦への過信から艦隊決戦で五分以上の打撃を与えるならば、 アメリカといえども艦隊再建に2ケ年を要するであろう。 そこで敵海上勢力撃破後は、 もっぱら防衛態勢を強化し一層有利な邀撃態勢を確立し、 「敵の進攻に伴う島嶼の攻防戦を誘起し、 われは内線的地の利を得て善戦し、 敵が大損害を蒙って敗退せざるを得ぬ情況に陥れ、 このようにして随所随所に有利な島嶼攻防戦を展開することにより長期不敗態勢を確立することも強ち不可能ではない(30)」。 「対米戦力比率7割の兵力を以てすればすくなとも50パーセントの勝算を以て戦い得る。 (中略) 戦運われにあるならば、 当初の計画では作戦継続期間は2年であっても、 作戦実施の結果によっては2年が3年5年に延伸する可能性もあり得る(31)」と「勝算」を判断したのであった。 もし開戦の決断を下すに際して、 当時の指導者が孫子が最も強調した「兵者国之大事、 死生之地、 存亡之道、 不可不察也」の一句を思い起こし、 「五事七計」を真剣に検討して「勝算」を求めていれば、 「戦わざれば亡国免れずと政府は判断された。戦うもまた亡国であるかも知れない。戦わない亡国は魂までも失った真の亡国であり、 最後の一兵隊まで戦うことによってのみ死中に活を見出し得るであろう(32)」などとの感情的上奏はしなかったであろう。
また孫子の「不知彼不知己、 毎戦必危」を理解し情報を重視していれば、 ドイツのイギリス本土上陸作戦は不可能であり、
東部戦線でも苦戦中であることを知ってドイツの勝利を当てにして開戦することもなかったであろう。日本は「不知敵之情、
不仁之至也、 非人之将也、 非勝之主也」の国家指導者に国政を、 「勝兵先勝而後求戦、
敗兵先戦而後求勝」の軍事指導者に国運を委託し、 「勝算なき」戦争を始めたのであった。
そして、 開戦後は「孫子の説く『五事七計』などは時代の変遷と兵器の進歩などにり、自然に其の計度を異にするから、
一から十まで孫子に拘泥することは禁物である」。 「大東亜戦争は必ずしも算多くして殆めたものでない。
算多くして勝つは凡将といえども勝てる。 算少くして勝つてこそ、 初めて名将の価値が生ずるものである」などと孫子に反する解釈をし(33)、
精神力重視の表徴であり非合理性の表徴である「特攻戦法」へと進み敗北したのであった。
おわりに
第2次世界大戦中に『闘戦経』を講じ、 「さとり」を強調した海軍大学校戦略教官徳永栄少将は、
敗戦後に仏門に入って迷妄を去った後に、 「孫子の兵法」を研究し『孫子の真実』を書いた。
また、 陸軍士官学校出身で防衛大学校の教授となった掘之北重成は『古文 孫子解釈』を、
川野収は『竹簡 孫子入門』を残した。 本研究を通じて強く感じたことは、 「孫子の兵法」を高く評価していた時代の海軍は極めて健全であったが、
孫子軽視が始まるとともに海軍の「おごり」が始まり堕落が始まったということである。
この観点から孫子に対する評価の高低は、その組織・機関の知性のバロメーターであるといえないであろうか。
科学技術の驚異的な発達は核・ICBM・SLBM・巡航ミサイルなどの射程・精度と爆発力を増大し、
現代の武器が戦争の目的自体をも破壊しかねない段階に達し、 ここに抑止戦略の時代が始まった。
この核抑止下の戦争では武力戦の比重を大きく低下させ、 かって戦争に訴えて来た事項を外交交渉や心理戦を利用した戦いへと変えた。
このため思想戦、 心理戦、 ゲリラ戦と戦争が多様化し、 これまでの武器の性能や用法を主とした西欧型の軍事戦略や戦術では対応困難な時代となった。
ここに1発の弾も打たずに敵を屈させる情報・謀略などの知性を力として敵を屈服させる「孫子の兵法」が、
新しい「21世紀の兵法」として大きくクーズアップされ脚光を浴びるに至たった。
註
1 八代六郎『兵術精髓』(海軍大学校、1903年)1頁。
2 佐藤鉄太郎「意訳孫子』(海軍大学校、1918年)1頁。
3 佐藤鉄太郎『海軍戦理学 完』(水交社、 1917年)27頁。
4 佐藤鉄太郎『帝国国防論』(水交社、1902年)1頁。
5 佐藤鉄太郎『帝国国防史論抄』(水交社、1908年)31頁。
6 佐藤鉄太郎『海防史論』(海軍大学校、1907年)24ー25頁。
7 前掲『帝国国防史論抄』547及び554頁。
8 秋山真之会編『秋山真之』(秋山真之編纂委員会、 1933年)325ー330頁。
9 秋山真之『海軍基本戦術』(海軍大学校、1903年)1頁。
10 佐藤堅司『孫子の思想的研究』(風間書房、1962年)439頁。
11 落合豊三郎『孫子例解』(軍事教育社、1917年)2頁。
12 海軍省教育局編『軍事教育図書目録』(海軍省教育局、 1931年)11および20頁。
13 徳永栄『徳永教官述 戦略講義録 上(以後、徳永講義録と略記す)』(海軍大学校、 1935 年)16頁。
14 同上、 14ー15頁。
15 中柴末純『闘戦経の研究』(宮越太陽堂書房、1944年)48および82頁。
16 前掲『徳永講義録』333頁。
17 佐藤波藏「孫子管見」(『水交社記事』、第37巻第3号、1938年9月)29頁。
18 前掲『徳永講義祿』36頁。
19 島田繁太郎『戦略講義』(海軍大学校、1926年)。
20 前掲『徳永講義録』177頁。
21 大西瀧次郎『海軍大学校統率学講義 上巻』(海軍大学校、1937年)27頁。
22 作戦要務令第6条『作戦要務令 軍隊内務令』(日本文芸社、 発行年未記入)2頁。
23 同上、 第2条、 1頁。
24 前掲『徳永講義録』63ー64頁。
25 亘理章三郎『軍人勅諭述義原論』(海軍省教育局、 1931年)85頁および87頁。
26 日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 別巻 資料編』(朝日新聞社、1988年)427ー436 頁。
27 同上、 512頁。
28 同上、 550頁。
29 同上、 554頁。
30 福留繁『史観・真珠湾攻撃』(自由アジア社、 1955年)121頁。
31 同上、 135頁。
32 同上、 137頁。
33 市村久雄「大東亜戦争と孫子(始計編)」(『有終』第30巻第2号、1944年2月)54頁。