佐藤鐵太郎と『帝国国防史論』
はじめに
 

 明治維新とともに誕生した日本海軍は、イギリス海軍の影響を受けながら急速に発 展し、1894年の黄海海戦、1905年の日本海海戦を経て、世界一級の海軍となった。この日本海軍の戦略を決定づけた人物の一人が佐藤鉄太郎であった。そして、日本海海戦によって実力を発揮し、その後の日本海軍の戦略を決定づけた人物のひとりに佐藤鉄太郎がいた。彼は名参謀として知られる秋山真之とともに海軍大学で後進生(とる)して新しい海軍理論を打ち立てていった。彼の思想の生まれた背景と、その思想、その後の日本海軍に及ぼした影響を見てみよう。

佐藤が育った時代の日本海軍

 佐藤鐵太郎は1866年(削除)(慶応2)年7月13日、現在の山形県鶴岡市に酒井14万石の藩士平向勇次郎を父として誕生した。父親が1868年(明治元)に死去したため、佐藤家の養子となり佐藤姓となった。小学校では首席となるなど幼年より秀才の誉れも高く、明治17年、そのころまだ築地にあった海軍兵学校に6番の好成績で入学をした。佐藤が海兵を志望したのは、林子平の「海国兵談」を読み感銘を受けたからとされている。同期(海兵14期)には鈴木貫太郎などがいたが、そのなかで「頭脳は佐藤」と呼ばれて学術優等及品行善良褒賞を受けている。明治20年に兵学校を卒業した佐藤は筑波に乗艦し北米方面の遠洋航海に参加したが、遠洋航海が終わると少尉に任官し、鳥海の航海長心得となり海軍士官の道を歩みだしたが、明治24年に海軍大学校に丙号学生として(数学や物理を学ぶ課程)入学、翌25年には1番で第1位で卒業、海軍大尉となり砲艦赤城の航海長となった。

 その間に処女論文「国防私説」を著し、明治26年に出版をした。その内容は、のちの佐藤の主張を先取りするがごときものであり、海国日本は海軍中心の国防体制にすべきことを主張するものであった。しかも、たんに軍事だけではなく、「海軍を以て海国を守るときは、其兵員、陸軍よりも多きを要せず、従て生産の事業を妨ぐることなし」などと経済的側面も視野に入れていたのである。では、佐藤が海軍に入った当時の日本海軍の状況はどうだったであろうか。 明治期、艦艇の性能の発達によって世界の海軍は大きな転換点にあった。まず第一に挙げられるのが、走行性の向上である。帆を使用する帆走軍艦から蒸気機関による機走軍艦への移行によって、機動性が格段に向上した。さらに、機走軍艦でも駆動装置が外輪からスクリューへと進歩をするという目まぐるしい時代であった。

 次に挙げられるのが、攻撃力の向上である。当時の軍艦は、船首部分にある衝角による体当でたりによって敵艦を破壊するという戦法をもっぱらとしていたのだが、それは艦砲の威力が脆弱だったことによるところも大きかった。しかし、艦砲が先込無旋条砲から後込旋条砲へと進歩することにより、射程距離、破壊力、命中精度が向上した。さらに、攻撃力の向上に対応するように防御力もまた進歩をした。船全体を覆いつくすような装甲艦から独立した砲塔をもつ戦艦が登場をしてきた。このような艦艇の機能の発達は、一方で艦艇の分化を生んでいった。すなわち、まず、よりより大きな口径の主砲を搭載する戦艦が誕生する。やがて、戦艦に対する水雷攻撃を専らとする水雷艇が登場してくる。すると、今度はその水雷艇への対策として小型で小回りの利く駆逐艦が、さらに駆逐艦に対抗するために巡洋艦が生まれたというように、次々に新たな艦種が登場してきた。

 以上のように艦艇のハード面での発達は、当然ながら、海軍の戦術の発展をうながすことになる。たとえば、先に書いたような、艦砲の発達は、主要な攻撃力は砲か衝角かという議論となった。それは個々の艦艇の繰船方法から、艦隊の隊形までに影響を与えるものであった。一方で、艦砲についても、より大口径を求めるのか、小口径でも発射速度や命中率を求めるのかといった問題もあった。さらに新兵器としての機雷や水雷を用いた戦術の研究も進んでいった。このように、佐藤が海軍に入った明治期、世界の海軍は、近世の海軍から近代の海軍へと変貌を遂げている最中だった。そして、世界はまだ近代的な海軍の実戦を経験はしていなかった。戦術面ではいまだ定説のない時期であった。

日清・日露戦争における佐藤鉄太郎

 1984年(明治27)日清戦争が勃発した。8月17日、伊東祐亨司令長官率いる日本の連合艦隊と丁汝昌提督ひきいる清国北洋艦隊が正面からぶつかった黄海海戦は、世界初の近代的艦隊同士による海戦として世界の海軍に大きな影響を与えた。清国艦隊の主力艦、定遠、鎮遠はドイツで建造された最新鋭艦で、7335トンに30・5センチの大口径の主砲4門を装備した当時世界でも一級の巨艦であった。これに対して連合艦隊の旗艦松島は4276トンにすぎず、火砲の点でも劣っていた。しかし、結果は連合艦隊の圧勝であった。その原因は、まず第一に艦隊の速力の差であった、清国艦隊の平均速度は14・3ノット、これに対して日本艦隊は、16・3ノット。この速力の差を利用して、事前に充分な訓練をつんだ日本艦隊は単縦列陣で、いまだ旧来の衝角戦法の名残があった単横列陣の清国艦隊に攻撃をした。

 また砲力においても、確かに20センチ以上の大口径砲では劣ってはいたが、中口径砲以下では日本艦隊が上回っていた。当時の大口径砲は砲塔を右旋回すれば艦が右舷に傾き、発射をすればその反動で艦首が大きく回ってしまうという代物だったため、当然ながら照準は狂いやすく、また発射速度も遅くなった。実戦では、日本艦隊の15センチ、12センチの速射砲が威力を発揮して、清国海軍を翻弄したのであった。難を逃れた定遠、鎮遠などは、根拠地・威海衛へと逃れたが、翌年、日本の水雷艇隊の夜襲によってその多くが撃沈した。黄海海戦は、「黄海海戦で明かとなった出来事は保護巡洋艦が主戦艦に対抗できるということである」(ニューヨーク・ヘラルド)、「速射砲は最初水雷艇の来襲を防ぐ目的に製造されたものだが、この海戦で主戦艦の交戦にも有効なことが認められた」(タイムズ)などと評されて、世界の海軍戦術に対して大きな影響を与えた。また水雷戦術の重要性も認められた。

 砲艦赤城の航海長であった佐藤は、黄海海戦に参加した。しかし、赤城は614トンの小艦で速力が遅かったため、敵艦の集中攻撃を受け標的となり、猛攻を受ける。艦長が戦死、副長官も負傷したため、佐藤が指揮をとり苦戦の末に友軍の支援を受けてかろうじて帰投した。敵艦を火災炎上これを退けたという。(これは誤り)黄海海戦の後、佐藤は巡洋艦浪速航海長、大尉に進級すると海軍省軍務局第1課員(編成・教育訓練・人事)に発令されたが、明治32年には英国および米国への留学が命じられ、帰国後は安芸郡大学校の教官に任命されたが、在任半年で宮古の副長に任命され35年には中佐に進級し厳島、次いで出雲の副長となったが、出雲副長在任わずか1ヶ月で日露の風雲が緊迫したため、第2艦隊の首席参謀作戦主任が命じられた。日本海軍が世界に威名を馳せた1905年(明治38)5月27日から始まった日露戦争における日本海海戦は東郷のT字戦法が有名であるが、日本海軍の勝因としてもっとも重要なのは、連合艦隊が極めて戦略的な位置である対馬で待機していたことであろう。

 そして、この連合艦隊の対馬待機を実現するのに大きな影響を与えたのが佐藤中佐であった。東郷司令部ではバルチック艦隊が予定日時を過ぎても対馬沖に現れないことに不安を感じ、発日時は特令するとしながらも、津軽海峡への移動計画を「封密命令」として配布していた。そして、バルチック艦隊発見の報告の入る1日前、連合艦隊司令部では各部隊の指揮官を旗艦に集めた会議ではバルチック艦隊が津軽を通過する公算が大だとして、会議は津軽回航に傾きつつあった。それに強く反対したのが第2艦隊参謀長の藤井較1大佐と第2戦隊司令官の島村速雄少将であった。この2人の強い反対で津軽回航が見合わせられることになった。そして、翌日のバルチック艦隊発見となり日本海軍の思うところで、思うように海戦ができたのである。そして この津軽回航に反対したのが第2艦隊の主席参謀の佐藤だったのである。もし、連合艦隊が津軽に回航していたならば、水雷艇や駆逐艦などの回航が間に合わず、これだけの完全勝利は不可能であったであろう。マハンも日本海海戦を論じた論文の中で日本艦隊が戦略的に重要な鎮海に待ち構えていたことを高く評価してるが、対馬という戦略的位置に日本艦隊を留めた佐藤の功績は大きく、参謀秋山真之に戦術的勝利をもたらした蔭の主役、日本海海戦の戦略的勝利をもたらしたのは、佐藤鉄太郎であったといえよう。

 また、敵の旗艦スワロフが左旋回するのを見て、東郷の第1艦隊は敵艦隊の作戦と見てこれに準備をするために左旋回したが、佐藤は素早く舵の故障を見抜き、第2艦隊が果敢に攻撃を加えてこれを撃沈させる功績を挙げている。昼の海戦で勝利を収めた日本艦隊は、夜間の水雷攻撃、翌日の追撃戦でバルチック艦隊を壊滅したのだった。佐藤の判断がなければ、そこまでの勝利となったであろうか。ちなみに、秋山の考案したと戦法と思われることも多いT字戦法は、明治37年頃には山屋他人大将などが海軍大学校教官が研究していた戦法であり、その後の黄海の海戦の教訓などを加味し、日本海海戦では連合艦隊の戦策作戦として開戦前に各艦に配布されていたものである。この日本海海戦についてアメリカのマハン大佐はこう述べている。「この海戦の結果として、現在及び将来の歴史上に影響すべき政治的波乱は極めて重大なものであり、また海軍史上にこの海戦で得た経験は今後の列強の海軍計画に至大な影響をもたらすであろう。要約すれば、この海戦で最も重要なものは第1(1)に大砲と水雷の関係であり第2(2)に戦艦と水雷艇の関係である」(「ロンドン・タイムス」)

 この結果、世界の海軍は大艦巨砲と艦隊決戦思想へと傾いていった。日露戦争が終わると佐藤は海軍大学校選修科学生として「海軍の国防訓練上訓戒となるべき戦訓」の研究を命じられ、修業すると教官として残され、海軍軍備整備の基本理念、日本海軍の用兵思想等について講じたが、少将に進級すると軍令部第4班長(情報)兼海軍大学校教官1913年には第1艦隊司令長官の参謀長となったが、4ヶ月で軍令部第1班長(海軍作戦・艦隊の編成など)に着任し第一次世界大戦当初の青島攻略作戦・南洋群島の占領作戦など、各種作戦を計画し遂行した。そして、1915年には軍令部次長に栄進し、しかし、この職も僅か4ヶ月で突然、海軍大学校長に補任された。軍令部次長の在任期間は、よほどの特別事情や事件がない限り、最小限でも1年は補職されるが、この人事は異常でありいろいろ言われているが、いずれも推測憶測の域をでない。しかし、いずれも加藤友三郎が上司となると変えられている。両者の間に何があったのであろうか。

『帝国国防史論』について

  佐藤は帰国すると、その成果を1902年には「帝国国防論」としてまとめたが、この論文は同年10月には山本権兵衛海軍大臣から明治天皇に献上され。さらに、1907年には多くの史実の追加改訂を行い、1907年には「帝国国防史論」としてまとめられた。1907年に海軍大学校の教官となり、秋山真之、鈴木貫太郎らともに教鞭を執ることとなる。以後、海軍軍令部参謀と兼務をするかたちで、海軍戦略の形成に海戦思想に大きな影響を与えることとなった。1902年「帝国国防論」を発表したのをはじめ、1907年「海防史論」、1908年「帝国国防史論」、1912年「帝国国防史論抄」、1926年「新日本への道」、1930年「国防新論」、「海軍戦理学」など多数の著作を著している。

 ここでは、「帝国国防論」、1907年から1908年にかけての海軍大学校での講義をまとめた「帝国国防史論」を中心に佐藤の思想をみてみることにする。この「帝国国防史論」を見てみると、佐藤は軍備の第一の目的は戦わずして敵を押さえ込む抑止論の立場に立ち、孫子の兵法に従い不戦屈敵思想を唱える。すなわち軍備の目的は「必ずしも征伐代戮の惨事を演じて、己の主張を貫徹せんが為にあらず、(中略)戦はずして兇暴を威圧し平和を維持し、戦争を未萌に防ぐのが真の目的である。(中略)決して軽々しく之を行ふべきものにあらざるは論なく、国の大事生死存亡の道。悉く之によって決するのである」としている。そこでの軍備は、「自衛」を第一としなければならない。「帝国国防は、防守自衛を旨とし、帝国の威厳と福利を確保し、平和を維持するを以て目的とす」(「帝国国防論」)となる。しかも、その軍備は海軍主体でなければならないとした。これは先に見た「国防私説」にも現れていた思想であるが、「強勢なる海軍は日本帝国の所有しうべき、もっとも確実な平和の保障にして、我が国民の払うべき最も廉価なる対戦争保険なり」(「帝国国防史論」)としている。

 その根拠となっているのが、日本の軍備の程度を決定するものは経済力、人口、地理的条件という考え方である。すなわち、限られた経済力と人口の島国である日本が、強大な大陸国家なみの陸軍を擁するのは無理なことであり、海軍力によって最小限の費用で最大の効果を得られるというのである。イギリスや日本のような島国は「国土擁護の軍備」である海軍がそのまま「海上事業の啓誘、若は擁護者」となるとして、「陸軍の勝敗は決して死活問題にあらざるに反し、海軍の敗戦は国家の滅亡を意味する」(帝国国防史論」)とまでいっている。これが海主陸従論とよばれるものであり、明らかにアメリカの海軍理論家マハンの影響を受けたものといえるだろう。さらに、ロシアの海軍を駆逐し、日英同盟でイギリスとは友好関係にある日露戦後の情勢を見て、佐藤は、日米関係の重視する立場にいた。

 すなわち、『帝国国防論抄』で、わが国が追求すべき「外交目的は太平洋の平和でなければならない」、しかも太平洋の平和は北太平洋に位置する日米の双肩にかかっているので、 日米両国はいかなることがあっても未来永遠に敵視すべきでなく、 日米が提携して平和を維持しなければならない。この日米提携に重要なのは相互に「敬友」することであるとまで書いていたのである。一方の秋山は、アメリカ海軍から艦隊構成、戦務、図上演習などを導入して近代的な海軍建設に尽力していった。彼の著書は、1903年「海軍戦略」、「海軍応用戦術」、「海軍基本戦術」、1908年「海軍戦務」、1909年「同 演習」など数多い。 彼の著作は、佐藤の著作をより具体的に、どのような艦隊編成でどのような戦術で行うべきかを細かく定式化したものであった。彼の著書に基づいて作成された「海戦要務令」は、その後も長く日本海軍の教科書として影響力を持った。

その後の佐藤鉄太郎

  3年半の海軍大学校校長の後に舞鶴鎮守府長官を命じられたが、軍縮に伴う人員縮小から兵科17人の1人として1923年に海軍を去り予備駅に入った。予備役編入後は財団法人奉仕会会長、貴族院議員などに任ぜられ、1941年には「太平洋の平和は日米の責任であると」日米の戦争が開始された。そして、佐藤は太平洋戦争の敗北を見ることなく、1942年3月4日にこの世をさった。一方、佐藤の海主陸従論は、日露戦争第一次世界大戦以降の大陸進出論の興隆のなかでかき消され、彼の主張は、陸軍や強硬派ジャーナリストから「満鮮放棄論」として批判されるようになったが、佐藤の主張は変わらなかった。その後も佐藤は海主陸従の国防論を展開し、1923年(大正12)、佐藤はワシントン海軍軍縮条約に反対をしたこともあり、海軍大臣加藤友三郎と対立し、予備役となり海軍を離れることとなった。 その後も、佐藤は活発な言論活動を続けている。

 1934年の「国防新論」でも、日本の国策を海洋発展と位置づけ、「防守自衛」の国防体制として「先づ第一に制海権の與奪に関する軍備を重視し、如何なる場合に於いても、之を充実すべし」と海軍中心の基本姿勢に変化はなかった。しかし、1921年に日英同盟が破棄されたことを受けて「同盟と言い協商と言うものは皆是れ自己の利益に基づく協商を本とするもので、 決して純な精神的結合ではない、 従って利害関係に異同を生ずるに至れば、 殆ど何の会釈もなく手の掌を反する如く昨日の友を捨て」と書き「自ら実力を備えざるものは孤立と自立の力なく同盟に処る時は単に同盟国に利用せられて自ら之を利用すること能はざるべし」と自主独立した軍備の必要性を主張するようになっていた。

 この「国防新論」を最後に佐藤の理論的にまとまった著作は出ていない。むしろ、その後の佐藤は日蓮宗に傾倒していったようである。満洲事変以後の日本軍の大陸進出には批判的で、身内の者にはイギリスの百年戦争のような悲劇的な結末を迎えると予言をしていたという。佐藤の最後の著作となったのは1940年の「海軍戦理学補遺」である。まさに、中国大陸で交戦中のこのとき、彼は日本のような島国は海軍力さえ充実すれば大陸国家以上の海軍力で海を独占すれば、国防は可能であるとして、大陸作戦に対関する大戦略はイギリスにならうべしという持論を展開している。 1942年(昭和17)3月4日、77歳で死去をした。

まとめ
 佐藤の不戦屈敵論は、対米専守防衛の邀撃作戦となり、その後の海軍の伝統的な戦術となったが、その後の歴史は、専守防衛とは逆の方向をたどっていった。一方で、秋山の「海軍戦術」に基づいた「海戦要務令」は太平洋戦争に至るまで金科玉条として受け継がれた。日本海軍は、明治期に最先端の海軍戦術を生みながら、そこから抜け出ることのなかったといえるかも知れない。ひるがえって佐藤の太平洋海洋国家連携論を見るとき、現在の日本のあり方を考える示唆を与えているようにも思えるのである。はないかと彼の太平洋重視の海洋国家論に触発されることもあるだろう。