第7章 日本の外交政策に及ぼす民族性の研究
「歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない」。「風土は風土であるがゆえに風土の類型は同時に歴史の類型である(1)」、という和辻哲郎の言葉を引用するまでもなく、ある一定の気象や地形など、特定な自然環境に囲まれて育つと、その土地特有の生活様式、風俗習慣、価値観が生まれるものである。そして、人が環境の影響を受けながら個性や個癖を形成するように、国家もその長い歴史の中で試練を受けながら、国家としての独自の性格と一定の行動様式を形成するものである。そこで本章では、日本人の行動様式や価値観を分析する尺度の一つとして、憲法には必ず「平和」という形容詞をつけ、軍隊を「白衛隊」と呼ぶことにこだわり続ける、いわば非現実的平和願望に代表される日本人の民族性が、日本外交に及ぼす影響について考えてみたい。なお、執筆に当たっては、外国人にも理解できるよう日本特有の言葉や慣例については、脚注で説明を加えた。
なぜ「自衛隊」なのかー言霊の影響

日本文化は場面(雰囲気)への依存性が強く、生け花の美は場面(床の間、飾り棚などの背景)との調和があって初めて味わえるものであり、俳句も作られた時の作者の心境やまわりの情景や雰囲気など、文字の外側にある情景や感情を想像してはじめて理解できるものである。同様に、日本語も背景をともなって理解されるため、日常の会話などでも論理的な話は「理屈ぽい」、長い話は「駄弁を弄し」と嫌われ「禅門答(2)」のように、極カムダを省いた「阿吽(あうん)の呼吸(3)」が好まれる傾向がある。このため文学においても長歌がしだいにすたれて短歌が主流になり、後にはさらに短縮され、世界一短い文学といわれる17文字の俳句が生まれた(4)。俳句は短いだけに、「古池や蛙飛び込む水の音」という句を外国人に示しても、外国人には古い池に蛙が飛び込み、水の音がしたというが一それがどうしたことなのかと理解されない。しかし、日本人は静かな山の中の小さな古い池・蝉の声、水面に浮かぶ「みずすまし」など、作者の置かれている情景や言外の意味、余韻を想像しつつ、さらに感動を深めるのである。すなわち、俳句や和歌は詠われない余白に価値があるということであり、これが日本語の神髄でもある(5)。
日本人は「言葉」とそれを伝える「気」(その場の雰囲気)を同一線上に配し、言葉はコミュニケーションの手段であると同時に、理念や願望のエネルギーが凝縮したものであるという考えに立つ。この理想は言葉が霊力を持ち、発せられた言葉の内容がそのまま実現するという言霊信仰となり、2000年以上にわたって日本人の思考を支配してきた。言霊信仰の代表例が、神に願望を申し入れる「祝詞(ノリト)(6)」であり、その起源はきわめて古い。また言霊という言葉が初めて文献に登場したのは759年に編纂された万葉集である。「敷島の大和の国は言霊の助ける国ぞ真幸くありこそ(柿本人磨呂)」、「秋津島大和の国は神柄と言挙せぬ国(作者不詳)」という2つの歌が示すとおり、日本は「言霊が助けてくれる幸せな国」であり、「言挙げ(口に出して論争すること、または願望をいうこと)」をしない平穏な国であると、古代の日本人は自負していたのであった(7)。
このように日本人は言葉には霊があり、使う言葉によって災いが起こったり、運命が変わると信.じてきた。形骸化されてはいるが、この状況は現在でも変わらない。たとえば、結婚式の祝辞などで「切れる」「離れる」「分かれる」「割れる」などという言葉を使うと、離婚を「言挙げ(言葉に出して神に頼む)」していることに通じるとされ、結婚式では使ってはならない言葉とされている。
このように日本には良い結果を招く「良い言葉」と、不幸を招く「悪い言葉(不幸が予期される言葉や悲観的な内容)」があり、日本人は言霊による崇りを懼れて「悪い言葉」を発することを控える傾向があり、それが日本の外交や国防にも影響を及ぼしている。つまり、日本人は戦争や災害などに関係ある言葉を使うこと自体が、不幸や戦争を招くことにつながると考え、その結果、国家存立の基本である国防に関する議論が、戦後50年間にわたって放置されてきた。
一方、言霊の加護を信じる日本人は、憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」武器を放棄し、戦後50年間も「戦争反対」、「平和憲法を守れ」と「祝詞」のように唱えつつ、さらに町のあちらこちらに「世界人類が平和でありますように」との看板を建てれば、平和が実現すると夢想してきたが、言霊信仰が外国人にも通じると考えているのであろうか。看板には”May
Prevail Peace on Earth”と英語も付記されている。このスローガンを見ると、かつて世界にまったく通じない自已の価値観、白已の世界観で「五族協和の満州国」を建国し、「八紘一宇(8)」などと「祝詞」を唱えて、「大東亜共栄圏」を造ってしまった日本人の自已中心的な世界観の裏返しであるように思われてならない。
西欧には「魔女狩り」があったが今はない。しかし、日本には平安時代の「言葉狩り(不幸を招く言葉を使わないこと、いやな言葉を他の言葉に言い換えること)がいまだに生き続け、ある言葉によって表現される実体(敵や不幸や嫌なこと)が、「言葉狩り」を行うことにより退治できると信じてきた。太平洋戦争中には英語を追放することによって米英を撃減できると考え、「敵性語追放」の一環として英語教育を廃止し、野球用語のストライクは「正球」、ボールを「悪球」、セーフを「安全」と言い替えた。戦場においては退却を「転身」、「全滅」を「玉砕」と言い替え「鬼畜米英撃滅」「一億総火の玉」「一億玉砕」などと現実とかけ離れた「祝詞」を唱えて戦った。しかし、いったん戦争に負けると、「軍人」「軍隊」「戦争」や「義務」「愛国心」「犠牲心」などの言葉が軍国主義に連なる悪い言葉とされ「民主主義」「自由」「文化」「権利」「人権」などの言葉が良い言葉となった。そして、平和を願う日本人は「軍隊」を「自衛隊」、「戦車」を「特車」、「大砲」を「特火」と言い換え、大佐を一佐、少将を将補などと言い換えれば武器や軍人が日本の国土から消せると考えたのであった。
日本人のこのような言霊的発想には、歴史的前例がある。781年に桓武天皇が即位すると年号が平安と改元され、794年には首都を移して平安京と命名した。これは「世の中が平和でありますように」との祈りを込めた命名であり遷都であった。元号を平安とし、平安な都である「平安京」を造ったのだから、戦争がなくなるという発想である。また軍携あるから戦争が起きるという言霊的発想から、792年には軍団を廃止して健児制度が採用された(9)。さらに、軍隊があるから戦争になり、ナイフやピストルがあるから殺人が起きるという発想から、全国統一を達成した豊臣秀吉は1588年に「刀狩り」を実施し、明治時代に新政権が誕生すると、1871年には廃刀令が発せられた。さらに第2次世界大戦後には銃器取締令が出されて現在に至っている。つまり、憲法を「平和」憲法、軍隊を自衛隊と呼び、戦後50年にわたり自衛隊の有事の運用に関して討議することも、法律を作ることもせず、装備的にはアジア有数の武力を保有しながら、戦力としては極めて低い戦闘効率しか発揮できない世にも不思議な自衛隊を保有し、今日に至らしめた裏には、戦争という言葉を使うこと自体が戦争につながるという日本古来の独特な発相がからんでいるわけである。
日本人の戦争観・平和観
以上で自衛隊を軍隊と呼称することをためらい、アジア第1の軍事力を保有しているといわれつつも、憲法を改定せずに再軍備を行った日本人の精神的構造が理解できたであろう。しかし、日本人は軍隊に対し、なぜこれほどまでに非現実的な憎悪感を持っているのであろうか。それは有史以来他民族の支配を受けず、「平和が常態で戦争が異常」という世界には類のない歴史体験にあるように思われる。日本の領土はモンスーン地帯に属し、豊かな自然に恵まれ、有史以来民族的飢餓状況に陥ることがなかった。さらに海が天与の防壁、絶好の障害として外敵の侵入を防げてきた。島の中で争いがまったくなかったわけではなかったが、それは兄弟喧嘩の域を出るものではなく、敗戦によって言語・習慣・価値観の異なる異民族の支配を受けた西欧とは状況が異なる。この「平和が常態で戦争が異常」という感覚は戦後も変わっていない。「何に対して危険を感じるか」という最近の調査に対する回答の1位から7位までが交通事故や地震、台風などという都市型災害や自然災害であり、戦争や強盗などの人災的災害は8位以下でしかないのである(10)。
「何が脅威と感じるか」アンケート調査
|
順位 |
項目 |
比率(%) |
順位 |
項目 |
比率(%) |
|
1 |
交通事故 |
88,1 |
8 |
戦争 |
50,2 |
|
2 |
火事 |
85,1 |
9 |
水不足 |
49,2 |
|
3 |
地震 |
77,3 |
10 |
強盗 |
46,3 |
|
4 |
インフレ |
67,9 |
11 |
雷 |
46,0 |
|
5 |
台風 |
64,9 |
12 |
ファシズム |
43,0 |
|
6 |
大気汚染 |
62,0 |
13 |
伝染病 |
36,9 |
|
7 |
食糧危機 |
54,9 |
14 |
差別 |
25,4 |
出展:佐藤滋『日本人論の検証ー現代日本社会研究』(誠文堂、1961年)
このようにし日本は島嶼民族、農耕民族の体質を基礎にして一民族一言語一国家が長年月の間に相乗作用して20世紀を迎えた。豊かな葦が生え、水々しい稲穂が生える「瑞穂の国」という美称を持つ日本にとつての脅威は、「地震、.雷、火事、親父」の諺が示すとおり、主に白然災害であって、親父を除いて人為的な脅威は認知されていなかつた。日本人にとつて脅威とは、暑さと湿潤であり、時として起きる地震、洪水であり台風であって、強盗や殺人、戦争ではなかった。そして、日本人は耐え難い日々の暑さと湿潤をさけるために、豊富な木で四周吹き抜けの家を造り、唯一の脅威である台風には板戸に釘を打ってすごし、紙の障子と襖でプライバシーを守ってきた。一方、ヨーロツパでは戦争に負ければすべてが破壊され、言語から宗教の異なる異民族の過酷な支配を受け・君主や平民の区別なく、穀物、金晶、財宝や人質などを略奪された。このためヨーロツパでは君主や庶民の別なく、自分の家や町を他民族の攻撃から守るために協力し、街全体を城壁で囲み城内に住まねばならなかった。小さな窓しかなく鍵また鍵の煉瓦の家が、高い城壁で囲まれているヨーロッパの家と、四周吹き抜けの障子や襖の日本の家との差が、日本の安全性を表徴しているともいえよう。
民族性から見た日本外交の特質
「女性国家」の外圧服従外交

農耕国家である日本は「産なす国」とも呼ばれ、「産む」という行為に高い価値観を持つ国であり、その神は産土(うぶすな)神と呼ばれ、伊勢神宮の「天照大神」に代表される「母なる大地」的な女性神であり、受容性豊かで恵をもたらす太陽神である。そして、この女性神を総祖として崇拝する日本民族の価値観が、日本の「女性的」な国家観と結びついている。すなわち、この「女性国家」の価値観が「平和」憲法となり、海外派兵禁止や武器禁輸を原則とする国会決議となり、多くの自治体の「平和都市宣言」となり、数々の平和紀念館を建立させているのである。次にこの「女性国家」の体質がもたらす日本外交への影響を見てみたい。非常に冷めた見方をすれば、日本外交には理念も“Power Politics”もなく、その本質は「一目惚れ」や「虫が好かない」というような、何らの根拠のない好嫌感情に左右され、その外交は八方美人の外圧対処外交であり、権謀術数を駆使して目的を達成する長期的ビジョンも打算もない。このことは、母性社会特有の大家族主義、つまりすべてが家族であり平等であるという「ハラカラ主義(大家族主義、同胞主義)」と何らかの関係があるのではないであろうか。
戦前にはこのハラカラ主義が「八紘一宇」の大東亜共栄圏の建設志向として現れたが、現在ではそれが「地球市民」や「人類は皆な家族」などの言葉に代表される日本独特の自已中心的世界観として一世を風摩している。それは一面では暖かさであり愛情であるが、他面的に見るならば過剰介入であり「余計なお世話」である。つまり、母性社会特有の大家族主義を思考の中心に据える日本人は、他国民の行動を解釈する時に、白己と他者との間に存在する異質性を冷徹に見据えることができず、自已の価値観や感情を拡張解釈して相手に押し付けがちである。このため日本は冷徹な打算が必要とされる外交は苦手であり、立場の弱い相手に対しては自己の価値観を押し付ける傾向がある。

一方、女性的価値観が支配する日本には女性特有のヒステリー症があり、それが時として国内政治や外交を大きく左右してきた。会田雄次はヒステリー症の第一の特徴は、周囲の状況や白分の立場、能力など、いわゆる客観的条件を無視して願望や要望をすることであり、第2はその要望が即座瞬問的に満たされないと荒れ狂うことであり、第3は要望達成の準備や努力をいっさいしないで成果を望む傾向があるとしている。さらにヒステリー体質の人問の本質は「勝気」であり、それは反面、劣等感に支えられていると分析する。すなわち、「勝気」人問の本質は劣等感であり、それが虚勢と「あがき」、「もがき」となって現れるといっている。また「勝気」人問は、理論的に思考し意志的に行動しえず、もっぱら情緒や干渉に振り回され、しかも自分はまったく理論的だと信じ絶対にその非を認めないという致命的欠陥がある。会田雄次は日本人の性格を「勝気」人間ととらえ、自主性がなく流行や権力に弱く、お世辞に弱く扇動にのりやすく、責任の所在が不明確となると一気に強気となって、一定の方向に突き進む習癖があるとしているが、この分析が女性国家日本の対外行動の特質をみごとに言い表しているように思えてならない(11)。
気によるムード外交
春夏秋冬と、急速に、しかも明確に変化する季節感のためか、日本人はその場の雰囲気に合わせる適応性や順応性に優れている一方で、常に新しいものへの憧れや変化(流行・時流)に敏感で移り気である。また木の家に住む日本人は、常に障子や襖越しに風の音などの自然を感じ、風が起こす空気の働き、すなわち「気」という「その場の雰囲気」の影響を敏感に受けてきた。日本語に多い「気が合わない」「気に障る」「気がある」「気が利く」「気かが気でない」「気が引ける」「気ままに」「気さく」「気配り」「気に入らない「気のおけない」など、「気」に関する言葉は枚挙にいとまがない。日本人が「気」という「つかみ所のない」ムードのようなものに、いかに大きく影響されているかが理解できるであろう。実際、日本ではその場の空気(ムード)がしばしば絶対的な支配力を持ち、抵抗する者を異端者として「村八分」にし、社会から葬り去ってしまった(12)。「気」はまた、指導者の資質としても重要な要素となる。稲作民族である日本人の最大の要訣は集団の団結であり、「和」を保っことであった。そしてそのリーダーに求められる資質は、難局にあたって集団を強く導くといった、いわば危機対処型の資質とは異質のものである。難局にあたって集団を強く導くのに必要な資質は、集団を統一するための理念、すなわち「理」であるが、日本人は「理」にかなっていても、それが「情」という感情にかなっていなければいかなる指導も受けつけない。「正義」、「人権」、「白由」などの「理念」を前面にかざしても日本人は応じない。日本人が応じるのは効率性、合理性などとは対照的な位置にある「情」であり、さらにその「情」をもたらすのは、瞬時、瞬時における精神の動き、すなわち「気」というつかみ所のない雰囲気なのである。
このように日本では、気が絶対的な支配力を持つために、時として杜会全体が漠然とした気分や時のムードに酔い流され、「集団なだれ現象」とでも呼ぶべきヒステリー症を呈することがある。歴史的には、日露戦争後のポーツマス講和条約の内容に不満を持った民衆が暴動化した「日比谷焼打ち事件」、ドイツ軍の快進撃に幻惑され、急遼決定された日独伊三国軍事同盟締結に至るまでの過程、戦後はベトナム反戦運動や安保闘争などが、日本的な集団ヒステリー現象の例として挙げられよう。さらに、「気」を重んじる「ムラ」社会の特色として、日本人は言い争いの「言挙げ」を慎しまなければならなかった。小さな集落体では言葉を発しなくとも互いが察し合い理解しうる。よつて、相手の感情を傷つけたり、相手が不快を感じる言葉を発することを控え、聞くほうも言外の雰囲気や会話の雰囲気などから相手の本音を理解し、それに応じるのが美徳とされてきた。そして、「言挙げ」することを嫌う日本人は、中国や韓国から南京事件や従軍慰安婦問題などで非難されても反論せず、謝れば相手も日本人と同じ考に過去を「水に流してくれるとの禊ぎの思想から、論争することを避け、ただただ頭を下げてきたため、戦争犯罪が事実以上に過大に世界に流布されただけでなく、さらに、これら戦争責任が対日外交カードとして利用されるという結果につながった。一方・移動が困難な狭い村落に住まなければならなかつた日本人は、他人の評価が頭から離れず、「他人が自分をどう判断するか」、外交的には「他国が日本をどう評価するか」という意識が働くため、他国の批判に気を配り、外国の評価によって正否や.善悪を決める傾向が強い。このため日本の外交は「外圧」といわれる外国からの要求、批判に対応するための施策という傾向が強く、国益達成のための施策とはいいがたい側面を持っている。
指導者不在の「根回し」外交
日本人は個人が直接に対立することを嫌う。そこで対立を避けるためにコンセンスを得ようとする・これは日本のハンディキャツプではあるが、また同時に強さともなっている(14)」というクリストファー(Robert
C.Christopher)の指摘のとおり、日本ではグループや組織の指導者が一方的に決定を下す頃は極めて稀であり、あたらしいことを始める際には、まえもって関係者全員の同意を取り付けておかなければならない。これは組織の宥和団結を維持する目的でとられる行動であるが、日本独特の極めて曖昧な意志決定のプロセスといえよう。日本人がこのようなプロセスを取るのは、土地に縛られ移動が難しい農村杜会の中にあって、村落内の摩擦や対立を避けるためには会議において全会一致の賛成を得る必要があるからであるが、全会一致の賛成を得るためには採決を行う前に反対者の意見を聞き、ある程度修正する「根回し」が必要であり、その「根回し」を担当する調整者の存在が日本では不可欠であった。また、平和が常態で戦争が異常である日本には強力な指導者は不要であり、政治とは宗教的な行事としてのマツリゴト(祭りごと・政りごと)にすぎず、政治的実権は「根回し」を担当する者の手に集中した。かくして戦前の御前会議に象徴されるように、天皇は「根回し」により決定された事項を、マツリゴト(政ごと)として形式的に行う存在となった。
この「根回し」の手法は国家レベルでも行われる。集団性の強い日本人は集団からはずされる恐怖心を常に抱き、真っ先に意見を言うことを控え、多数意見に同調しようとする。稲作社会から生まれたこの「協調しょう」とする国民性が、日本の外交に自主性を失わせ、大勢に順応する消極外交を助長することとなり、結果、日本外交は顔が見えないという批判につながっているのである。この日本外交の特質についてブレーカー(Michel
Blaker)は、日本の外交官は外交上の成果を追求するよりも、まず同盟国米国の不評を買わないこと、国際的に孤立しないことを最優先し、米国の「御墨付(15)」を得ることに努力を集中し、次いで諸外国に対して正式交渉を開始する前に、強力な「根回し」を行うと述べている(16)。後に、日本人は特定の集団が長期にわたって実権を握るのを阻止するため、指導者を短期で交代させる「たらい回し」という政治システムを開発した。東京裁判において長野修身、嶋田繁太郎両大将の弁護人は、「本起訴の期内(満州事変1931年9月18日-1945年8月15日)に、日本では前後15代の内閣が成立、瓦解した。……日本政府を構成したこれら10数代の内閣の成立、瓦解を通じて22人の首相、30人の外相、28人の内相、19人の陸相、15人の海相、23人の蔵相が生まれた。…〔このことは〕共同計画または共同謀議の確証ではなく…むしろかえって指導力の欠如である」として、両大将が侵略共同謀議の責任者とはいえないと主張している(17)。
国家指導者の交代状況
|
国名 |
職名 |
人数 |
国名 |
職名 |
人数 |
|
日本 |
首 相 |
13 |
英国 |
首相 |
5 |
|
米国 |
大統領 |
3 |
ドイツ |
首相(総統) |
5 |
国家の運命賭した危険な時期に指導者がこれほど頻繁に交代したのは、これら指導者がそのときの多数意思に屈服したためであり、このため、日本では責任の所在をつきとめることは非常に困難であり、開戦の本当の責任者は誰かということになると、今日の経済的危機の責任者同様に、はっきりつきとめることがでないのである。
おわりに
日本では春夏秋冬の気候変化が顕著で四季折々の花や紅葉は美しく、ここに草木を愛し自然を愛でる心情の優しさ温かさを生んだ。しかし、突発的に猛威をふるう火山の爆発、台風や洪水などの影響からか、日本人の抵抗はある限界を越えると猛烈とはなるが、その抵抗は瞬発的、また突発的であり、日本人の戦い方は台風のように激烈である。また、戦争異常観が支配する日本において、平素、強烈なナシヨナリズムが発揮されることは少なく、歴史的に見ても、むしろ戦いに従事する戦士を卑業に位置づけることが一般的で、武士が高い地位を得たことはあまりなかった。また日本人は日本国民であることを特に自覚する必要がない島国的体質から、平時において国家観念は希薄である。しかし、非難や侮辱がある限度を超えたり、生存が脅かされるほどの脅威を肌で感ずるや否や、合理的打算や戦力比などをまったく無視し、強烈な国家意識に目覚め、母性国家の特徴でもある集団ヒステリー現象を発揮して猛烈果敢な抵抗をする特徴もある。
特に第2次世界大戦中の日本人の戦い方の中で、際立った特色の一つが「特攻」と「玉砕」であったように、日本のように、「十死零生」の体当たり特攻攻撃を、部隊単位で組織的に実施した国家はなかった。この、一見団結に欠け不安定な社会が、究極的に追いつめられたときに放つエネルギーと、それがもたらす危険性には十分に留意すべき必要があろう。
〔注〕
(1)和辻哲郎『風土人問学的考察』(岩波書店、1938年)17、29頁。
(2)「禅問答」とは精神統一をはかり、白己を自省し心理を見い出す古代インドの思想から生まれた仏教の一派(禅宗)で、教義の理解度をテストするために問答を行うが、「以心伝心。不立文字」などを重視する宗派であるだけに、問答の内容は極めて短く抽象的、非理論的であり第3者にはほとんど理解できない。
(3)「阿」は古代インドのサンスクリット語のアルファベットの最初の韻、「咋」は終韻、「阿咋の呼吸」とは短い会話で理解できる間柄であることを意味している。
(4)俳句とは5・7・5文字の17文字の歌で、室町時代の末期頃から連歌の発句(最初の句)として、詠まれてきたが、江戸時代に入ると松尾芭蕉によって初句のみでも詠まれるようになり、さらに明治に入って正岡子規などにより文学として確立した。
(5)松本旭『俳句のやさしい作り方』(ナツメ出版杜、1987年12127-247頁。
(6)一神に祝福などを申し入れるために神前で唱えられる言葉で、現存する祝詞の最も古いのは9世紀まで遡ることができる。
(7)井沢元彦『言霊なぜ日本に本当の自由がないのか』(詳伝社、1991年)98-99頁。
(8)太平洋戦争期に日本が海外進出を正当化するために用いた標語で、「世界を一つの家族のようにする」という意味。
(9)前掲、井沢、100104頁。
(10)佐藤滋編『日本人論の検証―現代日本社会研究』(誠至堂、1961年)218頁。
(11)会田雄次『日本のリーダーの条件』(新潮社、1979年)68−71頁。
(12)山本七平『空気の研究』(文芸春秋社、1983年)51−53頁。
.村八分とは江戸時代以降、村の掟などに従わない者を全村が申し合わせて、その家との交際や取引きを断つ私的制裁。
(13)樋口清之『日本人はなぜ水に流したがるか』(エムジー社、1989年)18、24-35頁。「禊ぎ」とは身に罪や稜れがあるとき、または重要な神事などに従う前に、川で身を洗い罪や汚れを清めることであるが、現在では汚職や選挙違反、賄賂などを受けても禊ぎを行えば許されるべきであると解釈されるにいたっている。
(14)ロバート・クリストファー『ジャパニーズ・マインド すれ違う善意、すれ違う敵意』(講談社、1983年)52-53頁。外国人が書いた日本人論の概要を理解するには、村上勝俊『外国人による戦後日本人論ベネディクトからウオルフレンまで』(窓社、1997年)が参考となろう。
(15)「お墨付き」とは、主君(将軍や大名)から家来に与えられた花印(印鑑、サイン)付の指示.命令や許可、認可などを与えた書簡。
(16)ミッシェエル・ブレーカー「根回し・かき回し・後回し」(筑紫哲也『世界の日本人観』(自由国民杜、1985年)222-214頁。
(17)鰐田豊之『食肉の思想 ヨーロツパ精神の再覧』(中央公論社、1966年)