巡洋戦艦論の起源と建艦思想
はじめに
イギリスの巡洋戦艦インビンシブル(Invincible)の誕生がドイツにフォン・ディ・タン(Von der Tann)を進水させたように、 軍艦の建造は仮想敵国の軍艦や海軍戦略、 特に海軍戦術などを極めて強く反映し互いに相手があって発展するものであるが、 一次世界大戦開戦前のドイツ海軍とイギリス海軍に巡洋戦艦はまさにこのような関係にあった。 そして、 この巡洋艦戦艦が死力を尽くして戦ったのが第一次世界大戦中の海上戦闘であった。 しかし、 巡洋戦艦の抱える問題、 巡洋艦の性能上の限界から巡洋戦艦の建造隻数はイギリス13隻、 ドイツ9隻、 日本4隻に過ぎず、 その歴史も12年で幕が閉じられ、 その位置を高速戦艦に譲らなければならなかった。 以下、 大艦巨砲が支配した海上戦闘にすい星の如く誕生した巡洋戦艦の歴史と特質、 第一次世界大戦における戦績をたどってみたい。
1 巡洋戦艦の誕生と発展
巡洋戦艦は装甲巡洋艦から、 装甲巡洋艦は巡洋艦から、 そして巡洋艦はフリゲート艦から生まれたが、
フリゲート(Fregate)艦は帆船時代には艦隊主力である戦列艦(Line of Battle
Ship)に次ぐ艦種として、汽帆併用時代にはコルベット(Corvett)艦とスループ(Sloop)艦の中間の艦種と位置付けられていた。
巡洋艦に与えられた最初の任務は海上交通破壊戦における攻撃および防御であり、
海外に植民地や領土を持ち海上交通の安全を維持しなければならない海軍国では海上交通の防御兵力として、
海上交通を攻撃する主として大陸国では攻撃兵力として、 多数の艦艇の戦いとなった近代的海戦では敵の主力部隊の動静を報告し、
有利な態勢を確保する偵察兵力として、 また戦列艦の補助兵力として発展してきた。

そして、 さらに巡洋艦を撃破するためにより高速で、 攻撃力と防御力を持つ艦種、 すなわち巡洋艦に装甲を施した装甲巡洋艦が開発された。 しかし、 巡洋艦に不可欠な航洋性(航続距離と連続行動日数)と高速力を得るために、 推進機関や燃料庫に広いスペースをとられ、 1908年に建造された最後の装甲巡洋艦マイノーター(Minotaur)級では23・4センチ砲(連装砲4門)と副砲10門(19センチ)しか装備しなかったが、 当時の戦艦マジェスティク(Majestic)と変わらぬ1万4600トンとなってしまい、 さらに装甲も薄く速力も戦艦ドレットノート(Dreadnought)より一ノットしか優速でないなど、 速力、 装甲や砲力不足など装甲巡洋艦の欠陥が表面化し存在価値を失ってしまった。
一方、 財力に乏しく高価な戦艦の建造に限界があった日本海軍は、 最初から装甲巡洋艦を艦隊戦闘で戦艦と連携して戦う準主力艦に位置づけ、
黄海の海戦では巡洋艦搭載の小口径速射砲が主力艦との戦闘に極めて有効なことを証明した。
そして、 英米の新聞は「黄海の海戦における著しき出来事は装甲巡洋艦が良く主力戦艦に対抗したる一事なり。
これは理論に反するものなるが、 この海戦の結果、 諸海軍国は今後高価なる大主力艦の建造より装甲巡洋艦の建造に進むべし(ニューヨーク・ヘラルド、
1894年9月29日)」、 「9月17日の海戦に於いて日本巡洋艦の速射砲は最大権能を発揮せり。
速射砲は最初は魚雷艇の攻撃を防ぐために装備されたるものなるが、 この海戦により主力戦艦との交戦にも有効なることが認められたり(タイムズ、
1984年11月12日)」と日本海軍は装甲巡洋艦の価値、 特に小口径速射砲の価値を世界に示した。
しかし、 日露戦争初期に日本海軍の装甲巡洋艦が旅順港外でロシア戦艦から長時間アウトレンジ攻撃を受けたこと、
日本海軍が日露戦争開戦直後に触雷により2隻の戦艦を失い、 それを補うために戦艦と同一口径の30・5センチ砲(4門)を搭載する1万3750トンの筑波を建造することが伝えられると、
イギリス海軍も30・5センチ砲、 6門を搭載したインビンシブルを1980年に建造した。

このインビンシブルはタービンを装備し当時のいかなる巡洋艦より高速の25ノットであり、 さらに戦艦と同一口径砲を搭載したことから巡洋戦艦(Battle-Cruiser)と呼称された。 筑波の竣工は1907年でインビンシブルより一年前であり、 装甲もインビンシブルの152ミリに対し208ミリであった。 しかし、 日本海軍が一等巡洋艦と分類したためか、 在来型の戦艦と同様に副砲を装備したためか、 ジェーン年鑑もブラッセイ年鑑も筑波を巡洋戦艦とは分類してくれなかった。 インビンシブルに始まる巡洋戦艦の第1グループは、 排水量約1万8000トンで速力は25ノット前後と戦艦より優速ではあったが、 装甲は薄く水線部で152ミリ、 砲塔部分でも178ミリで、 魚雷に対する水線防御はなかった。 しかし、 この新巡洋戦艦に“インビンシブル〔無敵〕"との名を冠したのは、 ドレッドノート以前の戦艦に比べ砲力が5割程度優越しており、 戦艦との戦闘となっても戦艦を撃破することが可能であり、 また、 もし相手が数的に優勢ならば高速で避退することができ、 さらに攻撃を望むならばいかなる艦でも追撃し撃滅できる高速力を有している「無敵」の軍艦と考えたからであった。
ドイツ海軍はインヴィンシブルに対抗するため、 1910年に巡洋戦艦フォン・デァ・タン、
モロトケ(Moltke)、 そしてザイドリッツ(Seydilitz)を建造したが、 これら巡洋戦艦はイギリスの30・5センチ砲に対して28センチ砲しか搭載していなかった。
しかし、 ドイツ海軍は水線部分の装甲を203ミリから305ミリにし、 消火装置や排水装置を設置するなど防御を重視していた。
また、 その後に建造されたドイツ海軍の巡洋戦艦も同様で、 主砲の口径は30・5センチに止め装甲などの艦内防御を強化していた。
一方、 イギリスはモロトケに対抗するため34・3センチ(8門)を搭載したライオン(Lion)を建造したが、
防御力より攻撃力を重視する伝統的思想から砲力と高速力を重視したため、 装甲はモロトケの279ミリに対して152ミリから229ミリしかなかった。
イギリス海軍はタイガー(Tiger)までの10隻をもって巡洋戦艦の建造を一時中止したが、
これは速力が25ノットの戦艦クイーン・メリー(Queen Merry)が就役し、 巡洋戦艦と戦艦に速力差がなくなり、
巡洋艦の特質を失ったからであった。
しかし、 その後もドイツ海軍がデアフリンガー(Derfflinger)、 リユッツォウ(Lutzow)、
ヒンデンブルグ(Hindenburg)、 マッケンゼン(Mackensen)を起工するなど増勢を続けると、
イギリス海軍も第一次世界大戦勃発一年後の1915年に、 リパルス(Repule)とレノウン(Renown)の建造を開始した。
しかし、 38・1センチ砲を搭載し速力を31・5ノットとしたため機関馬力が120・000馬力となり、
排水量の増大を押さえるため装甲は水線部で152ミリ、 砲塔部で279ミリに押さえなければならなかった。その後、
ドイツ海軍が38・1センチ砲を装備した巡洋戦艦の建造を開始したとの情報が伝わると、
イギリス海軍はジェットランド海戦の戦訓を入れ水線部装甲を178ミリから305ミリ、
砲塔部前壁を381ミリ、 その他の装甲を279ミリから305ミリと戦艦並の装甲を装備したフッド(Hood)を1920〇年に建造した。
しかし、 このフッドは速力31ノットで、 38・1センチ砲8門を装備し、 排水量は4万1200トンと巡洋戦艦というよりはもはや高速戦艦と称すべきものであった。

日本海軍が列国から巡洋戦艦と呼ばれたのは1913年にイギリスで建造した金剛であったが、 金剛の1年後に竣工したイギリスのタイガーに比べても、 タイガーの34・3センチ砲に対して35・6センチ砲を装備し、 装甲も229ミリに対して254ミリと、 攻撃力防御力ともに当時の水準の上を行くものであり、 金剛は当時の巡洋戦艦の在り方に一石を投ずるもので、 「我々が太平洋戦争を研究する毎に、 常に日本の金剛級巡洋戦艦に抑圧せらるるを経験せり」とアメリカ海軍を常に悩ませ続けたのであった。 さらに、 第一次世界大戦で「巡洋戦艦ノ価値倍々大ナリ(中略)防禦力ノ薄弱ニ帰因セシ一部論者ノ杞憂ヲ一掃シ、 今ヤ用兵上欠クヘカラサル艦種」と評価した日本海軍は、 「大局ノ推移ヲ考察スルニ有力ナル巡洋戦艦ノ必要ヲ感ズルコト愈々痛烈ナルモノアリ」と、 1917年度予算で愛宕・高雄(重巡洋艦と呼称された)を要求し、 1920年には4万1200トンの巡洋戦艦赤城の建造を開始した。 しかし、 列国海軍も同様で1921年にはアメリカ海軍が4万3000トンのレキシントン(Lexington)を、 イギリス海軍も4万8000トンの巡洋戦艦の建造を開始した。 しかし、 これら巡洋戦艦は次に述べる限界とワシントン軍縮条約の締結により、 いずれも建造中止又は空母に改造され、 ここに12年にわたる巡洋戦艦建造の歴史は幕と閉じたのであった。
2 巡洋戦艦の価値と限界
一般に砲力と防御力との間には相関関係があり、 12インチ砲を装備する戦艦は九インチ程度の舷側装甲帯を水線部分に装備し、
9インチ砲を装備する巡洋艦は6インチ程度の装甲を持っていた。 しかし、 巡洋艦には何よりも高速と長い航続距離が要望され、
小型大出力の機関がなかった当時の巡洋戦艦は、 機関室や燃料庫に大きなスペースを割かなければならず、
装甲などの防御力を犠牲にしなければならなかった。 革命的な戦艦ドレッドノートが1906年に竣工し、
その2年後には世界最初の巡洋戦艦インビンシブルが誕生したが、 ドレッドノートが1万7900トン、
インヴィンスブルが1万7250トンと両艦の排水量はほぼ同一であり、 主砲も両艦とも30・5サンチ砲を装備し、
両者の相違としては30・5センチ砲が前者が10門、 後者が8門、 速力がドレッドノートの21ノットに対してインヴィンシブルが25ノットと、
4ノットの優速を維持しているに過ぎなかった。 しかし、 この4ノットの優速を得るためにインビンシブルは4万1000馬力分とドレッドオートの1・8倍の馬力を必要とし、
機関の重量や容積の増大から戦艦と変わらぬ大きな軍艦となってしまったのであった。

このように当時の技術では高速を得るためには何かを犠牲にしなければならなかった。 このためインヴィンシブルは装甲の厚さを制限し、 ドレッドノートの279ミリに対して152ミリと、 攻撃力は戦艦並でありながら防御力は巡洋艦並で妥協しなければならなかった。 それでもドレッドノート当時は戦艦に比べ巡洋艦が3から4ノットの優速を保持していた。 しかし、 1915年に進水した戦艦クイーン・エリザベス(Queen Elizabeth)は科学技術の進歩から速力が25ノットとなり、 巡洋艦と戦艦との速力差がなくなってしまった。
科学技術の発達による機関スペースや重量の減少を、 巡洋戦艦から戦艦に改装した金剛に求めれば、
排水量は装甲の強化や水中防御用バルジの新設、 ボイラーや主機の換装など2回の改装により、
排水量は新造時の2万7500トンから3万1800トンに、 機関出力は6万4000馬力から1万3600馬力へと2・1倍になり、
速力も27ノットから30ノットに増加した。 しかし、 機関重量は4750トンから2737トンと大幅に減少し、
ここに巡洋戦艦が出現したときに問題となった機関重量と容積、 それにともなう装甲の不足という問題が解決され、
ここに戦艦と巡洋戦艦を区別する制約が解消されたのであった。 巡洋戦艦が生まれたのは高速力、
防御力、 砲力という3種の力を技術的に同時に保有できなかったためであり、 巡洋戦艦の限界は巡洋戦艦自体が本来保有していたものでなく、
構想を実現するでけの技術力が伴わなかったことにあったのであった。