海軍教育と練習艦
1 海軍教育の特質

 

 国籍のいかんを問わず海軍軍人に要求される第1の要件は、動揺する艦上で能力が発揮できることであり、 その教育の達成目標は海上で戦う戦士を育成することである。この最も当然な能力、 それを代表する言葉が操船術、 運用術、 船酔いしないという海慣性から、 「艦上で口笛を吹くな」、 「ハンドレールにもたれるな」などの船乗りの躾まで、 多様な意味をもつシーマンシップ(Seamanship)であり、 このシーマンシップが机上では教えられないということに海軍教育の第1の特質がある。 帆船時代には複雑な機械もなく、 主たる判断が天気予察による針路の決定、 作業としては帆を上げロープを結び、 ボートなどの重量物を挙げ降ろすことであり、 投錨や揚錨などの錨作業であった。 帆船時代の船乗りに要求される知識や能力は、 このように単純なものであった。

 しかし、 動揺が加わるとこれらの作業は極めて危険な、 また熟練を要する困難な作業に一転するという特質を持っている。 このため船乗りの育成には理論より実務が重視され、 その教育も理屈抜きで体にたたき込む徹底的な現場主義が取られてきた。 また船乗りは狭く不自由なプライバシーのない艦内生活に長期間耐え順応し、 さらに仲間との共同作業に当たらなければならないため、 自己抑制や協調性が特に要求されてきた。 そのうえ、海軍軍人の場合には戦う戦士として、 艦内にあるあらゆる武器や機械に慣熟した技術者でもなければならなかった。 また、 一人の単純な過ちが艦を沈めるという災害を招くこともあることから、 古来、 船乗りには与えられた職務に対する十分な知識技能と責任感が強調されてきた。 また、 その上に外国を訪れる機会も多く、 海軍士官が母国の評価の直接の対象となるところから、 語学やエチケット、 そしてプロトコールと呼ばれる外交儀礼をも身に付けなければならなかった。

2 海軍教育の変化ー海上から陸上へ

 このような理由から海軍士官の人選は創設期のイギリスやアメリカ海軍では、 艦長が13才から16才の縁故者(通常は名門出身)を艦長従兵という名目で乗艦させ、 海上経験を積ませ艦上で教育していた。しかし、 19世紀に入ると産業革命の影響が海上にも及び、 18世紀後半に陸上に出現した蒸気機関が1820年代に入ると軍艦にも採用され、 1842年には世界最初のスクリュー推進の軍艦プリンストンがアメリカに出現した。 さらに19世紀後半になると従来の先込砲から螺旋砲となり、 炸薬を内蔵し信菅を装備した炸裂弾が生まれ、 1885年には魚雷が開発された。 このような近代武器の出現により従来の理論抜きの艦上における体得教育や現場教育では近代武器が運用できなくなり、 基礎的科学技術や数学などを教えるため陸上に於ける集合教育が始められた。 この時代の要請に最初に反応したのはアメリカ海軍で、 1845年10月10日には海軍兵学校をアナポリスに創設した。 しかし、 伝統を重視するグループの反対もあり、 当初は艦上実習の合間に陸上に於いて基礎教育を行うという程度で、 あくまでも艦上における実践教育が主流であった。

 一方、イギリス海軍は1837年には総ての候補生を特定の軍艦(旧式の予備艦)に集めて教育する方式を取り、 1857年には三等戦列艦イラストリアス(帆船)が、 1859年には1等戦列艦ブリタニア(帆船)が、さらに1869年にはプリンス・オブ・ウエールス(スクリュー推進艦)が海軍兵学校の練習艦に指定され、総ての海軍生徒が艦内生活をしながら教育を受けたが、 教育内容は航海術の理論と実際、運用術、 初等数学、 それにフランス語などであった。 その後、1900年のセルボーン計画によりオスボーン(ワイト島)とダートマスに兵学校を創設したが、 イギリス海軍が艦上教育の不便と艦内生活の非衛生的なことから、 全生徒を陸上のダートマス海軍兵学校に移したのは1903年のことであった。

 日本に於ける海軍士官の教育は安政2年(1855年)に徳川幕府が長崎に海軍伝習所を開設したのを嚆矢とするが、 教育場所はオランダから贈られたスームビング号の艦上であった。 その後文久2年(1863年)に神戸に海軍操練所が開設されたが、 明治維新によって閉鎖され、 維新後の海軍教育は明治2年(1869年)に東京築地の海軍操練所で始められた。 翌3年には海軍兵学寮と名称を変え、 イギリスからドウグラス(A.L.Douglas)を長とする34名の教官団を招聘して本格的教育を開始したが、 ドグラスの進言で筑波を兵学校練習艦に指定するなど艦上における実務教育が重視されていた。 明治9年には海軍兵学校と改称され、 伊知地弘大佐の兵学校が東京の繁華なところにあるのは、 修養過程にある生徒教育上面白からずなどとの意見具申もあり、 明治21年に人里は離れた江田島に移転した。

3 近代化と教育訓練の変化

 科学技術の発達や戦争様相の複雑化から戦略、 戦術から政治、 経済、 国際法などの知識が上級士官に必要となり、 1884年にはニューポートにアメリカ海軍大学校が創設され、 戦術、 戦略、 国際法、海軍史、 海軍政策、 ロジスティツクスなどが教えられた。 なお、 イギリスは海軍大学校の創立もアメリカより遅れ、 開設されたのは1900年であった。しかし、 その後に武器や戦術がさらに発達史し、 戦闘における陸海空軍の境界が不明確となり、 陸海空軍3軍間の協同連携が不可欠となると陸海空3軍大学校(日本では統合幕僚学校)が、 さらに戦争がグローバル化し政治、 経済、 外交などあらゆる分野の力を総合した総力戦となると、 軍人のみならず政府官僚などをも教育する国防大学校(日本では防衛研究所)が生まれた。 また、 さらに第2次世界大戦後の東西対立からNATO軍が創設されるなど同盟関係が重要となると、 陸海空軍大学などに外国士官を対象とした国際課程が設けられるなど、 同盟国との連携を重視した教育が実施されるに至った。
一方、術科教育は最初は運用術練習艦、 砲術練習艦など専用の術科練習艦で行われ、 日本海軍も当初は砲術練習艦に浅間、 水雷練習艦に迅鯨などを指定していた。 しかし、 明治末期になると1艦で航海、 運用、 射撃から機関まで多様な術科訓練を同一艦で行う多目的練習艦方式に変わった。 しかし、 最近では電子戦・ミサイル戦などの戦闘様相が複雑化したため、 陸上の対潜戦や防空のシュミレーション戦訓練装置を利用した陸上での訓練の比重が増加したが、 さらに最近では車両搭載の移動式訓練セットを岸壁に運び艦内の武器や機器と連接し、 コンピューターにより自艦の武器や指揮装置を利用して各種戦の疑似訓練を行うなど、 訓練方式は時代とともに大きく変化しつつある。

4 練習艦と列国海軍

   海軍士官の教育にシーマンシップが不可欠であり、このシーマンシップをいかに体得させるかに、 各国ともそれぞれ国情に応じて工夫してる。 練習艦を保有し遠洋航海を行っている海軍と、 短期の乗艦実習を在学中に行い卒業後直ちに一線部隊に配属させるアメリカやイギリス方式と世界の若年士官の艦上教育は大きく二つに分けられる。また、 遠洋航海も「かとり(日本)」、 「ドイチランド(ドイツ)」、 「ジャンダーク(フランス)」などのように機走練習艦を保有している国もあれば、 チリー、メキシコ、スペイン、ポーランド、 インドネシアなどのように帆船練習艦を保有している国もある。 また、 遠洋航海も最高学年に達した4年生の時に実施する国、日本のように卒業後に実施する国、 アメリカやイギリスのように遠洋航海を実施せず兵学校卒業後に個艦に配属して教育をする国など多様である。 日本やフランスのように有事には戦闘艦に転換できる近代的練習艦で実施すべきか、 またシーマンシップの育成を重視し、 帆船とすべきかなどについては議論が別れるところである。 以下、 これらの利害特質、 長短所について考えて見たい。

 個艦に小人数を分散配属させるアメリカ・イギリス方式は、 実務の体験機会は多いが教育の整一性を欠き、 さらに複雑化した機械や武器を平均的に理解させる上に問題が残る。 一方、 専用の練習艦では実務を体験する機会が少なく、 また実際に幹部として待遇できないし、 実際に部下を指揮することもないので幹部としての自覚の育成などについては問題が残るが、 体系的な教育、 教育内容の均整化などには有利である。 しかし、 なぜ、 大海軍国アメリカやイギリスが遠洋航海を実施しないのであろうか。 練習艦の保有状況から見ると大陸国家の海軍が練習艦を保有し、 海洋国家の海軍が保有していない傾向があるが、 これは海洋民族が実務重視、 実利主義者であり大陸民族が実務より理論を重視するという国民性に起因する部分があるかもしれない。 しかし、 これは世界の海を支配し常に国外に展開される大海軍国である海洋国家と、 外国を訪問する機会が少ない中小海軍国の大陸国家との国家存立の地理的位置の差にあるのではないか。 3大海軍国といわれた日本海軍がイギリス海軍に範をとりながら海軍創設の直後から遠洋航海を実施しているのは、 このような理由にあるのではないであろうか。

 練習艦を帆船とすべきか近代的艦船とすべきかは、 海軍に関する限り議論なく近代的練習艦にすべきであろう。 確かに帆船は自然の厳しさやトリムや傾斜が操船におよぼす影響、 風潮や波浪などの外力が船の運行に与える影響など、 帆船には機走練習艦では身につけることができない多くの貴重な体験が得られる利点がある。 船乗りとして自然の厳しさや優しさや、 船乗りとして不可欠なシーマン・シップという素質を体得することができるので、 この観点から商船大学などの練習船に帆船を使うのは意義があるかもしれない。 しかし、 海上自衛隊の幹部、 あるいは近代海軍の海軍士官に要求されるものは、 単なる船の運航や錨作業、 ボート作業のシーマンシップだけではない。 武器を操作し戦術を理解し、 近代的推進機関などを総合的に学ぶことであり、 これらの武器を搭載した近代的艦船が海上実習には不可欠である。 また練習遠洋航海を1隻で行うか、 随伴艦を伴う艦隊方式とすべきかについては、 経済的視点に立つなら議論が別れるかもしれない。 しかし、 自衛艦に不可欠な簡単な戦術運動訓練も、 ハイライン訓練も、 曳航被曳航訓練も二隻以上でないと不可能であり、 さらに現代では最新鋭艦艇を派遣し国家威信や、 自国の科学技術水準の高さを示す傾向にあることからも、 新鋭艦を随伴させるべきではないであろうか。

4 練習艦の“Show the Flag"効果
(1)外交政策支援上の価値


 軍艦の訪問は軍艦が治外法権の特権を有し、 国家の主権を保有した領土が訪問国に移動することであり、 砲艦外交といわれ極めて政治的に利用されてきた。 この艦艇の派遣には近くはイラクに対して行われたアメリカ、イギリス、フランスなどイラク近海への展開、 海上封鎖や臨検の実施などの威示行動から、 友好関係の増進を目的とする練習艦隊のVisit of Courtesyと呼ばれる公式訪問、 さらに訪問国海軍との共同訓練、 訪問国の国家的祝賀行事への参加など、 軍艦の外国訪問には各種の段階があり、 軍艦の移動や行動を国家意志を示す強弱、 事態エスカレーションの主要なものを示せば下図のとおりである。

主要都市など重
要地点の攻撃
軍事施設などの攻撃
限定的地域(海域)外の
軍事施設・艦艇などの攻撃
限定的地域(海域)内の軍事
   施設・艦艇などの攻撃
防衛(交戦)地域・海域などの設定
  海上封鎖などによる経済的圧迫
   船舶・航空機の臨検・抑留・拿捕
対象国にとり重要な地域(水域)陸海空
 路の封鎖
    対象国周辺への軍事力の集中・展開
  艦艇の配備替えなどによる国家意志の表示
武器の売却(譲渡)・教官派遣・留学生の受け入れ
などによる友好関係や勢力範囲の拡大
           共同訓練などによる友好関係の増進
    災害救助・医療支援・測量支援などへの軍隊の派遣
艦艇・部隊などの相互訪問・国家行事(独立記念日)などへの参加
       取り得るオプションの大きさ→→→
         軍事力使用エスカレーションの具体例

 このように軍艦の単なる訪問にも深い政治的意義あるが、 その一番低い段階の訪問国との友好関係の増進が練習艦の公式訪問である。とはいえ、 練習艦も軍艦であり極めて政治的に利用されることもある。 明治29(1896)年に練習艦金剛がマニラに寄港したが、 この単なる寄港と金剛艦長が独立派の代表と会見したことが、 独立派フィリピン人の間に日本が独立運動に支援するとのデマを生み、 それが独立運動参加者に長期にわたり日本の援助に対する期待を持たせ、独立軍司令部からは次のような電報が発せらたのであった。

   独立軍司令部から各部へ
   「本日アギナルド(フィリピンの独立運動の指揮者、 初代大統領)からの緊急情報によれば、
    我々を支援するために日本から軍艦金剛が到着し現在、 コレヒドール島の沖合に投錨している」。

(2)戦後の練習艦隊の成果の一例

 練習艦隊の訪問は初級幹部に対する海上訓練を実施することが第1の任務であるが、見落としてならないのが国家の代表である軍艦のもたらす政治的外交的効果であろう。 この外交的効果には訪問国との友好関係の増進が第1に上げられるが、日本が小国であった昭和30年代から40年代初期には、 在留邦人に対する支援、 日本の造船技術を最高の技術が集約された最新鋭の護衛艦という実物で外国に紹介する見本市的効果もあった。 また、 初期の練習艦隊では寄港地の日本人を招待し「邦人の夕べ」などを開催し、艦上に懐かしい「おでん」「すし」「てんぷら」から「お汁粉」などを準備し、 日本映画を上映して在外邦人を激励したこともあった。 しかし、 練習艦隊の効果で見落としてならないのが練習艦隊乗組員の長年にわたる無事故と高い規律が、 日本への敬意と日本との友好関係増進に役立った功績ではないであろうか。 私の脳裏に今でも残っている言葉は、 ややキザではあるが、 ワシントンでの大河原駐米大使主催の歓迎会で、 実習幹部の素晴らしい対応に接したアメリカの高官が「日本は素晴らしい未来をもっている」との言葉であった。

 また、 練習艦隊の訪問による友好増進や日本の文化紹介状況の一端を、 私が練習艦隊司令部主席幕僚であった昭和57年度南米遠洋航海について示せば、 練習艦隊司令官が訪問した大統領はペルー・チリー・エクアドルの3ケ国、 ペルーの大統領は昼食会に来艦したが、 このほかに練習艦隊が行った13寄港地の行事を列挙すれば、 次の通りでニューヨークでは1頁を割いた特別記事が掲載され、邦人からこのように大きく日本関係の記事が取り上げられたのは昭和天皇のご訪問の時だけであり、 政治家や外交官などが100人来るより練習艦1隻の訪問の方が日米親善には効果があると感謝された。



このほか練習艦隊の行事には訪問国の名士を招待する昼食会、艦上レセプション、 一般公開などがあるが、このほかに音楽隊は公園やTVに出演して24回の演奏会を開き、 また剣道、 柔道、 空手部員が日本の古代武技を紹介する武道展示などを行ったが、 見学者は文部大臣などを含め約1万1000人に達した。また、 メキシコ・シテイー、 バンクーバー開港100年祭、 チリーなどで3回の市中行進を実施したが、 これらは新聞だけでなくテレビで中継されるなど、 大きく報道されるのが常である。 さらに練習艦隊が支援する文化交流活動として横須賀の小学校生が描いた児童画を訪問地13ケ所の市長や校長などに手渡し、 さらに日本の教科書と訪問国の教科書との交換などの支援を実施した。




   1983年年度遠洋航海の行事一覧表
記者会見 12回122社(178名)
武道展示 13回1万1000名
昼食会(VIP)
昼食会(一般)
 VIP15回(202名)
 一般18回(3175名)
親善競技 バレー7回、ソフト8回、
サッカー3回
艦内公開(一般)
艦内公開(特別)
5万6166名
3880名
音楽隊演奏会 24回(10万5000名)
日本紹介映画上映 12回3000名
電灯艦飾・英霊碑献花 電灯飾12回、英霊碑献花23回市中行進3回
その他 児童画交換(13都市、教科書交換6カ国

 しかし、 現在の日本で練習艦を保有する最大のメリットは、 練習艦も護衛艦も国内法では単なる船舶に過ぎないが、 外国では軍艦として日本の主権の象徴として礼遇されている事実を実習幹部が実地に体験し、 さらに練習艦隊がもたらす“Show the Flag"の偉大な効果に身を以て接し、 戦後教育のため国家概念の希薄な実習幹部が、 国家意識や愛国心に目覚め、 海上自衛官としての自己の職務に自信と誇りを深めることではではないであろうか。

   (昭和57年度練習艦隊首席幕僚)