潜水艦との戦い―潜水艦をめぐる武器開発の一世紀
(沈黙の艦隊との絶え間なき技術戦争 『丸』の題名)
黎明期の潜水艦と潜水艦戦
潜水艇が建造された時には潜航水雷艇(Submarine Torpedo Boat)と呼ばれ、日本が米国からホランド型潜水艇を輸入した時にも「特号水雷艇」と呼称していた。この潜航水雷艇は米国のデビッド・ブシュネルによって開発され、独立戦争では実戦にも投入された。この夕一トル(亀)と名づけられた潜航水雷艇は木造で、時計仕掛けの発火装置の機雷を曳航し、1776年9月に敵艦の艦底にネジ付けしようとした。しかし、艦底が銅板で覆われていたためネジ込みができずに失敗、その後も試みたが成功しなかった。次いで1787年には米国人ロバート・フルトンが、水上航走時には帆を使い、潜航時には人力でクランクを廻して歯車によりスクリューを廻す3人乗りのノーチラスを設計し、フランス海軍の協力を得て建造しハーブル港内で1時間の展示潜航試験に成功した。ノーチラスの攻撃武器はスパイクを付けた曳航索に機雷を結びつけ、曳航索のスパイクが艦底に付着すれば、曳航策の張力で引金が引かれ爆発する仕組みであったが、フルトンの熱心な売り込みにもかかわらず英仏海軍には採用されなかった。
潜航艇が最初に実戦に使用されたのは南北戦争で、南軍のH・L・ハンレーは人力推進の8名乗りの潜水艇(約2トン)を建造し、1864年2月に北軍のスループ艦ハウサトニック(1800トン)をスパー・トロペドー(Spar Torpedo:艦首に長い竿を付け、その先に爆薬を装備した魚雷)で撃沈したが、爆発の煽りを受けて沈没してしまった。
次ぎに潜水艇が注目を集めたのは日露戦争であった。ロシア海軍はサンクトペテルスブルグのクルップ分工場で、1902年にデルフィン(Delfin・ロシア語のDolphin)を建造したが、テスト中に沈没してしまった。しかし、日露の風雲急となると引き揚げ分解し、シベリア鉄道でウラジオストクに運び1904年末に就役させた。一方、日本海軍も1905年7月に米国からホランド型潜水艇5隻を購入し、横須賀海軍工廠で組み立てたが、完成した時には戦争は終わっていた。潜水艦王国と言われたドイツ海軍ではあったが、潜水艦への取り組みは遅く、U-1と名付けた最初のUボートを建造したのは1906年12月であった。この艇は排水量283トン、攻撃武器は発射管1門(予備魚雷3本)で備砲はなく、潜航深度は30メートルでガソリンエンジンを使い水上10・8ノット、水中8・7ノットであった。このように初期の潜水艦は武器も貧弱で、潜航することさえも不安な兵器であった。しかし、潜航艇の存在が与える心理的影響は大きく、バルチック艦隊のウラジオストク回航時には日本が潜航艇や水雷艇を商船で運び、停泊中や夜間に襲撃するのではないかと警戒し、中立国の港に停泊中でさえ港外に哨戒艦艇を配備するなど、乗組員に重い負担と心理的緊張感を与え続けた。
第一次世界大戦中の対潜水艦戦と武器
潜水艦と潜水艦の戦い
第一次世界大戦は衛星もレーダーもない時代の戦争であり、水上艦艇ですら外洋では発見が難しかった。まして水中の潜水艦を発見する手段は時として露頂する潜望鏡か、その航跡を肉眼で発見するしかなく、Uボートには怖れるべき敵はなかった。しかし、Uボートにもネックがあった。それは搭載魚雷数であり、魚雷を節約するため商船の場合には浮上し砲撃により撃沈していた。また、国際法では中立国の船舶を攻撃することが禁止されており、撃沈する前に国籍などを確かめ例え敵国の船舶であっても、船員に退船する時間を与えなければならなかった。一方、英国やフランス海軍はUボートのこの弱点を逆手にとり、中立国の旗を掲げ中立国の会社の標識で擬装するよう指示していた。さらに英国は1914年11月には外観は普通の商船を装い、故意にUボートが出没する海域を遊弋させ、Uボートが浮上し臨検のために接近すると、隠していた大砲で攻撃する囮船(Qシップ)を採用し、これによりドイツ海軍は11隻を失った。また、英国海軍はトロール船で潜水艇を曳航し漁業をしているように装い、トロール船を攻撃しようと浮上すると、曳航索に結ばれた電話で潜水艇と連絡し雷撃する方法をとり、1915年には2隻を撃沈した。また当時の潜水艦と潜水艦の戦いは、浮上している潜水艦を発見した潜水艦が潜航し雷撃する戦法であったが、この戦いでドイツ海軍は10隻(2隻はイタリアとフランス)、連合国は18隻を失った。
戦争初期は潜水艦が浮上しない限り攻撃できず、聴音機(ハイドロフォン)が開発される以前は、潜水艦を目視した海面に闇雲に爆雷を投下していたため、開戦から3年が過ぎた1917年末に至っても水上艦艇は9隻のUボートを撃沈し得たに過ぎなかった。英国は1915年末に無指向性の聴音機を開発し、1917年初頭に指向性聴音機を実用化した。これに対して初期のUボートの対策は海底に沈座し、機関を停止し聴音から逃れていた。また、爆雷は1916年1月には開発されたが、聴音機も機雷も生産が間に合わず、対潜部隊に行き渡ったのは1918年に入ってからであった。しかし、この新兵器が行き渡るとこの年には1年間で22隻を撃沈した。英国の科学技術力がUボート戦に勝利をもたらしたのであった。
通商破壊戦と護衛船団部隊との戦い
第一次世界大戦における英独海軍の決戦は護衛船団とUボートの戦いであった。米国の強い抗議を受けてドイツは無制限潜水艦戦の宣言を撤回し、戦時法規の捕獲規定を適用する苦しい戦いを続けていたが、1917年2月には再び無制限潜水艦戦を宣言した。これにより米国の参戦を招いたが、同月のUボートの戦果は最高の372隻で86万トンに達し、英国は存亡の危機を迎えた。この対策としてロイド・ジョージ首相は護衛船団方式の採用を指示した。しかし、ジョン・R・ジェリコ軍令部長やデビット・ビーティ艦隊司令長官などが運行効率が低下するなどと反対し、実施は5月まで延期された。しかし、5月に試験的に実施したところ被害がなく、7月から本格的に開始し11月末までには外航船の90パーセントを船団に組み入れた。その効果は絶大で5月には月間59万トンであった被害が、
11月には28・8万トンに低下した。Uボートが護衛船団方式に敗北したのは、戦術的には連合国が航空機や飛行船を投入したからであった。投入された航空機と飛行船は総計56機で、28隻を発見し19隻を攻撃したが沈められたUボートはなかった。しかし、航空機や飛行船による広範な哨戒が電池充電時間を短縮し、それがUボートの船団への接近を阻止したのである。
また、Uボートの敗北を政治的に見ると、ベートマン・ホルヴェーク総理が英国の「潜水艦戦は国際法違反であり、人道上許されない海賊行為である」との巧妙な国際世論の利用に動揺し、無制限潜水艦戦を躊躇している間に英国に対潜戦備を充実されてしまった不決断にあった。制限潜水艦戦時の1ヶ月当たりの撃沈トン数が153・7万トン、無制限潜水艦戦時の撃沈数が389・8万トンであったことを考えると、もし開戦初頭から無制限潜水艦戦を中断することなく継続していたならば、戦局はドイツに有利に展開し、米国の参戦前に英国が存亡の危機に直面し、第一次世界大戦の推移は異なった展開を示した可能性も否定できない。
第一次背か一戦中のドイツ潜水艦の戦果
撃沈隻数 | 撃沈トン数 | 月平均トン数 | ||
制限潜水艦戦 | 2,133 | 3,688,980 | 153,708 | |
無制限潜水艦戦 | 3,524 | 8,574,831 | 389,765 |
第二次世界大戦の対潜水艦戦と武器
レーダーと対抗武器の戦い
夜間あるいは霧中の潜水艦の隠密性を破り、Uボートの活動を封じ連合国に勝利をもたらした兵器の一つがレーダーであった。ドイツ海軍は英国海軍より1年半も早い1934年3月には、秘匿名が回転砲塔装置という波長1・5b波のレーダーを開発し実用試験を行い、1939年夏には小型化し実験的に潜水艦にも取り付けた。しかし、潜航時にアンテナなどの収納に時間がかることから放棄されてしまった。また、ドイツ海軍は1941年初頭には連合軍がレーダーを使用している兆候を掴んでいた。しかし電波を発射し自己の位置を暴露することをおそれ、レーダー波を検出する装置を重視し、メトックス(Metox)
逆探装置を開発し、1942年8月から年末までにすべてのUボートに装備した。また、シュノーケルや艦橋に電波吸収材タルンカツテ(Tarnmate)を塗装し、1944年にはデコイ(対レーダー疑似目標)のテーティス(Thetis)や、アフロディーテ(Aphrodite)を開発した。しかし、ドイツ海軍は1943年に連合軍がメートル波からセンチ波レーダーに切り替えたが、センチ波は開発不可能との思い込みから、1943年2月に撃墜した英国機からセンチ・レーダーを発見するまで、メートル波探知機を使っていたため哨戒機の接近を探知できずに急襲され犠牲を重ねてしまった。
1943年夏にセンチ波に対応したナクソス(Naxcos)、1944年にはチュニス(Tunis)、ホーエントヴィール・ゲレート(Hohentwiel
Gerat)などの 逆探装置を開発したが、レーダーの威力は絶大でレーダーが勝利した。レーダーの有効性を数値で示せば、第2次世界大戦中の潜水艦と潜水艦との戦いで、レーダー装備の連合国潜水艦と非装備の日独伊の潜水艦の撃沈数を比較すると、ドイツが10隻対21隻で2分の1、日本が3隻対17隻で6分の1、イタリアが2隻対19隻で8分の1のスコアーとなる。またもや科学技術力が英国に勝利をもたらしたのである。 潜水艦対潜水艦の戦いのスコアー
順位 | 国名 | 被撃沈数 | 撃沈 | |
1 | ドイツ | 21 | 10 | |
2 | イタリア | 19 | 2 | |
3 | 日本 | 17 | 3 | |
4 | ソ連 | 8 | 2 | |
5 | 英国 | 6 | 35 | |
6 | フランス | 3 | 0 | |
7 | オランダ | 2 | 3 | |
8 | 米国 | 1 | 20 |
水中捜索兵器とその対抗兵器
英国海軍は開戦前にはアスデイック(ASDIC)で探知し、爆雷攻撃を加えればUボートを制圧できると考えていた。しかし、ドイツ海軍はアスデイック音を感知すると海底に沈座してやり過ごし、昼間襲撃から見張り能力が低下する夜間襲撃に切り替えたため顕著な成果は上がらなかった。一方、Uボートはアスデイック対策として船体にゴム泊を塗装する吸音材アルベリヒ(Alberich)、水中聴音機バルコン・ゲレート(Balcon Gerat・露台装置)などを開発した。この装置は感度の高いマイクロフォンを多数装備し高性能のアンプで音を拾い、その感度差から方位を測定する方式で、測定時に艦を停止する不便はあったが、海上が静穏な場合には50浬前後の目標の方位と針路や速力、さらに船団の規模なども推定できた。この装置の開発によりUボートは目標の5―6浬に接近後、アクティブ・ソナーのズーフ・ゲレート(Soff Gerat)に切り替え、短い音波信号を発信し目標までの距離と方位を測定後に、発射諸元を魚雷に調定し攻撃することが可能となった。さらに、大戦後半にはアスデイックを欺瞞するため、カルシューム(カ一バイト)を入れた小型円筒を射出し、炭化カルシウムが海水に触れて濃密な気泡を発生しアスデイックの探知を妨害している間に逃走する気泡発生弾ボルド(Bold)を、また、航走しているように思わせる偽音発生弾シークリンデ、爆発音でソナーを一時に作動不能にするジークムント弾などを開発したが、いずれも終戦時に試作段階であった。
潜水艦の攻撃武器―魚雷と大砲・機関銃
連合国は戦いが進むに従い24発の小型対潜爆雷が楕円を描いて着水し、1発でも磁気に感応すれば全弾が爆発するヘッジホッグ(Hedgehog)、スキッド(Squid)爆雷投下臼砲、航空爆雷、ロケット弾、さらに1943年6月には対潜ホーミング魚雷フィド(Fido)などを開発したが、ドイツ海軍はどのように応じたのであろうか。大戦勃発時にドイツ海軍が保有していた潜水艦用魚雷は口径53センチのG7a型とG7e型であった。前者の推進は圧縮空気式、後者は電動式で、G7aは炸薬量は少なかったが射程が長く、G7eは熔薬量は多いが射程が短く低速であった。両魚雷とも信管は磁気式と接触式があり、使用時に選択することができた。その後1942年12月にはG7型魚雷を改造し、調整した距離を直進後に船団前方で自動的に円弧運動を行い目標を求めるパターン・ホーミング魚雷フアット(Fat・Federapprat:)、船団の前提で調整した角度でジグザグ航走を始めるルット(Lut・Lagenunabhabinger)を開発し、これにより船団の編隊の中まで潜入することなく攻撃ができるようになった。
また、1943年9月には対潜艦艇反撃用のT-5型魚雷ツアーウンケーテッヒ(Zaunkonig・みそさざい)を開発した。この魚雷の投入初期の効果はめざましく、1943年9月18日から23日の間に、2船団を護衛中の護衛艦に24本を発射し12隻を撃沈した。しかし、この効果も長くは続かなかった。発音体のフォクサー(Foxers)を曳航し、魚雷を発音体に引き付け爆発させる対抗策を取ったからであった。これに対してドイツ海軍は追尾対象をスクリュー音から補助機械音に変えたT-11型魚雷、さらに音源に直進しない装置などを開発したが、いずれも敗戦までに実戦に投入できなかった。
初期のUボートの対水上・対空武器は105_か88_単装砲(いずれも水上・対空の両用砲)と20_単装機銃で、105_砲と88_砲は単独航行の商船の攻撃に効果があった。しかし、対空脅威が増大した1943年頃から司令塔前後に一段低い機銃台を設け、13・2_か20_連装または4連装機銃などを装備し果敢に応戦した。しかし、哨戒機がロケリト弾や40_機銃を装備し射程外から攻撃される事態になると、積極的な応戦を避け水中に逃れるようになった。しかし、無用になった対空火器を敗戦まで撤去することはなかった。航空攻撃に対するよりどころー「お守り」を撤去するのに抵抗があったのかもしれない。
護衛船団とUボートとの戦い
護衛船団とUボートの戦いで最も輝かしい成果を上げたのは、1943年3月中旬にニューヨークを出港したHX229とSC122の92隻からなる二つの船団をUボート38隻が迎え撃ち、1隻を失っただけで商船27隻と護衛艦1隻を撃沈した戦いであろう。しかし、狼群戦法に必要なのは情報であり、短時間に集合できる高速力であった。ドイツ海軍は捜索用にアラード型小型偵察機を開発したが、波浪があると着水が困難なことから取りやめ、次ぎに曳航すると凧のように浮上するオートジャイロ・バッハシュタイツェ(Bachseize)を搭載しようとした。しかし、完成したときには制空権を失っており取りやめられた。最初にシュノーケルを実用化したのはオランダ海軍で、1939年に2隻、1940年に6隻にシュノーケルを付けた。しかし、実戦に投入する前にドイツ軍に接収されてしまった。接収時にドイツ海軍は余り関心を示さなかかったが、英国がレーダーを開発し夜間の充電が困難となると、1942年9月にはV皿C型の3隻に取付けた。しかし、当初はシュノーケル停止時の気圧の急変による鼓膜の破裂や強烈な排気の逆流による転倒、一酸化炭素中毒などから部隊では歓迎されなかった。また、造船所にも余裕がなく、1944年4月に至っても30隻程度にしか取り付けていなかった。しかし、連合国の航空哨戒体制が強化されると装備を急ぎ、1944年夏頃にはほぼ全艦に取り付けられ、シュノーケルによりUボートは大戦末期まで生き延び多少なりとも戦果をあげ得たのであった。
また、連合国の対戦能力の質量の増加に対して逃れる方策は、高速化と静粛化、それに潜航深度の増加であった。ドイツ海軍は試験艦ではあったが1944年には水上速力15・6ノット、水中速力16・8ノットと、水中速力が水上速力を上回るXXI型(1621トン)を誕生させた。また、過酸化水素の分解熱と同時に生じる酸素を燃焼に用いることで、空気の供給なしにエンジンを回転できるワルタータービンを開発し、1944年中期にはXVII-A型4隻、後期にXVII-B型3隻の合計7隻を完成した。しかし、いずれも試験段階で終戦を迎えた。また、群狼作戦を実施するには情報が不可欠であり、多数の潜水艦との交信が不可欠であったが、1942年中期頃より英国が開発したハフダフ(Huff
Dafuu)短波方向探知機に探知され、警戒態勢が強化され船団に接近中の多数のUボートが犠牲になった。当初Uボート側は原因が判らず対策に苦慮したが、やがて自らの電波輻射であると気づき、秘匿名称クリエル(早飛脚)という圧縮送信装置を開発し1944年中期頃から装備した。この通信装置により通信文を数十分の一秒単位で送信することが可能となり、さらに司令部からの指示も潜航中にも伝達できる長波の通信装置ゴリアート(Goliath・巨人)で可能となった。しかし、レーダーや航空爆雷、ホーミング魚雷を搭載した哨戒機の増加、護衛空母と対潜艦艇のハンター・キラーなど、連合軍の対潜兵力、対潜武器の質的量的強化の前に船団の周辺に集合すること自体が不可能となり、勝利の女神は護衛船団の上に微笑み群狼戦法は終わった。
第二次大戦後の潜水艦の任務の多様化と武器装備
第二次世界大戦後の対潜戦とその武器体系
第二次世界大戦後は潜水艦の出入港や海面温度の変化、航跡などを探知できる偵察衛星、広範な海洋や海峡の海底に設置された音響探知システム(Sound
Surveillance System)など、監視体制は宇宙空間から海底にまで拡大されただけでなく、海底には音響や磁気に反応してカプセルから、ホーミング魚雷が射出される自走魚雷などの脅威も待ち受ける戦略環境が出現した。さらに上空にはアクティブ、パッシブのソノブイを投下する大型対潜哨戒機や、釣下げソナーを搭載したヘリコプターが出現し、探知された音紋(潜水艦の発する固有の音響スペクトラム)は陸上の対潜分析センターに送られ、個艦名まで識別される時代になった。また、水上には対潜艦艇、水中には潜水艦が大型艦首ソナーや艦側にはフランク・アレー・ソナー、艦尾からは曳航ソナー・タス(TASS:Towed
Array Sonar)、可変深度ソナー(VDS:Variable Depth Sonar)が、また、攻撃武器には調整された距離を飛行後に水中に潜り、音源や温度を関知して追尾するホーミング魚雷やソナーで捜索して命中するASROC(Anti-submarine
Rocket)なども出現した。さらに海中には対潜用ハプーンミサイル(UGM-84)、外洋深海用のMK-48Mod6や沿岸浅海用のMK-48ADCAP(Advanced
Capability)Mod7などの長魚雷を搭載したSSNが音もなく追尾している。しかし、潜水艦の性能も向上し潜望鏡の倍率が増加したただけでなく、赤外線暗視装置、撮像装置、レーザー測距儀などが付加され、潜水艦の耳であるソナーは艦首だけでなく艦側にはフランク・アレイ・ソナー、艦尾には曳航式アレイ・ソナーも加わった。また、高張力鋼の開発と溶接技術の向上から潜航深度が増大し、安全潜航深度は300bから700bに拡大し、速力も原子力により水上艦艇より高速になった。
潜水艦の進化と地位の変化
第二次世界大戦後に米国はカプセルに入れたV-IIロケットを北米東岸300キロまで曳航し、米本土を攻撃しようとしたVシリーズのミサイルを参考に、最初の巡航ミサイル・ルーン、次いでレギラスを開発した。また、航空機3機を搭載した潜水空母伊400型のハンガーからヒントを得たのであろうか、1956年には建造中の通常型潜水艦グレイバックとグラウラー、SSNハリバットにミサイル用ハンガーを造り核弾頭装備のレギュラスIIを搭載し、1959年にはレギュラスIIを搭載したSSG5隻がハワイに展開され実任務に就いた。1954年には世界最初のSSNノーチラスが就役し、1959年にはポラリスAI弾道ミサイル(SSBM)を搭載した戦略核搭載原子力潜水艦(SLBM)ジョージ・ワシントンが竣工し、翌年1960年にはバレンツ海に最初の核抑止任務に出港した
一方、ソ連海軍も一歩遅れてはいたが1955年9月には在来型潜水艦(SS)のズールー(Zulu)のセイルの中に射程300浬のSLGM2発(SS-N-4)を搭載したが、1958年には最初のSSBNノベンバー(November)を竣工させた。英国は1963年にドレットノート(Drednought)、フランスは1971年にル・ルドゥタブル(Le
Redoutable)、中国は1981年に夏を竣工させた。第一次世界大戦も第二次世界大戦でも、冷戦でも潜水艦は敵の海上交通を壊滅させる兵器であり、また、艦隊決戦の補助兵力であった。しかし、第二次世界大戦後は超大国の米国がポーラリスA3、ポセイドンC4、トライデントII(D5)と進化させたが、ロシアもSS-N-4、からSS-N-18(スティングレイ)、SS-N-20(スタージョン)、SS-N-23(スキフ)、中国も「夏」搭載の射程1460浬の巨浪I型(1弾頭)から「晋」搭載の巨浪II型(MIRV・複数弾頭)と核戦力の近代化を進めている。
また、戦術ミサイルも米国はトマホーク(UGM-109)、ハープーン(UGM-84)、ロシアはSS-N-5(グレイル)からSS-N-15(スターフィッシュ)、SS-N-27(クラブN)と性能を向上させ、対潜ミサイルは米国のサブロック(UUM-44)、ロシアのスターリオン(SS-N-16)、SS-N-27(クラブS)へと進化させ、潜水艦を戦術兵器から戦略兵器に変えた。国際連盟の常任理事国すべてがSSBN保有国であることが示すように、SSBNがかっての戦艦のように国家の威信と国力を象徴する艦種となったのである。
SSBN/SSGN(戦略核/戦術核搭載原子力潜水艦)の保有国一覧
国名 | 現有潜水艦級と隻数 | 建造中の潜水艦級と隻数 | |
アメリカ | Ohaio級14隻 | ||
ロシア | Typhoon級3隻 DelaIII級7隻 Oscar級6隻 |
Borey級3隻建造中 Yasenn級(SSGN)1隻建造中 |
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イギリス | Vanguard級4隻 | 代艦建造決定06年12月 | |
フランス | L'Inflexible級1隻 Le Triomphant級3隻 |
L'Triomphant1隻建造中 | |
中国 | 夏級1隻 | 晋級2隻建造中 |
冷戦中のSSNの主要な任務は敵のSSBNやSSNを監視・追尾し、攻撃する任務や空母打撃部隊の護衛が任務であった。しかし、冷戦構造が崩壊し米ソ間に核軍備制限交渉が成立し非対称戦争の時代に入ると、米国は2003年にSSBNのオハイオ級4隻のSLBMを撤去し、巡航ミサイル(SLCM)トマホーク154発を搭載し、特殊部隊(SEAL)66名を収容するSSNに改装を決し、2007年には改装1番艦が戦列に加わった。また、1991年の湾岸戦争ではトマホークSLCMが初めて実戦に投入された。オハイオ級SSBNのSSNへの改造は水上艦艇が担うべき任務の潜水艦への移管であり、シーパワーの水中化を示す象徴的な改造であった。
SSN(戦術原子力潜水艦)の保有国一覧
国名 | 現有潜水艦級と隻数 | 建造中の潜水艦級と隻数 | |
アメリカ | Virginia級4隻 Sea Wolf級3隻 Los Angeles級49隻 |
Virginia級3隻建造中 |
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ロシア | Victor級5隻 Sierra級2隻 Akula級8隻 |
Yasen級1隻建造中 Akula級2隻建造中 |
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イギリス | Trafalgar級7隻 Swiftsure級3隻 |
Astute級3隻建造中 |
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フランス | rubis級6隻 | Barracuda級1隻建造中 |
中国 | 漢級4隻 | 商級1隻建造中、漢級2隻非稼働 |
一方、経済的にSSNを保有できない中小国は、水中持続時間を増加しようとスターリング機関、燃料電池などの非大気依存のAIP(Air
Independent Propulsion)化を進めている。このAIP推進システムの実用化は在来型潜水艦の保有国には福音ではあるが、航続距離、水中速力などをSSNと比べれば大きな格差がある。本年、期待のスターリングエンジンを搭載した「おやしお」が戦列に加わるが、水中速力20ノットで、ロシアのヤーセン級の35ノット、中国のSLCM搭載の新型SSN商の30ノットに「対抗できるのであろうか。日本周辺海域では水面下の制海権を確保しようとのせめぎ合いが深く静かに進んでいるが、非核3原則を死守する日本が世界第6位の広大な経済水域や周辺海域の権益を守り、国土を守りきれるのであろうか。
参考文献:坂本金美『日本潜水艦戦史』、『世界の艦船』No.470号(93年9月号)、No.555号(99年7月増刊号)、No.547(99年1月)、No.618号(03年8月号)、No.672(07年4月)。