地政学と国際政治、その理論:アメリカ海軍を軸にして
はじめに
国際関係を理解するのには色々の尺度があるが、 歴史的尺度と地理的尺度とい尺度も有効な尺度の一つであるように思われる。歴史的尺度が有効なのは幾多の経験や試練が人の性格を形成するように、
国家もその長い歴史の中で試練を受け、 その性格を形成して行くからである。従って、ある国家の歴史という過去の軌跡を綿密にたどると、
そこにおのずとその国家・民族の習癖、 価値観から行動の基準や範囲が判り、その国家・民族の今後の行動が予測し得るからである(1)。
さらに、 国際関係を考えるもう一つの尺度に「地政学」という地理的尺度があるが、
この地理的尺度がかってゲオポリテック(Geopolitik)と呼ばれ、 その理論がナチス・ドイツや旧日本帝国の世界侵略の一翼を担い第2次世界大戦の遠因となったことから、
一部の学者には「地政学は学問ではない」と今日これをタブー視する人が多い。しかし、
一国の置かれた地理的条件がその国の国家政策、 特に対外政策に大きな影響を及ぼすことは「外交は地形なり」との言葉の通り、
地政学は国際関係や国家戦略を考究する場合、欠かすことができない重要な要素である。
地政学を飾る代表的な陸の理論家としては、 自国の発展のためには周辺諸国を支配下に入れてもやむをえないと「生存圏(レーベンスラウムーLebensraum)」思想を全面に、
自国の領土拡大を正当化する理論を展開したドイツの地理学者カール・ハウスホーファー(Karl
Haus-hofer)、 海の代表的地政学者として制海権の確立が国家発展の鍵であると論じたマハン(Alfred
Thayer Mahan)が有名である。その後これら理論を発展させ歴史は海上権力と陸上権力との闘争だと解釈し、「ハートランド(Hartland)を制したものが世界を制する」と主張したマッキンダー(Halford
Mackinder 1861-1947)、 ハートランドを押えるランドパワーと海洋を制する シーパワーの対立とみるのは物事を簡素化し過ぎると批判し、
「リムランド(Rimland)を制するものが世界を 制する」と主張したスパイクスマン(Nicholas
J. Spykman 1893ー1943)などが出現した。 本論ではこれら地 政学の理論の概要とその理論が国際政治に及した影響について、
海洋地政学者マハンの理論が日米関 係に与えた影響について考えてみたい。
1 地政学の歴史と理論
(1)大陸地政学の発生と発展
地政学の正確な起源や創始者には諸説があるが、 地理的位置と国際政治との関係を最初に論じたのはドイツの哲学者カント(Immanuel
Kant)であった。しかし、 最初に地政学を体系的に構築したのは同じドイツの地理学者フリードリッヒ・ラッツエル(Friedrich
Ratzel, 1844-1904)で、 ラッツェルは1897年に出版した『政治地理学(Politishe
Geogtaphie)}においてドイツ民族の生存権思想を唱えたが、 この理論が植民地拡大政策を強行していたビスマルク(Otto
E. L. F. von Bismarch 1815ー1898)の政策の根拠として利用された(2)。
-
国家の政治上の力は、 その国家の領域の広さに依存する。 国家の領域は文化の浸 透とともに拡大する。 すなわち自国の文化を他国の領土内に広めると、 その地域 が自国の領域に加わって行く。
- 国家は生命を持つた組織体であり、 成長に必要なエネルギーを与え続けなければ 衰弱しやがて死滅する。 国家はその生命力に応じこれを維持するために生存権(Lebensraum)を確保しようとするので国境は流動的となる。
- 地球上には大国を一つしか受け入れる余積がない。
次いで、 この理論をさらに体系化したのがスェーデンの地理学者チェレン(Rudolf
Kjellen 1864-1922)であったが、 チェレンは初めて「地理と国家の関係」ということに地政学(Geopolitik)という言葉を導入し次のように論じた(3)。
- 国家は生きた組織体であり、 その生命は国民、 文化、政府、 経済及び土地に依存 する。
- 国家の性格のうち最も重要なのは力である。 法は力がなければ維持できないので、 国家生存のために力は法より重要である。
- 海洋に分散している帝国(イギリス)の力は、 やがて統合された大陸帝国に移り、 その結果大陸国家が最終的には海洋をも制するに至る。
- ヨーロッパ、 アジア、アフリカに数個の超大国が興隆する。
- 国家にとって自給自足できることは重要な条件である。 そのため国家は自らの生 存発展に必要な物資を支配下に入れる権利がある。
- 国家が強国となるためには次の三つの条件が必要である。
(1)領域が広いこと。
(2)移動の自由を有すること。
(3)内部の結束が堅いこと。
この理論が普墺、 普仏戦争に勝ち大国となった当時のドイツの指導者に歓迎された。次いで、
この理論を発展させヒトラー(Adolf Hitler)の政策を理論的に支えたのがミュヘン大学の地理学の教授、
軍事科学部長であったカール・ハウスホーファー(Karl Haushofer 1869-1946)元陸軍少将であった。
ハウスホーファーは国家間の生存競争は地球上の生活空間を求める競争である。
国家が発展的生存を維持するためにはエネルギーが必要であり、 そのエネルギーを獲得するのに必要な領域
ー 領土としての生存圏と自給自足のため資源などを「経済的に支配する地域」が必要であると総合地域(Panregion)の概念を導入し、
世界はやがて次に示す4つの総合地域に総合されると主張した(4)。
- アメリカが支配する汎アメリカ総合地域
- 日本が支配する汎アジア総合地域
- ドイツが支配する汎ユーラフリカ総合地域
- ソ連が支配する汎ロシア総合地域

この大陸国家の地政学であるラッツェル、 チェレンやホーファーの理論を整理すると、 「国家は生きた組織体」であり「必要なエネルギーを与え続けなければ衰弱し死滅する」。 衰弱し死滅したくなければ「武力で阻害要因を排除しなければならない」。 必要なエネルギーを取得するため「生存発展に必要な物資を、 その支配下に入れる」のは成長する国家の権利である。 ドイツは「ヨーロッパに於ける大国」であり将来「ヨーロッパ、アフリカ及び西アジアに跨る大国」になる宿命を持っ成長する国家である。 さらに「地球上には大国を一つだけしか容れる余積がない」のだから、 ドイツは世界の大国になるべきであり、 もし、 なれなければドイツが大国に吸収されてしまう。 成長する国家ドイツを阻害する要素を排除するために武力を使うことも、 成長発展に必要な物資を支配下に入れることも国家の権利として認められるというものであった。そして、 この理論がドイツのポーランド侵攻となり、 日本の満州・中国侵略となり、 さらにこの汎アジア総合地域の概念が後に大東亜共栄圏となったのであった。
2 海洋地政学の誕生と発達
海洋地政学者を代表するのはマハンで、 マハンは17世紀から18世紀に至る世界の海戦史を研究し、1890年に『海上権力史論(The
Influence of Sea Power upon History, 1787-1888)』を出版し、 海上通商路の支配が国家に富をもたらすと、
海上権力(Sea-Power)が国家繁栄の必須の条件であると主張した(5)。 そして、
このマハンの理論がアメリカの国家政策や海軍政策に甚大な影響を及ぼし、 アメリカの海外領土拡張に大きな影響を与えた。
マハンが海上権力(Sea Pawer)を隆盛させる条件として挙げたのは@国家の地理的位置、
地形的構成(天産物と気候を含む)。 A領土の広さ。 B人口の多寡。 C国民の性質。
D政府の性質の5項目であったが(6)、 この項目は今日に至るまで海上権力隆盛の要件として地政学的考察の基礎をなしてきた。
マハンのシーパワーの5つの条件をチェレンの「国家が強国となるための条件」と比べると、
チェレンの第1条件の「領域が広いこと」はマハンの第1条件の「国家の地理的位置、
地形的要素」、 第2条件の「領土の広さ」、 第3条件の「人口の多寡」に含まれるであろう。チェレンの第2条件の「移動の自由を有すること」はマハンの5つの条件の中にはない。
しかし、 マハンの第1条件の「国家の地理的位置」がこれに該当するであろう。海洋国家として発展するには長い海岸線を持ち、
多くの海上交通路が集束することが基本的な要件であるからである。 チェレンの第3条件の「内部の結束が堅いこと」はマハンの第4条件「国民の性質」、
第5条件「政府の性格」に相当するであろう。
マハンは生産力の増大が海外市場(植民地)を必要とし製品と市場を結ぶため海運業が育ち、この海外市場と商船隊を保護するのに海軍が必要であると海軍を位置づけ、
商船隊や漁船隊、 それを擁護する海軍とその活動を支える港や造船所などをシーパワー(海上権力)と規定し、
シーパワーが国家に繁栄と富をもたらし世界の歴史をコントロールすると論じた(7)。
このマハンの海上交通路を確保し海上権力を確立し、 海洋を支配する国家が世界の富を制するとアメリカに大海軍力を建設させた。
しかし、 当時の軍艦は蒸気推進であったため、 石炭と水を三日から四日毎に補給しなければならないという制約があった。
このため強調されのが基地(給炭所)で、 この太平洋を横断するために必要な基地をめぐって日米間に多くの問題を生起させたが、
海洋地政学者マハンの対日観や日米関係に与えた影響については第2部で論じたい。
3 総合地政学の誕生と発展
(1)マッキンダーの理論
イギリスの地理学者マッキンダーは1904年1月25日、 王立地理学協会で行った「歴史の地理的な展開軸(The
Geographic Pivot of History)」という題名の講演で、 海上権力を保有した国家の繁栄が永久的であるとの保証はない。
逆に陸上権力を保有する大陸国家が発展し単一支配のもとに海上権力と陸上権力を統合し、
無敵の支配権を全世界に広げるであろうと、 海洋力と大陸力との関係で世界政治を捕え、
マハンの海上権力説では陸地に関する要素が不充分であるとし、 地球は大陸と海洋から成り立ち、
その大陸の3分の2を占め、 人口の8分の7が住んでいるユラシア大陸を「世界島」と名付けた。
そして、 この世界島の中央部でシーパワーの力が及ばないユーラシア北部を「ハートランド(Heartland)」と名ずけ、
さらにハートランドの外側に2組の三日月型地帯(Crescent)を設定し、 ハートランドの外側にあり海上権力の及ぶ大陸周辺の地域、
すなわち西ヨーロッパ、 インド、 中国などを内側三日月型地帯(Inner Marginal
Crescent)と呼び、 その外方に海を隔てて点在するイギリス、 日本、 東インド諸島、
オーストラリアなどを外側三日月型地帯(Outer or Insular Crescent)と名付けた。
そして、 いまでこそハートランドは未開発であるが、 やがて陸上交通や産業が発展し内陸にエネルギーが蓄積され、
ここを根拠としたランドパワーが現在沿岸地域におよんでいるシーパワーを駆逐し、
やがてはシーパワーを圧倒するであろうと主張した(8)。

マッキンダーによる区分(出典:前掲、 川野60頁)
その後、 1918年末に出版された『デモクラシーの理想と現実(Democratic Idea and Realty)』において「東欧を制するものはハーランドを制し、 ハーランドを制するものは世界島を制し世界島を制するものは全世界を制する」と、 ドイツが再び力を蓄えロシアを征服し、 またはこれと提携してハートランドの主人公となり世界を制することのないよう予防措置を講ずべきであり、 東欧を一手に支配する強国の出現を決して許してはならない。 ドイツが再び強国となることができないよう措置すべきであるとベルサイユ講和会議代表に警告した。
(2)スパイクマンの理論
アメリカの地政学者スパイクマンはマッキンダーより32才若く、 マッキンダーやハウスホーファーの影響を受けたが特異な「リムランド(Rimland)」理論を唱えて出現した。スパイクスマンは世界はランドパーとシーパワーが対立するという単純なものではなく、
ハートランドの周辺地帯でハートランドの力の基礎となり、 かつシーパワーの影響が及んでいる地域、
すなわちランドパワーとシーパワーの接触している地域をリムランドと呼称し、
このリムランドが地政学的には重要である。 特にリムランドに位置する日本やイギリスは東アジアまたは西ヨーロッパの西側にあり政治軍事上に重要であり、
ヨーロッパ大陸が一大強国に支配されるのを防止するにはハートランド周辺諸国(リムランド地帯の国々)と共同し、
ハートランドの勢力拡張を防ぐべきであるとし、 マッキンダーの警句を修正し「世界を制する者はハートランドを制するもの」でなく、
「リムランドを制するものはユーラシアを制し、 ユーラシアを制するものは世界を制す」と主張した(9)。
アメリカはマハンの『海上権力史論』によって第1次世界大戦でドイツ、 第2次世界大戦で日本とドイツを破り
世界第1の海軍国となり、その海洋力によって一時世界に君臨した。しかし、 第2次世界大戦が終わると大陸

国家のソ連が台頭し、 マツキンダーのハートランド理論はドイツの代わりにソ連が主人公となった他は彼の予言どおり実現したかにみえた。
ソ連は巨大な外向力をもって着々と内側三日月型地帯をその勢力下に収め、 次いでアフリカなどの外側三日月型地帯にも及んだ。
ソ連は東欧を制してマッキンダーの警句の第1段を達成し、 第2段の世界島(World
Island)の支配に乗り出し、 ユーラシアのリムランドはアメリカの強力な支援がなければソ連の手に入りつつあった時に出現したのがスパイクマンの理論であり、
それを実現したのが「ソ連封じ込め政策」であった。 しかし、 その後もソ連は一時的ではあったがリムランドにある中国やアフガニスタンを影響下に収め、
海洋超大国アメリカは力を失い、 海洋一国支配の歴史に幕が閉じられたかに見えた。
スパイクスマンのリムランド(出展:前掲、
河野、 60頁)
しかし、 大陸国家ソ連は安価大量の物資を運び得る海洋国経済的には有無相通ずる国際分業と国際貿易による相互依存関係で結び付く海洋国家群に対し、
その地理的欠陥から経済的に破綻してしまった。 そして、 現在、 海上交通路(Sea
Line of Communication)はシーレイン(Sea Lane)と呼称は変更されたが、 その原理である海洋を制した国家が世界を制するというマハンの理論の勝利は確定したかに見える。
しかし、 これら大陸地政学と海洋地政学の中間理論を唱えたスパイクマンの「リムランドを制するものはユーラシアを制し、
ユーラシアを制するものは世界を制する」という折衷論からみた今後の国際情勢はどのように変動するのであろうか。
また、 これらリムランドに住むアジアやアラブの住民の意向や主権を無視した西欧のパワーバランス理論や価値観のみを念頭に置いた既存の理論が、
科学技術の発展などにより今後どのような展開を示すであろうか。 本論ではこれらの問題を基盤とし、
リムランドに生存する日本の国際的スタンスや対応について考えてみたい。
U海洋地政学の日米関係への影響
ハウスホーファーに代表されるドイツの地政学は侵略的で自国本位のものであったが、
大陸国家ドイツの地政学がなぜ侵略的になったのであろうか。 それは大陸国家は陸続きのため常に異民族に犯され国家や民族の生存が熾烈なことにあった。
大陸国家にとって国境線周辺の地形、 政経中枢の位置、 国土の広さや人口、 生産、
資源、 交通路などの地理的条件は国土防衛上のみならず国家の生存発展のためにも極めて重要な要素であったが、
特にヨーッパ大陸の中央に位置するドイツは常にフランス・スエーデン・ロシア・オーストリアなどの大国の勢力争いの際には戦場とされ多くの災害を蒙り、
その生存は苦難の連続で国家として独立し得たのは19世紀の後半に入ってからであった。
しかもドイツが統一された時にはヨーツパの大国は海外に多くの植民地を保有し、
植民地からの搾取によって本国の富強を誇っていた。 このような国家安全の欠如がドイツにアウスホーファーに代表される侵略的地政学者を生んだのであった。
一方、海洋国家は海洋の持つ隔離性から他国の影響が及び難く国内の団結も容易で、
海上交通を維持し制海権を握っていれば貿易によって国家の発展生存に必要な資源を取得することができた。
制海権を握るためには強力な海軍が必要ではあったが、 資源獲得に必要な海上交通の安全を確保するに必要な拠点を支配下に置ければ資源を取得できるので、
他国の領土を直接占領し支配する必要はなかった。 むしろ外国を強力な支配下に置くことは政治的・軍事的に無駄な国力を消耗するとの思想から、
海上交通路を扼する要地を支配下に置くだけで十分であった。 このためイギリスはジブラルタル、マルタ、スエズ、アデン、カルカッタ、シンガポール、
香港、 威海衛などを比較的限定された地点を直接的に支配し背後地は間接的支配下に置く政策を基本としてきた。
このように海洋国家の奉ずる海洋地政学派の理論は大陸地政学派の理論に比べ領土的関心は低く、
もっぱら資源を争奪する地域と製品を販売する地域の支配(間接的)と海上交通論を維持するために緊要な地理的に価値ある要地の直接的支配に限られていた。
しかし、 この海洋地政学の理論でさえも太平洋をめぐる日米関係をみれば、 地政学が「余りにも政治的に利用されてきた」ため学問ではないと言われ、
アメリカにおいてマハンを地政学者と規定することを忌避する傾向があるのも理解できるであろう。
以下、 今後の日本のありかたを論ずるに先立ち、 最初に代表的海洋知性学者マハンの理論や、
第二次大戦前に日本が唱えた南進などの歴史を検討し、 今後の日本のあり方を地政学および歴史的事実などから考えてみたい。
1 ハワイ併合前後
マハンは1890年に書いた『海上権力史論』でシーパワーが国家に繁栄と富をもたらすと制海権確立の重要性を論じたが、
前述の通り当時の軍艦は蒸気推進であったため石炭と水を3日から4日毎に補給しなければならないという制約があった。
このためマハンは1890年8月に『アトランティック・マンスリー』誌に掲載された「合衆国海外に目を転ず」では今後いかなる外国にもサンフランシスコから3000マイル以内に給炭地を獲得させてはならないと論じたが(10)、
1896年末に積極的外交を掲げた共和党のマッキンレー(William Mackinley) が大統領となり、
日本が1200名の移民が上陸を拒否されたため巡洋艦浪速(艦長黒田帯刀)を再びハワイに送ると、
マハンは翌年5月には、 海軍次官に栄進したローズヴェルト(Theodore Roosevelt
後の第26代大統領)に、ハワイを直ちに併合すべきであり、 太平洋戦隊には大西洋艦隊よりも有能で積極的な指揮官を配置すべきであると進言し、
太平洋戦隊司令官にサンチャゴ攻撃などで積極性を発揮したベーカー(Albert A.Barker)提督を任命された(14)。
そして、 1997年6月15日には米布併合条約が調印された。
1898年(明治31年)に米西戦争が起きるとアメリカ国内にはフィリピンの併合について独立宣言や憲法の精神に反する。
フィリピンを併合すれば大西洋と太平洋に2つの艦隊が必要となり、 さらにヨーロッパ列強との紛争に巻き込まれるなどとの反対論があり、
マハンも最初はフィリピン併合には消極的であったが、 未開のフィリピン人を文明化するのは神から与えられた「明白な義務(Manifest
Destiny)」である、 フィリピンは東洋へ発展する前進基地として必要であるなどの併合論が勝ち同年12月に併合されてしまった。そして、
この併合がマハンがシーパワーを構成する「第3の重要な要素」と規定した植民地をアメリカに獲得させた(18)。

一方、 ハワイ併合をめぐる日米の対立がスペインとの戦争中に日本にハワイを占領されるとし、 アメリカに最初の対日戦争計画(Contiengency Plan for Operation in Case of War with Japan)を立案させた。 しかし、 当時のアメリカ海軍は艦隊主力を大西洋に配備していたため、 この計画では艦隊を太平洋に回航する前にハワイ諸島やアリュシャン列島を、 また状況によってはピュジェット・サンド湾(シアトル南部)を占領されると見積もらざるを得なかった(19)。 この解決策はパナマ運河の建設であり、 その通行の自由の確保であった。 さらに、 米西戦争後の「布哇ノ合併、 比島ノ割譲等ガ一層巴奈馬運河領有ノ理由ヲ強メ」た。このような情勢の変化にアメリカは1850年に自ら提案し関係諸国と「中米ノ地ヲ占領セズ。 植民セス又現在中米ノ地ニ有スル保護権ヲ以テ運河ノ中立ヲ犯サザルコト」を協定したクレートン・ブルワー条約を無視し、 1903年11月にコロンビア上院が運河地帯の租借を拒否すると、 パナマ地方の住民を扇動しコロンビアからの分離独立運動を起こさせた。 そして、 アメリカは砲艦ナッシュビル(Nashville)など4隻の軍艦と海兵隊を送って分離独立派を支援した。 ナッシュビルがコロンに入港した2日後には分離独立宣言が発せられ、 翌6日にはアメリカ政府が独立を承認、 その2週間後にはパナマ暫定政府と一時金1000万ドル、 年間租借金25万ドルで運河地帯を永久に租借する運河条約を締結した。 そして、 さらに翌年4月には元海軍作戦部長ウォーカ(John Walker)中将をパナマ運河会社に派遣し、 陸軍は総督を送り運河地帯を陸軍の管轄下に置いた(20)。
3 日露戦争前後
パナマ運河の建設を開始しフィリピン、ハワイ、グアムを併合し太平洋横断の中継基地を確保したアメリカが中国市場への進出を企てた時には、
中国はすでにヨーロッパ列強や日本により分割がほぼ完了していた。遅れて参入したアメリカに許される方法は平和的商業的進出しかなかった。
国務長官のジョン・ヘイは1899年9月に門戸開放・機会均等などの門戸開放宣言を列国に提唱した。
しかし、 この「オープ・ドアー政策」に対する列国の反応は冷たいものであった(21)。特に問題はロシアの南下で、
このロシアの南下を阻止するためにアメリカ海軍部内には日英米の三海軍国が同盟すべきであるとの意見さえ公式に表明されていた(22)。
しかし、 日本海軍が日本海海戦でアメリカの予想を上回る大勝をおさめ、 さらに戦後の不景気からアメリカ西岸に移民が急速に増加すると日米関係は一転した。
ロシアの脅威が消えると日本は太平洋における唯一の仮想敵国とされ、 1909年にはホマー・リー『無智の勇気(翻訳の書名:日米必戦論)』が出版された。
ホマー・リーはアメリカの過去20年にわたる日本に対する人種差別という「累積したる不正」に対し日本は報復するであろう。
「太平洋の地図を案ずるに、 日本が将来戦争をもって其地位を堅固ならしめ其主権を確立せんが為めに戦う国は、
米国以外にこれあらざるなり」。 「日本は太平洋上の貿易航路のいずれの部分にも、
戦いを開きて常に3日以内の航海で2個以上の離れたる根拠地に達することができる。(中略)12の軍事的三角形の中には10日以内に日本海軍の10分の7を石炭、
供給品および病院船の不足なく、 また何ら海上の障害を感ぜずに艦隊を集中できない点は一つもない。
また太平洋のいかなる地点に集合しても日本艦隊は3日以内に海軍根拠地の何れかに到着することができる」。
このような地理的有利性のため日本は開戦4週間後に20万、4ケ月後に50万、 10ケ月後に100万余の兵力を送り、
ハワイ、フィリピンからアラスカ、ワシントン、カリホルニア州などのロッキー山脈以東を総て占領するであろうと日本の脅威を過大に扇動し軍備増強を訴えた(23)。

このような国内の排日ムードを利用し海軍主義者のローズヴエェルト大統領は、
日本がアメリカと戦争するなどということを思い止まらせるためには力を示すべきであるとの口実で、戦艦一六隻からなるホワイト・フリートを東京湾に送った。とはいえアメリカ艦隊はバランスに欠け、
これら艦隊に石炭を補給する給炭船は8隻しかなく、 49隻をイギリスやノルウエーなどから用船しなければならなかった(24)。
太平洋横断作戦を基本とするアメリカ海軍にとり大きな障害となったのが日米間に横たわる太平洋の広がりであり、
対日作戦の成否は「いかに決戦が行われる戦場に修理を完了し充分に補給された部隊を適時に展開するか」の補給問題、
すなわち太平洋横断に必要な基地群の問題であった。 1868年にミッドウェー島を、
1898年にウェーキ島を、 1899年にはドイツと争ってサモア諸島のチュチュイラ島を領有し、
1903年からはミッドウェー島を海軍省の管轄下に置いた。
しかし、 ホワイト・フリートも完成し国民の海軍に対する関心は低下し、 議会の賛同を得ることはできなかった。
この冷却した海軍増強熱を再び高めたのが第一次世界大戦の勃発でありパナマ運河の開通であり、
さらに日本軍の南洋群島の占領であった。1911年にメイヤー(George von L. Meyer)海軍長官にグアムの要塞化はハワイやフィリピンの安全保障に必要であるというだけでなく、
日本をもコントロールできると進言していたマハンは(25)、 第一次大戦が勃発し日本がドイツに最後通牒を発すると8月18日にローズベルト元大統領に日本のドイツ領南洋群島の占領は英米関係に重大な影響を及ぼすだけでなく、
カナダやオーストラリアなどの自治領にも重大な影響を及ぼすことをイギリスに警告すべきであると進言した(26)。
また、 マハンの論評を支持する共和党からは「米国は茲に改めて支那領土保全と門戸解放主義を固執することを確認す。
又米国は太平洋及びオセアニア海上各島嶼の現状変更に対し等閑視せざることを茲に新たに決議す」との決議案が提出された(27)。
しかし、 第1次世界大戦勃発4ケ月後にマハンは没し、 また日本海軍には南洋群島を占領されてしまった。
この占領が日米戦争時にはフィリピン、グアムが緒戦で占領されフィリピン救援作戦を困難とするとの危機感を高めた。議会は基地問題を諮問するために1916年にはヘルム委員会を、
1923年にはロッドマン委員会を設置した。 さらに1936年にはハウランド島とベィカー島の領有を宣言し、
1938年2月にはイギリスと領有めぐり抗争中のカントン島とエンダベリー島を共同管理とするなど、
太平洋横断基地網の整備を進めた。しかし、 それ以西には日本が支配する南洋群島がアメリカ艦隊の進路を扼していた。
4 戦間期(第1・2次大戦間)
マハンの教議に従って太平洋を横断する海上交通路を確立しようとするアメリカ海軍にとり、
南洋群島の日本の委任統治領化は大きな打撃であった。 クーンッ(Edward Coontz)作戦部長は対日作戦には太平洋を横断する艦隊が南洋群島を基地とする日本海軍の潜水艦・航空機により邀撃されるという不利な条件があり、
大西洋では対英3対4の劣勢でも英国を阻止できるが太平洋では太平洋横断作戦には補給部隊を護衛する兵力も必要であり対日兵力は1.5倍が必要であると主張し、
さらに海軍諮問委員会(General Board)は2倍の兵力が必要であると主張した(28)。
このおゆな海軍の要求を受けたヒューズ(Charles E. Hughes)国務長官はワシントン会議において主力艦の対日保有比率5対3を主張し強引に実現した。
また、 中継基地を失ったアメリカ海軍は対策として艦隊とともに多数の補給艦、
工作艦、 給弾艦を艦隊とともに前進させる移動基地構想を案出した。
そしてアメリカ海軍は1922年5月の陸海軍統合会議でワシントン条約第19条の「太平洋の軍備現状維持」は移動性基地には適用されないとの解釈を承認させ(29)、
1924年に完成の対日戦争計画(Orenge Plan)に固定基地の代替えとして多数の補給船・給油船・工作船・弾薬船・病院船・移動ドックなどを整備するという「移動性根拠地計画
別紙F(Mobile Base Project-Appendix F)」を加えた(30)。 しかし問題は膨大な補給量であった。
燃料が石炭から石油に変換されて問題は一歩前進したかに見えた。とはいえ武器の多様化・近代化が補給量を増大させ1925年1月に太平洋艦隊が作成した対日戦争計画では、
戦艦などの大型戦闘艦25隻、 その他の戦闘艦艇303隻、 兵員輸送船39隻、 輸送船128隻、
タンカー・石炭輸送船など248隻など総計551隻を必要とするという問題を提示した(31)。
輸送量の増大は航空時代を迎え日本の南洋群島を基地とする陸上航空兵力に対抗する航空兵力を展開するには、
各種機材や燃料、 飛行支援施設、 部品などを含めれば日本海軍の5倍から10倍の物資を運ばなければならないという新らしい問題を生起させた(32)。さらに洋上での武器弾薬や物資の移載が困難なことから、
これらの移載は太平洋に散在する珊瑚礁を利用しなければならなかったが、 これらはいずれも日本の統治下にあった。
この問題の解決策として海兵隊のエリス中佐(Earl H.Ells)が1921年6月にパラオ、トラック、ペリリューなど艦隊の中継基地となる島嶼を逐次占領しつつ太平洋を横断するミクロネシア前進基地構想を立案した(33)。
ガリポリ作戦の失敗大戦後の植民地独立、 民族自決等の世界的風潮から海外基地や居留民保護を任務とする海兵隊の存続が問題となり、
兵力削減に直面した海兵隊はその存続を南洋群島に求めた。 海兵隊は総力を挙げてこの構想の実現と海兵隊の必要性を訴え理解を求めた。
そして1924年に完成し初めて大統領の決済を得た3軍統合のオレンジ計画(対日戦争作戦計画)にアメリカ海兵隊は、
「制海権の確立は全アメリカ艦隊を収容できる前進基地を、西太平洋に設置できる
か否かにかかっている(著者傍線)。 西太平洋で米国が勝つためには、 日本の支配
下にある島々及びフィリピン諸島にある総ての港の支配が必要である(34)」とフィリピン救援作戦とともにミクロネシア飛石作戦を併記させることに成功した。
また1922年2月には海兵隊司令官レジュン(John Archer Lejeune)が「対日戦争の場合にハワイ・マニラ間に中継基地がなく、そのうえグアムが緒戦に占領されることは極めて深刻でありハワイ・マニラ間の島嶼の占領およびグアム再占領のため、即応性のある強襲上陸作戦可能な遠征部隊を整備すべきである。
ワシントン条約により艦艇の保有は制限されたが艦隊に付属し艦隊を支援する海兵隊は同条約の制限外にある」との覚書を陸海軍統合幕僚会議に提出し承認させた。 そして、 翌1923年には海兵隊自体が南洋群島奪取を主目的とする強襲上陸作戦を行う遠征海兵隊(Marine Corps Expeditionary Force)に改編され(35)、 1922年末には海兵隊の兵力が1万6085名から2万595名に増員された。 存在理由を得た海兵隊は1925年4月には遠征海兵隊3000人を投入し、 南洋群島への上陸を想定した「アロハ演習」をハワイで行い、 上陸用舟艇の開発や戦術の改善に努め、 また海兵隊学校のカリキュラムも上陸作戦重視に改訂するなど対日戦争を想定した部隊への変質と改善が進め、 1935年には艦隊付属の小型旅団規模の艦隊海兵隊をサンヂエゴに誕生させたのであった(36)。
註
1 拙論「風土と戦争」上下(『波涛』第29・30号、 1980年7月・9月)。同 「国民性及び国家間の連係度解明に関 するアプローチ法」(『波涛』第8号、1977年)。
同 「特攻隊をめぐる日米の対応 - 国民性の視点から」(『波涛』第106号、 1993年)。
2 川野 収『地政学入門』(原書房、 1981年)24-26頁。
3 同上、 32-33頁。
4 同上、 40頁。
5 Walter La Feber, The New Empire - An Interpretation of American Expansion,
1860-1898 (Ithaca:Cronell University Press, 12963), pp.91-93.
6 Alfred Thayer Mahan, The Influence of Sea Power upon History, 1660-1783(Boston:Little
Brown, 1890), pp.28-87.尾崎悦雄訳『海上権力史論』(水交会、 ) 頁。
7 Ibid., p.71, 138.
8 前掲、 曽村、 29-33頁。
9 築土
10 Alfred Thayer Mahan,“United States Looking Outward",The Inters
in America in Sea Power:Present and Future(Boston:Little Brown, 1897).
11 Letter Mahan to Editor of the New York Times(30 January 1893), Robert Seager
U and Doris D. Maguire, eds., Letters and Papers of Alfred Thayer Mahan,
3 vols.(Annapolis:U.S.Naval Institute Press, 1975), Vol T, p.119.
12 Lts. Mahan to Roosevelt(6 May 1897), Letters and Papers, op.cit., 2-506.
麻田貞雄訳・解説『アメリカ 古典文学 8 アルフレッド・T・マハン』(研究社,1980年)
31頁。
13 Henry F.Pringle, Theodore Roosevelt(New York:Harcourt Brace, 1931),
p.120.14 Robert Seager U, Aflred Thayer Mahan:The Man and His Letters(Annapolis:Naval
Institute Press, 1977), p.358
15 The Interest, op.cit., p.31.麻田
16 Mahan, “A Twenty Century Outlook", The Interest, op.cit., pp.235-237.
17 Philip A. Crowl, “Alfred Thayer Mahan:The Naval Historian", Peter
Paret,eds.,Makers of Strategy:From Machivelli to Nuclear Age(Princeton:Princeton
University Press, 1941),p.465.(海軍戦史研究家アルフレ ット・セイヤー・マハン」
(防衛大学校「戦略・戦術研究会訳『現代戦略思想の系譜 - マキャヴェリから各時 代
まで』(ダイヤモンド社、 19 89年)408頁。
18 Seager U, op.cit., p. 416.
19 Michael Vlahos, “The Naval War College and Origins of War Plan against
Japan",Naval War College Review, vol.33,No.4(July -August, 1980),pp.24-26.20
外務省欧米局編「秘 太 平洋問題参考資料 巴奈馬運河問題(資料番号319-2Fa22)」防衛大学校蔵、
4-16頁。
21 角田順『満州問題と国防方針 - 明治後期における国防環境の変動』(原書房、 1959 年)183頁。
22 Michael, op.cit., p.25.
23 ホーマー・リー『日米必戦論 原題名 無智の勇気』望月小太郎訳(英文通信社、 1911 年)47頁。
24 Edward Miller, Orange Plan:The U.S.Strategy to Defeat Japan, 1897-1945(Annapolis:U.S.Naval
Institue Press, 1991), p .
25 Lts Mahan to George L.Meyer(21 Apr.1911),Letters and Papers,op.cit.,3-399
-404.26 Lts Mahan to Roosevelt(18 Aug. 1914), Ibid., p.3-601-602.
27 竹内重利「世界大戦初期の米国の状況」(有終会編『戦余薫 懐旧録 世界大戦之巻』第
3輯 上(海軍有 終会、 1928年)23頁。
28 ウイリアム・R・ブレステッド「アメリカ海軍とオレンジ作戦計画」麻田貞雄訳・斎藤
真他編『ワシントン体制 と日米関係』(東京大学出版会、 1978年)421頁。
29 Kenneth J.Cliford, Progress and Purpose:A Developmental History of theUnited
States Marine Corps, 1900-1970(Washngton:Historical Division, U.S. Marine
Corps, 1973), pp.29-30.
30 Orange Plan、 移動基地計画
31 Miller, op.cit., p.128, Table 11.1 Number of Ships in Naval Expeditionary Force to Far East, (Jan. 1915).
32 Ibid.,pp.32-33.
33 海兵隊の発展と対日戦争計画については拙論「戦間期の日米関係(T) ミクロネシア と米国海兵隊」(『政治経済史学』第256号、 1987年8月)を参照。
34 前掲、 ブレステッド、 426-427頁。
35 Edwin H. Simmons, The United States Marines 1775 - 1975(New York:Viking
Press,1976), p.125.
36 Allan R. Millet, Semper Didelis:The History of the United Stated Marines
Corps(New York:Macmillan, 1980), p.326ー337.