〈記念講演〉
軍都横須賀-光と陰 横須賀史への私の史観と視点

はじめに

 最初に私の視点や史観について申し上げます。元海上自衛官という職業から全国各地に勤務し、任地の歴史を学びましたが、特に呉では自衛隊退職後に呉市史の執筆や呉海事博物館の創設にかかわりました。このため、勤務した各都市と横須賀の歴史を比較するマルチな歴史観が私の特徴でしょうか。第二の特徴は、これも海上自衛官の体験ですが、海の外から横須賀を見る視点です。この視点が必要なことは、横須賀製鉄所にフランスが応じたのは、薩摩を支援する英国と幕府を支援するフランスの覇権争いなどを視座に置かなければ真の歴史が読めないからです。また、英国が「月とすっぽん」の結婚と椰楡された日英同盟に応じたのは、世界情勢が大きく影響しましたが、英国海軍が日本のドックと石炭に期待したからです。それは一方の軍艦が他の一方の港内において入渠すること、及び海軍貯炭所の使用とその安全と活動に関する事項について相互に便宜を与えるべし」と、ドックと石炭のことしか書かれていない「日英海軍協力に関する交換公文」をご覧になれば理解できるでしょう。

 また、日英同盟が英国に受け入れられたのは、義和団の乱の時に列国の公使館警備に派遣された横須賀所属の砲艦高雄の兵士の勇敢さと規律でした。その「北京籠城軍艦愛宕戦死者碑」もドックも横須賀にあります。また、日英海軍の共同作戦の実施要領を協議したのも横須賀鎮守府でした。日露戦争で捕獲したロシア戦艦ニコライ一世などが回航されたのも、第一次世界大戦で同盟国フランスの駆逐艦を建造したのも横須賀でした。このように横須賀は日本の近代史に大きな足跡を残しておりますが、それは明治天皇が在位45年間に28回も横須賀に行幸されたことからもご理解頂けるのではないでしょうか。横須賀の歴史には海軍工廠の技術や海軍を通じた西欧文明の地方への伝播などの「光」の歴史と、一方で急激な人口増加などの近代化にともなう問題、工員と水兵の町の風紀の問題、戦争と好景気、軍縮と失業の問題などの「影」の歴史がありますが、これまで横須賀では軍事が絡まる「光」の部分は余り研究されていないように思われます。そこで、本日は皆様に今後研究して頂きたい「光」の部分を中心にお話をさせて頂きます。

横須賀海軍工廠と日本の近代化への貢献
 明治維新後に工部省と海軍省が横須賀工廠の争奪戦を演じましたが、それは横須賀工廠が規模や技術力、製造能力などが日本一の近代的工場だったからです。横須賀工廠がいかに大きな工場であったかは、明治20年に従業員が100名以上の工場は全国に7ヶ所、最大の三菱造船所でも746名でしたが、横須賀工廠は2886名であったことからもご理解頂けると思います。このような先導的な存在であったため、横須賀工廠が技術だけでなく日本的雇用制度を確立するなど、労務管理の発祥の地ともなったのです。その特色を述べれば次の通りです。


 ○月給職工制度(公休日や病休にも給与支給・明治6年)
 ○定期職工制度(勤務年限による賞与加給・明治9年)
 ○賃金等級、昇給制度、特殊作業手当などの導入
 ○女子の採用(賃金は53等級中上限を16等級(明治44年)、上限を5等級(大正7年)
 ○女子は8時間労働(男子工は9時問半)

 しかし、明治5年に定められた「職工規則」は、出勤後直ちに脱出し昼食時の混雑に紛れて職場に戻る者は、「午後三時間改札場ノ木杭ニ縛置シ、其側ニ犯罪者ノ姓名及付属工場ノ名ヲ記シテ之ヲ懲罰スベキノミナラズ、脱出中ノ時問ニ応ジテ一日若クハ数日間ノ給料ヲ減ズベシ」と厳しいものでした。皆さん、この規定をどのように読まれますか。人権侵害と激憤するか、近代的「労働者」という観念がなく、管理者は大変だったと同情するのか、それは皆様の自由です。それが個人の史観で歴史の多様性でもあります。しかし、当時の時代背景で判断しないと、歴史の真実は見えないと私は考えております。

 横須賀工廠で注目すべきことは、明治3年には横須賀製鉄所黌舎を設立し、22年には海軍造船工学校、26年には海軍機関学校付属技手練習所、30年には海軍造船工練習所と、30年に呉に移動するまで白礼で工員を育成したことです。さらに、39年には見習工を教育する豊島実業補修学校、43年には造兵部の工員を対象に船越実業補習学校を創設するなど工員教育に努力しております。次に横須賀工廠の技術的水準と英仏の影響について考えてみましよう。横須賀製鉄所から海軍造船所になるまでに22隻の艦艇を建造していますが、清輝(900トン)は建造期間が2年6ヶ月、鉄骨木皮の1番艦の磐城(660トン)は3年4ヶ月、鉄製龍骨艦で3年から4年でしたが、迅鯨、海門、天竜などの建造期問が6年6ヶ月から長いのでは7年10ヶ月もかかっています。排水量が1500トンと2倍にはなっていますが、建造期間の延長はフランス人技師の帰国が影響したのでしょうか。海軍は明治9年に進水した迅鯨にクランクシャフトの不具合が生じると、英国人技師の準言を受け、1883年には英国のペンプロiク造船所から技師を招くなど、英国へと技術の導入先を変えております。明治21年に艦船武器、需品はフランス式にセンチメートル、航海術や喫水は英国式にヤード・ポンドを使用するよう度量法を変えましたが、この度量法の適用範囲が両国の影響分野かもしれません。

 明治39年には戦艦薩摩が進水しましたが、「薩摩は日本が最初に建造した戦艦で、排水量は世界一を誇っていた英国戦艦ドレツドノートより1200トンも大きく、名実共に世界最大の戦艦であった。起工後わずか1年半で見事に進水させたことは、横須賀造船所の建艦技術の著しい進歩を示すものであった」と『横須賀市史(昭和63年版)』には書かれています。確かに、その通りですが、薩摩が搭載した機器や機材の輸入比率は61%、国産比率は39%でした。表に示す国産化率の変化が日本の造船技術の自立度、技術の進捗度を計数的に示しているのではないでしょうか

                艦名  排水量 就役年 輸入機材の比率 国産機材の比率
戦艦・薩摩 19150屯 明治39年     61%     39%
巡戦・鞍馬 14600屯 明治40年     58%     42%
戦艦・河内 20800屯 明治43年     20%     80%

 横須賀工廠は明治40年には職工救済会を結成し、明治41年には呉に次ぎ職域病院である職工共済会病院を開院しましたが、『横須賀案内記』には「薬価入院料等極めて低廉なり。薬価の如き、横須賀医師会の規定に比するに僅かに5分の二にして半額に見たず」と書かれています。また、職工共済会は購買所を運営するなど工員の福祉活動も行っておりますが、工員の福利厚生などの分野は地元の皆様にさらに研究して頂きたい分野ですね。
近代文明の導入と横須賀陸海軍横須賀で注目すべきことは陸海軍を通じた地方への文化の伝播ではないでしょうか。特に有名なのが横須賀市が「町起こし」としているカレーライスの普及で、カレーライスは手数が掛からないことから、海軍では土曜日の定番献立でした。そのため明治22年の「五等厨夫教育規則」には主計科の新兵は、「カレーライス仕方」「シチュウ仕方」「ビーフステーキ仕方」などを海兵団で習いましたが、特にカレーライスは必修とされていました。なお、現在、海軍カレーとしているレシピは、佐世保海兵団の教科書を参考に、舞鶴海兵団が作成した『海軍割烹術参考書(明治41年発行)』です。

 次は洋食の普及ですが、海軍に衝撃を与えたのは明治15年に南米方面の遠洋航海に出た龍嬢の乗員397名中ニハ9名に、脚気患者発生し25名が死亡した事件でした。海軍は英国海軍が脚気にかからないことから、食事を麦飯とパンとしコンビーフ、ローストビーフ、ハム、べーコンなどを与え、特に「遠征、遠航海ノ場合ニハ数頭ノ牛、羊、豚、鶏ヲ購入飼養スルコトアリ」と肉食を推進しました。しかし、明治天皇が牛肉を食したと発表されたのが明治5年、地方出身者が多い水兵は肉類を好まず、当時は「また、コンビーフか」とバターやハムが嫌われていました。このためでしょうか、明治25年には呉鎮守府に於ける水兵は常に龍動モルトン商会のパタ一を喰ひ、その残缶は鎮守府の芥溜に山をなし、又鎮守府の水兵は『ロース』牛肉を食糧となし、その残肉は広島師団が買収し兵卒の食料となすと聴く、政費節減の際、政府は何を以て呉鎮守府の賛沢を是認せらるるか」と、国会の名物議員の島田三郎に弾劾されています。

 また、狭い艦内には伝染病は禁物で海軍のアキレスでした。明治10年にコレラが九州に発生し、西南戦争に参加した兵士の凱旋と重なると、海軍は「凱旋陸海軍兵隊虎列刺病予防処分法」を制定して検疫を実施しました。そして研究の結果、伝染経路が海路船舶によることを突き止めると「検疫停船規則」を定め、明治19年には「横須賀軍港規則」で検疫制度を確立するなど、日本の検疫制度は海軍から始まりました。このほかにツベルクリン反応検査やレントゲン撮影など、結核の予防などの分野でも海軍が大きく貢献しております。

 現在、横須賀ではジャズで「町起こし」をしておりますが、その原点は明治19年の「軍楽員は横須賀鎮守府に属し、軍楽研究と海軍儀礼における奏楽に当る」「各鎮守府艦隊に要する軍楽員は横須賀鎮守府から分派する」との通達で、それが横須賀を西洋音楽伝播の発祥の地とし、ジャズのメツカとしたのです。海軍軍楽隊は鹿鳴館の夜会の演奏から各種の行事、市中行進などに参加し多くの人々を魅了し、株式会社東京市中音楽隊や東洋音楽会(のち東洋市中音楽会)を生みましたが、一方、大量の楽士を引き抜かれる海軍は引き留めに苦慮し笑えないエピソードもあります。箪楽隊の中村祐庸初代隊長は「君が代」の生みの親であり、東京音楽学校出仕教授にもなった日本の洋楽の先駆者です。また、軍艦マーチの作曲者・瀬戸口藤吉のお墓も長浦の常光寺にあります。正岡子規は「横須賀や只帆樒の冬木立」という歌を詠んでおりますが、これは親友の秋山真之を訪れた時のものかもしれません。芥川龍之介は海軍機関学校の英語の教官として教鞭をとる傍ら、工廠・虹・保吉など横須賀を題材にした多くの作品を残しています。また、NHKのラジオ体操は海軍砲術学校の堀内豊秋大佐がデンマーク体操を取り入れた「海軍体操(城西体操とも云う)」から生まれました。バレーボールや野球は呉海軍工廠が力を入れたため、呉港中学や五番町小学校は毎年のように全国大会に出席し優勝もしております。

 次に横須賀の陸軍に目を転じますと、陸軍の最大の技術的影響は明治25年から大正10年と30年間にわたる難工事を克服して完成した第3海堡ではないでしょうか。この日本の海洋土木技術の最先端を示す明治の大プロジェクトに生涯を捧げた陸軍少佐西田明則を讃える記念碑は衣笠公園に、お墓は聖徳寺にあります。また、陸軍練兵場では競馬が行われていましたが、これは強い軍馬を必要としていた陸軍の支援があったのかも知れません。横須賀の陸海軍が関係したスポーツなども面白い研究テーマではないでしょうか。

横須賀の発展と陸海軍
 次に横須賀の歴史を文明開化という視点から捉えてみたいと思います。文明開化を考える象徴的なものは電気や水道、電話や交通などでしょうが、横須賀の文明開化については東京や横浜と比べるよりも、各軍港都市と横断的に比較する視点が重要ではないでしょうか。海軍工廠には東京に電灯がついた明治28年に点灯していますが、横須賀電灯会杜が誕生し市内に電灯が灯ったのは明治40年7月で、利用家庭は797戸で全戸の7%でした。一方、呉の電灯は近郊に水力発電所を建設し明治32年5月に、佐世保は明治39年8月に、大湊は大正5年10月と電灯に関しては呉が先頭を切りました。横須賀に市営水道が完成したのは明治41年12月で使用者332戸、佐世保も41年でしたが、呉は大正7年と大きく遅れております。しかし、横須賀、呉、佐世保いずれも海軍からの分水で、市営水道の開始時期は海軍水道の給水能力(分水能力)に関係があったようです。電話が東京-横浜間に架設されたのは明治23年でしたが、当時は電話の効用についての認識が低く、利用者は東京が179口、横浜が45口でした。電話の敷設は日露の風雲が急を告げた明治37-38年には、国防上の必要性から各軍港に急遼敷設することとなり、電話の開通には各軍港間に大きな差違はありません。最も早いのが横須賀で明治38年3月(加入79口)、呉は39年9月(加入110口)、佐世保は38年6月(加入16口)、舞鶴は大正元年で加入者は7口、この電話加入者数が軍港各都市の経済力を表してはいないでしょうか。

 次に交通機関を見てみますと、日本で最初に人力車の営業を始めたのは横浜で明治2年でしたが、横須賀は明治6年に1台、9年に74台(浦賀が59台)、40年には最盛期を迎え415台となりました。乗合馬車は明治30年に運行が開始され大正4年には三浦半島の各部に路線が拡大されましたが、大正2年にはバスが登場し10年頃には多数のバスがブームとなりました。一方、呉に人力車が登場したのは命じ18年で、明治40年にピークに達し628台になりますが、42年には市電が開通(全国6番目)し急速に減少します。佐世保に人力車が初めて登場したのは明治18年、乗り合い馬車が運行されたのは33年、バスが初めて走ったのが大正2年、市営となったのは昭和2年でした。しかし、横須賀にはなぜか市電が敷設されず、市バスも生まれませんでした。なぜでしょうか。このように軍港都市を縦断的に考えることで、地方史はさらに進化するのではないでしょうか。

海軍と横須賀の関係を考える
 次に海軍と横須賀市との関係を考えてみましょう。「海軍あっての横須賀市」であり、横須賀は海軍の増強とともに大都市へと発展して行きました。電話も水道も鉄道も海軍の存在があって他の都市より早く市民に提供され、特に横須賀線は日本最初の軍用鉄道として敷設されました。市の経済も明治40年の例を示すならば海軍工廠の職員は1万3452名、当時の横須賀市の人口が6万2876名ということは、人口の21、4%、1.家を2人とすれば42・8%の人が海軍工廠によってまかなわれていたことになります。海軍と市民の関係、市民と海軍関係者の比率など、海軍の基地経済への影響を佐世保の明治36年の例で見ますと、人口5万5129名の職業や納税状況は表の通りで、如何に海軍に依存していたかが理解できるのではないでしょうか。

 横須賀市は軍都故に関東大災害などでは陸海軍が出動して救助や治安の維持に恩恵を受け、復興も軍都のため国防上から優遇されたし、海軍工廠が官営企業のため災害による景気低下にも影響されることなく、軍人の給与なども平常とおり支給され、他都市に比べ短期問に復興しております。しかし、明治21年には「昔時僅に三十余戸(現在の、元町)の小漁村たりしが慶応元年幕府此地に造船所を設置せしより戸数頓に増加し、明治6、7年頃には既に千有余戸の大きに至り、今さらに数倍して四千余戸の小都会」の横須賀が、22年4月に横須賀町となると8700人、40年に市制が敷かれると6万2876人(衣笠地区を除く)と、県下では横浜市に次ぐ大都市となりました。しかし、この急激な人口増加や都市化のアンバランスが各面に現れ、呉鎮守府参謀長大井上久麿大佐(のち少将)は新聞記者に次のような「呉市への要望」を語っていますが、この記者会見の記事は当時の急速な都市化の実情をよく表していると思われますので紹介しましょう。現在このようなことを云ったら即刻首ですがね。

 「呉市は軍港中で一番不潔なところ、海軍への影響大なるものがある。即ち水兵に花柳病の蔓延はペストより恐ろしい。呉は淫売婦の多いのは佐世保と伯仲している。海軍でも毎週水兵の身体検査を施行しているが、衛生機関を充分にして風紀の取り締まりをなすべきである。さきに米国軍艦が入港した際、将校以上は上陸したが、水兵は許可しなかったのは花柳病を恐れたからである。まだ、下水道はなく塵挨処理は形式的で、昨年の大演習には当港を最適地とされながら一部に反対があって行われなかったのは、衛生上の不潔と風紀取り締まりが行き届いていなかったがためである。(中略)最も円満なる結果を得るべきは市制を施行するにしくはない。市長は人物の選択を要し、鎮守府その他外国軍艦艦長に対する外交的手腕を要し、万般の施設を拡張し病魔を救済し品位を高めれば、製鋼所もまたこの地に得られよう」。

 しかし、この急速な大都市化は横須賀も同様で「商業に工業に幾分の利益を得んと欲して日々他邦より此に出入りするもの亦数百人」、「旅舎割烹店及び妓老楼等の繁昌なる亦他邦のなき所なり」の状況で、市制当時は6万2876名中、約4万が寄留者で一捜千金を夢見て集まった人々も多く、表に示すような犯罪も多発し、横須賀警察署は「悪漢」155名、浮浪者47名など272名を常時監視していました。また、人□構成は男子3万5861名、女子2万7015名と、工員と水兵の町で独身者が多いだけに、遊廓だけでなく私生児も全出産児の7%(146名)を占めるなどの風紀の問題もありました。『横須賀市史(昭和63年版)』には「海軍だけが発展し、工廠だけが大規模化し、人口だけが集中して産業の育成を忘れていた」、「海軍さんを下宿に置いたような景気で、自主性のない軍事への従属的な歴史であった」と記されていますが、同じ軍港都市の呉では日清戦争が起こると、包帯材料製作所や缶詰工場が、日露戦争前後には造船所や鉄工所、やすり工場やセーラー万年筆が創立され、伝統産業では千福酒造などの酒造会杜が全国ブランドとなり、金谷石鹸製作所などは横須賀や舞鶴に分工場まで建設しております。このように、呉は工廠や海軍とともに地場産業が発達しておりますが、これは県民性の相違なのでしょうか、産業の立地条件の相違なのでしょうか。

 また、横須賀海軍工廠の労働運動はなぜ低調なのでしうか。束京に鉄工組合が誕生しましたが組合活動は低調です。呉工廠が明治35年には5390人、45年には1万2000人が参加する大ストライキを行い、従業員400名の大湊要港部の修理工場でさえも、39年にストライキを行っております。しかし、横須賀工廠では明治40年6月に賃上げ要求、43年8月に職工取締強化に反発し、海軍大臣に上申書を提出した程度で大きな労働紛争が起きておりません。また、同じ軍港の呉では死者まで出る米騒動が起こりますが、横須賀では起こっておりません。一方、横須賀市は政争が熾烈なためなのでしょうか、横須賀町と豊島村が合併に合意して市制を施行するまでに3年の歳月を要していますし、横須賀市長をみても地元ではまとまらなかったのでしょうか、呉市は12名の市長中、地元出身でない輸入市長は2名(海軍)、佐世保市も11名中2名(海軍)ですが、横須賀市は18名中5名(海軍3名、官僚2名)と他市と比べて輸入市長が多いのですが、なぜでしょうか。これも県民性でしょうか。

おわりに
 以上申し上げたように、横須賀の歴史は近代日本史の宝庫です。しかし、軍事アレルギーから半世紀の間に呉と佐世保に比べ、大きな差が生じてしまいました。横須賀市の軍事に対する姿勢を示す最も有名な事件は、平成8年に建立された軍艦行進曲の記念碑の歌詞削除事件でしょう。除幕式で歌詞が問題とされ歌詞を黒ビニールで覆って行いましたが、その後に何者かにより歌詞がセメントで塗り潰されてしまいました(平成14年に復旧再除幕式)。また、市は馬門山墓地に軍関係の記念碑の建立を禁止し、墓地を民間に開放し史跡としての価値を失ってしまいましたが、呉や佐世保は海軍墓地を公園として市が監理し、旧海軍の部隊や軍艦の慰霊碑の設置を認めましたので、現在では各種の慰霊碑が建立され名所とさえなっております。さらに呉市は呉海軍工廠や大和関係者が記念碑を建立すると、「歴史が見える公園」として整備し、海上自衛隊の潜水艦基地の入口には「潜水艦の見える公園」を作るなど、旧海軍の施設を大切に保管し、市民の憩いの場所ともなっております。
 特に呉市が本年4月に完成した「大和ミュージアム」の人気は高く、開館3ヶ月で70万人が訪れております。市立横須賀高等女学校の校歌には「この横須賀はかしこくも皇居に程も遠からぬ東京湾の要塞地帝国一の軍港ぞ」とあり、当時の市民はそれを誇りとしていたのです。「歴史は未来を見るベクトル」と云われていますが、当時の人の目で見なければ歴史からは学べませんし、イズムに犯されては真実の歴史は見えません。軍事アレルギーを脱却し、明も暗も歴史として認める多面的に歴史観で、隠され見向きもされなかった史実を明らかにするのが「三浦半島の文化を考える会」の皆様に期待されているのではないでしょうか。