出版に際しては字数制限から全文を掲載できなかったので、ここに削減前の原文を紹介したい

北東アジアに於ける日本の安全保障

日本非武装化と平和憲法の制定

 1945年(昭和20年)8月にポツダム宣言を受諾して降伏すると、8月下旬から米軍を主力とする連合軍の進駐がはじまり、日本は占領軍の管理下に置かれた。占領軍の日本統治は連合軍最高司令官マックアーサー元帥の総司令部(GHQ・General Headquarter)の指令を、日本政府が実行する間接統治方式で行われた。占領軍の占領政策は日本が再び「無責任な軍国主義国家」となり、世界の平和の脅威とならない国家に改造することであった。言葉を変えれば「日本の侵略に対する安全保障」の追求であった。連合国は日本が再び軍事大国にならないようにと、軍事力のみならず工業力や経済力、さらには精神的にも改革しようと、教育基本法や民法などを制定・改訂し、国家制度から家族制度までのあらゆる旧来の組織制度を解体し、非軍事化と民主化を進めた。9月にはGHQ民間情報教育局による言論の検閲下に置かれ、ラジオ、新聞、雑誌のすべてが厳しい事前検閲を受け、占領政策に反する報道は禁止され、占領政策を批判する者は民主化にふさわしくない人物として、「公職追放令」によって公職から追放された。

 この「公職追放令」は最初は軍人や国家主義者などを対象としていたが、徐々に言論界、財界、地方公務員にまで拡がり、48年5月までに21万人が公職から追放された。公職追放令を受けることは失職を意味し、その効力は絶大であり、敗戦半年後には占領軍の政策に公然と反対する者は殆ど消えてしまった。

 さらにマッカーサーは、日本政府が作成した憲法試案を拒否し、46年2月に「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」との総司令部憲法案を幣原喜重郎総理に示し、天皇の安泰を得たいならば、この案を呑む他はないと強制した。拒否した場合には天皇の地位や占領政策の強化が予想された。窮した政府はGHQ草案を基に憲法を作り、国会の反対意見を押さえて採決し、11月3日に公布した(施行は47年5月3日)。占領軍による厳しい言論統制を受け、憲法策定時の真実を報道できない新聞は、「戦争を放棄し真の民主主義国家の建設をうたった新憲法を国民は熱狂的に歓迎した。皇居前広場で行われた新憲法祝賀都民大会には10万の都民が集まり、モーニング姿の天皇がソフトを手に参加者の歓迎に応えると、参加者は総立ちになって式台に殺到」し、新憲法の誕生を祝したと報じた。

 一方、「日本が再び米国の脅威となり、または世界の平和及び安全の脅威とならざること」を目指していた米国は、46年6月にはバーンズ国務長官から英米ソ中の4カ国が日本の武装解除と非軍事化を25年間監視する「四カ国条約案」を発表し、国務省極東局は講和会議後に日本を監視するために、極東委員会構成国の大使で構成する理事会と対日監視委員会で、25年間にわたり日本の非武装化と非軍備化を監視する案が立案されていた。

冷戦勃発による占領政策の変更

 大戦中から東欧の処理をめぐって米ソ両国関係はきしみ始めていたが、戦争が終わると、ソ連はポーランド、ハンガリーなどに介入し、次々と共産党政権を樹立しソ連圏に組み入れていった。47年3月にトルーマン大統領は、ソ連からさまざまな圧力を受けているトルコ、国内で共産党の勢力の膨張が顕著なギリシャを対象に、共産主義の膨張を防ぎ自由主義体制を守るために、軍事援助を与えるとの「トルーマン宣言」を発した。その一週間後の47年3月17日には、マッカーサー元帥から日本の非武装化は完了し、民主化もほぼ終了した。次の課題は経済復興であるが、これには貿易の再開なども必要であり、占領軍による軍政をやめ早期に講和会議を開催し、日本の独立を認めることが望ましいと発表した。この発表は「トルーマン宣言」の後ではあったが、冷戦の影響を受けたものではなく、先の国務省長官や国務省の意向に添ったもので、占領国の米英ソ中豪など11カ国の代表からなる極東委員会で、日本が軍国主義国家とならないように監視する体制を討議すべきであるというものであった。しかし、ソ連が米英ソ中の4大国には拒否権を認めるべきであると、強硬に主張したためこの構想は消滅した。

 マッカーサーの早期講和論に強硬に反対したのが、国務省の政策企画室長で「ソ連封じ込め」を主張するケナンであった。ケナンは日本は「極東における唯一の潜在的な軍事・産業の大基地」であり、日本を自由主義陣営の一員として強化しなければならない。もし、日本が政治的経済的に安定していない現段階で独立を認めるならば、ポーランドやハンガリーのようにソ連の援助を受けた共産党による革命が起こり、日本が自由主義陣営から離脱する恐れがある。講和会議は日本が経済的政治的に安定するまで開催すべきでなく、日本を早急に政治的経済的に安定させるべきであると進言した。これを受けて米国政府は、それまでの日本弱体化(非軍事化)の占領政策から、日本を支援し日本を政治的経済的に安定させるとともに、日本が自立できるまで占領を継続し、日本を共産主義から守るべきであるとの「日本を守る」占領政策へと変更した。48年1月には米国陸軍長官ロイヤルが、日本は「全体主義の防壁」であると演説したが、12月にはGHQから「経済安定九原則」が指示され、翌年3月にはシカゴ銀行頭取のドッジが来日し、「日本経済安定策(ドッジ・ライン)」が示され、8月にはシャープ税制調査団が来日し税制改革が勧告された。

サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の締結

 マッカーサーが提示した早期講和は挫折したが、それは日本の軍事基地を自由に使用したい国防省(軍部)と、日本の西側志向を確保するためには、早急に独立を与えるべきであると考える国務省の意見の対立にあった。両者の意見を調整するために、国務省顧問のダレスが指名された。ダレスは米国、カナダ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランド、日本からなる「太平洋協定(Pacific Pact)」という地域的集団安全保障体制をつくり、日本の軍国主義を懸念している国々と協力し、この協定によって日本の軍国主義化を抑えるとともに、域外からの条約締結国への攻撃には締結国が団結して対抗する。そして、この協定を根拠に、基地使用協定を日本と結んで基地を確保する腹案で50年6月に来日した。しかし、マッカーサーはこの案では、日本人に日本の安全保障よりアメリカの安全保障を重視していると見なされ、日本人のナショナリズムを刺激すると反対した。そして、代案としてポツダム宣言の「日本の軍国主義」の脅威が消滅するまで占領を継続するという表現を利用し、「ソ連の脅威」が消滅するまで講和条約を締結した後も、米軍の駐留を継続する案を提示した。ダレスはこの進言と国連という枠組みを利用し、日本が独立後に国連に加入し、「国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便宜を安全保障理事会に利用させることを約束する」という国連憲章第43条に従い、日本が国連に兵力を提供することにするが、現段階では国連が機能していないので、国連の平和維持機能が有効になるまでは、ポツダム宣言署名国代表である米国に基地を提供するという案に変更した。

 一方、米ソは急速に対立を深め、47年10月には米国議会で「冷戦」との言葉が始めて使われ、また、中国では国民党と共産党との間で内戦が激化し、朝鮮半島では38度線を境に、北はソ連軍、南は米軍が占領する分断状態が続いていた。そして、48年8月には大韓民国が、9月は朝鮮民主主義人民共和国(以後、北朝鮮と略記)が樹立された。中国では毛沢東の率いる人民解放軍が国民党政府軍を敗り、蒋介石の率いる国民党政府は台湾に逃れ、49年10月には中華人民共和国が樹立され、翌年2月には日本とその同盟国(米国・著者挿入)に対して、中国とソ連が共同防衛行動をとる中ソ友好同盟相互援助条約がモスクワで調印された。

 そして、50年1月に米国務長官アチソンが不用意に、米ソの軍事境界線はアリューシャン列島・日本・沖縄であると述べると、北朝鮮の金日成主席はソ連・中国の支援を得て、6月25日にソ連軍事顧問団が立案した作戦計画に従い、38度線を越えて韓国に進攻した。装備の貧弱な韓国軍と少数の在韓米軍や、日本から急遽派遣された軽装備の米軍は、一時は釜山まで後退したが、その後は米軍を主力とする国連軍(英仏など18カ国)が参加し、北朝鮮軍(中国義勇軍20万を含む)との間で4年にわたる朝鮮戦争が開始された。朝鮮戦争は悪性のインフレに喘ぐ日本には救いの雨となったが、問題は日本がソ連の攻撃にも共産主義者による騒乱にも、全く抵抗力を持たない「軍事的真空状態」なことであった。日本に自衛のための軍備を持たせるには、制定したばかりの憲法の改定を日本政府に説得しなければならなかった。一方、米国には日本の基地を自由に使用したいという強い要求もあった。

 これに対して、オーストラリアやニュージーランドは、依然として日本の軍事化に強い危惧を抱いていた。そして、米国による沖縄の「恒久的な戦略的支配」、すなわち日本の独立後も米軍を沖縄に駐留させて、ソ連の脅威に対峙させるだけでなく、日本の行動を抑止する「日本の脅威を対象とした」安全保障の観点から、米軍の沖縄駐留を希望していた。国務省はこの3つの問題を解決するために、先にマックアーサーから批判された「太平洋協定」を改めて検討し、日本、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、アメリカ、それに可能ならばインドネシアを加え、国連憲章第51条の集団的自衛権に基づいて協定を結び、協定国に対する攻撃を締結国全体の平和に対する脅威と見なし、共通の危機として対処するという構想を立てた。この構想によれば、締結国に対する攻撃の中には日本からの攻撃も含まれるので、日本の再軍備を警戒している国々の危惧も除去でき、さらに日本の再軍備に国際的枠組みを加え、日本の軍事力を国軍としてではなく、国際安全保障機構の軍隊の一部とすることもできるし、現行憲法との正面衝突も避けられると、ダレス特使は「国連憲章に基礎を置く安全保障条項を持つ平和条約」、「米国との基地駐留協定」と日本の再軍備を促す「太平洋協定」の3つを軸とする講和後の日本の安全保障に対する腹案を持って51年1月下旬に来日した。

安全保障に対する日本の対応

 一方、日本では講和問題が報じられると、ソ連や中国(中華人民共和国)も含めた連合国との講和(全面講和)か、それとも米国を中心とした西側の国だけとの講和(多数講和あるいは単独講和)かをめぐって世論は鋭く対立した。日本政府は後者の立場をとり、社会党や共産党、著名な知識人を集めた平和問題懇談会などは前者を支持し、講和会議をめぐって国内には大論争が起こった。当時の吉田茂首相は米国を中心とする自由主義陣営の一員となる立場をとり、独立後の安全保障を米国に委託し米軍の駐留を認め、当面は本格的な再軍備をしない方針で交渉に臨んだ。吉田首相は米国の強い再軍備要求には、平和憲法に対する国民感情、経済的理由、軍国主義の復活に対する内外の危惧などを揚げて抵抗した。しかし、最終的には軍備増強を「非常にゆっくり行う(Go very slowly)」ことで同意せざるを得なかった。

 憲法が再軍備を禁止していたため、日本は国連憲章第51条の集団的自衛権に基づく防衛協力関係を設定して、米軍の駐留を認めるという米国案は日本の希望により、米軍の駐留や基地使用を認め、また日米の防衛協力は日米それぞれの自衛権に基づく国連の地域取り決めの一種であると解釈する方針に変えた。そして51年9月8日にサンフランシスコで講和条約を調印(49カ国署名)し、同日、日本の要請による形で「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安全保障条約)」が調印された。次いで52年2月28日には、米国が必要とするところに基地を要求できる権利と交通・通信などの優先権、さらに軍人・軍属とその家族の犯罪に対する日本の裁判権が及ばないことなどを協定した「行政協定」が締結された。条約締結後の国会では極東の範囲をめぐる「極東条項」が問題となったが、6月23日には国会を通過し日米安保条約は発効した。

 一方、太平洋協定はオーストラリアやニュージーランドなどの対日警戒心から頓挫した。そこで、アメリカはオーストラリアとニュージーランドとはANZAC協定、フィリピンとは米比相互防衛条約を締結し、日本の侵略に対してはアメリカがオーストラリアやフィリピンを防衛することで、個々に相互防衛条約を調印した。このようにして日本は西側陣営とともに歩むことを選択し、米国は日本の防衛を受諾し、それと引き替えに日本は米軍の駐留と極東での在日米軍の戦闘行動の自由を認めた。

朝鮮戦争と日本の再軍備

 朝鮮戦争の勃発により警察力を強化するようGHQから指示された政府は、正規の手続きを経たのでは紛糾し、時間もかかることから国会の承認を経ずに、立法手続きを省略できる占領軍の命令であるポツダム勅令により、1ヶ月後の45年8月10日に「警察予備隊令」を公布した。募集は全国の警察で開始され、就職難と破格の待遇のため第1次7万人の募集には37万を越える応募があり、10月半ばまでに10数回にわたって入隊試験が全国の警察で行われ、12月には部隊編成などを決めた規則(総理府令)も施行され、警察予備隊はその姿を整えていった。しかし、米国から見れば有効な自衛力とはいえず、このままでは共産主義の脅威にさらされて危険であると、日本に対する兵力増強要求は続いた。この兵力増加要求に吉田首相は大佐クラスの旧軍人の警察予備隊への入隊を認めるなど、警察軍から国防軍への転換を図り、51年2月にはダレスに書簡を送り、国防省に相当する国家治安省と、将来は参謀本部となる保安企画本部の設置、それに警察予備隊とは別に5万の新組織を新編することを約束した。

 そして、51年5月には保安大学校(53年開校、54年に防衛大学校と改称)を創設し、52年8月には警察予備隊の定員を7万5000人から11万名に増員し保安隊と改称、海上保安庁に属していた海上警備隊を警備隊と改称し、新設した保安庁に組み入れた。この保安隊は「わが国の平和と秩序を維持し、人命および財産を保護するため、特別の必要がある場合において行動する」任務を帯びた機関であり、警察予備隊と比べると治安維持以上の目的を持った機関であることは明らかであった。吉田首相は保安庁発足時には「保安庁は新国軍の基礎であり、新国軍建設の土台である」と内密に主要幹部には訓示をしていた。しかし、憲法の制約から常に政府が軍隊でないと言い逃れたため、国会では「自衛隊は武器も小型で旧式武器しか保有していないので、憲法の規定する『戦力』には当たらないので憲法に違反していない」。「戦車や大砲を保有しているので自衛隊は戦力であり、自衛隊は憲法に違反している」などとの憲法解釈をめぐる神学論争が70年代まで続いた。特に53年の国会で、相互安全保障協定(MSA)に基づく軍事援助を日本にも与えるとのニュースが米国から伝わると、この相互安全保障条約には、援助受諾国は「自国の防衛能力を発展させるために、必要なすべての妥当な措置をとること」が規定されていたため、社会党や共産党を中心とする左翼勢力が、相互安全保障協定の締結は、再軍備に連なり平和憲法を空洞化すると反対した。

 このように、朝鮮動乱により50年8月10日には、陸上自衛隊の前身である警察予備隊が治安部隊として警察を母胎として誕生した。しかし、海上自衛隊は旧海軍を母胎として誕生した。敗戦後、日本の港湾や水路には連合軍や日本軍が敷設した多くの機雷が残っていた。この機雷を海上保安庁の外部機構の旧海軍軍人からなる航路啓開隊が掃海していたが、8000名の増員が占領軍から指示されると、海上保安庁とは異なる新組織(海軍)を検討するために海上保安庁内に特別委員会が設置され、この提案を受けて52年4月には海上保安庁に航路啓開隊を核として海上警備隊が誕生した。しかし、この時点では海上保安庁から独立した組織とする手続きが進行中であったため、3ケ月後の8月には海上保安庁から分離し、警察予備隊とともに保安庁に統合された。なお、航路啓開隊は国連軍の依頼により、50年10月中旬から12月中旬まで隊員1204名と掃海艇44隻、巡視船7隻(いずれも延べ数)を元山、 群山、 仁川、 海州、 鎮南浦の掃海に出動し、27個の機雷を処分するなど国連軍の作戦に協力し、掃海艇1隻が爆沈し、1名が死亡し18名が負傷した。 
53年10月に防衛問題を協議するために、吉田首相は自由党政調会長池田勇人を渡米させると、米国からは陸上兵力を32万5000人に増強することが強く要求された。日本はこの要求に応じる形で、54年7月には防衛庁設置法と自衛隊法を公布し、保安隊を「直接侵略および間接侵略に対してわが国を守る」国防を目的とした陸海空自衛隊に再編成した。しかし、大幅な人員の増強には応じなかった。このような日本の対応に米国は不満であったが、練習場で屑鉄を拾っていた農民を誤って射殺したジラード事件、ビキニ環礁の原爆実験でマグロ漁船・第五福竜丸が被曝した事件などがあり反米感情が高まり、さらに造船疑獄や警察法改正などにより自民党が選挙で敗北したため社会党などの左派政権の出現を憂慮し、防衛力増強要望を緩和するのも止むを得ないとの空気も米国政府内に生まれ、日本は兵力増強をかわすことができた。

岸信介首相の60年安保改訂

 その後、日本は56年に国防会議を設置し、57年5月には「将来国際連合が有効にこれを阻止する機能を果たし得るに至るまでは、米国との安全保障体制を基調としてこれに対処する」との「国防の基本方針」を策定し、日米安保条約を安全保障の主軸とすることを明記した。首相の座に着いた岸信介は、占領体制下に締結したため多くの問題のある安保条約や地域協定を、主権国家の条約にふさわしい対等な条約に改めることを目指し、57年6月に「日米新時代」をキャッチフレーズに訪米した。しかし、岸訪米の前年10月にはソ連が世界最初のスプトニークを打ち上げ、ソ連と社会主義陣営の国際政治力は急速に高まり、社会党や国民の中には大陸弾道弾ミサイルの時代に、米ソのいずれかに組みするのは危険であり、安保条約を解消し日米ソ中を含む多国間による安全保障体制を構築すべきであるとの主張も強まり、那覇では反基地を掲げる候補が市長に当選していた。

 このような時期の訪米ではあったが、岸首相の目標は安保条約と国連の関係の明確化、米国の日本防衛義務の明確化、事前協議制の導入、そして条約に期限を付けることであった。また、岸の頭の中には最終的には「国民の自由意思に基づくわれわれの憲法」、「他国軍隊の駐屯」を排して「自衛態勢」を確立し、日米安保を対等な条約とすることであった。しかし、対等にすることは「米国が他国の防衛を約束する場合には、その相手国も米国の防衛に協力しなけらばならない」というバンデンバーグ決議があり、交渉は難航した。交渉は長期に及んだが60年1月19日には軍事分野だけでなく、経済分野でも相互に協力する経済と軍事を含む新しい条約(「日米相互協力および安全保障条約」)がワシントンで調印された。この改定によりアメリカの日本防衛義務が明文化され、条約に期限が付けられ、国連憲章と安保条約との関係もより明確になった。また、付属交換公文で事前協議が加わるなど、旧条約の不備を是正することに成功した。しかし、この条約の批准をめぐり与野党の対立が激化し、安保反対・岸内閣打倒の巨大なデモやストライキが瀕発し、岸内閣は新安全保障条約の成立とともに退陣しなければならなかった。

冷戦の激化と自衛隊の増強

 ジュネーブ協定でフランスがベトナムから撤退したが、米国は南ベトナムが赤化されれば、アジアが赤化されると南ベトナムを支援した。しかし、60年には独裁政治に不満を抱く南ベトナムの反政府勢力が、北ベトナムの支援を得て南ベトナム解放戦線を結成し、政府軍との間に戦争が始まった。状況の悪化に直面した米国は61年11月には400名の軍事顧問団を送ったが、64年には米駆逐艦を北ベトナム魚雷艇が攻撃したトンキン湾事件を契機に本格的介入に踏み切った。そして、米国を支援する韓国軍5万、オーストラリア軍8000、フィリピン軍2000、ニュージーランド軍1000も加わり戦争は10余年間続いた。この戦争は「ベトナム特需」という経済的利益を日本にもたらしたが、ベ平連に代表される反戦運動や反米運動が米国の不満を高め、対日感情を悪化させ、日米同盟の信頼度を低下させた。

 一方、米国がベトナム戦争の泥沼に埋没し、巨額の国家資源を浪費している間に、ソ連は一貫して軍備を増強し、米ソ間の軍事力ギャップを急速に縮小し、72年には戦略兵器の分野で米国とのパリティに達し、通常兵器の分野でも米国に迫り、量的には米国を凌駕するに至った。ソ連は軍事力の増強に比例して、61年にはソ朝友好協力相互援助条約、66年にはソ連・モンゴル相互援助条約、70年にはエジプト、71年にはインド、78年にはベトナム、アフガニスタン、79年には南イエーメン、81年にはシリアなどと友好協力条約や相互防衛条約を締結し、これらの国々との間に軍事基地の利用権や領土・領空通過権などの軍事協定を締結し世界各地に進出した。危機を感じた米国は同盟国に防衛力の増強を求め、NATO諸国は国防費をGNPの3パーセントに増加することを決議した。日本は57年に国防会議と閣議で決定された「国防の基本方針」に従い、由主義社会の一員として、侵略を意図する国の兵力に効果的に対処することが可能な「所要防衛力」を整備することを目標に、58年度から3カ年または5カ年計画のもとに、第1次から第4次防衛力整備計画を定め防衛力を強化し、自衛隊の戦力は日本の経済力の増大に比例して質量ともに強化されていった。しかし、野党などから「歯止めなき防衛費拡大」との批判が高まったため、政府は76年10月に極東ソ連軍の対日侵攻能力の量に見合う防衛力の整備をめざしてきた従来の所要防衛力構想を放棄し、平時には国防に必要な基盤的な機能を一通り準備し、有事にはこれを基盤に量的な拡大を図る「基盤的防衛力構想」に転換した。また、この「防衛計画の大綱」では想定される侵略の規模を「局地戦以下の限定的侵略」から、一段低い「限定的かつ小規模な侵略」に縮小し、さらに76年11月には防衛費の枠を国民総生産(GNP)の1l以内に決めた。

 このような日本の消極的な防衛力増強に、米国には「安保唯乗り論」が高まったため、政府は在日米軍への住宅の提供や基地の光熱水道費、基地従業員の労務費などの経費(別名・思いやり予算)を支払うホストネーション・サポートを強化し、米国の不満解消をはかった。また、78年11月には「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」を閣議決定し、米軍が自衛隊の行えない攻勢的作戦を実施するかわりに、自衛隊も米軍を補助する任務を分担することに合意し、日米共同作戦計画や有事の後方支援に関する研究を開始し、技術交流などを推進するこことした。しかし、81年3月に伊東正義外相が訪米すると、ワインバーガー国防長官から日本がグアム以西、フィリピン以北のシーレインの防衛を分担するよう要請された。続いて同年5月に訪米した鈴木善幸首相は、これを受けて「1000海里のシーレーン防衛」を公式に表明した。しかし、帰国後にこの発言を否定したため日米関係は一挙に冷却してしまった。後を継いだ宮沢喜一首相は翌82年5月に、(1)米空母機動部隊による相手の基地や港湾の攻撃と、(2)自衛隊による宗谷・津軽・対馬海峡の封鎖、4国沖から沖縄を経て台湾の南のバーシー海峡までの「南西航路帯」、京浜沖から硫黄島を経て北緯20度までの「南東航路帯」のシーラーン防衛構想を明らかにした。さらに、宮沢首相の後を次いだ中曽根康弘首相は、日本はソ連に対し地理的には「不沈空母」であり、日本は米国とともに自由主義を守るために戦う同盟国であるなどと発言し、戦略防衛構想(SDI)に理解を示し、防衛力強化の努力をしたため日米関係は好転した。この中曽根首相の発言には、日本の経済大国化にともなう国際的責任の分担要求の世界的高まりや日本の自信の増大があったと言われている。しかし、シーレーン防衛と洋上防空が加わったことから、86年12月30日の国防会議で防衛費のGNP比1l枠の撤廃が決定され、87年度の防衛予算はGNP比1・004パーセントと1パーセントを超えた。

冷戦構造の崩壊と自衛隊の新任務

 1978年にソ連に支援されたベトナムがカンボジャに、1979年にはソ連がアフガニスタンに進攻した。一方、中国はベトナムがカンボジャに侵攻すると、「ベトナムの地域覇権主義を懲戒する」としてベトナムへ侵攻した。ソ連の進出に危機感を感じたレーガン大統領は、1981年に対ソ軍事均衡を回復するために大幅な軍備拡張を行うべきであると、NATO諸国や日本に同調を求めNATO諸国や日本はこれに応じた。この西側陣営の結束した軍備増強に直面し、ヨーロッパと太平洋の両面の軍備増強を行わざるを得ないソ連は、89年にはデタント政策に転換し、西側陣営との協調路線を取るに至った。しかし、遅かった。多額の軍事収出と非効率的な計画経済が災いして、社会主義国体制が崩壊してしまった。1989年11月にはベルリンの壁が崩壊し、90年10月には統一ドイツが生まれ、91年3月にはワルシャワ条約機構が解体し、12月にはソ連邦そのものが解体してしまった。

 すると冷戦下に抑えられていた民族問題や宗教問題などの地域紛争が、ユーゴスラビアや旧ソ連邦、アフリカなどのいたるところで噴出した。さらに、90年8月にはイラクがクェートに侵攻し併合した。これに対して国連の安全保障会議は直ちにイラク軍の即時撤退を決議し、11月には対イラク武力使用容認決議を採択し、これに基づき米軍を主力とする多国籍軍(28カ国参加)がクエートを解放した。クエートを救ったブッシュ大統領は「新世界秩序」を高らかに宣言し、湾岸戦争は国連憲章第7章の「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行動に関する行動」に基づく、国連の平和強制機能の実現を予感させた。この流れを受け92年1月にはガリ国連事務総長から国連の平和の創設・維持機能を強化する「平和への課題」が提案された。92年12月にはマケドニアへの国連要員の予防展開が、翌年3月には平和強制部隊的な性格の強い第2次国連ソマリア活動が安全保障理事会で決議され、3月には軍事行動を容認された部隊がボスニアに派遣されるなど、ガリ構想は順調に伸展するかに見えた。しかし、マケドニアへの予防展開は一応の成果を上げたが、平和維持活動と平和執行強制行動を結び付けようとしたソマリアやボスニアの試みは失敗した。また、94年に内戦の勃発したルワンダでは、国連の呼びかけに対して加盟国が応せず、内戦の激化や市民の大量殺害を防ぐことができなかった。これらのことから、国連の平和維持への期待感は急速に低下し、ガリ構想は94年7月には撤回された。

 とはいえ、東チモール暫定行政機構や国連シエラレオーネ・ミッション、国連コンゴー民主共和国ミッションのような大規模なPKF(PKF/Peace Keeping Force)も設立され、現在、国連平和維持活動(PKO/Peace Keeping Operation)に約1万8000人が世界各地で活躍している(2001年4月現在)。このように、世界が平和のためには武力行使も止む得ないとする動きになったが、日本では「憲法問題」「集団的自衛権問題」「海外派遣禁止決議」などから、湾岸戦争時の多国籍軍にも、国連の実施する平和維持活動にも参加できなかった。中東からの最大の石油輸入国であり、世界第2の経済大国でありながら、経済援助で済ませた湾岸戦争に対する日本の行為が激しく国際的に非難を浴びると、世論は戦闘終了後の掃海艇の派遺もやむをえないと容認する方向へと動いた。そして、ペルシャ湾に派遣された掃海部隊が国際的な称賛を受けると、国民は軍事面での国際貢献にもいくらか寛容になり、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が組織されると、92年には「国際平和協力法(PKO法)」を成立させ、「国際緊急援助法」を改定して、1200名余の自衛隊をカンボジャに派遣し、93年にはモザンビーク、94年にはルワンダ、95年にはゴラン高原、99年には東チモールに派遣した。しかし、派遣には停戦合意の存在などの5原則に加えて、本体業務(停戦、武装解除の監視、武力紛争再発防止地域の駐留・巡回、武器の出入検査、放棄武器の収集処分など)は「凍結」され、実施できるのは医療、輸送、通信、建設などの後方業務に限られ、世界の厳しい目が依然として日本に注がれている。

日米安保の再定義・橋本クリントンの東京宣言

 ソ連邦崩壊という情勢の変化を受け、日本に対する直接の脅威から民族紛争にともなう国際平和維持活動、サリンに代表される毒ガスを利用したテロ行為、北朝鮮の不審船によるゲリラやスパイの密入国、不法入国や麻薬などの密輸と、脅威が不明確・不確定となり、世界的に国防のあり方を検討する動きが高まると、94年に細川護熙首相は防衛懇話会を設置し、「防衛計画の大綱」に代わる新しい防衛構想を諮問した。懇話会は同年8月に「日本の安全保障と防衛力のあり方」と題する報告をまとめ、「多様な危機に対処する危機管理能力」を高め、国際平和活動など国際的安全保障への多角的協力、各国との信頼性の醸成や日米の防衛協力の強化などを提案した。この答申を受けると政府は、95年11月に、「平成8年度以降に係わる防衛計画の大綱」(新防衛計画の大綱)を策定した。19年ぶりに改訂された防衛計画の大綱は、必要最小限の基盤的な防衛力を保有するという57年に作成された「国防の基本方針」を基本的には踏襲しながらも、世界的な軍事力削減などの軍事態勢の変化、地域紛争や大量破壊兵器の拡散、各種の国内的要素(科学技術の進歩、若年隊員の減少傾向、厳しい予算制限等)を受け、自衛隊の合理化・効率化を図り、コンパクト化を推進するとともに自衛隊の任務として、「大規模災害・テロへの対応」、「国際平和活動への参加などの国際貢献」が加えられた。

 一方、日米関係については、92年に日米両国が「日米グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」を発したが、96年4月には「日米の堅固な同盟関係がアジア・太平洋地域の安定の基礎である」ことから、在日米軍4万7000を含めアジアに10万の米軍を「当面維持する必要がある」ことを橋本竜太郎総理とクリントン大統領が確認し、「日米安保共同宣言 21世紀に向けての同盟」を宣言した。また、日米両国は同盟関係の有効性を高めるため、「日本周辺地域で発生し得る事態に備える日米協力」の研究を開始することに合意し、96年10月には自衛隊と米軍が訓練時に燃料などの物品を貸し借りする「日米物品役務相互提供協定」に署名し、自衛隊による米軍への後方支援(燃料のみ)を制度化した。また、97年9月の日米安全保障協議委員会では、「日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)」が了承され、現在「周辺事態」が生起した場合の日米の協力要領について、@被害地の救援活動と難民保護、A米兵の捜索・救助、B非戦闘員を待避させる行動、C経済制裁の実効性を確保する活動、D米軍による自衛隊施設と民間の空港・港湾の使用および米軍への物資の補給、武器弾薬の輸送、艦艇・航空機・車両の修理と整備、米兵の治療、米軍施設と輸送路の警備、通信の支援、米軍物資の積み卸し作業などの支援、E自衛隊による情報収集、警戒監視、機雷除去の細部について、指針の実効性を確保するための作業が進行中である。しかし、54年6月の「自衛隊の海外出動をなさざることに関する決議」や、56年の集団自衛権に関する「国際法上は認められているが現憲法下では認められない」との政府統一解釈などから、独立国家同士が相互に相手を守るという意味での同盟国としての対等性を欠き、依然として日米安全保障条約の基地を貸して守って貰うという「地(基地)と血(人命)との協力」という基本構造は変わっていない。

日中・日韓・日朝関係

 次に北東アジアに位置するソ連(現在のロシア)以外の隣国と、日本との関係を振り返ってみよう。サンフランシスコ講和条約締結後の51年12月に、ダレスの要求を受け吉田首相はダレス宛に書簡を送り、台湾の国民政府を中国の正統政府であると認め、52年4月28日に日華平和条約を締結した。経済の再建や自国の安全保障を全面的に依存している日本には、対中政策でアメリカに同調せざるを得ず、アメリカの中国「封じ込め政策」に同調を余儀なくされていた。しかし、民間レベルでは「政経分離」の理論で経済交流を進め、52年6月には第1次民間貿易協定が締結され、バーター取引が開始された。朝鮮半島で休戦が成立すると、53年7月に国会は「日中貿易促進」を決議し、53年10月には第2次民間貿易協定が妥協した。第3次協定では日本は政府間協定に格上げする意向を持っていたが、アメリカの反対から最終的には政府の「支持と協力」を表明するに留まらざるを得なかった。しかし、53年5月の第3次協定締結後は相互に見本市を開催し貿易額も増大し、文化・人的交流も増加した。しかし、順調に推移していた日中関係は58年5月の中国展示会場の中国の国旗を右翼分子が引きずり降ろした長崎国旗事件を契機に、中国は日中文化経済交流の総ての断絶を声明し、それまで「積み上げ方式」による両国の国交整序への歩を振り出しに戻してしまった。その後、日中関係は冷却したが池田勇人が総理となると、62年9月に自民党の長老松村謙三と周恩来との間で貿易の促進と「漸進的かつ積み重ね方式で、政治および経済関係を含む両国関係の正常化」が合意され、11月には「日中総合貿易に関する覚書(LT貿易)」が調印され、63年にビニロン・プラントの輸出に対して輸出入銀行の資金による延べ払いを認可する決定を下した。しかし、その後に党内の親台湾派などの圧力もあり取りやめられた。

 1964年に池田の後を継いだ佐藤(栄作)政権時代は、佐藤首相の反共産主義的思想や中国における文化革命の影響などもあり、貿易は大きく落ち込み、さらに期限が切れる「LT貿易」の交渉も進展せず、1968年には「覚書貿易(MT貿易)」に切り替えられた。このような背景にはアメリカの北爆開始(1965年2月)によるベトナム戦争への軍事介入のエスカレーション、それに対する中国のベトナム援助の増大などベトナムをめぐる米中の対立などが影を落としていた。さらに、1967年に訪米した佐藤がジョンソン大統領との共同声明で、中国がアジアの脅威であると言及したこと、69年のニクソン大統領との共同声明で、沖縄返還に関連して台湾が「日本の安全にとって極めて重要な要素である」と述べたことなどから、70年から72年にかけて中国の日本に対する軍国主義キャンペーンが協力に展開された。

 カナダやイタリアが中国と国交を樹立し、アメリカも70年には大使級の会談を開催するなど、中国との国交正常化に動いていたが、日本では超党派の議員による日中国交回復議員連盟が結成された程度で、国交回復に対する政府の動きは鈍かった。そこに71年7月15日、ニクソンの訪中が報ぜられた。アメリカ外交の180度転換に日本には大きなショックが走り、日本の日中国交正常化への動きが加速された。しかし、佐藤総理を悩ましたのは、71年10月の国連総会で、中国の国連加盟は重要事項であるので国連構成国の3分の2の賛成が必要であるとの逆を行く、国民政府を国連から追放するのは重要事項なので、3分の2の賛成が必要であるという逆重要事項提案の共同提案国になることにアメリカから同意を求められたことであった。苦渋の選択を迫られた佐藤首相はアメリカに同調し、逆重要事項指定の共同提案国になった。しかし、10月の国連総会でこの逆重要事項指定議案は否定されてしまった。さらに、翌72年2月にはニクソン大統領が訪中し、上海コミュニケが発表された。佐藤内閣にとっては完全な敗北であった。その後、7月に日中国交正常化に意欲的な田中内閣に変わると、田中は非公式な接触を通じて中国が日米安保に対して異議を唱えないこと、賠償要求をしないことを知ると、9月に訪中し翌年には貿易協定、航空協定、海運協定、漁業協定などを締結した。

 しかし、74年に始まった日中平和友好条約締結交渉は、中国が求める「反覇権条項」に日本が抵抗を示したために決着が付かず、日本では77年秋までロッキード事件による田中前総理の逮捕による政局の混乱、中国では76年1月の周恩来、9月の毛沢東の死去と紅衛兵騒動と外交問題に取り組む余裕がなく進展しなかった。しかし、三木(武夫)内閣から福田(赳夫)内閣に変わつた76年になると、中国の権力闘争も一段落し、さらに中ソ対立も高まったことから米中日による「対ソ封じ込め」への期待も左右し、「反覇権事項」についても本条項が「第三国にとの関係に関する各締結国の立場に影響を及ぼすものではない(第4条)」との日本の提案を認めるなど、ソ連の脅威の増大から中国は妥協した。

 その後、ソ連邦の崩壊を受けロシアの極東の軍事力は急激に減少し、アジアの安全保障の焦点は中国に移った。特に「富国強兵」をスローガンに毎年2桁の比率で軍事費を増加し、強烈なナショナリズムと中華主義の地域覇権への強い願望が、最近では周辺諸国に中国の脅威を深めている。一方、中国はアメリカが唯一の超大国として国際秩序を主導することには「覇権主義」と反発し、人権問題や台湾問題などをめぐって米国との対立を高めている。そして、その延長で日米関係にも疑惑的になり、特に96年4月の橋本・クリントンの東京宣言や、ガイドライン見直しに対する疑念と警戒心を高めている。さらに、教科書問題に見られるようにアヘン戦争以来、列強から侵略を受けたという屈辱感の歴史観から来る被害者意識の裏返しとして、国家の威信や尊厳、主権や領土に対する執着が強く、尖閣列島の領有を主張し、東シナ海では日中中間線を無視して日本漁船の操業を妨害し、石油資源を求めて海洋調査を行い、さらに軍事情報を収集するため日本近海で海洋調査や電子情報の収集を活発化するなど、日中間の緊張は高まりつつある。

 一方、日本に最も近い韓国との交渉は同じ自由陣営に属し、米国の斡旋などもあったが、李承晩大統領在任中は強硬なナショナリズムから殆ど進展しなかった。大きな障害は36年間の日本の統治に対する韓国の反日感情であり、それに対する日本側の希薄な反省意識であったが、交渉をさらに困難にしたのは52年1月に朝鮮半島周辺の広範な海上に「李承晩ライン」を一方的に設定し、日本が固有領土と主張する竹島を占領し、日本漁船の立ち入りを禁止し、そのラインを侵犯したとして、日本漁船を頻繁に拿捕したことであった。その後、李承晩大統領が辞任し、61年に朴正煕大統領が登場すると日韓関係は進展したが、それは朴大統領が韓国経済の発展に日本の経済協力を重視したからっであった。日韓交渉の最大の案件は「請求権」問題で、朴政権は当初は8億ドルの賠償を持ち出したが、その後に賠償ではなく日本側が10年間にわたり3億ドルの生産物と役務の供与による経済協力、2億ドルの無償経済援助、2億ドルの低利の資金貸付、さらに民間の信用供与を行うことで同意し、65年6月22日に日韓基本条約が締結された。その後、1990年代に入ると、金大中大統領の就任や世界サッカー大会の共催などもあり、韓国内への日本文化の導入も解禁されるなど日韓関係は多少前進した。しかし、最近は再び教科書問題や慰安婦問題などが日韓を引き離している。
 一方、朝鮮民主社会主義共和国は労働党総書記の金正日の独裁下に、厳しい経済的困窮にもかかわらず、「強盛大国」の建設の基本国策とし、大量破壊兵器や弾道ミサイルを開発している北朝鮮の動向が大きな不安定要因となっている。特に、弾道ミサイルについては98年8月に日本列島を飛び越える形で発射実験を行ったが、生物・化学兵器についても生産施設が確認されており、すでに相当量を保有していると見られている。さらに、99年3月には特殊工作船が日本の領海に進入し、保安庁や海上自衛隊の艦船が追跡する事案が起きているが、韓国との間でも89年6月には小型潜水艦が領海に進入し、漁網にかかり拿捕される事件を生起させたが、12月には韓国領海内で小型潜水艇を韓国軍が撃沈する事件も発生した。さらに、最近では北方境界線を北朝鮮艦艇がしばしば越境し、韓国艦艇との間で銃撃戦が繰り返されている。このように北東アジアの情勢は北朝鮮を軸として依然として不透明・不確実な要素が多く変わる兆候は見あたらない。

おわりに
パワーバランス論と北東アジアの安定


 平和を維持する方策については多くの意見があるが、現実主義の国際関係論者の多くは、国際連合に限界がある現状では、平和は国家間のパワーバランスで維持されると主張し、同盟関係を重視する傾向が強い。確かに近代日本の100年の歴史を見ても、日本は1902年の日英同盟から現在の日米安全保障条約まで、20世紀の100年の間の80年間はパワーバランスを維持するために、英米独伊中、そしてソ連などの国々と軍事同盟を締結してきた。また、現在も多くの国々が軍事同盟を締結して安全を確保している。現在、日本は米国と軍事同盟を締結しているが、同盟国を選定する場合に何を基準とすべきであろうか。また、いかなる国ととの同盟が日本に繁栄をもたらすであろうか。同盟国選定の条件を考えて見よう。

 また、北東アジアのパワーバランス論の一つに、米中のいずれにも偏らない日米中の三角形的国際関係を構築すぺきである、米国の庇護を脱し自主狼立的な軍備を保有すべきであるとか、北東アジアの安全保障は日中韓の3カ国を軸とし、それに米国とロシアを加え、5カ国で協議し日米の軍事同盟を解消し、徐々に在日アメリカ軍を撤退させるべきであるとの意見もある。しかし、アジアの国の中には中国の強大な軍事力に対する懸念から、中国の軍事力に対するカウンターバランスとして、米軍の存在を歓迎している国もある。そのアメリカの軍事力を維持し、展開する後方基地が日本であり、この考えを日米相互に確認したのが 橋本総理とクリントン大統領の「21世紀の同盟に向けて」の東京宣言であった。このように、冷戦後は日米安保条約は日本の防衛だけでなく、アジアの安定にも寄与する条約に変質した。一方、日本は戦後半世紀にわたって「基地を提供し、米国の軍隊を駐留させて」安全を米国に依存してきた。その結果、日本は軍事費を抑えて戦後の復興を成し遂げ今日の繁栄を得た。しかし、自国の防衛をアメリカに依存したことが、国家意識を希薄にし国民の独立心や自尊心を希薄にし、対等であるべき日米同盟をいびつなものにしてはいないであろうか。教務で触れた日独伊三国同盟や日英同盟を参考としながら、日米安保条約を同盟政策という観点から考えてみよう。

日独両国の安全保障政策に関する比較

 同じ敗戦国でありながら、日本は米国防衛の義務を負わない片務条約の保護の下に、自衛力を最小限にとどめ、急速な経済復興を成し遂げた。しかし、再軍備をしないという選択のため、基地を貸して有事には血を流して守って貰う「地と血(人命)との協力」という「片務的な条約」となり、日本は安全保障に関して全く異なった道を歩んだ。西ドイツは55年にNATOへの加盟と、占領国から50万の軍隊の保有を許されると、憲法を改正して徴兵令を施行した。そして、近隣諸国の警戒心を解消するために、軍隊の指揮権をNATO軍司令官に与え多国籍軍化した。また湾岸戦争ではドイツ軍のNATO防衛区域外への派兵を憲法が区域外派兵を禁止していると解釈されたため、湾岸戦争に参加し参加することができなかった。するとドイツ政府は憲法裁判所に域外派兵についての憲法の審議を命じ、合憲との判決を得ると、その後にドイツ軍はバルカンに於ける平和活動などに積極的に参加し、周辺諸国からの信頼も深めている。NATOの初代事務総長イズメイは、冷戦下のNATOは「米国人を取り込み、ロシア人を閉め出し、ドイツ人を押さえ込んだ」と、NATOという同盟が3の役割を果たしたと述べているが、見方によっては日米安保条約も同じかもしれない。
一方、日本は再軍備をしながら憲法を改定せず、警察予備隊、保安隊、自衛隊と呼称し、外国では軍隊として扱われ国際法でも軍隊とされている組織を、公式軍隊と認知せずに再軍備の道を歩んできた。この憲法改正を迂回した再軍備の過程の不透明さと、歴史克服の不徹底さが、周辺諸国の懸念と疑惑を深めてはいないであろうか。なぜ、日独は異なる道を歩んだのであろうか。日独の再軍備過程を比較検討してみよう。

参考図書と註
1. 日米関係と日米安保条約
(1)五百旗頭真編『戦後日本外交史』(有斐閣、1999年)。
(2)坂本一哉『日米同盟の絆 安保条約と相互性の模索』(有斐閣、2000年)。
(3)細谷千博『日米関係史』(東京大学出版会、1995年)。

2.朝鮮戦争
(1)韓国国防軍史研究所編(翻訳・編集委員会編)『韓国戦争』(かや書房,2001年)。
(2)神谷不二『朝鮮戦争』(中央公論、1995年)。
(3)三野正洋『朝鮮戦争』(光人社、1996年)。

3.防衛庁・自衛隊
(1)ジム・アワー(妹尾作太郎訳)『蘇る日本海軍』下(時事通信社、1962年)
(2)航路啓開隊編『日本の掃海』(図書刊行会、1990年)。
(3)防衛研究会編『防衛庁・自衛隊』(かや書房、1996年)。
(4)読売新聞社編『「再軍備」の軌跡』(読売新聞社、1981年)。
(5)防衛大学校安全保障学研究会編『安全保障学入門』(亜紀書房、1998年)。
(6)防衛大学校軍事学研究会『軍事学入門』(かや書房、1999年)。
(7) 高井晋『国連平和協力法』(真正書籍、1995年)。
(8) この他に毎年発行される防衛庁の『防衛白書』、朝雲新聞社の『防衛ハンドブック』なども参考となろう。

4.日中韓関係
(1) ジェームズ・マン(鈴木主悦訳)『米中奔流』(共同通信社、1999年)。
(2) 平松茂雄『中国の海洋戦略』『続 中国の海洋戦略』(勁草書房、1995年、97年)。
(3) 朝鮮史研究会『朝鮮の歴史』(三省堂、1997年)。
(4) 高崎宗司『「反日感情」韓国・朝鮮人と日本人』(講談社、1993年)。
(5) 呉 善花『日帝だけで歴史は語れない』(三交社、1997年)。
(6) 平間洋一「歴史と地政学から見た北東アジアの国際関係」(平間洋一・杉田米行編『北朝鮮をめぐる北東アジアの国際関係と日本』明石書店、2003年)。