南進の推進者・菅沼兄弟
菅沼貞風(1865ー1889年)

菅沼周次郎(1876-1962年)

1 長男:菅沼貞風

(1)生い立ちと生涯


 菅沼兄弟は松浦藩につかえる藩学を司った量平の子として平戸町大垣に生まれた。 長男の貞一郎は慶応元年(1865年)2月10日に生まれたが、 8才で経書の素読を学び、 15才で楠本後覚の門に入ったが、 さらに選ばれて藩候の世継ぎの学友に選ばれ、猶興書院に入学した。 しかし、 家が貧しかったため明治14年(1881年)7月には17才で長崎県北松浦郡の職員となり、 大蔵省が日本の貿易史を編纂するに際して、 平戸関係の史料収集調査方を命じられ、 この時に集めた史料をもとに後に『平戸貿易志』を執筆することとなった。明治16年、 19才の秋に幼名である貞一郎を自ら貞風に改め、 翌明治17年1月に猶興書院の東京留学生として上京し、9月には東京帝国大学古典講習科漢書課(現在の中国文学課)に入学し、 21年7月10日に卒業した。

 しかし、 在学中は殆ど講義を受講せず図書館内に籠もって、 貿易史を研究していたため学友からは「キ」印しと呼ば、 変人扱いされたが、 卒業論文の「大日本商業史」は一躍貞風の評価を変え、 さらに、 貞風死後の明治25年には福島種臣が会長を努める東邦協会から『大日本商業史』として出版された。
また、 貞風は明治19年には大学在学中ではあったが、さらに専修学校に入り経済学を修め、 卒業後は東京高等商業学校(現在の一橋大学)の教官となった。 しかし、 在学中に清国の韓国に対する行動に対する政府の行動が生ぬるいと、 同志とともに副島種臣に対清開戦を主張するなどの政治的運動にも動いていたが、 大学在学中の明治211年6月に発行した海外発展論の『新日本の図南の夢』が認められ、 以後多くの有力者の知遇を得ることになった。

(2)『新日本の図南の夢』

 貞風はこの本で「国家が繁栄するためには海外に発展し、 貿易を興さなければならないが、 移民は計画的におこなうべきであると主張した。 菅沼はアジアは自然に恵まれ豊富な農業が可能である。 農業移民会社を設立し、 移民に移住前に移民先の農業に必要な教育を施し、 移民した各地にこれら移民を統括する支社を造り、 これら移民を支社と結び、 さらに本国と結べば、 移民が必要とする日用品などを輸出することができ、 また日本が必要としている生産物を農業移民会社から輸入すれば、 貿易を拡大することができるという移民を軸とした海外発展論であった。 そして、 これら移民が白色人種の支配を受けている現地住民と協力して、 好機が訪れれば武器をとって共に立ち上がれば西欧の支配から脱することができるというものであった。 また、 菅原の主張の第2の特徴は日本が中国を犯せばロシア、 イギリス、 フランスなどの西欧諸国が中国を分割してしまうので、 中国や朝鮮は経済的軍事的に援助してロシアに当たらせるべきであるとの「北守南進」論であった。

 菅沼はフランスが占領しているベトナム、 イギリスが占領中のマレーやビルマの独立を助け、 いまだ植民地となっていない中国や朝鮮、 タイ国などとの「東洋の勢力を連結し」て「白人の跋扈」を拒否すべきであると主張した。 菅沼が最も注目したのはフィリピンで、 菅沼はフィリピンのスペイン守備兵力は陸軍が7870人、 海軍艦艇も20隻に過ぎず、 しかも本国から離れており、 フィリピン人とともに立ち上がりスペインからフィリピンを奪うべきであると説いた。そして、 さらに機が熟したならば、 さらにオランダが領有しているスマトラを取り、 さらにカンボジャやマレーなどの諸民族を支援してマラッカ半島を解放し、 さらにシンガポールを押さえ、 その後は中国や朝鮮を助けてロシアと一戦し、 ロシアに占領された満州、 ウラジオストークやニコラエスク、 そして、 樺太やカムチャッカを奪い、 その後は朝鮮とベトナムをして中国を牽制させ、 日本は台湾を略取して中国の南方への発展を押さえ、 われに従うように中国に圧力を掛け、 もって日本は初めて、 東洋の霸者となれるのであると主張した。

 そして、 貞風はこの「新日本の図南の夢」を実現するには実地調査が必要であるとして、 半年後の明治22年2月に就職したばかりの東京経済大学の講師の職を辞し、 平戸に帰って福本誠(日南)などを誘い、 1ヵ月後の4月には日南などとともに横浜を出発し、 4月25日にマニラに到着した。 菅沼は同地の日本領事館に寄宿しフィリピン各地の調査に従事していたが、 7月6日夜半にコレラにかかり客死した。 25才の短い一生であった。 貞風の遺体は日南などにより最初はイギリス領事館所有のサン・ペトリ・マカチ墓地に埋葬されたが、 昭和12年9月2日にはマニラの日本人墓地に移された。 一方、 日南が持参した遺髪は平戸の光栄に葬られ『痙髪之碑』として建立された。なお碑文は松浦藩主松浦鷲州の筆になるという。

2 次男:周次郎

 次男の周次郎は貞風より11才年下で、 明治9年(1876年)12月15日に同じく平戸に生まれ、 学問を治めることを父から命じられた。 しかし、 周次郎は海軍兵学校に入校(兵学校26期)してしまった。 以後、 周次郎は日清、 日露、 第一次世界大戦の2つの戦争に参加し、 大正11年には海軍少将に進級した。 しかし、 12年4月には海軍軍縮もあり予備役に編入され退官した。 周次郎が巡洋艦「かとり」副長の時に、 第1次世界大戦が勃発、大正2年1月14日には当時ドイツ領土であったサイパン島を陸戦隊指揮官として占領した。 その後、 周次郎は大正2年から4年の間、 海軍兵学校の幹事となったが、 このサイパンを占領したという体験からか、 また、 兄貞風の影響からか、 兵学校の学生に南方発展の必要性を熱心に説いていたという。 このためか当時の教え子である兵学校の41期から44期生には南洋王といわれた中堂観之や中原義正中将など多数の南進論者を輩出させた。

 周次郎は海軍を退官すると佐世保に西海中学を創設し校長となったが、 艦隊が入港すると校長室には兵学校の教え子が集まり、 サロンの如き状況を示していたという。 また、 続いて校長となった長男の菅沼義方も、 父や伯父貞風の影響を受け、 多くの卒業生を海外に送りだすなど、 同校卒業生には南方関係者が多い。 なお、 周次郎の佐世保に於ける人脈によるのであろうか、 貞風の『大日本商業史』が昭和15年に佐世保商工会議所の援助を得て再び岩波書房から出版された。

(2)西海学園の創設

 海軍を退官すると周次郎は中学校の設立に奔走し、 大正14年5月に認可を得て佐世保に西海学園を設立した。 以後、 菅沼は校長として昭和20年まで学校運営や教育に当たってきたが、 昭和28年に87才で世を去った。 西海中学校の第1期生は114名で、 大正14年5月5日に入学したが、 学校の名前は当時佐世保鎮府長官であった伏見宮博恭殿下が命名されたという。 菅沼が海軍退職後に西海学園を創設したのは、 当時の佐世保には学校の数が少なく、 進学したくとも進学できない生徒が多く、 菅沼がこれに同情し、 勉強したい生徒に教育の機会を与えたいということからであったという。 しかし、 菅沼が教育という海軍とは全く異なる分野に進んだのは、 父や兄貞風の感化、 そして海軍兵学校教官2回の経験なども強く働いたのであろう。

 なお、 西海学院高等学校の校訓は周次郎の儒学に対する素養からか、 「孝行」と「努力」の2句であり、 また、 校名が伏見宮に命名されたことから校章に菊の葉を配し、 校歌には「励まん戴く菊の誉れに」と歌われている。 以後西海中学は昭和2年には財団法人西海中学となり、 昭和22年には西海学園高等学校として認定され、 昭和52年には菊の香幼稚園を加え現在に至っている。 また、 同校の教育方針は世界の日本人、 優位な社会人、 家庭人として魅力ある青年を育成するとされているが、 兄貞風、 あるいは海軍士官周次郎の体質からか、 西海高校では早くから海外交換留学生制度を確立し、昭和58年には第1回生徒を送り昭和519年にはオーストラリアから第1回留学生を受け入れるなど国際化を進めている。 また、 健全な身体に健全な思想が宿ると各種運動競技を重視し、 特に駅伝、 バレーボール、 自転車競技などの種目では全国大会に連続出場するなど好成績を収めている。

参考文献
黒竜会編『東亜先覚志伝』下巻(初版:1926年、 復刻:原書房、1981年)
菅原貞風『大日本商業史』(初版:1892年、 復刻:岩波書房、 1940年)
同『新日本の図南の夢』(岩波書房、 1942年)、
江口礼次郎『南進の先覚者 菅原貞風伝』(八雲書林、 1942年)
赤沼三郎『菅沼貞風』(博文堂、 1941年)
伝記学会編『南進日本の先覚者たち』(六甲書房、 昭和16年)
そのた『西海高校学校要覧』『西海高校案内』などによる。