朝鮮戦争時の特別掃海隊
ー 海上自衛隊創設のルーツと先人の功績


はじめに


第一次世界大戦中、 日本は同盟国イギリスの依頼に応じて地中海に巡洋艦1隻と駆逐艦12隻を(1)、朝鮮戦争では国連軍に協力して掃海艇など延べ54隻と隊員延べ1204名を朝鮮海域に派遣したが(2)、 これら派遣をめぐる対応と今回の湾岸戦争をめぐる自衛隊派遣問題に対する日本の対応には多くの類似点が見いだせる。以下、 朝鮮戦争時の特別掃海隊を軸に、 政府や野党の対応の特徴、 その理由および問題点などを明らかにするとともに、 海上自衛隊創設の先人の労苦・功績をも明らかにしてみたい。

1 特別掃海隊出動まで

 1950(昭和25)年6月15日に北朝鮮軍が38度線を越え、朝鮮動乱が始まったが重火器や戦車に欠ける韓国軍とアメリカ・イギリス・オーストラリア軍などからなる国連軍(3)は後退に後退を続けていた。 釜山橋頭保に追い詰められた国連軍の運命は風前のともしびであり、 世界は「ダンケルクのアジア版」が起きるであろうと予想した。 この絶望的な軍事情勢を一転させたのが、 9月15日の仁川奇襲上陸作戦であった(4)。 仁川に上陸した国連軍は1週間で京城を解放し、 勢いに乗じた国連軍総司令官マックアーサー(Douglas H. MacArthur) 元帥は東海岸の元山上陸を計画し、 10月15日を上陸日とした(5)。 しかし、 海軍力に劣る北朝鮮軍はソ連の援助で朝鮮各地の港湾に機雷を敷設していた。 朝鮮各地の港湾の機雷を排除し補給港を確保するためにも、 また北朝鮮軍を東西から分断するため元山への上陸作戦を行うためにも、 多数の掃海艇が必要であった。 しかし、 アメリカ海軍は大部分の掃海艇を本国に引き上げており、 極東所在の掃海艇は4隻の鉄鋼製掃海艇(3隻は保管船状態)と6隻の木造補助掃海艇しかなかった(6)。

 一方、 当時の日本は戦争放棄をうたった平和憲法が施行されて3年余り、 第2次大戦の惨禍の記録も生々しい国民の間には、 「戦争はもうこりごり」という気持ちが強く、 一方、占領軍は海上保安庁法第25条に「海上保安庁またはその職員が軍隊として組織され、 訓練され、 または軍隊の機能を認めるものと考えてはならない(7)」とわざわざ断り書きを入れるほど、 日本の再軍備を警戒していた。 特に民政局は海上保安庁から旧軍人を排除しようと、 アメリカ軍敷設の感応機雷が8月末をもって丸5年が経過し、 一応自滅期間となることから、 掃海作業のため公職追放令の適用除外となっていた旧軍人を、 特例期限が切れる昭和25年11月以降追放することとし逐次解任が内定していた(8)。 このため終戦1年後には348隻、10000人を有していた掃海兵力も徐々に削減され(9)、 出動を要請された当時は「哨特」と呼ばれる木造250トンの哨戒特務艇や、 「駆特」と呼ばれる木造135トンの駆潜特務艇など78隻、 人員は1500名に減少していた(10)。
 
  しかし、 これら掃海部隊は戦争中にアメリカや日本軍が敷設した機雷を掃海中であり、 その技量と経験はアメリカ海軍から「深く信頼されていた(11)」。 昭和25年10月2日に海上保安庁長官大久保武雄は、アメリカ海軍極東司令部参謀副長アーレイ・バーク(Arleigh A.Burke)少将から呼ばれた。 バーク少将は大久保長官に朝鮮半島における戦況を説明したのち、 「掃海艇を残らず対馬海峡地域に集合させて元山沖の掃海を援助し、 仁川の敷設機雷の後始末を支援するよう要請した(12)」。 大久保長官は「内海ならともかく、 戦争最中の朝鮮海域。 (中略)。 ことは重大、 一人で決められるような問題ではなかった(13)」ので、 直ちに時の総理大臣吉田茂を訪ねて経過を報告し指示を仰いだ。 日本にとり拒否すればアメリカの不快感を高め、 当時ダレス特使との間で進んでいた講和条約締結交渉に悪影響を与える可能性かあった。 厳しい選択を迫られた吉田総理は、 「国連軍に協力するのは日本政府の方針である(14)」と掃海艇の派遣に応じた。 総理の了承を得ると大久保長官は直ちに「米側の指令により朝鮮海峡の掃海を実施することになりたるにつき、 下記により船艇を至急門司に終結せしめよ(15)」との命令を発し、 本庁の航路啓開部長田村久三(元海軍大佐、 のち海上自衛隊、 海将)を総指揮官に任命し、 これら掃海隊を「特別掃海隊」と呼称した(16)。

2 騒然たる下関出動

 一方、 下関に集められた掃海艇には余り真相は知らされなかった。 第2番隊指揮官に指定された第5管区航路啓開部長能勢省吾(のち海上自衛隊、海将補、 定年後は横須賀市市議会議長)は10月2日、 田村部長から電話で「朝鮮海峡の浮流機雷の掃海をやることになったから、 君、 指揮官として行ってくれないか」との電話を受け、 浮流機雷の掃海と考え躊躇することなく「そうですか。 ご命令とあらば行きましょう」と下関に向かった(17)。 しかし、 下関に着くと「日本掃海部隊は第95・66部隊としてアメリカ第7艦隊司令官の指揮を受けること、 船名および隊番号などを示すマークは総て消去すること、 日の丸の代わりに国際信号旗E旗を揚げること」が指示され、 さらに朝鮮水域における10項目にわたる機雷情報と12項目の安全守規が説明された(18)。第95・66部隊というのはアメリカ艦隊の部隊区分である。 これを聞いた各艇長の間には、 今回の掃海が朝鮮海峡の単なる浮流機雷の掃海ではなく、 朝鮮戦争そのものに参加させられるのではないかという疑問が、 不審と不安が広がり「掃海はどこの海面をやるのですか」。 「朝鮮の現地米海軍指揮官の指揮下に入るということは、 朝鮮戦争に参加させられるのではないですか。 そうすれば憲法違反ではないですか」、 と田村部長に質問が集中した(19)。

 また、 当時呉磁気啓開隊指揮官代理であった田尻正司(のち海上自衛隊、 海将補)は、 「今回の任務は、 行く先は、 行動についての大義名分は、 海外で米軍の指揮下に入る場合の身分は、万一の場合の補償は、 特別任務に対する手当は」と質問したが、 田村部長からは何ら適確な回答は得られなかったという。 しかし、 同氏によれば、内心多くの疑念を抱きつつも本部長との間に、一応次の合意が成り立ったという(20)。

   1 今次行動は、占領軍命令第1号(21)および指令第2号(22)に基づく航路啓開業務 の延長と考え
^   米軍及び日本が敷設した機雷を処分する。
   2 北緯38度線以南の海域で、戦闘の行われない港湾の掃海を行う。
   3 作業は掃海艇の安全を十分考慮した方法をもって行う。
   4 乗員の身分、給与、補償等は日本政府が十分保障する

 当時世間では挙げて戦争を嫌い、 日本が戦争をやったからこの敗戦の苦しみに唖いでいるのだという風潮に満ちていた。 「行かされる者」にとっては平和憲法が成立し、 世は平和ムードに溢れているときに、 軍人でない単なる運輸省の事務官が、 突然「出動命令」を受け戦争に参加せよと命ぜられたのである。 当時は時として北九州地方に空襲警報が発令され市民に戦争の悪夢を思い起こさせていた。 朝鮮出動を伝え聞いた家族が、 岸壁に横付けしている船から主人を捜し出し「アンタ船を下りて、 朝鮮には行かないで頂戴、 掃海隊を辞めて家に帰って下さい」と涙ながらに主人に訴え胸にすがりつき、 戦争が終わったのに今更外国の戦争に参加することはないと口説いた。 終戦だというのに、 また、 外国の戦争に参加するのか。 また、 命を的に戦うのか。 もうそんなことはこれ切りにして貰いたというのが、 家族としての偽らざる心情であり、 能勢司令は「家族達の気持ちが可哀相でならなかった」と回想している(23)。
また、
 出動した多くの隊員の気持ちは「日本は新しく成立した憲法によって戦争を放棄したのであるから、 いまさら他国の戦争の為に危険な処に生命をさらしに行く理由はない。 さらには我々はもう軍人ではなく、 国家公務員であり事務官である。 日本再建という使命だけを担なって国内の掃海作業に挺身的努力して来たのである。 外国の掃海をするために戦争に行くというのは納得致し兼ねる。 しかし、 占領軍の命令とあらば、 日本政府としては之に従わざるを得ないのではないか(24)」というのが3時間に及ぶ出動を前にした会議を終えての心境であったという。

3 朝鮮における掃海作業の実状
(1)能勢隊の戦線離脱問題


 第2番隊の能勢隊(掃海艇4隻、 巡視船3隻)は10月8日午前4時、 田村総指揮官乗艇「ゆうちどり(旧海軍飛行機救難艇、 のち迎賓艇)」を先頭に出港、 対馬海峡でアメリカ海軍の海洋タグボート(1000トン)と会合、 作戦計画がハイラインで渡された。その要旨は「1 目的地は元山、 2 全船舶直ちに無線封止、 日没後は灯火管制、 ビルジ排除及び舷外投棄は日没後実施し、 昼間は禁止する。 本艦に続行せよ(25)」というものであった。 しかし、 これら命令が十分に隊内に通知されなかったのか、 能勢司令は10月10日の早朝に第7艦隊の空母や戦艦を見て、 初めて元山に来たことが分かり「びっくりした(26)」という。 そして、 翌日から永興湾沖合の船団泊地の掃海を行えとの命令で掃海を開始した。 しかし、 10月12日には元山港入口まで約15海里、 幅2000メートルの水路をアメリカの掃海艇とともに掃海したが、 港内に進入すると間もなくアメリカ掃海艇パイレーツ(Pairate)とプレッジ(Pledge)が続けて目前で触雷沈没し、 死者12名負傷者92名(内1名死亡)を出した(27)。 このため掃海は一時中止されたが、 上陸作戦の期日が迫っており14日には再開され、 そして17日には再び湾内への掃海が開始された。
  しかし、 掃海具を曳航して湾内に進んだ特務掃海艇MS14号が15時21分に触雷し瞬時に沈没、 炊事係の中谷坂太郎が死亡し、 2名が重傷、 5名が中傷、 11名が軽傷を受けた(28)。 掃海を中止した各艇は旗艦「ゆうちどり」に集まったが、 各艇長の頭の中には「約束と全く違う。 米軍の作戦上の要求に基づく任務といえ、 だまされた(29)」。 「戦争にこれ以上巻込まれたくない。 掃海を止めて日本に帰るべきだ」。 「出港前の下関における総指揮官の説明とは話が違う。 参加協力の4条件は総て崩れた。これ以上掃海は断る(30)」と掃海中止を主張した。 討議の結果、 田村総指揮官と能勢司令はアメリカ軍から機動艇や交通艇を借り、 小型艇による事前の浅深度掃海を実施した後に本格的掃海という日本式小掃海を行うことで各艇長の了解を得て、 翌日に第3掃海隊指揮官スポフォード(R.T.Spofford)大佐の了承を得た。

  しかし、 その後に上陸部隊指揮官スミス(O.P.smith)少将から「今から小掃海を行う時間的余裕がない。 当初予定した通りの対艦式大掃海を実施せよ」と日本側要求は覆されてしまった(31)。 18日に日本側は再考を申し出たが、 掃海が進展せず上陸作戦が遅れて気が立っていたためか、 スミス少将の回答は「明朝0700出港して掃海を続行せよ。 然らずんば日本に帰れ。 15分以内に出なければ砲撃する(32)」という強硬なものであった。 能勢司令は再度艇長達に「何とか方法を考えて掃海を続行することを考えようではないか」と説得したが、 艇長の決意は固く誰一人応じなかった。田村総指揮官も止むを得ずこれを認めたが、 能勢司令には「君は残らないか」と残留を薦めた。しかし、 能勢司令は「自分の指揮下の掃海艇全部が日本に帰るというのに、 指揮官だけが残るわけにいかない」し、 また「『何か事が起った時は俺が連れて帰るから安心してついて来い』と約束した手前もあり」好意を辞退した(33)。

 そして「目頭を熱くはらし、 最後に言葉なく『お先に内地に帰るよ』と見送る幕僚に挨拶し旗艦を去ったという(34)。 「15分以内に出港しなければ砲撃する」と脅迫された2番隊は、 機関故障で修理中のMS17号掃海艇を横抱きにし、 直ちに日本に向け元山を後にした。 命令違反にならないようにとの田村指揮官の配慮からか、 「ゆうちどり」のマストには、 「帰投せよ」との信号旗が上げられていたという(35)。 しかし、アメリカ海軍極東司令部からは2番隊司令を排除せよとの強硬な非難があり(36)、 能勢司令は退職させられ「結果として実施部隊の者だけが責任をとらされて闇に葬られてしまった(37)」との手記を残した。

(2)その他の海域の状況

 戦争も終わり平和な生活から一瞬に戦場に投入された掃海部隊は、 戦時急造の貧弱な木造船であった。 船体機関は戦後の日本周辺の連続掃海によって老朽化しており、 その整備は困難を極め、 また掃海現場は冬季、 季節風の吹き荒れる悪天候、 酷寒の日本海、 黄海であり、 参加隊員は補給不如意で水がなく、 サイダーで米を炊くという筆舌に絶する困難に遭遇した。 朝鮮西岸に向かった山上亀三雄(のち海上自衛隊、 海将補)の率いる1番隊(掃海艇4隻、巡視艇1隻)は10月4日に下関に集結し、 10月7日に仁川に向け出港したが、 これら掃海艇は船体機関の整備を実施する余裕も、 事務打ち合わせを行う余裕もなく現地に向かった。 とはいえ、 2番隊やその後に派遣された部隊は国連軍が占領した地域での掃海であり、 1隻が座礁沈没したほか大きな問題はなかった。 しかし、 この掃海に参加した本橋昇治(のち海上自衛隊、 1尉で中途退職)は(38)、 夜になると仮泊している島陰に老人ばかりの小船が近付き、 「わが国の兵隊が食糧をみんな持って行ってしまった。 赤ん坊に食べさせる粥もない。 ランプも、 マッチもない。 何もない。 かにもない。 12月の粉雪の降る中で老姥が荒海に潜って、 貝や海草を採集し辛うじて家族の飢えを凌ぐ姿を見てきた隊員は、 窮状を見かね灯油、 米、 コンデンス・ミルク、 そしてマッチまで与えた」という。 「昼間は戦争、 夜は難民救済、 こなことを出港前に想像ができたであろうか」と回顧している。また、 敗戦国の悲しさ、 海州に派遣され部隊はイギリス海軍との共同作業となったが、 イギリス海軍の対応は使役するというニュアンスが極めて強く、 尊大な対応に日本側指揮官が英艦に単身殴り込み的に談じ込む一幕もあったという(39)。

4 能勢隊の帰国と日本政府の対応

 能勢隊の帰国事件が発生すると大久保長官は10月24日、 次の電報を掃海部隊に打電した(40)。

  1 今回の重要任務を諸君が完遂することは、 日本政府として了承し且つ、 重要 視しておる処である。
  2 現地米軍の指示に従って朝鮮の水域で極力掃海を継続するよう希望する。
  3 特別任務に対する給与、 災害手当は既に決定した。 詳細は別途通知するも、 最大の給与が得られる   よう日本政府とGHQとの間に了解が出来ている。

 また、 同日全国の海上保安庁管区本部長会議を開き朝鮮の事態を説明し、 今後とも部下を監励して米軍に協力するよう訓示した。 そして、 10月31日には総理官邸に岡崎官房長官を尋ね総理の意向を確認、 総理から「日本政府としては、 国連軍に全面的に協力し、 これによって講和会議をわが国に有利に導く考えである。 冬季荒天の朝鮮水域で、 しかも老朽化した小舟艇による掃海作業には多大の御苦労があると思うが、 全力を挙げて掃海作業を実施し、 米海軍の要望に副っていただきたい。 日本政府としては、 このためにはできるだけの手を打つので心配せぬように(41)」との伝言を得た。

 さらに、 大久保長官は給料を平時の2倍とし、 特別手当5000円(当時の初任給3600円)を付けるなど隊員に対する給与の特別処置に奔走した(42)。 この努力と朝鮮半島の戦況の有利な展開、 国連軍が制海権、 制空権を握っているとの安心感、 さらに旧海軍以来寝食苦楽を共にしてきた仲間意識などが、 朝鮮行を拒み職を去る者が出なかった理由ではなかったであろうかと鎮南浦の掃海に参加した石野自彊司令(のち、 海上自衛隊、 海将)は述べている(43)。

5 掃海隊派遣の成果

 特別掃海部隊は掃海隊と試航船とに分かれ、 10月中旬から12月初旬までの2ケ月間に元山、 郡山、 仁川、 海州、 鎮南浦などの掃海に従事し、 試航船桑栄丸は昭和26年4月6日から27年6月30日まで、 仁川、 木浦、 麗水、 馬山、 釜山、 鎮海航路の試航を行った。 特別掃海隊は述べ7隊が派遣され水路327粁と606平方粁の泊地を掃海し、 27個の機雷を処分したが、 掃海艇1隻が爆沈し1隻が座礁、 1名が死亡し18名が負傷した(44)。 大久保長官は帰国した特別掃海隊隊員に「今回諸君がとられた行動は、 今後日本の進むべき道を示したということであります。 日本掃海隊の活動は新しい日本が今後独立して国際社会に入るとき、 民主国家として何をなすべきかということを行動を以て示したものであります。 日本が将来国際社会において名誉ある一員たるべきためには、 手をこまねいてその地位を獲得するわけには参りません。 名誉ある地位を得るためには、 私達自からが自からの努力により、 その汗によって名誉ある地位を獲得しなければなりません。 今回諸君はあらゆる困難のもとに、 これを克服して偉大なる実績をあげ、 国際的信頼をかち得るとともに日本の進むべき方向を確認しました。 今度の壮挙は実に新生日本の歴史上永く記録されるべきものであります(45)」と訓示した。

 アメリカ海軍極東司令官ジョイ(C.T.Joy)中将も「朝鮮水域掃海に関する当方の要望に対し、 迅速に集結、 進出準備を完了し、 即応態勢をとられたこと、 貴下部隊の優秀な掃海作業並びにその協力は私の最も喜びとするところであります。 酷寒風浪による天候の障害、 国連軍協力による相互の言語の相違、 また補給、 修理に関しては幾多の困難が横たわっておりましたが、 関係各位の克己、 忍耐、 努力により、 また田村航路啓開部長の適切な指導の下にこれら困難は総て克服されたのであります。 私は喜びに堪えず、 ここに大久保長官から関係各位に賞詞の伝達方を依頼いたします。 ウエルダン 天晴れ。まことによくやってくださいました(46)」との賞詞を贈った。 さらに、 吉田総理は12月9日に大久保長官に特別掃海参加隊員を「ねぎらってくれ」と、 筆で「諸君の行動は国際社会に参加せんとする日本の行くてに、 光を与えたものであった(47)」との慰労の辞を書いて渡した。

 また、 12月15日にバーク少将は大久保長官に、 現在、 海上保安庁が抱えている各種制限を撤廃する絶好の機会であると訪米を示唆した。 この示唆を受けた大久保長官は、 昭和26年1月に渡米し、 巡視船は最大1500トン、 速力15ノット以下との制限の撤廃、 機銃しか認められていなかった巡視船への砲の搭載、 哨戒航空機の保有制限などの撤廃(48)について国防省、国務省の了承を得た(49)。 また、 当時はダレス特使が来日し、 講和条約が進められている重大な局面であったが、 翌昭和26年3月31日に示された対日講和条約草案は、 外務省などが予想したものよりはるかに有利であったという(50)。 これには東西対立の激化や、 12月の中国軍の介入による朝鮮半島の戦況の不利などが影響したとも考えられる。 しかし、 バーク少将が大久保長官に「海上保安庁掃海隊が朝鮮掃海で国連軍を援助したことは、 国際的にきわめて有意義であった。 今回の海上保安庁の業績は高く評価されており、 私個人の考えでは、 日本の平和条約締結の機運を、 ぐっと早める効果をもたらしたと思う(51)」と語っているところから、 掃海艇を派遣して講和会議を有利に進めようという吉田総理の意図は成功したと言えよう。

6 国外派兵と日本の対応


 当時の吉田内閣にとり掃海艇の朝鮮派遣が表ざたになれば、 憲法違反と政治問題化するのは必至であり、 吉田総理はこの派遣を内密に行うこととし、 隊員に「一切秘密にするように(52)」と指示した。 また、 大久保長官は当時占領軍の命令が絶対的であったので、 朝鮮への掃海艇派出の根拠を占領軍の命令という形に求めた。 その命令とは終戦後、 降伏条約に調印した翌9月2日に発せられた占領軍命令第2号「日本帝国大本営は(中略)日本国および朝鮮水域に残れる機雷を連合国軍最高指揮官所定の海軍代表により指示されるところに従い掃海すべし(53)」という「朝鮮水域に残れる機雷」の掃海であったが、 さらに大久保長官はバーク少将に改めて占領軍としての命令を出することを依頼した。 そして、 10月4日にはアメリカ極東海軍司令官ジョイ中将から運輸大臣宛に「日本政府は20隻の掃海船、 1隻の試航船、 4隻の巡視船を可及的速かに門司に集結せしむべし。 尚これら船艇の掃海活動については今後指示す(54)」との命令が出された。

 また、 10月6日には同じくジョイ中将から「連合軍最高司令官は、 朝鮮水域において日本掃海艇20隻、 試航船1隻、 およびその他4隻の巡視船の使用を認可し指示した。 したがって正規の海軍経路を通じ、 極東司令部によって出される指令に応ずるため日本政府は門司に集結するこれらの船舶に必要な命令を発することを指令する(55)」との占領軍最高司令官からの命令も発せられた。 「占領軍命令」という策謀は成功した。 昭和25年10月9日の東京新聞夕刊が「信頼すべき筋が7日語ったところによれば、 日本の沿岸警備艇12隻が米第7艦隊の指揮下で、 掃海作業に従事するため朝鮮水域に向け出発した。 米軍筋はこの報道を確認も否定もしていないが、 海上保安庁筋では総司令部から掃海艇に改装された沿岸警備艇25隻を、 10月5日までに九州に派遣するよう命令を受けたと語っている(56)」と報じた。 さらに、 10月22日には「在京米海軍スポークスマンは、 21日国連軍雇用の日本掃海船が朝鮮水域で作業中であったが、 19日にその1隻が沈没したため20日から作業を中止することになった(57)」と報じたが、 占領軍が絡んでいたためか野党からは何の反応も起きなかった。

 しかし、 それから4年後の昭和29年1月19日の産経新聞に(58)、 海上保安庁の掃海艇が朝鮮水域の掃海作業に従事し、 1隻が沈没1名が死亡したとの記事が発表されると、 左派社会党の鈴木委員長や勝間田国会対策委員長は「国会で最後まで追及する」。 「この問題は昨春わが党が衆議院予算委員会で岡崎外相に質問した問題だ。 岡崎外相は当時「輸送船が輸送に協力したり、 2、3の技術者が資源調査に朝鮮に行ったことはあるが、 保安庁が参戦した事実などまったくない」と真っ向から否定した。 しかし、 今度ここまで証拠や証人が出てきたから、 もう隠し切れないだろう。 (中略)。 日本の保安隊が参戦したことは、 憲法違反はもとより『ポ』宣言の明らかな違反行為となり国際的大問題になる。 岡崎外相も明らかに国会で食言を行ったことになる」と語った(59)。

 そして3月24日の外務委員会で社会党の下川委員から、 同月29日には穂積委員から、 掃海艇を派出したのは憲法違反ではないかとの質問が発せられた。 政府は掃隊隊員に訓示した「国際社会へ登場し名誉ある地位を得ようとした」ための派遣であったとは答えず、 「占領中でなかったならば確かに問題となりうることかと思いますが、 何しろ平和条約の第19条で戦争中及び戦後連合国側の指令にもとづいて行われたことについて、 日本側は責任を追及しえないという条項がありますために、 今日、 あれは国際法違反だなどという問題を提起する権利が、 日本に実はないのであります.....(60)」と回答し追及を回避した。 また、 国内問題を回避したかったためか、 政府は朝鮮における掃海作業は占領軍へのサービスの提供であったとし、 戦後に数次の交渉を重ね燃料、 需品、 人件費など2億3698万1294円をアメリカ政府に支払わせた(61)。 このためかアメリカ海軍の公式な『朝鮮戦争海軍戦史』には「契約(Contract)日本掃海艇(62)」と表現されている。

 第1次世界大戦中、 日本は連合国から再三のヨーロッパへの派兵要請を受けたが応じなかった。 しかし、 この派兵拒否が対日感情を悪化させ、 日本は戦争により「非常ナル利益ヲ得テイルガ、 一向ニ同盟国ニ対スル債務ヲ顧ミズシテ、 自己利益ヲ図リ居レリ(63)」とか、 「日本ノ態度ハ専ラ利己的ニアルガ如キ感想ヲ抱クモノ尠カラズ。 其影響ハ政府当局其他有力ノ方面ニモ波及(64)」するに及んではじめて第2特務艦隊(巡洋艦1隻と駆逐艦12隻)を地中海に派遣した。 しかし、 その対応は朝鮮への派遣と同様に秘密とされ(65)、 乗員に地中海派遣を知らせたのは佐世保港外を出た時であり(66)、 国民が知ったのは3ケ月後の5月の新聞記事(67)、 それも地中海での日本艦隊の活躍が外国の新聞に “Speedy Arrival and seamanーlike Shiphandling(68)"などと称賛さたためであった。

 なぜ、 政府は秘密に派遣したのであろうか。 それは石井光次郎の言葉を借りれば、 当時の野党が「常に政争に駆られ山と言えば川、 右と言えば左と言うが如く、 政府の為す所に事毎に反対(69)」し、 国際情勢を説明し国益を説き協力を得るなどという状況になかったためではなかったであろうか。 新聞報道によって駆逐艦が地中海に派遣されたことを知ると、 野党政友会の尾崎行雄は第39回帝国議会で、 宣戦の詔勅や日英同盟条約によれば、 交戦区域が「印度洋以東ト言フコトニ限ラレルノデアル(中略)。 然ラバ、 地中海ニ軍艦ヲ出ストイウコトハ、 確ニ詔勅並ニ同盟条約ノ範囲外ノ働キデアルト言フコトニハ疑ヲ容レヌ(70)」と政府を追及した。 また、 当時の有名な論客である島田三郎は「同盟条約ノ本文ヨリ生ズル義務的行動デアルノカ、 或ハ又条約ノ正文以外、 友誼的行動デアルカ如何(71)」と今と変わらぬ条約や法律の解釈論で政府を追及した。 これに対して政府は、 ドイツ軍国主義打倒のためにアメリカや中国、 南米の諸国までが参戦した世界の大勢や、 「日英協同作戦ハ日本ヲシテ西洋文明国民ノ列伍ニ於テ確固タル且名誉アル地歩ヲ得(72)」るためであったなどとは回答しなかった。

 海軍大臣加藤友三郎中将は「我国旗ヲ樹ッテ居リマストコロノ船舶ガ、 欧州海面ニ於テ沈没ヲ致シマス数ガ漸次殖エテ(73)」きたので、 それを保護するためと、 自国の船舶、 自国の利益を守るためであると答弁した。 一方、平成の自衛隊派遣問題でも、 国会議論は国際的貢献などという問題よりも、 憲法9条論や自衛隊法99条の「機雷や危険物の排除」という自衛隊の任務をペルシャ湾に適用するのは違法であるとか、 「派遣」と「派兵」の相違などの条文や語句の解釈に終始した。 そして、 政府を派遣に踏み切らせ、 国民を納得させたのは大正の派兵と同じく「わが国の石油の70パーセントを依存し」ており、 またペルシャ湾で「現実に危機にさらされているタンカーの多数は日本に石油を輸送し、 日本の経済の安定と発展のために活動(74)」しているものであり、 その船舶の安全を確保するという自国の利益であった。 なぜ、 政府は地中海や朝鮮海域への艦艇の派遣に、 正面から世界の大勢や国家としての理想を説明せず、 秘密にしたり自国の利益のみを強調するのであろうか。

 それは、 国際感覚が低い国民に支持されているため野党が、 「政争は水際まで」という議会政治のルールを守れないという日本の議会制民主主義が未成熟にあるのではないであろうか。そして、 この議会制民主主義の未熟が大正、 昭和、 そして平成と同じような対応を政府・野党に取らせ続けてきたのではないであろうか。 そして、 その未熟が「国連軍への協力要請に対しては、 随時即応の態勢にあらねばならぬ。 万一の場合における我が国の防衛を考えると、 国連軍に期待する以外方法のない実状に鑑み、 国連軍への協力準備に万全を期するという優先的方針をこの際確立する要がある(75)」との特別掃海隊の血と汗で得た所見を、 その後も顧みることなく放置させたのではないであろうか。 また、 使命や目的のみならず行く先さえも知らされず、 現地に到着してから生命を賭してやらねばならないような作業を命令され、 「真に当惑した」能勢司令は「生命を賭して遂行しなければならないような重要にして、 且危険な作業を国家公務員に命ずる場合はには、 政府はその命令が実施しやすいようにあらゆる措置を講ずべきである。 また、 実施する者に対しては使命感を与えて自覚を促し目的を明らかにし、 且それを達成し得るような身分を与え、 戦争に参加する場合には待遇や犠牲者がある場合には、 それに対する措置を講ずるべきである(76)」との所見を残した。 しかし、 元山沖で殉職した中谷坂太郎が、 その功績を国家に認められ、 勲8等白色桐葉章を贈られたのは死後30年を過ぎた昭和54年秋のことであった(77)。

7 プロローグ
                          海上保安庁が発足すると『ジェーン海軍年鑑 1947ー1948年』版は、 社説に「日本海軍は灰の中から不死鳥の如く立ち上がろうとしている。 現在の規模は5万トンに制限され、 1隻の排水量は1500トン以下に制限されているが、 これはやがて新海軍の中核となるものであろことを証明するかもしれない。 人々はベルサイユ平和会議のトン数制限が、 紙の上では守られた比較的平穏な期間を経て再建されたドイツ海軍の復活を想起せねばならない(78)」と記したが、 それが事実となった。そして、 『ジェーン海軍年鑑』の指摘したとおり、 海上保安庁のひさひを借りて海上自衛隊が誕生したのであった。

 昭和27年4月26日には「海上保安庁法の一部を改正する法律(法律第97号)」が施行され、 海上自衛隊の前身である海上警備隊が海上保安庁の外局とちて誕生すると、 朝鮮特別掃海に参加した田村久三1等警備正(1佐)以下1415名(幹部91名、 海曹士1324名)が、 また朝鮮派遣部隊の旗艦「ゆうちどり」など掃海関係船艇76隻とともに海上警備隊に移籍された(78)。 そして昭和29年6月2日には防衛庁設置法(法律164号)と自衛隊法(法律165号)が公布され、 ここに海上自衛隊が発足し、 さらに同年10月1日には桑栄を旗艦とし「ゆうちどり」や朝鮮戦争に出動した木造掃の海艇6隻をもって第1掃海隊群が掃海のメッカである呉に誕生、 戦後絶えることなく続けられた掃海作業から得られた技術と伝統を受け継いた。 なお、 「海上保安庁巡視船のホープとしての『ゆうちどり』、 天皇のお召船航路の肉弾掃海をやった『ゆうちどり』、元山敵前掃海の旗艦としての『ゆうちどり 』この艦のゆくところ、 海の歴史が綴られていた」「ゆうちどり」の錨は、 「その功績を記念するため、 昭和55年5月、 呉に建設された海上保安資料館(著者注:海上保安大学校内)の玄関に永久に保存展示され(79)」ているという。

おわりに

 本稿は『中央公論』6月号に掲載された「掃海艇派遣ー朝鮮戦争時の教訓」に、 一部追加するとともに、 歴史的事実を示すためにその出典を明らかにしたものである。 本稿を書くに当たって苦労した点は、 当時の記録が殆ど存在せず、 収集し得た資料が微妙に異なることであった。例えば「15分以内に出港しなければ砲撃する」との事実は、 大久保海上保安庁長官の『海なりの日々』にも、 海上保安庁における事情調書「元山における日本掃海艇3隻の内地帰投について」にも記載されていなかったが、 能勢資料と元山沖の会議に参加した田尻資料に記載されていたので採用した。しかし、 田尻氏の仮説「旧海軍の誰かが海軍復活のために、 アメリカ海軍に掃海艇出動を働きかけたのではないか(80)」も、 また、 だれが、 どのような考えで掃海部隊の費用をアメリカに請求し、 祖国のために働いた隊員の勲(いさお)を金に変え、 「契約掃海艇」にしてしまったのであろうか。 残念ながらこれらの問題は記録がなく解明できなかった。

 旧海軍時代には事変や戦争が勃発すると、 軍令部内に戦史編纂班が設立され、 あらゆる文書(戦時日記、報告、 電報、会議録、 新聞記事から武官との応対時のメモまで、 第1次世界大戦に限っても235巻、 その厚さは40メートルに達する)を保存するとともに、 公式の『海軍戦史』12巻、 『海軍経理史』5巻、『海軍機関史』5巻、 『海軍衛生史』5巻を編纂しただけでなく、 公表に問題がある部分は手書きの戦史を1部だけ残している。今次ペルシャ湾への掃海艇派遣問題は、 自衛隊の今後に、 はかりしれない教訓を残すであろうが、 貴重な戦訓や記録が四散しないように、 今次派遣問題の各種記録を収集、 保存するとともに単に掃海部隊の行動のみならず、 国際情勢から政府野党の対応、 官庁間のあきれつや国民の動向などの時代背景をも加えた立派な『ペルシャ湾派遣記録』を後世のために残されんことを希望してやまない。


1 拙著「第1次大戦中のヨーロッパ派兵問題と海軍の対応ー第2特務艦隊の地中海 派遣を軸として」(『新防衛論集』第16巻第3号、 1988年12月)を参照。
2 三木秀雄「朝鮮戦争と国連軍」(『軍事史学』第21巻第1号、1985年6月)を参照。
3 Malcom W.Cagle and Frank A.Manson, The Sea War in Korea (Annapolis:U.S. Naval Institute,1951), pp.125-126.
4 陸戦史普及会編『朝鮮戦争史 第5巻 国連軍の反攻と中共の介入』(原書房、 1970 年)177頁。
5 渡辺健「機雷戦からみた朝鮮戦争の一断面(上)ー仁川・元山各上陸作戦」(『軍事 史学』第18巻第1号、 1982年6月、 37頁)。
6 Cagle and Manson, op.cit., p.125, p.127.防衛研究所訳『米海軍作戦 ー 朝鮮戦争』後巻(防衛研究所、1979年)24頁。
7 海上保安庁法第25条、 海上保安庁総務部政務課編『十年史』(平和の海協会、 196 1年)資料第3。
8 石野自彊「鎮南浦掃海とその前後の回想(以後、石野手記と略記す)」(手書き)15 ー16頁、 防衛研究所蔵
9 海上幕僚監部防衛部編『航路啓開史』(海上幕僚監部防衛部、1961年)4頁。
10 大久保武雄『海なりの日々』(海洋問題研究会、 1978年)144頁。
11 同上、 208頁。
12 J.E・アワー『よみがえる日本海軍(上)』(時事通信社、 1972年)120ー121頁。
13 読売新聞社戦後史班編『昭和戦後史「再軍備」の軌跡』(読売新聞社、 1981年)177 頁。
14 前掲、大久保、 209頁。
15 海上保安庁命令「タナ第32号(25・10・2)」、 能勢省吾「能勢資料 その1」20頁、 防 衛大学校蔵。
16 海上保安庁命令「タナ第43号(25・10・2)」同上、 21頁。
17 能勢省吾「朝鮮特別掃海(以後能勢手記と略記す)」(手書き、 1978年)23頁、防 衛大学校蔵。
18 田尻正司「波涛を越えて(8) 1950年元山特別掃海の回想(その1)」(『波涛』(兵術 同好会、 1981年11月、 通巻37号、 97頁。
19 前掲「能勢手記」25ー26頁。
20 前掲、田尻、 98頁。
21 Office of the Supreme Commander for the Allied Powers, 2 September 19 45. General Order Number 1.外務省特別資料部編『日本占領及び管理重要文 書集 第1巻基本編』(東洋経済新報社、 1949年)33頁。
22 Office of the Supreme Commander for the Allied Powers, 3 September 19 45, Directive Number 2. 同上、 45頁。
23 前掲「能勢手記」27ー28頁。
24 同上、28ー29頁。
25 前掲、田尻、 103頁。
26 前掲「能勢手記」34頁。
27 Malcom W. Cagle and A.Manson, op.cit., p.129.
28 「別紙第6 MS14号触雷報告」前掲「能勢史料 その1」。
29 田尻正司「波涛を越えて(9)ー1950年元山特別掃海の回想(その2)」(『波涛』通巻 第38号、 1982年1月)88頁。
30 前掲「能勢手記」48頁。
31 前掲、田尻「波涛を越えて(9)」90頁。
32 同上、91頁および前掲「能勢手記」52頁。
33 前掲「能勢手記」51頁。
34 前掲、田尻「波涛を越えて(9)」91頁。
35 前掲「能勢手記」52ー53頁.
36 前掲、 大久保、 232頁。
37 前掲「能勢手記」61頁。
38 本橋昇治書簡(1991年2月2日付)
39 前掲、大久保、 249頁および252頁。
40 田村特別掃海隊指揮官宛「大久保長官電報(昭和25年10月24日)」前掲、大久保、 229ー230頁
41 同上、 231頁。
42 妹尾作太郎「あまりに安い自衛官の『命の値段』」(『中央公論』第1271号、 1991年 5月、190頁)
43 前掲「石野手記」236頁。
44 前掲「能勢資料 その1」17頁。
45 前掲、大久保、 262ー263頁。
46 同上、 261頁。
47 同上、260頁。
48 前掲『十年史』11頁。
49 前掲、大久保、 271ー272頁。
50 同上、 298頁。
51 同上、 271頁。
52 前掲『昭和戦後史「再軍備」の軌跡』178頁。
53 前掲『航路啓開史』19ー20頁。
54 CNFE/S81 5451,4 Oct.1950 From;Commander Naval Forces, Far East To;Ministry of Transportation, Japanese Goverment Subject:Japanese Minesweeper, use of. 前掲「能勢史料 その1」19頁。
55 CNFE/S81 5474,6 Oct.1950, From:Commander Naval Forces, Far East To:Ministry of Transportation, Japanese Goverment Subject:Japanese Minesweepers, use of. 前掲「能勢史料 その1」130ー131頁。
56 「東京新聞(昭和25年10月9日夕刊)」。
57 「毎日新聞(昭和25年10月22日朝刊)」。
58 「産経新聞(昭和29年1月18日夕刊)」。
59 「産経新聞(昭和29年1月19日朝刊)」。
60 「外交委員会議事録概要(昭和29年3月29日)」前掲、大久保、 312頁。
61 「朝鮮動乱における日本掃海艇の活動に関する説明資料」、 前掲「能勢史料 そ の1」125ー129頁。
62 James A.Field, Jr. History of United States Naval Operations Korea,
(Washington D.C.:U.S.Goverment Printing Office,1962), p.232.
63 「日本ノ欧州非派兵論議ハ連合国側ニ反感ヲ生ゼシメ居ルニ付取扱ニ注意ヲ要 スル旨稟申ノ件」外務省編『日本外交文書』大正6年第3冊(外務省、1968年)180頁。
64 「日本ノ連合国側ノ為ノ努力ニ関シ米国人啓発資料送付方稟請ノ件」同上、110 頁。
65 佐藤皐蔵「訓育資料第22号 欧州大戦中地中海に於ケル帝国海軍ノ作戦」(海軍 兵学校、1934年)10頁66 近藤英次郎「地中海遠征日記(大正6年2月初旬ー大正8年1月下旬)39頁、 防衛研 究所蔵。
67 「朝日新聞(大正6年5月23日)1頁および「同(大正6年6月14日)」1頁。
68 The Times History of the War, Vol.][ (London:Times,1919), p.458.
69 石井菊次郎『外交余録』(岩波書店、1930年)126頁。
70 『第39回帝国議会 衆議院議事速記録 33』(東京大学出版会、 1981年)63頁。
71 同上、 16頁。
72 「太平洋ノ独逸艦隊殲滅ニ関スル『タイムス』及『モーニング・ポスト』ノ社説報 告ノ件」『日本外交文書』大正3年第3冊(外務省、1963年)664頁。
73 前掲『第39回帝国議会 衆議院議事速記録 33』16頁。
74 生田豊郎「論点 石油の安定供給への掃海艇派遣は妥当」(読売新聞、1991年4月2 5日朝刊)。
75 「朝鮮掃海の総合所見概要」前掲「能勢資料 その1」121ー122頁および前掲、 大久保、 269ー270頁。
76 前掲「能勢手記」60ー61頁。
77 前掲『昭和戦後史「再軍備」の軌跡』197頁。
78 前掲、アワー、90頁。
79 前掲、 田尻「波涛を越えて(10)」55頁。
80 大久保武雄『霧笛鳴り止まず 』(海洋問題研究会、 1984年)306頁。