書評 Edward S. Miller, War Plan Orange:The U.S. Strategy to Defeat Japan,1897-1945
(Annaplois:U.S.Naval Institute Press, 1990).
その後、新潮社から翻訳が出版された(エドワード・S・ミラー『オレンジ計画ー日本を敗北させたアメリカの戦略』新潮社、199393年)
はじめに
本書の構成はオレンジ計画の歴史的発展に沿い、 いかなる計画が立案され、 それがどのような問題を内蔵していたかを明らかにしている23章と、 この計画に携わった軍部、 特に海軍と政治家、 陸海軍の関係、 海軍部内の動向などを扱った「アメリカ式計画法」とのタイトルが付いた7章の総計30章からなっている。 著者は政治外交問題については深く触ずオレンジ計画のみを分析の対象としたとはしているが、 詳細に読むとオレンジ計画を左右した国内政治や国際関係にも触れており、 オレンジ計画が日米の緊張とともに発展し、 日米関係の緩和とともに衰退した事実など、 オレンジ計画の変遷を辿ることにより日米関係の隠された一面を理解できるであろう。 この観点から本書は日米関係史の研究者には不可欠な基礎的文献であるといえとう。 以下、 論評に先立ち本書の主要内容について紹介したい。
1 オレンジ計画の変遷
最初の対日戦争計画(In Case of Strained Relations with Japan)は、 1906年にハワイを合併した時に生じた対日摩擦によって作成されたが、
それはハワイを防御するというもので、 計画ではスエズ運河経由で主力艦隊を大西洋から太平洋に回航し、
東洋派遣戦隊とインド洋上で合同し、 日本近海で雌雄を決する計画であった。 次いでオレンジ計画が本格化したのは、
1906年のカリフォルニヤに於ける学童隔離法案の採択にともなう日米の対立で、
この事件を契機にオレンジ計画の基本構想が生まれ、 1911年までの間に海軍大学校のオリバー(James
H. Oliver)中佐によって概成された。 その基本構想は日本軍の攻撃により極東のアメリカ領土フィリピンやグアムを失う第一段階、
反撃に転じ日本艦隊を決戦で敗北させる第2段階、 日本を包囲し海上封鎖によって経済的に追い詰め屈服させる第3段階からなっていた(第1から第3章)。
しかし、 ワシントン会議後の1924年に、 第2段階に日本の委任統治領南洋群島の占領、
第3段階に攻勢的航空作戦が加えられた。
これは第一次世界大戦後にミクロネシア諸島が日本の委任統治領となったこと、
第一次大戦中に航空機が飛躍的に発展しミッチャー(General Billy Mitchell)少将の航空万能論と、
日本の都市が空襲に弱いという特質から加えられたもので、 このため大陸と日本本土を遮断するため対馬への上陸作戦や、
東京を爆撃できる大型爆撃機を展開するため大隅半島や五島列島を占領する計画なども考慮された。
しかし、日本本土への上陸作戦は殆ど不可能で、 無意味であるとし、 もし上陸するとしても防備の手薄な九州南部、
次いで関東地域に上陸することが一応考慮されていたに過ぎなかった(第26章)。
オレンジ計画の策定をめぐり揺れ動いたのが第2段階作戦における渡航先であり、
その渡航経路であった。 1914年にパナマ運河が完成し問題はかなり解決されたが、
次の問題は西岸からの進攻ルートで、 進攻ルートには太平洋を横断する中央ルート、
サモアーニュギニア南方を経由する南方ルート、 あるいはアリューシャン列島を経由する北方ルートの3つのルートがあったが、
ハワイを経由し決戦海面に向かう中央ルートが常に有力であった。
しかし、 次に問題となったのが直ちにフィリピ救済に向かうべきか、 中部太平洋に点在する南洋群島を逐次占領し、
艦隊の中間補給基地、 航空基地を確保しながら進むべきか、 さらに中継基地から直ちに北上し日本艦隊と決戦し、
日本を封鎖し屈服させるべきかなどで議論は別れた。 この経路をめぐる意見の対立は反攻のタイミングをめぐりるもので、
アメリカ海軍部内には国民が長期戦に耐えられないので直ちに反撃し、 直接フィリピン救援に向かうべきであるとの積極派と、
不十分な準備で日本艦隊に決戦を挑み、 敗北すれば士気が低下するので準備なく戦うギャンブル的な戦争はすべきでないとの慎重派に別れて対立した。戦争を早期に終結できるということから積極論が政治家や軍の上層部からは常に支持されていたが、
1920年代に入ると日本海軍の近代化、 兵力の増加のため慎重論が勢いを得た。しかし、
この方式では南洋群島を占領し、 基地を整備した後でなければ艦隊が前進できないため、
フィリピンに到達するには数年もかかることから、 これはフィリピン放棄を暗黙に認めることを意味していた(第8、
11、 17、 18章)。
その後、 日独の接近、 ドイツの中南米、 日本の南方への進出の脅威が顕在化すると、
1936年6月には日本のみを対象したオレンジ計画から枢軸国を対象としたレイボー計画(Rainbow
Plan)の検討が始められ、 1938年8月にはレインボー一計画が統合委員会の了承を得た。
しかし、 第二次大戦が始まると1940年11月にはドイツ打倒を第一とし、 日本に対しては守勢に徹するというドックプラン(Dog
Plan)が承認され、 12月17日にはオレンジ計画の破棄が命ぜられ、 1941年6月2日にはレイボー計画5が正式に大統領の承認を得て、
ここにオレンジ計画は消滅した(第23章)。
一方、 オレンジ計画は立案以来、 常にアメリカの“Sea Power"で日本の“Sea
Power"を撃破し、 その後は海上封鎖によって日本を敗北させるというアメリカのシーパワーと日本の“Land
Power"との戦いを前提としていたが、 1930年代後半に入ると長距離爆撃機B−17(空飛ぶ要塞)が戦力化し、
このに“Air Power"の力が大きく加わることになった。 1941年4月の英米会議で日本の海上交通を遮断するためB-17爆撃機の早急なフィリピンへの配備が決定され、
さらに11月19日に採択されたレインボー5(Rainbow-5)計画には「カロリン、
マリアナの各島に陸軍航空部隊の効果的攻撃を行い、 これら島嶼を破壊占領し、
これらの地域を管制する」と陸軍航空部隊が攻勢作戦の一端まで担うこととされた。
そして、 さらに開戦直前にはイギリスとの連合作戦の具体化、 マックアーサー(Douglas
MacArthur)大将のフィリピン軍への過信なども加わり、 アメリカは日本の攻勢に対してフィリピン・マレー半島・シンガポールは防衛可能と判断するに至ったのであった(第21章)。
2 オレジ計画の問題点
(1)膨大な兵力とその補給量
ワシントン軍縮会議で日本海軍との主力艦比率を5対3(167%対100%)に押えたとはいえ、
アメリカ海軍は補給部隊の護衛などに兵力を回さなければならず、 戦闘場面で125パーセントの対日比率を維持するには、
対日兵力比150パーセントが必要であり、 それは可動率90パーセント(167×90=150%)を意味するが、
そのような高い可動率を平時に維持することは不可能であった(第13章)。 戦争計画担当局長ショーメーカー(William
R.Shoemaker)大佐は「オレンジ計画の成否は総て補給問題にあった。 いかに決戦が行われる戦場に、
修理を完了し充分に補給された部隊を適時に展開するかにあった」とオレンジ計画を総括しているが、
特に日本の海軍力が強化された1917年には、 派遣部隊に補給すべき燃料は初期の計画の5倍から7倍に増大し、
これら遠征部隊に補給すべき物資は燃料だけで494隻の石炭船とタンカーを必要とし、
さらに必要な軍需物資や弾薬などを加えれば646隻の船舶が必要と見積もられるに至った(第9章)。
また、 この補給と距離との問題は途中で日本海軍の攻撃を受けるため、 補給部隊を護衛する兵力を必要とし、
1939年の統合委員会戦争計画部の計算では基地の防衛、 補給船団の護衛、 日本本土に対する攻勢作戦や日本封鎖作戦を考慮すると、
日本に対して3倍から4倍の兵力が必要であるとされた。
さらに問題は戦闘によって被害を受けた艦艇を修理する浮ドックなどの修理施設で、
問題は800フィートもある大型戦艦用ドックを、 いかにして太平洋を運ぶのか、
さらに大型ドックの製作には2年が必要であり、 これでは国民が戦争に飽きてしまうという問題も考慮しなければならなかった(第13章)。
そのうえ、 輸送量の問題は航空時代を迎え日本の陸上航空兵力に対抗する航空兵力を展開するには、
飛行場建設部隊や建設資材、 さらに完成後に必要な各種機材や燃料、 飛行支援施設、
部品などを含めれば日本海軍の5倍から10倍の補給が必要であるという新らしい問題を生起させた(第3章)。
(2)戦争の長期化と膨大な費用
どの程度の期間で日本が屈服するかという戦争期間について、 1914年には6ケ月あるいは12ケ月と見積もられていたが、
1920年代には2年となり、 1923年には3年間以内に終わることは困難であるとの見積に変わった(第14章)。
さらに、 1930年代に入ると戦争期間はさらに長期化し、 1933年にローズベルト(Frankilin
D. Roosevelt)大統領から戦争期間の見積りを諮問された海軍大学校のコチィ(R.A.Koch)大佐は、
対日比率を5対3に回復するのに3年、 戦争期間は4年から5年を要すると報告したが、
その後の海軍大学校の研究でも戦争期間は4年、 対日兵力比は4倍が必要であるとされ、
1937年から1941年当時の戦争計画担当者は、 前進基地を確立するまでに2年、
戦争期間は3年から4年としていた。
しかし、 悲観論者は前進基地を確保するのに3年から4年、 兵力は現在保有の艦隊のほかに、
新たに現在と同量の艦隊を建設しなければならず、 海軍作戦部長のスターク(Harold
Stark)大将は第一前進基地の占領、 基地建設には現在の能力では2年から5年、
アメリカ艦隊司令長官リチャードソン(James O. Richardson)大将は攻勢作戦のために出撃できるのは1年後で、
戦争は5年から10年は続くであろうとしていた。 戦争計画者が最も恐れたのは、
戦争の長期化にともなう南洋群島の防備強化による犠牲の増加、 アメリア国内の厭戦機運の増大と、
国民が自国の防衛にヴァイタルでないはるかに離れた極東の戦争に長期間耐えられるかという問題であった。
このため1937年には陸軍戦争計画部長エンビック(Stanley D.Embick)准将が、
戦争によって得られる成果が費用に見合わない。 日本を対象に軍備を増強するのならば、
アメリカ海軍が軍事予算の75パーセントを消費し、 海軍がアメリカの富を消耗し、
そのうえ本国の防備には全く効果がないので、 防衛線をアラスカーハワイーパナマの線に後退すべきであると批判したが、
戦争期間と膨大な兵力量をめぐり時として陸軍や政治家から限定的手段によって日本を屈させるべきであり、
長期にわたる国益にあまりかかわらない戦争を国民は支持しないと対日限定戦争論が主張された(第15・26・30章)。
3 オレンジ計画と国家指導者

アメリカ式計画法を論じた第2・第8・第12・第16・第19・第23・第27章の7章はオレンジ計画の軍事的面だけでなく、 オレンジ計画と国内指導者、 国内政治や国際政治に触れられており日米外交史研究者にとっては重要な章で、 本書によれば歴代大統領のオレンジ計画に対するかかわりと評価を次のように要約している。 ローズヴェルト(Theodore Roosevelt)大統領はオレンジ計画を促進させたが、 常に防衛的な即応態勢の保持に関するものであった。 とはいえ、 世界的大艦隊の建設、 太平洋岸とハワイ基地の整備、 パナマ運河の建設などオレンジ計画の基本的枠組みを概成した。 タフト(William H. Taft)大統領は元国防長官であり元フィリピン総督であったが、 極東政策の調和に努め、 オレンジ計画の形成には離れた立場を取った。 一方、 ウイルソン(Woodrow T. Wilson)大統領はオレンジ計画の担当者に反感さえ示し、 1913年のウオースケアーでは大統領の許可なく、 演習を名目に日本の攻撃に備えるために動員を行ったとして統合委員会の活動を禁止した(第14章)。
しかし、 意図しなかったがウイルソン大統領は大艦隊を建設し攻勢的な大海軍を育て、
さらにベルサイユ講和会議では日本が第一次大戦で獲得した南洋群島を中立化し、
その軍備を禁止させるという海軍の要望を実現した。 1920年代の3代の共和党出身の大統領は国際条約を重んじ、
日本も消極的であったため戦争計画も即応態勢の維持程度で国民も大統領も軍備などには関心を示さなかった(第2章)。
特にフーバー(Herbert C. Hoover)大統領は軍縮を促進した。 しかし、 ハーディング(Warren
G. Harding)大統領はワシントン会議では5:3の比率を日本に押し付け、 さらに共和党の大物ウード(Leonard
Wood)フィリピン総督のフィリピン放棄は東洋におけるキリスト教と西欧文明のアウトポストの喪失であるとの主張を受け、
海軍の反対を排してフィリピン防衛を指示し、 このため海軍は1924年にはフィリピン救援に直行する計画に変更しなければならなかった。
そして、 この決定がアメリカ海軍にフィリピン救援とスビック基地の防衛、 さらに日本艦隊の撃滅という複数の任務を課したのであった。
ローズヴェルト(Franklin D. Rooesvelt)大統領は日本の中国進出に強い態度を示したが、
ヨーロッパで戦争が起こるまでオレンジ計画を無視し続けていた。 しかし、 1936年にはハウランド島、
ベーカー島を購入し、 1938年にはカントン島(英)の占領を許可し、 第1次ー第3次ビンソン計画、
スターク計画などにより海軍力の拡張を促進した。 また、 日本海軍の近代化・航空機の発達などから放棄されていたフィリピン防衛を、
マックアーサー(Douglas MacArthur)中将の意見を入れて加えるなどオレンジ計画を変更したが(第13章)、
さらに、 1944年にはフィリピンをバイパスし、 サイパンから直接北上する海軍案を退け、
マッカサーのフィリピン人への誓約を重視しフィリピン上陸作戦を承認した。 このためアメリカの対日戦略は再び変更され、
オレンジ計画は再び修正され、 対日反攻ルートはニューギニア ー フィリピンを進攻する陸軍ルートとタラワ、
サイパン、 グアム、 硫黄島と中央太平洋を直進する海軍ルートとに2分させた。
4 オレンジ計画と日米関係

オレンジ計画は科学技術や武器、 戦法や戦術の発達によって発展したものでなく、移民をめぐる対日関係の緊張や、
日露戦争によるロシア艦隊、 第一次大戦によるドイツ艦隊の消滅など、 兵力増強の対象が消滅した時、
日本の脅威が増大した時には優秀な士官が配員され日本の脅威によって発展した。
この観点からオレンジ計画の発展と衰退は日米関係の緊張度を計る尺度であるともいえよう。
また、 オレンジ計画の分析に必要な視点はオレンジ計画とウォースケアーとの相関関係であり、
オレンジ計画の発展と当時のウォースケアーを対比することによって、 どの軍種がどのウォースケアーを高め利用したかなど、
ウォースケアー発生のメカニズムの一端が理解できるであろう。 この排日・恐日世論を利用した例を陸軍と海兵隊に求めると、
海軍の計画担当者が日本のアメリカ本土攻撃は「真剣に考慮するにはあまりにも現実離れしたものである」と考えていたが、
1906年には元陸軍参謀総長が序文を書いたホーマー・リー(Homer Lea)の『無智の勇気(The
Valor of Ignorance)』では、 シアトルやサンフランシスコが日本軍に占領されると主張され、
1907年のウォースケアーでは日本軍が上陸すると陸軍は西海岸の古い要塞を改修した。
また、 第一次大戦後に海軍はパナマ運河の攻撃は航空母艦を伴ったとしても不可能であるととし、
表徴的な兵力しか配備しなかった。
しかし、大戦が終結し軍備縮小に直面した陸軍は、 マクダネル湾事件やチンマーマン事件で生じた対日猜疑心を利用し、
日・メキシコ連合軍によるアメリカ進攻作戦の可能性(海軍も利用したが)やパナマ運河防備の必要を力説し、
空軍(陸軍航空)は日英連合軍の攻撃を東西に受けた場合には、 機動力に優れた航空機で対処すべきであるとして空軍力の強化を主張した(第20章)。
また、 海軍はアラスカに対する日本の侵攻も可能性は低いと考えていた。 しかし、
陸軍や陸軍空軍は日本の爆撃機が北方から襲撃しアリューシャン、 そしてアラスカに日本軍が上陸するとし、
1938年には対日戦争が開始されたならば、 航空機と8000名の部隊を展開する計画を立て、
1940年にはアラスカの防備強化とアラスカの防備を陸軍の責任区域にすることに成功した。
一方、 ガリポリ上陸作戦の失敗や戦後の植民地の独立で存在意義を失った海兵隊は、
その存続を南洋群島を逐次占領し、艦隊の中継補給基地としつつ日本に接近する太平洋横断の攻勢作戦
ー ミクロネシア前進基地構想(Advanced Base Operation in Micronesia)に求めた。
そして、 海兵隊の兵力整備に南洋群島の要塞化の虚報が利用され、 対日猜疑心を深め日米間を離隔させた。
本書にはこのような政治的な部分、 特に日本から見たこのようなオレンジ計画の問題点への掘り下げが欠けているため、
オレンジ計画が対日関係に及ぼした影響などについては充分とは言い難い。 今後は本研究を土台としてアメリカ国内の対日オースケアーの問題や、
日米の軍事問題を視座に入れた日米関係の研究が深められることを期待したい。
おわりに
本書の内容的な問題点を挙げるならば、 ガリポリ作戦の失敗以来、 存在意義に疑問が生じた海兵隊が、
いかに南洋群島への強襲上陸、 前進基地開発能力の向上に努めオレンジ計画の進歩に寄与し、
対日戦争の勝利の原動力の一つとなったかなどが海軍の記述の中に埋没されているように思われる。また、
本書の欠点を上げるならば日本側の資料には殆ど触れていないことであり、 計画分析の専門家が書いているため、
計画の立案や検討、 発展と問題点などに重点が置かれており、 外交史や日米関係を専門とする読者には、
核心をつかむのに苦労する部分があるかもしれない。 また、 著者がビジネス界で企業の業務計画などを担当してきたため、
オレンジ計画の分析に産業界で得た手法や体験を用い、 それが本書の内容を斬新なものにしている。
しかし、 あまりにも詳細に、 また技術的に分析しているため、 クライマックなどもなく軍事的素養のないものには無味単調であり、
また、 軍事問題を研究したことのない読者にはCinCPAC(太平洋艦隊司令長官)とか、
SecNAV(海軍長官)、 ComBatFor(戦艦部隊指揮官)などの軍事略語が、 読破しようとする意欲と理解を妨げるかもしれない。
さらに、 本書が日米関係にはあまり触れられていないため、 日米外交史の研究を主とする者には物足りない感じを与えるかもしれない。
しかし、 著者が日米関係にはあまり触れずオレンジ計画のみを忠実に分析していだけに、
時流に流されておらず論旨の展開に政治的着色もなく、 オレンジ計画の歴史的発達を忠実に述べているだけに読者自身が考察を加え得る部分が多く、
それだけ本書の多様な利用が可能であるともいえる。 また、 本書の価値の第2点は資料の大部分をアメリカ海軍保有の第1次資料に基づいていることであり、
この観点からも本書はアメリカの対日戦争計画に関する限り現在までに出版されたいかなる文献よりも詳細であり、
貴重な資料を内蔵した優れた研究であり、 それが、 本書に1992年度アメリカ海軍協会出版記念賞を受賞させたのであろう。