大西滝次郎:
南洋群島不沈空母構想の創設者
生い立ちと主要経歴
大西中将は兵庫県の出身で明治45年(1912年)に海軍兵学校を卒業し(40期)、
同期にはミッドウェーで艦と運命をともにした山口多聞少将、 終戦後に部下の後を追い沖縄に突入した宇垣纒中将などがいる。大西は海軍航空育ての親といわれる海軍航空の第一任者で、
大西の経歴は日本海軍航空の歴史と言っても過言ではない。 大西は中尉時代に海軍航空技術研究委員に任命され、
横須賀航空隊の開隊と同時に、 最初の水上機母艦若宮のパイロットに選ばれ、 その後霞ヶ浦航空隊教官、
佐世保航空隊飛行隊長などを歴任し、 続いてフランス・イギリスに留学した。 しかし、
昭和5年に航空本部教育部員となると、 少佐にもかかわらず「我海軍ニ航空軍備並ニ航空関係作戦用兵ノ基本方針ナシ。
軍令部ニ一大欠陥アリ。 軍令部ハ目下航空本部ヲ指導スル能力ナシ」との所見を提出し物議をかもした。
その後昭和8年に大佐に昇任し佐世保航空隊司令、 昭和9年に横須賀航空隊副長兼教頭を歴任、
昭和11年4月に航空本部教育部長となると、 戦艦第一主義を鋭く批判した「航空軍備ニ関スル研究」を作成し部内に配布した。
しかし、 戦艦大和を建造中の当時の海軍に、 この先見性は理解できなかった。 その後、
大西は昭和14年10月には第2連合航空隊司令官となり11月には少将に進級、
昭和15年11月には第1連合航空隊司令官、 そして昭和16年1月には第11航空艦隊参謀長となった。
しかし、 山本五十六連合艦隊司令長官にハワイ作戦の検討を依頼されると、 機密保持が困難であること、
すでにハワイ周辺の哨戒が強化され、 また往路の北太平洋行路は中立国の船舶も多く、
もし発見された場合にはわざわざ餌を提供するだけであると反対した。
その後昭和17年3月には航空本部総務部長、 18年5月には中将に昇任し同年11月には軍需省航空兵器総局総務局長となった。
続いて19年10月に第1航空艦隊長官、 敗戦直前の昭和20年5月には軍令部次長に就任、
沖縄防衛戦や本土決戦に努力したが、 ポツダム宣言の受諾には強く反対し徹底抗戦を主張した。
しかし、 終戦が決せられ天皇の玉音放送があると翌16日午前2時45分、 次に示す「特攻隊の英霊に日す」との遺書と、
「之でよし百万年の仮寝かな」との辞世を残し、 割腹し部下の後を追って自決した。
「特攻隊の英霊に日す。 善く戦いたり、 深謝す。 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり。 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。 次に一般青年に告ぐ。 我が死にして、 軽挙は利敵行為なるを思ひ聖旨に副ひ奉り、 自重忍苦するの戒とならば幸いなり。 隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ。 諸子は国の宝なり。 平時に処し、 猶ほ克く特攻精神を堅持し、 日本民族の福祉と世界人類の平和の為、 最善を尽くせよ」。
南洋群島の航空基地としての活用
昭和6年に戦闘機より速い高速の爆撃機九六式陸上攻撃機が出現するなど航空技術が長足の進歩を示し、
航空機の戦力化が進むと、 大西海軍航空本部教育部長は航空威力研究会の結論に基づき、
昭和12年7月に「航空軍備ニ関スル研究」を作成し部内に配布した。 同資料は「基地用大型飛行機ヨリナル強大ナル航空兵力ヲ急速整備スルコトハ、
国防全局ヨリ見テ極メテ緊要ナリ」。 南洋群島への航空基地の建設は、 「実ニ帝国ニ恵マレタル地形上ノ最善ノ利用方法ニシテ、
海軍戦略思想ノ一大革命ナリ」。 「帝国海軍ハ帝国領土各地ニ散在スル、 多数ノ航空隊及航空基地ヲ整備スルヲ要シ」と南洋群島などに航空基地を整備し、
アメリカ艦隊を航空兵力で邀撃漸減すべきことを説いた。

そして「帝国海軍ノ任務タル西太平洋ニ於ケル制海権ノ維持ニ関スル限リニ於テハ、 強大精鋭ナル基地航空兵力ノ整備ガ絶対条件」であり、 「近キ将来ニ於テ、 艦艇ヲ主体トスル艦隊(空母等随伴航空兵力ヲ含ム)ハ、 基地大型飛行機ヨリナル優秀ナル航空兵力ノ威力圏内(半径 約千浬)ニ於テハ、 制海権保障ノ権力タルコトヲ得ズ」と記した。 そして、 航空軍備(大型陸上航空機)を重視すれば、 「日米ノ水上艦艇ノ比率等ハ殆ンド問題トナラザルコトニ注意スベシ」と、 日米海戦を南洋群島を基地とした大型航空機で実施すべきであると主張した。 大西はこのように南洋群島の「不沈空母」構想の創設者ともいえる人物であった。続いて昭和16年1月にはこの思想と同じ流れを汲む「新軍備論」が時の航空本部長井上成美中将から提出された。 しかし、 このような主張は、 戦艦重視思想が支配する海軍に採用されることはなかった。 また、 太平洋戦争では当初日本海軍が考えたように南洋群島の戦いで持久することはできなかった。 それには大西中将のいう「前進基地ハ敵機ノ空襲ニ対シ相当ナル持久力ヲ保持セシムルコト絶対ニ緊要ニシテ、 此等ハ陸戦ニ於ル要塞(日本ノ要塞ノ如キモノニアラズ、 独仏国境ノ要塞ノ類ヲ指示ス)」る難攻不落の要塞化が前提であったが、 開戦時も大戦中もこれら軍備は未完成のままであった。
3 神風特別攻撃隊の父としての大西
大西が第1航空艦隊司令長官に任命されたのは、 敗勢が濃くなった昭和19年10月17日であった。
マニラに着任した2日後の19日にはアメリカのレイテ上陸が始まり、 25日にはマニラのマバラカット飛行場から第201航空隊の関行男大尉を長とする24人の敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の4隊の最初の神風特別攻撃隊が飛び立った。特攻戦法を命じた大西は特攻が非道、
無謀な攻撃法であり、 人命の尊厳を無視した暴挙であることを、 誰よりもよく知っていた。
それでいながら、 なをその戦法を取り続け昭和19年10月25日から終戦まで、2367機、
2530名(海軍関係は2065名)の特攻隊員が散った。このため大西は「特攻隊の創設者」を始め「愚将」、
「暴将」という汚名まで与えられることとなった。しかし、 特攻隊の創設者を大西個人に帰するのは早計であるかもしれない。
特攻隊攻撃を最初に提案したのは、 ラバウル航空戦やサイパン沖航空戦の苦しい経験から彼我の戦力差を見せ付けられた第3航空艦隊千代田艦長の城英一郎大佐で、
昭和18年暮れごろ城大佐は「もはや通常の戦法では敵の空母を沈めることはできない。
このため体当り攻撃を目的とする特別攻撃隊を編成し、 自分をその指揮官にして戴きたい」と意見具申していた。

続いて昭和19年6月には館山航空隊司令だった岡村基春大佐も、 第2航空艦隊司令長官の福留繁中将に「尋常一様の戦法では現有航空兵力を生かす道はない」と体当り特攻攻撃を具申した。 そして、 海軍は関大尉などの特攻隊が編成される1ケ月前の10月1日には、 桜花を一式陸上攻撃機に搭載した桜花攻撃隊の開隊に着手し岡村大佐を指揮官に発令していた。このように特攻攻撃は海軍部内に自然に芽生えた思想で、 この意味から特攻攻撃に踏み切るために海軍航空育ての親としての大西が選ばれたに過ぎないともいえよう。 この特攻攻撃について、 大西は「特攻をやろうがやるまいが、 いま攻撃に行けばみな生きては帰えれない。特攻でなければ成果も知られないまま死ぬ。 特攻をやれば確実に自分が成果を上げたと知って死ぬ。 これすなわち大慈悲なんだ」と語っている。また、 大西は自己の評価について、 当時副官であった門司親徳大尉に「わが声価は棺を覆うて決まらず。 百年ののち知己なからん」と言っていたという。 今、大西は特攻隊の創設者という汚名を一身に受け鶴見の曹洞宗総本山総持寺に眠っている。 なお、 最初に特攻を口にした城大佐は、 まさに関大尉を長とする最初の特別攻撃隊が発進した昭和19年10月25日、 ハルゼー艦隊を北方に引き付けるおとり艦隊の空母千代田艦長としてレイテ海戦で艦と運命を共にした。 また、 桜花特別攻撃隊の司令岡村大佐は鹿屋から桜花隊を沖縄に発進させていたが、 終戦の報を聞くと部下のあとを追いその地で自決した。
草柳大蔵『特攻の思想ー大西瀧次郎伝』(文芸春秋社、 昭和47年)。
門司親徳『回想の大西滝次郎』(光人社、 1987年)。
海軍航空本部編「航空軍備ニ関スル研究」(海軍航空本部、昭和12年)防衛研究所蔵。