「陸奥海王国」の建設と海軍ー大湊興業を軸として

はじめに

 1918年(大正7年)にむつ市に大湊興業株式会社が創設されたが、大湊興業は陸奥湾に現代の臨海工業都市と香港やシンガポールのような自由貿易港を建設しようとするもので、 その事業内容は単に岸壁や桟橋などの港湾施設を整備するだけでなく、 埋立地への工場の誘致やそれに伴う市街地の造成、 さらには下北地方の資源探索などを目的としていた。 そして、 現在のむつ市の中心部の約半分を造成し、 都市計画を施し自社用の鉄道や発電所を建設し、 日本特殊鋼管などの大企業を誘致し、大湊興業が整備した岸壁は原子力船むつの専用岸壁となった。 しかし、 軍港に隣接する土地に商港を建設するのは好ましいことではないにもかかわらず、 なぜ海軍が軍港の隣接地に商港の建設を認めただけでなく、 積極的に支援さえしたのであろうか。 また、 なぜ、 大湊興業は創設直後から衰退しなければならなかったのであろうか。 本論はこれらの理由を明らかにすることを目的としている。

1 大湊開港論

 むつ市に大湊興業が建設されるに至った背景は、 明治初期の斗南藩の大湊開港論にさかのぼらなければならない。 大規模な土木建設工事能力がなかった当時の日本では、 港湾を建設する第1の要件は自然の地形を利用することであり、この点から大湊港は港湾としては東北随一の地理的要件を備えていた。 このため明治初期には斗南藩が早くも注目し、各種施策も企てられたが、計画は斗南藩の退去により消滅してしまった。しかし、 1891年(明治24年)ころになると、 海軍水路部の父といはれた海軍中将肝付兼行(退官後は貴族員議員、 大阪市長などろ歴任)が日米間の最短距離は大圏航路であり、 日本からサンフランシスコへ行く場合には大湊の方が横浜より265マイルも短いと、大湊港の大圏航法上の地理的価値を最初に認め、 大湊開港論を提唱した。 肝付は多感な青年時代に蝦夷開拓使御用掛筆生として北海道に勤務したためか、 水路部長という配置からか、ウラジオストックから北米大陸に至る大圏航法では、 津軽海峡あるいは宗谷海峡を通らなければならない。 しかし、 宗谷海峡は冬季には荒天と雪、 夏季には濃霧の問題があり、 「津軽海峡を以て必経の航路となすや必せり」。 大湊に対して函館港があるという人もいるが、 函館は内地と海峡を隔てており不便である。 従って開港場は内地の海岸、 すなわち「大湊を措いて他にあらざるなり」と「大湊開港論」を主唱した(1)。

 その後、 1891年5月21日にはシベリヤ鉄道の起工式が行われ、 1896年には西シベリヤ鉄道、 1898年には中部シベリヤ鉄道が開通し、 さらに1904年にはシベリヤ鉄道の全区間が開通した。 このシベリヤ鉄道の開通にともない対露貿易への期待が高まり、 1894年6月には東奥日報主筆の成田鉄四郎が青森商業倶楽部総会において、 青森港を整備し対露貿易会社を設置し商業学校を設立すべきであると主張するなど、 シベリヤ鉄道の完成が中継港としてのむつ湾の重要性を高めた(2)。 しかし、 当時は商港と軍港との両立は不可能との意見もあり、 また政府にも民間にも大湊地方まで開発する余力はなく、 また成田鉄四郎が1894年9月に病死したこともあり、 大湊開港論は陽の目を見ることなく消えてしまった。 しかし、 成田の「世界の大勢に徴し地理の趨向に察し自然来るべき数理を推し、 陸奥湾を以て東洋貿易の中心」とし、 陸奥を「東洋の海王国」とすべきであるとの主張は、 『陸奥の将来』として後に出版された(3)。

 その後に大湊開港論を主張したのは、 1909年12月1日に大湊要港部の五代司令長官として赴任した海軍少将上泉徳弥(1911年9月1日まで在任)であった。 上泉司令長官は後に大湊興業の創設者となる鈴木誠作の依頼を受けて、 要港御用納めの1910年12月29日に、当時大湊の代表的旅館であった菊池旅館に林武蔵郡長などの地方の代表数名を集め、 大湊開港運動および大湊興業(最初は大湊建設会社と呼ばれた)の創設についての内協議を行い、 翌30日には鈴木が東京から来湊し、 これに加わった。 鈴木と上泉とは米沢出身の同郷であり、 鈴木はかねがね東北地方が発展しないのは気候風土の影響や「歴史的文化北漸ノ因習」もあるが、 「外間ノ空気ニ接スル機会ニ乏シク住民亦自奮自覚ノ意義」に欠けるためである。 「港湾ヲ修築シ鉄道ヲ敷設シ春風一路世界ノ大道ニ通ズルノ途ヲ開キ、之ト同時ニ地方人ヲ鼓舞刺激シテ発奮奮起セシムル」べきであると信じ、 上泉が大湊要港部司令官に任命されると水戸駅まで見送り大湊港の港湾調査を依頼していた。

 上泉から大湊港が天然の良港であること知らされると、 鈴木は大湊を開港し自由貿易港として保税庫を設け、 アメリカやその他の諸外国から原料を輸入して工業を興し、 製品を市場に出す際に課税するとの考えのもとに、 大湊の開港と鉄道の野辺地-大湊間の敷設運動を促進することとした。 鈴木が来訪することとなったため、 翌日に上泉は改めてさらに多数の有志を菊地旅館に集めて、 「パナマ運河開通シテ東西両洋ニ通ズルニ至ラバ航路自カラ現在ニ幾倍ス可キハ疑フノ余地ナシ、 此際此時斯カル要衝ニ当リテ斯ノ如キ良港ヲ有シナガラ漫然世界的貿易ヲ独占シ得ベキ天与ノ恵沢ヲ放抛シテ顧ミザルガ如キハ智アリ識アル国民ノ断ジテ与スル能ハザル所ナリ」、 「大湊開港ハ全国民一致シテの之ヲ敢行セザルベカラザル大問題ニ属ス.......国家百年ノ大計ヲ達観スルノ士ハ奮ツテ此挙ヲ賛セヨ(4)」との鈴木の呼びかけに応じ、 従来の大湊鉄道期成同盟会を大湊開港期成同盟会と改称し、 鉄道は開港に伴う必至要件であるとして、今後は開港を前面に運動すること、 開港施設を整備するため資本金3000万円の大湊建設株式会社(のちの大湊興業株式会社)を創立することなどを決した。

 鈴木は翌1911年1月6日まで大湊に滞在したが、 3日には全国著名な新聞社91社に「大湊開港期成同盟会趣意書」を郵送して世論の喚起に努めた。 一方、 下北では郡内の有志が連名して「大湊開港請願書」を総理大臣桂太郎、 内務大臣平田東助、 大蔵大臣(桂首相兼務)および貴・衆両議員へ請願するとともに、 大湊鉄道速成請願書を鉄道院に提出した。 さらに鈴木と上泉は在京の東北記者会の幹部12名を集めて今後の運動方針を協議し、 1月16日には烏森の湖月に東京の有力新聞社や雑誌社の主筆格の記者30余名を招待し、鈴木が大湊開港論を、 上泉が大湊港が天然の良港であることを説明した。 そして、 鈴木はこの開港論を和英両文に印刷し、東京・名古屋・大阪などの著名な実業家や外国の領事館、 商館から海外の商社などに送った。

 一方、 上泉も秋には再び大湊鉄道論を起草し財部海軍次官に送付したが、 その後も上京の都度、 パナマ運河開通の暁には「国家百年の大計として、 必ず大湊開港の要あるべき」であることを海軍上層部に献策した。 鈴木や上泉のこのような活発な活動、 特に鈴木の新聞記者対策が功を奏したためか、 あるいは鈴木と深い関係にある政友会の有力者床次竹二郎の政治力のためか、 あるいは海軍部内に威名を馳せる上泉中将の影響力からか、 1911年3月2日の第27帝国議会で、 海軍に大湊「開港の為には要港一部の解放に支障なし」と答弁させ、 議会に大湊開港建議案が上程されると「政府はその設備を有するに至らば開港に躊躇せず」との決議を採択させた(5)。 しかし、 一時盛り上がった大湊開港論も日露戦争時に借りた莫大な国債や外債の支払いに追われ、 緊縮財政下の日本に大規模な開発を行う財力はなく、 再び下火になってしまった。

2 大湊興業の創設と海軍
(1)マハンのシーパワー論

 1893(明治26)年10月21日の東奥日報は、内務大臣樺山資海軍大将(予備役)の次の談話を報じ、 樺山伯爵は海軍大臣・海軍軍令部長を歴任後に内務大臣となった人であり、 樺山内相の「この一言は特に信ずるに足るものに似たり」と、 陸奥湾に貿易港を開港することが極めて困難な状況にあることを報じていた。

 「近時、 県下において最重要の問題にして、 県下一般に注目するところは大湊の軍港と青森の貿易港との2件なるが、 その後大湊の軍港については種々の流説あり。 あるいは地盤が不適当なるため軍港とはならざるべしと伝うる者ありしが、 近日さらに伝うるところによれば大湊の軍港と青森の商港とは相両立せず、 もし湾内に軍港を置くとすれば貿易港を置くあたわず、 もしまた、 いったん青森を貿易港とすれば大湊には軍港を置くあたわず。 政府にてはこの両者の選択について目下考慮中であり、 そのため過般勅令をもって発布されたる6カ所の貿易港中に青森の見えざるは、 当地が貿易港たるの資格を欠くがためにあらずして、 右の選択の決定せざるためにして不日かならずその一に決すべく、 大湊の軍港成らざれば青森の商港成るべく、 青森の商港成らざれば大湊の軍港成るべしといえり(6)」。

 しかし、 それから16年後の1909年になると、 軍港に隣接した土地に商港を建設するのは秘密保持上から好ましいことではないにもかかわらず、 北辺の防備に責任を持つ大湊要港部司令長官の上泉司令官が、 「パナマ運河が開通し世界の大勢は一転し、 東洋貿易は一変するにもかかわらず、 これに対する覚悟がない」。 もし大湊の開港を放棄し「現状ノママデ推移致シマシタナラバ、 東洋ニオケル世界ノ商権ヲ握ル中心貿易市場ハ必ラズ上海アルイハ香港ソノ他『ウラジオ』ナドニトラレ、 ソノ基本的基礎ヲ彼等ニ確立セラレル様ニナツテ、 ワガ国家トシテ一千百年ノ後マデモ取リ返シノツカヌ馬鹿ヲ見ナケレバナラヌト存ジマス(7)」と、 大湊を東洋における世界の商権を握り貿易中枢にすべきであると、国防的観点や海軍の利益を無視して大湊要港部に隣接した田名部に商港を建設すべきであると大湊開港論を主張した。 なぜ、 海軍が大湊に商港を開港することを認めただけでなく、 積極的に支援さえしたのであろうか。

 それは、 マハン(Alfred Thyer Mahan)大佐の『海上権力史論』の影響にあったように思われる。
マハン大佐は海洋活動を行う商船隊や漁船隊、 それを擁護する海軍、 その活動を支える港や造船所などを「シーパワー(海上権力)」と規定し、 シーパワーの増大が産業を拡大し、 産業の拡大が海外市場を必要とし、 製品と市場(植民地)を結ぶため海運業が育つ。 しかし、 国際法は万能ではないので、 海運・貿易・市場を保護するため海軍力が必要である。 海洋を制する国家が世界の富を征し歴史を制する。 シーパワーが国家に繁栄と富をもたらすと論じた(8)。 この戦時のみならず平時における海軍力の価値の重要性を強調したマハンの著書を最初に日本に紹介したのは、 ハーヴァード大学に学んだ明治の国家指導者の1人でもあった金子堅太郎であった。

 金子は『海上権力史論』がアメリカで名声を博すると、 いちはやく「海上ノ権力ニ関スル要素」として抄訳し、 時の海軍大臣西郷従道に贈り、 それは1893(明治26)年7月号の『水交社記事』に「近来傑出ノ一大海軍書ニシテ、 独リ米国ノ海軍社会ノミナラス欧州各国ノ軍人社会政事家外交官の間ニ広ク敬迎セラルル珍書ナリ。 我社員ニ必読ノ書(9)」であると紹介され、 3回にわたって第1編全文が連載された。 このマハンの理論に衝撃を受けた日本は、 副島種臣を会長、 近衛篤麿を副会長、 尾崎行雄、 渋沢栄一、 犬養毅、 金子堅太郎、 小村寿太郎、 原敬などを評議員とする東邦協会が、 1896年に『海上権力史論』として全訳を出版した。 会長の副島種臣は序文で「吾国は海国也」と喝破し、 マハンの著作を熟読しマハンの力説する「制海権」を掌握するならば、 「日本は太平洋の通商を支配し、 海の守りを固め以て敵を征しえるであろうと説いた(10)。 日本がこのようにマハンの『海上権力史論』を歓迎したのは、 日本の工業化が進み、 さらに同年2月に明治天皇から宮廷費30万円を今後6年間軍艦建造費として下付し、 官吏にも俸給の1割を建艦費として拠出すべき勅諭が出されるなど、 国を挙げて海軍の建設を開始した時期と合致したからでもあった。 日本海軍がマハンを評価したのは、 マハンの理論を日本に適用し、 陸主海従の風潮を打破し大海軍を建設することにあった。 海軍大臣山本権兵衛は「将来ノ国防方針ハ海軍ヲ第一トナス(11)」と決心し、 海主陸従の世論の喚起に向かった。 山本は佐藤鉄太郎少佐(のち中将、 舞鶴鎮守府長官、 海軍大学校長)を1899年5月から2年間、 イギリス・アメリカに留学させ海防論の研究に従事させたが、 佐藤はこれに応え帰国すると1903年に『帝国国防史論』を著述し、 同書は同年10月28日には明治天皇の天覧に供された。 佐藤は『帝国国防史論』で、「今ヤ帝国ハ世界的発展ヲナスベキ機運ニ在リ。 而モ世界的ノ発展ハ.....海洋的発展ニ待タザルベカラズ(12)」と論述し、 ここにマハンの大海軍主義(Navalism)が日本に点火されたのであった。

  そして、 明治末期から大正初期には佐藤の『帝国国防史論』などの一連の著作が、 海軍を支えるシーパワーである港湾、 商船隊、 漁船隊を整備し造船所を起こし、 貿易を振興させて日本に富をもたらし、 それを保護する海軍を整備すべきであるとの海権論として広く国民にも理解されるに至った。 そして、 大湊興業の創設には大阪商船をへて神戸桟橋株式会社の社長となった南郷三郎(筆頭株主)、 北前船の船主で大阪の経済人の大家7平、 大倉組みの大倉喜八郎など、 この理論が国家発展主義者、 造船業者、 海運業者、 貿易業者、 自らの栄進を望む海軍軍人、 すなわち大海軍の建造と積極的な対外政策から利益を得ることのできる人々に歓迎され、 日本を海洋国家建設に、むつ湾一帯を「東洋の海王国」建設に走らせたのであった。
そして、 海軍は港湾の整備、 鉄道の敷設がシー・パワーを増大する1要素であると理解し、 大湊興業の創設のみならず、大湊興業の業務が開始されると、 発電機や船舶の修理などを要港部の修理工場が支援し、 ケガ人などを要港部軍人家族診療所で診断するなど協力した(13)。 また、 昭和に入り大湊興業が映画館を新設することになると、 要港部参謀長が「大湊町ニハ目下映画常設館無ク仮設的ノモノアルモ極メテ狭隘不衛生ニシテ、 軍人軍属等ノ出入ニ適セザルヲ以テ、 本申請ハ誠ニ時宜ニ適セルモノト認メ是非速ニ実現ヲ希望ス(14)」と県知事に副申書を書くなど、 側面から大湊興業の発展を支援したのであった。

(2)海軍と鉄鋼問題

 海軍が大湊興業の創設を支援したのは、 下北半島の鉱物資源開発への期待にあった。 第1次世界大戦による輸入の途絶が、 創業間もない日本の工業界に大きな打撃を与え、 「本邦在貨は暴騰を告げ、 昨今、 市内の薬商らに続々と京浜の取引店より入電あり。 石炭酸の外国品は3割ないし5割の高値を訴え来り。 二硫化炭素のごとき穀虫駆除薬品も目下、 需要期に向かいつつある折から既に値上げの入電あり、 戦乱の影響するところ甚だし(15)」という状況が臨海工業地帯を建設しようとする大湊興業の創設を助けた。 さらに、 大正初期は下北半島の金属鉱山の黄金時代で、 川内川上流にあった安部城鉱山は1917(大正6)年には鉱山事務員111人、 鉱山労働者1387人、 家族1745人を抱え、 川内は県下で青森、 弘前、 八戸に次ぐ人口を持つ町となっていた(16)。 安部城鉱山のほかに宿野部川の上流には大正鉱山、 西又鉱山、 岩滝鉱山、 佐井には大滝鉱山があり、 下北半島では鉱業が活気を呈しており、 さらに砂鉄、 石炭や硫黄も発見され新聞は「本邦一大合鉄材料の発見 東北の大資源は斗南半島にあり(福島民友新聞)」、 「東北の新富源 - 大合鉄材料発見 埋蔵量3万トン(岩手日報)」などと砂鉄鉱山の発見が報じられていた。 また、 石炭も発熱量4529カロリーから5282カロリーの低質泥炭ではあったが、 750万坪(2475万2M)の大鉱山が東通村で発見され、 電力についても十和田水力発電の建設が計画されるなど、 東北開発への夢や願望が実現しつつあった(17)。

 さらに、 第一次世界大戦の勃発により輸入品が暴騰し、 これらの諸国より供給を受けつつある輸入品は大打撃を被り、 輸入製品が不足し値上がりして国産化の必要性、 工業力の増強が強く認識されてもいた。 特にアメリカが参戦して兵器の生産が本格化すると、 鉄鋼の輸出が制限され日本の工業界はパニックに陥った。 この鉄鋼輸出制限措置は船景気で沸いた造船界にも海運界にも大きな打撃であったが、 予算は議会を通過したが鋼材の不足から88艦隊の建造も案じられる状況となるなど日本海軍にも大きな衝撃を与た。 海軍は大戦勃発1年後の1915(大正4)年10月2日に、 山屋他人中将(12月に森山慶三郎少将に交替)を委員長に臨時海軍軍事調査委員会を発足させたが、 さらに、 戦争が長期化し鉄鋼や工業製品、 特に工作機械や鉄材が不足し各分野に輸入減少による障害が生じ、 日本の科学技術や産業構造の弱点が表面化すると、 1917年6月5日には兵資調査会を設置した。

 この調査会の目的は海軍および民間の軍需工業力を調査し、 「軍需製造補給ニ於テ作戦上遺憾ナキ様、 平時ヨリ施設スヘキ事項及戦時実施スヘキ工業動員計画ヲ完成スルヲ目的トス」るもので、 この委員会では第1に戦時に必要とする軍需品の所要、 第2に原料(材料)の必要量、 第3に軍需工業用機械の必要量、 第4に海軍および民間の工業力(原料および材料を含む)の調査、 第5にそれを検討した上での軍需工業力増進の方法、 必要な備蓄量、 第6に戦時施行すべき工業動員計画などが検討された(18)。 この兵資委員会の調査結果は陸軍主導ではあったが、 「戦時又は事変」に当たり政府が軍需品について工場などの管理・使用・収用、軍需品の流通・移動・消費の禁止や、 使用・収用・労働力の徴用、 軍需品関係業者などに対する報告を命じ得る権限などを盛り込んだ「軍需工業動員法」としてまとめられ、 1918年3月4日には衆議院に提出され、 同月26日に可決成立を見た(19)。このような総力戦認識から海軍軍令部員の日高海軍謹爾中佐が次のように語るなど、 大湊興業の創設に期待を表してもいた(20)。

 「世界戦乱の影響は種々なる方面に波及し居るが、 就中工業界に及ぼしたることが非常なものである。 昨今海軍問題で議会に於いても製艦材料たる鉄問題で大分議論があるようだが、 工業の原素たるべき鉄は眞に国家問題であると同時に、 又海軍力とは離るべからざる緊要問題である。 将来我が国は鉄の自給自足の策を講じ、 速かに之が実現をしなければならぬ。......現今鉄の供給国としては支那などが有望であるが、 併し若し仮に一朝有事の際には之を輸入する上に於いて却々困難なことがある。 彼の英仏海峡の距離が甚だ近いに拘わらず、 戦争以来非常の勢力を集中して其の海峡連絡〔著者注:ドヴァー海峡〕の安全を計つて居ることは世人の知る所である。 然らば我が国なども有事の際などには相当の勢力を以て其の貿易を安全にすべく海軍力が必要である。 然し若し鉄の如き重要なるものが海を隔てたる外国より供給を受くる必要なく、 国内から生産し得るもののみで足るとせば、 其は吾人の最も理想とする処である。 .........伝える所によれば東北の一角の斗南半島に大砂鉱あつて、 其鉄質は含チタン性で鋼鉄材料と云えば頗る有望なるに相違ない。 特に同地は要港部があって相当の防備圏内にあるから、 製鉄所があっても万一の場合にも安全である。 将来は斯る建物は相当の防備ある処ほど安全である。 何とならば刻下戦乱に際しても交戦国の航空艦隊などは工場地を襲撃するを目的として居ることなどは之を証するものである。 有望なる鉄鉱あらばドシドシ之を採鉱して、 将来は必ず鉄の自給自足を実現さしむることは緊要問題と信ずる」。

3 大湊興業の創設とその時代

 次に大湊開港論が陽の目を見るに至ったのは、鉄道やパナマ運河の開通という交通の発展が背景にあった。 1904(明治37)年にはシベリヤ鉄道の全区間が開通し、 1914年8月14日にはパナマ運河が開通した。 また、 同年8月に勃発した第一次世界大戦がウラジオ航路を活気付けた。 新聞は「ウラジオ航路賑わう」との見出しで、「例年、 冬季における浦塩港は結氷のため、 航海はなはだ不便にして、 沈衰しつつあること常なるが、 本年は戦争の影響により露国における軍需品の要求痛切なるため、 航海の困難なるにもかかわらず、数多の砕氷船によりて航路を開き、 近来、 同港は著しく殷賑を極めおれり......従って、 同航路に従事する日本郵船、 大阪商船、 露国義勇艦隊各船は毎航満載の盛況を呈し、 運賃のごときも次第に騰貴しつつあり。 かくのごとく盛況を示しつつあるは未曾有の事なりという(21)」と報じていた。

 さらに1917年に締結された第4次日露協商が、 ソ連の鉱石や木材の輸入など日露貿易への期待を高めた。 経済誌の『東京興信所報』は「西シベリヤは鉱産豊富にして、 英国人は速くに着目し年々の投資額莫大に上るものあり。 本邦に於いては最近久原鉱業会社の計画あるに過ぎず。 蓋し露国鉱業法厳密にして外国人に対し容易に採掘を許可せざると、 従来日露両国国際上疎隔せる事情ありしと、 西シベリヤ地方に就いては一部の者を除き一般研究の足らざりしこと、 並びに同地方に於ける日本住民は殆ど賤業者及之に付随する徒にして、 曽て資本家の注意を喚起せざりしこと等の事情より概して閑却せられたる趣あり」。 西シベリヤに於ける鉱産地方中で特に豊富なのはエルクト県ヱーテム地方、 バイカル県のネルチェンスキーや沿海州などで、 ウラル以東の1ケ年の生産額はロシア全産額の4分の3を占めている。 石炭は西シベリヤ鉄道に沿いアルタイ、 ヘルガン沿海州北部ワンドラ、 樺太などに存在している。 とりわけ最良炭を産するのは沿海州中のスチャン炭鉱、 イルクト県のチェレムホースキー炭鉱およびトムスク県のアンゼルスキー炭鉱である。

 このほか、 銀、 亜鉛、 銅、 鉄などの各種の鉱産も豊で、 そのうえ宝石類も有望であると報じていた(22)。
しかし、 青森港の港湾施設は貧弱で貨物が停滞し、 東奥日報によれば「時局以来、 船腹不足の結果北海道と本土間の貨物悉く鉄道院の青森連絡船に依りて輸送せらるることとなり、 従って連絡貨物は常に函館青森の両駅に山積停滞しつつある状態にあり.....北海道の荷主よりは絶えず鉄道院に於ける連絡汽船を増加し、 函館青森の設備を完全にして輸送数量の増加を計らんことを希望し来つつある現状にあり。 由来青森は設備甚だ不完全にして連絡船は総て約1海里の沖に停泊しつつあり。 加ふるに天候の支障を蒙ること多く、 暴風雨雪等の場合は積卸作業最も困難を極むる為め、 常に所定の数量を実際に輸送する能はず(23)」と、 貨車から荷物置場へ、 荷物置場から艀へ、 艀より本船へ、 本船より函館の艀に、 艀より貨車へと6回も積み替えをしなければならない青森港の限界を報じていた。 そして、 原材料の自給自足態勢の確立の必要性が、 さらに第一次世界大戦による好景気が大湊興業の創設に味方した。 このため大湊興行の株式が売り出されると、 2万株の販売に対して2倍半の5万株の申し出があり、 50円の株式に7円のプレミアが付くほどの人気となり、 第1次募集の250万円の予定を280万円に修正したほどであった。 そして、 1918年6月15日に大湊興業株式会社は創設された(24)。

4 大湊興業の盛衰

 創設当初の大湊興業の事業は前述のとおり海岸を埋め立て、桟橋や倉庫の建設など単に貿易港を開港するだけでなく、 工場の誘致とそれにともなう市街地の造成、 ガス、 水道の敷設や陸運・海運に関する事業ならびに資源探索など奥羽地方の発展に資すべき諸事業に対する投資及び援助などであった。 創立1ケ月後の1918年7月12日からこれら事業は開始されたが、 最初に実施したのが事業用の土地の購入で、 購入した土地は132万坪(4399・5k2m)、 その広さは大湊湾に沿って7・8キロに達し、 社有地内に大湊、 田名部両駅があるという広大なものであった。 次いで1923年10月には田名部川沿いに既に7万坪(23・1万2m)を埋め立て、 ここに木造岸橋とシートパイルの岸壁を完成し、 1500トンの船舶が横付けできる埠頭を完成した。 さらに埠頭には搭載貨物を運ぶために埋め立て地を通過し大湊線に接続する鉄道が敷設され、 1923年11月1日から一般貨物の取り扱いを開始し、 1日4往復の貨物列車を埠頭から大湊本線まで走らせていた。 また1923年10月には入港船舶に供給するため給水用の自社水道(長さ2929m)給水栓2個、 1個の給水能力1時間20トンを敷設した。

 創業当時は東北地方に船舶を横付できる埠頭がなかったことから、 大湊は内地と北海道との中継港として年間100隻の船舶が入港し、材木、鉄材、 魚類、 雑貨など5万トンの貨物が取り扱われていた。さらに、 これらの埋め立て地を鉄道省(仙台鉄道局)、 三菱鉱業や三井物産が借地し、 蒸気機関車や連絡船用の石炭、 内航・外航船舶用の石炭として鉄道省が3万トン、 三菱が3万トン、 三井が2万トンを供給していた。 また、 大湊興業はこれら施設に必要な電力を供給するために大湊水電会社を創設し、 1926年6月13日に大畑正川に水力発電所(出力第1期700キロワット)を建設したが、 1927(昭和2)年には十和田湖に出力3万キロワットの水力発電所の建設願を提出した(資金の関係から別会社となった)。 さらに岸壁には大湊冷蔵倉庫株式会社が大湊興業と日魯漁業、 日東水産、 大倉組、 大湊水力発電会社が株主となり、 1927年3月28日に創設され、 8月には製氷能力100トンの製氷機をアメリカから3台購入し、 日露漁業株式会社の冷凍船によりカムチャッカから運ばれてくる鮮魚の冷凍を開始し、 冷凍貨車で東京方面に送っていた。

 しかし、 会社が創立された2年後の1920年には第一次世界後の不況が始まり、 3月には銀行の取り付け騒ぎがあり、4月10日には日本銀行が財界救済の「非常貸し出し」を声明するなどの経済的破綻が生じ、 さらに同年年9月1日には関東大震災が発生するなど経済情勢は一転した。 このため株式は第1期募集の280万円で中止され、 埋立工事など土地の造成も第1期計画で中止されてしまった。 関東大震災に続く金融恐怖、 対米貿易の急速な悪化、 1931年の生糸価格の暴落、 さらには青森港の整備の進展、 大湊興業の創設にかかわった創設者や支援者の連続的な死亡などによる影響からか、 地の利がなく気象条件にも恵まれなかったためか、 埋立地や購入した土地は借り手がなく、 その後の事業としては埠頭を利用した海運業や鉄道を利用した陸上輸送などに限定されていた。

 そのうえ、青森港の整備の進展もあり入港船も一向に増加せず、 1933年に至っても年間461隻(帆船64隻を含む)、 8万5300トン、 しかも1000トンから3000トンが14隻、 500トン以上6隻、 100トン以上が375隻で積み出す貨物も石炭、 木材、 魚介類と雑貨程度に過ぎなかった。 さらに昭和も進み10年代に入ると河川港であるため土砂が積もり、 入港船が底触し船会社から損害賠償や浚渫要望が出るなど、 港湾の浚渫整備も必要となるなど経営は厳しさを増していった(25)。

 このような不況に、 鈴木は1921年10月には再び東京から記者20名を招き大湊港の開発状況を報道させたが、 さらに政界に働きかけて1922年3月の第45回帝国議会で再度「大湊開港決議」を採択させ、 1924年6月には東北6県、 北海道の道県会役員連合会から大湊への兵器製作所の設置などを請願させた(26)。 1933年には県会および第64回帝国議会で、「東亜形勢の急迫は遂に満州国の建設を促し、 帝国独立承認は必然両国統制経済樹立の上に一新機軸を出さんとしつつあり」、 さらに「北鮮終端港たる羅津港の建設は現在清津港の情勢と相俟って、 日本海航路の画期的変革を見んとするや明らかなり」と、 「満州国ノ建設ニ伴フ北朝鮮内地間ノ直連指定港」とすべきことを議会で決議させた(27)。

 鈴木の政治力あるいは海軍と大湊興業の密接な関係を「直連指定港」審議の国会質疑から見てみると、 この法案に大蔵省政府委員が大湊港には1930年に1隻、 1931年に2隻しか外国船の入港実績がなく、 陸奥湾内には他に青森港もあり両港の競合も考慮すべきである。 さらに大湊は軍港であり「軍トノ関係、 要塞地帯トノ関係」をも考慮すべきであると否定的な意見を述べた。 すると本案を請願した藤井達也議員は、 青森港もあるが大湊港の方が青森港よりもアメリカとロシアとの中継港としては適した地理的位置にあり、 日本と満州、 アメリカとロシア、 アメリカと満州間の貿易の将来を考えれば、 大湊の方が重要になることを「断言シテ憚ラナイノデアリマス」。 また、 海軍の問題は「海軍ノ現当局諸君ニ能ク御尋致シマスルト、 絶対ソウ言コトハアリマセヌ、 海軍トシテモ此点ハ明言致シテ居リマスカラドウゾ此点ハ大蔵当局ニ於テモ御調ベヲ願イタイト思ノデアリマス」と、 海軍が異議がないことを断言している(28)。

 しかし、 この藤井議員の発言や予想とは逆に、 大湊港への企業の進出は1937年に日本特殊鋼管株式会社が下北半島の砂鉄に注目し、 18万坪(工場用地15万坪、 社宅3万坪)の土地を租借するまでは何ら進展することはなかった。 日本特殊鋼管は10月1日に工場の建物30棟、 6100坪の工事に着手し、 翌1938年11月19日に操業を開始したが、 職員110名、 職工300名、 常雇夫100名、 臨時工300名の合計800名で、 大規模な砂鉄精錬工場としては日本最初のものといわれ、 大湊海軍と並んだ地元における大組織で絶好の就職の場となった。 しかし、 5年後の1943年2月には企業合理化のため石原産業株式会社の経営下に入ったが、 間もなく閉鎖されてしまった(29)。

 次いで太平洋戦争が勃発すると、 埠頭地域には軍需部電纜及び兵器庫、 施設部第1材料集積場、 下北機銃砲台、 大湊支廠下北補給倉庫、 工作部田名部化工工場、 日本特殊鋼管跡には施設部下北製材所、 施設部下北機械修理工場などの海軍施設が次々と建設された。 また1943年に入り大量動員から既設の海兵団での教育が困難となると、 海老川地区(現在の下北駅前から市立田名部中学裏手に位置する緑町や海老川町一帯)に、 バラック建の兵舎の建設が始められ1944年8月31日には庁舎、 兵舎など建物57棟(述べ面積7万3300m2)が完成、 9月1日に大湊海兵団(団長神山徳平大佐)が開庁した。 なお、 海兵団の教育人員は水兵900名、 機関兵300名、 衛生兵150名、 主計兵150名、 総計1500名であった(30)。

おわりに

 大湊興業が目的としたものは大湊に東洋の一大自由貿易港、 さらには現代の臨海工業都市を開発しようとするもので、 その計画は極めて雄大なものであった。 この雄大な計画は不況のために資本金が880万円から280万円に減額されたが、 同時期に創設された北海道拓殖会社の資本金が200万円であったことと比べても、 大湊興業創立時の計画の大きさが理解できるであろう。 そして、 大湊興業は次の構想で創設された(31)。
1 米国商船の中継基地たること
2 対露貿易の基地たるこ
3 東北6県の海外貿易港たること
4 本州及び北海道との連絡地たること
5 北海道及び樺太の石炭集散地たること
6 東北6県の興業の中心たること

 しかし、 大湊興業が創設時に前提としていたこれら条件は、 ロシア革命による共産主義政権の出現、 ウラジオストーク港の軍港化、 1929年10月24日にニューヨークのウォール街を襲った株価の大暴落による景気の低落、 アメリカ、 イギリス、 フランスなど植民地を有する国の経済のブロック化などにより覆されてしまった。 特に資源のない日本では株価・物価の暴落、 工業生産の低落、 国際収支の悪化と日本経済は1931年には最悪の事態を迎えてしまった。 当時、 対米貿易総額の4割を占めていた生糸が、 レーヨンの発明とアメリカの大恐怖によって暴落、 1929年から1931年にかけて27億9600万円から16億9600万円へと約40パーセントも輸出が減少する世界的不況が創設間もない大湊興業を直撃したのであった。

 また、 本州 - 北海道の連絡基地となることや、 北海道・樺太の石炭基地となることも大間-大湊間の鉄道が進展せず、 科学技術の進歩が青森港の築港を可能とし、 1923年12月16日には青函連絡船の岸壁への横付が可能となり、 さらに1924年8月28日には防波堤など青森港の築港が完成し、 北海道への連絡港たることも青森港に奪われてしまった。 さらに、 下北半島に活気を与えていた銅山の閉山が始まるなど、 下北半島自体の発展に陰も生じていた。 安部城鉱山は1909年以降、 露天掘りによる採掘を開始し、 川内町には小学校や郵便局、 病院が設置され市街地が形成されるに至っていた。 しかし、 第1世界次大戦が終わると世界的な銅の価格の低下から採算割れが生じ、 1923年3月9日には阿部城鉱山が閉山された。 このように1918年に雄大な構想を持って動き出した東北開発はスタート5年にして関東大震災、 それに引き続く不景気などにより中止あるいは無期延期に追い込まれてしまったのであった。 しかし、 大湊興行が埋め立てた埠頭には「原子力船むつ」が係留され、 港湾都市の先人の夢は「むつ」の母港として昭和に実現した。 また、 埋立地や大湊興業が造成した市街地は都市化にともない現在のむつ市の市街地の中枢となり、 平成を迎えて花が咲きつつあるように思われる。 しかし、 現在では大湊興業を知る人は少なく、 『日本建築総覧』に大正の代表的建築物として紹介されている大湊ホテルのみが往時の面影を残しているに過ぎない。

脚注
(1)「大湊商港論」(むつ市史編纂委員会編『むつ市史 近代編(明治・大正時代)』(むつ市、 1 986年)1101頁。
(2)「東奥日報(明治27年6月26日)」東奥日報社『新聞にみる青森県百年史』(東奥日報社、 1988年)151-152頁。
(3)青森市史編纂室『青森市史 第5巻 港湾編』(青森市、 1956年)4-5頁および笹沢魯 羊『下北半島町村誌 大湊町誌』(名著出版会、 1935年)5-6頁。
(4)「大湊開港期成同盟会趣旨書」前掲『むつ市史 近代編』1080-1083頁。
(5)笹沢魯羊『下北半島町村誌 田名部町誌』(名著出版会、 1934年)138-141頁お よび田中誠一『むつ市 青森県町村史 11』(津軽書房、 1985年)128-133頁。
(6)「東奥日報(明治29年10月21日)」前掲『新聞にみる青森県百年史』156頁。
(7)エンテイ物語刊行会編『エンテイ物語』(エンテイ物語刊行会、 1983年)73頁。
(8)Alfred Thayer Mahan,The Influence of Sea Power upon History, 1660-1783(Boston:Little Brown,1889),p.711.
(9)「海上ノ権力ニ関スル要素」(『水交社記事』第79号、 明治26年7月)42頁。
(10)アルフレッド・マハン『海上権力史論』水交会訳(東邦協会、 1897年)序文。
(11)「斎藤実関係文書」国会図書館憲政資料室蔵。
(12)佐藤鉄太郎『帝国国防史論』(水交社、 1908年)877頁。
(13)「タルビン発電機修理之義ニ付御願(大正11年10月24日)」、 大湊要港部診療所長 海軍軍医須藤晋少佐「診断書」など多数の依頼文書が「重役往復重要書類綴」大湊興業蔵 にある。
(14)要港部参謀長「映画館新設ニ関スル副申(1941年)「大湊映画劇場関係書類」大湊興 業蔵。
(15)「東奥日報(大正3年8月8日)」前掲『新聞にみる青森県百年史』291頁。
(16)下北文化誌編纂委員会編『下北文化史』(青森県高等学校PTA連合会、 1989年)337-340頁。
(17)「東奥日報(大正7年2月8日)」「大湊興業株式会社新聞切抜綴」所収、 大湊興業所蔵。
(18)「兵資調査会調査要領」「大正6年 公文備考」巻3、 防衛研究所蔵。
(19)石川準吉『国家総動員史』(国家総動員史刊行会、 1983年)上巻、 2-3頁。『現代史 資料 43 国家総動員 T』(みすず書房、 1970年)資料解説XV。
(20)「下野日々新聞(大正7年2月14日)」「大湊興業株式会社新聞切抜綴」所収。
(21)「東奥日報(大正4年3月2日)」前掲『新聞にみる青森県百年史』。
(22)「東奥日報(大正7年2月9日)」前掲「大湊興業株式会社新聞切抜綴」所収。
(23)「河北新報(大正7年3月5日)」。
(24)前掲『エンテイ物語』76頁。
(25)「大湊興業株式会社要覧」(1933年ころのもの)大湊興業所蔵および拙著『大湊興業 株式会社小史』(同社、 1995年)34-42頁を参照。
(26)第45回帝国議会(1922年3月)「大湊開港決議」前掲『むつ市史 年表編』571頁。(27)「青森県大湊港ヲ開港シ港内ニ保税地域ヲ設置シ兼テ北鮮内地間直通航路指定港トセ ラレ度キ請願書」前掲『むつ市史 近代編』1126ー1128頁。
(28)第64回帝国議会建議委員会議事録 第7回(大正11年3月2日)『帝国議会 衆議院 委員会議事録 昭和編 31』(東京大学出版会、 1992年)534-535頁。
(29)前掲『むつ市史 近代編』1175頁。
(30)飛内進『太平洋戦争下の大湊警備府』(私家版、 1995年)下巻、 136-138頁お よび「社有地ノ一部ヲ海軍ヘ分譲ノ件」「大湊興業株式会社稟議書綴」。
(31)鈴木誠作「大湊開港ノ急務」前掲『むつ市史 近代編』1115頁。