松岡静雄ー南洋研究の先覚者
1879(明治12)年〜1936(昭和11)

1 生い立ちと主要経歴

 松岡は代々医者と儒学者をもって続いた松岡家の次男として、 明治12(1879)年に兵庫県田原村に生まれた。 幼少から聡明で4才のときには百人一首を総て暗記し、 小学校は程度が低くて習うことがないと殆ど登校せず、 中学には一応入学したがレベルが低いと2ケ月で退学してしまったという。 その後独学で漢学を学んでいたが、 日清の風雲が緊迫すると急遽数学と物理の参考書を購入して兵学校を受験、 明治27年に18才で入学した。 しかし、 海軍兵学校も程度が低かったためか、 在校中の居眠りは有名で時には机ごと倒れることさえあったという。 しかし、 成績は優秀で25期を主席で卒業したと言われている。なお、 兵学校同期にはロンドン軍縮時に海軍次官であったが、 条約の批准をめぐる海軍の内紛から現役を退いた山梨勝之助、 開戦時に日米交渉に当たった野村吉三郎大将など名士が多い。

 卒業後は軍艦出雲を回航するためにドイツに派遣されたが、 日露戦争では千代田航海長として参戦し、甚大な被害を受けた千代田を救い、 その沈着な対処が高く評価された。 戦争が終わった明治40年には兵学校教官に配置されたが、 2年後の明治42年にはクラスで最初の駐在武官としてオーストリアに赴任した。 オーストラリア在任中の3年半の間に、トルコの独立の父といわれたケルマ・パチャなどと親交を結び、 トルコ民族の独立運動にも深い同情を示したという。 また、 語学力は抜群で語学に関しては多くの逸話が残っている。 帰国後の大正3年には巡洋艦筑波の副長となり、 第一次世界大戦では第1南遣支隊がドツ東洋艦隊の追跡作戦に参加したが、 この行動中に巡洋戦艦鞍間・巡洋艦浅間・筑波の連合陸戦隊が10月7日にポナペ島を占領した。 このとき松岡は連合陸戦隊指揮官として兵383名を率いて上陸、 ドイツに雇われているニュギニア人傭兵が山中に逃れるなど治安に不安があったため、 占領後に帰艦せず守備隊長として10月22日まで残留した。

 しかし、 その後松岡は病を得て海軍省文庫主管として、 第一次大戦史の編纂に当たっていたが、 大正7年に病気を理由に海軍を去った。41歳であった。 退職後、 松岡は南方への夢を抱いて日蘭通交調査会を設立し、 ニューギニアなどの開発をオランダと提携して行おうと大正8年に訪欧した。 そして、 大正12年にはオランダとの間で合意した基本調査のため、 調査船「来嶋丸」を派遣し、 パラオ、ジャワ、ボルネオ、セレベス、ニューギニアなどを調査させた。この調査自体は成功した。 しかし、 調査船が帰国した前月には関東大震災が発生し、 松岡の日本とオランダの提携による事業は日の目をみるにはいたらなかった。 その後も松岡はオランダとの文化交流や友好親善につとめ、 その功績によりオランダ政府から叙勲されている。 しかし、 大正12年に再び健康(慢性腎臓炎)を害し鵠沼に引退した。 鵠沼では著述につとめ、 この間に多数の著作を書いたが、 昭和11年5月23日、 59歳でこの世を去った。

 松岡は自負するところ甚だしく、 兵学校教官のときには先任の島村速雄(のちの海軍大臣)に、 「頭のよいことを鼻にかけるな」と一喝されたと伝記には記されている。 また、松岡は病を得て海軍を去ったといわれているが、 自伝には「考える所あり願い出で海軍を退く。 此間当局に建白書を奉ること数度」と記されている。 何を建白したかは明確でないが、退職後に「欧州及印度南洋関係の好転をはかる」ため日蘭交通調査会を起こしたことから、 その建白は南進論であったが受け入れられず、 また病弱なことから指揮官への道を閉ざされたためであったかもしれない。また、 松岡はオーストリア滞在中、 ケマル・パシャなどの運動に同情し、 パシャなどに援助を求められると、 「この戦乱に飛入りて力の限り智の限り活躍するもまた男子の本懐なり」とも考えたが、 母国に残した家族を思い出し「ついに世界の桧舞台を思い止まらせ」たという。 このように松岡にはかなり熱血な志士的な面も強く、 それが海軍を去らしたのかもしれない。

2 主要著書
(1)南方語学の研究


 鵠沼に引きこもった松岡は文筆活動に没頭した。 松岡の文筆活動は主として48才から59才の15年間であったが、 この間に48冊の著書を残している。松岡の著書は大きく3つに分けられるが、 その第1は弟の柳田国男(柳田家の養子となった松岡家の次男)の影響からか、 民族学であった。 また、 初めて占領したポナペの印象が強かったためか、 最初の研究対象は南洋民族学であり、 南方言語の研究であった。 松岡が南洋群島に興味と関心を持ったのは、 松岡によれば日本は「人種平等の立場に立ち、 住民の福祉を増進する為に」国費を惜しまず忠実に国際義務を遂行し、 列国に対して日本の公正さを示すべきである」と、 ベルサイユ講和会議で南洋群島が日本の委任統治領となったという当時の時代的背景があったのかも知れない。

 松岡は滅びつつある民族の習慣、 文化や言語を収集研究する必要があるとし、 言語や民族学の研究に取り組んだ。 語学関係では『チャモロ語の研究』(郷土研究社、 大正15年、 153頁)、 『中央カロリ語の研究』(郷土研究社、 昭和3年、 264頁)、『マーシャル語の研究』(郷土研究社、 昭和4年)、 『パラウ語の研究』(郷土研究社、 昭和5年、 363頁)、 『ポナペ語の研究』(郷土研究社、 昭和5年、 頁数不明)、 『ヤップ語の研究』(郷土研究社、 昭和6年、 240頁)、 『ミクロネシア語の総合的研究』(章華社、 昭和10年、 565頁、 昭和12年復刻)が確認されている。 また、 この他に松岡がオランダと関係した時期には『和蘭語文典』(日蘭交通調査会、 大正7年、 206頁)、 『蘭和時点付属蘭語文法要録(日蘭交通調査会、 大正1年、 581頁、付録115頁)などを残している。

(2)南方民族学の研究

 松岡を南方研究者と先覚者として有名にしたのは、 南洋群島の文化や習慣などについて書いた民族誌であった。 しかし、 松岡が書いた民族誌は『南溟の秘密』(春陽堂、 大正6年)、 次いで『太平洋民族誌』(岡書院、 大正14年)、 『ミクロネシア民族誌』(岡書院、 昭和2年)など3冊に過ぎなかった。 とはえい、 昭和16年には『太平洋民族誌』、 昭和18年には『ミクロネシア民族誌』、 さらに戦後の昭和21年には『南溟の秘密』が養徳社から再出版されるなど、 これら総ての出版物が復刻されたことは、 松岡の研究の質の高さを表徴してはいないであろうか。 しかし、 これら調査に要する費用は大変なものであったであろう。 国際連盟協会発行の『国際知識(昭和2年6月号 第7巻第6号)』に、 これら南方民族学の調査研究は松岡個人の力では困難であり、 費用もかかるので有志の支援を期待するとの編集者の依頼文が掲載されていた。

 松岡の研究を支えた協力者としては、 利益を度外視して出版を引き受けた陸軍士官学校出身の岡茂雄が経営する岡書院の協力が大きかった。南洋群島領有後に資源に恵まれないことがわかると南進熱が急速に下がり、 高価な『ミクロネシア民族誌』を発行したため売れ行きは極めて不良で、 500部を印刷したが、 南洋庁が120部を購入した以外、 店頭で売れたのは100部に過ぎなかったという。このように民族学に国民の関心が低い状況であったが、 岡書院は民族学・考古学・人類学などの研究書を発行し続けた。 この岡氏の協力がなかったならなかったならば、 後世評価を高めた『ミクロネシア民族誌』は陽の目を見なかったであろう。岡氏の出版事業は10年ほど続けられた。 しかし、 当時の日本には人類学や民族学などの読者は少なく、 経営不振からついに破産してしまった。

(3)日本歴史への転向
 
 松岡は弟柳田国男の影響からか、 晩年は南洋民族学や語学の研究から日本民族学、 日本古代史や日本古語などの研究へと移行し、 『日本言語学』(刀江書院、 大正14年、 458頁)、 『民族学より見たる東歌と防人歌』(大岡山書店、昭和3年)、『起紀論研』で神代から建国編まで13冊、 外編として『古代歌謡』2冊など4500頁にわたる古代史を記述したほか、 『日本古語大辞典(語誌編)』(刀江書院、 昭和4年)、 『日本古語大辞典(訓話編)』(刀江書院、 昭和4年)、 『新編古語大辞典』(刀江戸書院、 昭和12年)、 『万葉集論究』(章華社、 昭和9年)、 『国体明徴上の一考察』(時事新報社、 昭和11年)などを著述した。 松岡がこのように短時間に多数の著書をまとめられたのは、 南洋群島の研究に関しては南洋庁や南洋群島派遣隊などの協力もがあったものとは思われる。 しかし、 松岡が著作に従事したのが病を得て鵠沼に隠遁した大正13年から昭和13年までの15年間であったことを考えると、 南洋群島派遣隊や南洋庁の協力はあったとはいえ、 その著作スピードとそのエネルギーは驚嘆に値するものであり、 松岡はやはり天才、 特に語学の天才であったのであろうか。

参考文献

清野謙次「南洋研究の先覚者松岡静雄大佐を偲ぶ」松岡静雄『ミクロネシア民族誌』(岩波書店、 1943年)
中村義彦編『松岡静雄滞欧日記』(山川出版社、 1982年)
海軍軍令部編『大正三四年海軍戦史』第5巻(海軍軍令部、 大正8年)