海上自衛隊の発足と展開(『呉市史』第8巻(呉市、1994年)

 この章では敗戦から呉鎮守府呉掃海部支部に始まり復員省、 海上保安庁、 保安庁、 防衛庁へと変転した掃海部隊を中心に海上自衛隊の誕生と変転を呉市との関係で記述した。 昭和20年11月30日に海軍官制の廃止にともない、 掃海部隊は転々と所属を変えたが、 掃海部隊の主力は常に呉に配備されていた。 それは、 瀬戸内海が日本の海上交通の動脈であり、 また瀬戸内海が機雷敷設に適したため、大戦中に大量の機雷がアメリカ軍によって敷設され、 終戦時にも多数の機雷が残存していたためであり、 また、 呉には帝国海軍時代に常に第1番艦を建造した日本海軍最高の科学技術を保有する呉海軍工廠があり、 その技術が機雷の掃海に必要であったからであった。

 掃海困難な水圧・音響・磁気機雷に対しては大型の筏を曳航して掃海する掃海筏隊や、 危険海面を航走し自ら触雷して処分する試航船が用いられたが、 筏掃海隊も試航船も4隻中3隻が呉の所属であった。 呉の掃海部隊は瀬戸内海の掃海が終わると、日本各地の航路港湾の啓開や日本海における浮流機雷の監視や処分、 海底に投棄されたイペリット弾薬や不発弾などの処理作業に従事したが、その技術は掃海作業を監督指導したアメリカ海軍からも高く評価されていた。このため朝鮮戦争が始まると、 連合国の要請により昭和25年10月10日から12月8日まで、 掃海艇延43隻、 巡視艇延10隻が朝鮮水域に派出されたが、 出動した掃海部隊の主力は旗艦の「ゆうちどり」、 試航船桑栄丸、 掃海艇8隻、 哨戒艇艇2隻など21隻中の12隻が呉所属であった。 また、 この出動中に元山に派遣された掃海艇の1隻が触雷沈没し1名の戦死者を出したが、 この掃海艇も殉職者も呉所属であった。
 
 一方、呉が戦後日本の掃海の中心基地であったため、 昭和23年5月1日には掃海部隊を中核として海上保安庁が誕生し、 さらに朝鮮動乱が勃発し占領軍司令官マッカーサー大将(にち元帥)から海上保安庁の強化が指示されると、 呉に海上保安訓練所、 海上保安大学校などが設立された。 他方、この指示で警察予備隊(後の陸上自衛隊)も創設されたが、 海上自衛隊の創設は対日理事会におけるソ連、 中国、 オーストラリアなどの反対、 また海上保安庁内にも別組織とすべきとの旧海軍派と海上保安庁を強化すべきとの運輸省派との対立があり創設が遅れ、 海上保安庁の付属機関として昭和27年4月26日に発足した。しかし、その2カ月後の7月1日には保安庁が総理府の外局として設立されたため、 海上保安庁海上警備隊は保安庁警備隊と名称を変え、 さらに昭和29年7月1日には防衛庁海上自衛隊へと掃海隊員は所属を変えた。 そして、 朝鮮動乱にも出動した田村航路啓開部長以下1415名の隊員と、「ゆうちどり」や「桑栄丸」、 掃海艇など76隻が海上保安庁から海上自衛隊に移籍された。

 しかし、 この警備隊の誕生が「旧軍港市転換法」を軸に「港湾平和都市」を建設しようとしていた呉市民に大きな議論を引起こし、さらに大きな変動を与えることになった。 この旧海軍施設をめぐり呉市と新設の海上自衛隊との間で施設の争奪戦が展開されたが、 特に市の中心地にある旧海兵団跡を自衛隊に使用を認めるかが、 産業港湾都市か海上自衛隊基地かの呉港の将来を決する問題でもあったため、 市民の間で激しい議論を繰り返させた。

 とはいえ、 産業港湾都市実現も厳しい現実に直面していた。 広島港の整備の進展や朝鮮戦争の終結を迎え、 駐留軍の撤退にともなう労務者の大量失業、 駐留軍相手の商店などの売上減少などによる不景気と、呉市は「第二の終戦」ともいえる経済的混乱に直面していた。 一方、警備隊が呉市で消費する金額は逐次増加しつつあり、 大量の失業者を抱える呉市にとり、 自衛隊の誘致は理想やイズムを越えた問題となってもいた。 昭和29年12月には呉商工会議所会頭から練習隊などの誘致を市長に陳情し、 年が明けた2月には市長と呉商工会議所会頭が呉総監を訪れ呉における警備艦の建造や、 江田島から呉への練習隊の誘致を申し出たが、 5月には上京し防衛庁、調達庁、大蔵省などに陳情した。 そして、 昭和29年7月1日に海上自衛隊が誕生し、 10月1日に呉地方隊が発足するとすると、 市民は「祝海上自衛隊」の立て看板を立て、 呉商工会議所は音戸から大名行列を招いて市中行進を行い呉総監部の誕生を祝った。 そして、 この日に変転を重ね、 朝鮮動乱にも出動した「ゆうちどり」「桑栄」や掃海艇8隻をもって第1掃海隊群が呉に新編された。

 呉航路啓開隊の技術と伝統が呉を機雷掃海のメッカとし、 それが呉掃海部隊を朝鮮動乱時には朝鮮水域へ、 湾岸戦争時にはペルシャ湾へ出動させた。 しかし、 海上自衛隊の誕生と展開が産業港湾都市の建設と競合し、 また、 軍港であったがため駐留軍の進駐・撤退など占領軍との間に多くの問題が生起した。 このように呉市の戦後史は戦後の日本が直面した戦後の混乱、特に占領軍との各種の問題、 朝鮮動乱にともなう航路啓開隊の海外派遣、再軍備問題など、呉市の戦後史は日本の戦後史の縮図であり、 呉の戦後史は一地方都市の戦後史ではない。この観点から本章は中央からの視点、 すなわち「日本の戦後史」からの視点を極力加味して執筆した。 しかし、 呉に掃海部隊の主基地があったがために、 海軍工廠の優れた火工技術と航路啓開隊の爆発物処理業務が爆発物の解体処理、 次いで自衛隊が誕生すると自衛隊に弾薬を供給する中国火薬を誕生させたが、 これらの経済的事項は省略した。 また、 海上自衛隊の消費する予算が呉市の経済に及ぼした影響、 高度な自衛艦の修理が呉の産業界に与えた技術的影響などについては省略した。

第1節 海上保安庁設立の経緯
1、 復員省呉掃海部の開設と活動

 ポツダム宣言を受諾し太平洋を広くおおっていた戦雲が消えた昭和20(1945)年8月21日から、内地所在の陸海軍部隊の復員がはじまり、 最後の呉鎮守府司令長官金沢正夫中将は、 「この度の敗戦は、 真にもって痛恨の至りにたえず........しかしながら前史に徴するに、 帝国海軍は、 10年を出でずして必ずや再建されるであろう。 されば、 未だ春秋に富む諸官は、 よくこのことを肝に銘じ、 自重自愛、 いやしくも軽挙妄動することなかれ(1)」と訓示した。 9月13日には大本営が、つづいて10月15日には海軍軍令部が廃止され、 11月30日には海軍官制の廃止にともなって、 77年にわたる海軍の歴史の幕が閉じられた。 そして明治22(1889)年7月1日の開庁以来、 56年におよぶ呉のシンボル的存在であった呉鎮守府が消えた。 海軍の解体にともない金沢鎮守府長官は11月8日に、 市長、 助役、 市議会正・副議長やその他の要人数名を、 焼け野原で料亭も食堂もなかったため、 西三津田町の三宅清兵衛宅の一室を借りて招待し、 「鎮守府開庁以来、 海軍は呉市に一方ならぬお世話になったが、 呉市に対しては酬ゆること甚だ少なく、 まことに申訳ない(2)」と謝した。

 昭和20年11月15日には、 「呉鎮守府管下ノ終戦業務ハ多事多難ノ実情ニ在リマシタガ幸ニ各所轄長ノ積極的陣頭指揮及部下一同ノ熱誠ナル努力ニ依リ極メテ適正且順当ニ経過シマシタ.......終戦関係要務ハ之ヲ白日ノ下ニ曝シ決シテ『後暗キ点』ヲ残シテ居ラヌコトヲ確信致シテ居リマスルト共ニ今後府務ハ復員局新設ニ伴ヒ其ノ新設機構ニ依リ従来ノ施策ヲ継承シテ充分遺憾ナク任務ヲ実施シ得ルコトヲ報告シ得マスルハ本職ノ大ニ欣幸トスル所デアリマス(3)」と報告書に記しを最後の海軍大臣米内光政大将に提出して呉をさった。 この間、 残務整理に残った旧呉鎮守府の幕僚や職員は、 10月2日に呉市下山手町40番地にあった水交社第二別館へ移転して占領軍への武器弾薬の引渡し、 復員、 引揚げ、 航路啓開などの諸業務をおこなっていた(4)。 そして、 これを追うかのように、 10月6日午後5時にウイリー陸軍少将が指揮する500名のアメリカ軍が鎮守府構内に進駐してきた(5)。

 一方、呉市は戦災に引きつづく水害に襲われ、昭和18年には40万4257名に達した人口も、 終戦の年には15万2184名に激減し死の町の様相を呈していた。また、 アメリカ軍の対日飢餓作戦(Operation Starvation)により、 日本および朝鮮周辺の海域に1万2135箇、 瀬戸内海にかぎっても6876箇(磁気機雷2200箇、 音響機雷2257箇、 低周波音響機雷363箇、 磁気水圧複合機雷2056箇)の機雷が敷設され(6)、 呉港への海上交通は完全に遮断されていた。

 この機雷攻撃に対応するため海軍は各鎮守府、警備府に機雷対策の専門家を配置するなど対機雷対策の改善につとめたが、昭和20年5月24日には呉海軍工廠に臨時機雷班を新設し、 収得機雷の調査、 諸対策の研究実験、 掃海具の開発や整備の促進をはかった(7)。そして、 戦争中は和泉灘、 播磨灘を大阪警備府(紀伊防備隊・大阪講和警備隊・神戸港湾警備隊)、 備讃瀬戸以西を呉鎮守府(呉港湾警備隊・徳山港湾警備隊・下関防備隊)、 しかし、 下関海峡については20年4月10日に第7艦隊を編成し、 これら部隊の哨戒特務艇(木造218トン・乗員32名)、 駆潜特務艇(木造122トン・乗員24名)や漁船により2064箇(掃海779箇、 自爆1254箇、 誘爆76箇、 触雷380箇、 陸上処分157箇)を処分した。 処分率は安芸灘では61パーセント、周防灘・伊予灘では56パーセントであったが、瀬戸内海の総平均処分率は30パーセントにすぎず(8)、 終戦時には日本海軍が敷設した防御用係維機雷5万5347箇とアメリカ軍が敷設した6546箇の機雷が日本近海に残っていた(9)。

 昭和20年8月22日には大湊から帰国する韓国人を乗せて舞鶴にむかった「浮島丸」(527トン)が舞鶴湾内で触雷沈没し524名が死亡、 9月29日には東京湾でアメリカの駆逐艦「ロッシュ」が触雷し3名が死亡し10名が負傷、 10月7日には関西汽船の「室戸丸」(1257トン)が大阪から別府に向かう途中に神戸魚崎沖で触雷沈没し336名が死亡、 10月1日には広島湾でLST−114号が触雷した(10)。 瀬戸内海には沈没した艦船のマストが上高地の大正池のように林立し「船の墓場」といわれ、 阪神から北九州にむかう船舶は紀伊水道から鹿児島経由が常識となっていた。 占領軍の進駐、 進駐部隊への補給、 また対日援助の食糧などの輸送、 さらに戦後復興に必要な物資の輸送のためにも航路や港湾の掃海が不可欠であった。 空からBー29爆撃機の姿は消え地上の戦争は終わったが、 日本周辺に投下された機雷はすべて作動状態にあり、 海底の戦争はいまだ終わっていなかった。未曾有の敗戦をむかえ混乱と虚脱の中で、 徳山港湾警備隊司令岡戸靖彦海軍大佐は「諸子は今日まで内海に敷設された危険な機雷の掃海作業に日夜辛酸をなめたのであるが、 終戦の日を迎えた今日この時から更に本格的な掃海隊員としての仕事が始まることを覚悟しなければならない。 これがわれわれ掃海隊員に課せられた責務であり、 国家同胞に報いる所以である(11)」と隊員に訓示した。 掃海隊員には新しい生死をともなう「戦後復興という戦争」のはじまりであった。

 掃海作業は戦後もつづけられていたが、昭和20年9月1日には8月19日の連合国軍最高司令部1般命令第1号(指令第1号)「一切ノ日本国ノ機雷、 機雷原其ノ他ノ陸上、 海上及空中ノ行動ニ対スル障害物ハ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ連合国軍最高司令官ノ指示ニ従ヒ之ヲ除去ス(12)」との命令、 および9月3日の「日本帝国大本営ハ一切ノ掃海艇ガ直ニ所定ノ武装解除ノ措置ヲ遂行シ、 必要ナル燃料ヲ補給シ且掃海任務ニ利用シ得ル如ク保存セラルルコトヲ確保スルモノトス。 日本及朝鮮ノ水域ニ在ル水中機雷ハ連合国最高司令官ノ指定海軍代表者ノ指示スル所ニ従ヒ除去セラルルモノトス(13)」との連合国軍最高司令部指示第2号を受け、 新態勢準備のため一時中止された。 その後、 9月11日には掃海が再開され佐伯防備隊が土佐沖、 9月23日には呉防備隊が広湾の掃海を開始した。

 一方、 9月15日にはアメリカ掃海部隊が豊後水道に到着、 19日にはアメリカ軍の指示を受けた海軍大臣から呉鎮守府司令長官に、 20日(のち22日に変更)に掃海部隊指揮官をアメリカ掃海部隊旗艦「エリソン号」に派遣し、 ラウド大佐の指揮を受け豊後水道から伊予灘をへて広島湾にいたる水路幅4000ヤードの掃海を実施するよう命ぜられた(14)。この指示を受け10月5日には広湾、 10月14日には土佐沖、 23日には豊後水道の掃海をほぼ完了し、 土佐沖で132箇、 豊後水道で650箇、 瀬戸内海で約64箇を処分した。 一方、 アメリカ海軍も第52・7掃海任務隊が豊後水道の掃海を開始し、 土佐沖で約140箇、 豊後水道で約1500箇、 瀬戸内海で4箇を処分した(15)。

2、 組織・兵力の変遷

 昭和20(1945)年10月24日および11月12日にはアメリカ第5艦隊司令長官スプルアンス大将の指示により、 日本の掃海艇全部が第52機動部隊(太平洋掃海部隊)指揮官ストラブル海軍少将の指揮下におくこととされ、 各地区のアメリカ掃海部隊指揮官がそれぞれの地区の日本の掃海艇を指揮監督することとなった(16)。 一方、 日本海軍も掃海作業を円滑に実施するため、 9月18日には海軍省軍務局に元海軍艦政本部第2部第2課長の田村久三大佐を長として掃海課を新編し、 10月10日には地方に6ケ所の地方掃海部と17の地方掃海支部を新設した。 なお、 改編前と改編後の組織および人員装備は2-1表のとおりであった。
    2−1表  終戦長後の呉鎮管下の掃海組織
                 人員 舟艇
   呉防備隊   849   哨特1・駆特4・漁船34・大発4・特型駆逐艦2
   徳山防備隊  642   哨特2・駆特3・漁船23・曳船3
   佐伯防備隊  931   哨特2・曳船4・大発2・敷設艇2・特型駆逐艦2
                  特別監視艇1・海防艦8
   下関防備隊 1053 特特2・駆特8・漁船18・大発16
   仙崎警備隊 64 駆特1・漁船2
  出所;呉鎮守府司令長官金沢正夫「呉鎮守府管下状況報告」昭和20年11月15日(呉 鎮守府・呉復員   局「終戦関係綴」昭和20年〈防研〉)。

 海軍省が廃止された昭和20年12月1日には海軍の残務を処理する機関として第2復員省が発足し、 海軍省軍務局掃海部は第2復員省総務局掃海課に、 地方の横須賀、 呉、 佐世保、 舞鶴、 大湊、 大阪の掃海部は6地方復員局掃海部および神戸、 下関、 佐伯など17の地方掃海支部と名称を変えた。 その後、 復員輸送が大部分完了したため、21年6月15日には第1・第2復員省が統合されて復員庁に縮小され、 第2復員省総務局掃海課は復員庁第2復員局総務部掃海課となり地方の掃海部は解隊され、 各掃海支部が各地方復員局掃海部となり、 呉は大竹、 大阪は阪神掃海部と改称された。 また、 掃海作業の進展にともない21年12月までに徳山、 佐伯、 仙崎、 佐世保、 7浦、 境、 新潟、 大湊などの掃海支部が解隊され、 22年10月15日には復員庁も廃止、 掃海部隊は総理庁に移管された。 さらに2カ月後の23年1月1日には総理庁が解体され、 従来の復員業務は厚生省復員局残務処理部に、 掃海および艦艇の保管にかんする業務は運輸省海運総局掃海管船部(部長・山本善雄元海軍少将)に分割移管され、 呉地方復員局の掃海および艦艇保管にかんする事務が運輸省中国海運局の下におかれることになり、 掃海部は大阪、 呉、 下関の3カ所に減少した(17)。

 当初の掃海兵力は海防艦(主として係維機雷の掃海に使用)21隻をはじめ、 昭和18年ころから建造された木造の哨戒特務艇や、 木造の駆潜特務艇から曳船、 漁船などをふくめ351隻(大発をのぞく)、 人員は1万9100名であった(18)。 掃海関係者は「公職追放令(連合国最高司令官覚書SCAPIN第550号)」からいちおう除外されていたが、 掃海作業の進展にともない徐々に追放され、 21年4月11日には328隻、6月には徴用漁船54隻が解雇され、 8月17日には係維機雷(海底から係留し接触したら爆発する機雷)の掃海が完了したことから海防艦の除籍がはじまり、 組織的にも支部を日本海方面は舞鶴のみ、 瀬戸内海は神戸、 大竹、 下関を残してすべて廃止するよう指示され、 8月末には8390名(士官638名、 その他7752名)から4469名となり、 12月31日には全国で試航船2隻、 駆潜特務艇17隻、哨戒特務艇13隻など45隻に縮小された(19)。

 兵力削減はその後もつづき昭和23年1月には復員局が廃止されていっきょに1508名に減少された。 さらに4月20日には掃海関係者中の追放該当者250名を、 6月1日から50パーセントに達するまで毎月5パーセントあて削減することが指示され、 10カ月後の翌年3月末には125名(掃海関係者92名、 陸上の管理関係者33名)に縮小された(20)。 削減圧力はその後もとどまることなく朝鮮戦争勃発1カ月後の25年8月7日には残余の士官92名(曹士1324名)中、 旧海軍士官の全員の解任指令が連合国最高司令官総司令部(GHQ:Genral Headquarters/SCAPの略称)民生局から発せられた。このように性急に学徒動員で招集された軍人までをマッカーサー司令部が追放するとは予想していなかったワシントン、 とくに国務省ではこの「公職追放例」をやり過ぎと感じていたものも多々あり、一方、日本政府は一日も早く航路を啓開したいため熟練した旧軍人を確保したいと考えていた。 しかし、 平和憲法の作成に大きくかかわりマッカーサーの信望のあついホイットニー准将が、 旧軍人は日本を平和的な方向に導いていけない人間であるとの強硬姿勢を崩さず(22)、 朝鮮戦争勃発一カ月後の25年8月7日には旧海軍士官全員の解任指令が発せられた。

 第2次世界大戦の終結とともにほとんど掃海部隊を解隊してしまったアメリカ海軍は、 朝鮮戦争がはじまると、 「日本は掃海作業に熟練した隊員を持った掃海艇及び掃海母船84隻を持っている。 これら掃海艇は小型でエンジン馬力は小さく消磁装置もないが過去5年間も機雷掃海に従事してきた。 これら兵力は日本本土水域の確認掃海に関し考慮すべき予備部隊であり、 エンジンの特性と掃海技術の改善と、 よく訓練された人員を維持するためのあらゆる努力をすべきである(22)」と、 航路啓開隊を国連軍の掃海予備兵力として期待した。 民主化を急ぐ民生局とのあいだできわどい交渉がおこなわれ4次にわたり解任延期指令が発せられ(23)、 航路啓開隊員は復員庁事務官、 海上保安庁事務官として講和会議をむかえ、 その後、 さらに警備隊・海上自衛隊隊員と身分を変えたのであった。

3、 航路啓開活動

 昭和21(1946)年9月13日には瀬戸内海主要一貫航路(航路幅1000メートル)が完了、 22年7月21日には航路幅は2000メートルに拡張された。 このようにして20年10月に掃海を開始してから22年12月まで瀬戸内海の主要航路の全部、 支航路の大半、 日本海方面の重要港湾8カ所などを啓開し、 937箇(掃海231箇、 自爆446箇、 誘爆7箇、 触雷100箇、 陸上処分153箇)を処分した(24)。 この間に20年10月5日には室蘭沖を掃海中の敷設艦「新井崎」が触雷(10名殉職)、 10月9日にはアメリカ軍から釜山港の確認掃海を強制された駆逐艦「栗」が触雷沈没した。 10月26日には玄界灘で「第2新生丸」(3名殉職)、 11月11日に周防灘で徳山掃海支部所属の「真島丸」(7名殉職)、 朝鮮海峡では日本が敷設した係維機雷を掃海中に海防艦「大東」が轟沈し艦長以下26名が殉職した。 さらに、 翌21年1月25日には壱岐沖で駆特248号が触雷し、 艇長以下14名の犠牲者をだすなど掃海部隊隊員には悲報に明け暮れる日々で、 終戦後から24年5月23日に掃海艇27号が関門海峡で触雷沈没するまでに、 掃海艇30隻が被雷し77名が殉職し200余名の負傷者をだしていた(25)。

 これら掃海作業の苦難も犠牲者が生じたことも大きく報道されることはなかった。それはアメリカ軍が実施した対日機雷敷設行為が、 明治40(1907)年10月8日にオランダのヘーグで調印された「自動触発海底水雷ノ敷設ニ関スル条約(26)」において、 敷設機雷は「敷設者ノ監理ヲ離レテヨリ長クトモ一時間以内ニ、 無害ト為ルノ構造ヲ有スル」(第1条)こと、 「商業上ノ航海ヲ遮断スルノ目的ヲ以テ、 敵ノ沿岸及港」(第2条)への機雷敷設の禁止などに大きく違反していたにもかかわらず、 当時は日本の国際法違反を裁く東京軍事裁判を実施中であったため、 掃海作業や触雷船舶などにかんする報道が厳重な報道管制下におかれていたからであった。

 国内は敗戦という未曾有の変動を受けて混乱し、 軍隊にたいする反感も強く掃海作業に従事した隊員は、 「公職追放に初まった根強くも無差別な軍人嫌悪の思想(27)」に悩まされていた。 しかし、 呉では旧海軍以来の親密な関係があり、 航路啓開隊が組織的にも小さく、 また掃海終了後には解隊され使用中の施設も市に返却されると考えられ、 昭和27年には地元の瀬戸内海汽船などから、 「広島湾宮島(厳島)周辺観光航路掃海に関する陳情書(28)」が提出されるなど航路啓開促進を望む声が強かった。 さらに新聞も、 「三水路開放......これにより〔呉の〕貿易港としての価値は非常に増大する(29)」とか、 「本年〔昭和27年〕1月4日から5月15日までの間に全国では128ケ所の航路泊地の安全宣言が発せられたが、 このうち呉航路啓開部管内が74ケ所もあり、 呉航路啓開部の隊員は航路や泊地という何時終るとも知れない掃海作業に人知れず黙々と連日真剣な努力を続けて」おり、「この掃海の蔭に全国各地77名の殉職者の尊き犠牲があることを忘れてはならない(30)」などとつねに好意的に報道されており、 航路啓開隊と市や市民とのあいだにとくに問題が生じることはなかった。

4、 YCクラフトと試航船

 昭和21(1946)年9月には瀬戸内海一貫航路(航路幅1000メートル)の掃海が完了、 前述のように22年8月には航路幅が2000メートルに拡張された。 しかし、 海底に敷設され設定された回数の船が通過しないと作動しない回数起爆装置が付けられた磁気、 音響や水圧感応機雷などを完全に除去するには数年はかかるといわれていた。この磁気と水圧を組み合わせた掃海困難な感応機雷にたいして、 アメリカ海軍は本国から4500トンの箱型の試航筏 ー YCクラフト(Egg Craft)を日本に運び、 かつて戦艦「武蔵」を入渠させた三菱重工長崎造船所の第7船渠内で組み立て、 21年4月に佐世保港外で曳航試験をおこなったところ「案外良好」な成績であったため、 アメリカ海軍はこの試航筏の運用を命じた。 これを受け4月25日には第1試航筏隊(海防艦26号・156号とYCー1204号)、 第2試航筏隊(海防艦40号・102号とYCー1205号)を編成し呉地方復員局に配属した。 しかし、 試航筏は旋回時や停止時には曳船を必要とするなど運用がむずかしく、 また7月から運用を開始したものの2回も被雷し破損してしまったためアメリカ海軍に返還されてしまった(31)。

 これにたいして戦時中に日本海軍の処分船のアイデアを実現したのが危険海面を航走し自ら触雷して処分する俗称モルモット船と呼ばれる試航船であった。 このアイデアを知ったアメリカ海軍は、 リバティ型やヴィクトリー型標準輸送船4隻を試航船として運用を開始し、 神戸では1発を処理するなど試航船の効果をみとめると、 昭和20年12月20日に第5艦隊参謀長ウエルボン少将は林幸一元海軍大佐を戦艦「ニュージャージー」に呼び試航船4隻の整備を指示した。 この指示に繰り返し日本側は社会的混乱下にあり精神的にも動揺しており、 平時に特攻隊的な試航作業に乗員を確保できるか問題があると回答した。 しかし、 参謀長は、 「米人ガ出来ルカラ日本人ニモ出来ルダロウ。 米側ニテハ此ノ様ナ作業ニ従事スル人員ハ得ラレアリ...指令ガ出テカラ相当ノ日子ヲ経過セリ速ニ完成スルヲ要ス」と強く実施をせまられ、 「貴意ニ副フ如ク努力スベシ(32)」と回答した。 問題は乗組員の確保であった。 当時の新聞は、 「人の命 一万円で買います 試航船乗員募集」との見出しで「この強行処理船は触雷必至の、 いわば戦時中の特攻機を思わせる特攻船であり、 乗員募集に困難をきたしている。試航船団総指揮官及び各船指揮官には旧海軍将校が既に決定済みだが、 乗員確保に困り果てた第2復員局は船員の身分、 待遇、 給与、 被服、 補給、傷害保障その他を旧海軍並みとし、 その上に掃海危険手当1万円を支給することにした(33)」と報じていた。

 横須賀艦船部から呼出しを受け人事課長から沈痛な面持ちで試航船への乗船を命じられた千葉新治(元海上保安大学校教官、 呉市在住)は、 「私の胸は騒いだ。しかしよく落ち着いて考えると、 私は戦争中、 何回となくこれが最後と思う出撃をしたが、 今まだ健在だ。 多くの先輩、 戦友、 後輩の静かに眠る海にもう一度行かねばならぬ......そう思って、 静かに課長に目礼して部屋を出た(34)」と述懐している。 実際に着任してみると人が集まらず、 占領軍から早急な運行を迫せまられ、 乗組員も足りない、 経験も技量も食糧も燃料もすべてに不足する船出であったという。

 一方、 責任を感じた林幸一元大佐は自ら試航船指揮官として「東亜丸(1万100総トン)に乗り組むことを申し出たが、 「東亜丸」、 「栄昌丸」(6800総トン)、 「桑栄丸」(2860総トン)には固有の乗員が乗船中であった。 これら乗船中の船員をそのまま雇用するか、 旧軍人と交替させるかの2案があったが、 当初は「東亜丸」や「桑栄丸」では「船長以下熱烈ナル意気ヲ以テ賛同(35)」したため、 艤装中であった「若草丸」(2860総トン)のみに旧軍人をあてることとした。 しかし、 試航作業が危険なことが判明すると全員下船を決定、 交渉に訪れた林元大佐は「東亜丸」では2回も船長から面会を拒否され、 「桑栄丸」では船長以下総員が林元大佐を囲みつるし上げ的団体交渉となった。 結局、 林元大佐の試航作業が祖国復興の先兵であり、 「終戦後ノ尊キ特攻部隊トシテ重要ナル任務(36)」であるとの説得と、 最終的には新聞報道のとおり、 「1人当たり1万円を支払う」という条件(口約束)でおうじたという。 だが、 その後に1万円という報酬が死亡時に支払われる見舞金であることが判明すると不満が高まり、 3月初旬に広島湾で試航訓練を終わり呉に入港すると林元大佐を1室に軟禁し、 呉地方復員局長に面会を強要するなどの騒ぎとなり、 3月下旬に北九州の試航を終わり佐世保に入港すると船長以下総員が退船してしまった。 このため試航船の乗組員は全員が旧海軍関係者と交代することとなった(37)。

 これら試航船は「若草丸」を除きいずれも呉地方復員局の下におかれ、 本格的試航作業は昭和21年4月から開始され、 9月5日には備讃瀬戸で「若草丸」が最初に機雷を処分した。 これら試航船は水深40メートル以上の海面を喫水の深い「東亜丸」、「栄昌丸」が当たり、 それ以下の海面を「桑栄丸」、 「若草丸」があたったが、 水圧機雷の機能消滅が明らかになると磁気機雷掃海終了海面の確認掃海に使用された(38)。 しかし、 掃海の進展にともない「東亜丸」が22年11月15日に、 「若草丸」が同年12月15日に雇船契約を解除され船舶運営会社に返還された。 また、 「栄昌丸」と「桑栄丸」は海上保安庁に引き継がれ、 「栄昌丸」は昭和24年11月29日に除籍された。 その後、 「桑栄丸」(29年12月1日に「桑栄」と改名)は海上保安庁から海上自衛隊に引き継がれ、 38年3月31日に除籍されるまで呉を母港として17年間にわたり掃海一途の道を歩んだ(39)。

脚注
1 堀之内芳郎『軍艦旗よ再び』昭和55年、68ページ。
2 鈴木登「呉市政回想」昭和55年3月。
3 呉鎮守府司令長官金沢正夫「呉鎮守府管下状況報告」昭和20年11月15日(呉鎮守府・ 呉復員局「終戦関係綴」昭和20年〈防研)。
4 呉地方復員局『呉鎮守府復員沿革史』昭和34年、 76ページによる。
5 呉鎮守府「進駐日誌」第1号、 昭和20年10月8日(呉鎮守府「呉進駐関係綴」昭和20 年〈防研〉)および前掲「呉鎮守府管下状況報告」10月6日の条による。
6 Arnold S Lott, Most Dangerous Sea:A History of Mine Warfare and an Account of U.S. Navy Mine Warfare Operations in World War U and Korea, 1959, p.228. なお 第2復員局掃海監部「掃海史 自昭和13年至昭和22年」、 24ページによれば全投下 機雷数は1万703箇、 そのうち瀬戸内海が6876箇(19ページ)、 防衛研修所戦史 室『戦史叢書 海上護衛戦』昭和46年、 558ページによれば、 日本周辺に1万127 7箇、 海上自衛隊作成『航路啓開史』によれば1万703箇(感応機雷)となっている。
7 海軍水雷史刊行会『海軍水雷史』昭和54年、 868ページによる。
8 同前、 870ページなどによる。
9 第1術科学校掃海科「航路啓開史」昭和58年(海上幕僚監部防衛部が昭和36年に作成 した「航路啓開史」を複製したもの)81ページ。
10 保安庁第2幕僚監部航路啓開部「日本近海における触雷船舶一覧」昭和28年、 付録「触 雷メモ」1〜22ページによる。 A.S. Lott, op.cit., p.254.
11 第1術科学校掃海科、前掲書1ページ。
12 終戦連絡中央事務局「終戦事務情報」第2号、 昭和20年10月、 9ページ。
13 同前、 13ページ。
14 海軍大臣より呉鎮守府長官あて第91930電、 昭和20年9月19日および官房普 第211542番電、 昭和20年9月21日、 「航路啓開史」、 呉海上自衛隊による。
15 前掲「呉鎮守府管下状況報告」および呉鎮守府「進駐日誌」第5号、 昭和20年11月4 日などによる。
16 前掲『航路啓開史』4及び21ページによる。
17 海上自衛隊二5年史編さん委員会『海上自衛隊二十五年史』昭和56年、 122〜12  3ページおよび第1術科学校掃海科前掲書19ー27ページによる。
18 掃海従事隻数については第1術科学校前掲書12および41-44ページ、 海上保安庁  資料「第二次大戦時日本近海米軍機雷敷設数」などによる。
19 第1術科学校前掲書43ページ。
20 同前、 28ページによる。
21 リチャード・B・フィン『マッカーサーと吉田茂』上巻、 平成5年、 139ページによる。22 Korean War U.S. Pacific Fleet Operations、 Interim Evaluation Report No.1,
Period 25 June to 15 November 1950, pp.1093〜1095アメリカ合衆国国立公文書館。
23 第1術科学校前掲書、29-30ページによる。
24 同前、 90ー91ページおよび鈴木総兵衛『聞書・海上自衛隊史話』平成元年、 13ペー ジによる。
25 第1術科学校前掲書、 43〜44、 159〜162ページおよびA.S,Lott, op.cit., p.256.
26 横田喜三郎・高野雄一編『国際条約集』昭和45年(改訂版昭和28年)、 323ページ。
27 呉地方復員部『呉鎮守府復員沿革史』1959年、 252ページ。
28 「広島湾宮島(厳島)周辺観光航路掃海に関する陳情書」昭和27年4月11日、 海上自 衛隊呉地方隊史料館。
29 『中国新聞』昭和24年3月14日。
30 『中国日報』昭和27年7月20日。
31 前掲「掃海史」52-60ページ、 第1術科学校前掲書、 56-58ページおよび鈴木総 兵衛前掲書、17ページなどによる。
32 掃海船(試航船)東亜丸指揮官林幸一「申継覚」昭和21年3月1日、〈千葉新治氏提供〉。 33 光岡 明『機雷』昭和57年、 370ページ。
34 千葉新治「モルモット船」(『海の世界』第5巻第2号、 昭和33年2月、 48〜49ペー ジ。 なお試航船については、岩本 清「まさに モルモット」(『あゝ復員船ー引揚げの哀  歓と掃海の秘録』平成3年を参照。
35 前掲「申継覚」17ページ。
36 同前、 19ページ。
37 第1術科学校前掲書、 50〜51ページによる。
38 前掲「掃海史」52〜53ページによる。
39 第1術科学校前掲書、 51〜53ページによる。

第2節 海上保安庁の創設
1、 海上保安庁呉航路啓開部の開設


 
海軍の解隊により日本の海上保安機能が弱体化し、 密漁、 不法出入国、 密貿易などが横行し海事法規の多くは死文化していた。 このような「海の無法状態」の打開をはかるため国内には水上監察隊の設置案、 水上警察を強化する案、 水上保安局を創設する案など種々の動きとこころみがあった。 これにたいして、 海上治安強化案は海軍再建につらなるとして占領国の一部に警戒心が強く、 いずれも具体化しなかった。しかし、 朝鮮半島からの20万名の密入国者(1)に直面し、 さらに韓国に発生したコレラが密入国者をつうじて日本に蔓延するおそれが生ずると、昭和21(1946)年6月12日にGHQから不法入国抑制にかんして緊急措置を講ずることが指示され、 この指示を受けた政府は7月1日に運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部を、 九州海運局に不法入国船舶監視部を発足させた。 とはいえ、 より急を要する復員輸送や掃海業務もあり、 割り当てられた船は外洋行動にはむかない低速の曳船3隻と港務用小型船13隻にすぎなかった(2)。

 GHQは日本の海上保安態勢を調査し対策を樹立するため、 昭和21年3月にアメリカ沿岸警備隊からフランク・E・ミールス大佐をまねいていたが、7月3日にはミールス大佐から運輸省海運総局に水上保安組織をつくる勧告が提出された(3)。 しかし、 再軍備を警戒するGHQ民生局や極東委員会のソ連代表キスレンコの、「海上保安庁の設置は日本海軍復活の前兆だ」との反対、 中国やイギリス、 オーストラリアなどの危惧のため、 職員総数1万名以下、 船舶は125隻で5万総トン以下、 各船艇は排水量1500排水トン以下で速力は15ノットを超えないことなどの制限が科せられ、 さらに、 「海上保安庁法」第25条に、 「この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、 訓練され、 又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない(4)」と明記することをGHQから要求された。

 
また、運輸省が水上警察、 水上消防、 漁業監視などの広範な業務一切をとりしきることに関係官庁が抵抗したため調整に手間どると、 昭和23年2月12日にGHQは日本政府代表(終戦連絡中央事務局次長)を呼びつけ運輸省作成の海上保安庁法案の実施を要求した。 このため3月18日に関係各省の次官会議を開き、 運輸省から灯台局、 旧海軍から水路部、 海運総局掃海管船部を移管し、 5月1日に海上保安庁が難産の末に誕生(5)、 これにともない第2復員庁から海上保安庁に試航船2隻(「桑栄丸」、「栄昌丸」)、掃海艇34隻、曳船など17隻、 人員1508名(幹部184名)が引き継がれた(6)。 なお、 海上保安庁の創設により掃海業務は保安局掃海課、 ついで24年6月15日には警備救難部掃海課が新設され、広島には広島海上保安本部が開設され、 呉には呉掃海部がおかれ池端鉄郎一等保安正(元海軍中佐、 のち海上保安庁、 呉市在住)が初代掃海部長に任命された(7)。

 
一方、終戦時に海中に投棄された旧陸海軍の兵器、 弾薬などの銅や真鍮が「光り物」として高価に売れはじめると、 漁民は漁業より弾薬の引揚げに奔走するなど「光り物」ブームが生じ、 無許可でスクラップにしようとして爆発事故があいついだ。 このためGHQは昭和25年2月6日に占領軍覚書SCAPIN第2077号を発し、 海上保安庁に掃海のほかに沈船や航路障害物の除去、 海中にある一切の爆発物の処理および陸上にある機雷処分の任務を付加した。 これにともない海上保安庁が爆発性危険物の民間業者による引揚げと解体作業、 入札契約から違法引揚げや解体の取締り、 承認された解体工場にたいする指導監督にいたるまでをおこなうこととなった。 そして、 これら業務の増大にともない6月1日には警備救難部から掃海課がきりはなされ付属機関として中央に航路啓開本部、 地方に航路啓開部が設置され田村久三掃海課長が本部長に任命され、 呉航路啓開部長には池端鉄郎が引きつづき任命された。 また、 この機構改定にともない全国が第1から第9管区本部に分割され広島海上保安本部は第6管区本部となった(8)。

 昭和25年11月1日にはマッカーサー書簡を受け海上保安庁の強化がおこなわれ、 新宮地区に海上保安訓練所が、 翌年4月1日には海上保安大学校(校長・伊藤邦彦、のち海上幕僚監部副長)が東京の越中島に設立されたが、 同校は翌年5月1日に呉に移転した(9)。 この移転は、 呉市の要請を受けた時の大蔵大臣池田勇人が呉を強く押し、 「鈴木呉市長の斡旋もあり.....私〔大久保武雄海上保安庁長官〕の母校旧制五高の先輩池田大蔵大臣に敬意を表し(10)」決定したという。 鈴木術市長は当時は新しく誕生する海上警備隊の幹部の教育もおこなうという構想であったため、 呉市への移転後の最初の入校式では海上保安大学校は、 「呉市民20万の名誉であり誇りである。 殊に過去60年軍港の歴史を有する当呉市民にとっては懐しき極みである(11)」と歓迎の辞を述べた。 なお、 この呉移転に学校当局は東京でなければ良い教授陣をむかえられない。 東京から離れると社会人常識人としての教育が不十分となるなどと、 「最後まで、 あらゆる方策によってねばったが、 天下の大勢を変えるにいたらず、 矢尽き刀折れ(12)」て東京近郊をあきらめ呉市に校地を選んだという。

2、 航路啓開活動

 触雷事故はその後も跡をたたず、 昭和23(1948)年1月28日には岡山県牛窓沖で関西汽船の女王丸が触雷沈没し193名が死亡し、 5月23日には下関海峡満珠島東方海面を掃海中のMS27号が触雷沈没し機関員4名が殉職、 重軽傷3名の事故が、 翌24年2月3日には同じく関西汽船の新居浜丸(353トン)が触雷沈没した。 広島湾においても22年10月11日および23年5月19日に漁船が触雷沈没し2名が死亡、 23年9月20日には「えいじゅん丸」(2156トン)が中破するなど、 依然として触雷事故がつづいていた(13)。 なお、 終戦から28年に航路啓開業務が保安庁に移管されるまでに触雷沈没した旧海軍艦艇は5隻(1770トン)、 一般船舶は85隻(6万8691トン)、 損傷した旧海軍艦艇は8隻(1万175トン)、 一般船舶は67隻(11万8623トン)、 死亡者は1294名(行方不明を含む)、 重軽傷者402名であった(14)。

 また、 終戦後から25年3月までの沈没・損傷艦船の年度別被害状況は2ー2表のとおりであった。
        年度別感応機雷による被害状況
     昭和20年 21 22 23 24 25年3月まで 合計
沈没   32  8  9  5  1    0  55
損傷   34 10  7  5  6    1  63
合計   66 18 16 10   7    1 118
 出所:第1術科学校掃海科「航路啓開史」昭和58年、 145ページ。

 また、 大戦中から昭和28年に掃海業務が海上保安庁から海上警備隊に移管されるまでの掃海実績は、 主要港湾・水路180カ所の啓開をふくみ約5250平方キロメートル(危険海域の16・8パーセント)であり(15)、 その詳細は2−3表のとおりであった。
        機雷処分の実績
     終戦前 復員庁閉庁前 保安庁開設まで 小計 総計
掃海処分 1327   231      13 244 1571
 自爆 1563   446      0 446 2009
 誘爆   76     7       0   7   83
 触雷  513   100     18  118  631
陸上処分  678   153     11 164  843
 総計 4157   937     42 979 5136
      出所;同前、111頁

 このように掃海の進展にともない、 昭和27年5月15日までに180カ所の航路や港湾の安全宣言が発せられ、 外航船が直接物資を必要とする港湾に入港することが可能となり、 掃海を完了した港へ輸入し、 そこから鉄道やトラックなどで運ぶ必要がなくなり、 これにより年間250億円の経費が節約されたという(16)。
また、 昭和天皇の敗戦後の行幸がはじめられ、 昭和25年3月には四国行幸が計画されたが、この時に島民の希望から小豆島もご視察されることになり、 急遽、呉航路啓開部に土庄港の掃海が命じられ、 呉から「ゆうちどり」と掃海艇6隻が派遣された。 この昭和天皇の巡幸を機に海上保安庁では掃海作業を天覧に供することとし、 3月15日に播磨灘で姫野修掃海隊指揮官が率いる掃海艇24隻による磁気掃海展示がおこなわれた。

 池端呉航路啓開部長は天皇の乗船する関西汽船「はやぶさ」に乗船し、 5式掃海具による掃海法の説明をしたが、昭和天皇は、 「話を聴くと危険な作業のように思うが殉職者は何人か」とか、「今、 殉職者の遺族はどうしているか」、 「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい(17)」との言葉があり、 さらに、 その後、 大久保武雄海上保安庁長官をはじめ田村久三航路啓開本部長、 各管区航路啓開部長などを宮中にまねき慰労の言葉を与えたという(18)。 また、 講和条約も結ばれ独立国となり占領軍に気をつかう必要がなくなると、 掃海従事者の業績にたいする感謝と敬意が生まれ、 「掃海業務中道にして不幸壮烈な殉職を遂げた77名の尊い犠牲者」に哀悼の意を表するとともに、 「国家再建の尊い礎石として散った殉職者の偉業を永く後世に伝へ、 その霊を慰める」ため慰霊碑を建立したいとの趣意書が、 全国32の港湾都市の市長が発起人となって発せられ、 吉田茂総理大臣が揮毫した掃海殉職者の顕彰碑が26年6月23日に金刀比羅宮に建立された(19)。

3、 朝鮮戦争と呉航路啓開隊
(1)出動命令の派出

 昭和25(1950)年6月15日に北朝鮮軍が38度線をこえ朝鮮動乱がはじまったが、 重火器や戦車に欠ける韓国軍とアメリカ、 イギリス、 オーストラリア軍などからなる国連軍は後退に後退をつづけていた。 釜山橋頭保においつめられた国連軍の運命は風前のともしびであり、 世界は、「ダンケルクのアジア版」がおきるであろうと予想した。 この絶望的な軍事情勢を一転させたのが、 9月15日の仁川奇襲上陸作戦であった。 仁川に上陸した国連軍は1週間で京城を解放し、 勢いに乗じた国連軍総司令官マッカーサー元帥は東海岸の元山上陸作戦を計画し10月15日を上陸日とした。 これにたいし海軍力に劣る北朝鮮軍はソ連の援助で朝鮮各地の港湾に3000個の機雷を敷設していた。 陸上部隊を支援する艦砲射撃をおこなうためにも、 朝鮮各地に進撃した国連軍への補給を確保するためにも、 また北朝鮮軍を東西から分断するために元山への上陸作戦をおこなうためにも、 多数の掃海艇が必要であった。 しかし、 アメリカ海軍は大部分の掃海艇を本国に引き揚げており、 極東所在の掃海艇は4隻の鉄鋼製掃海艇(3隻は保管船状態)と6隻の木造補助掃海艇しかなく、 そのうえ実際に機雷戦を経験した士官も兵も復員、 帰国していた(20)。

 一方、 日本には終戦以来絶えることなく掃海を継続し、 アメリカ極東海軍参謀副長のバーク少将から、 「日本掃海隊は優秀で私は深く信頼している(21)」と過大に評価された、 つねに即応態勢の掃海部隊があった。 そのため、 8月23日には極東海軍司令官から連合国最高司令官あてにこれら掃海隊員を確保するため、 旧軍人の追放令適用期間を同年11月31日まで延期する申請が密かに提出されていた(22)。

 昭和25年10月2日に、 アメリカ極東海軍司令部参謀副長アーレイ・バーク少将は大久保武雄海上保安庁長官を呼び朝鮮における戦況を説明したのち、 上陸作戦がせまった元山沖と仁川港の機雷掃海を支援するよう要請した。 この要請に大久保長官は、 「ことは重1人で決められるような問題じゃなかった(23)」ので、 ただちに時の総理大臣吉田茂をたずね指示をあおいだ。 日本が拒否すればアメリカの不快感を高め、 当時ダレス特使とのあいだですすんでいた講和条約締結交渉に悪影響をあたえる可能性があった。 きびしい選択をせまられた吉田総理は、 「国連軍に協力するのは日本政府の方針である(24)」と、掃海艇の派遣におうじた。総理の指示を受けると大久保長官は、 同日ただちにつぎの命令を発した。

 (タナ32)25・10・2
 本文 米側の指令により朝鮮海域の掃海を実施することとなりたるにつき下記により船艇 を至急門司に集     結せしめよ。
     1、 6日(金曜日)朝釜山に向け門司出港すべきもの
       掃海船10隻、 母船1隻
       呉 駆特5隻(内1隻佐世保に派遣中)
         哨特1隻 母船1隻
       下関 哨特1隻
       大阪 駆特3隻 計11隻
    2、 引き続きなるべくすみやかに門司発釜山に向うもの
      小樽 哨特2隻(現在横須賀に派遣中)
      名古屋 駆特2隻( 同右 )
      呉 駆特2隻( 同右 )
      哨特1隻( 同右 )
      駆特1隻
      新潟 駆特1隻 計10隻
   3、 出港前の諸準備については後電す(25)。

 一方、 『バーク大将伝』によれば、 この経緯がつぎのように説明されている。 バーク少将は大久保長官に、 掃海作業というのは中立国の商船が戦時禁制品以外の物資を交戦国に輸送するのと同じで、 敵対行為ではなく、 新憲法に違反しないと繰り返し説得した。 しかし、 大久保長官はこの問題は自分の権限外で、 総理大臣しか決められぬと繰り返し答えるだけであった。そこでバーク少将は、 ただちに吉田総理を官邸に訪問した。 そして、 総理との会見では、 「日本人に依頼する場合には高圧的態度を取るべきでない」との野村吉三郎大将の忠告を思いだし、 「掃海艇を派出せよ」との強圧的表現をさけ、「掃海艇がなければ国連軍が敗北するかもしれない。 それは日本に不幸な結果をもたらすであろう(26)」と間接的に表現した。 これにたいして吉田総理は、 日本人特有の否定とも肯定ともとれる回答をしたが、 この要求におうじた。 しかし、それは要望した50隻ではなく半分の25隻であった。

(2)出動への不安と不満

 この命令を受けると大阪方面の掃海に従事していた呉磁気掃海隊の4隻は、呉に寄港することなく夜航海で下関に直行した。 下関につくと、 日本掃海部隊は第95・66部隊として、アメリカ第7艦隊司令官の指揮を受けること、 船名および隊番号などを示すマークはすべて消去すること、 日の丸のかわりに国際信号旗E旗を揚げることおよび朝鮮水域における10項目にわたる機雷情報と12項目の安全守則を知らされた。 そして、 これを聞いた各艇長のあいだには今回の掃海が朝鮮海峡の単なる浮流機雷の掃海ではなく、 朝鮮戦争そのものに参加させられるのではないかとの疑問と不安が広がった。 当時は国連軍が劣勢であり、 時として北九州地方に空襲警報が発令され、 市民に戦争の悪夢を思いおこさせていた。 呉磁気啓開隊指揮官代理であった田尻正司(のち海上自衛隊、 海将補)は、 今回の任務は、 行く先は、 行動についての大義名分は、 海外で米軍の指揮下にはいる場合の身分は、 万一の場合の補償は、特別任務にたいする手当は、 と質問したが明確な回答はえられなかったという(27)。 第2次派遣隊として元山にむかった相川一守によれば、 10月6日にいたっても田村本部長をはじめ課長などのとった措置がはなはだあいまいなものであり、 万一災害があった場合はだれが保障するのか、 長官さえ知らぬかもしれない元山までなぜいかなければならないのかなどの疑問がとけないままに、 さらに修理がまにあわなければ朝鮮に行ってから直せというあわただしい出動であったという(28)。

 一方、 当時第6管区海上保安部呉航路啓開部所属のMS06号艇長であった有山幹夫(のち海上保安庁)は、 「戦争に巻き込まれる恐れが多分にある。危険性も高い。このような状況で、 部下を連れて行くことはとても出来ない」と荷物をまとめて船をおり、 部下も全員があとにつづいた。しかし、 有山艇長は海軍兵学校の先輩である池端鉄郎呉航路啓開部長に、 「理屈を抜きにして全体の士気のために自説を曲げてくれ」と口説かれ、「先輩にこうまで言われると、いやとはいえない海軍の連帯感(29)」から出動したという。当時、 世間では挙げて戦争を憎み、 日本が戦争をやったからこの敗戦の苦しみにあえいでいるのだという風潮に満ちており、 平和憲法が成立し世は平和ムードにあふれている時に、 もはや軍人でない単なる運輸省事務官が突然「出動命令」を受け戦争に参加せよと命ぜられたのであった。 出動を伝え聞いた家族が岸壁に横付けしている船から主人を捜しだし、涙ながら戦争が終わったのに、いまさら外国の戦争に参加することはないと口説いた。 終戦だというのに、 また外国の戦争に参加するのか。 また命を的に戦うのか。 もうそんなことはこれきりにしてもらいたいというのが家族としての偽らざる心情であり、 突然、 元山にむかう第2掃海隊(掃海艇4隻と巡視船3隻)の指揮官に指名された第5管区航路啓開部長能勢省吾(初代呉基地隊司令、 海将補、 のち横須賀市議会議長)は、 家族たちの気持ちがかわいそうでならなかったと回想している(30)。

(3)掃海艇14号の触雷沈没

 下関到着後に朝鮮半島東岸の元山に直行することを命じられた呉磁気掃海隊と巡視船3隻は、 能勢省吾を指揮官に昭和25年10月8日午前4時、 特別掃海隊総指揮官田村久三航路啓開本部長乗艇の「ゆうちどり」を先頭に元山にむかい、アメリカ海軍の指示で11日から掃海作業に従事した。 そして、 翌12日にはアメリカ海軍の掃海艇とともに掃海しながら元山港内に進入するとまもなく、 アメリカの掃海艇「パイレーツ」、 つづいて「プレッジ」が目前で触雷沈没し死者12名と負傷者92名をだした。 このため掃海は一時中止されたが、 上陸作戦実施期日がせまっていたため、 10月17日にはふたたび湾内の掃海が再開され、 それまでに3箇の機雷を処分した。 午後15時21分、 掃海具を曳航しながら湾内にすすんだ駆潜特務艇第14号(艇長・石井寅夫)が接雷し瞬時に沈没、 甲板員(炊事担当)の中谷坂太郎が死亡し2名が重傷、 4名が中傷、 9名が軽傷を受けた(31)。 掃海を中止して旗艦「ゆうちどり」に集まった各艇長は、 「約束と全く違う、 米軍の作戦上の要求に基づく任務とはいえ、 だまされた(32)」とか、 「戦争に之以上巻き込まれたくない。 掃海を止めて日本に帰るべきだ(33)」と掃海中止を主張した。

 田村総指揮官や能勢指揮官はアメリカ軍から機動艇を借用し、 小型艇による事前の浅深度掃海を実施したのちに、本格的掃海をおこなう日本式小掃海に変更することで各艇長を説得し、 現地の掃海部隊指揮官スポフォード大佐から了承をえた。 しかし、 その後に前進部隊指揮官スミス少将から、今から小掃海をおこなう時間的余裕はないので当初予定したとおり対艦式大掃海をすみやかに実施せよとの命令がだされ、 日本側要求はくつがえされてしまった。 日本側は18日にも再考をもうしでたがスミス少将の回答は、 「15分以内に内地に帰れ、 しからざれば15分以内に出港して掃海にかかれ、 出港しなければ撃つ(34)」という強硬なものであった。 能勢指揮官は、 再度艇長たちに、 「何とか方法を考えて掃海を続行することを考えようではないか」と説得したが、 各艇長の決意は固く誰1人おうじなかった。15分以内に出港しなければ砲撃すると誤解(35)した能勢掃海隊は、 機関故障で修理中のMS17号掃海艇を横抱きにし、 補給艦ルーズベルトからの補給をせよとの信号も無視し日本に直行した(36)。

 死亡した中谷の葬儀は昭和25年10月27日に多数の隊員が参加して呉航路啓開隊本部で実施された。 しかし、 朝鮮に出動したことを秘密にしていたため、 運輸大臣山崎猛の弔辞も大久保長官の弔辞も、 「君の打ちたてた偉業はさんとして輝き、 われわれの行手を照らしているのでありまして、 海上保安の亀鑑として永遠にその名を留めるでありましょう。........我々としては誓って君の意志を継承しいよいよ掃海業務を通じて海上保安庁の使命にむかって邁進いたしたいと存じます(37)」と具体性を欠く内容であった。 ただ、 葬儀はアメリカ軍代表も出席するなど盛大なもので、 マッカーサー元帥から弔慰金もでたという。 弔慰金贈呈にたちあった池端鉄郎呉航路啓開部長は、 その日の様子をつぎのように回想している。

 寒い日で尊父は態々山口県安下の庄から呉においでになったがご年配とお見受けし た。 質素にそして無口で米国側から4百万円をおくられたときも軽く頷かれる程度で、 米国側から無税の旨つけ加えられたので私からそのことを念をおしたがそのときも深 く頷かれたのが印象に残った。 やがて玄関までお送りして別れたがその後ろ姿には無 限の寂しさがあった(38)。一方、現場を離脱した能勢指揮官および3名の艇長は、 アメリカ軍から強硬な非難があり海上保安庁を退職させられた。 そして、 能勢省吾は、 「結果としては実施部隊の者だけが責任をとらされて闇に葬むられてしまった(39)」との手記を残して海上保安庁をさった。

(4)その他の海域の掃海
 
 朝鮮西岸にむかった第7管区航路啓開部長山上亀三雄(元海軍中佐、 のち海上自衛隊、海将補、 呉造船ドックマスター、 呉在住)の率いる掃海隊(掃海艇4隻、巡視艇1隻)は、 昭和25(1950)年10月4日に下関に集結し7日に仁川むけ出港し、 ついで10月17日には第4掃海隊(掃海艇7隻)、 18日には第3掃海隊(掃海艇5隻)が仁川へとむかったが(40)、 これら部隊は出動前に機関の整備も打合せをする余裕もなかった。 船体機関は戦後の日本周辺の連続掃海によって老朽化しており、 その整備は困難をきわめていた。 また、 掃海現場は冬季、 季節風の吹き荒れる悪天候、 酷寒の日本海や黄海であり、 参加隊員は補給不如意で水がなく、 サイダーで米を炊くという筆舌にぜっする困難に遭遇し(41)、 現場に派遣された各指揮官からはつぎのような悲痛な電報が発せられていた。 第2掃海隊指揮官の昭和25年11月28日と12月1日の発信をみることにする。

 タナ67号
  当隊各船ノ現状左ノ通リ
   1、 船体
     各船老朽ニ加フルニ長途回航ニ引続ク波浪海面ノ作業ノタメ船体ノ歪ミ及腐蝕ニヨ ル浸水ビルヂ      量ノ増加ヲ来シツツアリ。 MS09及23号ノ船殻ヨリノ浸水著シク(1 昼夜約8トン)尚荒天時船体前      部強度ニ不安アルヲ以ツテビーム間ニ補強実施中
     MS03ハ回航ニヨル前部破口ヲ応急修理中ナルモ荒天ニ於ケル航行ニ不安アリ
   2、 機関
     荒天ニヨル作業停止時極力検査整備ニ努メ現在迄ノ処大ナル故障ナキモ発電機ク ランク軸受ノ破     損燃料ポンプ部品ノ不具合アリ 特ニ海水管ノ亀裂ニ基ク老朽腐 蝕甚ダシク母船及米艦ニテソノ都     度修理使用中(42)

 タナ1号
  貴第26番電(3十日)関連...............現地部隊の動向より判断するに戦局は緊迫  しつゝあり。 一度戦火現  地に及ばんか特掃隊の如きは木の葉に等しく彼我共に補給に 苦心しつつある現状に鑑み足手纏とな   るに過ぎず 最悪の事態ともならば全掃海船を処 分し乗員のみ何等かの方法に依り内地に帰投せしめ  る覚悟也 鎮南浦掃海の任務は概ね 完了せり。 苦労しつゝ現地に留る必要は無きものと認む 季節と   船の状況 乗員の疲労 度及び東京と現地のセンスの相違も御考慮の上、 特掃隊の早急なる内地帰投  に関し特掃 総指揮官の善処方を要望するや切なり(43)

 また、 第1陣として西岸に出動し海州港への50マイルの航路と泊地の機雷原を1カ月にわたり掃海し、 15個の機雷を処分した山上亀三雄第1掃海隊指揮官は、 帰国後に、「終戦以来5年間長足に進歩せる技術に対し、 旧態依然たるいなそれ以下の貧弱なる技術と施設」でもって、 「冬季厳寒の候北朝鮮方面外洋行動」をするのは、 「到底その任にたえられんことは火をみるより明らかで」あり、 「我々の能力があまりにも高く評価されていることは自縄自縛で、 この際あっさりフランクに自己を認識して正直にありのままを米極東海軍に申入れ善処されんことを切望する(44)」との所見を提出した。 とはいえ、 元山以外の部隊は国連軍が占領した地域での掃海であり、 掃海艇1隻が座礁沈没したほか大きな問題はなかった。 しかし、 朝鮮海域でアメリカ、 イギリスやフランス艦艇と行動をともにしながら堂々と行動できず、 国旗も海上保安庁旗も掲揚できない悲憤を、 山上指揮官は、 「MS、 PS率いるたびに思うかな 庁旗日の丸無きぞ淋しき(46)」と詠んだ。

(5)掃海隊派遣の成果

 能勢隊の帰国事件が発生すると大久保長官は、 昭和25(1950)年10月24日、 つぎの電報を掃海部隊に打電した。

1、今回の重要任務を諸君が完遂することは、 日本政府として了承し且つ重要視しておる 処である。
2、現地米軍の指示に従って朝鮮の水域で滞りなく掃海作業を継続するよう希望する。
4、特別任務に対する給与、 災害手当等は既に決定した。 詳細は別途通知するも、 最大の 給与が得られる  よう、 日本政府とGHQとの間に了解が出来ている(46)。(3項および5・6項略)

 また、 大久保長官は同日全国の海上保安庁管区本部長会議を開き、 朝鮮の事態を説明し今後とも部下を督励してアメリカ軍に協力するよう訓示した。 そして、 10月31日には総理官邸に官房長官岡崎勝男をたずね吉田総理の意向を確認、 総理の「日本政府としては、国連軍にたいし全面的に協力し、 これによって講和条約をわが国に有利に導かねばならないというお考えである。 冬季荒天の朝鮮水域で、 しかも老朽化した小舟艇による掃海作業には、 多大のご苦労があると思うが、 全力を挙げて掃海作業を実施し、 米海軍の要望に副っていただきたい。 日本政府としては、 このためにはできるだけの手を打つので、 ほかのことは心配せぬように(47)」との発言を部隊に伝えた。 さらに、 大久保長官はジョイ中将の給料を平時の2倍とせよとの指示を盾に、 特別手当の確保に奔走した(48)。 この努力と朝鮮半島の戦況の有利な展開、 国連軍が制海権、 制空権をにぎっているとの安心感、 さらに旧海軍以来、 寝食苦楽をともにしてきた仲間意識などが、 朝鮮行きをこばみ職をさる者がでなかった理由ではなかったであろうかと鎮南浦の掃海に参加した石野自彊司令(のち海上自衛隊、 海将)は述べている(49)。 海上保安庁に残った相川一守も任務を完遂できたのは、 「海軍というバックボーン(50)」があったからと回想している。

 特別掃海隊には延1204名の隊員、 延44隻の掃海艇と延10隻の巡視船が参加し、これら部隊は昭和25年10月中旬から12月中旬までの2カ月間、 元山、 群山、 仁川、 海州、 鎮南浦などの掃海に従事し、 水路327キロメートルと607平方キロメートルの泊地を掃海し27個の機雷を処分した(51)。 また試航船「泰昭丸」が11月18日から30日まで鎮南浦航路の試航(確認掃海)を、 試航船「桑栄丸」が26年4月6日から27年6月30日まで釜山、 鎮海、 馬山、 木浦、 麗水、 仁川などの港湾や航路の試航をおこなったが(52)、 これら出動した掃海部隊の主力は旗艦の「ゆうちどり」(旧海軍飛行機救難艇300トン)、 試航船「桑栄丸」、 駆潜特務艇8隻、哨戒特務艇2隻など21隻中の12隻が呉所属であった(56)。 北朝鮮水域には3000個(戦争全期では4000個)の機雷が敷設され、 アメリカを主とする連合国が2700個を処分したのにくらべれば特別掃海隊の貢献は微々たるものであったといえよう。 しかし、 アメリカ海軍極東司令官ジョイ中将はつぎのような賞詞をおくり感謝の意を表明している。

   朝鮮水域掃海に関する当方の要望に対し、 迅速に集結、 進出準備を完了し、 即応態勢をとられたこと、   貴下部隊の優秀な掃海作業ならびにその協力は、 私のもっとも喜びとするところであります。 酷寒風浪   による天候の障害、 国連軍協力による相互の言語の相違、 また補給、 修理等に関して幾多の困難が横  たわっておりましたが、 関係者の克己、 忍耐、 努力により、 また田村航啓本部長の適切な指導の下に、   これらの困難はすべて克服されたのであります。 ..........私は喜びにたえず、 ここに大久保長官から関係各  位に賞詞を伝達方依頼いたします。 ウェル ダン“天晴れ"、 まことによくやって下さいました(54)。

 この賞詞の“Well Done"はアメリカ海軍の最大級の賛辞であると、 賞詞贈呈後にとくにジョイ司令官の幕僚プリンス中佐から説明もあったというが、 この賞詞が単なる外交儀礼でなかったことは、 太平洋艦隊司令部から提出された朝鮮戦争の戦訓「太平洋艦隊中間評価報告」(第1報)からも明らかであろう。

 連合軍最高司令官の承認を得て参加した日本掃海艇は作戦の成功に大きく寄与した。 . ......9月以降の掃 海艇の再就役とヘリコプター、 水中処分隊の利用とも相俟って、 戦争広範には受容可能な程度まで機雷  戦能力を改善できた(55)。

 朝鮮水域の掃海にあたった日本掃海艇は彼らの信頼すべきやり方で作業を実施した。. すべての場合に 言語上の問題は続出したが、 日本の掃海艇は天候および後方支援上の 悪条件にもかかわらず元山、 鎮 南浦、 海州および群山係維および磁気機雷を掃海した。 一方、 韓国掃海艇は掃海具を装備せず標識浮  標設置作業も自信をもてるほど訓練さ れていなかった(56)。

 日本の掃海具の取り扱いは見事であり、 三式掃海具は有効幅が50ヤードと狭く、 適 切な航法を必要とし たが、 その単純性と有効性はアメリカのBー8ワイヤー掃海具に 匹敵する。 アメリカの掃海艇は消磁して  いなかったため、 ワイヤー掃海具は使用でき なかった。 掃海隊員の技量は見事であり、 馬力が少ないこ とを考慮すれば日本の掃海 作業は満足すべきものであった(57)。

 一方、大久保長官は帰国した隊員に、 「今回諸君がとられた行動は、 今後日本の進むべき道を示したということであります。.....日本特別掃海隊の活動は新しい日本が今後独立して国際社会に入るとき民主国家として何をなすべきかということを行動をもって示したものであります。 ......名誉ある地位を得るためには、 私達自からが自らの努力によりその汗によって名誉ある地位を獲得しなければなりません。.........今度の壮挙は実に新生日本の歴史上永く記録さるべきものであります(58)」と訓示した。 さらに、 吉田総理は12月9日に大久保長官に特別掃海参加した「隊員をねぎらってくれ」と、 直筆で「諸君の行動は国際社会に参加せんとする日本の行手に、 光りを与えるものであった(59)」との慰労の辞を書いて渡した。

 当時はダレス特使が来日し講和条約がすすめられている重大な局面であったが、 翌昭和26年3月31日に示された対日講和条約草案は、 外務省などが予想したものよりはるかに日本に有利であり、 掃海艇の派遣におうじて講和会議を有利にすすめようという吉田総理の意図は成功したといえよう(60)。 なお、 「海上保安庁巡視船のホープとしての『ゆうちどり』 ー 天皇のお召船航路の肉弾掃海をやった『ゆうちどり』 ー 元山敵前掃海の旗艦としての『ゆうちどり』.....の錨はその功績を記念するため」、 昭和55年5月に海上保安大学校構内に建設された「海上保安資料館の玄関に永久に保存展示され(61)」ている。

脚注
1 ジェイムス・E・アワー(妹尾作太郎訳)『よみがえる日本海軍』上巻、 昭和47年、101ページによる。
2 海上保安庁総務部政務課『十年史』昭和36年、 5ページ巻末資料第6・第7および鈴木 総兵衛『聞書・海上自衛隊史話』平成元年、46ページによる。
3 「水上保安制度についてのミールス大佐の助言」昭和21年7月30日、 同前『十年史』 巻末資料9−1。
4 海上保安庁総務部政務課『海上保安庁三0年史』昭和54年、 6ページおよび海上自衛隊 二五年史編さん委員会『海上自衛隊二十五年史』昭和56年、 11ページ。
5 前掲『十年史』9ページによる。
6 読売新聞社『「再軍備」の軌跡』昭和56年、 212ページ。
7 前掲『十年史』207〜219ページおよび池端鉄郎『航路啓開の思い出』平成元年、 2ペ ージなどによる。
8 前掲『十年史』169および216ページ、 第1術科学校掃海科「航路啓開史」昭和58 年、 26ページ。
9 前掲『十年史』202および295ページによる。
10 大久保武雄『海鳴りの日々』昭和53年、 102ページ。
11 海上保安大学校学生会『葦火』創刊号、 昭和27年7月。
12 海上保安大学校三0年史編さん委員会『海上保安大学校三0年史』昭和58年、 25 ページ。
13 保安庁第2幕僚監部航路啓開部「日本近海における触雷船舶一覧」付録:触雷メモ、昭 和28年2月、1〜2ページおよび第1術科学校掃海科前掲書143-145ページな  どによる。
14 鈴木総兵衛前掲書、 19ページによる。
15 同前、 15ページ。
16 第1術科学校前掲書、 149ページによる。
17 池端鉄郎、 前掲手記、 5〜8ページ。
18 第7管区海上保安本部航路啓開部『掃海画報』昭和26年、 2ページ。
19 第1術科学校、 前掲書155〜156ページ。
20 前掲『よみがえる日本海軍』上巻、 119ページによる。
21 前掲『海鳴りの日々』208ページ。
22 Korean War U.S. Pacific Fleet Operatins - Interim Evaluation Report No.1,
Period 25 June to 15 November 1950, Mine Warfare, pp.1095.アメリカ合衆国国立 公文書館。
23 読売新聞社前掲書、 177ページ。
24 前掲『海鳴りの日々』209ページ。
25 海上幕僚監部防衛部「朝鮮動乱特別掃海史」昭和36年、 20ページ。
26 E.P.Potter, Admiral Arleigh Burke, New York,1990, pp.343〜344.
27 田尻正司「波濤を越えて(8) 1950年元山特別掃海の回想(その1)」(『波濤』通巻第 37号、
  昭和56年11月、 97〜98ページによる。
28 相川一守「朝鮮特別掃海隊のことども」昭和54年。
29 『朝日新聞』平成3年6月6日夕刊。
30 能勢省吾「朝鮮に出動した日本特別掃海隊」昭和54年、 28ページ。
31 「MS14号触雷報告」昭和25年10月による。
32 田尻正司、 前掲回想(その2)」(『波濤』通巻第38号、 昭和57年1月、 88ページ)。
33 能勢省吾前掲手記、 48ページ。
34 田尻正司前掲回想(その2)、90ページ。
35 能勢や田尻によれば「砲撃」と聞いているが、 これら掃海艇は役務調達の形式で雇用(hire)されたものであり、 太平洋艦隊の報告書には「言葉の障害と、 それに伴う誤解の ため3隻の掃海艇が帰国した。 これらの乗員は掃海作業から解雇された」と記されてい る。 海上保安庁が能勢指揮官から事情聴取した調書には、 「日本掃海船3隻は15分以 内に出港して帰れ。 然らざれば15分以内に掃海にかかれ、 内地に帰る場合には真水 燃料を補給船から受けよ」と聞いており砲撃(Fire)という言葉はない。 また、 James A. Field, Jr., History of United States Naval Operations Korea, 1961, p.232にはContracted Japanese Mine Sweeper (契約日本掃海艇)と記されているところから、 砲 撃(fire)はOff hire(契約解除)の聞き違いであった可能性が極めて高い。
36 能勢省吾前掲手記、 44-54ページ。
37 海上幕僚監部防衛部前掲書、 68ページによる。
38 池端鉄郎前掲手記、 11-9ページ。
39 能勢省吾前掲手記、 61ページ。
40 海上幕僚監部防衛部前掲書、 79ページ。
41 「本橋昇治より平間洋一あて書簡」平成3年10月28日による。
42 「第2掃海隊発信綴」海上自衛隊呉地方隊史料館。
43 同前
44 海上幕僚監部前掲書、 57〜58ページ。
45 大久保武雄『霧笛鳴りやまず』昭和59年、 310ページ。
46 前掲『海鳴りの日々』229〜230ページ。
47 同前、 231ページ
48 ジェイムス・E・アワー(妹尾作太郎訳)前掲書、 132ページ。 なお国会答弁案(海上  幕僚監部防衛部前掲書128〜129ページ)によれば、危険手当は36度線をこえた 場合は本俸+扶養家族手当+勤務地手当+航海手当の150パーセント、こえない場 合は100パーセントであった。
49 石野自彊「鎮南浦掃海とその前後の回想」175〜176ページ、〈防研〉による。
50 相川一守前掲手記、 50ページ。
51 前掲『海鳴りの日々』259ページによる。 なお、 海上幕僚監部防衛部前掲書、 132 ページによると、 28箇の機雷を処分したと記述されている。
52 「別冊第1 桑栄丸試航」(海上幕僚監部防衛部前掲書、1〜3ページ)による。
53 なお、 このほかに参加した掃海艇は大湊3隻、舞鶴・下関・名古屋各2隻、新潟・小浜各 1隻であった。
54 前掲『海鳴りの日々』261ページ。
55 Op.cit., Korean War U.S. Pacific Fleet Interim Evaluation Operations Report No.1, o.p, p.1078.
56 Ibid., pp.1098〜1099.
57 Ibid., pp.1111〜1114.
58 海上幕僚監部防衛部前掲書119-120ページ。
59 前掲『海鳴りの日々』260ページ。
60 同前、 298および301ページによる。
61 前掲『霧笛鳴りやまず』306ページ。

第4節 海上自衛隊の誕生と呉
1 防衛庁海上自衛隊の誕生

http://www.kurenavi.jp/html/m000028.html
 昭和29(1954)年3月11日に「防衛庁設置法案」(法律第164号)と「自衛隊法案」(法律第165号)の防衛2法案が国会に提出されたが、 この第19回国会は防衛2法案とともに「新警察法案」、 教育2法案、 「日米相互防衛援助協定」(MSA協定)およびその受入れにともなう「秘密保護法案」などの法案がいり乱れ大荒れとなり、審議は紛糾し6月2日にいたり、 「自衛隊の海外出動をなさざることに関する決議」とともにかろうじて成立、 9日に公布され7月1日に施行されることになった。 そして、 「平和と秩序を維持し人命および財産を保護する」という警察的任務の保安庁警備隊から、 「平和と独立を守り国の安全を保つため、 直接および間接侵略に対し我国を防衛することを主たる任務とし、 必要に応じて公共の秩序維持に当たる」(自衛隊法第1条)という防衛庁海上自衛隊に変わった。 そして、 「直接および間接侵略に対して我国を防衛する」というこの法案の通過が国内に、 また呉に大きな議論を引きおこし、さらに大きな変動
をあたえることになったのであった。 これまでに横須賀、 佐世保、 舞鶴、 大湊には総監部が開庁されていたが、 呉はいぜんとして単なる基地隊でしかなかった。 その後に防衛関係法案の国会通過で、 2-2表にみるような呉地方隊が誕生し、 基地隊本部が呉地方総監部に昇格した。

   2-2表 呉地方隊発足時の組織
    呉地方総監部
     第8警戒隊(LSSL 4隻)
     呉地方隊 第9警戒隊(LSSL 4隻)
     大阪基地隊(第5掃海隊ー掃海艇4隻・「第1中興丸」)桑栄丸
     呉基地警防隊(第3掃海隊・第4掃海隊・ゆうちどり、汽船3隻(6)
    出所:海上自衛隊呉地方総監部『呉地方隊二5年史』昭和56年、 8および273ページ。

 この変化を当時の新聞は、 「あす発足す陸海空“自衛隊" 近代装備の15万 ベールを脱いだ新国軍」、「威力誇る戦車、 重火器」、「明春はジェット機も 5年後には隊員4万人」「連合艦隊を再現 期待は新鋭駆逐・潜水艦」、「志願制から徴兵へ(1)」とか、 「きょうから呉地方総監部 一段と濃い“海軍色"(2)」、 「“呉軍港"復活へ急テンポ いかめしい地方総監部 さらば平和産業港湾都市(3)」などと報じた。 しかし、 当時の呉地方隊の勢力は、 アメリカ供与の「すずらん」、 「かんな」、 「ぼたん」など可憐な花の名前が付いた300トンのLSSL型上陸支援舟艇8隻、旧海軍の木造の掃海特務艇14隻など42隻(総トン数9133トン)、 隊員1158名、 在籍の第1掃海隊群やフリゲート艦「すぎ」、 「まつ」、 「かや」、 「にれ」の第2護衛隊群などをふくめても自衛艦46隻(総トン数1万4933トン)、 人員2000余名にすぎなかった(4)。

 呉地方隊の発足にともない総監部の開庁式典が昭和29年10月1日におこなわれたが、 新聞は、 「呉市、 二つのお祝いに沸く..........市制五二年と総監部開庁式」、 「二0万市民の感慨新た 呉地方総監部 新国軍の基地開く」との見出しで、 「この日市内は目抜の本通、 中通、 三城通には『祝海上自衛隊』の歓迎幕をはじめ立看板が目立ち、 祝賀気分に沸きかえり、 朝9時半中央公園音楽堂前で呉市記念日に臨んだ市内各界名士たちもその足で呉地方総監部正門の歓迎アーチをくぐる忙しさ(5)」と当日の模様を伝えている。 「開庁式には、 「町には“祝自衛隊"の立て看板やアーチがかかり、 海上自衛隊歓迎一色にぬりつぶされた感があった。 ......過去半世紀にわたって『セーラー服とイカリ』に象徴され、 海軍におんぶされて発展してきた呉市も、 帝国海軍消えて9年、 再び防衛基地として動き出した(6)」と報じている。 開庁式に出席した防衛庁長官木村篤太郎は、 「自衛のための軍備にはペンを、 ハンマーを持つものが、 一致協力してほしい」と市民に協力を求めた。 また、 初代総監に任命された山沢久治海将補は、 「国民に愛される自衛隊員であれ」と隊員に訓示し、 「友愛、 精強、 良識をモットーに民主化された部隊の育成に努力」する。 「自衛隊はあくまでもみなさんのためであり決して狭い門ではなくいつまも開放する方針ですから今後とも御指導、 御ベン撻をお願いする次第です。(7)」とのメッセージを市民におくった。

 開庁式を祝い海上自衛隊は、 アメリカから借与のフリゲート艦「しい」など2隻を入港させ、 午後には海上自衛隊中央音楽隊の市中行進をおこない、中央公園屋外音楽堂では約1000名の聴衆を前に海上自衛隊中央音楽隊と英連邦軍音楽隊との交歓親善演奏会を開いた(8)。 一方、呉商工会議所は30万円を投じて音戸から119名の大名行列を招聘し市内を行進させ(9)、 夜6時からは市および商工会議所主催の開庁祝賀会を開いた。 また、 この日に朝鮮動乱にも出動した「ゆうちどり」や「桑栄丸」と駆特型掃海艇8隻をもって第1掃海隊群が掃海のメッカ呉に新編された。 その後、 30年には第2舟艇隊、 第12掃海隊、 31年1月には江田島に練習隊が開隊され、 2月には戦後建造護衛艦最初の「いなづま」が呉地方隊に編入された。 さらに、 31年11月22日には英連邦軍の撤退式および旧海軍施設返還授与式がおこなわれ、 旧呉鎮守府と係船堀地区が返還され、 12月17日には「呉海軍」のシンボル的存在であった鎮守府跡に総監部が移転した。 32年3月26日には練習隊が江田島から呉に移転し、 隊員850名がラッパ隊を先頭に市中行進をおこなった。その後、 33年には呉工作所と第2海上訓練指導隊、 34年には呉水雷調整所、 吉浦貯油所(のち呉補給所吉浦貯油所と改称)が新編され、 航空部隊や潜水艦部隊をふくむ大組織となり(10)、 兵力も自衛艦38隻、 支援船46隻、 第1掃海隊群や練習艦隊、 潜水艦部隊などの在籍艦艇を加え艦艇合計103隻(総トン数2万7686トン)(11)、 在籍隊員も昭和36年には6367名(定員)となった(12)。

2 市の性格論争 ー 軍港か商港か

 昭和25(1950)年4月11日に「旧軍港市転換法」が国会を通過すると、 市は4月16日には転換法の成立に感謝する市民大会を開催し、 マッカーサー元帥などに「我等呉市民が呉市を平和産業港湾都市に転換更生せんとする切なる念願」が連合軍御当局の市民の窮状に対する深い御同情と御理解とによつて遂に実現した....我等呉市民は本大会において、 この感激を率直に表明し当局に深甚なる感激と敬意を表するものである」との感謝決議をおこなった。 また、 鈴木術市長は、 「軍港より商港へ」切り換えて「文化都市」を建設しよう。 転換法の賛否を問う「住民投票には全市民賛成投票を(13)」と訴えた。 転換法成立当時の計画では、 旧海兵団および第2潜水艦基地隊地域を臨港商業地区、 旧軍需部および港務部地区を内航船および日本水産の捕鯨基地、 呉海軍工廠第一・係船堀地区を外国貿易地区、 広の旧第11空廠と呉航空隊跡を中小工業地区とし、 総監部地域をホテルや商館地区とし、 若宮地区を海上保安地区とする構想であった(14)。

 この旧海軍施設をめぐる呉市と新設海上自衛隊との最大の問題は、 旧海軍の中心地区にある旧海兵団跡を練習隊(現教育隊)が使用するか否かの練習隊問題であった。 当時の呉市民にとって練習隊に使用をみとめることは、 産業港湾都市の中心地域をうしなうことであり呉の将来を決する問題であった。 海上保安庁時代には二河川以西の潜水学校跡の新宮地域を海上保安庁用地とし、 航路啓開部が使用している旧防備隊跡は将来返却をうけ、 市としては産業地とする予定であった。

 一方、 岸壁に欠ける新宮地区への移転は海上自衛隊にとっては、 呉における海上自衛隊の将来をかけた問題であった。新聞によると保守党推薦の鈴木術市長当時は自衛隊の使用も「国策上やむなし」としていた。 ところが、 昭和29(1954)年4月の選挙で革新系の松本賢一市長にかわると、 6月5日に旧軍港振興協議会ならびに運輸省港湾局に、 「都市計画上、 現在の警備隊呉地方基地隊が腰をおろしている旧潜水艦基地隊地区は“商業臨港地帯"のため英連邦軍が返還後は市内新宮地区(旧潜水学校、 旧工廠火工部など)へ移転されるようあっ旋して欲しい(15)」旨の陳情をもちこみ、 保安庁筋との意見調整を依頼したことから大きな論争となったという。

 この旧軍施設、 とくに旧海兵団の跡地利用を決するため市民各層の意見をきく、 呉市転換協議会(委員は元市長3名、 県議会議員6名、 市議会議員14名、 誘致工場、 商工会議所、 婦人、 青年、 教育、 新聞界代表など60名で構成)が設立され、 たびたび開かれたが結論はえられなかった。 6月13日にも呉商工会議所で元呉市長佐々木英夫、 元呉市議会議長野田繁夫をはじめ地元県議会議員、 市議会議員、 財務局、 労働組合代表らの転換協議会委員と、 市側からは松本賢一市長、 芥川暉雄助役、 井上文介助役など合計82名が出席して海兵団跡地問題にかんする第7回呉市転換協議会が開かれた。 松本市長は呉市の以前の方針では自衛隊は新宮地域に局限し海兵団地域を商業地域に指定していたが、 その後の情勢の変化で防衛庁から旧海兵団地域、 軍需部裏の地域、鎮守府地域、 練兵場地域を利用したいとの申し出があり、 自衛隊を新宮地域に限定するのは困難であり、 海兵団地域を自衛隊に利用させてもよいかどうか各委員の意見を求めた。 これに対して活発な討論が展開されたが、 このうち二河以西(主に新宮地区)以外に自衛隊を誘致すべきでないという人々の理由を要約するとつぎのようになる。

 呉を商港とし教育隊地域を商業地域とするならば、 雇用も各段に拡大し得るであろう。 海兵団地域は最良の場所である。 将来の呉市の産業計画を十分に検討し、われわれは10年、 20年後を考え子孫のために民主政治のために海兵団地は確保すべきである。昔の夢を追いかけてはいけない。また、 自衛隊が進出して雇用が増えるというが、 札幌に数千の陸上自衛隊が進出しても100名も雇用されなかった。自衛隊によって労働市場を求めるのは甘い幻想である。艦船の建造に期待する人もいるが、 これは海軍工廠の再現を錯覚したものである。 転換法制定から9年が経過し情勢が変化したというが、 最近では中国あたりからも貿易使節団が来呉しており、 中国の資源を利用し呉に加工工場をおこすならば、 必ずしも平和産業都市としての発展がむずかしいことではない。 当面の苦しさを逃れるために、 いつも手近なものに救いを求める姿がこれまでの呉市の姿ではなかったか。 平和商港としての玄関口である海兵団跡を教育隊に提供しなくても新宮地区があるのではないか。 海兵団跡を自衛隊に利用させれば結局将来市の港湾施設を自衛隊に明け渡すことになり、商港としての玄関を譲ることになる。 新宮地区に移るよう最後まで話し合うべきだ(16)。
一方、 賛成派の意見はおおよそつぎのようなものであった。

 呉市は他の都市とは性格がことなり、 軍港都市として海軍とともに生まれ生きて来た町である。 失業問題は呉市にとって重大問題であるが、 自衛隊の進出により失業問題がいくぶんでも解決されるならば歓迎すべきである。 失業者を抱える呉としては理想より現実を考慮すべきで、 自衛隊を誘致することで膨大な国家予算が呉市に放出されるし、 さらに隊員が呉市で消費する金額も膨大である。 国策にさからってまでも反対すべきでない。呉港を商港とし海兵団跡を商業地域にするというが、 呉は歴史的に見ても海軍とともに生まれ発達してきた町で横浜や神戸とはことなる。 平和商業都市を建設するというが、 可能であろうか。歴史的に見ても呉は海軍の時には海軍の経済に、進駐軍が来たときには進駐軍の経済に依存してきたではないか。 海上自衛隊がくるならば海上自衛隊の経済によって呉の経済的発展を考えるのが自然ではないか。

  旧軍港都市転換法案が可決された時には自衛隊は存在しなかった。平和産業都市は理想であり非現実的である。 現在までに誘致された工場は17社、 そのうち大きな工場は7社で、その使用面積は30万坪に過ぎない。 これに対して未返還地は80万坪であり、 このような広大な土地に平和産業のみを誘致するのは至難である。 自衛隊が必要とするのは僅かに2万9000坪である。 商業港とするというが呉には背後地がなく商港としての基本的要件にかけている。また、 工業港とするという意見もあるが、資金は膨大であり試算によれば850億円が必要である。 しかも呉市の予算が15億円、 港湾整備に投入される資金も僅かで、このような状況では商港の建設には何百年もかかる(17)。

 このように甲論乙論がでて結論がえられず時間もすぎたことから、 佐々木議長が妥協案として、 「1、 自衛隊の拡張はこれを歓迎す。 2、 もし自衛隊との妥協ができるならば、 もう少し呉市の平和的発展に関係の少い所と土地をかえてもらいたい。 その政治手段は市長さん以下市理事者の政治手腕に信頼をする(18)」ということで議事をまとめようとした。しかし、 いそいで結論をだす必要はないとの意見があったため、 下原次郎呉商工会議所会頭が自衛隊と半分ずつ使用してもいいのではないかとの妥協案をだした。 結局、 この日は、 「自衛隊は新宮地区に位置することが望ましい。 もしこれが困難な場合は呉市の商工業の発展を阻害しない範囲内において旧海兵団地区を分割使用の道を見出すことが適当である(19)」との答申を採択し解散した。

 その後、 昭和30年6月17日の市議会全員協議会で、 呉市転換事業計画修正案が審議されたが、 席上、 練習隊問題については、 市当局の説明では充分納得できぬ点が種々あるので議会代表を上京させ関係官庁の意見を確認したのちに再協議しようと結論となり、 市議会議長などの代表が上京した。 7月8日の市議会全員協議会において上京した市議会議長などから報告があると賛成派は、 早く解決しなければ防衛庁の計画はたてられぬと主張した。 しかし、 「呉の最重要地区に練習隊をもってくることには反対する、 いま少し、 どう扱うが最も良いかを研究する時間の余裕が欲しい(20)」との慎重論がでて結論はもちこされた。 その後に9月、 10月の市議会でも保留され(21)、 12月には海上自衛隊の要望を受け中国財務局呉出張所で地元呉市側、海上自衛隊、 中国海運局呉支局などの各代表20名が集まり協議したが結論はえられなかった(22)。

3 理想と現実ー誘致への傾斜

 朝鮮戦争当時の呉港は、 「甦える埠頭に巨船の群(23)」と報じられるほどのにぎわいを呈していた。 当時の呉港は国連軍の朝鮮戦線への中継基地として毎月50隻から100隻近い軍艦や軍用輸送船が入港し、 昭和27(1952)年当時は広島港も未整備のため同港の年間179隻(輸出入トン数11万9498トン)にくらべ、 旧軍施設にめぐまれた呉港は496隻(13万6471トン)で(24)、 貿易額も52億円、 開港5年で16倍に増加するなど広島港より優位にたっていた(25)。 しかし、 広島港の整備とともに入港船舶が減少し、さらに朝鮮戦争の停戦により国連軍の引揚げがはじまると駐留軍労務者2万人が職をうしない、 年間給与15億円、 国連軍人軍属の市内での消費20億円、 食料や備品などの物資調達費10億円、 合計45億円がうしなわれ、 「第二の終戦」ともいえる困難に直面した(26)。 さらに、 この困難に不景気が呉市を直撃し、 「呉誘致工場に不景気旋風 一部には倒産の噂さ(27)」が流れる状況で、 呉職安には「1日3千人の行列(28)」ができていた。 市の財政も苦しく31年度予算は起債返却に1億4500万円、 1日平均2500名の失業対策費に2億8214万円、 戦災による小学校の建設に1億円余を支出しなければならず、 市長など特別職の給与引下げや部課長40名の定期昇給停止処置が取られる状況にあった(29)。また、 呉市の1世帯あたりの月間消費支出額も、 1万7728円と全国都市平均を23パーセントも下まわっていた(30)。

 一方、警備隊の呉関連の予算は3億円で昭和28年に呉市に落とした金額は給与が年間1億8000万円といわれたが、 30年には艦艇修理費をふくめれば10億円に増加していた(31)。 「第10次新造船割当に締出されるというウキ目を見た呉造船界」は、 保安庁の「旧軍港基地造船所の特別育成のため自衛艦新造の随意契約による優先割当案(32)」に期待し、 新聞には、 「不況を切抜く播磨呉ドック 保安庁の新造船受注 ここ2、 3カ月は大丈夫(33)」、 「呉港の造船界 建艦実績づくりに大童」、 「物言わす“昔の杵柄" 遅れじと再軍コースへ(34)」などと自衛隊への期待が報じられていた。 国連軍の撤退により大量の失業者をかかえる呉市にとり、 「この不景気 自衛隊様々(35)」の状況であり、 自衛隊の誘致はイズムをこえ、 自衛隊の進出は、 「行くえ不明の父親(旧海軍)が帰ってきたような気持ち(36)」を市民に抱かせていた。

 このような状況から市議会でも市当局に自衛隊の誘致をもっと積極的にすべきであるとの要求もあったが(37)、 昭和29年12月13日には呉商工会議所会頭下原次郎が同所の決議として、 国連軍の一部撤退による失業者増大や中小企業、 土産物店など経営悪化などから経済復興の一環として、 ぜひとも練習隊など自衛隊を誘致してほしいと市長に陳情(38)、 2月17日には松本市長と下原呉商工会議所会頭が、 呉総監山沢久治海将補をおとずれ呉での警備艦建造や練習隊の誘致をもうしで(39)、 翌30年5月には練習隊誘致のために上京し防衛庁、調達庁、大蔵省などに陳情した(40)。 一方、 広町などでは陸上自衛隊の進出がとりやめられると、 航空自衛隊の術科学校を誘致しようと町民500名が集まり、 地元選出の市議会議員をつうじて全市的運動に拡大することが決議されていた(41)。 また江田島のアメリカ軍の訓練施設の閉鎖が決定、 江田島町が海上保安大学校と自衛隊の誘致運動をはじめると、 芥川助役は、 「自衛隊が呉市で大きくなる裏付があるなれば江田島のためにも保安大学を渡してもよいが、 国の予算から見ても自衛隊は大きくならない現段階では保安大学を江田島に渡すわけには行かない(42)」と移転反対を表明するなど、 江田島と呉とのあいだでは自衛隊の誘致をめぐって競合も生じていた。

 一方、 呉商工会議所も昭和29年9月8日の役員会で自衛隊誘致のため、 海上自衛隊後援会(会長 下原呉商工会議所会頭)の設置を決し(43)、 練習隊の誘致運動、 旧海兵団返還促進運動、 自衛隊との交流行事として艦隊入港にさいし艦艇の見学会、 体験航海の実施、 乗員にたいする無料入浴券の発行、 映画入場料の割引き、 飲食組合による湯茶接待所の設置などを決めた(44)。
しかし、 このような状況下でも一部の地元紙は強力に反対論を展開した。 同紙の主張はつぎのようなものであった。

 昭和25年、 国会に成立のあとをうけて、 6月4日住民投票に市民の意志表示を行い、同28日付官報で公布されてより、 旧軍港市転換法は満5年を閲する、 この転換法こそは敗戦のあとに混迷を続けた呉市に更生を約束されたもの、 呉市再建の指針であり、 基本法であったのである、 この法に基いてたてられた呉市の産業計画こそは、 その法律の別表または施行細則にもあたるものであるにかかわらず、 今次海上自衛隊練習隊進出にあたっては“情勢の変化"に名を藉り、 この産業計画の修正を松本市長より発案され、 さらには、 転換法は、 一昨年、 転換協議会、 市会で自衛隊を二河川以西なら認める決議に及んでおるもの、 今更の転換法論でもないなどの言が市当局よりなされている、 まことに為政者として不都合極まる態度といわねばならない(45)。

 また、 同紙は自衛隊誘致に積極的な呉商工会議所にたいして、 練習隊の江田島移転が決まったならば、 「未練がましく引止め運動などタワケた真似をするでなく、 快くこれを見送って、 この機、 会議所本然の姿に立戻り、 平和呉港 栄えのために、 あるいは食糧船の誘致(前提に呉駅操車場の拡大)、 さらには呉線の本線化運動、 手っ取り早いところでは軍需部岸壁修理完成を待っては宇品依存の島嶼部民を呉港に切替えて、 ここに準市民20万の増加をはかることなどなど、 急ぐ仕事は山積している(46)」と主張した。 さらに市議会協議会で、 「練習隊設置場所に呉が見込まれてしまったのだからすでに逃げ道はない、 逃げられぬとするといやいや迎えるよりはむしろこちらから喜こんで歓迎すべきだ........海兵団地区も商館商店街地区と練習隊に分割するなどケチなことを考えず喜こんで提供すべきだ(47)」と発言すると、 地方自治体の自主性を無視した発言であると4段抜きで非難した。

 このように旧海兵団跡への練習隊進出が大きな問題となったのは、 転換法にともなう呉市と自衛隊の問題のほかに、 中央における自衛隊をめぐる政府と野党との衝突があり、 中央の憲法問題や政争が地方政治に影響したためでもあったが、 一方、市民には、 「やがての呉線本線化も期待される、 繋船堀には七つの海から貿易船、 軍需部跡岸壁には内貿船が輻輳、 旧海兵団跡から軍需部地帯には整然たる大道路に沿うて、 銀行商館の近代建築が並び、 裏街には倉庫がぎっしり、 かくて、 呉市の繁栄は港からという日は決して夢であってはならない(48)」との思いがあったからであった。

4、 旧海軍施設の配分

 国連軍から施設が返還されはじめると、 施設の配分が問題となった。 総監部は多少の反対もあったが、 昭和31(1956)年12月17日には内部の改装工事を完了し、 旧呉鎮守府跡に移転した。 難航したのは宝町埠頭と旧呉鎮守府長官舎(現入船山記念館)であった。 当時、 海上自衛隊に配備されていたLSSL型上陸用舟艇は250トンしかなく、岸壁に係留しないと補給どころか風が吹けば艇そのものが危ないという品物、 係留場所がない自衛隊は宝町埠頭は公共埠頭なので呉市、 自衛隊、 運輸省の三者協議で共同使用が許されるべきであると呉市の反対を無視して係留をつづけていた。 ところが30年8月にいたり運輸省(海上保安庁)から分離独立してしまったいやがらせか、 呉市は運輸省から海上自衛隊が利用するならば国連軍引揚対策費中の港湾整備予算を削除するとの通知を受けた。 あわてた呉市は総監に書面を送り早急な立退きを要望、 一方、 係留を拒否された鈴木英第8警戒隊司令は接岸施設がない基地はなく、 呉市があくまで反対するならば部隊を他の総監部に移すべきであり、 基地は呉だけでないと中央に意見具申をしたという(49)。 この問題は係船堀地域がまもなく国連軍から返還されたため解決した。

 一方、 解決までに10年の歳月を要したのが旧呉鎮守府長官官舎であった。 最終的には旧潜水艦第二桟橋(現潜水艦桟橋)の自衛隊利用と振替えの形で41年7月にいたって決着した。 新聞報道によれば旧呉鎮守府長官官舎利用について、 自衛隊側は旧海軍へのノスタルジアもあり総監官舎にしたいと主張、 市側は鎮守府を自衛隊が使うのだから長官官舎は呉市にかえし、 市としては市民の心のよりどころとし迎賓記念館としたいとおうじたという。 また自衛隊は旧下士官兵集会所を自衛隊の中四国地区総合病院(300床予定)とし旧水交社跡は幹部クラブにしたいと主張、 市側は市庁舎か寮にし水交社跡は民間業者の産業文化会館にしたいと反論したという(50)。

 西日本有数の施設をもつ旧海軍病院(土地1万7800坪、 建物15棟 6500坪 600床)は自衛隊、 呉市、 厚生省の三者の争いとなった。 自衛隊は中四国地区総合病院とし、 広島大学が使用したいのならば広島大学と共同使用としたいと説明、市は、 「“アカデミズムの殿堂"として市民文化の背骨(51)」という観点から広島大学が使用することを希望し、 市民にも広島大学医学部の広島移転の反対運動に積極的に参加するよう協力を求めた(52)。 しかし、 広島大学側は他学部との総合研究や総合大学という観点、 地理的に不便などの理由から辞退し、 30年9月には広島に移転していた。 一方、厚生省は戦後のマッカーサー指令を楯に旧陸海軍病院の国立病院化構想を強硬に推進し、 最終的には国立呉病院となった(53)。

 この呉市と自衛隊との旧海軍施設をめぐる争いは、 昭和31年4月5日に中国財務局呉出張所で開かれた返還財産協議会で中央裁定にまつことに市と自衛隊が合意し、 5月4日に中央から示された旧広燃料置場跡を自衛隊が必要最小限度で使用することを希望条件として、 自衛隊が主要地域を利用することを求めた自民党特別対策委員会の裁定案を呉市議会が承認し、 ここに木村篤太郎防衛庁長官が旧海軍施設の使用を市に申し入れてから3年越しに紛糾した問題もいちおうの落着をみるにいたった。 この中央協定に松本賢一市長は、 「地元の旧軍施設への工場誘致とともに商工業港に転用使用したいが、 中央での裁定を押しつけられる形となって今回の承認をみた。 しかし強硬であった自衛隊側が旧軍需部を市側に譲ってくれたのが何よりの収穫だったと思う(54)」と苦しい胸の内を語った。

 このように自衛隊側は呉駅裏の旧軍需部や船溜をあきらめ、 旧港務部、 海兵団、鎮守府、広燃料置場、呉工廠係船堀、第4・第5・第6バース、呉工廠本部を使用することとなった。 また旧下士官兵集会所は地元と競合したが、 旧軍人が結成した同施設返還期成同盟会の「下士官兵集会所は我々の私有財産(55)」であり、 旧軍人や遺族の宿舎、 厚生施設にも利用できる自衛隊の「サービスセンター等とすることは極めて適切(56)」との請願運動などもあり、 自衛隊病院構想は厚生センターに変更された。 もめにもめた旧海軍施設は総監部地域などの一等地は自衛隊の所有となった。 しかし、 自衛隊が確保した旧海軍施設は数値的には旧海軍施設の8パーセントで、 残りの35・6パーセントが民間施設、 33・2パーセントが公共施設、 15・2パーセントが農地その他に転換された(57)。

 すなわち、 自衛隊は呉鎮守府(呉地方総監部、 呉通信隊、 呉造修所、 呉補給所、 呉警務隊、 呉調査隊)、 呉海兵団(呉教育隊)、 呉防備隊(呉基地業務隊、 呉警備隊、 呉衛生隊)、 下士官兵集会所(共済組合青山クラブ、 呉音楽隊)、 呉鎮守府軍法会議、 海軍官舎の一部を官舎に、 また呉海軍工廠の工廠本部、 総務部、 医務部、 潜水艦部の一部に第1潜水隊群、 会計部に呉補給所、 呉造修所などを獲得した。

 一方、呉市や民間企業は長官官舎が入船山公園、 呉駅裏の海軍軍需部跡にはバブコック日立や公共港湾施設、 呉海軍病院が国立呉病院、 呉海軍共済病院が呉共済病院、 練兵場が呉市民広場となり、 工廠地域には石川島播磨重工、 日新製鋼、 神戸製鋼、 淀川製鋼、 呉貿易倉庫、 そして火工部には海上保安大学校が、 海軍潜水学校には石川島播磨重工、 呉市下水道処理施設、 川原石軍需部跡にはダイクレなどの中小企業が、 第11海軍航空廠跡には東洋パルプ、 新日本造機、 中国工業試験場、 寿工業、 中国工業、 呉海軍航空隊跡には中国労災病院、 中小工業施設が展開し、 広の燃料タンク跡は呉市埋立処理場、 公園、 工業団地などに転換された(58)。

脚注
1 『中国新聞』昭和29年6月30日。
2 『朝日新聞』昭和29年7月1日。
3 『中国新聞』昭和29年7月1日。
4 海上自衛隊呉地方総監部『呉地方隊二十五年史』昭和56年、 33および273ページ。
5 『中国新聞』昭和29年10月2日。
6 『中国新聞』昭和29年12月14日。
7 『中国日報』昭和29年10月2日。
8 前掲『中国新聞』昭和29年10月2日による。
9 『朝日新聞』昭和29年9月10日、 『中国新聞』昭和29年9月10日および10月4 日による。
10 海上自衛隊呉地方総監部前掲書、 273ー279ぺージによる。
11 同前、 33ページによる。
12 同右、 22ページによる。
13 『呉市政だより』第2号、 昭和25年5月1日。
14 呉市長鈴木術・呉市議会議長野田繁雄「行政協定に伴う旧軍港施設の利用に関する陳情」 昭和27年2月15日による。
15 『中国新聞』昭和29年6月8日。
16 「呉市転換協議会議事録」昭和30年6月13日による。
17 同前による。
18 同前による。
19 同前による。
20 『中国日報』昭和30年7月10日。
21 『中国日報』昭和30年9月20日および11月1日などによる。
22 『中国新聞』昭和30年12月4日による。
23 『中国新聞』昭和26年4月28日。
24 「昭和28年第2回呉市議会(定例会)会議録」第49号、 昭和28年3月16日、 19 ページによる。
25 「呉市政だより」第40号、 昭和28年7月1日による。
26 「呉市政だより」第66号、 昭和31年4月10日による。
27 『中国新聞』昭和29年6月16日。
28 『中国新聞』昭和31年9月14日。
29 『中国新聞』昭和31年3月6日による。
30 『中国日報』昭和31年1月17日による。
31 『中国新聞』昭和30年6月1日による。
32 『中国新聞』昭和29年10月24日。
33 『中国新聞』昭和29年6月24日。
34 『中国新聞』昭和30年11月11日。
35 『中国日報』昭和30年7月12日。 自衛隊の呉市への経済効果については呉市『昭和3 1年呉市市民所得推計報告』昭和34年、 23ページを参照。
36 中国新聞呉支社『呉港』昭和43年、 30ページ。
37 「昭和29年第1回 呉市議会(定例会)会議録」第65号、 昭和29年3月12日、 31 ページおよび「昭和29年第6回呉市議会(定例会)会議録」第83号、 昭和29年11 月1日、 8−9ページなどによる。
38 『中国新聞』昭和29年12月14日による。
39 『中国日報』昭和29年12月18日による。
40 『中国新聞』昭和30年5月17日による。
41 『中国日報』昭和31年3月7日による。
42 『中国日報』昭和30年7月10日。
43 『朝日新聞』昭和29年9月10日による。
44 呉商工会議所『呉商工会議所五十年史』昭和53年、 90ページによる。
45 『中国日報』昭和30年6月29日。
46 同前。
47 前掲『中国日報』昭和30年7月10日による。
48 『中国日報』昭和31年2月17日。
49 『毎日新聞』昭和40年10月12日による。
50 『中国新聞』昭和31年8月10日による。
51 『中国新聞』昭和31年5月13日。
52 『呉市政だより』第62号、 昭和30年10月1日による。
53 『中国新聞』昭和31年5月23日による。
54 『中国新聞』昭和31年5月1日。
55 『中国日報』昭和31年8月29日。
56 旧呉海軍下士官兵集会所返還期成連盟委員長藤井農夫他「請願書」昭和31年8月14 日。
57 海上自衛隊呉地方総監部前掲書、 31ページによる。
58 平間洋一『呉と海軍そして海上自衛隊』昭和59年、 199ページ。