小嶺磯吉ーラバウル開拓の先覚者
(1866年ー1934年)
1 小嶺磯吉の生涯
小嶺磯吉は1866(慶応2)年に肥前島原の堂崎(現在の長崎県南高来郡有家町同崎池田)で生まれた。
16才の時に小嶺は志を抱いて韓国にわたり仁川の海軍御用達福島屋に奉公したが、その後、
南方への発展を思い立ちオーストラリアに渡航し、 木曜島で真珠業に従事するかたわらニューギニア西部と南部を探検し、
一時帰国したが再びニューギニア(イギリス領)に渡り澱粉製造の日豪合弁会社の設立を企てたが失敗して帰国した。
しかし、 陸軍の大御所である川上操六大将から「南洋には未だ領土の確定せぬ島もあろう。
行ってこれを樹てたまえ」と日章旗を渡されて、 明治34(1901)年に再び渡航し、
サブラ・パプア号の2隻のスクーナー(各10トン)でニューギニアのドイツ領(北部と東部)を探検したが初期の目的は達成できなかった。
当時はドイツが太平洋方面への植民を開始して間もない時期であり、 小嶺はヘルバーツホーヘ(現在のココポ)に本拠を置く、
ドイツ総督ドクター・ハールに委託されて現地民の鎮圧と討伐任務を引き受けた。
しかし、 明治37(1904)年に日露戦争が勃発すると、ドイツ人の対日感情が悪化したため、
小嶺は職を辞してアドミラルティ諸島とマヌス群島に500町歩の土地を租借し、
椰子栽培事業を始めるとともにラバウルに小嶺造船所を建設した。 小嶺はラバウルを中心とした日本人の発展を画策し、
明治45(1912)年には神戸にドイツ・ニューギニア小嶺商会を設立し、 造船移民の募集や日用品の輸入をはかり、
同年5月から翌年1913年4月までに約150人の移民を迎えた。小嶺は海軍の上村彦之丞大将、
財界では松方幸次郎、 辻新次郎や大倉喜八郎などの援助を受け、 今後の投資や発展を目指して1914年には辻太郎一行の視察団をニューギニアに迎えた。しかし、
視察団が帰国した8月には第一次世界大戦が勃発し開発計画は挫折してしまった。
小嶺は第一次大戦中はオーストラリアに協力し、 後述する功績を上げた。 このため、
大戦後にオーストラリアは日本人移民に関して厳しい制限を加えたが、 小嶺については小嶺の会社が従来雇用していた60名を限度として移民を認めるなどの便宜を与えていた。小嶺はその後もオーストラリア官憲に協力する一方で、
椰子の栽培計画を立て500町歩を租借し、 1921年までに1000町歩に椰子を植え付けたほか、
造船業・水産業など事業を拡大した。 しかし、 大戦後の世界的不況に見舞われ、
さらに事業半ばの昭和9(1934)年10月3日に食中毒を起こして死亡してしまった。
葬儀には多数の参列者が参加し盛大に行われ、 棺は日豪の国旗で覆われていたという。
芳年69才であった。 また、 遺骨は蝶子夫人により日本に持ち帰られたが、 ラバウル在住の日本人および現地妻の強い懇願により、
分骨が翌昭和10年7月15日に横浜を出港した南洋貿易会社の定期船「平栄丸」船長菊地清雄によってラバウルに再び届けられたという。
2 第一次世界大戦と小嶺
第一次大戦が勃発した1914年は、50年ぶりの旱魃から原住民が餓死するほどで、
ドイツ政庁所在地ラバウルをはじめドイツ領ニューギニアは混乱に見舞われ治安が悪化した。
このため小嶺は邦人と現地人からなる1500名の自警団を組織し、在留邦人や各国民の生命財産の保護に努めていた。大戦が勃発するとドイツ官憲に小嶺造船所は接収された。
しかし、 小嶺のそれまでの総督との関係から接収が解除され平常通りの活動が認められたが、
その1カ月後の9月13日にはオーストラリア軍が上陸し、 ラバウルはオーストラリア軍の軍政下に置かれてしまった。
しかし、 たまたまオーストラリア軍の中に5年前まで小嶺とともに船長をしていたジャックソン予備役少佐がいたため、
小嶺はオーストラリア軍に協力することとなり、 通信所の建設工事など各種の工事を依頼された。
一方、オーストラリア軍が警備上で特に問題としたのがドイツ砲艦コメット号(250トン)の存在であった。
小嶺は10月4日にコメット号がどこに隠れているかをジャックソン少佐に聞かれると、
コメット号が隠れ得る港はニューギニアではルル港しかないと回答し、 小嶺は直ちにジャクソン少佐の小蒸気船ニュサ号に乗ってルルに向かった。
コメット号をニューブリテン島北西にあるタラシア湾で発見すると、 小嶺は夜陰を利用して土民兵を率いコメット号に向かい、
「ボートを艦側に漕ぎ着けただ1人日本刀1振りを小脇に抱えて艦上に乗り移った」。
そして、 「艦長室に迫り、 やにわに侵入して寝入っていた艦長エルマン大佐を説得して捕獲し、
率いて来た土民兵を指揮して「自らブリッジに立ち意気揚々とラバウルに凱旋」した。
凱旋後に小嶺から総督への贈呈式が行われたが、 総督は小嶺のこの行為を喜び「小嶺ヲ主賓トシテ大宴会ヲ催シ日英万歳、小嶺万歳ヲ三唱シタ」という。
小嶺はこの功績により名誉陸軍大尉の称号と感謝状を与えられ、 「総督ヲ除クホカ脱帽ノ敬礼ヲナス要ナシ」と達せられたという。以上が小峯商会の「戦時在住報告」および昭和10(1935)年7月28日付の『サンデー毎日』が「昭和の山田長政
- 日本刀を掲げて単身独艦を生け捕る」と報じた小峯のコメット号捕獲物語りである。
その後、 さらに小嶺は11月20日にアドミラルティ諸島で農場視察の許可を得ると、
総督から未だにアドミラルティー諸島の降伏手続きが終了していないので、 ドイツの責任者から同島の受け渡しを受けるよう依頼された。
そこで小嶺は汽船シャラ号で23日にアドミラリティー諸島に向かい、 逃げる総督を説得し庁舎及び書類の引き渡しを受け総督を同道してラバウルに帰投した。
一方、1914年12月28日に日本海軍の第2南遣支隊の巡洋艦筑波、 矢萩、
駆逐艦山風、海風が状況視察に入港すると、 小嶺は司令官を訪問し食糧が欠乏していることを訴え、
筑波から米100表、醤油50樽、 矢萩から米50表、醤油20樽の支給を受け、
さらに日本への連絡に必要ならば便乗を許すといわれたため、 店員の鮫島三之助を補給船彼岸丸で、日本に送りラバウルの実情を報告させた。
3 歴史の真実
しかし、 オーストラリアの第一次大戦の公式海軍戦史などによると、 次のようなものであった。
オーストラリア軍がニューギニアを占領し、 ドイツ総督は降伏したがコメット号は逃走して所在が不明であった。
ラバウル港長に任命されたジャクソン海軍少佐は10月4日にコメット号がニューブリテン島の北岸に潜伏しているとの情報を得ると、
ニュサ号に陸軍中佐パットン(その後少将となる)と歩兵1個小隊、 イギリスの市民権を持つ現地人の通訳ホワイトマン、
それに小嶺を乗せて10月8日にシンプソン港を出港し、 タラシア湾に向かい10日夕刻に沖合の島影に投錨した。
そして、 小嶺の援助により原住民から正確な情報を入手し、翌11日午前5時45分に酋長を水先案内として乗船させて抜錨し、
コメット号の見張りに気づかれないように400ヤードに接近し、 パットン中佐が12名の兵隊と通訳のホワイトマンがボートでコメット号に乗船した。
このとき艦長は髭剃り中で応戦の暇なく、 士官5名と乗員52名が降伏した。
一方、 ニュサ号は臨検隊を派出後はコメット号の50ヤードに停泊し砲を構えて威圧した。
「ニュサ号が不意に目前に現れたため、 何ら準備できなかったコメット号は降伏の外なかったものの如くであった」とされている。
また、 小嶺についてジャクソン少佐は「ラボウルの小嶺磯吉ニュサ船上にあり、
コメット号の精確なる位置を知り得たるは彼の助力と土人に関する智識に負う所が多い。
同氏は大なる冒険心を示し且つニュサ号はコメット号の砲撃に会う機会の在り得る事に就いては毫も意に介さざるものの如し。
彼は吾人に助力する事に焦慮し、 此討伐隊に伴なはれんため、 タレレ群島沖に於いて難破船救助作業を実施中であったが、
それを中止して来援したものであった」と報告している。 しかし、 オーストラリアの海軍戦史はホワイトマンはコメット号を降伏させたのは自分であったと主張しているが、
ジャクソン少佐も死亡しているため確認できなかったと記している。 なお、 オーストラリア海軍戦史には小嶺が8月11日に25馬力のボートをオーストラリア海軍に寄贈した記録があるので、
この25馬力のボートの寄贈が250トンのコメット号の寄贈となり、 さらに話が大きくなってコメット号の生け捕り武勇伝となってしまったのであろうか。
〈参考文献)
小嶺商会店員鮫島三之助「戦時在住状況報告書」『戦時書類』第25巻
上条深志編『戦線一万五千海里』(南洋群島文化協会、 1941年)183- 202頁。
Arthur W.Jose,The Royal Australian Navy, 1914-1918(Sydney:Angus & Robertson, 1937),pp.120-121, p.551.