横須賀共済病院看護専門学校100年史

目次
第1章 看護婦養成所の創設前史
第2章 共済病院看護婦養成所の教育
第3章 看護婦養成所の卒業式
第4章 戦争中の共済病院と看護婦養成所
第5章 敗戦後の看護制度の改善と看護婦教育

おわりに
付録   規則と学則


第1章 看護婦養成所の創設前史
第1節 海軍医学と陸軍医学

 横須賀共済病院看護専門学校の前身である共済病院看護婦養成所の卒業生は、躾が非常に厳しく、清潔、整頓、掃除は言うに及ばず、朝礼では服装点検があり、制服は常に皺があってはならず、特に帽子のかぶり方は厳しかったという。また、言葉にもうるさく、話しかけるとき、人前を横切るときなどにも「すみません」はご法度で、「おそれいります」と言わされていた。これは看護婦養成所長の横須賀海軍共済組合病院の院長や、養成所の教官の多くが現役の海軍軍医であったためではない。それは赤十字看護婦の創設者のナイチンゲールの看護婦道を実践したからであった。この看護婦道を実践するために日本赤十字社の委託を受け、創設されたのが本校であり、1909(明治42)年から1913(大正7)年までの5年間は日赤看護婦の委託教育が行われ、共済病院が自院の看護婦の養成を始めたのは、日赤の委託看護婦教育が終わった6年後の1919(大正8)年からであった。本校の創設100周年にあたり、伝統に輝く本校の歩んできた道をたどってみたい。
 
 本校の看護婦が学んだのはイギリス医学、言葉を換えれば海軍医学であった。日本の医学界には「臨床医学・予防医学・栄養学」などを重視する実証的なイギリス医学と、「細菌学・病理学・薬学」などの理論を重視する学術的なドイツ医学の2つの流が交差しているが、そのルーツは江戸時代にさかのぼる。江戸期にオランダ海軍軍医ポナペに長崎養生所(現、長崎大学医学部)で伝授されたオランダ医学はドイツ医学の亜流であったが、この養生所には薩摩・長州藩士は入学を許されなかった。ポナペの一番弟子の松本良順は徳川家の主治医となり、戊辰戦争では奥州列藩同盟軍の軍医として会津に治療所を開設し、官軍と戦ったため投獄された。しかし、その後、山縣有朋の引き立てにより海陸軍軍医寮の軍医頭、次いで陸軍軍医総監となったが、これは長崎養生所で教育を受けた医師が維新政府の内務省衛生局長や文部省医務局長などに登用され、ドイツ医学が日本の医学界・官界、特に陸軍に大きな影響を与え、日本の医学界に君臨していたことにあった。


  一方、長崎養生所に入学を許されなかった薩摩藩は、戊辰戦争が始まり負傷者が出ると漢方医では処置できず、英国公使館付医官ウイリアム・ウイリスを招聘した。ウイリスは京都、江戸、会津へと官軍とともに進み、クロロホルムによる外科手術、鉄のスプリントによる骨折の治療などを実施し、多くの人命を救い傷を治したが、西郷従道などの薩摩藩の要人も治療を受けた。この功績からウイリスは1869(明治2)年3月には東京医学校長兼病院長(現、東大医学部と東大病院)に抜擢された。しかし、長崎養生所派の反発が強く半年後の12月には開成医学校教頭(現、鹿児島大学医学部)として左遷され、さらに西南戦争により西郷隆盛が失脚すると、イギリス政府は本人の反対を無視して強制的に帰国させてしまった 。日本医学と海軍医学の抗争は海軍医学の敗北に終わった。
  しかし、海軍医学の灯火は消えなかった。戊辰戦争中にウイリスの助手であった石神豊民が海軍軍医総監になると、1873(明治6)年には海軍病院学舎に英国のセント・トーマス病院からウイリアム・アンダーソン教授を招聘し 、さらに1873(明治8)年には高木兼寛をセント・トーマス病院医学校(のちのロンドン大学医学部)に留学させた。しかし、高木が5年間の留学を終えて帰国した1879(明治13)年には、ドイツ医学が日本の医学界を支配しており、高木が学んだイギリス医学を実施できる場所は海軍以外にはなかった 。

 高木は帰国後の1881(明治14)年1月には有志と成医会を、5月には成医会講習所(のちの東京慈恵医科大学)、さらに1882(明治15)年には福沢諭吉の門下生で慶応義塾医学所長の松山棟俺などの有志とはかり、有志東京共立病院を設立した 。これは我が国で最初の施療病院であった。一方、高木は東征大総督兼会津征討大総督(のち左大臣)となった有栖川宮の力を借り、妃殿下を総裁として慈恵会を創設し、皇后陛下をはじめ皇室からの寄付、さらに伊藤梅子(博文の妻)や井上武子(馨の妻)などの慈善会婦人会による寄付や鹿鳴館のバザー(日本最初のバザー)の収益を受け、1890(明治23)年には成医講習所は成医学校、翌1891年には東京慈恵会医学校と名を改めた 。高木は31年間も校長を勤め「病気を診ずして病人を診よ」と、患者の視点で治療にあたることと、イギリス医学の「実証医学」「予防医学」を教育したが、
  初代学長や病院長は初代海軍軍医総監の戸塚文海、副学長は副医務総監の高木であった。このため1893(明治26)年の第4回帝国議会では、海軍軍医学校の中に私学が同居し、入口に2枚の看板があり、軍医学校の生徒は30から40人しかいないのに私学の生徒は170人から80人であるが、その私学の学生が軍医学校の教官から教務を受けている。1894(明治27)年度の軍医学校の予算は1万7000円であるが、その4分の3は私学の学生を教育するために使われていると追求された。しかし、海軍は「左様なことはありません」、私学の学生の傍聴を校長が許したのかもしれないが、海軍生徒の講義を傍聴をしても「それがために海軍の経費が増したなどと云うことは有ろう筈がありませぬ。それよりかお答え出来ません」などと回答し、高木などが辞任することはなく、海軍軍医総監と東京慈恵医学校の校長を務めていた 。現代では考えられない「坂の上の雲」の時代の議会答弁であった。

 一方、高木などの海軍軍医に衝撃を与えたのは、1881(明治13)年の京城事件(日本公使館焼討事件)で、在留邦人の保護に朝鮮に出動した砲艦金剛や日進など5隻の艦艇に脚気患者が多発し、戦闘能力が発揮できず、さらに1882-83(明治15-16)年の龍驤(東海鎮守府所属)の遠洋航海では、370名中169名が脚気となり25名が死亡した事件であった 。当時、脚気は海軍だけでなく国民病といわれ、政府も1877(明治10)年には脚気病院を設立し西洋学医や東洋医学の医師などを集めて対策を研究していたが、脚気は血液の異常、心臓病の一種、あるいはアジア特有の細菌による風土病などと考えられていた。
 
 海軍軍医副総監となった高木は、なぜイギリスの軍艦に脚気患者が少なく、日本の軍艦に多いのかを追求し、「食事・栄養説」を唱え「兵士に麦飯を」と主張した。反対派の東京大学教授の緒方正規は「脚気病原菌の発見」、大沢謙二教授は「麦飯ノ説」などの論文を発表し、高木の麦飯論を批判した。また、内務省衛生局長の長与専斉や陸軍軍医総監石黒忠恵は黴菌説を発表し、陸軍軍医の森林太郎(鴎外)も『日本兵食論大意』を書き麦飯無効論を展開していた 。陸軍は「陛下の軍人ともあろう者に囚人と同じ麦飯を食わせられるか」「麦飯では士気が上がらぬ」などと反対したが、海軍は1884(明治17)年1月には「艦船営下士以下食料給与概則」 を定め、強引に食事を現金支給から現物支給に切り替え、主食を麦飯とパンに変更した。兵員からは食事の現物支給やパン食に強い反対があったが、それは下士官兵には18銭の食費が支給されていたが、下士官兵たちが食費を10銭程度に押さえ残金を受け取っていたためであった。当時の小学校の校長(名古屋)の月給が3円20銭(月給は天保銭400枚、重さが2貫目―7,50キログラム)の時代に1日10銭の臨時収入は大きく 、部隊によってはハンガーストライキも起きた。この時に生まれたのが海軍カレーであった。

 脚気栄養説を認識させ兵食を改善するには実証が必要であった。高木は脚気患者が多発した「龍驤」と同一航路で遠洋航海を実施させ、患者が出なければ栄養説が実証できると考え実験航海を上申した。しかし、実験航海には海軍の総予算が308万円の時代に5万円の追加予算が必要であり、財政当局との折衝は困難を極めた。そこで高木は明治天皇に直訴するなどして5万円を別途確保し、1884(明治17)年度の「筑波」の実験航海で脚気患者が出なかったことから高木の栄養説は実証された 。そこで海軍は「肉を食べろ」、「パンにはバターを塗れ」と指導したが、盛りそば1杯が1銭5厘の時代に、1日25銭の食費は贅沢であると、1890(明治23)年の第1議会では「海軍の糧食費が陸軍より高いのはなぜか」との質問や、「海軍の糧食費は日本の国力に比べて高すぎる」とかの非難を受け、海軍は「遠洋航海では日本食が貯蔵不適であり、さらに7、8年前から兵員に脚気病に罹る者多く、対策として麦飯を食させると減少した。さらに肉とパンとを与えると一層患者が減ずるようになった。また、生肉などは貯蔵が難しく缶詰を搭載するため、遠洋航海中は1日25銭、近海の場合でも16銭5厘5毛の食費が必要であると苦しい答弁をしていた 。

 さらに肉食の習慣がない農村出身の兵士には肉やパンなどの食べ残しも多く、1893(明治26)年の第4議会では論客の島田三郎議員から「呉鎮守府に於ける水兵は常に龍動『モルトン』商会の『バタ』を喰ひ、その残缶は鎮守府の芥溜に山をなし、また鎮守府の水兵は『ロース』牛肉を食糧となし、その牛の残肉を広島師団で買収し兵卒の食料となすと聴く、 政費節減の際、政府は何を以て呉鎮守府の贅沢を是認せらるるや 」と激しく非難された。しかし、その後は高木の主張も徐々に理解され、陸軍でも1884(明治17)年には大阪連隊など麦飯に切り替えた部隊もあった。しかし、ドイツ医学を奉じる東大医学部や陸軍の細菌説・麦飯無効論が依然として陸軍中枢を支配し、日清戦争では前線の兵士に白米を送り続けたため戦死者9770名に対し、3944名を脚気で失った。それでも『陸軍軍医学雑誌』には「脚気病原菌確定報告」や「脚気病ノ一症候ニ於ケル小実験」などの細菌説が掲載され 、森鴎外も1901(明治34)年8月発行の『公衆医事』や、『東京医事新誌』には「脚気減少は果たして麦を米に代えたるに因する乎」などと高木に反論していた 。このため10年後に起きた日露戦争でも21万1600余名が脚気にかかり2万7800余名を失った 。この事態は国会でも問題となり、戦争が終わると「脚気病調査会設置法案」が可決されると、森医務局長は1908(明治41)年はじめに陸軍大臣寺内寿大将に陸軍では毎年脚気により「兵員ヲ損スルコト甚タ多ク」、「各戦役ノ実験ニ徴スルモ」、この予防に努めるのが「軍事上極メテ急務」であると、脚気に関して総力を挙げて研究すべきであるとの上申書を提出した。

 そして、1908(明治41)年5月30日に勅令をもって陸軍大臣を委員長とする「臨時脚気病調査官制」が公布され第1回会議が開かれ、 明治43年には鈴木梅太郎がオリザニン(ビタミン)を発見し、脚気の原因がビタミン不足にあることが世界の趨勢となっていた。しかし、臨時脚気病調査会が脚気の原因がビタミンBの不足と発表し、臨時脚気病調査会を解散したのは1925(大正14)年であった。の後、高木は南極大陸に高木岬(Takaki Promontory)と名が付され、男爵を贈られた。しかし、高木への反発か、イギリス医学への反発か、日本では「麦飯男爵」と揶揄されていた。一方、ライバルの森鴎外は黴菌説へのこだわりだったのか、脚気論争に敗北したためか、病床で「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」。宮内省や陸軍などとの「縁故アレトモ」、死んだ「瞬間」から「アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス」と遺言して叙勲や爵位を辞退したが 、それは栄養説に反対し多数の兵士を満州で死なせた自省にあったのか、高木に爵位を与えながら自分に与えない宮内省や陸軍への反発にあったのかは分からない。
         明治41年の死亡原因別順位と人数

          順位 病名 死亡人数
 1 結核性疾患 9万8871人
 2 脳出血 7万3780人
 3 肺炎 6万6260人
 4 ガン 2万9894人
 5 脚気 1万786人

第2節 看護婦養成所創設前史
日本にナイチンゲールの赤十字看護婦教育を導入したのは、第2代海軍軍医総監の高木兼寛であった。高木は1875(明治8)年にセント・トーマス病院医学校に留学したが、高木が強い印象を受けたのが患者に対する看護の重要性と、「看護師と医師のチーム連携治療」であり、医療に於ける看護婦の重要性であった。これは高木が留学したセント・トーマス医科大学付属病院には、赤十字の母ナイチンゲール女史が創設した看護婦学校があり、看護婦と医師がチームを組み効率的な治療にあたっていたのを実見したことにあった。しかし、看護婦養成所の創設は資金もなく容易なことではなかった。明治13年に帰国した高木は海軍軍務局長の戸塚文海大佐(のちに海軍軍医総監)や福沢諭吉と謀って慶応医学所を創設した松山棟庵と新しい医学を教え、さらに医師国家試験を受験する医学生のためにと帰国翌年の明治14年に「成医会」を立ち上げた。これが現在の東京慈恵会医科大学である。成医会という組織は出来たが実地に研究し教育するには病院が必要であった。そこで高木や松山は有志からの寄付で無料医療を施せる有志共立東京病院を創設した。これが天皇の耳に達すると明治天皇から6000円のご賜下金があり、有栖川宮威仁親王殿下が病院の総長を引き受けられ、明治17年4月19日に開院式が行われた。病院長は戸塚文海海軍軍医局長、副院長が軍務局副局長の高木であった。
  
 しかし、高木の悩みは看護婦の能力であった。この高木に共感し看護婦養成所建設資金の募集に協力したのが、日本最初の女子留学生としてニュー・ヘブン病院の看護コースで学んだ陸軍大将大山巌の妻の捨松夫人であった。捨松は1885(明治18)年に伊藤博文の妻・梅子、井上馨の妻など6名の婦人慈恵会会員とともに、看護婦が医師に病状などを正確に観察し、病状の経過を知らせなければ、いかに医師が優秀であっても診断を誤り投薬を誤るが、日本にはまだ看護婦を教育する施設がなく、多くの人命が失われており看護婦養成所の創設が急務であると、「看護婦教育所設立之大旨」を婦人慈恵会会員に送り、840人から6498円の寄付を集め、この資金で1885(明治18)年に慈恵会医科大学付属看護学校が設立され、高木が学校長としてナイチンゲールの思想を具現化した日本最初の看護婦養成所を設立し、その理念が横須賀海軍職工共済会病院付属看護婦養成所に引き継がれたのであった。

第3節 看護婦養成所創設当時の横須賀とその医療制度
 最初に看護婦養成所を設立し運営してきた横須賀海軍共済会病院について説明しておこう。明治維新後に工部省と兵部省が横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の争奪戦を演じたが、それは横須賀製鉄所の規模や技術力などが日本一の近代的工場だったからであった。横須賀製鉄所がいかに大きな工場であったかは、1887(明治20)年に従業員が100名以上の工場は全国に7ヶ所、日本最大の三菱長崎造船所でも746名、県下最大の日本郵船横浜鉄工所でも631名であったが、横須賀製鉄所は2886名であった。また、大きいだけでなく、採鉱機械を生野鉱山に提供し、富岡製糸工場の建設に技師を派遣するなど、横須賀製鉄所が日本の近代化に先導的な役割を果たす日本の技術センターでもあった。

 さらに技術だけでなく近代的雇用制度の確立や労務管理、工員の福祉厚生などの面でも先駆的な存在であった。例えば労務管理においては@月給職工制度(公休日や病休にも給与支給・1873(明治6)年)、A定期職工制度(勤務年限による賞与加給・1876(明治9)年)、B賃金等級、昇給制度、特殊作業手当などの導入、C女子の採用と賃金の平等(採用は1906(明治39)年、1911(明治44)年には賃金の上限を53等級中16等級、1918(大正7)年には上限を5等級に拡大、労働時間を8時間制(男子工は9時問半)などを確立した 。

 一方、看護婦養成所があった横須賀(現在の元町)は、製鉄所の建設を始めたころは「僅に30余戸の小漁村」であった。1865(慶応元)年に幕府が造船所を設置以来、「戸数頓に増加し明治6、7年頃には既に1000有余戸の大きに至り、今年(1889(明治22)4月には4000余戸、人口は8700人」となり、明治40年に市制が敷かれた時には6万2876人(衣笠地区を除く)に増加し、横浜市に次ぐ大都市に発展した 。「海軍あっての横須賀市」との言葉が示すとおり、電灯や電話、水道や鉄道なども海軍の存在があって、他の都市より早く市民に提供された。電報は1876(明治9)年3月には鎮守府が臨時電報取扱所を開設し、市内の企業に開放したが、電話も横浜より5年も速い1885(明治18)年には横須賀と長浦の間に海軍専用電話が使用されていたが、電灯も横浜より5年も早い1886年には全国の工場のトップを切って、孤光灯発電機を据え夜間作業用に使用しており、横須賀海軍工廠に勤める事務員や職工は文明開化の実感を横浜市民より早く身近に体験していた 。

 1865(慶応元)年9月27日、徳川幕府高官とフランス人技術者の手によって、横須賀製鉄所の鍬入式が行われ、ポール・サバチエ1等軍医が、製鉄所で働く約40人のフランス人のために、治療を行っていた。一方、工事に従業する人夫、囚人のためには横須賀村医、蘇山が苗字帯刀を許され嘱託として診断を開始したが、1872(明治5)年ころにはサバチエの助手兼通訳の横須賀村の村医村上伯英が、明治7年には村医石井宗順が工廠前で開業し、日本人従業員のための治療に当たっていた 。しかし、職工に対する医療制度は確立されておらず、公傷の場合は官費で治療するが、私病の場合には薬価 (定雇職工のみは施薬) をとられていた。その後、1887(明治20)年の海軍省の通達によれば、公傷はすべて官費で治療し、重症は海軍病院に収容すると規定されていたが、それ以外の疾病及び家族の場合は自費で、職工共済会が僅かにその一部費用を補助するだけであった。この海軍工廠の職工の実態を見習工として、1903(明治36)年頃に勤務した社会主義者(当時、共産党はなかった)の荒畑寒村は、日露戦争前夜の横須賀海軍工廠の情景を次のように書いている 。

「徹夜不眠のため疲労の極に達した職工たちが木材などをかついだまま何かにつまずいて倒れるなり死んだように昏睡してしまった例は私たちもしばしば目撃した。…中略…日をおって過激の度を加える労働が職工の間に発病者を増すことはまぬかれ難い。脚気を患っている多くの職工が青竹の杖にすがって工廠の門をくぐる姿をみるのは珍しくなく、新高の艙口を中甲板に降りると青ぶくれした生気のない顔が悩む脚を投げ出して坐り仕事をしている。それを見ると幽界をさまよう死霊に出会ったような無気味さを感ぜずにはいられない。殊に悲惨なのは肺結核患者であった。造船工廠職工の間に結核患者が逐年増加していることはつとに知られていて、そのために時々海軍軍医の健康診断が行われたが、結核と断定された者の運命は冷酷な解雇の2字に外ならない」。
 

寒村は過酷な労働に身をむしばまれて行く職工達の無気力、当局の仕事の方にしか目を向けない冷酷さにいきどおりの言葉を述べているが、このような加重労働を強制したのは日露戦争の突然の勃発で、海軍は戦争を始めるとは考えていなかったのであろうか、海軍大臣から横須賀鎮守府司令長官井上馨大将に「艦艇ノ修理ヲ要スルモノハ」大至急工事を竣工すべしとの訓令が出されたのは1903(明治36)年12月12日であった。この指示を受けた海軍工廠長の伊東義五郎海軍中将は「工事ノ必要程度ニ応ジ、徹夜若クハ4時間ノ増服業ヲ命ジタリ」「一般公暇ヲ廃シ、更ニ職工ノ大部分ニ徹夜工事、若クハ長時間残業ヲ課シ、特ニ緊急工事ノ如キハ1月1日ト雖モ休業スルコトナク、一般職工ニ臨時出業ヲ命ジ 」ている。このような重労働や寒村の不満などが無視できない事態になりつつあり、この加重労働から病人も続出した。さらに日露戦争がはじまると工員が増加し、病院の収容能力を超えたが、海軍病院も傷病兵が増加し対応できなくなっていった。
 なお、海軍工廠の工員数は日露戦争の開戦前は4143名であったが、戦争が終わった明治38年末には1万771名と約2倍に増加していた。

    横須賀海軍工廠の職工数

       開戦時と終戦時 合計
開戦時(明治37年2月) 2864名
終戦時(明治38年10月) 5437名
開戦時(明治37年2月) 1019名
終戦時(明治38年10月) 1295名
開戦時(明治37年2月) 2680名
終戦時(明治38年10月) 4039名

第4節 横須賀海軍工廠職工共済会病院の創設
 幕末にも病に倒れた工事人足、労役囚等のために、横須賀製鉄所に看病夫を置いたとの記録があり、1884(明治17)年はじめて海軍造船所条例第32号に「所内に軍医以下看護人若干人を置く 」とあることから工廠内にも治療室などはあったが、1906(明治39)年3月15日に横須賀職工共済会会長(横須賀海軍工廠長・伊東義五郎海軍中将)が、海軍工廠従業員やその家族の診療を海軍軍医中監(中佐相当)木戸竜仙に委託して、豊島町中里145番地の民家を借りて4月29日には仮医院を開設し診療を開始したが、この医院はきわめて粗末な木造平家であつた 。

 一方、同年5月11日には工廠軍医長の鈴木倚象、工廠付広瀬轍大軍医、病院長木戸龍仙、共済会理事窪田重一主計中監を横須賀職工共済会医院新築設計委員に任命し、設計と建築は海軍技師北沢虎造に依託した。1907(明治40)年10月5日には建設場所を横須賀市公郷町2259番地(田戸台・裁判所前)と定め工事を開始した。1908(明治41)年4月20日には建築中の本館(木造2階建て)の診療室の一部と薬局および事務室が完成したので、中里にあった病院は閉鎖され新病院の診察を開始した。さらに5月には手術室(木造平屋建て)、病室(67床)、賄所、浴室、倉庫、洗濯所、汚物焼却所、貯水所、舎宅が完成した。病院の建坪総面積は287坪7、敷地面積は2593坪(945平方メートル)、総工費2万4495円58銭4厘であった。
 同年5月30日に開院式を挙行したが、当日の職員は顧問、海軍軍医総監鈴木重道、顧問海軍軍医中監鈴木侍象、院長木戸龍仙、医員助手木村良助、医員助手間野国平、薬剤師児玉龍茎、調剤助手山田寛一、事務員小坂井栄、産婆兼看護婦加美山操、同問野静、外に看護婦及び同見習4名)」であった 。なお、1909(明治42)年4月6日には横須賀職工共済会医院を横須賀職工共済会病院と改称した。

  初代院長は海軍軍医大監木戸龍仙であったが、戦前の歴代院長中、唯一の予備役の院長で、その後の医院長は終戦まで現役の軍医であったことが示すとおり、横須賀海軍共済会病院、同付属の看護婦養成所は海軍医学により海軍式に運営されていた。この病院は高木の「慈恵」の心からか「薬価入院料等極めて低廉なり。薬価の如き横須賀医師会の規定に比するに僅かに5分の2にして半額に見たず 」と安価な医療を提供しただけでなく、さらに海軍工廠は生活協同組合に相当する職工共済会購買所を運営するなど工員に対する福祉厚生面でも先端にあった。しかし、「親方軍艦旗」で経営は火の車で、開院と同時に共済会基金から毎月200円の補助を受けていたが、大正期に入っても「独立経営困難につき艦政本部より補助金月割り1100円の交付を受く(大正7(1918)」とか、「兵費不足の為、艦政本部より金1万2000円借入、経営費に繰り入れる(大正9年)」などの記事があり 、再三にわたり艦政本部から補助金を受けていた。また、設備の拡張費などについては、艦政本部だけでなく浦賀ドックや日本製鋼所などから寄附を受けていた。 その後1918(大正7)年には職工共済会が海軍共済会と合同されたため、海軍共済組合横須賀病院と名前がかわった。

  1923(大正12)年9月1日の関東大災害ではほとんどの建物が倒壊したが、幸い入院患者73名中の死亡者は1名であった。しかし、深田台に再建しても地盤が弱く災害時に不安であり、工廠から遠く患者の通院にも不便であつたことから、1924(大正13)年5月に深田町225番地(現在の位置)に移転し新築することが決まった。

 1925(大正14)年4月15日に新築工事に着手し、艦政本部からは「初度調弁費の他、一切の支出を合して25萬円以内にて支弁のこと。見積金額より超過する場合は医員社宅、その他の建物を中止又は変更し、金25万円程度に止むること 」と指示された。 竣工式は1926(大正15)年1月26日に行われたが、『横浜貿易新報 』によれば「横須賀一の建物、共済病院落成す。屋上に庭園」との見出しがあり、つづいて「昨秋深田町に新築工事中の横須賀共済病院はいよいよ落成し、25日公郷の旧病院から重症者4名を残して、60名の患者を新館に引移し、引続いて第2期工事の旧建物の移築に着手する筈、新館の工事費は約17萬円、2階建鉄筋コンクリートで設備も非常に完備し、屋上に庭園を設け、横須賀一の堂々たる建物である」と報じているが、艦政本部からの厳しい予算的制約にもかかわらず屋上には庭園やテニスコートまで作っていた。その後、1930年代に入ると諸施設の拡張が始まり、1929(昭和4)年には看護婦宿舎、1934(昭和9)年には本館の増改築、検査室、食堂、第2病舎などを増築し、診療科目も内科、外科、耳鼻科、眼科、産婦人科、小児科、歯科、X線科などの総合病院へと発展し終戦の年の3月には第2本館外来、第5・第6病棟が完成した。

第5節 看護婦養成所の創設と日赤看護婦の教育
 横須賀共済病院看護専門学校の母校である看護養成所が誕生した当時の横須賀は、どのような町であったのであろうか。なぜ、横須賀共済会病院に日赤の依頼を受けて看護婦の養成が行われたのであろうか。日本赤十字社を創立したのは元老院議官で後に伯爵となった佐野常民で、佐野は1877(明治10)年の西南戦争時に敵味方なく負傷兵を看護する博愛社を創設した。しかし、当初新政府は博愛社の精神を理解せず、設立を許可しなかった。そこで、佐野らは征討総督の有栖川宮熾仁親王に直接設立を願い出た。熾仁親王は天皇の臣民である敵方をも救護するその博愛の精神を認め、政府に諮る事なく設立を認可した。ただ敵味方共に助けるというその思想が一般兵士にまでは理解されず、双方から攻撃もしくは妨害などを受け死者が出たと言われている 。この日本赤十字社を強く支援し育てたのは陸軍で、橋本陸軍軍医監がヨーロッパの赤十字社を視察し、赤十字看護婦の養成には病院が不可欠であると、1886(明治19年)11月に日赤病院を創設した。次いで石黒陸軍軍医監と日赤の平本幹事が世界赤十字総会に出席し、ドイツのアウグスタ病院と看護婦教育の教師の派遣交渉を行った。教師を招くことには成功しなかったが、日赤は1890(明治23年)4月には10名の看護婦の教育を日赤病院で開始した。

 教育期間は1カ年、学期は3期に分かれ、教育科目としては第1期には「解剖学大意」「生理学大意」「消毒法大意」、第2学期には「看護法」「治療介輔」「包帯法」、第3期には「救急法」「傷者運搬法」「実地温習」などが教えられた。しかし、創設期には教科書も未編纂で「陸軍看護手教科書」が使われ、補習教育も「救護員心得」「看護婦訓誡」「救護員礼式」「陸軍の官、呼称」「戦地における陸軍病院入院患者の取扱」「予備病院、要塞病院の勤務」「海軍病院の勤務」など、陸軍が主体の陸軍式の看護術が教えられ、看護実習も陸軍の東京衛戍病院に委託し、この実習では(1)救護員心得、(2)看護婦訓育、(3)救護員礼式、(4)陸海軍の組織、階級、服装、(5)戦地における陸軍病院入院患者の取扱、(6)戦地における陸軍病院入院患者死者の処置および患者の遺言に関する事項(7)予備および要塞病院勤務と陸軍が主体であり、海軍については最後に「海軍病院ニ於ケル勤務ノ大意」と申し訳的に期されている 。また、学生は入学すると月5円の学生手当が与えられるが、卒業後は2年間の病院勤務とさらに、その後20年間は「身上ニ何等ノ異変ヲ生スルモ国家有事ノ日ニ際セバ速ニ本社ノ召集ニ応ジ患者介護ニ尽力センコトヲ誓フベシ」という義務が付されていた 。

 しかし、日清戦争が始まると日赤の看護婦だけでは不足で、看護婦の大量教育が必要となり全国の大病院に委託して速成教育を行い、さらに各地の病院から募集した看護婦に3ヶ月間の速成教育を行ったが、その数は564名に過ぎず、しかも看護法に統一がなく、技量にばらつきがあり、さらに軍事的知識に欠けていた 。このようなことから日赤に依頼され横須賀や呉の海軍職工共済会病院付属看護婦養成所が誕生したのである。しかし、日本赤十字社が創立されたのは「救護員ヲ養成シ救護材料ヲ準備シ、陸軍大臣、海軍大臣ノ定ムル所ニ依リ陸海軍ノ戦時衛生勤務ヲ幇助す 」とされ、活躍の場面が主として陸戦闘場面であり、創立に陸軍が関わっていたことから陸軍方式、言葉を換えれば長崎の蘭学の源流のドイツ医学であったと思われるが、日赤時代の史料は現在残っていない。

 共済病院で看護婦の教育が始まったのは1909(明治42)年で、第1期生は広く神奈川県下から募集され定員は20名であった。修学年限は3年で前半は学術、後半は実地研修をすることになっていた。学費は全額、日赤神奈川支部の負担であったが、卒業後は10年間、救護看護婦として戦時、災害時に応召の義務があった。第1期生19名の入校式は1909(明治42)年4月2日午后2時より、新築成った田戸台の病院で行われた。1期生の入所式の模様を「横浜貿易日報(のちの神奈川新聞)」は「昨2日、横須賀職工共済会病院に於いて、看護婦養成所始業式が行われた。先づ、始業生一同式場に入場し、次いで日赤神奈川県支部長、周布知事の御諭旨奉読及び養成開始の辞あり。かくて教頭の訓示、来賓の祝辞あり。終って生徒代表、山本若子の答辞あり。当日の主なる来賓は周布神奈川県知事、県内務部長、湯浅倉乎、日赤支部幹事、日比知周、北古賀鎭守府司令長官代理、鈴木海軍病院長、飯田陸軍病院長、山口重砲兵旅団長、藤井東京湾要寒司令官、若林三浦郡長、鈴木横須賀市長等にて教頭は木戸龍仙氏、講師は海軍病院軍医少監大貫安三(後に当院院長になる)、海軍病院婦長栗飯原静、海軍病院副院長石原庫三の諸氏にして、同病院は入院患者20名余と外来患者50名-60名もあれば、修業生は学術と実地についての助手をなさしむることとなりおれり 」と報じている。日赤の依頼を受けると共済会病院は1911(明治44)年3月3日に病院内規を改定し、「看護婦取締規程」「看護婦養成規程」を制定したが、この資料は残っていない 。

 日赤の依頼教育が終わり共済会病院独自の看護婦を教育し始めた大正時代のカリキュラムは、慈恵医科大学付属看護養成のカリキュラム、言葉を変えればナイチンゲール看護婦養成所と変わらぬものであった。教育科目をナイチンゲール看護婦養成所と比較すると、「マッサージ」が「按摩法大意」となっている以外、慈恵看護婦養成所も横須賀共済会病院看護養成所も看護法、包帯術、消毒法、救急処置法、薬物調剤学、治療機器取扱法、手術及び治療介補、患者運搬法などの実技に、生理学大意、伝染病学大意、衛生学大意、解剖学大意などの科目が教授されていた。また、ナイチンゲールが重視したのが教育者として、管理者として優れた知識と能力、高い人格を備えた看護婦の育成であったことから、セント・トーマス医学校付属看護婦養成所への入学者の選抜は知識(読み書き、計算)、動機、人格、健康が重視され、優秀な人材を確保するため被服、居住、食事を支給し、年間10ポンド程度の小遣いを与えていたが、慈恵看護養成所は学費7円余が貸与され、病院実習では1日15銭の日給が与えられていた 。

 さて、最初に看護生徒が見た横須賀は、どのような街であったのであろうか。1908(明治41)年に横須賀の軍港堂書店から発行された『横須賀案内』には、横須賀線も田浦を過ぎると「客車という客車、尽く軍人で充満し、普通の洋服や和服の奴なんか頓と幅が利かなくなる」。駅を降りて軍港を見ると日露戦争で捕獲したワリヤーグ(宗谷)、ペレスエート(相模)、アレキサンドル(壱岐)が目に付く、ロシア人がこれを見たらどのように思うであろうか。これを見るにつけても戦争には負けられぬ」と書かれていた。また、同書には逸見や汐入の通行人の6分から8分は軍人か職工、中央付近になると5分5分となり、平坂を登ると軍人と職工は4分、6分の中の2分が農業、それが中里付近になると農家が4分で軍人職工が3分、その他が3分となっていた。看護養成所が誕生した前年の1907(明治40)年の横須賀市(衣笠、長浦などを含まない)の人口は6万2876名であったが、海軍工廠の職員は1万3452名であり、この他に砲術学校、水雷学校、海兵団などの教育機関、軍需部などの補給部隊、それに横須賀鎮守府所属艦隊の軍人や家族を加えれば、半数に近い市民が海軍か海軍に関連した職業で生計を立てており、横須賀は海軍の城下町であり、市民はそれを誇りとしていた。
これは一般教養科目の講師を委託していた市立横須賀高等女学校(後の県立大津高等女学校)の校歌に「この横須賀はかしこくも、皇居に程も遠からぬ 東京湾の要塞地帝国一の軍港ぞ」とあることからも理解できるであろう 。

    
市立横須賀高等女学校(後の県立大津高等女学校)の校歌
この横須賀はかしこくも 皇居に程も遠からぬ
東京湾の要塞地 帝国一の軍港ぞ
ここに建てたる学校は、その責(せめ)いかで 軽からむ
ますら男(お)ならぬ女とて 日本(やまと)雄(お)心忘れめや

明治41年創設の第四中学校(現・横須賀高校)校歌
 東洋一の軍港と 外国までもうたわるる
いとも名高き横須賀の 里にそびゆる学び舎に
朝夕つどうわれらこそ  やがて御国の守りなれ
千辛万苦限りなき    障りに折れぬ心もて
月日を惜しみ学びなむ  月日を惜しみ学びなむ

第2章 共済会病院看護婦養成所の教育
第1節 入学資格と看護生徒の出身身分
 日本赤十字社の委託教育が終わった1913(大正2)年6月1日に、共済病院独自の看護婦を養成しようと、神奈川県知事の認可を得たが、第1期生9名が入学したのは日露戦争後の緊縮財政の影響を受け、6年も後の1919(大正8)年4月2日であった。この当時の看護婦養成所の状況を1920(大正9)年の「看護婦養成所規則」から見ると次のとおりであった。
 入学資格は14歳以上で25歳以下、「体格強壮ニシテ品行方正」、高等小学校または高等女学校2年以上の課程を修業した者か、あるいはそれと同等以上の学力のある者とし、次の入学試験に合格した者。@応問(応用問題) A読書(漢文交じり文) B作文(往復書簡文)C算術(4則雑題) D身体検査となっている。ここで目に付くのは下記に示す入学願書に「族籍続柄」の欄があり、華族や士族、平民の区別を書くこととされ、また、「自己の都合」での退学は認めず、「学力劣等」「品行不良者」や「怠惰ニシテ不適当ト認メタ者」は退学を命じ、その場合には学費を「償還セシムベシ」と記され、2人の保証人に「連帯責任ヲ以テ弁償可仕、尚修学及誓約年限中本人身上ノ儀ハ、何事ニ限ラズ一切保証人ニ於テ引受可申候也」と途中退学の場合の学費の返済や品行などについても保証する誓約書を提出させていた。

 
  第1号書式(用紙半紙)
  看護所生徒志願書

    本籍地 何府県何市郡何町村番地

    現住所 同         上 
    族籍続柄
            何     某
              生年月日  
  右者御所看護婦生徒志願ニ付御試験ノ上御採用相成度、
  別紙履歴書及戸籍抄本相   添此段出願候也
         年  月  日     
            何     某
  横須賀海軍共済組合病院看護婦養成所長殿

   第3号書式   誓約書
        本籍地 何府県何市郡何町村番地
        現住所 同         上 
        族籍続柄
                  何     某
                     生年月日 
  右者御所看護婦生徒ニ御採用相成候ニ就テハ、御規則可相守ハ勿論、
 規則第16条ニ依リ学費ノ返還ヲ命セラレ候節ハ、保証人連帯責任ヲ以テ弁償可仕。
 尚修学誓約年限中本人身上ノ儀ハ、何事ニ限ラズ一切保証人ニ於テ引受可申候也
          年  月  日         右本人
                       何   某(印)
               
            本籍地 何府県何市郡何町村番地
            現住所 同         断 
            族籍  本人との関係
             保証人    何     某(印)
            本籍地 何府県何市郡何町村番地
            現住所 同         断 
            族籍  本人トノ関係
            保証人    何     某(印)
   横須賀海軍共済組合病院看護婦養成所長殿

 教育期間は2年で卒業すると2年間(その後1年半に短縮)病院で働かなければ学費を返却することとされていた。卒業試験に合格すると直ちに「義務生」に任ぜられ病院で働かなければならなかったが、授業料は不要で、宿舎、食事、被服が貸与され、学生手当として1年生が月7円、2年生が10円を支給されていた。この学生手当ては日赤看護学生を基準としたためか高額であったが、特に横須賀は物価が高かったためか、各軍港にある5つの共済病院附属看護婦養成所を比較すると表に示すとおり最高額が支給されている。義務生の給与で徳山が極端に低いのは食事を給していたからであったが、それでも横須賀が高いことから、1935(昭和10)年に1年生は7円から6円、、2年生は10円から8円、義務生には食事を給することとして、義務生1年生は27円から15円、2年生は27円から17円に大幅な値下げがあった。「あんみつ」が13銭、「おみくじ」が10銭の当時、この給与の値下げがどの程度学生の生活に影響したであろうか。

      看護生徒月手当ておよび義務服務期間一覧

         横須賀 佐世保 舞鶴 徳山
 1年生   7円 5円  6円  4円 4円50銭
 2年生  10円 5円  8円  5円 6円
義務1年生  27円 11円 12円 16円 9−10円
義務2年生  27円 11円 12円 16円  ー
義務終了後  35円10銭 30円 29円 30円  15円
義務期限  1,6年  2年  2年  2年  1年

第2節 教務時数と教育内容
 午前は実習を兼ねた看護業務を行い、教務は午後1時から4時までの6日制で2年間に次の科目が教育されたが、その後、医学の進歩や時代風潮から1920(大正9)年には「横須賀海軍共済組合病院附属看護婦養成所規則(付録第1)」が制定され、カリキュラムが下表に示すとおり大幅に改訂された 。

科目 授業時間 科目 授業時間
       修身 45時間    消毒法 28時間
生理学大意 45時間   按摩法大意 24時間
伝染病学大意 22時間 救急措置及患者運搬法 22時間
衛生学大意 24時間   薬物調剤法 90時間
解剖学大意 45時間  治療機器取扱法 32時間
 看護法 80時間  手術及治療介護 56時間
 包帯法 32時間     合計 495時間

 その後、さらに1935(昭和10)年には教育時間が増やされ、教育科目も増えたが、特に目を引くのが一般教養の英語と修身作法で、ともに45時間であったが、修身作法の教育目的は「婦徳ノ向上ヲ図リ」、「本院ノ特種性ヲ会得セシメ、職務遂行上完壁ヲ期セシメソトス」と記され、今、流行の品格に当たる「婦徳」を高めるために「作法」も教えられていた。また、1935(昭和10)には医学の進歩や時代の変化を受け、「学科技術ヲ一層高級ニシ、披能ノ向上練達ヲ図リ本院看護婦ノ中竪タルノ素養ヲ具備セシムルト共ニ、更ニ婦徳ノ向上ヲ計ルヲ目的 」として高等科が創設された。高等科への選抜は義務期間修了者中、学術、勤務の成績優良者を院長が選考され、期間は1年であったが、その後2年に延長された。高等科の授業課目は看護婦生徒時代と、それ程変わりはないが、各科特種看誰法(病的検査法ノ大意)、教育学及心理学大意、助産学大意、家事学、治療品取扱法附病室長心得、衛生学(伝染病予防法学校衛生)などがあり、また「海軍ニ関スル一般常識」の目的は、「本院ノ特種性ニ鑑ミ院務ノ遂行ニ必要ナル知識ヲ会得セシメンカ爲メ軍港、官衙、艦船、部隊、工作廠等ノ組織ノ概念ヲ授ケントス」るとしていた。さらに修身だけでなく別科として国語、算術、英語、裁縫、休操などが教えらたが、家事では「住居、衣服家庭、経済其ノ他家庭ヲ処理スルニ必要ナル技能ト知識ヲ修得セシメント」すと書かれている。これらの科目は現役の看護婦、養成所講師、副院長、医員及び役員、一般教養は県立大津女学校の教諭に依嘱していた。

第3節 看護婦生徒の生活
 病院長は初期は海軍軍医大佐、後期は海軍軍医少将、外科部長は中佐、医局員は大尉、中尉とほぼ軍人であり、全てが海軍式であり、看護婦学生は海軍兵学校と同じく「生徒」と呼ばれていたが、養成所1期生の鈴木うねは総てが海軍式で、毎日が「掃除」「整理整頓」白衣の洗濯とアイロンに追われたと回顧している。しかし、これは誤解で、ナイチンゲール看護学校や慈恵看護養成所も同様に厳しい躾教育が行われていた。慈恵看護養成所や共済病院看護養成所の看護生徒の日課は、6時起床、同時に掃除、食事、朝礼、訓示と服装点検、そして午前は病院での実習、午後に院内の空室を利用した講義があり、終わって寮に帰って洗濯や制服のアイロンかけ、食事入浴、自習、そして9時には消灯と寸暇の暇もない日課が生徒を追いかけていた。特に慈恵医科大学看護婦養成所の名物は月に一度の「甲板掃除」であったが、これは高木院長の発案で朝の3時から婦長以下全員で軍艦の「甲板みがき」のように、ブラシに石鹸をつけ、隅から隅までかがんで床をごしごし洗い磨き上げるものであったが 、これも共済会看護養成所には引き継がれていた。

 このように厳しい日常生活であったが、「学力劣等」または「品行不良」または「怠惰ニシテ不適応ト認メタル時ハ退学ヲ命ス」。退学を命じられた者は「在学中支給シタル学費ヲ償還セシム」と看護婦養成所規則にあり、勉強もしなければならなかった。このため9時の消燈後も電燈に覆いをかけて、監督の婦長にわからないように勉強した。よく勉強したと見え、1回期生の科目全体の平均点は90点、5回生は89点で、10回生の欄には「卒業17名中3名は成績不要のため半年後の追試により卒業を認む」と書かれている 。外出は日曜日と紀元節、天長節、明治節と日本海海戦に勝利した5月27日の海軍記念日であったが、帰校時問は厳しくチェックされ、遅れたりすると事務長に訓戒され、何週間もの外出禁止を云い渡されたという。どのような理由か分からないが、受験期間を警察に通報している文書も残っているところから 、看護生徒の生活は町を上げて監視されていたのかもしれない。

 東京慈恵医科大学の看護婦養成所と横須賀共済病院付属看護婦養成所と大きく異なる点は、本養成所が男女関係には極めて厳しく、「男性の言葉は校長先生と、事務長以外は信じてはいけません 」などと指導されていたが、これは患者の横須賀海軍工廠の職工には若い独身者が多く、また町には海軍の水兵たちが溢れていたことにも原因があるが、それだけではなかった。それは市内の風紀の悪さにもあったのである。市制当時は人口6万2876名中、約4万が外来者で、その中には一攫千金を求めて集まる者も多く、当時の横須賀案内には横須賀は「商業に工業に幾分の利益を得んと欲して、日々他邦より此に出入りするもの亦数百人」、「旅舎割烹店及び妓老楼等の繁昌なる亦他邦のなき所なり」と記されていた。また、人□構成が男子3万5861名に対して、女子2万7015名と工員や水兵などの独身者が多く、しかも遊廓地域の真ん中に病院があったのである(後に遊郭は安浦地区に移動した)。

 また、市内の風紀も乱れており私生児が全出産児の7%(146名)を占め、警察の記録には捨て子の報告や養育費を渡して子供を預かり売り飛ばす詐欺事件なども記載されていた。さらに、新興都市のため寄り合い所帯で、旅の恥は掻き捨ての者も多く犯罪も多発し、1908(明治41)年から5年間の横須賀警察署管内の年間平均犯罪率は、殺人4件、強盗5件、窃盗443件、詐欺・恐喝39件、博打53件、放火5件、警察が即決した犯罪1119件など1771件の事件が発生していたが、さらに横須賀警察署(浦賀・田浦警察署を除く)は「悪漢」155名、浮浪者47名、仮出獄者・刑の執行猶予者64名など272名を監視下に置いていた 。

 このように横須賀市内の風気が悪かったため、横須賀中学校では遠隔地の三崎からの通学者や転勤した軍人や官吏の子弟だけでなく、遊郭や置屋、待合い茶屋が多い地域(移転後の米が浜の共済病院付近)に住む生徒の自宅通学を認めず、入学願書とともに寄宿舎入居願書を提出しなければ入学を認めず、1割60名近くの生徒が寮生活をさせられていた。それほど明治初期の横須賀の風紀が劣悪であったのである。

第3章 看護婦養成所の卒業式
第1節 戦前の卒業式の状況
 当時の書類によると卒業式当日は午前で外来の診断を打ち切り、午後1時30からか本館屋上、雨天の場合は看護婦寄宿舎娯楽室で行われ、終了後に茶話会が食堂で行われていた。服装は軍人は第1種軍装帯勲(勲章着用)で、文官はフロックコートまたは不体裁にならざる服装とし、看護婦は制服、靴及び靴下(白色)、看護婦生徒は正規の服装、靴下は黒色のものとする」とあるが、この服装は写真に見るように慈恵医科大学看護婦養成所と同様で、ロングの白衣に円形の帽子の優雅な装いで、バンドの留め金と帽子には共済病院の錨のマークが入っていた。なお、この制服は慈恵医科大学付属看護婦養成所長の高木院長が、伊藤博文夫人の洋服を作っていた築地の飯島洋服店に依頼したものであった。 外出時には紺の制服に紺の円形帽を被り、帽子などが珍しい時代であり、この凛々しい乙女たちが職工と水兵の町を誇り高く闊歩していた。横須賀海軍病院の看護婦でラバウルに派遣された大島ミツは横須賀共済病院の看護婦は、錨のデザインの紋章を帽子とバックルに付けかっこが良く羨ましかったと回想している。
本養成所の期待や地位の高さを示すのは卒業生より来賓が多いことである。総ての卒業式の完全な記録がないので比較はできないが、残存する記録から卒業式を再現すると、卒業式の招待状などは共済病院長から発送されるが、祝辞は病院長、次いで病院や看護婦養成所を管理している横須賀海軍工廠長、来賓の祝辞は赤十字看護婦を教育していたときには県知事が行っていたが、赤十字看護婦の教育が終わると市長が行うのを通例とし、式次第は次の通りであった 。
     式次第
     午后1時30分 看護婦同生徒着席
     〃 1時45分 職員着席
     〃 1時50分 来賓着席
     2時      管理官臨場
     所長挙式申告
     勅語奉読
     卒業証書授与
     賞品授与
     所長告訓
     管理長訓示
     来賓祝辞(市長、市医師会長)
     卒業生・総代答辞
     終了後、茶話会
 海軍華やかな1940(昭和15)年の第20回看護生徒39名と第5回高等科生徒11名の卒業式の来賓は鎮守府司令長官と幕僚長、海軍省から衛生総監、横須賀海軍工廠長、横須賀海軍航空技術廠長、横須賀海軍病院長、陸軍からは東京湾要塞司令部長官や横須賀陸軍病院長などの軍人だけで大将1名、中将2名、少将8名、合計82名、部外の人は市長や助役、市内の病院長、横須賀県立大津女学校校長や教師、横須賀警察署長、神奈川県警察部長から憲兵隊長など44名、それに父兄99名と、卒業生50名に対して来賓は3倍以上の170名であった。新聞などの取材も地元の「軍港毎日新聞」「横須賀日々新聞」だけでなく朝日、読売、報知、東京日々、中外、国民、都新聞など10社の記者が取材に来校するなど帝国海軍のご光背を背に受けた卒業式であった 。

第2節 祝辞と答辞と卒業証書

 祝辞や答辞には在学当時の時代が見える。1940(昭和15)年の第20回看護生徒と第5回高等科生徒卒業式で、海軍工廠長荒木彦弼中将は「諸子が傷病に悩む哀レナ人々ヲ『誠』ヲ捧ゲテ看病スル姿ハ天使ノヨウニ尊イ姿」であり、「支那大陸ニ銃ヲ採ル節ノ兵士ノ姿ノ尊サト何等ノ隔タリハナイ」。「良ク良ク自己ノ任務ヲ自覚シ、刻苦勉励シ世界ニ誇ル日本女性トシテ、他日ノ大成ヲ期サネバナラヌ」と訓示した 。また、第5代病院長の竹雅進平軍医大佐は海軍軍医らしく、軍艦では各兵員がそれぞれ精巧な機械を取扱うので、「確実」、「迅速」、「静粛」の3つが重視されています。この原則は「看護婦ニモ最モ適切ナルコトト信ジテオリマス」と次のように訓示したが 、これは現在の看護師にも参考になるのではないかと考え掲載する。

 第1ハ「確實」ト言フコトハ看護婦ニハ第1ニ要求セラレルコトデアリマス。
私ガ或病院デ勤務中、小児科勤務ノ看護婦ガ消毒用酒精ヲ生理的食監水ト間違ヘテ2名ノ疫痢患者ニ皮下注射シ其ノ爲メカ否カハ剣ラヌガ1人ノ子供ハ終ニ間モナク死亡シ1人ノ子供ハ皮膚ノ壊疽ヲ起サシメラレ私ハ治療ニ随分苦ンダノデアリマス。我々ハ常ニ劇毒薬ヲ患者ニ用ヒマス。1「ミリグラム」ノ相違デ人ヲ生カシタリ殺シタリスルコ.トニナルノデアリマス、確實性ノ無イ看護婦ハ我々ノ信頼ハ得ラレマセヌ。

 第2ハ「迅速」ト言フコトデアリマス。
我ハ常ニ人命ニ関スル仕事ヲスルノデアリマス。グズグズシテイレバ当然死亡スル大出血ノアル外傷患者モ迅速ナル処置ニヨリ助ケ得ラレマス。亦、仮死状態ノ患者モソノ措置ノ迅速カ否カニ依リ直ニ生死ヲ左右シマス。迅速デナイ看護婦ハ医師ノ介護者タル資格ハ無イノデアリマス。
 第3ハ「静粛」デアリマス。静粛ニ仕事ヲスル看護婦ハ頼リニナル看護婦ト思ッテ居リマス。勿論、最初ヨリ確実デ迅速デアルコトハ困難デアリアス。仕事ニ慣レルニ從ヒ心得次第デ、可能トナリマス。1日モ早ク此レガ習慣トナルヨウ努メテ載キタイノデアリマス。そして、最後に付言したいことは職責上常に色々の患者に接しなければならないので、「病毒ニ汚染セラレル機会ガ多分ニアリマス」ので、学んだ知識を圧要して感染を予防し、健康の保持増進に努め、「婦徳ノ向上ト相待チ、合セテハ良妻賢母トナルコトヲ切望」しておりますと「良妻賢母」が強調されている。

 一方、戦時中(1944年3月25日)の卒業生の答辞を見ると、「今ヤ戦局愈々重大ノ秋、今日ノ御訓ヲ此ノ感激ト共ニ身ニツケ、粉骨挺身看護婦道ノ達成ニ驀進シ、以テ皇恩ノ万分ノ1ニ報イ奉ル覚悟デ御居マス 」と戦時色が答辞にも陰を落としていた。戦前の看護婦要請所時代の成績優等生には優等章と賞品が与えられたが、これは海軍兵学校などと同じく最優秀者と次席には時計(主席は4円50銭、次席は4円)が授与されたが、女性が腕時計をすることはなかったので置時計であった。また、成績優秀な者、平均点90点以上の者には丸雲盤(鎌倉彫壁掛け・1円20銭)が授与されていた 。式の最後に卒業証書が授与されたが、1935(昭和10)年頃までは、次のように氏名の前に「平民」「士族」などの出身氏族が明記されていた 。
     
  第228号
  卒業証書
  福井県 平民 朝日定子 
       大正10年8月23日生
  右者本所、所定ノ学科ヲ修メ其業ヲ卒ヘタリ
  依テ之ヲ証す
  昭和13年4月1日
   横須賀海軍共済組合病院、看護婦養成所長
   海軍軍医大佐 従5位勲3等 芋川千秋
 

第3節 卒業式後の茶話会
 卒業式終了後に来賓と卒業生の茶話会が行われるのが慣例であったが、1934(昭和9)年の茶話会の経費の詳細が残されているので茶話会の一端を紹介しよう。茶話会はコーヒーと菓子(和菓子とカステラ)であったが、カステラは東京の中村屋から、和菓子は地元の坂倉商店、青果は荒井商店から取り寄せ総費用は82円81銭で、注文した個数などを見ると慎ましいものであった 。

品名 数量 単価 合計 納入者
       リンゴ 15個 6銭7厘 1円5厘 荒井商店
ミカン 50個 4銭 2円 荒井商店
バナナ 3貫目 67銭 2円1銭 荒井商店
塩せんべい 400枚 5厘 2円 坂倉商店
折り菓子(大) 67個 45銭 34円20銭 中村屋(東京)
折り菓子(小) 190個 20銭 34円20銭 中村屋(東京)
カステラ  ー   ー 3円60銭 水交社(寄贈)
紅茶  1缶 3円40銭 3円40銭 水交社(寄付)
砂糖 500匁 賄所用品
総計  ー 82円81銭

 しかし、これが1940(昭和15)年になると海軍全盛期であり、10円の飾り花4組、ケーキ、カステラ、菓子折などで171円、総額281円20銭となっている 。

第4章 戦争中の共済病院と看護婦養成所

第1節 戦時下の看護婦生徒の生活

 1937(昭和12)年7月に日中戦争が始まり軍事色が深まったが、この年に横須賀は市制施行30周年を迎え、盛大な記念祝賀行事が行われた。この時に北原白秋作詞、山田耕筰作曲で市歌が作成されたが、海軍工廠は次のように歌われていた。

     金鉄の貫くところ 鐘たり 響け軍都
     工廠光赤く 営々人は挙れり 
     勢へ 吾が都市 横須賀
     横須賀 大を為すさむ

 その後シナ事変は拡大の一途をたどり、ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まると、病院でも防空防火演習や燈火管制訓練がはじまり防空班が編成された。太平洋戦争が開始された12月8日には午後4時20分に総員集合があり、先づ皇居遥拝、鎮守府司令長官の訓示の伝達、院長が訓示、院歌合唱、万歳3唱が行われていた。太平洋戦争が勃発しても開戦初期はのどかで、水泳に馬堀海岸へ行ったり鎌倉などへの遠足も行われていた。しかし、戦争が激しくなると病院の生活は一変し、その厳しさを『横須賀共済病院80年史』は次のように書いている 。
 病院の廊下には工員が弁当持参で足の踏み場もない位つめかけ異様な体臭を振り播いていた。看護婦は若く美しい人が多く平均年齢19歳、総婦長25歳、各課病室、外来室長は20歳前後、19歳の室長もいた。恋は病院のご法度で就職の時、院長から恋愛等に関してトラブルを起こさないよう注意を受けた。外出外泊時の帰院時間は殊の外きびしく遅れると総婦長に事務長の前に連れてこられ「男は事務長とお父さん以外は信じてはいけません」と言われていた。そして、外出止め1週間とか1ヶ月とか判決された。診療は午前中が終わると速やかにバスが迎えに来て昼食もそこそこに廠内治療に出かけた。午後4時頃帰院すると夜間診療の工員が廊下に並んで全く現在では想像もつかないようであった。患者は内科が一番多く、沢山の診療患者があった。日増しに工廠も忙しくなるばかりで、徴用工員の身体検査に北海道、東北方面にも出張した。看護婦は2年間の生徒期間を終えると、1年間実習して大部分が高等科としてさらに1年間学び、それから成績に応じて室長になった。各課の男の医師は着任すると幾度となく赤紙が来て出征する。

 開戦後に多数の職工が動員されたため病院の収容能力を超え、1947(昭和17)年には長者ヶ崎の長者園旅館、南下浦のお寺を借り上げ、軽症者を収容し病院から医師、看護婦が交替で出張し治療に当たっていたが、1944(昭和19)年8月には油壺分院を開設した。しかし、翌1945(昭和20)年には油壺分院が特攻隊海竜の基地として使用されることになり 、代わりに南下浦分院が開設された。1943(昭和18)年にはガダルカナルからの敗退やアッツ鳥の玉砕などがあり、空襲も現実のものになると、類焼を防ぐため病院付近の民家の取り壊しが行われ、1944(昭和19)年4月頃には物資の不足から白衣は黒衣となりモンペ姿に代わり、勤務の合間には病院裏の防空壕が掘られ生徒たちはモッコを担ぎを手伝わされ、夜は枕元に防空頭巾を置き、空襲警報の都度、持ち場に駆けつけ警報が解除されるまで待機しなければならず、一睡もできなかったという 。
とはいえ、この緊迫していた戦時下の1944(昭和19)年3月25日に演芸大会を開いている。出し物は不明であるが、余興の寸劇に借用した衣装のお礼としてメロン(1個3円50銭)を贈っているが、メロンよりはサツマイモの方が貸主にはありがたかったのではなかったか 。
1944(昭和19)年7月にはサイパンを失い本土空襲が必至となり、担架隊や防火隊の訓練も激しさを加え、病院の外壁も迷彩のためにコールタールで塗られた。1945(昭和20)年3月には硫黄島も失陥、日本近海に米機動部隊が跋扈するようになり、「明早朝、敵機動部隊に対し、厳重なる警戒を要す、0400より令なくして第一警戒配備をなせ」などと云う工廠長命令が度々発せられ、「総員起床、直ちに配置につけ」のマイクで起こされ、看護婦生徒はモンペ姿で病院に駆けつけ重症患者の担送避難に当たったが、食物はクズ湯程度で常に空腹を抱えていたと回顧している。

 8月15日の終戦当日の入院患者は52名、外来患者は109名、勤務員100名、当日の医事日誌には「1200、畏くも天皇陛下におかせられては、14日漠発せられたる詔書を御自ら御放送されたり、勤務員総員集合、玉声を拝聴す」。正午の暑い日射しの中、鳴咽の声があたりに満ちて行ったと記されている。市内には流言飛語が流れ市民は恐怖におののき地方の親類縁者を頼って非難する者もあり、このようななかで、旧軍人や軍属、海軍工廠などに動員された工員や、それらの家族が帰郷したため、1944(昭和19)年2月には44万7769名に達した人口は24万9702名(1946年4月26日現在)に減少した 。病院でも女子職員の帰郷、退職申し出が続出し、病院の公共性を説き身の安全確保に万全を期すと説得したが、馬耳東風で効果なく市内や三浦地区出身の職員を説得して、かろうじて診療を続行することができたという 。
しかし、1945(昭和20)年10月には軍令部が、12月には海軍省が解体され海軍共済組合は消滅し、母体の病院は財団法人共済協会に属することになるなど混乱は続いた。一方、この混乱の中で海軍は9月12日に、病院隣接地3カ所(原トミ715・22坪3万8391円、鈴木哲次696・88坪3万9214円、小笠原いち202・77坪1万2620円)を買い上げ、病院の土地とした。これが長らく支援を続けてきた海軍艦政本部の共済会病院に対する最後の支援、置土産となった 。

第2節 ラバウルへの看護婦派遣
 1942(昭和17)年、太平洋戦線の南方への拡大にともない、ニューブリテン島のラバウルに設置された第八海軍病院へ、横須賀海軍共済病院と横須賀海軍病院より看護婦を派遣することが決まった。派遣人員の選抜は希望者を募るのではなく、病院内でまず候補者リストが作られた。海軍病院から派遣された看護婦の一人、坂田みつ氏(旧姓大島)によると、海外派遣に「志願する」気持ちはあるかと一人ずつ呼ばれてたずねられたという。 最終的に決まったメンバーは、看護婦11名と筆生3名そして事務担当者の男性1名だった。横須賀共済病院から派遣された看護婦の氏名(すべて旧姓)は、石渡富子(婦長)、須山美知子、山口まさ子、田尻時子、西島かな子、押元静子、渡辺シズ、藤村美代子で、須崎万里子が筆生として同行した。海軍病院から参加した看護婦が、大島ミツと阿部多賀子であり、宮川嘉代と渡辺貞子(薬剤部)も筆生として加わった。事務方は戸井田孝だった。このメンバー中、石渡富子(第17回生)と渡辺シズ(第22回生)は、共済病院看護婦養成所の卒業生であることが判明している。

 共済病院からの派遣団は、昭和17年(1942年)9月7日、輸送船平洋丸で横須賀を出発した。任期は1年間と定められていたが、看護婦たちには具体的な行き先は知らされていなかった。平洋丸の船底には多くの兵士が乗船していた。出発後7日目になってようやく、赴任地がラバウルであるという発表があった。ラバウルは、「ラバウル小唄」や「ラバウル海軍航空隊」などの軍歌を通して、後にその地名が知られるようになったが、船上の看護婦たちは、南方の激戦地であろうという以外、まったくの予備知識をもっていなかった。「いったいどのような人たちが住んでいるのか」、「南方の暑い気候の中での勤務で、体力が持つのだろうか」などの疑問と不安が心を横切ったという。

 平洋丸はまずサイパン島に寄港した後、トラック島に入港し、そこで半日の上陸許可が与えられた。看護婦数名はこの島に設置されていた第四海軍病院を訪問したが、大島氏はこの島で現地人に椰子の実を採ってもらい、それを割ってココナッツ・ジュースを初めて飲んだという。また植木シズ氏(旧姓渡辺)は、通りかかった小学校から日本の唱歌が聞こえてきたことをおぼえている。 その後、船はさらに南下し出発から20日後にラバウル港に入港した。ラバウルは開戦直後の南方進撃の目標の一つとして1942(昭和17)年1月23日に日本軍が占領し、占領後は南太平洋方面の中枢基地として兵力も多く、終戦時には10万人の軍人がいた。

 看護婦の一行がラバウルに到着した当時は、戦局はそれほど厳しくない時期であったが、ラバウルはすでに連合軍による空爆の範囲に入っていた。平洋丸が看護婦を乗せてラバウルに入港し、翌朝の上陸に備えて湾内に停泊していた夜に、船は直撃爆撃を受けた。船内にとどまっていた看護婦たちにとっては、生まれて初めて空襲で、船室から船倉に避難するようにと指示が出て、急な階段を駆け下り食糧倉庫へ向かった。坂田氏は、言われたとおり倉庫に飛び込み、あわてて顔を伏せたが、ちょうどそこにあった腐りかけたキャベツの強烈な臭いが今でも忘れられないと記憶している。翌朝、沖合に停泊した船からはしけに移り、看護婦たちはラバウル港の桟橋に到着した。荷揚げ作業を手伝う現地の男性たちが差し伸べる手に引き上げられ、看護婦たちはボートから桟橋に上がった。彼らの黒く光る肌と縮れ毛、そして華やかな色のラプラプ(腰に巻くスカートのような衣服)や髪に挿した白い花などの強烈な色彩ののコントラストが、日本から南国の島に到着した若い女性たちに強い印象を与えた。

 ラバウルに設置された第八海軍病院は、戦争前まではオーストラリア人用のナマヌラ病院で、市街地から少し離れた丘の上にあった。看護婦たちの宿舎は本館の2階と定められた。事務補助として17歳の若さでラバウルに赴任した荒井万里子(旧姓須崎)は、病院の建物に初めて入った際に、壁に看護婦の白衣が掛けてあったのを見かけたと言うが、これは日本軍の占領前に勤務していたオーストラリア人看護婦の白衣だったのかもしれない。ラバウルの民間病院や軍の病院で勤務をしていた17名の看護婦たちは、捕虜として他の女性2名と共に輸送船鳴丸に乗せられて、6月にすでに横浜へ移送されていた。
 第八海軍病院に到着した従軍看護婦の第一陣で、その後に兵力が増加し戦線が拡大すると日本赤十字社派遣の看護婦たちも加わり、看護婦の総数は40名までに増加した。ラバウルの陸軍病院への日赤看護婦の派遣は、海軍に比べて遅く、1943(昭和18)年3月から始まったが、人数は海軍病院よりも多く150名近くに上っている。横須賀から派遣された看護婦たちは、1942年9月から翌年8月までの12ヶ月間の任期を過ごした。一方、日赤看護婦たちは空襲の激化と、ニューブリテン島西部に連合軍の上陸が予測されたため、1943年12月から翌年1月にはラバウルっを引き上げたため、ラバウルで勤務をしたの従軍看護婦としては、横須賀から派遣された看護婦たちの勤務期間がもっとも長い。

 看護婦にとっての第八海軍病院での勤務は多忙で厳しかった。起床時間は4時30分、整列して点呼や体操のあと、朝食を5時45分にとる。皇居遥拝と朝礼で日本に思いを走らせた後、病院勤務は6時45分から始まる。昼食は11時で、その後2時時間の休息が与えられていたが、実際はこの休憩を取る余裕がないほど忙しかった。夕食時の時間は4時15分で、それで終業となり、夕刻7時に病棟巡回を行い、就寝は9時と定められていた。 しかし、夜間には、連合軍の空襲が散発的にあり、その際には防空壕に避難しなくてはならなかった。看護婦のなかには、疲労と慢性的な睡眠不足で、防空壕へ避難をするよりも、「死んでもいいからここで眠っていたい」と訴える者もいたが、上司に「避難しなければ死んでも負傷しても、戦死とか公傷とは認められないぞ」と脅かされ、眠い目を擦りながら壕に入ったの述べている。さらに、傷病兵が病院に運ばれるのは空襲を避け夜間が多く、その際には夜を徹して受付や応急治療が続けられた。戦場でうけた負傷の治療の際に、海軍工廠で発生した落下事故や作業中の負傷の治療経験が役立ったと坂田は語っている。一方事務担当だった荒井は、次々と送り込まれる負傷兵たちの名前と所属部隊の確認のために、書類記入用の板を首から提げて徹夜で働いたと追憶している。このように、共済病院から派遣されたものにとっては、若さと体力だけが頼りの1年間だった。
 ラバウル到着後、看護婦たちを待っていたのは、空襲や病院での激しい業務だけではなかった。看護婦たちは、デング熱などの熱帯特有の病気につぎつぎと感染し高熱で何日間も寝込んだり、単純な虫さされのあとが潰瘍になってなかなか回復しなかったこともあった。
 1943(昭和18)年に入ってからは、ガダルカナルやニューギニアなどから、負傷兵や病人、栄養失調者たちが搬送されてきたが、マラリアや赤痢に感染している場合は他の患者と隔離する何時用があり、伝染病患者は病院の床下に急遽作られた隔離病棟に収容されたが、隔離病棟の見回りは看護婦の役目で、患者が用を足す際の手助けをしたが、トイレに行く体力がなくなった患者は、寝ている担架の臀部付近に穴を開け、その下に容器を置いて下痢便を受けせざるを得なかったと言う。「水をくれ」と頼む兵士たちの世話をしたり、血便や汚物を穴を掘って埋めるという作業も看護婦の役割だった。このような作業の中で赤痢に感染する看護婦も発生し、入院しなければならないほど重病になった場合もあった。

 さらに、看護婦たちが苦労したのは水不足で、水は雨水に頼るしかなかった。ラバウルの熱帯性気候は乾季と雨季があり、特に乾季には水不足に悩まされた。蒸し暑さの中で1日中勤務したあとも、ゆったりと汗を流せるような場所も水もなかった。比較的元気な入院患者たちは、熱帯特有のスコールがやってきそうになると、シャツを脱ぎ石鹸をつけて雨が降るのを外に出て待った。時々、予想が外れて降らないこともあり、肌に石鹸をつけ恨めしげに空を見上げる兵士たちの顔を見て、看護婦たちは笑った。もちろん、看護婦たちはそれを真似することはできないので、体と白衣を清潔に保つためになんとか水を確保するため、各自工夫をした。坂田は配給でもらう果物の缶詰を貯めて、ドラム缶いっぱいの水と交換し宿舎の床下に隠したドラム缶から、洗面器で水を汲んで、体に「ざぶっ」とかけた快感を今でも忘れられないと語ってくれた。

 ラバウルの活火山の麓には温泉が湧き出しており、海軍はそこに露天風呂を作った。しかし看護婦たちがこの温泉に行けたは数えるほどだった。時々、「洗濯上陸」と称してトラックの荷台に乗り、海辺の温泉までいった。しかし、ゆっくりと湯につかる時間はなく、与えられた10分間で入浴と洗濯を完了しなくてはならなかった。海軍病院での医療品の全般的な不足は、看護婦たちが到着した当初からすでに存在していたが、戦況が悪化するにつれてより深刻になり、包帯や脱脂綿などの医療品の欠乏は病院の機能や治療にも影響したが、若い看護婦たちにとって切実な問題もあった。月経の際に使用する生理用の脱脂綿が支給されなかったのである。若くて健康な看護婦たちにとっては、深刻な悩みだった。その上、病院での日常生活は患者も上司も同僚も男性ばかりなので、周囲の目も非常に気になった。彼女たちは、兵隊たちから、余分な「ふんどし」や布を物々交換でもらいうけ、脱脂綿やナプキン代わりに使った。この布は洗浄し干して何度も使用する必要があったが、水不足に加えて、男性ばかりの病院での洗濯や乾燥に非常に気を使わずにいられなかった。さらに、水不足のため、看護婦の白衣を白く保つのも容易ではなかった。特に月経が始まると、白衣の後部に生理血が誤って染み出ることを互いに確認しあったという。

 このように、厳しい勤務だったが、看護婦たちには楽しい思い出もあった。9月のラバウル到着後、勤務が毎日続き、ようやく休日が与えられたのは、2ヵ月後の11月3日の明治節(現在の文化の日)だった。この日は特別に白米のおにぎりをお弁当に持たせてもらい、病院の裏山を越えて海岸まで「行軍」と称して、仲間の看護兵たちとハイキングに出かけることができた。ジャングルを通り抜けて海辺に出て、看護兵たちは魚を捕ったり木に登ったり、詩吟をうなるがいたりして1日を過ごして。また、植木シズ(旧姓渡辺)は、仲のよかった荒井といっしょに、ある日浜辺で日本のことを思い出して「埴生の宿」を歌っていた。通りかかった現地の人々がそれに唱和して、同じメロディーを英語で歌いだした。この歌はもともと「ホーム・スィート・ホーム」と呼ばれるイギリス民謡で、英語圏でも親しまれている歌だ。現地住民たちは白人宣教師から教わって旋律になじみがあったのだろう。『ビルマの竪琴』に描かれたシーンの再現のようだったにちがいない。
 看護婦たちにとって忘れられない出来事は、1943年4月に山本五十六大将が海軍病院を視察し、士官室の食堂で病院院長や士官たちとくつろぎ語らう様子を見たことである。特に荒井は巡視時に山本か看護服でない女性に気が付き目を向けたのであろうか、目が合った荒井は電気に打たれたような衝撃を感じた。背も高くなかったがオーラを発していたと語っている。山本の墜落事故に看護兵が派遣されたが、何も話して呉れなかった。「兵隊さんは本当に口が堅かった」と語っている。

 横須賀から派遣された看護婦は1年の任期を終え、1943(昭和18)年8月4日病院船高砂丸でラバウルを離れた。航海中は、日本に移送される傷病兵たちを看護しながら8月18日に呉に入港し、全員無事に帰還することができた。彼女たちの活躍はすでに雑誌『婦人倶楽部』の昭和18年7月誌上で「空襲下に頑張る最前線の看護婦たち」と題して、当時の人気作家だった浜本浩によって報道されていた。戦争中だったため、地名は伏字になっていたが、文脈から南方の島であることがよくわかる記事だった。さらに帰国後、石渡富子婦長以下7名が婦人倶楽部本社に招かれ、帰還報告座談会が実施され、同年11月号誌上で紹介された。その中で参加者たちは厳しいながらも充実した勤務の日々については語っているが、過酷な勤務の現実と厳しさを増している戦況に関しては言及することは口止めされていた。
 横須賀から派遣された看護婦と筆生たちにとって、ラバウルでの1年間の体験は忘れがたく、戦後も互いに連絡をとり続けていた。その団結心の中心になっていたのは、戦後になって共済病院長になった二宮春海軍医大尉を慕う気持ちと、極限の状況で苦労も楽しい思い出も分かち合ったという戦友とでも言える仲間意識ではなかっただろうか。戦争終了後、第八海軍病院関係者の戦友会「八瓢会」の年次例会が開催され、元看護婦たちもそれに参加していたが、今ではその会も解散し、存命者の数も少なくなってしまった。しかし、日本を遠く離れて、太平洋の戦場に最も近い軍病院だったラバウルに派遣された共済病院看護婦たちの貴重な体験は、これからも記録に残しておく必要があるであろう。(オーストラリア国立大学太平洋アジア研究所・田村恵子)

第5章  敗戦後の看護制度の改革と看護婦教育
第1節 敗戦後の共済病院
 日本が降伏した8月15日の入院患者は52名、外来患者は109名で勤務員は100名余で、当日の医事日誌には「1200、畏くも天皇陛下におかせられては、14日漠発せられたる詔書を御自ら御放送されたり、勤務員総員集合、玉声を拝聴す」とある。この日、全員車庫前(神明社の下方にあった)に集合、放送をきいた。今まで張りつめていた気持が、みるみるしぼんで行き、8月の正午の暑い日射しの中、鳴咽の声があたりに満ちて行ったと当日の日誌には書かれている。
連合軍の進駐が近づくと進駐軍による危害を恐れて婦女子の退避勧告が出された。流言冒輩語が乱れ飛び市内は大混乱に陥っていた。病院では市内居住の看護婦約30名を除いて全員に帰郷を命じた。看護婦たちは寄宿の荷物はそのままに放棄し、雨の中を身の廻り品と握り飯を持って、切符も買えないままの哀れな帰郷となった。また、帰郷する看護婦生徒たちは看護養成所長の次の通達が渡されていた。

      昭和20年8月20日 横須賀海軍共済病院長 海軍軍医中将 大須賀 都美次
  大東亜戦争ハ不幸ナル結果ニ達シ、千個未曾有ノ秋ニ際会シ候。就テハ本院ノ将来ニ於ケル診療患者ハ逐次減少ノ状況ニアリ、本院ノ  運用モ之ニ伴フ事情ニ有リ、之ニ関連シテ看護婦ノ養成ハ見合セノ事ニ予測致シ本日ヲ以テ一応教育ヲ中止シ、且ツ御家庭ノ御心情等  ヲ酌ミ残留希望者ヲ除キ当分ノ間、休暇許可ノ形式ヲ以テ帰郷致サセ候間御了承被下度。熱烈ナル御志願ニ依リ折角オ預リ致候モ御   希望ニ達セズ、此点ニツキ袞心ヨリ御同情申シ上候。将来ノ情勢ニ依リ養成所再開又ハ他ニ移管スルガ如キ新事態発生ノ場合ハ、追テ   通知致御希望ノ向ハ復帰スル様御取計可致候
 
 入院患者も極力退院帰郷させた。重症者のみ残ったので、これを一つの病棟(現二病)に集めた。8月27日には、81年の歴史を誇り学校の経営母体であった横須賀海軍工廠が閉鎖された。8月29日には米国の艦艇が東京湾に入港し、病院の裏山の砲台山(現在の中央公園)には白旗が掲げられた。午前9時には米軍が上陸を開始し午後零時31分には、横須賀鎮守府の屋上に星条旗が掲げられ、夕方には自動小銃を掲げた米兵2名が病院内を点検した。一方、この混乱の中で海軍は9月12日に、病院隣接地3カ所(原トミ715,22坪3万8391円、鈴木哲次696,88坪3万9214円、小笠原いち202,77坪1万2620円)を買い上げ、病院の土地とした。これが長らく支援を続けてきた海軍艦政本部の共済会病院に対する最後の支援、置土産であった。

 9月13日には海軍次官から海軍共済組合の諸施設は、海軍自体の施設でなく組合員のための施設である。海軍が消滅しても組合員の存続する限り存続させ、組合員の利益に不当な損害を与えないようにしたい。病院は海軍省廃止まで通常通り運営するが、状況により経営を縮小しても差し支えない。海軍省が廃止された時には診療を一般保険医に委ね病院は閉鎖し、財産を整理の上、これを組合本部に移管させる。しかし、東京、横須賀、呉、佐世保、舞鶴、追浜、広の病院は海軍省廃止後も、指示あるまで診療を続行することするとの「終戦に伴う海軍共済組合事務処理に関する申進」が出された。9月28日には海軍共済組合の資金から10万円を出して財団法人共済組合を設立し、海軍省廃止後は残存権利と資産を引き継ぐという方針が示され、10月22日には財団法人共済会・横須賀共済病院と名称を変え一般市民の診療を開始した。11月30日には海軍省が廃止され海軍共済組合は厚生省の所管とされ、看護養成所の運営母体の病院は財団法人共済協会に属することになるなど混乱が続いた。1944(昭和19)年2月には44万7769名に達した横須賀の人口も、24万9702名(1946年4月26日現在)に半減した。

 戦災で多くの病院が壊滅し、東京―京都間で残存した病院中最大と云われ、期待された本院も年末には給与も支払えず、閉鎖寸前に追い込まれ運営費や給料を支払うため、病院のトラックを売ってしのいだという。一方、海軍病院から終戦時に移管された医療機器や薬品、それに戦争中のストックなどもあり、物資が割合に豊富であったため、泥棒に狙われ治療機材や薬品の盗難が相ついだ。警備員の他に男子職員が交替で夜警に当ったが、或る夜などは一夜にガーゼ300反が盗まれたこともあったという。しかし、薬品などのストックは外地からの引揚者なども入院させたため日を追って不足し、配給される量では間に合わず、当時の薬局長は闇の薬を求めて薬の闇市があった浦和まで買い出しに行ったと回想している。食事を作るにも燃料も食料もなく、男子職員は裏山から木を切り出して薪を作り、食事はおかゆやスイトンであったという。この当時(1946・昭和21年)の1日平均の外来患者は577名、入院患者は227名に減少した。また、分院が続々独立して離れていった。1945(昭和20)年12月には田浦分院(現、横須賀北部共済病院)が、1947(昭和22)年7月には衣笠分院が米海軍横須賀基地司令官ベニー・デッカー大佐の薦めで、日本基督教団に譲渡(のち売却)し切り離されて独立した。なお、横浜南共済病院は1940(昭和15)年には追浜海軍共済病院として独立していた。
 朝鮮動乱で景気も上向き講和条約も締結され、独立国となった4年後の1955年(昭和30)年に創立50周年を向かえたが、その規模は医師36名、歯科医師2名、看護婦153名、事務員その他143名、総員339名で、診療科目は内科、小児科、外科、整形外科、皮膚泌尿器科、産婦人科、眼科、耳鼻科、歯科、放射線科など10科、患者収容能力は本院317床、野比療養所(結核)118床で、1日の平均患者数は429人、外来患者は1222人であった。創立50周年を迎えた喜びと誇りは次ぎの「創立50周年の歌」には良く現れているのではないか。

    作詞 玉井道雄 作曲 伊藤 和
  1.秋晴れの空澄みわたり 緑はるかな海の辺に
   涯なき歴史ものがたり 誇りも高き慈愛の
   聖なる業(わざ)を受け継ぎて 思えば創立50年
  
2.永き歴史に輝ける 代々先人の功績は
   海よりもなお山よりも 尊き星座ときらめかん
   横須賀共済病院の ここに創立50年

 3.白衣につつむ誠心は 病(や)みたる人の看取りして
  心の友と杖となり いざや励まん愛の道
   今日ぞ 創立50年 
 
 2001(平成13)年には動線を考慮した効率的な全国でも珍しい三角形の地下1階、地上10階の近代的なA棟が完成し、学生達も昼食や講義の合間に10階のレストランで四季折々の変化する横須賀の海の色を楽しめるようになった。また、この年には院患者に対するオーダリングシステムが導入され、学校ではコンピュータの教育が始められた。2003(平成15)年2月には第3者による日本医療機能評価に合格し、2004(平成16)年3月には地域医療支援病院の資格を取得、2005(平成17)年には地域救急センターの指定を受けるなど、現在では三浦半島地域の中核的病院に成長した。1908(明治41)年に医師1名、医員助手4名で開業した横須賀職工共済会医院は、100年後の2006(平成18)年には病床数812床、医師160名(常勤68、非常勤67名、研修医24名)、薬剤師、臨床検査技師など158名(常勤117名、非常勤41名)、看護師・准看護師など520名(常勤500名、非常勤20名)、事務などの監理要員235名(常勤86名、非常勤149名)など1073名、診療科目39科目、病床数787床の一大総合病院へと発展した。
第2節 敗戦後の共済病院とアメリカ海軍
 敗戦後は日を追って食料や燃料が不足した。病院も配給される薬では間に合わず、特にサントニンなどは闇ルートでしか手に入らず、当時の薬局長は闇の薬を求めて浦和まで買い出しに行ったと回想している。食事を作るにも燃料も食料もなく、男子職員が裏山から木を切り出して薪を作り、食事はおかゆやスイトンであった 。一方、進駐した米軍海軍病院が看護婦が不足していたため、共済病院に看護婦の派遣が依頼され、1946(昭和21)年5月から講和条約が締結される1951(昭和26)年6月までは病院の命令で、以後昭和30年4月までは希望者が派遣された。新倉道子(現姓・新倉)、鈴木マサ(現姓マサ・キレット)がリーダーとなり、看護婦養成所の23回生8名、24回生16名、25回生5名の29名が参加した。最初の1か月位は言葉が不自由であったが、その後は慣れ給料も共済病院の2倍近くあり、食糧難の時代にセルフサービスで好きなものが充分食べられることから希望者は多かったが、米軍軍人と一緒にいると「パンパン・ガール(売春婦・パンを得るために肉体を売った女の意 )」との冷たい市民の視線を受けるのは辛かったと参加者は回想している。派遣期間は2年で、派遣人数は29名であったが、その3分の1強の11名が米軍関係者と結婚し、1名がそのまま定年まで米海軍病院で働いた 。

 一方、敗戦直後から昭和25年頃までは、米海軍横須賀基地司令官ベニー・デッカー大佐の強力な管理下に置かれた。敬虔なキリスト教徒のデッカー大佐は新しい理想を持って占領下の横須賀に臨み、各方面の再建を図ったが、最も顕著な例の一つが市内の各病院であった。デッカー大佐は軍政下にある市内の病院の監査をしばしば行い、これを当時の米海軍の基準を以って律し改善を命じた 。
年に2から3回、米海軍軍医による査察があり、付き添いや捕食の廃止を強く指導されたが、当時は食糧事情が悪く付添い人が廊下に7輪を置きバタバタ仰ぎながら患者の食事を作っていた時代であり、監査に米軍軍医が来院すると付添人を逃がし7輪を隠した。しかし、その後に事情を理解すると非常食などの食料を放出するようになり、この食料援助は占領期間終了まで続いたという。また、米海軍横須賀病院はペニシリンやストマイ、血清やガーゼなどを放出したが、1950(昭和25)年には米横須賀海軍基地の米兵および家族の寄付により、ワシントン・ルームと呼ばれる無料診療室が贈呈された 。このほかに、米軍軍医や看護婦が米会話を教えに来校していたが、現在は看護師の病院実習先としてアメリカ海軍病院と学校との関係は継続している。

2 敗戦後の看護制度の改革と看護教育

 終戦直後は公職追放令で部長や課長、それに米軍の暴行を恐れ県外や遠隔地の看護婦はほとんど退職し、院内は一時的に混乱を極め機能を停止したが、その後は職員や看護婦を徐々に呼び寄せ機能を回復していった。しかし、人事や組織の問題が解決した後に生じたのは教育制度の改変の嵐であった。敗戦後の看護婦教育は占領軍司令部強力な指示で始められたが、占領軍が示したのは「看護の総合性」「専門職化」「教育の高度化」であり、「看護婦の教育は看護婦で」ということであった。占領軍の指導はドイツ方式の看護からアメリカ方式に変えることであり、この改革は教師にとっても、学生にとっても混乱と苦難に満ちたものであった。参考書は英語、アメリカ人から教育を受けた先輩の看護婦による伝達教育であり、初期は英語のテキストしかなく先輩のノートが唯一の教本であったという。しかし、占領軍の看護婦制度への介入が結果的にはわが国の看護制度を刷新し、看護婦の地位や資質の向上をもたらしたのであった。

 この看護婦教育は占領軍司令部(GHQ)による改革期〔敗戦から1966(昭和41)年〕、看護学の独立期〔昭和42(1967)年から63(1975)年〕、専修学校への進化期〔1976(昭和51)年から1996(平成8)年〕、1997(平成9)年以降から現在までの看護学の独立発展期に分類できるが、1948(昭和23)年7月には「保健婦、助産婦、看護婦法(法律第203号)」が公布された。この法律は従来の看護制度を一新する大きな改革で、甲種看護婦(国家登録)、乙種看護婦(都道府県登録)の2種の看護婦に分けられ、1951(昭和26)年4月には政令第214号「保健婦助産婦看護婦令」が公布され、本校はZ種看護婦養成所とされた。新入生は35名であった。しかし、この新法は連合軍指導による日本の実情とは大きく異なるもので、当時の看護界では法律そのものに疑問を示すものも多く、講和条約成立後の1951(昭和26)年8月には甲乙の種別を廃止し、看護婦、準看護婦の制度となり1953(昭和28)年3月には校名が準看護学院と変わった。

 1966(昭和41)年には念願の鉄筋3階建ての第2看護婦宿舎が完成し、1967(昭和42)年には「保健婦、助産婦、看護婦学校養成指定規則」の改正が行われ、教育内容が従来の疾患中心のカリキュラムから、患者中心のカリキュラムへと変えられ、人間の成長発展課程を中心とした体系に改められ「看護学概論」「小児看護学」「成人看護学」「母性看護学」、さらに病気を持った患者だけでなく健康医者も含めた「保健」が加えられ、教育内容が大幅に高度化し教育期間が2カ年に延長され、1967(昭和42)年2月には高等看護学院(進学コース)の認可を得て翌1943年には準看護学院を閉校した。1972(昭和47)年4月には高等看護学院の校舎が完成したが、準看護学院から高等看護学院へ改編は施設や教官、教材の準備もあり、高等看護学院(定時制と進学コース、各定員30名)が認可したのは1973(昭和48)年2月となった。
 19(昭和48)年2月26日には不足した看護婦を確保するため、共済組合連合会傘下の田浦、横浜南、大船及び横須賀共済病院が共同運営で高等看護学院2部(定時制)を開校した。しかし、その後に看護婦の需要が緩和され希望者も激減、中途退学者も増加たため専用の学院バスで送迎なども行って学生の確保に努めたが、1983(昭和58)年3月には廃止のやむなきに至った。なお、この年の4月1日に高等看護学院から看護專門学校へと校名を変えた。

 1967(昭和42)年に改訂されたカリキュラムは20年余り改訂されることなく続いたが、1976(昭和51)年8月には各種学校と位置づけられ、看護学校が専門教育をする専修学校にかわった。これは社会人、専門職業人としての基本をなす人間教育が要望され豊かな教養と価値観を育む教育が必要であり、看護教員も「専任制」「専従制」体制へと進歩し、教員も4名が専従となり教務時数も2年課程で2420時間に増加した。1983(昭和58)年には専修学校専門課程の許可を得て、1988(昭和63)年には2年課程から3年課程の全日制に変更し、看護専門学校として開校した。それにともない教務、実習時数が基礎科目、専門科目で3630時間に増加した 。なお、この年に4階建ての校舎増築も完成した。
1993(平成5)には定員40名と男子の入学が認められ、1994(平成6)年の「少子・高齢社会看護問題検討会」の報告書などを受け、在宅看護や精神看護学がカリキュラムに加えられ、また従来の時間数表示から単位数表示に変えられた 。1995(平成7)年には文部省告示により専修学校の課程を修了した者に「専門士」の称号が授与されるようになった。1996(平成8)年には「保健看護婦助産婦看護婦学校養成所指定規則の1部改訂(文高医第278号)」や「看護婦等養成所の運営に関する指導要領(健政第731号)」により、単位制度導入が指示された 。これによれば、基礎分野13単位以上で360時間以上、専門基礎分野で21単位以上で510時間以上、専門分野が36単位で990時間以上および臨地実習23単位で1035時間以上の講義や実習を行うことが定められ総計2895時間以上の講義と実習を行うこととされた。
また、実習用の各種器具、標本や模型および保有すべき図書なども指定され、1997(平成9)年には情報科学教育を開始した。また、1998(平成10)年には大学への編入学や単位の互換が可能となり、看護婦という名称も男女共同参画の時代を迎えて看護師と改められた。しかし、これにともない教官の充実や設備の充実が義務付けられ、専任教官も次表に示すとおり、2名以上から7名以上が必要とされ、施設の充実をはかるため2005(平成17)年4月には田戸台の横須賀医師会館に移転し、施設も充実されていった。
               教官数の変化

      年度 1969年 1983年 1988年 2005
学校長   1名   1名   1名  1名
副学校長   1名   1名   1名 1名(看護職員とする)
教務主任   1名   1名   1名    1名
専任講師 2名以上 2名以上 6名以上 7名以上
 講師  若干  若干   ー   ー
事務職員   1名   1名   1名     3名
 校医   1名   1名   1名     1名
 舎監   1名   1名   ー    ー

 このように看護師教育は進化し、2005(平成17)年度の医療専門課程の修業年限は3年となり、基礎分野13単位(360時間)、専門基礎21単位(510時間)、専門分野36単位(990時間)、基礎実習23単位(1035時間)、総計93単位(2895時間)を履修することとされた。

第3節 入学試験と月謝
 戦前の看護婦養成所の受験資格は高等小学校または高等女学校2年以上の課程を修了し、または同等の学力のあるものとされ、第1回生は9名であったが、戦後の准看護学院の場合は中学校もしくはこれに準ずる学校を卒業した18歳未満の女子、高等科は准看護婦養成所の卒業者とされていた。入学は学科試験、面接試験、身体検査によるが、准看護科の学科試験は国語、数学、理科、社会があり、高等看護科の場合は国語、社会、英語、修学、作文のほかに専門科目として解剖および生理学、細菌学および消毒法、看護原理の試験があった。現在の看護専門学校は高等学校卒業あるいはそれと同等の学力のある者とされ、入学試験は11月に推薦入学試験(約半数)、1月の1般入学試験と社会人入学試験(定員の1割程度)と変わっている。
 このように入学資格も入学試験も時代の流れから変わったが、旧看護婦養成所と現在の看護専門学校との大きな違いは入学金であり月謝であろう。准看護学院当時は月5000円、高等科の学生には8000円の学生手当を与え、卒業後に病院に2年以上勤務した場合には返還は免じられていた。2007(平成19)年の入学金は5万円、授業料は42万円、教材費は3万円となっている。 なお、入学金、授業料、教材費などの変化は次表のとおりである。 しかし、戦前の養成所と現在の専門学校との最大の相違は、養成所時代は「本所ノ生徒ハ自己ノ便宜ニヨリ退学スルコトヲ得ズ」であり、卒業後は「1年6ヶ月間、横須賀海軍共済組合病院看護ノ職ニ従事スル義務ヲ要す」ということであったが現在は義務はない 。
           入学金・授業料・教材費の変化

時代  年号 課程  入学金  授業料(月)  教材費
      准看護学院 昭和44年 准看護科 5,000円 10,000円   100円
准看護学院 昭和44年 高等科 10,000円    500円   100円
高等看護学校 昭和58年   ー 10,000円  3000円  1000円
准看後学校 昭和60年   ー 50,000円  3000円  2000円
准看護学校 昭和63年   ー 50,000円 120000円 240000円
准看護学校 平成19年 50,000円 420000円 30000円

第4節 戴帽式
 卒業式とともに学生にとり意義ある儀式であるが、戴帽式は戦前にはなかった。この儀式はアメリカの影響を受け、戦後に全国的に行われるようになった儀式であるが、ある卒業生は「掃除のおばさん」と間違えられる三角巾から、白いキャップの看護帽を戴いた時には、これで看護師になったと誇りと覚悟が高まったと語っている。戴帽式は入学6ヶ月後に行われるが、本校が他校にない特徴は、共済病院とアメリカ海軍病院の親密な関係から、戴帽式には慣例としてアメリカ海軍の看護部長がスピーチを行うのを慣例としているが、このスピーチを聴き看護の精神、ナイチンゲールの慈悲の精神が国際的なものであることを理解でき自覚が深まるのではないであろうか。例えば2004年の戴帽式にアメリカ軍看護師のトド・スタイン少佐が「看護師の仕事は苦しい人たちに安らぎを与たる仕事ではあり、われわれアメリカの看護師はナイチンゲールの看護の心、慈悲の心を持って必要ならば、どこへでも行って患者を看る覚悟を持っています。看護師は看護に対する知識だけでなく、人の生命に関与する責任があり、多くのことが要求されます。皆様は喜びだけでなく悲しみ、迷い、落胆も味わうでしょう。しかし、勇気もって立ち向かい克服して下さい。看護師としての志は世界共通です。看護をするという責任において私たちは同志ですと、国境を越えた看護師の誇りと覚悟の必要性を説き、新しい仲間の誕生を祝している。
続いてナイチンゲールの日本役の誓詞を読むが、この誓詞を世界中の看護士が朗読し看護師としての覚悟を誓うのである。17回生の白鳥美帆は同期生を代表して「ナースキャップ」の重みを忘れることなく、1人1人の火を絶やすことないよう困った時、悩んだ時はクラス全員で支え合い心のあたたかい有能な看護師になれるよう努力すると誓っているが、この誓い、看護師の決意を何よりも明確に現しているのが次ぎに示す「戴帽式の歌」ではない。

          ナイチンゲール誓詞
     われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん
     わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。
     われはすべて毒あるもの、害あるものをたち、悪しき薬を用いることなく、
     また知りつつこれをすすめざるべし。

     われはわが力の限りわが任務の標準を高くせんことを努むべし。
     わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、
     わが知り得たる一家の内事のすべて、われは人にもらさざるべし。
     われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために、
     身を捧げん。

        戴帽式の歌 佐藤雄二郎作詞・作曲
     愛の灯は 絶ゆることなく
     あらたに ここに これを継ぐ
     愛すれば 喜びあふれて
     信つらぬく 清らに 輝く
     真白の帽を ああ今ぞ われ戴く

     灯は揺らげど 消ゆることなく
     道を照らしてあまりなし
     愛すれば心は強くて
     恐れは知らず み使い象る
     真白の帽を ああ今ぞ われ戴く

第5節 戦後の卒業式
 いずれの学校においても卒業式は最も重要な儀式であり、海軍華やかなりし1940(昭和15)年の卒業式は横須賀鎮守府長官、管理者の横須賀海軍工廠長などの将官が壇上にきら星のように壇上に鎮座し、卒業生より来賓が多かった。しかし、敗戦1年後の1946(昭和21)年7月1日の第25回・第26回生128名の卒業式は、服装は「通常服装」とされ、来賓は講師を派遣している県立大津高等女学校長などの4名と、市内の病院長2名の総計6名に減少した。卒業式の時間も短縮され開始時刻は4時で、卒業証書、賞状の授与、所長訓示だけで終わり慣例の謝恩会もなかった。
  しかし、その後は共済病院とアメリカ海軍病院との親密な関係から、看護婦養成所の卒業式には、帝国海軍の軍人に代わりアメリカ海軍病院長やデッカー大佐が力を入れて育てた新生婦人会会長、戦後に組織された福祉委員会会長などの女性が加わり花を添えるようになった。一例を示すならば1948(昭和23)年の高等科23回生、普通科29回生の卒業式には、米海軍横須賀病院長ガイス中佐、看護婦長オーマンなど看護婦8名が、翌年の高等科14期生及び養成所第29期生の卒業式には、米海軍病院長バドラー大佐が夫妻で臨席するなど国際色を増していった 。さらに平成に入ると県や市、病院や学校関係者だけでなく旧海軍の伝統を引き継ぐ同根の海上自衛隊横須賀病院長も招待されるようになり、卒業式の式次第も次のように変わった。
   平成16年度 卒業式 式次第
    開式の辞
    君が代斉唱 校歌斉唱
    卒業証書授与 褒賞授与
    学校長のことば
    来賓祝辞 在校生のことば 卒業生のことば
    記念品贈呈 花束贈呈
    保護者代表のことば
    合唱(仰げばと尊し 蛍の光)
    卒業生退場
    閉式の辞

  しかし、大きく変わったのは「卒業生のことば」で、昭和19年に卒業した看護婦養成所第24回生代表の阿部友子は「今コソ大東亜10億の民ニ黎明ニ来ル時デアリマス。コノ感激ヲ胸ニ込メテ私達ハ必ス模範的看護婦トナリ、良キ日本婦人トシテ高恩ニ報イ奉リ、又、当養成所ノ良キ卒業生デアルヨウニ心掛ケ以テ諸先生ノ御期待ニ副ウ覚悟デ御座居マス 」との答辞を読んでいた。しかし、敗戦後の1948(昭和23年)の答辞では「技能を錬磨し立派な看護婦となり病める人々のよき友、よき母となるとともに、後輩のよき姉となるよう努め、社会のため病院のために尽くし諸先生方の御恩の万分の一にも報いたいと念じて居ります 」と変わり、平成の時代にはいると「私たちはこれまで学んできたことを心に刻み、初心を忘れず理想に近づけるよう更なる努力を続けてまいります」に変わった。
校歌斉唱で歌われるのは「看護専門学校校歌」であるが、それは昭和10年に作成された「高等看護学院の歌」である。このため歌詞の二番には「砲火にも散りせぬ花は いまもなお 咲きかおりけり」との表現があるが、この校歌を歌い続けていることに伝統を重んじる横須賀共済病院の素晴らしさがあり、本校卒業生の責任感が強いとかリーダーシップが優れているとかの高い評価があるのかもしれない。

     「看護専門学校校歌(元看護婦養成所の歌)」
               作詞 樋口宅三郎  作曲 月岡忠三
     1 あさみどり 真澄める空に花咲くところ
       新緑の 風は薫りて
       潮騒は かすかに遠く  
       安房(あわ)上総(かずさ) むらさき匂う
       看護りの聖なる業(わざ)を 
       朝な夕な習いいそしみ
       むつまじく いざや学ばん
       団欒つつ いざや励まん
       おお おお わが姉妹

      2 清らなる生命の泉湧きいずるところ
        砲火にも散りせぬ花は
        いまもなお 咲きかおりけり
        友よ友 いざかざしませ
        新雪の 装凛凛し
        つつましく 誇りかかげてて
        手をとりて いざや学ばん
        互助つつい ざや励まん
        おお おお 我が姉妹

おわりに
  1919(大正8)年には横須賀海軍職工組合の負担で学費・食費は無料、さらに学生手当を支給し、共済病院で働く看護師を育成するため 横須賀海軍共済会病院付属看護養成所、乙種看護婦養成所、準看護学院、高等看護学院、看護専門学校と校名を変え2846名(現在の  在校生は113名、総計2959名)の看護婦・看護士を養成した。    

      養成機関の名称の変遷 養成期間  人数  年制  回生
看護養成所(赤十字) 1909−1913 101  2  9
横須賀海軍共済病院付属看護養成所 1919−1951 884  2 31
横須賀共済組合病院付属看護婦養成所(看護高等科) 1935−1949 280  1 14
横須賀共済病院乙種看護婦養成所 1950−1954  82  2  3
横須賀共済病院准看護学院 1953−1968 274  2 14
横須賀共済病院付属高等看護学院 1967−1989 609  2 21
横須賀共済病院付属高等看護学院2部 1973−1982 179  3  7
横須賀共済病院付属看護専門学校 1988−2009 702  3 19

 しかし、教育の高度化や進化に応じるためには莫大や予算を必要とすることになり、一病院で負担することが困難となり、1926(大正14)年に医師会によって創設された産婆看護婦養成所も2004(平成16)年には幕を閉じた 。また、1946(昭和21)年に誕生したは国立久里浜病院付属看護学校、翌1947(昭和22)年の聖ヨゼフ病院付属看護学校、1966(昭和41)年には横須賀医師会看護専門学校、1978(昭和53)年には国立横須賀病院付属看護学校が設立されたが、聖ヨゼフ病院の看護学校は1986(昭和61)年に、国立久里浜病院の看護学校は平成13年、国立横須賀病院看護学校は平成14年に閉校となり、病院付属の看護学校として残っているのは本校と横須賀市が医師会に委託している市立うわまち病院付属看護学校だけとなった。

 そして、より高度の教育を行うため教育を専門とする独立した専門学校の時代を迎え、2003(平成15)年には修士課程(大学院)を持つ神奈川県立福祉大学、2007(平成19)年には湘南短期大学が開校し、2010年(平成22)年には横須賀市立陽光小学校(市内佐野町)にも看護系の大学が開校しようとしている。 看護教育統合の波は横須賀共済病院付属看護専門学校も襲い、2006(平成18)年度の募集を最後に、開校100周年を迎える2009(平成21)年には生徒の学籍は湘南短期大学看護学科に移籍され100年の歴史を誇った横須賀共済病院付属の看護専門学校も時代の波に飲み込まれ閉校のやむなきにいたった。

おわりに(著者の言葉)

 私が名誉ある本学院の100年史の執筆依頼を受けたのは、多分、横須賀の地方誌に海軍カレーと高木兼寛の脚気問題を書いたからかもしれない。私は依頼を受け日本で最初に高木軍医大佐によって創立された東京慈恵医科大学看護婦養成所100年史に次ぐ『横須賀共済病院付属看護学校100年史』を書こうと決心した。残念ながら研究機関と実務を遂行し、敗戦により支援母体を失い苦難の歴史を歩んだだけに変化に富んだ歴史が書けたとは思うが、史料が四散し詰め切れない部分も残ってしまった。しかし、文書による歴史は消えたが高木が教えた医師と看護士との連係は「チーム医療」として、「病気診ずして病人を診よ」との理念は、「医は意なり」と言葉は変わったが、現在も共済病院のモットーとして引き継がれている。また、卒業生は本校が誇れる伝統はとの質問に「クラス愛」「同窓愛、すなわち母校への誇り」、そして「5分前には次の仕事の準備をしておく「5分前の習慣」ですと答えたが、これらの伝統こそ帝国海軍の伝統であり江田島兵学校の躾であり、海上自衛隊が営々として引継いできた伝統でもある。この学舎で学んだ高木兼寛の看護師道はナイチンゲール直伝の看護師道であり看護の王道であり、時代を経ても変わることのないことを胸に誇りをもって母校の教えを広く伝えて頂きたいと筆者は念じている。