「海上自衛隊55年の歩みー任務と兵力・組織の変遷」
(『世界の艦船』2008年1月)
海上警備隊の誕生と任務
創設55年を迎えた海上自衛隊の歩みを、保有艦艇や航空機と任務・組織編成などの変化を中心に振り返ってみたい。昭和20年11月30日に帝国海軍77年の歴史は閉じた。しかし、旧海軍はその後も消えることなく、復員輸送や日本周辺の機雷掃海を継続していたが、復員輸送が終わり係維機雷の掃海が完了した昭和21年8月末には、8390名から4469名に削減された。昭和22年5月には、「陸海空軍その他の戦力は保有しない」という憲法が、占領軍の圧力で公布された。しかし、その3年後の昭和25年6月25日に、朝鮮戦争が始まり占領軍が朝鮮半島に出動し、国内の治安に不安を感じると、占領軍司令官マックアーサー元帥は総理大臣吉田茂に、警察を支える部隊の創設を命じた。吉田総理は正規の手続きをしていたのでは、紛糾し時間がかかることを恐れ、国会の承認を必要としない占領軍の指示を実施するポツダム勅令により、1ヶ月後の8月10日に「警察予備隊令」を公布し、陸上自衛隊の前身である警察予備隊を誕生させた。この立法措置の省略が長い間、自衛官に「妾の連れ子」との屈辱の歴史を歩ませたのであった。
一方、終戦の混乱から朝鮮半島からの密入国者が増え、密入国者からコレラが国内に蔓延すると、占領軍は21年6月1日に不法入国者に対し、早急に措置するよう日本政府に命じた。これを受け7月1日に運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部を、門司海運局に不法入国船舶監視部を発足させたが、米国の沿岸警備隊に類似した組織を作るよう勧告されると、昭和23年5月1日には海上保安庁を発足させ、運輸省海運総局掃海艦船部に移籍していた1415名の旧軍人と、艦艇76隻(1万3000トン)を海上保安庁に移籍し、外局として航路啓開部を発足させた。これら移籍された艦船の大部分は、130トン足らずの老朽木造の掃海艇であったが、再軍備を警戒する占領軍総司令部民政局や、極東委員会のソ連やイギリス、オーストラリア代表などの「海上保安庁の創設は日本海軍復活の前兆だ」との反対を受け、職員は1万人以内、船舶は総トン数5万トン以内、船艇は1500トン、速力は15ノットを超えないことなどの制限が科せられた。
一方、朝鮮戦争が勃発し掃海兵力が不足すると、占領軍は海上保安庁所属の航路啓開隊に、朝鮮半島の港湾や水路の掃海を要請した。この要請を受けると吉田総理は、内密に延べ掃海艇43隻、巡視船10隻、隊員1204名を派遣し、掃海部隊は28個の機雷を処分した。しかし、元山上陸作戦の事前掃海に参加した掃海艇1隻が触雷爆沈し、死者1名、負傷者15名が出ると、神戸海上保安部航路啓開課長の能勢省吾(のち海将補)指揮の3隻の掃海艇は、目的がはっきり知らされていなかったこともあり、艇長の強い反対を受け帰国してしまった。激怒した米軍の指示で能勢指揮官や3名の艇長は、海上保安庁を退職させられた。能勢課長は「生命を賭して遂行しなければならないような重要にして、且つ危険な作業を国家公務員に命ずる場合には、政府はその命令が実施しやすいようにあらゆる措置を講ずべきである。また、実施する者に対しては、それを達成し得るような身分を与え、戦争に参加する場合には待遇や、犠牲者がある場合には、それに対する措置を講ずるべきである」との所見を残した。しかし、この所見は現在もあまり実現されていない。
海上保安庁が発足すると『ジェーン海軍年鑑』は、「日本艦隊が灰の中から不死鳥のように立ち上がろうとしている。現在の規模は5万トンに制限されているが、これがやがて新生海軍の中核となるのもであることを証明するかもしれない」と書いたが、それが事実となった。昭和27年4月26日に「海上保安庁法の一部を改訂する法律」により、海上保安庁のひさしを借り海上警備隊が、3ヶ月後の8月1日には保安庁が創設され警備隊が誕生した。
昭和27年11月には日米船舶貸借協定が調印され、フリゲート艦18隻と上陸用舟艇(LSSL)50隻の引き渡しが始まり、翌28年4月1日にはPF7隻で第1船隊群が編成された。同年5月にフリゲート艦5隻で第1船隊群が日本一周航海を行い各地を訪れると、当時は野党が保安隊や警備隊は戦力であり、憲法違反であると激しく追求し、吉田総理が「他国の脅威とならないので戦力ではない」などと、珍答弁を繰り返している時代であったため、地方の新聞は「立派な軍艦ですよ。3インチ砲などの高性能な武器があるのに船舶とはいえない」。「軍艦ではないですね。艦と船との合いの子でしょう」などと、見学者の戦力議論を掲載したが、この「戦力」を巡る不毛な神学論争は60年代後半まで続いた。このため、「戦」や「艦」という字が使えず「警備船」と呼称し、艦尾には櫻と青い7本の横線が入った警備隊旗を掲げ、階級も1等海佐が1等警備正、1等海尉が1等警備士などと呼称されていた。
昭和29年7月1日には防衛庁が誕生し、警備隊は海上自衛隊と名称を変え、任務も「わが国の平和と独立を守り、国の安全を維持するため直接および間接侵略に当たる」と、軍事的任務が明記され、「けやき」を旗艦に第1・第2護衛隊群(PF隊)と第1警戒隊群(LSSL隊)で自衛艦隊が編成された。8月には旧海軍の軍艦旗が隊旗とされ、10月には第1掃海隊群が新編された。著者の海上自衛隊のスタートはPFの機関士から始まるが、終戦直前にアラスカのコールド・ベイでソ連に供与した艦艇を、冷戦が始まると急遽取り返して海上自衛隊に供与したため、艦内には所々にロシア語の表示があり、時としてロシア製の部品なども倉庫にはあった。
水上艦艇発展の推移
海上自衛隊発足から計画的整備計画が開始される昭和32年までに建造された艦艇は、旧海軍の艦影を残す甲型護衛艦と呼ばれる1700トンの「はるかぜ」型、1000トンの乙型護衛艦「いかずち」型や「あけぼの」型などであった。その後、「はるかぜ」型の発展型で艦尾にオランダ坂と呼ばれる傾斜甲板がある「あやなみ」型、対空装備を強化した「むらさめ」型、司令部設備を有する「あきづき」型が建造された。この「つき」型は米国が被援助国の建艦技術の向上と経済復興を助けるため、自国の予算で日本の造船所で建造し、引渡と同時に星条旗を降下し、自衛艦旗を掲揚して供与した護衛艦であった。これほど米国は極東戦略の要として海上自衛隊を重視していたのであった。
昭和33年から始まった第1次防衛力整備計画では、第二次世界大戦中に使用されていたヘッジ・ホッグや爆雷発射機を装備した「いかずち」型の後継艦「いすず」型、昭和40年にはDDG「あまつかぜ」型が就役したが、「あまつかぜ」は最初のミサイル(ターター)搭載艦であり、また最初の全艦冷房艦であった。昭和35年9月に自衛艦隊麾下に護衛艦隊が新編されたが、当時の旗艦は「てるづき」で、第1護衛隊群(DD5隻、DE3隻)、第2護衛隊群(DD11隻)、第3護衛隊群(DE2隻、PF6隻)であった。昭和45年2月には第4護衛隊群がDEやPFなどで新編され、ここに内航護衛隊群、外航護衛隊群各2個群と、念願の4個護衛隊群体制が確立した。
第2次防(昭和37―42年)と第3次防(昭和42から46年)では、艦首に大型バウソナーを装備いたディーゼル推進のDDK「やまぐも」型9隻が建造された。最初の3隻はアスロックを搭載し、次の3隻はダッシュ(無人対潜ヘリコプター)を搭載したが、ダッシュを米海軍が廃止すると、6隻はアスロック搭載艦に改装された。第3次防ではヘリコプター搭載のDDH「はるな」型と、「いすず」型の発展型のDE「ちくご」型など、好景気期であったため大小45隻の艦艇が建造された。しかし、第4次防(昭和47から51年)ではオイル・ショックの影響を受け、予算不足から大幅なスペック・ダウンや後日装備が行われたたが、SAM(SM1-MR)やSAM(ハプーン)を搭載し、指揮管制システムを一段と強化した本格的なシステム艦のDDG「たちかぜ」型、ヘリコプター3機搭載のDDH「しらね」型が建造されたが、総建造隻数は37隻に低下した。
新中期防(平成13から17年)では「しらね」型は群旗艦装備を保有し、対潜ヘリコプター3機と掃海ヘリコプター1機を搭載する13500トンの空母型DDHに発展し、DDG「たちかぜ」型は「はたかぜ」型へと進んだが、イージス艦「こんごう」型4隻の建造が決まると5隻の計画が2隻に削減された。「こんごう」型はフェーズト・アレー・レーダーと高性能情報処理システムを装備し、同時に多数の目標を攻撃できるだけでなく、弾道ミサイルの探知、撃墜能力を持つ7250トンの海上自衛隊最大の護衛艦であったが、平成19年3月には第2世代の7700トンのDDG「あたご型」が就役した。
DDKとDDAの両機能を持ったDD「はつゆき」型と、ミサイル発射機を前甲板に移し、後甲板にヘリコプターを搭載したDDG「はたかぜ」型が、ポスト4次防と53中防(昭和52から57年)で建造された。「はつゆき」型は対潜ヘリコプターを搭載し、海上自衛隊として初めて主機にガスタービンを採用、OTO社の76mm砲、多銃身機関砲、短SAM(シースパロー)、SSM(ハプーン)を搭載した護衛艦8隻、ヘリコプター8機をもって1個護衛隊群とする、いわゆる88艦隊の汎用護衛艦の第一世代であった。この88艦隊の構成はDDH1隻、DDG2隻、汎用DD5隻の8隻であるが、DDG「はたかぜ」型は昭和63年にはイージスシステムを搭載したDDG「こんごう」型に発展し、汎用護衛艦は56中業(昭和58―60年)では「あさぎり」型、03中期防ではDD「むらさめ」型、08中期防では第4世代のDD「たかなみ」型へと進化した。なお、最初に88艦隊が完成したのは第1護衛隊群で昭和61年末であり、4護衛隊群の総てが88艦隊となったのは、途中でDDGをイージス艦に変えたことなどもあり平成6年3月となった。
平成5年には冷戦体制の崩壊を受け、国土防衛を重視し、魚雷艇の後継艇として水中翼型のPG「ミサイル艇1号」型を建造したが、気象条件に合わず3隻で中止された。しかし、平成11年に不審船事件が起きると、平成14年には全没排水方式のPGM「はやぶさ」型を建造した。掃海艇の国産は「あただ」型、「やしろ」型からはじまったが、量産艇は「かさど」型、その後は「たかみ」型、「はつしま」型、「うわじま」型へと進み、現在ではペルシャ湾掃海作戦の教訓から機雷掃討能力を強化した「すがしま」型、機雷の深々度化、高性能化に対応した1000トンの掃海艦「やえやま」型も戦列に加わっている。一方、国際貢献や災害派遣への期待から、補給艦や輸送艦は機能が大幅に向上し、船体も大型化した。最初の給油艦は昭和37年に就役した「はまな」で2900トンであったが、昭和54年には後部にヘリコプター甲板を持ち、冷凍庫などの容量を増加した5000トンの「さがみ」型、昭和62年には8500トンの「とわだ」型、平成16年には1万3500トンの「ましゅう」型へと、海上自衛隊の海外任務の拡大に比例して大型化した。一方、輸送艦は米軍供与の1650トンのLST「おおすみ」型から、昭和42年には1500トンの「あつみ」型、昭和50年には2000トンの「みうら」型、平成10年にはエアークッション艇(LCAC)2隻を搭載する8900トンの「おおすみ」型へと進化した。
潜水艦と航空機の変遷
潜水艦は攻撃的なイメージが強かったため、最初に導入されたのは対戦訓練の目標艦「くろしお(米国ミンゴ型)」であったが、それでも再軍備反対の世論に配慮し「水中高速標的」と呼称していた。国産潜水艦の建造構想は10年間も潜水艦を建造しなかった技術的空白から遅れ、国産潜水艦第1号の「おやしお」が竣工したのは昭和35年6月であった。昭和37年8月には潜水艦と救難艦の指揮運用および教育訓練を一元的に行うため第1潜水隊が新編され、昭和40年2月にはタイプ・コマンドの第1潜水隊群が誕生した。
昭和46年1月には潜航舵をセールに付けた涙滴型潜水艦「うずしお」型が誕生したが、艦形が米国の原子力潜水艦に類似していたため、「エンジンを変えれば原子力潜水艦に改造可能であり、非核三原則違反する」と非難した新聞もあった。この型は初めて水上速力より水中速力が早い海上自衛隊の潜水艦の運用思想を大きく転換した歴史的な潜水艦であった。その後、「うずしお」型にはマスカー、曳航ソナー(TASS)やSSMハプーンなどが装備され近代化されていった。昭和56年には兵力の増強に伴い第1・第2潜水隊群と潜水艦訓練隊で潜水艦隊が新編された。
中期防末に登場したのが葉巻型の「おやしお」型で、この型からは側面アレイ、艦首ソナー、TASSの探知データーを一括処理する戦術指揮装置を装備し、捜索能力が大幅に増加された。なお、現在、長時間の潜航が可能なAIP機関(非大気依存推進機関)を搭載する次期潜水艦が建造中である。
一方、航空部隊の出発はヘリコプターから始まった。昭和28年には練習機のベル47ヘリコプター(4機)、次いで翌年にはシコルスキーS-51(3機)、S-55(2機)が導入され館山航空隊が創設された。昭和29年には5機の固定翼機ノースアメリカンSNJが引き渡され、館山基地で訓練が開始された。航空部隊には以後、固定翼機ではレーダー搭載のTBM-3W対潜捜索機と爆雷などを搭載するTBM-3S対潜攻撃機が供与されたが、鈍重で老朽化していたためほとんど実任務には使用されなかった。次いでロッキード対潜哨戒機PV2, P2V-7、国産のP-2V-J、グラマンS2F対潜哨戒機を経て昭和56年には大型対潜哨戒機P3Cが導入され100を保有するP3Cたいこくとなった。回転翼機はS-55A救難機、HSS-1,HSS-2対潜ヘリコプター、昭和66年にはディッピング・ソナーとソノブイ・ランチャー、MADを搭載したSH-60J対潜ヘリコプターが、平成17年には空対艦ミサイルや対潜爆雷を搭載した改造型のSH-60Kが戦列に加わった。
次ぎに組織について述べると、昭和36年9月には佐世保地方隊の鹿屋航空隊が第1航空群、横須賀地方隊の八戸航空隊が第2航空群、呉地方隊の徳島航空隊が第3航空群、館山航空隊はヘリコプター部隊の中枢として第21航空群となり自衛艦隊に編入された。これらの航空部隊は広範な警戒監視の実任務を行っており、平成11年3月には日本海、平成13年12月には東シナ海で不審船を発見、平成16年11月には中国潜水艦の領海侵犯を発見している。PS-1飛行艇は旧海軍の川西飛行機が開発した二式大艇の技術を引き継いだ新明和興業が、昭和42年10月には試作機PS-Xの初飛行に成功、PS-1と命名されて制式化された。PS-1は耐波性が高くSTOL性も優れ、着水後にはアクティブ・パッシブ両用ソナーを海面下150メートルまで吊下げ、潜水艦を探知するというユニークな着想であったが、P3C対潜哨戒機の導入と競合したため、試作機2機を含み20機で生産が中止され、現在は救難飛行艇US-1(7機)、改良型のUS-2(2機)が運用されているに過ぎない。
冷戦時代の任務と役割
昭和32年には効率的防衛力の整備と、日米安保体制を基調とする「国防の基本方針」が、昭和51年には「昭和52年度以降に係る防衛計画の大綱(51防衛大綱)」が定められ、「限定的かつ小規模な侵略については原則として独力で排除する」が、大規模な侵略の場合には「米国の協力を待ってこれを排除する」こことされ、打撃力を米海軍に期待し、海上自衛隊は米海軍が弱体な掃海能力や対戦能力を重視し、米海軍と一体となった兵力整備を進め、海上からの侵略に対する限定的な国土防衛と、海外からの資源ルート、日本有事に来援する米軍の海上輸送ルートの安全を確保するシーレーンの防衛が重視され、第1次から第5次防までは経済の好調に支えられ防衛力の強化が続けられた。そして、日本もNATO諸国の軍備増強に対応し、冷戦が激化した昭和56年5月には鈴木善幸総理が有事の対馬・津軽海峡の封鎖、1000海里のシーレーン防衛などを米国で発表し、昭和56年には対潜機P-3Cを導入、昭和57年にはシステム艦「はつゆき」を整備するなど防衛力の強化に努めた。昭和58年には中曽根康弘総理が『ワシントン・ポスト』の記者に、日本はソ連に対する不沈空母であり、米国とともに戦う同盟国であると語るなど、日本は冷戦中はアジア太平洋地域における東西対立の最前線国家として、西欧陣営の一員として冷戦を戦い冷戦の勝利に大きく貢献した。
ソ連が崩壊したのは大平洋の日米の海軍力と大西洋のNATOの海軍力に対抗しようと、経済を無視して軍備を増強した結果、経済的に困窮し自滅したのである。しかし、このソ連との戦いは即応体制を常時維持して待機するだけの戦いであったため、その姿はほとんど国民の目に触れることはなかった。さらに世論を分断し日米同盟を解消し、日本を弱体化しようとする共産主義陣営の宣伝攻勢を受けたため、国民の自衛隊員に対する視線は冷たく、隊員が制服で外出すれば「税金泥棒」との罵声も浴びせられていた。平成17年3月の防衛大学校の卒業式で、小泉純一郎総理は「自衛隊の歴史と諸君の先輩の歩んだ道は、『人知らずして慍(いきどお)らず』であった。人々に理解されなくとも「慍らず、国を護る尊い任務に邁進し、今日の自衛隊を築いた」と訓示したが、隊員はこのような環境の中で黙々と訓練に励み即応態勢を維持し、厳しい冷戦を民主主義諸国とともに50年間も戦い抜いたのであった。この間、華々しい舞台に上がり賞賛を受けることは一度もなかったが、隊員たちは「戦後50年の平和はわれわれが守った」との誇りを胸に、静かに海上自衛隊を去っていった。
「新しい戦争」と新しい役割
冷戦構造が崩壊すると、冷戦中は押さえ込まれていた国境紛争、民族紛争や宗教紛争が多発した。そして、平成3年にはイラクがクエートに侵攻した。イラク軍は米国を中心とした多国籍軍に撃退され、クエートは併合を免れた。しかし、クエート沖にはイラクが敷設した1200個の機雷が残され、この機雷を米英独仏伊など9カ国が共同で掃海することになり、日本からも掃海母艦「はやせ」、補給艦「ときわ」、掃海艇4隻が乱立する赤旗と「海外派兵反対」のシュプレヒコールに送られたペルシャ湾に向かった。これは海上自衛隊の最初の海外派遣の実任務であった。この時期は1年中で最も暑い時期であり、気温は50度、海水温度も35度、さらにイラク軍が撤退時に火を付けた油田260カ所が燃えており、煤煙と砂漠の粉塵が人間だけでなく、機械も吸気口フィルターを詰まらせ故障を続発させていた。隊員はこのような状況下に触雷に備えて、炎天下に分厚い長袖の戦闘服を着用し、ヘルメットにカポック式の救命胴衣、防塵マスクを付けて1日10時間から12時間も掃海作業に従事した。
米国では湾岸戦争から帰国した兵士はワシントン市内を行進し、ブッシュ大統領は「諸君は米国の誇りである」と迎えた。しかし、日本では掃海部隊がクウェート沖の掃海、さらにクウェート・サウジアラビア沿岸航路の拡張及び確認掃海に当たり、稼働率百パーセント、服務事故ゼロという成果を挙げて帰国したが、帰国行事をめぐって悶着が生じた。自衛隊の最高指揮官の海部俊樹首相から軍国主義のイメージが強ので、帰国時に自衛艦旗を降下し、軍艦マーチは演奏しないようにとの意向が伝えられたのである。法で定められた自衛艦旗を降下するのは降伏する時だけであり、軍艦マーチは諸外国を訪問したときに、帝国海軍の伝統を引き継ぐ海上自衛隊に敬意を表するため、訪問各地で必ず演奏される世界的名曲であり、海上自衛隊の隊員に取っては隊歌ともいうべき曲である。ペルシャ湾に派遣された隊員は、このような指示を出す国家指導者の命令で、188日間も灼熱の海で危険な任務につき、「国際国家日本」のために働いてきたのだろうか。考えさせられ士気を下げらされた事件であった。
しかし、派遣された掃海部隊が国際的な賞賛を受けると、国民は軍事面での国際貢献についても多少は寛容となり、国連にカンボジア暫定統治機構が組織されると、平成4年には「国際平和協力法」を成立させ、「国際緊急援助法」を改定し、1200名余の陸上自衛隊をカンボジア、平成5年にはモザンビーク、6年にはザィール、8年にはゴラン高原、11年には西チモール、15年にはイラクに派遣するなど、ペルシャ湾派遣掃海部隊が軍事的国際協力への道を開いたのであった。政府は平成7年12月には「平成8年度以降に係わる防衛計画の大綱(07防衛大綱)を決定し、海上自衛隊には主任務の「わが国の防衛」に加えて、「大規模災害等各種の事態への対応」と、「より安定した安全保障環境構築への貢献」の任務が付与され、「国際平和協力業務」「安全保障対話・防衛交流」「軍備管理、軍縮分野に於ける活動協力」など信頼性の醸成や国際協力などの政治的外交的な任務も付加された。しかし、ヨーロッパで冷戦体制が崩壊し、国連平和維持軍が各地に派出されると、国連の力で平和が維持できるとの錯覚と財政難から、「合理化、効率化、コンパクト化」が求められ、地方隊は3個護衛隊、掃海部隊は1個掃海隊群、航空部隊は3個飛行隊が、主要装備では護衛艦が10隻、作戦用航空機が50機削減されただけでなく、隊員も一般公務員同様に毎年5パーセントの一律定員削減を受け削減され続けている。
平成8年4月には「日米安全保障共同宣言」が宣言され、日米両国がアジア太平洋地域の平和と安定に協力することを宣言し、対米支援策を具体化するため、平成9年に「新ガイドライン(日米防衛協力の指針)」が合意され、「捜索救難活動」「非戦闘員の待避」「警戒監視」「機雷除去」「船舶の臨検」などが加えられ日米安保体制は一段と強化された。平成13年11月9日には「テロ対策特別措置法」に基づき、給油艦「はまな」護衛艦「くらま」「きりさめ」をインド洋に派遣し、12月7日の真珠湾攻撃60周年記念式典で、ブッシュ大統領は「今日、かっての敵国の一つがいまや米国の最良の友人であることにわれわれは誇りを持つ。同盟国日本の国民に対し、われわれは心から感謝する。今日、両国海軍が肩を並べてテロとの戦いに従事している。60年前の苦々しい過去は消え去り、太平洋上で両国の戦争は今や歴史の一齣となった」と演説したが、真珠湾を「歴史の一齣」とさせたのが、給油部隊のインド洋への派遣であった。しかし、集団的自衛権を認めていないため、米艦が攻撃されても自艦が攻撃されない限り、米艦を攻撃中の敵を攻撃することも、撃沈され海上に漂う米兵を助けることも出来ないが、「集団的自衛権」「有事法令」「ORE(部隊行動準則)」などの議論は憲法が足かせとなって神学論争の域を出ていない。
新しい冷戦と新しい任務
平成11年3月に能登半島沖の北朝鮮の不審船に対して、初めて「海上に於ける警備行動」が発令され、武器が使用され「周辺事態安全確保法」が制定された。平成10年8月と18年7月の北朝鮮のミサイル発射では、ミサイル探知警戒の実任務が発令され、イージス艦への期待が高まった。しかし、イージスとはギリシャ神話の最高神ゼウスが、娘のデイアをあらゆる邪悪から守るために与えた「胸当て(アオギス)」であり剣ではない。この神話が示すとおりイージス艦はミサイルを探知する能力は優れているが、それを打ち落とす能力は百発百中ではない。ミサイル防衛の最も有効な対策はミサイル発射基地の事前攻撃であり、ミサイル発射基地を破壊するトマホーク・ミサイルなどの装備も考慮すべきではないかとの意見も出たが、たちまちジャーナリズムの総叩きを受けて消されてしまった。また、ミサイルを探知してから目標に命中するまでに残された時間は8分程度しかないが、この短い時間内に情報が正確に総理に達し、総理は迎撃ミサイルの発射を令することはできるのであろうか。一方、東シナ海から太平洋に目を向けると、17年間連続2桁の軍事費を増加中の軍事大国の中国は、度重なる抗議を無視して東シナ海の海底ガス油田開発を実現し、尖閣列島の領有を一方的に宣言し、原子力潜水艦に宮古島沖の領海を侵犯させるなど、東シナ海の制海権を確立した。
政府は平成13年9月の「9.11テロ」以降の世界情勢の変化に対応するため、平成16年には「平成17年以降に係わる防衛計画の大綱(新大綱)」を決めた。この新大綱では「自らが力の空白となって、わが国周辺地域の不安定要因にならないようにする」という半世紀にわたり踏襲されてきた基盤的防衛力構想を捨て、「わが国自身の努力」「同盟国との協力」、「国際社会との協力」を3本の柱として国の安全を図ることとされた。しかし、「同盟国との協力」であり、「国際社会の協力」にも連なるインド洋での給油活動を、国連決議がないとか、米国への支援であり米国の戦争に巻き込まれるとか、事務次官の業者との癒着問題、さらに海上自衛隊の事務の不手際などから衆議院で多数を取った民主党の反対により中断されてしまった。インド洋での給油活動は日本のシーレーンの防衛だけでなく、西欧諸国と価値観を共有していることを示す証しであり、さらに日本の安全に不可欠な日米安保体制の信頼性を誇示し、日本を侵略しようとする国への抑止にも連なる活動であった。しかし、海上自衛隊に撤収命令が発せられた。
44年前の日本海の日米共同訓練で、空母ボンホーム・リチャードの直衛配備中に、隣の米駆逐艦が空母に接近しようとするソ連駆逐艦を排除中に接触する事件が起きると、第1護衛隊群は「直ちに訓練を中止し帰投せよ」との指示を受け、護衛を中断して去ったため、直衛艦は半分になってしまった。訓練終了後、佐世保で開かれた事後研究会で米軍司令官から「わが駆逐艦の高いスキルで半数の直衛艦で、日本の海の『日本海』を守ることができた」と皮肉を言われ身の置き場もなかったが、インド洋派遣部隊の指揮官や隊員は離脱の挨拶先で、どれだけ肩身の狭い思いをしたことであろうか。しかし、最も大きな問題は給油中止が日米安保体制の信頼性に亀裂を生むだけでなく、有志連合を結成している西洋諸国から孤立し、中国に大きな利益を与えたことである。そのうえ、米国でも中国のプロパギャンダを受け「従軍慰安婦非難決議」を採択するなど日本離れが進んでいる。しかも米国の次期政権は日本より中国を重視する民主党に変わる可能性が高まっている。となると、第3の「国際社会との協力」に期待することになるが、国連や近隣諸国との協議も北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議、中国との東シナ海の海底油田問題、韓国との竹島問題、ロシアとの北方領土問題など、どれ一つ「話し合いによる解決」は解決されていない。
それにもかかわらず、「わが国自身の努力」という安全保障の第1の柱は、「格段と厳しさを増す財政事情を勘案し…..防衛力の一層の効率化、合理化を図り経費を抑制する」として削減され続け、創設時に18万で発足した陸上自衛隊は14万8000人に、航空自衛隊は430機から350機削減された。海上自衛隊も「51大綱」時には12隊あった護衛隊が8隊、10隊あった地方隊の護衛隊が5隊と、60隻から47隻に、潜水艦は隻数は変わらないが6個隊から5個隊と掃海隊群は2個群から1個群に、固定翼哨戒部隊は8飛行隊から4飛行隊、機数では220機から160機に削減されるなど、「わが国自身の努力」はなされていない。
おわりに
歴史は国際連合や多国間安全保障体制が、国家の安全保障には機能しないことを教えている。1918年に国際連盟が誕生し、1924年にワシントン条約により日英同盟が解消され「太平洋に関する四カ国条約」、「中国に関する九カ国条約」が締結され、ここにワシントン体制と呼ばれる3つの多層的国際協調体制が確立された。しかし、太平洋戦争を防止することは出来なかった。ヨーロッパに生まれた英仏独などのロカルノ体制も、ヒトラーの一撃で崩壊し、第二次世界大戦を阻止することはできなかった明治38年から大正10年の16年間、日本は海洋国との同盟で栄え大陸国との同盟で荒廃を招いた。すなわち、
開国早々の日本は海洋国イギリスと同盟し、海洋国米国の援助を受けて日露戦争に勝ち、
第一次世界大戦ではイギリスを助けドイツを破り5大国、3大海軍国に成長した。
しかし、 第一次世界大戦中の大正5年に大陸国ロシアと攻守同盟(第4次日露協商)を結び、大正7年には中国と日華共同防敵軍事協定を締結してシベリアへ出兵、
さらに日中戦争から抜け出そうとドイツと結んで第二次世界大戦に引き込まれて敗北したが、敗戦後は海洋国の米国と結んだ日米安保条約によって今日の繁栄を得た。
ペルシャ湾への掃海艇の派遣、インド洋への補給部隊の派遣、瑛仏独豪などの西欧諸国の有志連合や、インド、シンガポール海軍などとの共同訓練などを通じて、海上自衛隊は海洋国家との連携の先頭に立ってきた。しかし、国内には中国や韓国などの大陸国との連携を推進し、中国を中心とした東アジア共同体を軸に米国から離れようとする勢力も増えつつあり、それが海上自衛隊のインド洋からの撤退を加速したのであり、海上自衛隊は第1線を退きし、ばらくは持てる力を発揮できない「臥薪嘗胆」の時代を迎えるかも知れない。海上自衛隊創立50周年の式典で、海上幕僚長は海上自衛隊は「働く時代」に入ったと挨拶した。確かに少ない人員でよく働いた。しかし、最近はイージス情報の漏洩、補給量の計算違いや服務事故の多発など、組織として疲労限界に達しているようにも見える。国民が望まないのだから、ここらで少し休んで、この間に内部に目を向け厳正な規律を確立し、練度を高め明日の新しい任務に備えて頂きたい。
最後に定年退職後に歴史を学ぶ学徒に転進した先輩として痛感するのは、海上自衛官の歴史観の欠如であり、戦史教育の質の低下である。明治・大正海軍は多くの優秀な人材に歴史を学ぶ機会を与えた。しかし、ワシントンやロンドン軍縮会議で人員を削減されると、「月月火水木金金」と目先の戦術や訓練に血道を上げ戦争を学ぶことはなかった。この戦史の教育や研究の軽視が長期的戦略眼を失わせ、昭和海軍を米英と戦うという悲劇の道を歩ませてしまったのである。歴史を学ばずして国家戦略も海軍戦略も生まれないし、未来も読めないということを申し上げて結びの言葉としたい。