樋口秀実『日本海軍から見た日中関係史研究』

本書の構成

 20世紀の日中関係は日本に激動に満ちた歴史を歩ませる大きな要素であった。しかし、従来の日中関係史の研究は陸軍や外務省に偏る傾向が強く、海軍の役割や影響などに関する本格的な研究は少なかった。本書は第1に海軍の対中政策の解明、第2に海軍の対中政策が日本の対中政策に与えた影響、第3に海軍の対中政策が日中戦争から太平洋戦争へと拡大していった道程を解明することを課題としたものである。このため、本書は従来軽視されてきた日中関係の近代史に、海軍という新しい視点を加え、さらに日露戦争から太平洋戦へと、半世紀におよぶ長いスパンと、米国はじめ東南アジアの華僑なども加えたマルチな国際関係を軸に分析されている。これらの新しい視点により、本書は従来の日中関係に多様性を加え、日本海軍の対中政策を通じて「近代日本外交の歴史過程の全体像」に一つの大きな視点を加えた貢献は大きい。それでは、まず本書の構成を見てみよう。本書は序論と終論と9章からなり、第2章と第3章には補論が挿入され、関連する事象がさらに詳細に分析され特長ある論旨を展開している。

   序章
   第1章 日露戦後の日本海軍の対中政策
    補論1 対中国海軍部借款問題
   第2章 1920年代東アジア国際政治史像の再検討
        中国大陸の政治的安定化に対する日本の〈貢献〉をめぐって
   第3章 日中航空協定締結問題
   第4章 満州事変と日本海軍
   第5章 華北分離工作期の日中関係と日本海軍
   第6章 中山事件と日本海軍
    補論2 日中防共協定締結問題
   第7章 日中戦争下の日本の華僑工作
   第8章 注兆銘工作をめぐる日本海軍と日米関係
   第9章 終戦史上の「戦後」―高木惣吉の終戦工作と戦後構想
   結章

各章の紹介

 次に本書の内容を紹介しよう。本書は海軍の中国政策を解明した第1章から第3章、海軍の対中政策が日中関係に及ぼした影響を論じた4章と5章、日中戦争が太平洋戦に拡大した道程を解明した7章と8章と、海軍の戦前・戦中の対中政策が戦後に連なった連続性を論じた9章から構成されている。序論では海軍の中国政策を解明し、従来対立を強調されがちな陸軍と外務省が、いずれも「大陸政策論者」であるのに対し、海軍は国家の発展を南進に求める「海洋政策論者」であること。海軍は、陸軍に対する抑制力という点で外務省と共通するが、時として陸軍とともに外務省と対立し、海軍が対中国政策に独自性を持っていたことを立証し、海軍がどのような意図で対中国政策に関与したかを解明している。

 第1章「日露戦後の日本海軍の対中政策」および補論1「対中国海軍部借款問題」では、日露戦争後に米国の中国進出に危機感を持った海軍は、米国と対峙するため中国海軍を再建しようと試みた。そして、軍務局長の秋山真之少将などは孫文を支援し、孫文と「中日盟約」の締結に関与し、日中共同で米国海軍に対処しようと「日中海軍提携構想」を進めた。この海軍の動きをさらに具体的に分析したのが、補論1「対中国海軍部借款問題」である。補論では八角三郎駐華公使館付海軍武官による川崎造船所を通じた江南造船所を対象とした借款交渉が、川崎造船所の経済的破綻や米国との協調を重視する加藤友三郎などの消極的態度から挫折した経緯が明らかにされている。

 第2章の「1920年代東アジア国際政治史像の再検討」では、直隷派全盛期、北京政府崩壊期、国民政府成立期、国民政府動揺期と複雑に揺れる中国の政情に振り回された日本の対応、特に海軍の対中政策を分析している。そして、ワシントン海軍軍縮条約の締結当時の海軍の対応には、中国の統一を推進し、中国の政治的安定化、ひいては東アジア国際秩序の形成に寄与(貢献)しようとした意図があったとしている。そして、田中義一の動きや山東出兵には、蒋介石に期待し国民党政府部内から国民党左派や中国共産党の影響を排除し、中国の安定を蒋介石を支援して図ろうとしたとの新しい視点を紹介している。また、中国の安定化、すなわち蒋介石に対する援助に幣原外相が消極的であったため、国民政府の対日政策が硬化し、日米の対立が高まり、このながれに軍備増強を主張する軍縮反対論が台頭し、それがロンドン海軍軍縮会議にも波及したとしている。

 第3章の「日中航空協定締結問題」では、軍縮間題をめぐリ日米対立が先鋭化した20年代末から30年代前半にかけて、海軍は米国が中国の航空事業に進出すれば戦略的に米国の航空基地が中国に展開されると危惧した。そして、海軍は航空事業などによる進出を通じ、米国の民間航空の中国進出に対処しようと日中提携を模索した。満州や福岡―上海間の民間航空路開設問題で、特に海軍が強い関心を示したのは福岡―上海間の航空協定であったが、それはロンドン海軍軍縮条約で生じた兵力劣勢を海軍航空へ威力の予備兵力と考えていた民間航空で補おうとしたためであったと分析している。

第4章から第6章の海軍の中国政策への影響では、海軍の政策と陸外両者の対中政策の比較とその特徴を明らかにしている。次いで、海軍の対中政策が日本の対中政策決定過程全体のなかで持っていた意味と、それが決定に至るまでに果たした役割、さらに日本の対中政策決定にいかなる影響を与えたのかを解明している。第4章の「満州事変と日本海軍」では、日米戦争宿命論に立脚する「艦隊派」が陸軍に同調し、対米関係への懸念から不拡大方針を支持する「条約派」を圧倒した。そして、「艦隊派」主導により山海関地方に海軍艦艇を派遣するなど海軍も対中進出を積極化した。さらに、上海事変では一層積極的な行動をとったため、海軍の陸軍に対する影響力(抑制力)が低下したとしている。また、本事件をめぐる海軍の対中政策は海軍の対米観と連動し、塘沽停戦協定の締結では陸軍を抑制するなど、海軍の対中国政策の影響力の強さを例証している。

 第5章の「華北分離工作期の日中関係と日本海軍」では、幣原外相が蒋介石を支援して中国大陸の政治的安定化をめざす政策をとらなかったため、中国では地方軍閥が活発化し、このため対中政策決定をめぐり、陸海外の政策的乖離が拡大し、日中外交が多元化し分裂した。特に海軍の強硬派は陸軍の華北重視に対して西南地方(福建省、広東、広西省などの中国南部)を重視し、陸軍の北進論を抑止しようと南進論を唱えた。そして、海軍は対日強硬策をとる国民政府を避け、西南地方の政権の親日化する「西南工作」を展開し、国民政府を挟撃する政策をとった。この海軍の「西南工作」が陸軍の華北進出を助長し、南京政府の対日姿勢を硬化させる一因になり、日中の対立を深めたとしている。しかし、一方、外務省は華北工作の抑制という意味では陸軍に妥協的であり、このため海軍は陸軍を統制する力を弱めたとしている。

 第6章の「中山事件と日本海軍」では、海軍が対中融和策への転換した矢先に、上海で中山事件(水兵殺害)などの抗日テロ事件が続発したため、第3艦隊などの出先だけでなく、海軍中央も「対支膚懲」の強硬姿勢を示し、強い圧力を行使した。そして、このため日本側の要求が過大となり、川越・張群会談を決裂させる一因となったとしている。しかし、1935年に第2次ロンドン海軍会議が決裂すると、海軍は対米関係を重視し対中政策も穏健化させ、「西南工作」を中止し、陸軍の対中政策を抑制する方向へ動いたという。次いで補論2「日中防共協定締結問題」では、ソ蒙協定の締結や有田八郎の外相就任によって、国民政府も対日宥和に傾きかけたが、日本が翼東防共自治政府解消などの中国側要求を拒否したため、国民政府は対ソ接近を再開した。次いで国民党政府は中ソ不可侵条約を締結し、抗日的態度を硬化し日中防共協定を破棄したとしている。

第7章から8章は日中戦争から日米戦争への拡大の道程をたどり、日中戦争が日米戦争へと推移した軌跡を後付している。第7章の「日中戦争下の日本の華僑工作」では、1938年に江兆銘工作が開姶されると、海軍はこの政策を積極的に支持した。そして、その一環として東南アジアの華僑工作を重視し、華僑出身者が多い汕頭を海軍の発案によって攻略し、華僑工作として自治政権樹立や汕頭への華僑資金の誘致を画策し、親日的華僑団体も結成された。しかし、華僑を取り込み東南アジアに地域経済圏を建設するまでには至らなかった。また、この章ではタイの海軍拡張計画に乗じて、海軍がタイ国海軍との関係を強化し、タイ国政府も華僑の同化政策を推進し、国民政府の華僑統制を弱めたいとの意図から、日本の工作を利用したマルチな国際的な視点が提示されている。

 第8章の「汪兆銘工作をめぐる日本海軍と日米関係」は、対米戦略を有利に展開しようとする海軍が、汪兆銘政権の海軍を再建し、日本海軍と提携する「日中海軍提携構想」を論じている。さらに海軍は華僑工作を推進するのに親日政権の汪兆銘政権の安定化の目的のほか、華中・華南から東南アジアに広がる華僑ネットワークを統合し、そこに日本主導型の地域経済圏を建設しようとしたと論じている。また、海軍が汪兆銘政権の海軍を再建しようとしたのは日汪両海軍が協力し「東亜新秩序」を防衛しようとしたという。そして、著者はこのような海軍の政策が日英・日米の対立を激化させ日中戦争を日米戦争へと拡大する「橋渡しの役」をしたと指摘している。

 第9章「終戦史上の『戦後』 高木惣吉の終戦工作と戦後構想」では、海軍の戦前の対中国政策が戦後に、どのように継承されたかいう歴史の連続性に着目し、高木惣吉海軍少将を軸とした海軍の和平構想が分析されている。最初に海軍は「ソ連勢力を満州に引きいれ、中国本土に日本勢力を残存させ、中国大陸に日ソの勢力範囲を設定し、この状況を利用して米国の対日協力の促進と、対中国進出(米中離間)をはかる」構想を待っていた。しかし、さらに戦局が不利となると、中国共産党の勢力を華中から華南に引き入れ、中国問題で米ソの対立を惹起させる構想に変化した。このような海軍を中心とした宮中・重臣グループの「即時和平・暫定的対ソ利用・日米提携」の和平構想と、陸軍が中心の大東亜省-革新官僚グループの「本土決戦・全面的対ソ依存・日中ソ連合」構想が、終戦交渉を複雑化し分裂させたとする本章は斬新である。
結章は、序章で示した3つの課題に即して本論を要約した上で、保科善四郎元海軍中将などの旧海軍グループが、戦後の日本の外交に与えた影響を論じている。旧海軍グループは中ソ不可分という対外認識に立脚し、中ソ両国への対抗措置として、日米関係に加えて日台関係を強化し、東南アジアに日本を中心とした反共経済圏を確立すべきだと主張し芦田均に働きかた。そして、芦田を通じて海軍の再建を企図した戦後の再軍備への道程も分析している。

全般所見


 本書は序章で提示した3つの命題に沿って海軍の対中政策を分析し、対中政策と対米政策の関連性、海軍部内における対中政策の比重を検討し、海軍の華中華南重視という新しい多様な視点を加えた。特に海軍の江南造船所借款問題や日中航空協定締結問題など、従来あまり知られてない経済的分野の研究を加えたことは高く評価されよう。海軍は日中提携構想から1904年から1908年には砲艦や水雷艇を、1931年から36年には軽巡洋艦「寧海」「平海」を建造し引き渡した。このような艦艇の建造や武器の譲渡、留学生の受け入れなどにも着目する必要があろう。また、第2章は斬新なだけにやや結論を割り切りすぎた印象を受けた。先行研究などを俎上に挙げ切り込んだならば、この研究の学会における地位も不動のものになり、さらに説得力が高まったのではないか。

 また、中国情勢と海軍問題の関連性、ひいては日中関係と日米関係の相互規程性という分析視角にも学ぶべき点が多かった。日独伊三国軍事同盟や南進などによる日米対立の激化に太平洋戦争の起源を求める通説的見解に、海軍の対中政策という視点を加えた点が高く評価される。特に海軍による華僑懐柔策という第7章の視点は独創的であるが、西南工作に関連し海軍大将中村良三が理事長であった太平洋教会の雑誌『太平洋』に、「今イギリスは豪亜(南シナ海、セレベス海、パンダ海)の要衝シンガポールに大軍港を造り、これを拠点としてアジアの植民地化に拍車をかけている。大陸での戦争が長期化することは大英帝国を利することになる。「陸軍よ、国益を考え、すみやかに事態を収拾し給え」と発表した「豪亜地中海論」や、さらに1939年には陸軍の反対を排して海南島を占領し、1940年にはスプラトリー諸島を領有した。このような海軍の軍事行動を加えたならば、海軍の中国政策が対英・対米関係を悪化させ、日英米戦争に連なった経緯がより明確になったのではないか。また、戦前・戦中期の海軍の南進論的東南アジアの経済圏構想を、戦後の海軍再建と東南アジア経済圏と結びつけるなど、本書からは極めて斬新な多様な視点が得られた。

 一方、本書を読んで気になったのは引用文の多さと、その長さであり、時として読む者に混乱を起こさせ、全体の流れを見失わせた。引用文を短縮することなどにより、全体の流れもより明確になるのではなか。また、海軍という一つの組織を時系列や事象毎に、さらには多国間の関係を絡ませたため、時系列が乱れ全体の流れが今ひとつ把握しにくかった。工夫が必要ではないか。また、中国側の史料が少なく中国側の意向が不明確であるが、歴史は相互作用で動くものであり、中国側の対応の解明については今後に期待したい。

 最後に書評から離れた読後感を述べると、「中国の共産主義化が進めば米国としても安全保障上、日本の戦後復興を支援せざるを得ない」と、分析した高木少将の終戦研究のとおりに戦後の歴史は推移した。1948年には海上保安庁が誕生し、1951年には海上自衛隊の全身である海上警備隊が誕生し、米海軍はフリーゲート艦などを供与し、海上自衛隊の創設に物心両面の援助をした。この高木少将の洞察はどこから生まれてのであろうか。未来を洞察するための歴史観の重要性を痛感したことを付記して筆を置きたい。
                              (芙蓉書房出版、2002年、A―5版、310頁、5800円)