波濤を越えて半世紀
         ー海上自衛隊の任務の変遷


海上警備隊の誕生と任務
 
 21世紀の幕開けとともに、創設50周年を迎えた海上自衛隊の歩みを、任務や役割の変化を中心に振り返ってみたい。1945年11月30日に、帝国海軍77年の歴史は閉じた。そして、その2年後の1947年5月には、「陸海空軍その他の戦力は保有しない」という憲法が、占領軍の圧力で制定された。しかし、その3年後の1950年6月25日に朝鮮戦争が始まり、占領軍が朝鮮半島に出動し、日本国内の治安に不安を感じると、占領軍司令官マックアーサー元帥は、時の総理大臣吉田茂に警察を支える部隊の創設を命じた。吉田総理は正規の手続きをしていたのでは、紛糾し時間がかかると考え、国会の承認を得ず立法手続きを省略できる、占領軍の指示を実行するポツダム勅令により、1ヶ月後の8月10日に「警察予備隊令」を公布し、陸上自衛隊の前身である警察予備隊を誕生させた。

 一方、占領軍は終戦の混乱から朝鮮半島からの密入国者が増え、これら密入国者からコレラが蔓延すると、46年6月1日に不法入国者に対し、早急に措置するよう日本政府に命じた。これを受けた政府は7月1日に、運輸省海運総局に不法入国船舶監視本部を、門司海運局に不法入国船舶監視部を発足させたが、7月には米国の沿岸警備隊に類似した組織を作るよう勧告され、1948年5月1日には海上保安庁が発足し、運輸省海運総局掃海艦船部所属の1415名と船艇76隻(1万3000トン)が海上保安庁に移籍させられた。これら移籍された艦船の大部分は350トン前後の老朽木造の掃海艇であったが、再軍備を警戒する占領軍総司令部民政局や、極東委員会のソ連やイギリス、オーストラリア代表などの、「海上保安庁の創設は、日本海軍復活の前兆だ」との反対があり、職員数1万人以内、船舶は総トン数5万トン以内、船艇は1500トンを超えないことなどの制限が課せられた。また、海上保安庁法にも「この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、または軍隊の機能を営むことを認めるものと、これを解釈してはならない」と明記することが要望された。

 しかし、この海上保安庁が発足すると、『ジェーン海軍年鑑』は「日本艦隊が灰の中から不死鳥のように立ち上がろうとしている。現在の規模は5万トンに制限されているが、これがやがて新海軍の中核となるのもであることを証明するかもしれない。人々はベルサイユ平和条約のトン数制限が、紙の上では守られていた比較的平穏な時期を経て、再建されたドイツ艦隊の復活を想起しなければならない」と書いたが、それが事実となった。『ジェーン海軍年鑑』が指摘したとおり、5年後には海上保安庁のひさしを借りて海上自衛隊が誕生したのである。

 一方、50年に朝鮮戦争が勃発し掃海兵力が不足すると、占領軍は海上保安庁所属の航路啓開隊を朝鮮半島に派遣し、港湾や水路の掃海を依頼し、日本政府は占領軍の命令として内密に、延べ掃海艇43隻、巡視船10隻、隊員1204名を派遣し、28個の機雷を処分した。しかし、最初に出動し元山上陸作戦の事前掃海中に参加した掃海艇1隻が触雷し爆沈し、死者1名、負傷者15名が出ると、神戸海上保安部の航路啓開課長能勢省吾指揮下の3隻の掃海艇の艇長は、目的がはっきり知らされていなかったこともあり、強硬に掃海中止を迫ったため、能勢指揮官は残った3隻の掃海艇を引き連れて帰国してしまった。激怒した米軍の指示を受け、能勢指揮官や3名の艇長は海上保安庁を退職させられた。能勢は「生命を賭して遂行しなければならないような重要にして、且つ危険な作業を国家公務員に命ずる場合には、政府はその命令が実施しやすいようにあらゆる措置を講ずべきである。また、実施する者に対しては使命感を与え、自覚を促し目的を明らかにし、且つそれを達成し得るような身分を与え、戦争に参加する場合には待遇や、犠牲者がある場合には、それに対する措置を講ずるべきである」との所見を残した。しかし、この所見は現在もあまり実現されていない。

 その後、さらに東西冷戦が激化すると、航路啓開隊は52年4月26日に「海上保安庁法の1部を改訂する法律」により、海上警備隊と呼称を変えたが、その3ヶ月後の8月1日には総理府の外局として保安庁が新設され、海上警備隊は保安隊と呼称を変えた陸上自衛隊の前進である警察予備隊とともに、警備隊と呼称を変えて保安庁に移籍された。移籍された艦艇の主力は航路啓開隊以来の掃海艇部隊であったが、新たに米国から借与された1450トンのフリゲート艦2隻、300トンのLSSLと呼ばれる小型上陸用舟艇4隻が加わり、隊員も定員6038名が大蔵省から認められ、急速に増員されつつあった。しかし、任務は掃海業務や不発弾の処理などに限られ、「海上に於ける人命若しくは財産の保護、または治安の維持」などを目的とする警察的性格の部隊であった。このように海上自衛隊の創立は陸上自衛隊より2年遅れた誕生であった。しかし、厳密に歴史をたどると、海上自衛隊は旧海軍の掃海部隊が航路啓開隊と名称を変え、復員省、運輸省、海上保安庁と所管を変えてはいたが、艦艇も人員も帝国海軍以来、連綿と続いていた。占領軍は終戦とともに海軍を解体したが、掃海部隊は存続させ日本周辺海域や港湾に、米軍や日本軍が敷設した機雷の掃海を命じていた。しかし、米軍が国際法に違反して自滅装置のない機雷を敷設したため、機雷による被害や掃海部隊の活躍は、言論統制を受け一切報道されることはなかった。このため、掃海作業中の殉職者77名のあめの、掃海殉職者顕彰碑が建立されたのは、サンフランシスコ講和条約に調印し、独立国となり占領軍の干渉を受けることがなくなった52年6月であった。

冷戦時代の任務と役割

 東西冷戦が激化する世界情勢を受け、54年7月1日には防衛庁が誕生し、保安庁警備隊は海上自衛隊と名称を変え、任務も「わが国の平和と独立を守り、国の安全を維持するため直接および間接侵略に当たる」と、軍事的任務が明記された。そして、吉田総理は保安庁の開庁式では「保安庁は新国軍の基礎であり、新国軍建設の土台である」と訓示した。しかし、自衛隊が冷戦の産物として誕生したため、野党や革新勢力から軍備を禁止した憲法に違反すると国会審議が紛糾し、3月11日に提出された「防衛庁設置法案」と「自衛隊法案」は、「自衛隊を海外出動を為さざることに関する決議」とともに、かろうじて6月2日に成立した。このように防衛問題では国会が混乱するため、政府は常に防衛問題を正面から議論するのを避け、「自衛隊は武器も小型で旧式武器しか保有していないので、軍隊でないので憲法が規定する『戦力』には該当せず、自衛隊は憲法違反でない」と言い逃れ、野党やジャーナリズムは「戦車や大砲、軍艦も保有しているので『戦力』であり、憲法違反である」などと、ことごとに言葉尻をとらえて追求した。このため、53年5月にフリゲート艦5隻の第1船隊群が戦後はじめて日本1周航海を行い各地に寄港すると、地方の新聞は「立派な軍艦ですよ。3インチ砲などの高性能な武器があるのに船舶とはいえない」。「軍艦ではないですね。艦と船との合いの子でしょう」などと、見学者の戦力論を皮肉を込めて掲載するなど、自衛隊の戦力論を巡る不毛な神学論争は、60年代後半まで続き「戦力なき自衛隊」などという言葉が流行した。

 しかし、57年には効率的防衛力の整備と、日米安保体制を基調とする「国防の基本方針」が定められ、76年には「昭和52年度以降に係る防衛計画の大綱(旧防衛大綱)」が定められ、「限定的かつ小規模な侵略については原則として独力で排除する」が、大規模な侵略の場合には「米国の協力を待ってこれを排除する」こことされた。そして、海上自衛隊は打撃力を米海軍に期待し、米海軍が弱体な掃海能力や対戦能力を重視し、米海軍と一体となった兵力整備を進め、海上からの侵略に対する限定的な国土防衛と、海外からの資源ルートと、日本有事に来援する米軍の海上輸送ルートの安全を確保する、シーレーン防衛を重視してきた。特に79年末のソ連のアフガニスタン侵攻を機に、NATO諸国が軍備を増強すると、日本も82年5月には宮沢総理の有事の対馬・津軽海峡の封鎖、1000海里のシーレーン防衛などを米国に公約し、対潜機P-3Cやイージス艦を導入するなどの防衛力の強化をはかった。特に宮沢総理の後を継いだ中曽根総理は、日本はソ連に対して地理的には不沈空母であり、米国とともに戦う同盟国であると公言するなど、日本は冷戦中はアジア太平洋地域における東西対立の最前線基地に位置付けられ、海上自衛隊は西欧陣営の一員として戦い、冷戦の勝利に大きく寄与した。

 しかし、この戦いは即応体制を常時維持する忍耐を強いられる戦いであったが、その姿はほとんど国民の目に触れることはなかった。さらに日本の世論を分断し、日米同盟を解消し日本を弱体化して攻略しやすい国にしておこうとした共産主義陣営の宣伝攻勢を受け、国民の自衛隊員に対する視線は冷たく、隊員が制服で外出すれば「税金泥棒」との罵声が浴びせられていた。本年3月の防衛大学校の卒業式で、小泉総理は「自衛隊の歴史と諸君の先輩の歩んだ道は、『人知らずして慍(いきどお)らず』であった。人々に理解されなくとも慍らず、国を護る尊い任務に邁進し、今日の自衛隊を築いた」と訓示したが、隊員はこのような環境の中で黙々と訓練に励み、精強さと即応態勢を維持し、厳しい冷戦を民主主義諸国とともに50年間も戦い抜いたのであった。この間、隊員達は華々しい舞台に上がり賞賛を受けることは一度もなく、多くの隊員たちは「戦後50年の平和はわれわれが守った」との誇りを胸に、静かに海上自衛隊を去っていった。

冷戦後の任務と役割

 91年にはソ連邦が解体し、国際連合主体の平和活動が活発化すると、自衛隊の平和維持活動への頁献に対する期待が、さらに阪神大震災や地下鉄サリン事件を契機として、国内の治安維持に対する期待が高まり、自衛隊の任務の見直しが必要となり、95年11月には「平成8年度以降に係わる防衛計画の大綱(新防衛大綱)」が決定された。また、96年4月には日米首脳から「日米安全保障共同宣言(21世紀に向けての同盟)」が発表され、日米両国がアジア太平洋地域の平和と安定に協力することを宣言し、対米支援策を具体化するため、97年9月には「ガイドライン(日米防衛協力の指針)」が合意された。この「新防衛大綱」により海上自衛隊は従来の「我が国の防衛」に加え、「各種事態や災害等のへの対応」として、「沿岸重要施設の警備」「大量の避難民対策」「在外邦人の保護」、「より安定した安全保障環境の構築への貢献」として、「国際平和協力業務及び国際緊急援助の実施などの国際協力」「安全保障対話・防衛交流および多国間共同訓練」「軍備管理、軍縮分野に於ける活動協力」などが加えられた。また、新ガイドラインの合意に伴い「捜索救難活動」「非戦闘員の待避」「警戒監視」「機雷除去」「国際平和と安定の維持を目的とする経済制裁の実効性の確保(船舶の臨検)」などが加えられた。

 一方、冷戦構造が崩壊すると、冷戦中は押さえ込まれていた国境紛争、民族紛争や宗教紛争が多発した。そして、91年にはイラクがクエートに侵攻した。イラク軍は米国を中心とした多国籍軍に撃退され、クエートは併合を免れた。しかし、クエート沖にはイラクが敷設した1200個の機雷が残され、この機雷をアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、イタリアなど9カ国が共同で掃海することになり、日本からも掃海母艦「はやせ」、補給艦「ときわ」、掃海艇4隻が派遣された。これは海上自衛隊の最初の海外実任務であった。しかし、この時期は1年中で最も暑い時期であり、気温は50度、海水温度も35度、さらにイラク軍が撤退時に火を付けた油田260カ所が燃えており、煤煙と砂漠の粉塵が人間だけでなく、機械も吸気口フィルターを詰まらせ故障を連発させていた。隊員はこのような状況下に触雷に備えて、分厚い長袖の戦闘服を着用し、ヘルメットにカポック式の救命胴衣、防塵マスクを付けて1日十時間から十2時間も炎天下の掃海作業に従事した。

アメリカでは湾岸戦争から帰国した兵士はワシントン市内を行進し、ブッシュ大統領は「諸君はアメリカの誇りである」と迎えた。しかし、日本では掃海部隊がクウェート沖の掃海、さらにクウェート・サウジアラビア沿岸航路の拡張及び確認掃海に当たり、稼働率百パーセント、服務事故ゼロという成果を挙げて帰国したが、帰国行事をめぐって悶着が生じた。時の総理から軍国主義のイメージが強いから、帰国時に自衛艦旗を使わず、軍艦マーチは演奏しないようにとの意向が伝えられた。法で定められた自衛艦旗を降下するのは降伏する時だけであり、軍艦マーチは諸外国を訪問したときに、帝国海軍の伝統を引き継ぐ海上自衛隊に敬意を表するため、訪問する各地で必ず演奏される世界的名曲であり、海上自衛隊の隊員に取っては隊歌ともいうべき曲である。

 ペルシャ湾に派遣された隊員は、このような指示を出す国家指導者の命令で、百8十8日間も灼熱の海で危険な任務につき、「国際国家日本」のために働いてきたのだろうか。考えさせられ士気を下げらされた事件であった。しかし、派遣された掃海部隊が国際的な賞賛を受けると、国民は軍事面での国際貢献についても多少は寛容となり、国連にカンボジア暫定統治機構が組織されると、92年には「国際平和協力法」を成立させ、「国際緊急援助法」を改定し、1200名余の自衛隊をカンボジアに派遣し、93年にはモザンビーク、94年にはザィール、96年にはゴラン高原、98年にはボンジュラス、99年には西チモールに派遣するなど、ペルシャ湾派遣掃海部隊が軍事的国際協力への道を開いたのであった。
 
「新しい戦争」と新しい任務

 海上自衛隊の主たる任務は我が国の海上防衛であり、その重要性はいかに世界情勢が変化しようとも、いささかも変わるものではないが、冷戦が終結すると大規模な戦争への抑止が働き、安定した安全保障環境へと変化し、世界的規模での戦争の蓋然性が低くなった。しかし、一方では民族、宗教などに起因する地域紛争や、テロ、海賊などの国家以外の組織による国境を越えた脅威が浮上し、国連平和維持活動、船舶検査活動、災害救援、人道支援など、従来の概念に基づく戦争以外の分野で、軍事力が用いられる機会が増加した。

 海上自衛隊はこの冷戦体制崩壊後の安全保障環境の変化に応じ、周辺地域の平和と安定への寄与を求め、国際性、機動性などの海上防衛力の特長を生かし、62カ国を訪問し29カ国の海軍艦艇を迎え、32カ国の海軍と共同訓練を行ってきた。さらに、本年4月には9州西方海域で英米豪韓シンガポールなど5カ国が参加し、7カ国からオブザーバーを迎えて、多国間共同訓練「西太平洋潜水艦救難訓練」を初めて主催したが、秋には国際観艦式や、17カ国のメンバーと4カ国からオブザーバーを迎え、「西太平洋海軍シンポジーム」を開催するなど、国家間の信頼性を醸成する新たな施策に積極的に取り組んでいる。

 一方、99年3月には能登半島沖の不審船に対して、初めて海上警備行動が発令され、「周辺事態安全確保法」が成立した。テポドンミサイルの発射や核ミサイル開発疑惑などから、北朝鮮への不信感が高まり、周辺海域に於ける警戒監視や不審船対処、弾道ミサイル防衛の必要性などが一段と認識され、前方展開や前方迎撃が可能な、海上ミサイル防衛システムシステムを構成するイージス艦が注目を集めている。このように、同時多発テロや北朝鮮の不法行為を境に、海上自衛隊の任務が周辺海域からインド洋、さらには宇宙空間にまで拡大し、国際政治を視野に入れた多目的性と、それに伴う柔軟な運用が期待される海上自衛隊は「働く時代」を迎えた。

 特に2001年9月11日の同時多発テロを受け、「テロ対策特別措置法」が成立し、護衛艦「くらま」「さわぎり」、補給艦「はまな」がインド洋に向かった。そして、昨年12月7日の真珠湾攻撃60周年記念式典で、ブッシュ大統領は「今日、かっての敵国の一つがいまや米国の最良の友人であることにわれわれは誇りを持つ。同盟国日本の国民に対し、われわれは心から感謝する。今日、両国海軍が肩を並べてテロとの戦いに従事している。60年前の苦々しい過去は消え去り、太平洋上で両国の戦争は今や歴史の一齣となった」と演説したが、真珠湾を「歴史の一齣」とさせたのが、「くらま」などの部隊のインド洋への派遣であった。しかし、このテロリズムという世界共通の脅威と戦うインド洋への艦艇派遣を単なる米国への支援と考え、米国の戦争に巻き込まれるとか、テロに「高性能なイージス艦は必要ない」、「イージス艦が戦闘情報を米軍に提供すれば、米軍の武力行使と一体化するので憲法違反である」とか、派遣が決まりかかったイージス艦の派遣を見送るなど、日本の対応は腰の引けた対応であった 

 このように海上自衛隊は列国海軍と異なり、幾多の制約が課せられ、その歴史は政治に翻弄された多難な道のりであった。しかし、50年前の朝鮮海域への航路啓開隊の出動が、サンフランシスコ講和会議を日本に有利に導き、日米安保体制を確立させて戦後50年の平和と繁栄をもたらしたが、十1年前のペルシャ湾への掃海部隊の出動が、日本を「一国平和主義国家」から「国際平和主義国家」に変えた。そして、インド洋への護衛艦の出動が日本を「普通の国」に変え、ブッシュ大統領の演説が示すとおり、「真珠湾のくびき」を外し、日米同盟の絆を強化するなど、海上自衛隊は常に国家政策を変換する道具として機能してきた。このように、海上自衛隊は国家政策や外交・経済政策などを支援する極めて有効な道具であり、今後とも国家政策変革の先導者としての歴史を歩むのではないであろうか。

輝かしい未来のために

 海上自衛隊は機動力や国際政治力を利用して、国際平和活動や国家間の信頼性の醸成など、アジア太平洋地区の平和と安定の維持に大きな役割を果たしているが、このような任務を海上自衛隊が今後とも遂行し、明るい未来への道を歩み続け得るであろうか。2000年12月15日に今後5カ年間の防衛力を整備する中期防衛力整備計画(中期防)が策定されたが、「合理化、効率化、コンパクト化」という言葉で繕い、「前防衛大綱」時に60隻あった護衛艦が50隻、航空機が220機から170機、掃海隊群が2個群から1個群、護衛隊が10隊から7個隊に削減されつつある。さらに、予算削減の影響を受けた部隊では、艦艇や航空機の修理費、部品費が不足し、相互で共食いの整備を強いられ、訓練回数や飛行時数も削減されている。

 また、「集団的自衛権」「有事法令」「ORE(部隊行動準則)」などの問題は、憲法が足かせとなって神学論争の域を出ていない。環境問題は重要だと環境省は省に昇格したが、国家の安全という最も重要な任務を遂行している防衛庁は総理府の外局の「庁」のままで50年が過ぎた。また、占領軍民政局の通訳が政治統制を意味するシビリアン・コントロールを、文民統制と誤訳したため、部隊を知らない背広の官僚が予算だけでなく、部隊運用も統制するという世界に類のない国防組織として50年が経過したが、この誤訳が改められる様子はない。海上幕僚長が4月の海上自衛隊創設50周年記念式典で、海上自衛隊は「働く時代」を迎えたと述べたが、このような問題が解決されなければ、働けるのは平時だけに限られてしまうのではないであろうか。