海軍医学と「よこすか海軍カレー」

海軍医学の起源
^ 横須賀の海軍カレーブームは「よこすか海軍カレーパン」「冷凍よこすか海軍カレー」と拡がりを見せているが、この「よこすか海軍カレー」はどのようにして海軍に取り入れられ全国に伝えられたのであろうか。そのルーツは海軍の脚気対策であり、それは英国医学を導入した海軍医学にあった。
 日本の医学界には「臨床医学・予防医学・栄養学」などを重視する実証的な英国医学と、「細菌学・病理学・薬学」などの理論を重視する学術的なドイツ医学の二つの流が交差しているが、そのルーツは江戸時代にさかのぼる。江戸期にオランダ海軍軍医ポナペに長崎養生所(現、長崎大学医学部)で伝授されたオランダ医学はドイツ医学の亜流であったが、この養生所には薩摩・長州藩士は入学を許されなかった。ポナペの一番弟子の松本良順は徳川家の主治医となり、戊辰戦争では奥州列藩同盟軍の軍医として会津城内に治療所を開設し、官軍と戦ったため投獄された。しかし、その後、山縣有朋の引き立てにより海陸軍軍医寮の軍医頭、次いで陸軍軍医総監となったが、これは長崎養生所で教育を受けた医師が維新政府の内務省衛生局長や文部省医務局長などに登用され、ドイツ医学が日本の医学界・官界、特に陸軍に大きな影響を与え、日本の医学界に君臨していたことにあった。

 一方、長崎養生所に入学を許されなかった薩摩藩は、戊辰戦争が始まり負傷者が増加すると漢方医では処置できず、英国公使館付医官ウイリアム・ウイリスを招聘した。ウイリスは京都、江戸、会津へと官軍とともに進み、クロロホルムによる外科手術、鉄のスプリントによる骨折の治療などを実施し多くの人命を救い傷を治したが、西郷従道などの薩摩藩の要人も治療を受けた。この功績からウイリスは明治2年3月には東京医学校兼病院長(現、東大医学部と東大病院)に抜擢された。しかし、長崎養生所派の反発が強く半年後の12月には開成医学校教頭(現、鹿児島大学医学部)として左遷され、さらに西南戦争により西郷隆盛が失脚すると、英国政府は本人の反対を無視して強制的に帰国させてしまった。日本医学と海軍医学の抗争は海軍医学の敗北に終わった。

 しかし、海軍医学の灯火は消えなかった。戊辰戦争中にウイリスの助手であった石神豊民が海軍軍医総監になると、明治6年には海軍病院学舎に英国のセント・トーマス病院からウイリアム・アンダーソン教授を招聘し、さらに明治8年には高木兼寛をセント・トーマス病院医学校(のちのロンドン大学医学部)に留学させた。しかし、高木が5年の留学を終えて帰国した明治13年には、ドイツ医学が日本の医学界を支配しており、高木が学んだ英国医学を実現できる場所は海軍以外にはなかった。
 
 高木は明治15年に福沢諭吉の門下生で慶応義塾医学所長の松山棟俺などの有志とはかり、英国医学を教える成医会講習所を開設し、有志東京共立病院を設立した。さらに高木は東征大総督兼会津征討大総督(のち左大臣)となった有栖川宮の力を借り、妃殿下を総裁として慈恵会を創設し、皇后陛下をはじめ皇室からの寄付、さらに伊藤梅子(博文の妻)や井上武子(馨の妻)などの慈善会婦人会による寄付や鹿鳴館のバザー(日本最初のバザー)の収益を受け、英国医学と貧者への医学を実践した。これが現在の慈恵会医科大学の前身であり、高木は学長を39年間勤め「病気を診ずして病人を診よ」と、患者の視点で治療にあたることと、貧者への慈悲を持った医療を重視することを教えた。

脚気論争と高木兼寛
 海軍に衝撃を与えたのは明治13年の京城事件(日本公使館焼討事件)で、在留邦人の保護に朝鮮に出動した金剛や日進など5隻の艦艇に脚気患者が多発し、戦闘能力が発揮できず、さらに明治15年から16年の龍驤(東海鎮守府所属)の遠洋航海では、370名中169名が脚気となり25名が死亡した事件であった。当時、脚気は海軍だけでなく国民病といわれ、政府も明治10年には脚気病院を設立し洋学医や漢方医を集めて対策を研究していたが、脚気は血液の異常、心臓病の一種、あるいはアジア特有の細菌による風土病などと考えられていた。

 一方、海軍軍医総監となった高木は、なぜ英国軍艦に脚気患者がなく、日本の軍艦に多いのかを追求し、「食事・栄養説」を唱え「兵士に麦飯を」と主張した。反対派の東京大学教授の緒方正規は「脚気病原菌の発見」、大沢謙二教授は「麦飯ノ説」などの論文を発表し、高木の麦飯論を批判した。また、内務省衛生局長の長与専斉や陸軍軍医総監石黒忠恵は黴菌説を発表し、陸軍軍医の森林太郎(鴎外)も『日本兵食論大意』を書き麦飯無効論を展開した。陸軍は「陛下の軍人ともあろう者に囚人と同じ麦飯を食わせられるか」「麦飯では士気が上がらぬ」などと反対したが、海軍は明治17年1月には「艦船営下士以下食料給与概則」を定め、強引に食事を現金支給から現物支給に切り替え、主食を麦飯とパンに変更した。兵員からは食事の現物支給やパン食に強い反対があったが、それは下士官兵には1日18銭の食費が支給されていたが、下士官兵たちが食費を10銭程度に押さえ残金を受け取っていたためであった。そば屋の職人の月給が4から5円の時代に2円近い収入は大きく、部隊によってはハンガーストライキも起きた。

 脚気栄養説を認識させ兵食を改善するには実証が必要であった。高木は脚気患者が多発した龍驤と同一航路で遠洋航海を実施させ、患者が出なければ栄養説が実証できると考え実験航海を上申した。しかし、実験航海には海軍の総予算が308万円の時代に5万円の追加予算が必要であり、財政当局との折衝は困難を極めた。そこで高木は明治天皇に直訴するなどして5万円を別途確保し、明治17年度の筑波の実験航海で脚気患者が出なかったことから高木の栄養説は実証された。そこで海軍は「肉を食べろ」、「パンにはバターを塗れ」と指導したが、盛りそば一杯が1銭5厘の時代に、1日38銭の食費は贅沢であると、明治23年の第1議会では「海軍の糧食費が陸軍より高いのはなぜか」との質問や、「海軍の糧食費は日本の国力に比べて高すぎる」とかの非難を受け、海軍は「遠洋航海では日本食が貯蔵不適であり、さらに7、8年前から兵員に脚気病に罹る者多く、対策として麦飯を食させると減少した。さらに肉とパンとを与えると一層患者が減ずるようになった。また、生肉などは貯蔵が難しく缶詰を搭載するため、遠洋航海中は1日25銭、近海の場合でも16銭5厘5毛の食費が必要であると苦しい答弁をしていた。

 さらに肉食の習慣がない農村出身の兵士には肉やパンなどの食べ残しも多く、明治26年の第4議会では論客の島田三郎議員から「呉鎮守府に於ける水兵は常に龍動「モルトン」商会の『バタ』を喰ひ、その残缶は鎮守府の芥溜に山をなし、また鎮守府の水兵は『ロース』牛肉を食糧となし、 その牛の残肉を広島師団で買収し兵卒の食料となすと聴く、 政費用節減の際政府は何を以て呉鎮守府の贅沢を是認せらるるや」と激しく非難された。しかし、その後は高木の主張も徐々に理解され、陸軍でも大阪鎮台や近衛連隊など麦飯に切り替えた部隊もあった。しかし、ドイツ医学を奉じる東大医学部や陸軍の細菌説・麦飯無効論が依然として陸軍中枢を支配し、日清戦争でも日露戦争でも前線の兵士に白米を送り続けた。このため日清戦争では戦死者1270名に対し、3944名を脚気で失ったが、日露戦争では21万1600余名が脚気にかかり2万7800余名を失った。この事態は国会でも問題となり、戦争が終わると「脚気病調査会設置法案」が可決された。しかし、高木の栄養説に対する医学界や陸軍の反発が強かったのであろうか、陸軍大臣を委員長とする「臨時脚気病調査官制」が公布され、活動を開始したのは明治41年2月であった。また、明治43年には鈴木梅太郎がオリザニン(ビタミン)を発見し、高木の栄養説は世界の趨勢となっていたが、高木が男爵の爵位を贈られると「麦飯男爵」と揶揄するなど、黴菌説へのこだわりだったのか、英国医学への反発であったのか、臨時脚気病調査会が脚気の原因はビタミンBの不足と発表し、臨時脚気病調査会を解散したのは大正14年であった。

 一方、東大を出てドイツに留学し陸軍軍医総監となった森鴎外は、病床で「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」。宮内省や陸軍などとの「縁故アレトモ」、死んだ「瞬間」から「アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス」と遺言して叙勲や爵位を辞退したが、それは栄養説に反対し多数の兵士を満州で死なせた自省にあったのか、高木に爵位を与えながら自分に与えない宮内省や陸軍への反発にあったのであろうか。

海軍医学と横須賀―「よこすか海軍カレー」と横須賀共済病院
 このように「よこすか海軍カレー」は兵士にバランスのとれた食事を与え、肉を食べさせるための脚気対策として生まれた。海軍は明治22年11月には「5等厨夫教育規則(達454号)」を定め、主計科の新兵に教えるべき料理として「シチュウー仕方」、「カレーライス仕方」、「肉じゃが仕方」などを指定した。令達を出すには定められたレシペが必要であるが、佐世保海兵団が開団したのが明治22年11月であったことから、このレシペは明治9年に創設された横須賀水兵屯集所(明治22年4月に横須賀海兵団と改称)のものではなかっただろうか。

 次いで海軍は明治23年2月には「海軍糧食条例(勅令第4号)」を出し、付表の「糧食日当表」で曜日別、航泊別の1日の摂取すべき食品の種類と量を示したが、この通達には「遠征若クハ遠航海ノ場合ニハ数頭ノ牛、羊、鶏、豚ヲ購入飼養スルコトアリ」と記され、日清戦争当時の連合艦隊旗艦松島の甲板に牛が描かれている錦絵があり、当時の海軍の食事栄養説への強いこだわりが感じられる。ここで「横須賀海軍カレー」のレシピを検討してみよう。カレーライスの定番野菜はジャガイモ、玉葱、ニンジン、添え物の定番は福神漬けであるが、明治28年発行の『海軍図鑑』には福神漬けはあるが、ニンジンは「干人参特製」とあり乾燥ニンジンであった可能性が強い。しかも当時はニンジンの生産量が少なく、カレーにニンジンが入れられたのが明治40年頃とされており、「よこすか海軍カレー」にはニンジンが入っていなかったかもしれない。現在の「よこすか海軍カレー」この最初のレシピが見つからないため、佐世保海兵団が作成した教科書を参考に、舞鶴海兵団が「開庁以来実施シタル教授材料」を基に作成した『海軍割烹術参考書』のレシピを採用しているが、この教科書が発行された明治41年はカレーライスが円熟期を迎えた時期であり、カレーファンには幸いではないだろうか。

 明治28年発行の『海軍図鑑』の糧食品リストを見ると、カレー粉を始め肉類ではコンビーフ、ローストビーフ、ボイルドビーフ、ベーコン、ハムがあり、飲み物にはレモネード、ライムジュース、コーヒー、チョコレート、缶詰にはジャム、ママレード、酒類にはシャンパン、ワイン、ブランデー、ビールと海軍の食事はかなり洋風化していた。福神漬けが最初にカレーライスに添えられたのは明治35、6年頃で、日本郵船のヨーロッパ航路の1等旅客用食堂、2・3等は沢庵であったという。その時代に海軍はカレーライスに福神漬けを付け、ライムジュースやワインを飲ませ、チョコレートまで食べさせていたのだから、国会で「海軍の食事が贅沢で日本の国力を越えている」と非難されても仕方なかったのではないか。

  海軍医学はツベルクリン、レントゲンによる肺病の早期発見とBCG注射、看護婦の養成など、多くの影響を日本の医学界に与えているが、横須賀に関係するものは看護婦教育と検疫制度の確立であろう。高木が看護婦教育に意を注いだのは、留学したセント・トーマス医科大学付属病院には赤十字の母ナイチンゲール女史が創設した看護婦学校があり、看護婦と医師がチームを組み慈愛に満ちた治療にあたっていたのを体験したことにあった。高木は日本でもこのような看護婦を養成しようと、日本最初の看護婦学校を慈恵医大付属看護学校として設立した。この高木の思想は横須賀海軍職工共済会病院に引き継がれ、明治42年には共済病院付属看護婦養成所が創設され、大正2年まで10年間は日本赤十字社の委託で看護婦教育を行ったが、日赤の委託教育が終わると横須賀海軍職工組合の負担で学費・食費は無料、さらに学生手当を支給し、現在までに準看護学院、高等看護学院、看護専門学校などと名を変えたが、創立以来2846名の看護婦(士)を養成した。そして、この医師と看護士との連係は「チーム医療」として、また高木の「病気診ずして病人を診よ」との理念は、「医は意なり」と言葉は変わったが継承されている。

 横須賀には多数の病院があるが、その多くが横須賀海軍共済病院を核として誕生した。大正4年に開院した浦郷分院は田浦共済病院となり、昭和14年に開院した追浜分院は横浜南共済病院となった。また、昭和18年に開院した衣笠分院は敗戦後に米軍接収され、キリスト教財団に払い下げられ日本医療伝道会衣笠病院となっている。
 
 また、海軍は検疫制度の確立にも大きな役割を果たした。西南戦争が終わりコレラが流行している九州からの兵士の帰還が始まると、海軍は明治10年には「凱旋ノ陸海軍兵隊虎列刺病予防処分法」を制定し帰還兵を診断し、品川・横浜・横須賀・浦賀の避病院に送ったが、明治14年には「横須賀港内伝染病予防規則」、明治19年には「横須賀軍港規則」を制定するなど、日本の検疫制度の先駆者でもあった。

参考文献
堤恭二『帝国議会に於ける我海軍』(原書房、1984年)
瀬間喬『日本海軍食生活史話』(海援社、1985年)
神奈川県史編纂委員会『神奈川県史 四 近現代(1)政治・行政 一』(神奈川県庁、1975年)
舞鶴海兵団編『海軍割烹術参考書』(明治41年)海上自衛隊第四術科学校蔵
小菅桂子『カレーライスの誕生』(講談社新書メチエ、2002年)
小池猪一『意外史 日本海軍』(和光堂、1989年)
東京慈恵会医科大学百年史編纂委員会『東京慈恵会医科大学百年史』(東京慈恵会医科大学、1980年)
慈恵看護教育百年史編集委員会編『慈恵看護教育百年史』(東京慈恵会、1984年)
東京慈恵会医科大学http://www.jikei.ac.jp/jikei/index.html
横須賀共済病院編『横須賀共済病院八十年史』(横須賀共済病院、1987年)
横須賀共済病院・病院案内(2005年)。
小池猪一編『海軍医務・衛生史』第114巻(柳原書店、1985年)。
吉村昭『白い航跡』(講談社、1991年)