掃海艇派遣―朝鮮戦争時の戦訓
はじめに
今次湾岸紛争をめぐる貢献策の輸送機C−130や掃海艇派遣問題で、 政府は国会における議論を通じて、正面から国民の理解と合意を求めることなく、
野党の追及も憲法解釈や「派兵」・「派遣」などの字句の解釈に終始した。また、 国会では「行かされる者」の遭遇する危険や、
意向とは関係なく、「武器は持参しない」。 身分は「併任」、 「休職して参加」、 「身分を変えて出向」などと本質とはほど遠い議論が繰り返された。これまでに日本は第一次世界大戦では、
連合国の依頼に応じて地中海に巡洋艦1隻と駆逐艦14隻を、朝鮮戦争では国連軍に協力し朝鮮水域に掃海艇延べ54隻と隊員延べ1200名を派遣したが、
これら派遣と今次湾岸戦争をめぐる自衛隊派遣問題には多くの類似点が見いだせる。また、
政府の命令で派遣されたでいかされた者はどうであったのであろうか。以下、 朝鮮戦争時の特別掃海隊を軸に、
政府や野党の対応、 「行かされた者」の問題点などについて明らかにしたい。
1 特別掃海隊出動まで

1950(昭和25)年6月15日に北朝鮮軍が38度線を越え、朝鮮動乱が始まったが重火器や戦車に欠ける韓国軍と国連軍は後退に後退を続けていた。
釜山橋頭保に追い詰められた国連軍の運命は風前のともしびであり、 世界は「ダンケルクのアジア版」が起きるであろうと予想した。
この絶望的な朝鮮半島の軍事情勢を一転させたのが、 9月15日の仁川奇襲上陸作戦であった。
仁川に上陸した国連軍は1週間で京城を解放し、 勢いに乗じた国連軍司令官マックアーサー元帥は東海岸の元山上陸を計画し、
10月20日を上陸日とした。 しかし、 海軍力に劣る北朝鮮軍はソ連の援助で朝鮮各地の港湾に機雷を敷設していた。
鉄道や道路を爆撃で破壊してしまっため、 北朝鮮に進撃した国連軍への補給を確保するためにも、
朝鮮各地の港湾の機雷を排除し補給港を確保するためにも、 また北朝鮮軍を分断するため仁川へ上陸作戦を行うためにも、
多数の掃海艇が必要であった。 しかし、 アメリカ海軍は大部分の掃海隊を本国に引き上げており、
極東所在の掃海艇は4隻の鉄鋼製掃海艇(3隻は保管船状態)と6隻の木造補助掃海艇しかなかった。
一方、 当時の日本は戦争放棄をうたった平和憲法が施行されてから3年余り、
第二次大戦の惨禍の記録も生々しい国民の間には、 「戦争はもうこりごり」という気持ちが強く、
海上保安庁法第25条に「海上保安庁またはその職員が軍隊として組織され、 訓練され、
または軍隊の機能を認めるものと考えてはならない」とわざわざ断り書きを入れるほど、
占領軍は日本の再軍備を警戒していた。 特に民政局は海上保安庁から旧軍人を排除しようと、
掃海作業のため公職追放令の適用除外となっていた海上保安庁の旧軍人を、 特例期限が切れる昭和25年10月31日以降は追放することとしていた。
このため、 終戦1年後には348隻、 1万人を有していた掃海部隊も兵力が徐々に削減され、
出動を要請された当時の兵力は「哨特」と呼ばれる250トンの木造船哨戒特務艇や、
「駆特」と呼ばれる125トンの駆潜特務艇など78隻、 人員は1500名に減少していた。
その海上保安庁に、 戦争を放棄した日本に、 夢にだに考えていた戦争参加という出動命令が下ったのは、
昭和25年10月2日のことであった。
10月2日に海上保安庁長官大久保武雄は、 アメリカ海軍極東司令部参謀副長アーレイ・バーク少将から呼ばれた。
バーク少将は大久保長官に朝鮮半島における戦況を説明したのち、 「国連軍が困難に遭遇している今日、
日本の掃海隊の力を借りるしかない」と朝鮮半島各地の掃海を要請した。 大久保長官は「内海ならともかく、
戦争最中の朝鮮海域。 それも日本が持っている掃海艇を残らず対馬海峡に大至急集結させて、
元山沖と仁川沖に急行させ、 米軍掃海隊の掃海作業を支援して欲しいという。 ことは重大、
1人で決められるような問題ではなかった」ので、 直ちに時の総理大臣吉田茂を訪ね、
経過を報告し指示を仰いだ。 日本にとり拒否すればアメリカの不快感を高め、 当時ダレス特使との間で進んでいた講和条約締結交渉に悪影響を与える可能性かあった。
厳しい選択を迫られた吉田総理は、 「国連軍に協力するのは日本政府の方針である」と掃海艇の派遣に応じた。
総理の了承を得ると大久保長官は直ちに命令を発し、 掃海艇20隻、 哨特型巡視船4隻の合計24隻を下関に集め、
本庁の航路啓開部長田村久三(元海軍大佐)を指揮官に任命した。
2 騒然たる下関出動
一方、 下関に集められた掃海艇には余り真相は知らされなかった。 能勢第2掃海隊指揮官(第5管区航路啓開部長・元海軍中佐)は10月2日、
田村部長から電話で「朝鮮海峡の浮流機雷の掃海をやることになったから、 君指揮官として行ってくれないか」との電話を受け、
浮流機雷の掃海と考え躊躇することなく「そうですか。 ご命令とあらば行きましょう」と下関に向かった。
しかし、 下関に着くと「船名や船体マークなど日本船を示す表示を総て消去し、
日本掃海部隊は第95・66部隊としてアメリカ第7艦隊司令官の指揮を受けること、
掃海艇は日の丸の代わりに国際信号旗E旗を揚げることが」指定されたと知らされた。
第95・66部隊というのはアメリカ艦隊の部隊区分である。 これを聞いた各艇長の間には、
今回の掃海が朝鮮海峡の単なる浮流機雷の掃海ではなく、 朝鮮戦争そのものに参加させられるのではないかという疑問が、
不審と不安が広がり「掃海はどこの海面をやるのですか」。 「朝鮮の現地米海軍指揮官の指揮下に入るということは、
朝鮮戦争に参加させられるのではないですか。 そうすれば憲法違反ではないですか」。と田村部長に質問が集中したが、
行く先や行動予定、 任務の内容や参加する大義名分について何ら明確な回答は得られなかったという。しかし、
当時指揮官付であった田尻正司氏によれば、 内心多くの疑念はあったが、 部長と各級指揮官との間に、
一応次の合意が成り立ったという。
1 今次行動は、 占領軍命令第1号および指令第2号に基づく、 日本周辺の航路
啓開業務の延長と考え、 米軍及び日本軍が敷設した機雷を処分する。
2 北緯38度線以南の海域で、 戦闘の行われない港湾の掃海を行う。
3 作業は掃海艇の安全を十分に考慮した方法で行う。
4 乗員の身分、 給与、補償等は日本政府が十分保証する。
当時世間では挙げて戦争を嫌い、 日本が戦争をやったからこの敗戦の苦しみに唖いでいるのだという風潮に満ちていた。
「行かされる者」にとっては平和憲法が成立し、 世は平和ムードに溢れているときに、
軍人でない単なる運輸省の事務官が、 突然「出動命令」を受け戦争に参加せよと命ぜられたのである。
朝鮮出動を伝え聞いた家族が、 岸壁に横付けしている船から主人を捜し出して「アンタ船を下りて、
朝鮮には行かないで頂戴、 掃海隊を辞めて家に帰って下さい」と涙ながらに主人に訴え主人の胸にすがりつき、
戦争が終わったのに今更外国の戦争に参加することはないと口説いた。 終戦だというのに、
また、 外国の戦争に参加するのか。 また、 命を的に戦うのか。 もうそんなことはこれ切りにして貰いたというのが、
家族としての偽らざる心情であり、 能勢司令は「家族達の気持ちが可哀相でならなかった」と回想している。
また、 出動した多くの隊員の気持ちは「日本は新しく成立した憲法によって戦争を放棄したのであるから、
いまさら他国の戦争の為に危険な処に生命をさらしてに行く理由はない。 さらには我々はもう軍人ではなく、
国家公務員であり事務官である。 日本再建という使命だけを担なって国内の掃海作業に挺身的努力して来たのである。
外国の掃海をするために戦争に行くというのは納得致し兼ねる。 しかし、 占領軍の命令とあらば、
日本政府としては之に従わざるを得ないのではないか」というものであったという。
3 能勢隊の戦線離脱と政府の対応
(1)能勢隊の戦線離脱
第2掃海隊(指揮官能勢省吾 掃海艇4隻、 巡視船3隻)は10月8日早朝、 田村総指揮官乗艇「ゆうちどり(旧海軍飛行機救難艇)」を先頭に出港したが、
10月10日早朝に第7艦隊の空母や戦艦を見て、 初めて元山に来たことが分かり「びっくりした」という。
そして、 翌日から「永興湾沖合の船団泊地の掃海を行え」との命令で掃海を開始した。
しかし、 10月12日には元山港外の水路を米掃海艇の後を処分艇として続行したが、
永興湾内に侵入すると間もなくアメリカ掃海艇「パイレーツ」と「プレージ」が、 続けて目前で触雷沈没するという事故に遭遇した。
そして、 さらに10月17日には特掃MS14号が触雷し瞬時に沈没、 炊事係の中谷坂太郎が死亡し、
2名が重症、 4名が中傷、 9名が軽傷を受けた。 掃海を中止した各艇は旗艦「ゆうちどり」に集まったが、
各艇長は「戦争にこれ以上巻込まれたくない。 掃海を止めて日本に帰るべきだ」。
「出発前の参加協力の4条件は総て崩れた」。「下関における総指揮官の説明とは話が違う。
だまされた」と掃海中止を主張した。 そこで田村指揮官は折衷案として危険が少ない、
小型艇による事前掃海の後に本格的掃海を行う日本式小掃海を行うこととし、
掃海部隊指揮官スポフォード大佐から了承を得た。 しかし、 その後に前進部隊指揮官であるスミス少将から「今から小掃海を行う時間的余裕がない。
当初予定した通りの対艦式大掃海を実施せよ」と指示された。 日本側の再度の申し出に、掃海が遅れ気が立っていたためか、
スミス少将は「明朝0700出港して掃海を続行せよ。 然らずんば日本に帰れ。
15分以内に出なければ砲撃する」と日本側の提案を認めなかった。一方、 この話を聞いた能勢部隊は「砲撃するとは何事ぞ」と憤激、
機関故障で修理中であったMS17号掃海艇を横抱きにし、 直ちに日本に向け元山を後にした。
命令違反にならないようにとの田村指揮官の配慮からか、 「ゆうちどり」のマストには「日本に帰投せよ」との信号旗が上げられていたという。
しかし、 米国極東海軍司令部からの圧力で、 能勢司令と3名の艇長は退職させられた。
(2)日本政府の対応
能勢隊の帰国事件が発生すると、 大久保長官は10月24日に、 次の電報を掃海部隊に打電した。
1 今回の重要任務を諸君が完遂することは、 日本政府として了承し且つ、 重要 視しておる処である。
2 現地米軍の指示に従って朝鮮の水域で極力掃海を継続するよう希望する。
3 特別任務に対する給与、 災害手当は既に決定した。 詳細は別途通知するも、
最大の給与が得られるよ う日本政府とGHQとの間に了解が出来ている。
また、 同日全国の海上保安庁管区本部長会議を開き朝鮮の事態を説明し、 今後とも部下を監励して米軍に協力するよう訓示をした。
そして10月31日には総理官邸に岡崎官房長官を尋ね総理の意向を確認、 総理から「日本政府としては、
国連軍に全面的に協力し、 これによって講和会議をわが国に有利に導く考えである。
冬季荒天の朝鮮水域で、 しかも老朽化した小舟艇による掃海作業には多大の御苦労があると思うが、
全力を挙げて掃海作業を実施し、 米海軍の要望に副っていただきたい。 日本政府としては、
このためにはできるだけの手を打つので心配せぬように」との伝言を得た。
大久保長官は政府としての真意が隊員に伝わるよう努力し、 さらに給料を平時の2倍、
特別手当5000円(当時の初任給3600円)を付けるなど隊員に対する給与の特別処置に奔走した。
この努力と朝鮮半島の戦況の有利な展開、 国連軍が制海権、 制空権を握っているとの安心感、
さらに旧海軍以来寝食苦楽を共にしてきた仲間意識などが、 朝鮮行を拒み職を去る者が出なかった理由ではなかったであろうかと鎮南浦の掃海に参加した石野自彊司令は述べている。
4 掃海隊派遣の成果
特別掃海部隊は4隊の掃海隊と試航船とに分かれ、 10月中旬から12月初旬までの2ケ月間に元山、
郡山、 仁川、 海州、 鎮南浦などの掃海に従事し、 試航船桑栄丸は昭和26年4月6日から27年6月30日まで、
仁川、 木浦、 麗水、 馬山、 釜山、 鎮海航路の試航を行った。 そして特別掃海隊は327粁の水路と606平方粁の泊地を掃海し、
27個の機雷を処分した。 しかし、 掃海艇1隻が爆沈し1隻が座礁し、 死者1名、
負傷者17名の犠牲者を出した。
大久保長官は帰国した特別掃海隊隊員に「今回諸君がとられた行動は、 今後日本の進むべき道を示したということであります。
日本掃海隊の活動は新しい日本が今後独立して国際社会に入るとき、 民主国家として何をなすべきかということを行動を以て示したものであります。
日本が将来国際社会において名誉ある一員たるべきためには、 手をこまねいてその地位を獲得するわけには参りません。
名誉ある地位を得るためには、 私達自からが自からの努力により、 その汗によって名誉ある地位を獲得しなければなりません。
今回諸君はあらゆる困難のもとに、 これを克服して偉大なる実績をあげ、 国際的信頼をかち得るとともに日本の進むべき方向を確認しました。
今度の壮挙は実に新生日本の歴史上永く記録されるべきものであります」と訓示した。
アメリカ海軍極東司令官ジョイ中将も「朝鮮水域掃海に関する当方の要望に対し、
迅速に集結、 進出準備を完了し、 即応態勢をとられたこと、 貴下部隊の優秀な掃海作業並びにその協力は私の最も喜びとするところであります。
酷寒風浪による天候の障害、 国連軍協力による相互の言語の相違、 また補給、 修理に関しては幾多の困難が横たわっておりましたが、
関係各位の克己、 忍耐、 努力により、 また田村航路啓開部長の適切な指導の下にこれらの困難はすべて克服されたのであります。
私は喜びに堪えず、 ここに大久保長官から関係各位に賞詞の伝達方を依頼致します。
ウエルダン 天晴れ。 まことによくやってくださいました」との賞詞を贈った。
さらに、 吉田総理は12月9日に大久保長官に掃海作業参加隊員を「ねぎらってくれ」と、
筆で「諸君の行動は国際社会に参加せんとする日本の行くてに、 光を与えたものであった」との慰労の辞を書いて渡した。
また、 12月15日にバーク少将は大久保長官に、 現在海上保安庁が抱えている各種制限を撤廃する絶好の機会であると訪米を示唆した。
この示唆を受けた大久保長官は、 昭和26年1月に渡米し、 巡視船の最大1500トン、
速力15ノット以下との制限の撤廃、 機銃しか認められていなかった巡視船への砲の搭載、
哨戒用航空機の保有などについて国防省、 国務省の了承を得た。 また、 当時はダレス特使が来日し、
講和条約が進められている重大な局面であったが、 翌昭和26年3月31日に示された対日講和条約草案は、
外務省などが予想したものよりはるかに有利であったという。 これには東西対立の激化や、
12月の中国軍の介入による朝鮮半島の戦線の不利などが影響したとも考えられる。
しかし、 バーク少将が大久保長官に「海上保安庁掃海隊が朝鮮掃海で国連軍を援助したことは、
国際的にきわめて有意義であった。 今回の海上保安庁の業績は高く評価されており、
私個人の考えでは、 日本の平和条約締結の機運を、 ぐっと早める効果をもたらしたと思う」と語っているところから、
掃海艇を派遣して講和会議を有利に進めようという吉田総理の意図は成功したと言えよう。
5 国外派兵と日本の対応
(1)昭和の対応
当時の吉田内閣にとり掃海艇の朝鮮派遣が表ざたになれば、 憲法違反と政治問題化するのは必至であり、
吉田総理はこの派遣を内密に行うこととし、 隊員に「一切秘密にするように」と指示した。
また、 大久保長官は当時占領軍の命令が絶対的であったので、 朝鮮への掃海艇派出の根拠を占領軍の命令という形に求めた。
その命令とは終戦後、 降伏条約に調印した翌9月2日に発せられた占領軍命令第2号「日本帝国大本営は(中略)日本国および朝鮮水域に残れる機雷を連合国最高指揮官所定の海軍代表により指示されるところに従い掃海すべし」という「朝鮮水域に残れる機雷」の掃海であったが、
さらに大久保長官はバーク少将に改めて占領軍としての命令を出することを依頼した。
10月4日には依頼に応じてアメリカ極東海軍司令官ジョイ中将から運輸大臣宛に「日本政府は20隻の掃海船、
1隻の試航船、 4隻の巡視船を可及的速かに門司に集結せしむべし。 尚これら船艇の掃海活動については今後指示す」との命令が出された。
「占領軍命令」という策謀は成功した。 昭和25年10月9日の東京新聞が「信頼すべき筋が7日語ったところによれば、
日本の沿岸警備艇12隻が米第7艦隊の指揮下で、掃海作業に従事するため朝鮮水域に向け出発した」と報じた。また、10月22日には毎日新聞が、
「在京米海軍スポークスマンは21日、 国連軍雇用の日本掃海船が朝鮮水域で作業中であったが、
19日にその1隻が沈没したため、 20日から作業を中止することになったと語った」と報じたが、
占領軍が絡んでいたためか、 野党からは何の反応も起きなかった。
しかし、 4年後の昭和29年1月19日に、 産経新聞に朝鮮動乱時に海上保安庁の掃海艇が朝鮮水域の掃海作業に従事し、
1隻が沈没1名が死亡したとの記事が発表されると、 社会党の鈴木委員長、 勝間田国会対策委員長は「国会で最後まで追及する」。
「この問題は昨春わが党が衆議院予算委員会で岡崎外相に質問した問題だ。 岡崎外相は「輸送船が輸送に協力したり、
2、3の技術者が資源調査に朝鮮に行ったことはあるが、 保安庁が参戦した事実などまったくない」と真っ向から否定した。
しかし、 今度ここまで証拠や証人が出てきたから、 もう隠し切れないだろう。
(中略) 日本の保安隊が参戦したことは、 憲法違反はもとより『ポ』宣言の明らかな違反行為となり国際的大問題になる。
岡崎外相も明らかに国会で食言を行ったことになる」ので、 徹底的に追及すると語った。
そして、 3月24日の外務委員会で下川委員から、 同月29日には穂積委員から、
掃海艇を派出したのは憲法違反ではないかとの質問が発せられた。 政府は長官が隊員に訓示した「国際社会へ登場し、
名誉ある地位を得ようとした」ための派遣であったとも、 吉田総理が大久保海上保安庁長官に語った「講和条約を有利に展開するためであった」とも答えず、
「占領中でなかったならば、 確かに問題となりうることかと思いますが、 何しろ平和条約の第19条で、
戦争中及び戦後連合国側の指令にもとづいて行われたことについて、 日本側は責任を追及しえないという条項がありますために、
今日、 あれは国際法違反だなどという問題を提起する権利が、 日本に実はないのであります.....」と回答し追及を逃れた。
また、 国内問題となることを回避したかった政府は、 朝鮮特別掃海は占領軍へのサービスの提供であったとし、
数次の交渉を重ね燃料、 需品、 人件費など2億3698万1294円をアメリカ政府に支払わせた。
このためか、 アメリカ海軍の公式な『朝鮮戦争海軍史』などには、 「契約」あるいは「雇用」された「日本掃海艇」と表現されている。
(2)大正の対応
第1次大戦中、 日本は連合国から再三のヨーロッパへの派兵要請を受けたが応じなかった。
しかし、 この派兵拒否が対日感情を悪化させ、 日本は戦争により「非常ナル利益ヲ得テイルガ、
一向ニ同盟国ニ対スル債務ヲ顧ミズシテ、 自己利益ヲ図リ居レリ」。 「日本ハ自己ノ利益ノ外、
共同ノ敵ニ対スル観念ヲ有セザルモノノ如シ。 与国共通ノ目的ヲ重ンズルモノニ非ズ」などの非難が高まると、
はじめて巡洋艦1隻と駆逐艦12隻を地中海に派出した。 しかし、 その対応は朝鮮への派遣と同様に秘密とされ、
乗員に地中海へ行くことを知らせたのは佐世保港外を出た時であり、 国民が知ったのは3ケ月後の5月の新聞記事、
それも地中海での日本艦隊の活躍が外国の新聞に称賛れてしまったためであった。
なぜ、 政府は秘密に派遣したのであろうか。 それは、 当時の外務大臣石井菊次郎の回想によれば、
当時の野党は「常に政争に駆られ、 山と言えば川、 右と言えば左と言うが如く、
政府の為す所に事毎に反対」するので、 政府として国際情勢を説明し、 国益を説き協力を得るなどという状況にはなかったためではなかったであろうか。
新聞報道によって駆逐艦が地中海に派遣されたことを知ると、 野党政友会の尾崎行雄は、
第39回帝国議会で宣戦の詔勅や日英同盟条約の条文によれば、 日本が戦闘行動を行える区域は、
「印度洋以東ト言フコトニ限ラレルノデアル(中略)。 然ラバ、 地中海ニ軍艦ヲ出ストイウコトハ、
確ニ詔勅並ニ同盟条約ノ範囲外ノ働キデアルト言フコトニハ疑ヲ容レヌ」、 と今と変わらぬ条約や法律の解釈論で政府を追及した。
国内政治の対立がいかに激しくとも、 「政争は水際まで」と、 国益が絡む外交問題では歩調を合わせるのが諸外国の常識である。
しかし、 常に政府を攻撃して止まぬ野党、 このため野党に事実を知らせない政府という日本の議会制民主主義の未成熟が、
このような対応を政府に大正、 そして昭和へと取らせ続けてきたのであろうか。
5 「行かされた者」の悲哀
戦争も終わり平和な生活から一瞬に戦場に投入された掃海部隊は、 終戦後アメリカ軍が敷設した機雷を5年間も掃海し続けてきた部隊であり、
その技量と経験は高く評価されていたし、 事実日本の掃海隊が啓開した航路から機雷が発見されたことはなかった。
しかし、 その掃海艇はレーダーの装備もない、 戦時急造の貧弱な木造船で、 船体機関は戦後の連続掃海に酷使されて整備は困難を極めていた。
しかも掃海現場は酷寒の日本海、 黄海であり、 しかも掃海すべき機雷は掃海諸元が全く判らないソ連製の機雷、
参加部隊からは「我々の能力があまりにも高く評価されていることは自縄自縛で」ある。
「老朽掃海艇では到底、 その任務に耐えないのは火を見るよりあきらかである」。
この際「ありのままを米極東海軍に申し入れ善処されんことを切望する」との要望書を提出せざるを得ない実情であった。
また、 掃海隊は夜になり仮泊すると老人ばかりの小船に囲まれ、 「わが国の兵隊が食糧を、
みんな持って行ってしまった。 赤ん坊に食べさせる粥もない。 ランプも、 マッチもない。
何もない。 かにもない」と物乞いを受けた。 12月の粉雪の降る中で、 老姥が荒海に潜って貝や海草を採集し、
辛うじて家族の飢えを凌ぐ姿を見てきた隊員は、 窮状を見かねて灯油、 米、 コンデンス・ミルク、
そしてマッチまで与えざるを得なかったという。 昼間は戦争、 夜は難民救済、 こなことを出港前に想像ができたであろうか、
と北朝鮮の鎮南浦の掃海に参加した本橋昇治氏は当時を回想している。 また、 敗戦国の悲しさ、
海州に派遣され部隊はイギリス海軍との共同作業となったが、 その対応は使役するというニュアンスが極めて強く、
イギリス軍の尊大な対応に指揮官が単身殴り込み的に談じ込む一幕もあったという。
そして、 このように血と汗で任務を遂行した掃海部隊は、 「今次の特別任務のように国連軍への協力要請に対しては、
随時即応の態勢にあらねばならぬ。 万一の場合における我が国の防衛を考えると、
国連軍に期待する以外方法のない実状に鑑み、 国連軍への協力準備に万全を期するという優先的方針をこの際確立する要がある」との所見を残した。
しかし、 その後この所見が考慮されることはなかった。 また、 使命や目的のみならず行く先さえも知らされず、
現地到着後に生命を賭けしてやらねばならないような作業を命令され、 それを拒否した能勢第2管区航路啓開部長は、
「結果として実施部隊の者だけが責任をとらされて闇に葬られ」海上保安庁を去った。そして「生命を賭して遂行しなければならないような重要にして、
且危険な作業を国家公務員に命ずる場合はには、 政府はその命令が実施しやすいようにあらゆる措置を講ずべきである。
また、 実施する者に対しては使命感を与えて自覚を促し目的を明らかにし、 且それを達成し得るような身分を与え、
戦争に参加する場合には待遇や犠牲者がある場合には、 それに対する措置を講ずるべきである」との所見を残した。
しかし、 元山沖で殉職した中谷坂太郎が、 その功績を国家に認められ、 勲8等白色桐葉章を贈られたのは、
死後30年を過ぎた昭和54年秋のことであった。