総理大臣吉田茂と防衛大学校

はじめに

世論や新聞、 与党内の反対さえ無視して己の信ずる政策を強力に推進したため、 かってはワンマン総理と批判された吉田総理ではあったが、 指導力に欠ける総理大臣が続いているためか、 最近に至ってその評価が高まりつつあることは喜ばしいことである。
しかし、 吉田総理のイメージは『回想十年』に書いた「私は、 何故再軍備に反対か」との項目を設け「敗戦国が膨大な費用を費やして軍備を維持するのは到底望み得ない。 国民思想の実情からいっても再軍備の背景たるべき心理的基盤が全く失われている。 また、 理由なき戦争に駆り立てられた国民に取って、 敗戦の傷跡が幾つも残っておって、 その処理が未だ終わらざるものが多い」。 「再軍備など考えること自体が愚の骨頂であり、 世界情勢を知らざる痴人の夢であると言いいたい」と書いた。

 また、 再軍備反対の理由として「第一に日本は、 この度の戦争によって国民は疲れきっている。 如何に頑張って見ても列強に対抗し得るような軍備を持つことは、 国家財政上不可能である。 今は先づ経済を建て直して民生の安定をはかることが先決問題である。 第2に長い戦争で敗戦となり反戦反軍の思想が国民の間にみなぎっている。 再軍備なんかやったところで国民の大部分はこれに反対だ。 戦争の傷跡は深く残っている。 第3には、 もし日本が再軍備することになれば、 近隣諸国がまた日本に軍国主義が復活したという不安を与える(4)」と述べている。
 このようなことから吉田総理には「ダレスの日本即時再軍備論と4つに組んでダレスに勝った(10)」とのイメージが強く、 経済を重視し今日の経済的発展を実現させた面のみが戦後長らく強調されてきた。 特に、 吉田総理のこの平和イメージを維持しようとしたい人々の願望からか(11)、 あるいは戦後復興の偉大さを共有したかった吉田学校の生徒が次々と総理大臣になり、 吉田総理のこのイメージを利用しようとしたためか、 昭和54年10月27日にNHKが放送した特集番組「二十五年目の自衛隊」では、 吉田総理の軍事顧問であった辰巳栄一元陸軍中将(吉田総理が駐英大使時代の陸軍武官)のインタビュー部分の総てが、 「放送直前になってNHK首脳の意向により、 私(辰巳)の部分は全部カットされ(12)」るなで吉田総理と自衛隊との関係は意識的にタブー視されてきた。 しかし、 吉田総理は本当に再軍備に反対していたのであろうか。 吉田総理の広範の動きや発言をたどると、 現在の国連平和維持軍への参加さえも前提とした発言さえ読み取れるのである。

1 防衛大学校の創設と吉田茂

 吉田総理が「最も重視したのが教育施設」であった。 そして防衛大学校の創設には敷地から校長から自衛官の人事に至るまで首相自身が行った。 また、 吉田は防衛大学校の教育方針として昭和27年夏に槙校長を官邸に招き陸海軍の争いをなくすため一つの学校で教育すること、 民主主義を理解した幹部を育成することなどの注文を出されたという(24)。 防衛大学校については「そもそも部隊幹部の養成ということは、 旧陸海軍時代にも重要な問題であって、 そのために特殊の教育機関が幾種もあったことは誰も知るとおりだが、 その教育方針には大きな欠陥があった。 そこで戦後の部隊は単に技術的の面においてのみならず、 民主的防衛部隊として、 広く内外に亙る常識の面においても、 高い教養を持つ部隊でなければならない。 この問題は当初から私にとって最も大きな関心事だったもので、 予備隊(自衛隊の前身)発足以来、 頻りに関係当局を督励して、 各種の教育施設を逐次充実し、 なかでも最高幹部の養成機関として昭和28年4月から保安庁直轄の保安大学校(防衛大学校の前身)を創設した。

 学校の場所としては、 最初広島県江田島の旧海軍兵学校跡を活用したらという説もあったが、 私は断固これに反対して東京の近くへという方針で敷地を物色させた。 その理由は遠隔の地だと優秀な教師がえられないと考えたからである。 それと同時に変転極まりなき国際関係、 その他世の中の変化に常に接触を保たしめ、 豊かな政治的常識を養わしめるには、 東京付近に置かねばならぬと考えたのである。 そこで三浦半島の久里浜にあった海軍関係の学校の跡を利用することとなり、 後に防衛大学校と改称され、 現在の小原台に移転するまでここに置かれたのであった。 新校舎の敷地は何でも旧陸軍砲台のあった地帯で、 戦後は米軍のゴルフ場になっていた場所だと聞く。 校長には小泉信三氏の推薦によって槙智雄氏にお願いすることとなった。 かくしてその4年後、 本年3月下旬、 第1回の卒業生を送り出す式典があるというので、 私も初代防衛庁長官として招かれて出席した。 陸海空を併せて3百37名とのことであったが、 健康的で若々しい青年の打ち揃った姿を見て、懐かしさというか、 頼もしさというか、 私は無量の感慨を禁ずることができなかった(2)」と書き、 卒業式では次の通り訓示した。

防大生に与える
 「独立国の国民として、国の独立程大事なものはなく、 この独立を守る事こそ、 国民としての名誉であり、 誇りであり、 この誇りが愛国心の基礎をなすものである。 国民に独立を愛し、 独立を守る決心なくんばその国の存在はあり得ない。 この決心が一国の興隆繁栄を来すのである。 第一次世界大戦の始め、 パリーがドイツ軍に、 正に占領せられんとする時、 首相クレマンソーは国民に告げて日く、 「パリーの外で守り、 パリーの内で守り、 又、 パリーの外において守るべし」と。 仏国民にもこの決心ありたるが故に、 破竹の勢ひを以て、 攻め来たりたるドイツ軍を遂にパリーの外に退け得たのである。

 第二次世界大戦おいて、 英国軍が仏白国境に破れて、 ダンケルクより30万余の敗残兵僅かに身を以て英国本国に引揚げ、 武器、 弾薬、 悉く大陸に遺棄し、 国内には国を守る何等の兵備なく、 ドイツ軍の英国侵入は時の問題とも思われた時、 チャーチルは議会に演説して日く、 「英国内において敵を防ぎ、 英国外においてこれと戦い、 遠くカナダに退いてドイツ軍と戦う」と言った。 英国々民の戦闘意識を最も明白なる言葉を以つて言ひ表はしたものである。 クレマンソー及びチャーチルのこの決心がパリーを守り、 英国を守り得たのである。 然しながら、 兵器は凶器である。 これを用ふるは苟もすべきではない。 又、 これを用ふるにおいてはこれを止むる用意がなければならない。 所謂、 武なる文字は、 矛を止むると書くのである。 日露戦争の時児玉参謀総長は、 奉天会戦を以て日露戦争を終わるべき時なり、 と大本営に進言して、 兵を収めて日露戦役の功を全うした。 この遠謀深慮ありてこそ武将と言うべく、 然るに、 第二次世界大戦における我が軍は、 その勇戦善戦、 日露戦争当時に比べて優るとも劣ることなかりしにも拘らず、 進むを知って退くを知らず、 遠くブーゲンビル、 ラバウルまで出進して徒に大兵を孤島に集中暴露して、 日本本土との連絡の用意なく、 米軍のために我が艦船、 飛行機等の皆滅せらるるや、 遂に本国との連絡を絶たれて、 大兵空しく、 南洋海上の孤島に置去りにされて全敗、 遂に南方作戦は頓挫した。 歴史の示すところは、 以って将来の戒めとすべく、 兵を用いて兵をとどむるの用意なくんば、 善謀善戦も何の益するところなし。 兵を学ぶ諸君、 常に茲に心を致されんことを望む(3)」。

 また、 創設後も防衛大学校には多大の関心をもたれ、生前に前後7回も来校したが、 例年防衛大学校の卒業式には総理大臣が来校し、 卒業生に訓示を与えるのが慣例となっているが、 吉田総理は総理としてだけではなく、 総理をやめられてからも卒業式などに来校されたが、 特に1期生が在校した昭和28年から32年の4年間に、 総理という多忙な職務にも拘らず3回も来校された。第1回の来校は開校半年後の昭和28年10月17日で、 どのような施設で、どのような教育が行われているかを気に留めての来校であったといわれている。 この来校に際して施設も何も整わない防衛大学校として何をお見せすればよいかとの議論があり、 その時に学生の観閲行進をお見せすることになったが、 これが慣例の貴賓来校時の防衛大学校名物、 観閲行進の始まりとなった。

 第2回目の来校は横須賀の米軍を訪問し、 時間が取れたからとの突然の来校であり、 第3回目の来校は卒業式であった。 第2回目に来校された時は学生食堂で会食し、 次に示す防衛大学校の教育の在り方と、 まじめに勉強せよとの訓示をされた。 勉強せよとの訓示の出だしの言葉が「不肖の息子となるなかれ」という「不肖の息子論」であった。 槙校長が総理を本校創設には種々の指導と助言を与えられた、「いわば本校生みの親とも申すべき方で」と紹介すると、 総理はその話を受けて「もし、僕が親なら諸君の出来の悪いのは不肖の息子である」。 「まじめに勉強せよ」とジョークで話しを継がれ、 この時の「不肖の息子」発言以来、 だれ言うとなく公式には防衛大学校創設の父、 非公式には「オヤジさん」と言われるようになったのである。なお、 防衛大学校教育の在り方に関しては次のように話された。

 「私はいつも思うのであるが、 軍人が戦争の専門家に偏することは、 戦争そのものには或は強くなるかも知れないが、 一般政治や国際外交の常識に欠けるところが生じ、 外交を誤り、 国を誤ることになる。 大東亜戦争などは誠によい例である。 総じて軍人が政治を支配することを防ぐことは、 各国とも大きな内政上の問題である。 一方また軍人自身もその分を弁えて政治に深入りしないようにすることが特に肝要であって、 それには広い視野と豊かな常識とが必要である。 英国などでは、 貴族や富豪階級の子弟が、 軍人軍職にあることを名誉と考え、 生活または職業のためではなく、 真に公職に奉ずる考えから、 高い教養を身につけて軍人を志するものが多く、 これらは内外に亘る常識を備えており、 伝統的にも軍人が政治に関与し、 または関与してもらって出世の手段とするを潔しとしない風がある。 さすがは英国だとかねてから思っていた私は、 特に大東亜戦争の苦い経験に鑑み、 警察予備隊ができると同時に、 この軍隊に代わる新しい部隊についてその幹部養成の問題に気をつけた。 そして特にその常識的教養の面に重きを置いて行きたいと考え、 且つそのように努力した。 今後とも防衛大学校の現状に満足することなく。 ますます内容の充実向上をはかり、 単に技術的のみならず、 教養的に自衛隊の質を高めてゆく努力を怠らないよう、 局に当たるものにお願いしたい次第である(5)」。

 この訓辞は戦争末期に終戦工作を行おうとして憲兵隊に留置所に入れられ、 軍人の頑固さ、 自分の考えかたのみに固執する偏狭さ、 視野の狭さなどを実感した吉田総理がかかる将校を決してつくるまいと期し、 それを具体化するために創設されたのが防衛大学校であり、 そして、 選ばれたのが槙智雄校長であった。 この人選は吉田総理と極めて密接な関係にあった小泉信三氏(当時皇太子ー現在の天皇の教育担当者)の推薦によるものであったが、、 槙の回想によれば昭和27年の初夏のある日、 小泉信三から「過日吉田さんにお目にかかると、 新たに国防の任務に当たる幹部養成の学校を計画している。 だれか校長に心当たりはないか。 それで君の名を挙げておいた。 こうしたことを承知してもらいたい」との書信があったという。 また、 その後に小泉信三から、 その時の模様を「皇太子殿下に吉田総理、 他に宮内庁のお方及び自分小泉とお目にかかり、 殿下ご退室後にこの話が出た。 ここで君の名を挙げたのだが吉田さんはこれに決めたようなことをいわれるので、 あわててご調査願うと申し上げた」と知らされたという(22)。

 しかし、 労働大臣、 内閣官房長官、 農林大臣など吉田内閣時代に長らく身近いに仕えた保利茂の回想によれば、 「その頃吉田総理から親しく承ったことでありますが、 国軍の基礎もだんだん固まってきたが、 しかし、 この中核となって任務につく優秀な人の養成はかなり難しい仕事です。 保安大学を作って、 この役割を受けてもらわなければならないが、 さて適任の大学校長を選ぶのは大変」と話し、 総理の脳裏には数人の候補者もあったが、 小泉から槙校長を推薦されると「やっといい人を得た」と保科に漏らされたという(23)。 これほど吉田総理は小泉を信頼し、 また、 小泉が推薦された槙校長に期待したのであろう。 また、 吉田総理自身も槙校長について「部隊幹部たるべき将校の教育は最も大切な問題であるので、 防衛大学の設立を急ぎ、 その校長には私学の先駆たる慶応義塾大学の推挙を得て、 同大学教授槙智雄氏を招聘し、 その指導の下に学校の創設を行った。 槙教授は慶応大学を卒業の後、 英国のケンブリッジ大学に留学した人で、 重厚篤学の紳士である。 学歴人物とも申し分なき人である(6)」と述べている。

 さらに、 吉田総理は槙校長を自衛官としての訓練教育から補佐する幹事とし、 吉田総理が駐英大使当時の陸軍武官補佐官松谷誠陸将補(のち陸将)を選んだ。 そして、 松谷は昭和27年7月に入隊すると9月には防衛大学校の幹事に発令され槙校長とともに開校準備に当たったのである。 なお、 松谷は内報を受け相談に小泉信三氏を訪れると、 校長には槙智雄が予定されている。 槙氏は日吉の慶応義塾大学の新設と慶応義塾大学工学部の創設を担当した「学校作りの名人」であると聞かされ心強かったと回顧しているが(7)、 このように吉田総理は防衛大学校を重視し人事にまで配慮を加え、 吉田イズムを「新しい国防軍」に実現しようとしたのであった。

2 現職時代の自衛隊観

 警察予備隊の創設に当たっては国軍の基礎と考え重視していたことは、 自衛隊の前身である保安隊創設時の訓示に良く現れているように思われる。 すなわち、 昭和27年8月1日に保安庁が総理府の外局として創立されたが、 8月4日に初代保安庁長官として登庁し主要幹部約70人を前に次のとおり訓示した。

 「政府としては当分の間再軍備をしないつもりである。 これはわが国の経済力が許さないからである。 しかし、 独立国として国を守る抱負を持つことは当然であり、 現在日本の平和は米駐留軍によって守られているが、 将来も永久に安保条約で日本を守ってもらうことは出来ない。 このため、 出来れば速やかに軍隊を持ちたいと思う。 しかし、 再軍備を行うとすれば、 国を守ろうという盛り上がる国民の覚悟がなければならない。 このためには、 国家のために働いた人々に国が保障を与えなければ国に尽くそうという人は出て来ない。 政府は敗戦の責任として軍人の恩給を中止して来たが、 敗戦の責任は軍人にのみあるのではなく、 国民全体が負うべきものである。 このような意味から軍人恩給などの速やかな復活が必要であると思う。 また、 これからの軍隊は、 全く新しい精神で建設しなければならない。 即ち新しい軍備に旧軍人の考え方ではいけない。 新国軍は民主主義の上に立った国民の利益、 国民の安全を保護し国家のためん日本を守るという軍隊であり、 従って1、 2の政党の利益のための軍隊は有害無益である。 将来の建軍の方針としては旧来の軍人と異なった新しい精神で幹部の養成が最も必要である。

 このためには、 士官学校の生徒の要請から着手するのが原則だが、 兵隊をつくり幹部を教育するのでは時間的に間に合わない。 保安庁新設もこのためである。 この保安庁こそ新軍備の基礎であり、 新国軍建設の土台である。 諸君は、 それまでの間新国軍建設の土台となる任務を持っており、 またその礎石となって基礎的仕事に努力して欲しい。 米国は、 なるべく早く駐留軍を引き揚げたい希望を持っている。 このため新国軍の建設を望んでいるのである。 米国のこの意向に対しても新国軍の建設を急がなければならないが、 新国軍の建設に当たり、 まず、

(1)新国軍は政治と全く分離したものでなければならぬ。
(2)米軍のように上司の命令徹底を学ばねばならない。
(3)旧軍隊のように下克上になってはならない。
(3)新国軍は国民の利益保護に当たり、 国民に愛されなければならない。

 もし、 これらの精神を徹底しなければ列国から旧軍隊と同一視されることだろう。 かつての日本軍は、 ドイツ軍隊と同様のものであって、 特に政治に干渉して、 今日の不幸を招いたことは記憶に新しい、 新軍隊は政治と離れ、 あくまで国民国家を守る民主主義の軍隊でなくてはならない。 米国は朝鮮や中国とは異なる国民性を持っている。 米国その他各国は、 新しい日本に東洋、 アジアの諸国を纏めて世界政治に加わるものとして期待を寄せている。 このことはマッカーサー元帥からも、 たびたび聞いたことがあるが、 どうかこの期待に沿って将来の日本の建設のために驀進するとともに、 世界平和のために礎となるよう努力して欲しい」と訓示した。 この訓示は部内秘とのことであり、 それだけに吉田総理の本心が含まれていたと言えよう。 しかし、 だれが漏らしたのかこの訓示が翌日の新聞に報道され、 当時の保安庁官房長であった加藤陽三は大目玉をくったという(13)。
 その後、 当時軍事問題の顧問であった辰巳元中将の「とにかく自衛隊が出来て、 国土防衛の任務を持った以上はこれは当然軍隊であって憲法を改正するのは当たり前である。 現状のままでは自衛隊という形は出来ても精神のよりどころがない。 隊員は有事の場合は命を張って戦わねばならぬ。 そういう点からいっても、 憲法を改正すべきじゃないですか」との進言に、 顔を真っ赤にして「憲法が国の基本法として一旦制定された以上、 5年や10年でそうやすやすと改正されるものじゃないんだ」と語気を強くして怒られたという(14)。


3 総理辞任後の自衛隊観

 そして、 「再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、 世界の情勢を知らざる痴人の夢であると言いたい(15)」。 「そんなもの〔著者注・自衛隊〕を作って貧乏するくらいなら、 しない方がマシだ(16)」として経済第一、 復興第一と考えてきた。 「しかし、 それは私(吉田総理)の内閣在職時代のことであった(17)」。 その後、 神武景気や天戸景気を迎え、 「もはや戦後ではない」と言われても国防や自衛隊に対する認識が容易に改まらず、 国家の骨幹とも考えられる自衛隊への軽視が続くと、 吉田総理は「その後の事態に鑑みるに連れて、 私は日本の防衛の現状に対して、 多くの疑問を抱くようになった。 当時の私の考え方は日本の防衛は主として同盟国アメリカの武力に任せ、 日本自体はもっぱら戦争で失われた国力を回復し、 低下した民生の工場に力を注ぐべしとするにあった。 然るに今日では日本をめぐる内外の諸条件は、 当時の援助に期待する域を脱し、 進んで後進国への協力をなし得る状態になっている。 防衛の面においていつまでも他国の力に頼る段階は、 もう過ぎたのではないか....私はそう思うようになったのである(18)」。

 そして、 昭和39年10月に辰巳元中将を昼食に招き、 「君とは以前、 再軍備問題や憲法改正について議論をしたが、 今となってはみれば国防問題について深く反省している。 日本が今日のように国力が充実して、 独立国家となったからには、 国際的に見ても国の面目上、 軍備を持つことは必要である」。 「しかるに敗戦直後の国内政策は経済復興、 民主の安定を第一義とした。 一方、 占領軍の日本民主化誠作が強調されて、 国防問題のごときはほとんど等閑視された。 その後、 歴代内閣においても、 憲法を盾にする野党側の攻勢に対して消極的態度をとり、 国防問題について触れることをむしろタブー視する傾向を続けてきた。 国防問題については、 国民を啓蒙指導する努力を怠ってきた過去を顧みて深く反省する次第である」と語ったが、 その数日に「現在の国防問題について、 深く責任を感じている。 過日会談の内容については佐藤総理、 三木幹事長によく伝えておいた。 君からも両氏と会って詳細説明してくれ」と記した手紙を送ってきたという(19)。

 また、 さらに昭和33年には「望ましい隊員への敬愛感(20)」との題で、 「自衛隊は組織後まだ10年に充たず、 なお、 幾多改善拡充を要する点もあるであろうが、 国民諸君も当局の苦心の存するところを諾として、 国家有用の防衛部隊を作りあげるために、 絶えず12分の後援を与え、 隊員をして国民の信頼愛撫の常に、 その上にあることを自覚せしめるように仕向けてもらいたいと切に希望するものである。 兵舎などに酷寒酷暑に対する施設もまだ十分ならざるものがあるであろうが、 隊規を正しくするためにも、 その日常生活に不快、 不自由ならしめぬを要する。 英国の兵舎などは、 その施設の完備せるに驚くが、 これは十分に理由の存することであって、 その意味を了解するに難くない。

 また、 その服装などにも十分注意を注ぎ、 隊員をして常に国民の敬愛の情を感ぜしめ、 同時に国民の信頼に背かざるの心構えを持たしめることに努める必要がある。 今後防衛部隊の要員に非常に多くを要するとか、 他に重大な事情が起これば、 将来強制徴兵制を採るがよい。 隊員たるものには喜び進んで国の防衛に当たり、 隊務に服する気分が大切である。 自由意志により国防の責任を尽くさんとする精神が、 民主主義の軍隊に不可欠なものであると思う」と国民に自衛隊への支援と支持、 敬愛を訴え、 さらに「憲法審議の責任者でもあり、 その後の国政運営の当事者でもあった私としては、 責任を回避するよりは、 むしろ責任を痛感するものである。 それだけにまな日本内外の環境条件の変化に応じて、 国策の方向を改める必要をも痛感する。 日本は政府当路も国民も、 国土防衛というこの至上の問題について、 すべからく古い考え方を清算し新しい観点に立って再思参考すべきであろう(21)」と、 自衛隊を在任中に明確に規定しなかった「責任を痛感」し、 自衛隊にたいする国民の理解を求めた。

 また、 臣茂と書くほど皇室への敬愛が強い吉田総理が、 自衛隊の地位をを高め自衛隊の士気を向上させるために考えたのが皇太子や天皇の自衛隊訪問であった。 吉田総理は昭和35年4月5日に小泉信三宛に「殿下(著者注・現在の天皇)、 自衛隊ご覧なられたきものと存じ候。 防衛長官に趣旨伝言致すべく御考慮願い申し候」と書き送ったが、 さらに3日後には再び海軍機関学校54期(元海軍少佐)、 元陸上自衛隊の1佐で定年後に靖国神社宮司となった元宮内大臣松平恒雄氏の長男松平永芳からの「皇太子殿下のご自覚を促すためと、 自衛隊隊員の士気を暗々裡に盛り上げるため」皇太子殿下に自衛隊を見学してもらいたいとの書簡を同封し、 「....別紙松平永芳来状貴覧に供し候」と小泉信三宛に皇太子の自衛隊見学を申し出た(25)。 そして、 これが実現されないと、 さらに昭和38年7月に番町書房から出版された『世界と日本』の中に、 「自衛隊に対する私の期待(26)」というタイトルの一文を載せ、 「警察予備隊が自衛隊となり、 ある程度の態勢を整えた今日でも、 世間のこれに対する態度はとかく消極的であり、 政府の取り扱い振りにも不徹底なものが感じられる。 立派な独立国家日本が自己防衛の面において、 いつまでも他国依存の改まらないことは、 いわば国家として片輪の状態にあるといってよい」。

 「特に、 自衛隊に対する政府その他の責任当局の態度に、 不徹底にして自信を欠くものあるやに見えることは特に遺憾である」として、 特に自衛隊と天皇との関係について「たとえば、 自衛隊に天皇陛下の行幸を仰ぐことを殊更に遠慮申し上げたり、 来日外国元首の儀仗兵観閲に当たり、 陛下の御同行をお願いしないように取り計らったり、 何故に然るかを理解し難いことが多い。 立派に国家の機関に奉仕する同胞であるに拘わらず、 自衛隊員だけが天皇陛下の親臨を戴けないということは公平を欠く意味からでけでも失当である。 もしこれが一部の世評に遠慮し、 迎合するものであるならば当局自ら国家機関を軽んずるものといわねばならない」とも書いた。 しかし、 それから30年、 防衛大学校創設の父の夢は実現していない。

吉田邸焼失の報を聞いて(2009年4月)に追加
 吉田邸焼失5ヶ月前に行われた七賢堂例祭に、来年は神奈川県県に寄贈され管理権が移るので、内部などの公開も制限されるだろうと、吉田記念財団からの示唆もあり5年ぶりに参加した。
 大阪寿司を頂いたキッチンは改良され、応接室のソファーなども変えられていた。間違えて入った裏玄関や吉田総理が降りてきた階段は変わっていなかった。
 「2偕もどうぞ」と言われ総理の部屋を拝見したが、大きさは6畳くらいだったろうか、真ん中に座り机があり、その右側の袋戸棚の中には官邸との黒いダイヤル式の電話が隠されていた。

 「ここに座って国家の未来を考えていたのですね」と言うと、「座って良いですよ」と言われ写真を撮って戴いた。この写真を見ながら吉田総理のように国家の未来を考えたいと机の上に飾っている。なお、その下に「老いてなお 命の限り 国のため われ書き語らん 日の本の危機」という下手な和歌を書き込んでいる。(吉田邸焼失の報を聞いた2009年3月)

1 吉田総理邸訪問部分は、 拙文「吉田茂と防衛大学校」(吉田茂記念事業財団編『人間 吉 田茂』中央公論社、 1991年)の一部修正したものである。
2 吉田茂『回想十年』第2巻(新潮社、 1957年)157ページ。
3 吉田茂「防大生に与える」『雑誌 小原台』通巻第8号、 昭和32年3月、 9-10ページ。4 辰巳栄一「大戦前夜の英国駐在武官」(『昭和軍事秘話 - 同台クラブ講演集』上巻(同台 経済懇話会、 1986年)87ページ。
5 前掲『回想十年』第2巻、 157-158ページ。
6 吉田茂『回想十年』第4巻(新潮社、 1958年)37ページ。
7 松谷誠「槙校長のお人柄」(槙智雄先生追想編集委員会『槙乃実 - 槙智雄先生追悼集』 (同会、 1972年)45ページ。
8 松谷誠「創設当時の思い出」、 同右。
9 前掲『回想十年』第2巻、 160-161ページ。
10 猪木正道『評伝 吉田茂』(読売新聞社、 1981年)423ページ。
11 麻生和子『父 吉田茂』(光文社、 1993年)175-178ページ。
12 辰巳栄一「吉田茂は再軍備に賛成した - NHKの伝えない自衛隊」(「週刊 世界と日 本」第402号、 1979年12月17日)2面。
13 鈴木総兵衛『聞書・海上自衛隊史話 - 海軍の解体から海上自衛隊創設期まで』(水交会、 1989年)135-136ページ。
14 前掲、 辰巳「大戦前夜の英国駐在武官」97-98ページ。
15 前掲『回想十年』第2巻、 160ページ。
16 吉田茂・吉田健一『大磯随想』(白川書房、 1983年)260-261ページ。
17 吉田茂『回想十年』第4巻、 38ページ。
18 吉田茂『世界と日本』(番町書房、 1963年)202ー203ページ。
19 前掲「大戦前夜の英国駐在武官」99-100ページ。
20 前掲『回想十年』第4巻、 38-39ページ。
21 前掲『世界と日本』207ページ。
22 槙智雄「伝説の人吉田元首相」(新聞「小原台」第83号、 1967年11月12日)1 面。
23 保科茂「吉田元総理を想う」同右、 1面。
24 前掲、 槙「伝説の人吉田元首相」。
25 「読売新聞」平成4年2月23日、 1面。
26 前掲『世界と日本』204-205ページ。