軍事史学会 呉大会「日本のシーパワー」
『軍事史学』第44巻第4号(2009年3月)

共通論題
第1報告
軍器独立と明治期の横須賀海軍工廠ー平間洋一
第2報告
呉海軍工廠の発展と役割ー千田武志(略)
第3報告
日露戦争期の各海軍工廠の生産体制ー奈倉文二(略)

第1報告  軍器独立と明治期の横須賀海軍工廠     

はじめに
 横須賀海軍工廠の前身の横須賀製鉄所は、慶応元(1864)年にフランスの海軍技師フランソワ・レオンス・ヴェルニー(Francois Leonce Verny)の指導で建設されたが、明治維新で明治政府に移管されると、大蔵省、民部省、工部省へと移管され、明治5(1872)年には海軍の強い要望で再び兵部省に移管された(1) 。このように横須賀製鉄所の争奪戦が演じられたのは、横須賀製鉄所が造船だけでなく採鉱機械を生野鉱山に提供し、富岡製糸工場の建設に技師を派遣するなど、日本の近代化の先端にあった。本論では日露戦争期を中心に横須賀海軍工廠が「軍器独立」に果たした役割と、それを可能とした職工の養成と確保という二つの側面から考察するものである。

1 横須賀海軍工廠の沿革
 横須賀製鉄所が海軍の管理下になった明治6年1月に、主船寮(工廠長)から横須賀製鉄所にヴェルニー以下32名、横浜製鉄所に12名と45名のフランス人を雇用しているが、その経費は年間5万円であり、「術ニ精工ナル者ハ仏人ノ差図ニ従フヲ否ミ候。仏人己ノ意ニ適スル者ハ仮拙工ト雖モ賃金ヲ多ク与フルカ故ニ、精工ナル者」は不平を言い退職してしまい「技術者ハ志ヲ得ズ」、このままでは数年を経るも技術の習得は不可能である。早急に2―3名を残し解雇すべきであるとの意見書を提出した(2)。

 しかし、これまでに横須賀製鉄所が建造したのは、お召船の蒼龍丸や利根川丸などの小型船だけであり、海軍はその後もヴェルニーに清輝と迅鯨の建造を依頼していたが、明治8年5月には主船頭の浜田浜五郎が「横須賀造船所処務規定」を改訂し、首長の権限を技術的なものだけに限り、12月にはヴェルニーなどを解雇し、明治9年1月には海軍少将赤松則良が所長に就任した(3) 。軍器独立への第一歩であった。明治17年6月には東洋一の第2船渠が、同年10月には機械工場が起工され、錬鉄、鋳造、旋盤、製缶、組立などの諸工場が拡張整備され、明治20年には第3船渠脇の海岸に60トン・クレーンも竣工した。これらの新築工事は木造船から鉄鋼船建造への転換工事であった。また、職工数も明治22年には2215名、工業化を示す工場の機械数は26台、馬力数は285馬力となり、同28年には4121名、28台、384馬力に増加し、日清戦争では呉・佐世保、さらに旅順や威海衛などに延べ1341名を派遣するなど、横須賀工廠は中核的な役割を担う海軍工廠であった。その後、三国干渉を受けて軍備拡張が進められ、明治32年には3832人(馬力数402馬力)、36年には職工数6551人(馬力数714馬力)となり、日露戦争開戦翌年の明治39年には1万4780人(馬力数2978馬力)へと拡張された(4) 。一方、造兵部では明治19年1月に機械工場が落成し、工作機械の据え付けや技術指導にドイツ人のビー・ミュンスターを迎え、日清戦争期には3―400名であったが、日露戦争期には1064名に増加した(5) 。

2 日露戦争期の横須賀工廠の生産能力
 日露関係が切迫した明治36(1903)年12月12日、横須賀鎮守府司令長官井上良馨大将から「艦艇ノ修理ヲ要スルモノハ」大至急工事を竣工すべしとの訓令が出され、「職工ノ大部分ニ徹夜工事、若クハ長時間残業ヲ課シ、特ニ緊急工事ノ如キハ1月1日ト雖モ休業スル」ことのない臨時出勤が命じられた。この出師準備命令を受け、造兵部は砲艦橋立、鎮遠、扶桑、平遠、高雄など軍艦9隻に魚雷発射管、機雷投下装置、無線機などを装備し、無線機の装備には技師や工員が無線機を持って呉、佐世保工廠などに運び連合艦隊の主要艦艇24隻に設定しただけでなく、港湾防備や海峡防備用の砲や魚雷発射機、探照灯、無線機などを第三海堡から函館など10カ所、さらに北海道から東北、東海の望楼(14カ所)に無線機などを設置した。また、予算不足から中止していた砲艦八重山と武蔵の修理を開始し、艤装中であった巡洋艦音羽の工事を急ぎ明治37年9月5日には砲熕試験を行い、6日には職工7名を乗せて対馬海峡に派遣した(6) 。

 出師準備で造兵部が多忙を極めたのは、発射薬の詰め替え作業であった。開戦半年前の6月と12月に12ポンド砲以上の発射薬包の火薬量の改訂指示を受け、艦艇搭載中や弾倉保管中の発射薬包2万5102包を開戦前の2月5日までに、下士官兵家族と遺族が働く共励会会員を動員して完了した(7) 。また、開戦直前にイタリアから回航された日進は回航を急いだためか、艦底など目に付かぬ部分は塗装した形跡もなく、配電箱はあっても結線されていないようなや手抜き工事(残工事)が140カ所もあり、1日1000人を投入し6時間の残業や徹夜で、回航34日後の3月6日にかろうじて戦列に加えることができたという (8)。同じく人手を要したのは武庫の海底電線21万2600メートルの荷造りと輸送で、武庫員だけでは足りず造兵部や造船部から延べ1076名の援助を得たが、岸壁から艀へ、艀から輸送船へと搭載に5日を要した(9) 。
 
 出師準備や戦争中に造兵部で改装、修理を行った艦艇は装甲巡洋艦日進など5隻、巡洋艦が音羽など6隻、海防艦が鎮遠など5隻、砲艦が高雄など3隻と通報艦龍田と水雷艇母艦豊橋と水雷艇12隻であつたが、砲や無線機などを搭載し仮装巡洋艦に改造した商船は、厳島丸、日光丸など大小22隻に及んだ。 なお、造兵部が戦争中に製作した主要な装備は無線機280台、水雷発射管31組、各種機雷の付属装置145個などであった(10) 。
造船部が出師準備命令を受け時には音羽が艤装中で、平遠、高雄、第37号、第38号水雷艇が修理中であったが、この作業と並行(一部中止)して鎮遠、扶桑、和泉、松島など7隻の出師準備を完成し、予算不足から中止していた八重山と武蔵の修理を開始した(11) 。
 明治37年末になり旅順落城も確実となると、長期間の行動から整備を必要とする艦艇が続々と入港し、新高、千歳、松島などの大型艦から駆逐艦などの整備や修理を開始したが、横須賀工廠は大工事を必要とする艦船を担当したため修理隻数は少なかった。しかし、座礁した龍田、触雷した千代田、流氷により艦底を破損した松島、被弾した春日や吾妻などはキールプレートからの取替工事などの大工事が多かった。また、造船部が戦争中に改装巡洋艦に改装したのは日本丸、香港丸など4隻、工作艦に改装したのは江都丸、関東丸など3隻、水雷母艦に韓崎丸(捕獲船エカテリノスラフ)など3隻(豊橋は明治37年12月に潜水艇母艦に再改造)、機雷敷設艦など27隻であった。また、戦争中に完成したのは巡洋艦音羽と駆逐艦有明など5隻で、米国から輸入した潜水艇の竣工は戦後の明治39年7月となった(12)。

 一方、造機部では出師準備発令時、新高、音羽と駆逐艦有明の機関を製作中であり、水雷艇2隻の機械を修理中であったが、開戦までに高雄、扶桑、松島など6隻の艦艇と水雷艇12隻、警備艇1隻の機関を整備したが、開戦1年が過ぎると機関も手入れが必要となり、旅順陥落前後には装甲巡洋艦八雲など4隻、巡洋艦新高など5隻、砲艦松島など2隻、駆逐艦や水雷艇7隻の機関を整備した (13)。とはいえ、戦闘が日本に有利に展開しており、機関部にまで達する被害を受けた艦艇が少なく、戦争中も新造艦艇用の機関製造に当たり、音羽、駆逐艦の機関10隻分(舞鶴で建造する2隻分を含む)を製作し、戦艦薩摩と巡洋戦艦鞍馬の機関の製造を続けていた(14) 。

 横須賀工廠は呉や佐世保工廠、大湊修理工場、民間造船所にも技術者を派遣し、工作船江都丸や水雷母艦豊橋、日光丸、春日丸、熊野丸などにも職工100名余を派遣したが、特に大湊修理工場の開設と運用には多数の職工を派遣した。明治36年12月に職工22名を派遣して工作機械の据付けを始めたが、年が明けた1月には18名を追加し完成した。しかし、開戦直後の2月19日で職工39名、見習工6名合計45名の小さな町工場程度の修理工場であった。明治38年6月に樺太攻略作戦が発令され、大湊が策源地となり小修理が続出すると、8月17日には20名を派遣し、第一大湊丸が座礁すると引き揚げ作業に28名を派遣した。しかし、大湊修理工場は徐々に整備され戦争が終わった明治38年10月には70名(地元採用の見習工28名)へと成長した (15)。また、横須賀工廠は大連占領後の9月8日に大連湾工作部に造船部から80名、造機部から18名を派遣した(16)。 このような派遣職工の増加や、戦争景気から民間企業が高額で募集するため、民間「工場ヘ転セントスル者多キ」状況で、民間の需要が高い機械工や仕上工は「常ニ払底シ」残された職工に負担が加重され、それがさらに職工の民間への流れを加速した(17) 。なお、日露戦争開戦前と戦争中の横須賀工廠の部門別職工数は表の通りであった(18)。

                日露戦争中の横須賀工廠の職工の状況

     部門 時期 定期工 通常工 見習工 合計 募集
造船 開戦時(明治37年2月) 1,013人 1,708人 143人 2,864人 3,660人
戦争後(明治38年12月) 1,016人 4,139人 282人 5,437人 3,054人
造兵 開戦時(明治37年2月) 194人 623人 199人 1,016人 983人
戦争後(明治38年12月) 198人 757人 340人 1,295人 768人
造機 開戦時(明治37年2月) 840人 1,565人 277人 2,682人 3,660人
戦争後(明治38年12月) 878人 2,506人 655人 4,039人 3,054人

 民間の浦賀船渠、横浜船渠、函館船渠、石川島造船所、川崎造船所などにも修理を依頼したが、全般に「委託セシ工事ハ比較的僅小ナリ」で、また委託した仕事の内容も「普通工事ノ修理、製作ニ止リ著大ナル工事ハ一モナカリキ」と造機部では低く評価している。しかし、造兵部は浦賀船渠が近いため工員を派出し、砲艦吾妻、工作船豊橋、水雷母艦唐崎や艦載水雷艇(3隻)の修理を、また函館船渠は「地理上ノ便益多」く、砲艦武蔵、水雷艇母艦唐崎や仮装巡洋艦(2隻)の修理を委託し「良好」と評価している。一方、造機部は民間工場は大型機械の修理に不慣れで、艦載艇用小型機関の修理に限られ、技術を要する修理は民間造船所から工員を工廠に派遣させ、造機部部員の監督の下に当たらせていた (19)。

3 横須賀工廠の技術水準の検討
(1)艦艇建造期間からの検討
 次に横須賀工廠の技術的水準を建艦期間から考えてみたい(20) 。明治9(1876)年に竣工した1番艦の清輝から6番艦の天龍までは純木造艦、明治20年11月に竣工した7番艦の葛城が最初の鉄骨木皮艦、8番艦の武蔵以降は鉄骨鉄皮艦であった。1番艦の清輝から明治13年に竣工した3番艦の磐城は3年4ヶ月であったが、葛城は4年10ヶ月、鉄骨鉄皮艦の武蔵(2代)から愛宕、高雄、八重山はほぼ3年であった。しかし、ヴェルニーなどのフランス人技師が帰国したのちに建造された木造外輪船・迅鯨(1464トン)は7年10ヶ月、海門が6年6ヵ月、天竜が7年1ヶ月、排水量が2倍となってはいるが、この一連の建造期間の延長が大型艦になったためか、部材などの輸入が間に合わなかったためか、フランス人技師の帰国が影響したためかとかが考えられるが、木造から鉄鋼船に変換したことにあるのではないか。これは八重山を建造した時には技量未熟から意外な失費が多く、予算不足から高雄の建造費を流用するなど手直し工事が多かったことを伺わせているからである(21)。

 明治21年に艦船機関兵器、需品物品はフランス式にセンチメートル、航海術や喫水は英国式にヤード・ポンドを使用する度量法の改訂が行われたが、この度量法の適用範囲が英仏両国の影響分野を現しているのではないか。一方、海軍は清輝が進水した明治8年に英国に扶桑、金剛、比叡の3隻を発注し、3艦は明治11年に回航された。維新後に輸入した最初の軍艦であった。扶桑は3720トン、13・5ノット、機関出力3500馬力、24吋砲4門の最新鋭の甲鉄鋼艦、金剛、比叡は2500馬力、速力13・5ノットの鉄骨鉄皮のコルベット艦であり、横須賀造船所が建造している帆走機走兼用の木造軍艦との落差は歴然としていた。さらに、明治16年にはイギリスから筑紫、明治19年には浪速と高千穂が、フランスからは畝傍(途中で海没)が輸入された。また、兵器製造ではドィツ人技師ビ・ミュンスターを雇い入れるなど、ドイツの精錬技術への関心を高め、明治19年にはクルップ社に鉄鋼精錬法を研修するため3名を派遣しようとした。しかし、これは拒否された(22) 。
 一方、海軍は明治19年にはフランス海軍の技師エミール・ヴェルダン(Emile Verdun)を招聘し、海防艦橋立(4277トン)を明治27年6月に竣工させたが、橋立は完成に6カ年を要した。明治27年3月には設計から建造まで全てが日本人による巡洋艦秋津州(3189トン)を建造したが、明治維新から日清戦争までの造船量は国産17隻、2万5000トン、国産艦の排水量は1500トンであり水雷艇や通報艦程度であったが、輸入は14隻、4万トンを占め巡洋艦以上は総て輸入であった。これらの艦艇で日本海軍は世界最初の機力航走の後装砲で黄海の海戦に勝利したが、戦争が終わると世界はこの戦訓を入れ、1万トンを超える大艦巨砲の時代に入り、日本は再び世界の水準に向け「坂の上の雲」を追わなければならなかった。

(2)国産戦艦薩摩の技術力の検討

日清戦争期には技術面からも施設面からも進歩はしたが、日本海軍は日露戦争も再び輸入艦艇で戦わなければならなかった。日露戦争を戦った国産艦艇は3等巡洋艦の須磨、明石、駆逐艦4隻とイギリスのヤロー社、ドイツのシヒシヨウ社などからの水雷艇の組立輸入に限られていた。

日露戦争を戦った艦艇の輸入状況と横須賀海軍工廠(23)

     艦種 保有数 輸入数 国内建造数
戦艦 8隻 8隻 0隻
巡洋艦 24隻 17隻 7隻(横須賀建造6隻)
砲艦 12隻 3隻 9隻(横須賀建造4隻、呉建造1隻)
海防艦 7隻 2隻 5隻(横須賀建造4隻)
その他の軍艦 14隻 6隻 8隻(横須賀建造4隻)
駆逐艦 20隻 16隻 4隻(横須賀建造3隻、呉1隻)
水雷艇(組立輸入) 38隻 38隻(横須賀建造13隻、呉建造8隻、佐世保建造12隻
水雷艇(国内建造) 33隻 33隻(横須賀建造8隻、呉建造21隻、佐世保建造3隻)

 しかし、日露戦争開戦後は大きく変わった。小型の駆逐艦建造とともに、超大戦艦の建造に乗り出したのである。明治38年8月2日には戦艦薩摩(1万9372トン)を起工し、40年10月には進水させた。横浜の外国人の間には薩摩が転倒することなく進水できるかの賭が行われるほど、日本の技術は低く見られていたが、進水式は明治天皇をはじめ3000名の観客が見守る中で見事に成功した。排水量は世界一を誇っていた英国戦艦ドレツドノートより1200トンも大きく、進水当時は名実共に世界最大の戦艦であり、起工後わずか1年半で進水させたことも大きな進歩であった。新聞は欧米列強に「率先して我邦が最大最新式の軍艦を自ら建造して以て、列強の海軍に誇り得るは戦勝に劣らざる快事とすべし(24) 」と報じた。軍器独立の大きな第二歩であった。しかし、その後の艤装は部品の到着が遅れ竣工は明治44年2月28日であった。

 山田盛太郎は『日本資本主義の分析』で、薩摩の建造を「技術的世界水準凌駕への迫進」を遂げた。「設計・工築・材料なども日本のものを用い、船体・兵装・機関ともに欧米水準に劣らない画期的な記録をなす」と評価し、「後年、列強戦艦長門への迫進の基礎は茲に横たわる」と艦船建造史における薩摩の意義を高く評価している(25) 。しかし、薩摩の建造材料は外国品が61パーセントを占め、国内品は39パーセントに過ぎなかった(26) 。一方、呉海軍工廠は旅順港外で戦艦初瀬・八島が37年5月に触雷沈没すると、代替艦の建造が急務となり明治38年1月に1万5140トンの三笠級に相当する1万3750トンの装甲巡洋艦筑波の建造を開始し、明治40年1月に竣工させたが、砲熕武器、機関なども国産であり、その排水量は先に横須賀工廠が完成した最大の砲艦橋立の3倍強の大きさであり、筑波の完成は呉工廠が日本の最先端の海軍工廠に発展したことを示すものであった。

4 横須賀海軍工廠が担った役割
(1)近代的技術者の育成

 日本の技術導入は先進国から必要な技術者を招聘し教育を受ける「技能伝習」からはじまり、江戸時代の「年期徒弟制度」から「工場徒弟制度」、「見習工制度」、さらに学科教育の導入と充実の「養成工制度」へと発展していったが、これらを先導したのが横須賀工廠であった。また、横須賀工廠は前近代的な職人的労働者を近代的工場労働者に変え、技術を身につけた職工の離職を防ぎ定着させるため、日本的な雇用制度の確立に大きな足跡を残した (27)。横須賀工廠の技術教育は慶応2年にヴェルニーの進言を受けた幕府が4名を伝習生に命じたことにはじまるが、明治政府は財政難から中止した。しかし、明治2年3月に製鉄所の通訳官・中嶋才吉が、現在の状況では技術者は育成されず、フランス人が帰国すれば「前途大に憂うべき事項なしとせず」と上申したため 、明治3年に黌舎という正規学校(技術者)と変則学校(職長・技手)が開校した。校長は明治8年までウェルニーが務めフランス海軍の職工学校の教科書を使って行われた。教育期間は3年で幾何学、微分積分学、造船学、蒸気機関、海軍砲術、築造学などの高度な課目が教えられたが、明治13年には期間が2年に短縮され、予科生徒は工部大学校(東京大学の前身)に委託された 。
その後、明治22年に黌舎を廃し、工夫から技工になる者を育成するために海軍造船工学校(予科2年、本科3年)を開校した 、しかし、26年には海軍機関学校が創設されたため従来造船部に付属していた海軍造船学校が廃止され、機関学校に技手練習所を置き造船技師の養成を行うこととしたが 、明治30年には基幹職工、技師および職長などを養成する海軍造船工練習所を設立した。 しかし、国内各地に工業専門学校が創設され工業教育が向上すると、これら専門学校卒業者を技手に採用することとし、明治39年には海軍工廠による技術者養成は一旦幕を閉じた。

 しかし、その後に職工の学術的知識が低下したため、大正8年に海軍技手養成所を設立したが、養成所は昭和3年には呉に移転した。 一方、これとは別に大正10年5月から新規採用の職工に工場毎に期間1年の基礎実務教育を開始したが、大正13年には見習職工教習所規定を制定し、実務教育は横須賀の第一教習所(造船・造兵)と長浦の第2教習所(造機)で行い、学術教育については午後3時半に終業させて横須賀地区は豊島実業補修学校、長浦地区は船越実業学校に委託した。しかし、昭和14年4月には池上教習所が開所し、工員養成所教育規定が制定され見習科、補修科、選科および青年科の4科からなる工員養成所の教育が再開され終戦まで続いた 。また、さらに高い技術者を育成するために国外留学も行われ、明治初期にはフランスのシェルブール海軍造船所、明治中期となり工業専門学校出身者が出ると、これらの卒業生はイギリスの造船所やグラスゴー大学などにも留学している。

(2)労務管理体制の確立

 横須賀工廠が最初に抱えた問題は江戸時代の職人的労働者を、職工という近代的工場労働者へ変えることであった。前近代的で時間の観念もない職人には、決められた時間に決められた場所で働かされることは苦痛であったのであろうか、「職工及人夫毎朝入場後、直チニ工場ヲ脱出シ午餐停業ノ頃、混雑ニ紛レテ帰場スル者」ありと、職場離脱も日常茶飯事であったようである。このため明治5年には職工規則を制定し脱走者は「厳密ノ詰問ヲ経テ午後3時間、改札場ノ木杭ニ縛置シ、側ニ犯罪者ノ姓名及付属工場ノ名ヲ記シテ之ヲ懲罰ス」るだけでなく、「脱出中ノ時間ニ応ジテ一日若クハ数日ノ給料ヲ減ズベシ」としていた 。
横須賀工廠は日本的な組織と西欧的な組織を混在させながら、変革し明治6年には頭目差配―平職―見習の指揮関係であったが、明治15年には工廠次長から「今般専ら工場取締を主とし併せて各自の後栄を図らんため」職工組合を作り、「組互いに親睦を尽くし、過誤を正し、品行を矯正し、職業に精励すべし」と訓示し、職工を指導する組長と5長を配したが、さらに明治23年には「職工組合内規」を制定し、1組合を20名程度とし、組には5長若干を置き、数組を併せて班長1名を置き班長に監督させることとした 。その後、明治42年には「見習職工規則」を制定し、工手―組長―伍長―並職工―試用工―見習工の階級とし、職工で5名程度、組長で20―30名の部下を持ち、工手となれば判任官待遇で数組の組を指揮するシステムを確立した。また、大正7年には製図工、検査工、分析工などの専門工は指揮ラインから外し組長と同格に位置付けた 。明治22年には作業服を定め服装を統一し、明治33年には喫煙時間、喫煙場所を定めた「職工喫煙規則」を制定するなど職人を職工へと変えて行った 。

 横須賀工廠で目を引くのが技量を向上させ職工が民間会社に引き抜かれるのを防ぐための差別的な等級別賃金制度で、明治25には工員の等級を日給10銭から1円40銭と26等級、明治44年には12銭から3円の53等級と給与に差を付けていた 。
しかし、民間企業への流出は止まらず「就職ヲ企図スル者続出」する状況に、明治12年には所長通達で黌舎卒業後に「辞職ヲ許サザルハ勿論他ニ転職ヲ許さず」としたが、明治24年には海軍造船工学校卒業後6年間、海軍技手練習所や海軍造船工練習所などでは10年間奉職することを義務づけたが、さらに大正6年には民間造船所15社と「勤務中ノ工員ヲ雇入セザルモノトス」との協約を結んだ 。

 また職工の定着をはかるために、明治6年には月給職工制度(公休日や病休にも給与支給)を、明治9年には定雇職工制度(勤務年限による賞与加給)を定めたが、明治16年には「海軍工夫規則」により年功序列の昇任制と賞与加給制、勤務年限にスライドした退職金などを制定した。明治19年からは潜水作業などの危険作業やコレラなどの伝染病感染の恐れある作業には、特殊作業加給を付けるなど待遇の改善に努めたが、さらに日露戦争で人手が足りなくなると、明治39年には製図工や事務系に女子を採用した。
    横須賀海軍工廠共済組合病院
 一方、明治時代の職工の生活も仕事も厳しく、残業と徹夜が続いた日露戦争前夜の横須賀海軍工廠の状況を木工見習工であった荒畑寒村(社会主義者で後に共産党に入党)は「悲惨なのは肺結核患者であった。工廠の職工の間に結核患者が逐年増加していることはつとに知られていて、そのために時々海軍軍医の健康診断が行われたが、結核と断定された者の運命は冷酷な解雇の2字に外ならない 」と書いていた。
 職工の死傷手当などにつて政府が工場法を制定したのは明治44年であったが、横須賀海軍工廠は、その25年前の明治19年には官役職工人夫死傷手当規則を定めていた。さらに、明治39年3月15日には工廠の従業員や家族の診療を仮病院で開始し、明治41年4月には横須賀職工共済会病院を開院した 。この病院は市内の開業医の5分の2程度であったため、しばしば医師会と紛糾が起きていた。また、横須賀工廠はこのように安価な医療を提供しただけでなく、職工共済会(明治45年に全国の職工組合を統合して海軍共済組合となる)では、退職金の支給、慶弔資金の貸出や人事相談、生活協同組合に相当する購買所の運営など、福利厚生面でも先導的な役割を果たしていた。

おわりに 
 軍器独立をどのように定義すべきであろうか。超高度な兵器までの国産を含むのであろうか。もし超高度のミサイルや指揮管制システムをも含むならば、現在の日本も多くの西欧先進国も軍器独立は達成されていない。武器、特に技術の結集した軍艦を輸出した時期を軍器独立と考えるならば、樺型駆逐艦12隻をフランスに輸出した第一次世界大戦期であったといえよう。フランス製の駆逐艦が大戦中に「殆ど全部使用不能」となり、戦後間もなくスクラップにされたが、樺型駆逐艦は“Torpilleur Japonais”と呼称され戦後10年近くも使用された。 しかも、この駆逐艦は海軍工廠だけでなく民間の川崎造船所(神戸)、三菱造船所(長崎)でも各2隻を建造しており、この駆逐艦の輸出は民間企業も海軍工廠と同等の技術水準に達したことを意味しており、著者は日露戦争期を国内的軍器独立期、第一次世界大戦期を国際的軍器独立期と規定したい 。

脚注
1.「横須賀製鉄所ヲ海軍ニ付属セシムル件」(海軍大臣官房編『海軍制度沿革 巻3(1)』(原書房、1971年)290―292頁。
2.「横須賀造船所ノ改革ニ関スル件」同右、602―603頁。
3.神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 通史編 4 近代・現代(1)』(神奈川県、1980年)604―606頁。
4.横須賀市史編纂委員会編『横須賀市史』(横須賀市、1957年)1246―1249頁。
5.横須賀海軍工廠会編『横須賀海軍工廠外史』(同会、1990年)263頁。
6.海軍軍令部編『極秘 明治三十七八年海戦史』「第5部施設」巻15「第7編 横須賀鎮守府ノ施設」、以後、『明治三十七八年海戦史(5部巻15)』と略記す)1―3頁、37―40頁、83頁、防衛研究所蔵。
7.同右、47―48頁、53―59頁。なお、家族共励会は困窮する下士卒家族や遺族を支援するために創立され、海軍工廠などの衣料裁縫、軍艦旗の製作にあたり皇后より下賜金などを得ていた(地域女性史の会編『横須賀の女性たち』同会、1998年)22頁。
8.前掲『明治三十七八年海戦史(5部巻15)』4―5頁、8頁、90―91頁。
9.同右、48―51頁。
10.同右、10―27頁、46頁、76―82頁。
11. 同右、143頁。
12.同右、91頁、134―148頁、181―188頁。
13.同右、158−159頁。
14.同右、8頁、175頁、188―192頁。
15.同右、90頁、200―201頁、大湊海軍工作部記念誌刊行委員会編『北の槌 大湊海軍工作部記念誌』(同会、1991年)33―41頁。
16.前掲『明治三十7八年海戦史(5部巻15)』8頁、91頁。
17.同右、87頁、201―202頁。
18.同右、87―89頁、154―155頁、204頁。
19.同右、87―89頁、137―138頁、175―176頁、201―202頁。
10.前掲『神奈川県史 通史編4 近代・現代(1)』604―606頁。
21.前掲『横須賀市史』274―275頁。
22.前掲『横須賀海軍工廠外史』38頁。
23.同右、50頁。
24.『横浜貿易日報』明治39年11月17日。
25.山田盛太郎『日本資本主義分析』(岩波書店、1934年)102―103頁。
26.前掲『横須賀市史』1249頁。
27.甘粕啓介「労務―巨大企業海軍工廠 労務面に於ける先駆的足跡」(海軍歴史保存会編『日本海軍史』第6巻、第一法規出版、1995年)439―499頁に詳しい。
28.同右、458頁、前掲『横須賀海軍工廠外史』19頁。
29.「黌舎処務順序及諸規則(明治10年)」「横須賀造船所黌舎規則(明治11年)」前掲『海軍制度沿革 巻3(1)』335―339頁。
30.「海軍造船工学校官制(明治22年)」「海軍造船工学校規則(明治22年9月、明治23年5月、明治24年8月)」「海軍造船工学校生徒懲戒則(明治23年8月)」前掲『海軍制度沿革 巻3(1)』339―350頁。海軍歴史保存会編『日本海軍史 部門小史 上』第5巻(第一法規出版、1995年)215―220頁。
31.「技手練習所規則(明治26年12月)」「技手練習所内規及技手生徒心得(明治27年6月)」「技手練習所生徒懲戒則(明治27年7月)」前掲『海軍制度沿革 巻3(1)』351頁―360頁。
32.「海軍造船工練習所規則(明治30年)」「海軍造船工練習所教程(明治30年)」同右、362―336頁。
33.「海軍技手養成所規則(大正8年4月)」「海軍技手養成所教育綱領(大正8年4月)」同右、366―375頁、前掲『横須賀海軍工廠外史』323頁。
34.「工員養成所教育規定」(横須賀海軍工廠会編『横須賀海軍工廠史』第8巻、同会、1998年)380―391頁。
35.北政巳『国際日本を砕いた人々―日本とスコットランド』(同文館、1984年)を参照。
36.前掲『横須賀海軍工廠外史』275頁。
37.前掲『海軍制度沿革 巻3(1)』43頁。
38.前掲、甘粕「労務―巨大企業海軍工廠」469頁。
39.前掲『横須賀海軍工廠外史』46頁。
40.前掲、甘粕「労務―巨大企業海軍工廠」479頁。
41.前掲『横須賀海軍工廠外史』59頁。
42.荒畑寒村『寒村自伝』(板垣書房、1947年)234頁。
43.横須賀海軍共済組合病院沿革史編纂委員会『横須賀海軍共済組合病院沿革史』(同会、昭和10年)3―4頁。
44.Expose de la Situation Generale au Japon(5 Juin 1919)”(X2Attache Naval a Tokyo, Service Historique de la Marines,Paris)
45.海軍軍令部編『軍機 大正4年乃至九年戦役海軍計理史』(海軍軍令部)696―698頁。および『軍機 大正4年乃至九年戦役海軍戦史』第1巻(海軍軍令部)390―391頁、防衛大学校蔵。なお、拙書『第一次世界大戦と日本海軍』(慶応大学出版会、1998年)の第5章第3節「連合国への武器輸出」を参照。