田中丸善蔵
南洋航路の開拓者 1881年ー1932年
1 主要経歴
田中丸善蔵は明治14年(1881年)1月2日、 佐賀県牛津の大呉服問屋、 田中丸善蔵の長男として生まれ善吉と命名された。
田中丸呉服店は間口17間(30メートル)の豪商であったが、 小学校を卒業すると父の配慮から大阪商人の「ど根性」を身につけさせるため、
大阪の伊藤忠や紅屋に見習い奉公に出された。 その後、 日清戦争が始まり海軍が多量の包帯を牛津の田中丸呉服店に発注すると、
これを契機に明治27年に佐世保に支店を開店したが、 明治45年4月に初代善蔵が長逝したため善吉は2代善蔵を襲名した。
31才であった。 善蔵は大阪で身につけた商魂を発揮して門司支店、 久留米支店を開店したが、
大正2年(1913年)には佐世保に魚市場を開設した。 佐世保の呉服部で善蔵は包帯とともに呉服を海軍士官の婦人を相手に販売していたが、
持ち前の商魂と大阪の本場で鍛えた商魂を発揮し、 呉服部のほかに日用品卸部、
海軍御用達部、 精米所などと事業を次々に拡張し、 さらに佐世保海軍工廠職工共済組合への食糧納入まで手掛けるに至った。
一方、 第一次世界大戦が始まり海軍が南洋群島を占領すると、 商機を見る目に富む善蔵は直ちに南洋貿易に着目し、
10月に神戸の内田汽船から日邦丸(3114トン)をチャーターし予備役海軍中佐田中行尚など十数人を乗せて横浜を出港した。
善蔵はグアム、 ヤップ、 パラオ、 トラック、 ポナペなどを回り12月中旬に神戸に帰港たが、
この航海の目的を『佐世保玉屋五0年史』は南洋群島の経済状態を視察する目的もあったが、
事実は海軍が占領した南洋諸島への補給を大手船会社が辞退したため義侠心から引き受け、
当時の総理大臣大隈重信まどの政府首脳と「わたり」をつけ、 その代償として南洋貿易の足掛かりを得たと記されている。
しかし、 海軍軍令部編纂の『大正三四年海軍戦史 (巻2巻)』には大正3年11月15日に汽船日邦丸(田中丸善蔵雇船)が入港したので、
「隊付士官ヲ派シテ臨検セシム。 同船ハ南洋新占領地方面ノ視察ヲ兼ネ貿易ノ目的ヲ以テ来航シタルモノニシテ、
雑貨物品ハ概ネ此住民ノ需要最モ急ナルモノナルヲ以テ営業税及入港税ヲ免ジ、
南洋群島貿易及ジャルート両会社ニ販売スルコトヲ許可シ輸入税ノミヲ徴収ス」と記されている。また、
第一次大戦に関する海軍の電報や報告書などを集成した「戦時書類」には、 佐世保の御用商人田中丸善吉が占領した島々に上陸しては「田中丸占有地」と書いた看板を立てていたので厳重に注意したとのサイパン守備隊長の報告が綴られている。
2 南洋貿易株式会社時代
善蔵はこの視察航海で南洋貿易が将来有望になると考えたが、 1913年当時の南洋群島の貿易は南洋貿易株式会社をはじめ5社がすでに進出し、
カロリン諸島及びパラオ諸島に56名、 マリアナ諸島に51名の日本人が住んでおり、
特に南洋貿易株式会社(資本金十5万円)などは、 サイパン、 ポナペ、 トラック、
パラオ、 グアムに支店を開設し、 貿易や販売店の権利を保有していた。 善蔵は南洋方面の航海から帰港すると、
その7日後には南洋貿易株式会社を訪れ、 事業を拡張すべきであると35万円の増資を申し出て、
大正4年2月には34才の若さで南洋貿易の2代社長に就任した。 日本海軍のマーシャル群島占領にともない南洋貿易はドイツが独占していた貿易を引き継ぎ、
マーシャル群島に支店を新設し、 さらにラバウルやギルバートにも次々に支店を開設した。
さらに、 南洋貿易は翌4年10月には海軍省から南洋方面の定期航路の開設を依頼され、
補助金4万2千円を得て内地と南洋群島間、 南洋群島の各島嶼間の定期航路を開設した。
善蔵はこの定期航路の開設を機に船舶を増強することとし、 チャーターしていた平順丸(2100トン)のほかに、
御吉野丸(3900トン)と江陽丸(1700トン)の2隻を加えたが、 さらに第2長門丸をチャータするなど大いに業績を延ばし「帆船王南貿」と呼ばれるまでに南洋貿易を発展させた。
善蔵の時流に乗った事業は発展し、 大正4年のマーシャル群島、 ギルバートおよびラバウル支店の開設に続き、
セレベス、 ニューギニア、 フィジーにも支店を開設し、 事業内容も貿易のみならず農業や水産業へと拡大し、
この年の営業成績は汽船4隻と帆船5隻を就役させ移出13回移入10回、 移出金額29万5000円、
移入金額73万3000円に達し純益4万8750円を上げた。 事業はその後も極めて順調に発展し大正5年には一挙に倍額の百万円に増資し、
御吉丸を横浜・横須賀ーサイパン・トラック、 南海丸をトラック・ヤップ・パラオ・アンガウル・メナド間に、
江陽丸をトラック・ポナペ・クサエ・ギルバート・ヤルート間に1ケ月に1回運行させ、
支店も最盛期には40店に達した。
翌大正6年3月には3百万円を増資し、 それまでチャーターしていた日邦丸と3隻の木造船(1000トン)を購入し、
大阪支店も開店した。 そして大正6年12月には株式会社日本恒信社の全経営権と所有船5隻を手中に収めた。
また、 この年にはコプラを南洋から直接アメリカへ輸出することを考え機帆船南貿丸(800トン)をサンフランシスコに送り、
大正7年11月には資本金をさらに6百万円に増加するなど発展の一途をたどった。
このように善蔵が社長となると、 それから4年間にわたり相次ぐ増資、 定期航路の開設、
支店の新規開店、 南洋群島からアメリカ大陸との直接貿易の着手、 会社の併合と船舶の購入や新造と積極経営を行った。
しかし、 第一次大戦後の不景気が南洋貿易を直撃した。 そして大正8年7月には所有船の南貿丸がメナドを出港したたま行方不明となる事故なども加わり、
翌年3月の決算では資本金の半額に相当する393万円の赤字を出し、 大正8年9月には資本金を200万円に減資し、
田中丸は責任をとって社長を辞任し佐世保に身を引いた。
3 九州の百貨店王

南洋航路の事業に失敗すると善蔵は東京を去り、 大正9年3月には呉服部、 海軍用達部、
日用品卸部を、 さらに大正12年には大正7年に営業を開始した佐世保玉屋を改装し、
当時全国でも珍しい煉瓦3階建のデパートとして改装開店した。続いて大正14年9月29日には福岡の一七銀行中州支店の用地・建物を買収し、
資本金百万円で福岡玉屋呉服店を開店、 以後、 この店は昭和8年4月には九州随一の鉄筋7階建、
売り場面積8200平方メートルの百貨店に改造された。 さらに善蔵は昭和7年6月12日には佐賀玉屋を開店したが、
善蔵はこの開店を待たずに昭和2年7月月29日、 風邪をこじらせ京都で急死してしまった。
34歳の若さであった。 玉屋グループはその後も発展を続け、 太平洋戦争が始まり日本軍が香港を占領すると、
昭和17年には香港にも香港玉屋支店を開店した。 一方、 佐世保の玉屋はその後10階建て、
総面積13・200平方メートルに拡大し、 西九州地方第1の百貨店として重きをなした。
九州の牛津の一介の呉服屋から、 佐世保に海軍基地が開設されると呉服屋、 続いて海軍納入業者となり、
海軍が第一次大戦で南洋を占領すると南洋貿易に進出、 大戦後の不景気に屈して中央から去ると百貨店経営に邁進し、
九州の百貨店王といわれ、 玉屋1社で昭和15年には海軍に飛行機3機(玉屋報国号)を寄付するほどの大財閥に発展したのは、
郷土佐賀出身で後に藤山コンツェルンの基礎を築いた財界の雄として大正・昭和に活躍した財界の実力者藤山雷太の後ろだてがあったとはいえ、
田中丸がいかに卓越した先見性と事業眼の持ち主であったかが理解できるであろう。
参考文献
玉屋50年記念祭広報委員会編『佐世保玉屋五0年小史』(佐世保玉屋、 昭和4 2年)
郷隆『南洋貿易五拾年史』(同社、 昭和17年)
栗木徳五郎『南洋貿易のあゆみ』(南洋貿易会社、 昭和45年)
海軍軍令部編『大正三四年海軍戦史』第5巻(海軍軍令部、 大正12年)