海上自衛隊のシーレーン防衛
対潜戦神代の時代
 シーレーン防衛という言葉から読者が連想するのは、航路帯を通る船舶を守るハイウェイ・パトロールのようなものとのイメージが強いかもしれない。しかし、シーレーン防衛は敵兵力の基地における破壊から出撃直後の機雷や潜水艦による撃破、チョークポイントと呼ばれる緊要地点の海峡での阻止作戦,対潜哨戒機による広域哨戒,航路帯への接近阻止,対潜掃討,船団護衛,重要港湾水路などの安全確保(掃海や港湾防備),船舶運航軍事統制(NCS)や救難などの各種の作戦からなり、兵力も航空機や護衛艦だけでなく潜水艦、掃海艇から対潜部隊を支援する補給艦など多種多様な兵力を必要とする総合的な作戦である。このシーレーン防衛という言葉は軍事アレルギーの強い日本で多用される言葉で、マハン大佐が主張したのは公海上で自国艦船の航行の自由を確保し、敵国の利用を阻止するSLOC(Sea Line of Communication)と呼ばれる軍事的要素の強いものであった。しかし、このマハンの重商的な自国船舶を保護し通商を延ばし、国家に繁栄をもたらそうとしたシーレーン防衛は、経済の国際化やテロ・海賊の出現で大きく変化した。

 以下、著者の体験を交えながら海上自衛隊のシーレーン防衛の歴史をたどってみたい。著者の海上自衛隊のスタートは1958年のPF(フリゲート艦)の機関士から始まるが、終戦直前にアラスカのコールド・ベイでソ連に供与したものを、冷戦が始まると急遽取り返して海上自衛隊に供与したため、艦内には所々にロシア語の表示があり、時としてロシア製の部品なども倉庫にはあった。
PFの対潜戦の捜索兵器はレーダーとソナーだけであったが、いずれも旧海軍にはない兵器であった。また、対潜指揮室はCICと呼ばれた8畳程度の広さで、自艦の位置を示すプロット台があり、自艦の位置をプロットしながらソナーやレーダーなどから伝えられる潜水艦と僚艦の位置を記入し、それを見ながら船務長が艦長に潜水艦の直上を通過するよう針路を進言し、潜水艦の前方100メートル手前でロケット推進の24発の小型爆雷であるヘッジホッグの発射、次いで直上通過時の爆雷投下を進言する戦闘指揮室であった。この対潜戦はレーダーもソナーも初めての海兵出身の上司には苦手で、何時もわれわれを大声で怒鳴り散らしている歴戦の猛者も罵声が出なかった。

 特に探知した潜水艦を逃せば捜索が始まるが、この捜索ではNATO海軍と共通の戦術書(ATP)、信号書(ACP)が使われ総てが英語であった。例えば潜水艦を逃した時には、潜水艦の探知を失った位置(Datum)や経過時間、捜索艦艇の隻数により各種の捜索パターンがあるが、2隻の場合にはDatumを中心に逃走したと思われる方向を捜索軸として、次のような事項を英語で指示することになっていた。
「捜索計画トマト法、Datum本艦の90度250ヤード、捜索軸三20度、捜索速力15ノット」、「スタンバイ エックスキュート」、こうなると海兵組はサイレント・ネイビーと化し、俄然、乗員の尊敬を集めるのがピイチクパアチクを始めるわれわれ幹補校出身者となる。さらに米海軍との共同訓練ともなると、いよいよわれら戦後派の出番となり、防衛大出が1人しか居ないPF「しい」では、日米共同訓練が始まり米軍から信号が来ると、「機関士 艦橋へ」との指示が何時も機関室に伝えられ、私は機関室より艦橋やCICの勤務の方が長かったように思う。

初期の対潜兵力と武器
 1952年11月には日米船舶貸借協定が調印され、フリゲート18隻と上陸用舟艇(LSSL)50隻の引き渡しが始まり、翌5三年4月にはPF7隻で第1船隊群が編成された。同年5月にフリゲート5隻の第1船隊群が日本一周航海を行い各地を訪れたが、当時は野党が保安隊や警備隊は「戦力」であり、警備隊は憲法違反であると激しく追求され、吉田茂総理が「他国の脅威とならないので戦力ではない」などと、珍答弁を繰り返している時代であったため、地方の新聞は「立派な軍艦ですよ。三インチ砲などの高性能な武器があるのに船舶とはいえない」。「軍艦ではないですね。艦と船との合いの子でしょう」などと、見学者の戦力議論を掲載したが、この「戦力」を巡る不毛な神学論争は60年代後半まで続いた。このため「戦」や「艦」という字が使えず「警備船」と呼称し、艦尾には櫻と青い7本の横線が入った警備隊旗を掲げ、階級も1等海佐が1等警備正、1等海尉が1等警備士などと呼称され、潜水艦は攻撃的なイメージが強いため、1955年に貸与された最初の潜水艦「くろしお」は「水中高速標的」と呼称されていた。

 1954年7月1日には防衛庁が誕生し、警備隊は海上自衛隊と名称を変え、「わが国の平和と独立を守り、国の安全を維持するため直接および間接侵略に当たる」と、軍事的任務が明記され、8月には旧海軍の軍艦旗が隊旗とされ、1等警備士は1等海尉に変わった。しかし、「戦」を「船」に替えた「船務長」は21世紀を迎えても変わっていない。1958年から始まった第1次防衛力整備計画で甲型護衛艦「はるかぜ」型、乙型護衛艦「いかずち」型などの国産護衛艦が建造されたが、武器は米軍が第二次世界大戦中に使用していたヘッジ・ホッグや爆雷投下機や発射機であった。1960年9月に自衛艦隊麾下に護衛艦隊が新編されたが、当時の旗艦は「てるづき」で、第1護衛隊群(DD5隻、DE3隻)、第2護衛隊群(DD11隻)、第3護衛隊群(DE2隻、PF6隻)であった。このDE型にはヘッジホックの進歩型の磁気で爆発するボッフォーズが導入された以外は第二次世界大戦中に使用されていた武器であった。1955年には艦尾にオランダ坂と呼ばれる傾斜甲板がある「あやなみ」型、56年には対空装備を強化した「むらさめ」型、司令部設備を有する「あきづき」型が建造された。

 この「あきずき」型は米国が被援助国の建艦技術の向上と経済復興を助けるため、米国の予算で日本の造船所で建造し引渡と同時に星条旗を降下し、自衛艦旗を掲揚して供与した護衛艦であった。これほど米国は極東戦略の要として海上自衛隊を重視していたのであった。
 また、米海軍は対潜戦術の教育も熱心で、横須賀の米軍基地にあるアタック・テイチャーと呼ばれる対潜訓練装置を使い米軍の指導を受けたが、ここではコーヒーが自由に飲め、さらにコッカコーラーが買えた。コッカコーラーなどが未だ国内では販売されていない時代であり、始めて飲んだコッカコーラーに文明開化を感じたが、乗員がお土産に隠して持ち帰るのには頭が痛かった。一方、自衛隊だけの研究会となるとサンディゴの対潜学校留学帰りが「米海軍では……」とご高説を宣い上から下までノートに忙しかった。教科書も解説書も未整備の対潜戦神代の時代であった。

創設期のシーレーン防衛
 1957年の「国防の基本方針」、1976年の「五一防衛大綱」に基づき、海上自衛隊は日米安保体制を堅持し、大規模な侵略の場合には「米国の協力を待ってこれを排除」し、「限定的かつ小規模な侵略については原則として独力で排除」するとし、海上自衛隊は米海軍と一体となった兵力整備を進め、米海軍が弱体な対潜戦と掃海戦を重視した兵力整備を行い、日本海側で100―200浬、太平洋側で300浬の本土周辺海域を防衛範囲とした。そして、沿岸航路路帯は主として地方隊の艦艇とヘリコプター、東南アジアからの船舶は南西諸島に沿った航路帯は護衛艦隊とし、船団の前方に護衛艦を馬蹄形に配備する直接護衛、あるいは航空哨戒などにより発見した潜水艦にはハンターキラーとよばれる護衛艦と航空機の空水対潜部隊を派遣し、航路帯に近づこうとする潜水艦を攻撃し航路帯を防御することしていた。創設期の対潜機はレーダー搭載のTBM-3W対捜索機と、爆雷を搭載したTBM-3S攻撃機であったが、鈍重で老朽化していたためほとんど実任務には使用されなかった。1956年にはロッキード対潜哨戒機P2V-7、57年にはグラマンS2F対潜哨戒機が戦列に加わり航空部隊の対潜能力も強化された。一方、船団護衛と同様に重視されたのが通峡阻止であったが、通峡阻止を任務とする国産潜水艦「はやしお」が竣工したのは1962年であり、「なつしお」型が就役したのは63年であった。1970年2月には第4護衛隊群がDEやPFなどで新編され、ここに内航護衛隊群、外航護衛隊群各2個群と、念願の4個護衛隊群体制が確立した。

 1978年に合意された「日米防衛協力のための指針(日米ガイドライン)」で、シーライン防衛が日米共同作戦の一部として組み入れられ、ソ連原子力潜水艦の脅威が太平洋に拡大すると、1981年に鈴木善幸総理がワシントンで本土からグアム島とフィリピンを結ぶ海域―「1000浬の防衛」を発表し、これにより航路帯の防衛は小笠原諸島に沿った南東航路帯と琉球・南西群島に沿った南西航路帯のシーレーン防衛だけでなく、フィリピン・グアム・日本を結ぶ西太平洋の海域へと防衛海域は線から面に拡大した。対潜兵力も1981年には対潜機P-3Cの導入が始まり、100機体制へと進んだがP3Cと競合したため、耐波性が高くSTOL性も優れ、着水後にはアクティブ・パッシブ両用ソナーを海面下に吊下げ、潜水艦を捜索攻撃する旧海軍の二式大艇の技術を引き次ぎ、日本独自の技術で開発したPS-1は、その後は主として救難飛行艇US-1として運用されることになった。

 1966年には遠距離探知と遠距離攻撃能力を重視した大出力のバウ・ソナーとアスロックを搭載したDDK「やまぐも」型3隻と、無人ヘリコプター(ダッシュ)搭載の3隻が就役し対潜武器は第二世代に進化した。さらに、これと並行して1967年には戦術情報処理システム(NTDS)を搭載した「たかつき」型、73年にはヘリコプター3機搭載のDDH「はるな」型が就役した。71年には「あまつかぜ」以来10年ぶりにSAM(SM1-MR)を搭載し、指揮管制システムを一段と強化したDDG「たちかぜ」型が建造され、対潜戦が航空自衛隊のエアーカバー外の外洋でも実施可能となった。


シーレーン防衛の強化と脅威の立体化
 1980年代に入るとバックファイヤー(TU―22)爆撃機の出現や、対艦ミサイルの発展からシーレーンの安全を常時確保することが困難になり、シーレーンの確保は時間的にも海域的にも縮小され、必要な海域の安全を確保する海洋覇権(Command of the Sea)へと変わっていった。一方、対潜技術も発達しコンバージェンス・ゾーンやサウンド・チャンネルなど音響の深海域における遠距離伝搬現象を利用した画期的な遠距離探知システムがP3Cの導入で実戦化されると、大音響を発して潜水艦の所在海面に急行する護衛艦が航空機の捜索を妨害する事態が起こり、護衛艦も聴音を主とするパッシブ・ソナー捜索が主流となり、1980年には曳航ソナー(SURTASS)を装備し、ヘリコプター3機を搭載したDDH「しらね」型が建造されたが、さらに1991年には広域捜索用の音響測定艦「ひびき」が戦列に加わった。また、1963年には釣下式ソナーとソノブイ発射機、磁気探知機MADを搭載したHSS-2対潜ヘリコプターが登場し、05年にはレーダー、ソノブイ、磁気探査装置(MAD)、電子戦支援装置(ESM)に加え、赤外線探知装置(FLIR)、逆合成開口レーダー(ISAR)を装備したSH-60Kが戦列に加わった。

 1982年には対潜ヘリコプターを搭載し、対空武器もOTO社の76mm砲、多銃身機関砲、短SAM(シースパロー)、SSM(ハプーン)を搭載しガスタービン推進のDDKとDDAの両機能を持った八八艦隊の最初の汎用護衛艦DD「はつゆき」型が就役した。八3年には中曽根総理が日本はバックファイアー爆撃機に対する不沈空母であり、三海峡の完全な支配権を確立し米国とともに戦うとワシントンで語り、海上防衛力は大幅に増強されることになった。1986年にはミサイル発射機を前甲板に移し、後甲板にヘリコプターを搭載したDDG「はたかぜ」型が建造され、ここに水上戦、対潜戦、防空戦などを独立的に実施可能なバランスある編成のDDH(対潜中枢艦)1隻、DDG(防空中枢艦)2隻、DD(汎用護衛艦)5隻の計8隻で8機のヘリコプターを運用する八八艦隊が誕生した。著者も新型DDGの司令になりたいとの下心からシステム艦講習に強引に参加させて貰ったが、レーダー画面や戦術指揮装置の画面を見るときは老眼鏡、側壁の状況表示射盤を見るときは老眼鏡を外す老人にシステム艦は不適と考えたのであろうか、司令は3期も後輩に取られてしまった。

 冷戦体制の崩壊を受け1996年4月には橋本総理とクリントン大統領が「日米安全保障共同宣言―2十1世紀に向けての同盟」に署名し、97年には朝鮮半島有事を想定した対米支援策を具体化した「新ガイドライン(日米防衛協力の指針)」が合意され、「捜索救難活動」「非戦闘員の待避」「警戒監視」「機雷除去」などが海上自衛隊の任務に加えられ日米安保体制は一段と強化された。DDG「たちかぜ」型は「はたかぜ」型に進み、93年にはイージスシステムを搭載したDDG「こんごう」型に進化した。「こんごう」型はソ連の航空機や対艦ミサイルの同時飽和攻撃に対処するため、フェーズト・アレー・レーダーと高性能情報処理システムを装備した同時多目標迎撃システム艦であったが、完成した時には冷戦体制が崩壊しておりなり、イージス艦は「平成の大和」と揶揄された。また、大蔵省主計官でその後に小泉チルドレンとなった片山さつきに「この平和の時にどの国が攻めてくるの」と、弾道ミサイル邀撃力の改装費が大幅に減額され、06年のテポドン発射時には探知は出来ても迎撃できず、米海軍のDDGシャイローがハワイから駆けつけて日本を守った。北朝鮮のテポドン発射や核実験の強行は「百年兵を養うは一日のためなり」という諺の正しかったことを教えたが、ミサイルが飛び去り、さらに発射回数が増えるとマンネリ化し関心も危機感も消えてしまった。

冷戦後のシーレーン防衛
 冷戦後は大規模な戦争の危機は去り世界的規模の戦争の蓋然性は低くなったが、それまで押さえ込まれていた宗教や人種をめぐる紛争が多発し、1991年にはイラクがクエートに侵攻した。イラク軍は米国を中心とした多国籍軍に撃退されクエートは併合を免れた。しかし、クエート沖にはイラクが敷設した機雷が残され、この機雷を米英独仏伊など9カ国が共同で掃海することになり、日本からも掃海母艦「はやせ」、補給艦「ときわ」、掃海艇4隻が乱立する赤旗と「海外派兵反対」のシュプレヒコールに送られたペルシャ湾に向かった。これが自衛隊の最初の海外派遣の実任務であった。この時期は一年中で最も暑い時期であり、気温は40度、さらにイラク軍が撤退時に火を付けた油田が燃えており、煤煙と砂漠の粉塵が人間だけでなく、砂塵で吸気口フィルターを詰まらせ機械も故障を続発させていた。隊員はこのような状況下に触雷に備えて、炎天下の甲板で分厚い長袖の戦闘服を着用し、ヘルメットにカポック式の救命胴衣、防塵マスクを付けて一日10時間から12時間も掃海作業に従事した。

米国では湾岸戦争から帰国した兵士はワシントン市内を行進し、ブッシュ大統領は「諸君は米国の誇りである」と迎えた。しかし、日本では掃海部隊が稼働率百パーセント、服務事故ゼロという成果を挙げて帰国したが、帰国行事をめぐって悶着が生じた。自衛隊の最高指揮官の海部俊樹首相から軍国主義のイメージが強ので、帰国時に自衛艦旗を降下し、軍艦マーチは演奏しないようにとの意向が伝えられたのである。法で定められた自衛艦旗を降下するのは降伏の時だけであり、軍艦マーチは帝国海軍の伝統を引き継ぐ海上自衛隊に敬意を表するため、諸外国を訪問したときに必ず演奏して迎えてくれる曲であり隊員には隊歌ともいうべき曲である。ペルシャ湾に派遣された隊員は、このような指示を出す国家指導者の命令で188日間も灼熱の海で危険な任務につき、「国際国家日本」のために働いてきたのだろうか。
一方、政府は1995年12月には「平成8年度以降に係わる防衛計画の大綱(0七防衛大綱)を策定し、海上自衛隊には主任務の「わが国の防衛」に加えて、「大規模災害等各種の事態への対応」と、「より安定した安全保障環境構築への貢献」の任務が付与され、「国際平和協力業務」「安全保障対話・防衛交流」などの政治的外交的な任務も付加され、国外派遣が増えると補給艦も大型化し04年には1万3500トンの「ましゅう」型へと発展した。

2001年11月には「テロ対策特別措置法」に基づき、給油艦「はまな」護衛艦「くらま」「きりさめ」をインド洋に派遣し、12月7日の真珠湾攻撃60周年記念式典で、ブッシュ大統領は「今日、かっての敵国の一つがいまや米国の最良の友人であることにわれわれは誇りを持つ。同盟国日本の国民に対し、われわれは心から感謝する。今日、両国海軍が肩を並べてテロとの戦いに従事している。60年前の苦々しい過去は消え去り、太平洋上で両国の戦争は今や歴史の一齣となった」と演説したが、真珠湾を「歴史の一齣」とさせたのが給油部隊のインド洋への派遣であった。しかし、「同盟国との協力」であり、「国際社会の協力」にも連なるインド洋での給油活動を、国連決議がないとか米国の戦争に巻き込まれるなどと、民主党の反対により4ヶ月間も中断されてしまった。46年前の「いそなみ」航海長の時に日本海の日米共同訓練で、空母ボンホーム・リチャードの直衛配備中に、隣の米駆逐艦が空母に接近しようとするソ連駆逐艦の針路を妨害して排除中に接触事故が起きると、「直ちに訓練を中止し帰投せよ」との指示を受け、護衛を中断して去ったため直衛艦は半分になってしまった。訓練終了後、佐世保で開かれた事後研究会で米軍司令官から「わが駆逐艦の高いスキルで半数の直衛艦で、日本の海の『日本海』を守ることができた」と皮肉を言われ身の置き場もなかったが、インド洋派遣部隊の指揮官や隊員は離脱の挨拶先で、どれだけ肩身の狭い思いをしたことであろうか。

脅威の多様化とシーレーンの防衛
冷戦体制が崩壊し大規模な戦争がなくなったが、テロ、海賊などの国家以外の組織による脅威が浮上し、09年3月には「さざなみ」「さみだれ」がソマリア沖の船舶護衛に派遣された。ソマリア沖の船舶護衛やインド洋の給油活動は、国家に帰属しないテロリストや海賊という新たな脅威との戦いであり、これらの活動は日本のシーレーンの防衛だけでなく、西欧的価値観を共有している英仏独などの有志連合の一員であることを示す証しであり、日米安保体制の信頼性を誇示し日本を侵略しようとする国への抑止にも連なる活動であった。しかし、経済のボーダレス化が進み、便宜国籍船舶が増加し自国船の積取比率が大幅に低下した現代では、マハン大佐の重商主義的なシーレーン防衛は、世界共通の海賊の取締活動にソ連や中国海軍も参加し、世界の繁栄と平和を守るという普通の国の国際的な義務に変わった。一方、お膝元の日本周辺海域では1999年3月には不審船事案が発生し、初めて「海上に於ける警備行動」が発令され武器を使用し、「周辺事態安全確保法」が成立した。さらに、日本周辺や日本の経済水域への中国海軍の不法な侵害も活発化し、海上自衛隊の任務はシーレーンの防衛だけでなく、上空にはテポドン、水上・水中には領海や経済水域の監視警戒行動など脅威も任務も多様化し増加し、07年にはDDG「あたご」型が、09年には1万3500トンのDDH「ひりゅう」型へと八八艦隊は第二世代、第三世代へと進化した。 
 
 一方、潜水艦部隊も71年には涙滴型「うずしお」型潜水艦が就役し、曳航アレイ・ソナー(TASS)やSSMハプーンなどが装備された。90年に就役した「はるしお」型からは赤外線探知装置や曳航式VLFブイ・アンテナなどが装備され、さらに98年に就役した「おやしお」型には側面アレイ・ソナーや新しい戦術指揮装置などが装備され、対潜戦に潜水艦は不可欠な兵力となった。09年3月には長時間の潜航が可能な非大気依存推進機関(AIP機関)を搭載した「そうりゅう」も戦列に加わった。しかし、2005年には「平成17年以降に係わる防衛計画の大綱(新防衛大綱)」が採択され、「格段と厳しさを増す財政事情を勘案し…」、「自らが力の空白となって、わが国周辺地域の不安定要因にならないようにする」という半世紀にわたり踏襲されてきた基盤的防衛力構想を捨てた。そして、対機甲戦、対潜戦、対航空侵攻を重視した整備構想を転換し、装備や要員の抜本的な見直し行い縮減すると、「合理化、効率化、コンパクト化」をキャッチフレーズに、近隣諸国が大幅に国防費を増加しているにかかわらず防衛費は7年間連続で削減され続け、「五一防衛大綱」時から護衛艦が13隻、航空機が50機削減され、さらに国家公務員の一律年間5パーセントの削減も適用され、海上自衛隊は少ない艦艇と定員にも欠ける乗員で、インド洋からソマリア沖のシーレーン防衛、さらには日本海の実オペレーションと、兵力的にも隊員の疲労の面からも限界に達しているが、政府や国民は何時までこの現状を放置しておくのであろうか。

  一方、05年10月には「日米同盟―未来のための変革と再編」が、翌年5月には「再編実施のための日米ロードマップ」が合意された。しかし、沖縄の基地移転は地元の反対で一向に進まず、さらに民主党が政権を取れば日米安保条約の見直しを行うとし、「テロ対策特別措置法」が失効する来年1月にはインド洋から撤退するとしているが、過去60年間にわたり日本の安全の基盤として機能してきた日米安保体制を形骸化し、さらに国連が決議し世界が国際的な義務として行っているシーレーン防衛からも身を引いて、どのように日本の安全を守るのであろうか。どのように厳しい国際社会で生存しようとしているのであろうか。