海軍戦略家・大海軍主義者・帝国主義者
マハン(Alfred /thayer Mahan)

1 主要経歴と著書

 マハンは1840年9月27日に、 アメリカ陸軍士官学校土木工学の教授デニス・ハート・マハンを父としてハドソン湖畔のウエスト・ポイント市に生まれた。 1854年にコロンビア大学に入学したが、 父の反対に抗して2年で中退し海軍兵学校に入学、 3年後の1859年には2番の成績で卒業した。 兵学校卒業の2年後に南北戦争が勃発し、マハンは戦争中は主として南軍沿岸の哨戒任務に従事したが、 この間に一時海軍兵学校の運用術教官に配置された。  
 その後、 1863年にはコルベット艦セミノルに乗艦しメキシコ湾封鎖作戦に従事し、1867年から1869年にかけ、 極東派遣のスループ艦イロクォイ号副長として日本に来航した。 1869年にアジア艦隊の砲艦アルストーク艦長、 1870年にニューヨーク海軍工廠、 続いて外輪艦ワスプ艦長、 蒸気スループ艦ワチェスト艦長などを歴任した後の1885年に大佐に昇任した。 その後は海軍大学校教授、 1886年から1889年、 1892年から1893年と同校校長、 続いてヨーロッパ派遣艦隊旗艦シカゴ艦長などを歴任し、 1895年から1896年まで再び海軍大学校特別勤務となったが、 1896年11月7日に退役した。

 この間、 マハンは『海軍史』5巻、『ボーアー戦争史』2巻、『伝記研究』3巻、自伝1巻など20冊に及ぶ著作を刊行した。 しかし、 マハンを海軍戦略家として有名にしたのは1890年に発行された『海上権力史論』と、 1892年に発行された『仏国革命時代海上権力史論』であった。 マハンはこれらの著書によりハーバード大学、 エール大学、 コロンビア大学、 マックギル大学、 ダートマス大学、 オックスホード大学などから名誉学位を得たほか、 1902年にはアメリカ歴史学会会長に選出された。 また、 1898年にスペイン戦争が始まると

 海軍戦争評議委員に指名され、 さらに1899年には第1回ハーグ平和会議アメリカ代表となった。

その後もマハンの名声から各種の海軍関係の委員に選出されたが、 第1次世界大戦が始まった3カ月半後の1914年12月1日、 心臓疾患のためワシントンの海軍病院でこの世を去った。マハンの歴史家としての名声は、 主として『海上権力史論』であったが、 マハンの説く戦略の第1は「シー・パワー」と呼ばれる海軍力の優勢によって達成される海洋の支配権と、 「シー・パワー」は国家に「富と偉大さ」をもたらすという主張であった。 また、 その戦術論は大艦巨砲に代表される戦艦重視の思想で、 このマハンの影響がアメリカ、 ドイツ、 日本を建艦競争に走らせ、 第1次世界大戦や第2次世界大戦の遠因を作ったという極端な学者さえもいる。 マハンの余り指摘されない大きな特徴は植民地領有の根拠としてキリスト教をあげ、 フィリピンの併合についても「神の摂理がそこに働いていたからである」と、 帝国主義的植民地の獲得を神の意志として肯定していることである。

2 マハンと太平洋

 マハンの太平洋への関心はパナマ運河によって生じたもので、 それ以前のマハンの関心はカリブ海に留まっていた。 マハンは明治26年(1893年)に『アトランチック・マンスリー』誌上に「アメリカ中米地峽とシーパワー」と題する論説を書き、 パナマ運河の開通により大西洋岸が東アジア市場に対し、 距離的にはヨーロッパと平等の条件で競争することになった。 アメリカが競争国の干渉を排除し貿易の優位を確保するためには海軍力の増強が必要であると強く論じた。

 また、 1893年3月にアメリカ居留民がリリオカラニ女王を退位させ、 ハワイに共和制政府を設立し、 日本が巡洋艦浪速を邦人保護のために送ると、 マハンは『ニューヨーク・タイムズ』に東洋の「野蛮な侵入者の波が襲って来る」日に備え、 サンドウィツチ諸島の合併と海軍力の大拡張を提唱する投書を送り、 さらに『フォーラム』3月号に「ハワイと我がシーパワーの将来」との論説をまとめ、 ハワイが主要な貿易ルートを遮る重要な地位にあるので、 ハワイを太平洋の要として、 また、 パナマ運河防衛の根拠地とし即時合併すべきであると論じた。

 そして、 ルーズベルト海軍次官の要請に応じ、ロッジ議員とともに「問題は、 われわれの無気力の故に、 最も重要なハワイ諸島の将来を日本の支配に委ねるかどうかということです。 アメリカはまず同島をぶんどったうえで(それにともなう政治)問題を解決すべきである」、 とハワイ合併のロビー活動を行った。さらにハワが併合されると、 『ハーパー・マガジン』誌に「20世紀への展望」「海軍軍備充実論」などを発表し、 アメリカ西岸から艦艇の航続距離以内に、 いかなる国が給炭所を所有してもアメリカにとり潜在的に危険であるとの注意を喚起し、 「アメリカはいかんなる国にも給炭地を取得させないという不退転の決意を今後の国策とすべきである」と警告した。 そして、 日本の発展により東洋と西洋の両文明が急速に接近し、 両国が衝突に向かっている。 アメリカは西欧文明の守護者として海軍力を増強して「黄禍」に対峙しなければならないと説いた。

3 マハンの対日観

 マハンと日本との最初の出会いは、 マハンがスループ艦イロクォイ号副長として長崎、神戸、大阪、 横浜、 函館などを訪れた少佐の時であったが、 マハンのその時の日本に対する感情は友人や妻などに送った手紙によれば、 「私は日本が好きになるであろう。 日本のあらゆる面に、このうえなく愛想のよい国民性が現れている」と記し、 日本人の「人なつっこしさ」「礼儀正しさ」などに好感を寄せていた。 また、 マハンは東学党の乱を契機としてロシアが満州に進出を始めると、 ロシアの南下を阻止するために、 イギリスや日本も含めた海洋国が協同して対処すべきだとし、 日本人は劣等なアジア人の中では別格で、 進取の気性に富み東洋における西欧文明の代表者、 あるいはチャンピオンとして、 アジアの再生と進歩に貢献するであろうと書いた。 そして再版された『アジアの問題』では、 ドイツ・イギリス・日本・アメリカの4海洋国が、 ロシアの南進を阻止するために同盟を結ぶべきであるっとさえ論じた。しかし、 日本海軍がマハンの予想をはるかに越える大勝を日本海海戦でおさめ、 日露戦争後にカリホルニアで土地所有禁止などをめぐって人種問題が再燃すると、 「日本移民の流入を傍観するならば、 10年もたたないうちにロッキー山脈以西の人口の大半が日本人によって占められ、同地域は日本化されてしまうであろう」、 と対日脅威を扇動し大海軍建設の必要を説いた。

 また、 ローズヴェルト大統領がホワイト・フリートを海軍力を誇示するため日本に派遣することに決すると、 1907年には「合衆国艦隊の太平洋巡航の意義」を書き、 「アメリカが強大な海軍を維持している限り、日本は財政的な窮地にあって、 慎重ならざるをえないが、 一端わが艦隊勢力が弱まると日本政府は移民をめぐる国民感情を押えることができなくなるであろ」と再び対日観を反日に変えた。

 また、 1909年に国務長官ジョン・ヘイが中国の門戸解放宣言をすると、 その翌年に『国際状況に対するアメリカの利害関係』を発表し、 その「門戸解放政策」においてハワイ諸島の労働者の大半が日本人で占められていることを指摘し、 「アメリカの三大海岸 ー 大西洋、 メキシコ湾、 太平洋ー のうち太平洋が最も危険にさらされている。 太平洋に面した大海軍国は日米しかなく、 日米が直接対立する可能性が一段と高まった」と日本を標的とした海軍力増強の必要性を訴えた。 さらに日本が第1次大戦に参戦し1914年10月に南洋群島を占領すると、 グアム、フィリピンや中国への海上交通路が遮断されるので、 日本の南洋群島領有を阻止すべきであるとの私信を時の海軍長官ルーズベルトに送った。 このようにマハンは対日感を二転三転させたが、 それは人種問題や東西文明の対立などによる日米戦争の幻想という当時の時代風潮の影響もあった。 しかし、 マハンの対日感を変転させた根底には、 常に大海軍の建設という願望があったように思われる。

参考図書

麻田貞雄訳『アメリカ古典文庫 アルフレッド・T・マハン』(研究社、1980年)
谷光太郎『アルフレッド・セイヤー・マハン』(白桃書房、1990年)
W.D.Puleston, Mahan - The life and work of Captain Alfred Thayer Mahan, U.S.N. (Jonathan Cape Ltd:London, 1989).
北村謙一訳『海上権力史論』(原書房、 1982年)