避戦の提督―山本五十六元帥の開戦前後の書簡

はじめに
 
 真珠湾攻撃50周年に当たり、彼我の国力の相違から「カカル成算少ナル戦ハナスベキニ非ス」と確信していたにもかかわらず、 連合艦隊司令長官として第一撃を真珠湾に加えなければならなかった山本五十六元帥の苦悩に満ちた開戦前後の書簡を特集することとした。現在まで各種の伝記などに、 一部は紹介されているがものもあるが完全なものはない。 そこで本号では海軍省書記官榎本重治が保有していたものを、 法務省がマイクロフィルムに収め防衛研修所戦史室が借用複製した「榎本史料(倫敦海軍条約締結経緯) 『五峯録』軍備軍縮109)」、 海上自衛隊幹部学校が榎本氏ご遺族から寄贈を受けた「榎本資料 山本元帥手紙4通(94-C-1-045)」および反町栄『人間 山本五十六』(和光堂、 昭和32年)、 同『人間・山本五十六 元帥の生涯』(光和堂、 昭和53年)などから紹介することとする。 これらの手紙を一読しいかに山本元帥が日米避戦を願っていたか。

 特に、 昭和16年1月23日の人事異動に対する返信では「三国同盟締結以前と違ひ今日に於ては参戦の危険を確実に防止するには余程の決心を要す」。 「部長交代位にて又次官更送位では不徹底と思考す」。 戦争を避けるためには現役を去った米内光政大将を軍令部総長とすべきであるが、 そのためには米内大将を一度は連合艦隊司令長官に補職する必要がある。 もしこの人事が採用されるならば、 自分は第1艦隊司令長官として米内大将を補佐するも、 あるいは「退陣するも何等異存なき真情なり」との書簡を海軍大臣に送った山本元帥が、 日米開戦の第一撃を加えなければならなかった。 それが軍人の宿命とはいえ山本元帥の心中はどのようなものであったであろうか。

1 開戦か避戦かー人事異動に関する書簡

 昭和16年1月23日、 徳島県小松島に停泊中の古賀峯一第2艦隊司令長官に出した人事に関する書簡は山本元帥の太平洋戦争に対する考えが極めて明確に述べられている。 行き違ったため同一内容の手紙を23日と同日夕刻に投じたが、 この2通の手紙から山本元帥がいかに戦争を回避しようとしていたか。 自己の進退問題にも触れる極めて貴重な書簡である。 阿川弘之『山本五十六』(新潮社、 昭和44年)に23日の書簡の一部が掲載されているが23日夕刻に投函した書簡は今回初めて公表されるものである。 以下は海上自衛隊幹部学校所蔵の「榎本資料」と「五峯録」から収録した。 なお、 原文では伏見宮殿下を「ヽ 下」と伏せ字にしているが本文では殿下とした。 また、 句読点を適宜付加した。

(1)古賀司令長官宛(昭和16年1月23日)(五峯録・榎本資料)
      昭和16年1月23日 山本五十六
  古賀大兄
 1月17日付貴簡昨日受領 先日は取急ぎ居り文意を尽さりし点もあるへく御返事旁更に申上候。
 実は中原の要件は参謀長及3F・4F長官の話ならむと考えし処、 2Fの件を持出されし為、 中原にあんな伝 言は云ひ度なかりしも事急なりと思考し敢てせし次第に候。尚ほ大臣へは書面にて強調進言のつもりに候。
  今回中原が2F長官の話を持参せしは、 小生か及川氏と話合ひをせし次第にては無之も、 小生が結局種 を蒔きし点あり、 私見としては今以て誤なしと信するも極めて微妙の点あり、 将来の御参考に従来の小生 の及川氏に話せし事(雑談的)等をやゝ詳細に可申述。
  1、昨年8月か9月三国同盟予示の後離京帰艦の際、 非常に不安を感じ及川氏に将来の見通如と問いたるに、或は独の為火中の栗を拾うの危険なしとせざるも、米国はなかなか起つ間敷く大抵大丈夫と思ふとの事なりき。 殿下もこわがって亦かつて「此くなる上はやる処までやるもやむを得まし」との意味の事を申されし様記憶し、之ではとても危険なりと感じ 此上は1日も早く米内氏を起用の外なしと感じ、夫れには先以て艦隊長官に起用の順序を捷経と考へ、其時及川氏に敢而進言せし次第他。 及川氏も其後の小生や貴兄等の考 えをきき、 追々危険を感じ来れるにあらずやと思はるる点あり。 小生又次官室にて昨11月初頭頃(11月末か)丁度今次泰仏印問題と同し事を石川か次官に進言し居るをきき、 直に大臣にあれてよいのかと注意せしに、どうも次官は策動が過ぎるから早目にかへた方がよからんと思うが(豪州公使はどうかねとの事他き)同時に軍令部も、 もっとしっかりするの要あり、 強化策として1部長に福留を呉れぬかとの事なりき。

  依て小生より
  三国同盟締結以前と違ひ今日に於ては参戦の危険を確実に防止するには余程の決心を要す。1の部長交代位て又次官更送位ては不徹底と思考す。 先づ軍令部に於ては米内氏を総長とするか、 又は次長に吉田或は古賀を据え(何れも無理の人事なるも)、 福留をして補佐せしむる事とし、 次官として井上とし、上下呼応する程度の強化にあらざれば効果なかるべし。依てかかる難事を敢行して既倒を支えむとの大転換ならば、艦隊として は忍び難きをも犠牲として、 人事の移動を敢て反対せざるべしと話せし事あり。 之に対し及川氏は可とも不可とも言ふ処なかりき(今回の伝言は要するに之を繰り返したる次第他)。

2 右とは全然関係なく昨年11月末及川氏より急ぐ事ではないが、GF長官の後任は誰がよきか意見聞き度  との事なりしに依り、之には種々の関係あり十分考慮して答ふべしと即答をさけ、 昨年12月25日頃以書面にて左記要旨を返事せり。
  既に意見を開陳せる通又殿下は御同意なかりしも、自分は4月の編成換の際、米内大将起用を矢張第1案と信す。 かくし置けば16年中又は17年には殿下も米内にと言はれはせぬか。 米内氏起用の事なしとして考慮すれば、 常識上、嶋田両豊田古賀の4氏を一応数ふべく、併し其内豊田は先づ除外して可なりと思考す。

  次は順序として古賀を考慮するを当然と思考す。 唯茲に一事あり夫れは従来艦隊長官は3年の人は多々あるも(1、2艦隊を通し)夫れ以上はなしと記録す。古賀をGF長官として1年にてかえる事は恐らく不可能にして、且不利他依て、 古賀をGFとする予定ならは其工作の要なきや、 即ち半年位休養の事を考慮の要あらん。

   第3に島田は小生同級にして方面艦隊もやり居る事なれは、 盥廻し等の批判も顧慮し推薦と迄は言ひ兼ぬるも、 古賀にあらされは島田という事になるべし。之も支那から引き続きGFは如何のものか途中休養の要あるへし。
   要するに、 急遽米内大将起用を第1案とし、其実現困難の場合、即ち小生の後任の意味にては古賀嶋田両氏の外なし。

   尚一方当分殿下更送の事なければ、 古賀氏次長は乍御苦労最適と信ずる次第他。 小生自身について率直に言へば、既に米内氏を極力推薦し居る次第なれば、 1Fに残るも退陣するも何等異存なき真情なり。 併し又同時に重任なればとて怖れて之を回避するにもあらず。 仮令は古賀氏1年陸上の後GFに転出の如き場合、 要すれば3年継続も亦敢而辞次第にてはなし。 而して国際関係及国内事情より場合に依りては参戦もやむなしとの大勢ならば、 2F長官及GF参謀長 共変更は困る。

3 今回中原の話によれば支那も2Fもということなるか。 GFを如何にするのかは中原は大臣の意嚮を承知し居らさりき。以上にて従来の関係を略々尽したるつもりに候。及川氏が小生の言の一部のみをとり今次の如き案を考えたりとすれば、 貴兄を最難局に追込みし大半の責任か小生にあるわけ他、 其点は誠に御気の毒なから吉田挫折の後、上層部に誰を求むへきか米内、 古賀、 井上等の躋起なくしてはとてもむつかしかるべし。夫れても参戦というときは真に已むを得さる場合とあきらめ敢然起つの外なかるべく候。 其場合ても1  日も遅くし1日ても永く戦備促進 に驀進せざるへからすと存居候。
  右の如く及川氏は2F長官GF参謀長を変へるには重大なる条件ある事は万々承知の筈なるも重ねて書面にて進言可致候 敬具
     表 徳島県小松島気付 軍艦 高雄  古賀峯一閣下 
   私親展
    裏 軍艦 長門 山本五十六

注1:この手紙の欄外に「同盟事件予示の直前(アノ朝)大臣次官同席の上、 同盟の話あり。 軍参は先任永野(間に大角)より賛成なる筈に付、 艦隊としても同意を言って貰い度との事なりしも、 小生は返事せす席上あの通の事を言ひし次第他」との記入かある。 なお、 記注中の「あの通りの事」とは「自分が次官を勤めておった時は政府の物動計画は、 その8割まで英米圏内の資料でまかなうことになっておりました。 然るに三国同盟の成立した今日では、 英米よりの資材は必然的に入らぬ筈でありますが、 その不足を補うためとういう計画変更をやられたか。 この点を聞かせて戴き連合艦隊長官として任務を遂行して行きたいと存じます」と発言したことを指している。

注2:文中のGFは連合艦隊、 1Fは第1艦隊、2Fは第2艦隊の略であり、 両豊田とは兵学校33期の豊田貞次郎(昭和16年4月大将)と豊田福武(昭和16年9月大将)を指している。

(2)古賀司令長官宛(昭和16年1月23日夕刻)(五峯録・榎本資料)

  1月17日の貴翰昨22日拝受、 直に此紙15枚の返事を書きしも、 小松 島へ届くか間にあわぬかわからす、 依て高知沖にて御送付する事と可致候。及川氏へは書面尚確実に要求可致候。 余は拝眉の上。
       草々不具     
  1月23日               山本五十六
  古賀大兄
         乱筆取急き
  人事局長より種々話ありしか重要なる先方よりの申入れ左の通(大臣の意嚮として)
  1、 4月上旬
    連合艦隊参謀長伊藤アト宇垣アト福留
  2、 略同時機
    次長古賀アト近藤に対し御同意を得度
  3、 5月頃迄に
    コソロ方面艦隊アト清水アト井上横須賀嶋田
    右に対し小生質問
  1、 以上の案は総長殿下と御相談の上のことか大臣独自の考えか
  2、 大臣は参戦すへからすとの確乎たる意見を持ち之を実現する為省部をか ためる意嚮なるや。 或は現陣容にては何となく物足らぬからとの漫然たる意向に依るものなりや、 之点局長に何か言伝ありや如何。
   局長答
  1、 総長殿下には未たなりと思ふ
  2、 国際情勢に就ては種々御心配の様なるも如何なる程度迄堅き御決心なる や別に伝言等はなかりき依て小生より大臣へ伝言
    対米関係か今日の如くなりたるは、昨年秋より分りきつたる事なり。 併し其後真剣なる軍備計画並に之か実行上物動方面と照し合せ此際海軍はふみ止まるを要す。 其為に省部に信頼するに足る幕僚を要すとの見地よりの御注文ならは、 大臣の御意嚮は充分尊重すへきものと信し居れり。併し大勢は早やToo Lateにして、 結局行く処まで行く公算大なりと言ふ如き事なれは、 連合艦隊長官としては最信頼する長官参謀長等は現在の侭にて極力実力の向上を図り、 一戦の覚悟をかためさるへからす。 今此両長官を交替する事はあとの人々の力量等は別として、 自分の精神上にも動揺なき能はす。 又艦隊将兵の上にも好ましからさる影響は免れ難きにより現状の侭を望む。 此点大臣に呉々も伝言を願ふ。
  余談として総長殿下御代りの話はなし、 もし其節には今の処米内大将復活のつもり他との事。
         表 佐世保気付 軍艦高雄
            古賀峯一閣下 私親展
         裏 軍艦長門 山本五十六

(3)掘梯吉宛(昭和16年2月6日)(五峯録)

1、 増資の件本外に名案なきも結局場合により住友安田に若干増等の最後工作ともなるものにあらさるか。
2、 千姫物語小生手元に大切に保管中、 4月持参の予定なるか急くならは郵送可然。
3、(1月中旬のはなしと行外に記入あり)4月横須賀入港後古賀と近藤、 福留と宇垣(福留1部長、 アト伊藤整一アト宇垣)島田と豊田(島田横須賀アト豊田貞アト清水)交代の内相談及川よりあり(行外に「宇垣の参謀長は当方同意せす」との記入あり)。 右は昨年11月末軍令部強化の為宇垣の代に福留を呉れぬかとの内談の際、 福留1人にては強化(今の中央は不安ならすやと当方より注意した際の及川の話)は困難なるべし米内総長とすか次長に(之は殿下には言はぬ自分の腹のみ)。米内氏を総長に据える目的にて12月出港前に総長大臣に4月戦時編制の際、米内をGF長官に起用を進言、 及川同意、 殿下は米内復活将来自分のあとは同意、 GFはお前やれとの事。古賀次官に井上位を持って行かされは六かしからむと答へおきたに対する対策らし。其後対仏印泰等不安は一層なるが之からではToo Lateの感もあり、 古賀を苦しめるだけの結果となり中央にごたごたを起させ、 結局大勢に押し流されるにあらすやとも思はる。 ことに近藤の2Fにては信頼出来ぬ感もあり、 依而使のものには此際如何にしても米とはやらぬといふ事にて中央を改善するなら同意するが、 左もなくは、 このまま戦備促進実力向上一点張りにてあとは運命にまかすという事となるへく 夫れならは現陣容を動かすことは同意し難しと返事しおけり。 中央のも様心得へきことあらは至急一報を乞う。
    2月6日  五十六
  掘兄
  古賀には内々此内談ありしと話しあり閉口の模様なり

2 南部仏印進駐問題
(1)古賀峯一第2艦隊司令官宛(昭和16年2月14日)(五峯録)(榎本資料)
  古賀 2艦隊長官閣下
  拝復
   例の人事問題に関しては其後何の音沙汰も無之候処、 本月4日軍令部参謀1名来隊、 1月23日大本  営政府連絡会議決定の対仏印泰国施策要綱なるものを持参せるが、 其内に両国調訂の外仏印に対し  ては南部仏印進駐の1項あり。 若し彼にして聴かさる場合には武力行使を行はむとする件を規定せるも  のにして、 甚た憂慮に不堪。 かくては例の人事問題等は論外と被存候に付明15日参謀長をして別紙書  簡携行上京せしむる筈に付御含置被下度。 尚前記施策要綱は方面艦隊と連合艦隊長官のみに伝達の  旨参謀は申居候為念。
    敬具

(2)古賀峯一第2艦隊司令長官宛(昭和16年2月16日)(五峯録・榎本資料)

前略
兄以而大角大将
 特に時局重大の際一層哀悼の意切なるもの有之候。 扨て去月16日中原人事局長を御差遣相成り、 第2艦隊長官及連合艦隊参謀長更送に関する御内意を伝へ、 尚当方の意見を求められ候に対し当方の意嚮としては「彼より仕掛けられては困るにより成敗を度外視しても敢然戦はさるへからさることあり。 或は戦争必至の情勢を看破せは、 我より進んて機先を制して立ち上らさるへからさることあるへきは勿論なから、 刻下の問題としては飽迄諸施策の根本基調を支那事変処理と大戦争回避に置かれ、 情勢に大なる変化なくして経過し艦隊前期訓練終了時に於ても時局の急変を予想せらるるか如きことなき場合に於ては、 御内意通りの人事異動に異存無之。 若し然らすして危機切迫せりとの判断強き場合に在りては艦隊内部の人的関係上現在の陣容に変更なからむことを切望する旨」人事局長を介し具陳し置きたる次第に候処。

 其の後本月4日に至り1月30日大本営政府連絡会議決定の対仏印泰国施策要綱を送達せられ、 之を閲覧するに及んで中原人事局長御差遣当時とは御決意の程も余程進みしに非すやと推察致候。 固より艦隊側として 中央御決定の方策に兎角の批判を為すへき筋合に無之は言を俟たさる所にして、 単に与えられたる資料に依り与えられたる方策に立脚し艦隊自身の判断を割出し、 戦備に訓練に万全を期すへき当然の責務とする見地に於て、 連合艦隊長官としての判断は、 該施策要綱通りの目的貫徹は恐く両国共直接脅威たる我か武力の前に我方要望を容認するの算多しとは想像致候も、 同時に背後勢力たる英米の力を恃み、 或は又其の策動に乗せられ其の好まさる条件に対し拒否の態度に出つることも絶無とは云ひ難く、 就中最も重点を成すと認 めらる軍事的要求に至りては、 恐らく何人と雖も英米に対する我方軍事的地歩の進出獲得と観るは疑を容れさる所と存候へは、 我が要求の貫徹が武力行使に依ると否とに関せす、 陰に陽に英米との角逐に外ならす。

 究極する所は英米との開戦に迄発展すへき最悪の事態生起の可能性は、 既に該施策要綱決定に当り当局に於ては予期せられてのことにして、 窃に之を辞せさるの決意を蔵せられてのことと推定致し居る次第にて、 米の態度か最早単なる恫喝と見得さる点並に英の海峡植民地方面の軍事的動向の真剣なる点等より見るも、 若し仏印に対する我方要求か拒否せられ武力行使に出てさるへからさるか如き場合にありては、 之か端緒となりて事態は意外に早く急転直下の勢を示すに至る場合なしとせさることをも当然考慮せらるへきものと認め居候。

 叙上の如き判断に到達せる以上、 艦隊としては戦備等に対しても一層真剣に研究調査の上、 其の都度具申のことと致度。 差当りの重要問題としては前陳艦隊人事の件に有之。 予て希望申入置候通り此の陣容に変更なからむことを切望す次第に御座候。本件重要問題なるのみならず、 他にも中央方面の御意嚮等例示しのこともあるへきかと存し、 参謀長をして本書面持参せしめたる次第に付本件に対する御内意同人に御託し下され度。 尚艦隊側情勢判断の細部等要すれは同人より御聴取相成度候。
    敬具
  表 佐世保郵便局気付 軍艦高雄
   古賀峯一閣下
  私親展
  裏 軍艦 長門
  山本五十六
  (古賀長官の鉛筆記入「2月14日(有明湾より発、 2月19日佐世保出港前受」)

(3)古賀峯一第2艦隊司令長官宛(昭和16年2月16日夜)(五峯録・榎本資料)

古賀中将閣下
先便申上候件は本日参謀長帰着の話によれば大臣の話として
南方問題にて兵力使用のことは海軍は予期せす、 陸軍も之頃調査の結果新嘉坡作戦も10個師団位を要する事分り、 今日にては少くも局長部長以上は対南(方)問題の為派兵は為さすと決心し居るに付、 差当り其の懸念はなしと認むとの事にて、 結局4月福留伊藤宇垣の移動は予定通り行ふ事に了解して呉れとの伝言なりし由。 尚次長の交替は時局変化なけれは9月頃近藤と入換のことに予定しあり。
 殿下、 次長、 1部長等にもわたりをつけありとの事なりし由、艦隊としては甚だ不安なるも已むを得さる儀と観念致居候。
右不取敢御一報申上候 敬具

  表 佐世保気付 軍艦高雄
  古賀峯一閣下 私親展
  裏 軍艦 長門 山本五十六

(4)昭和15年12月1日、 嶋田大将宛(前掲『人間・山本五十六の生涯』)

 「日独伊同盟前後の事情其後の物動計画の実情を見るに、 現政府のやり方はすべて前後不順なり。 今更米国の経済圧迫に驚き憤慨困難するなどは小学生が刹那主義にてうかうかと行動するにも似たり。 而して海軍中央部課長以下位の処にては此時流に乗り、 今が南方作戦の仕時なりと豪語する輩もありと聴きしに依り、 特に南方作戦の図上演習を軍令部に強要せしも渋り居るに付き、 小官統裁にて軍令部大学等を動員し実施せり。 其目的は物動方面に亘る不足の程度を如実に示現し、 中央及艦隊幹部に真の認識を与えんとする事に ありたる次第に候。 此2目的には相当有効なりし如く見受られ候。

 過日ある人の仲介にて近衛公が是非会い度との由なりしも再三辞退せしが、 余りしつこき故大臣の諒解を得て2時間計り面会せしが随分人を馬鹿にしたる如き口吻にて、 現海軍の大臣と次官とに対し不平を言はれたり。 是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず。 要するに近衛公や松岡外相等に信頼して、 海軍が足を地からはなす事は危険千万にて、 誠に陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感深く致候御参考迄。

(5)昭和16年2月17日 榎本重治宛(五峯録)
貴翰有難拝見同盟加入に対する貴見同感に御座候。 唯あんな同盟を作って有頂天になった連中が、 いざと云う時自主的に何処迄頑張り得るものか問題と存じ候。 当方重要人事異動に匂いあり唯中央改善と艦隊強化の得失に迷いあり候。 小生4月下旬には東京の土を踏めるものと存じ居り候。
余寒御自愛祈上候。

3 開戦およびハワイ攻撃

 南部印進駐が取りやめられたため参謀長などの交代させたが、 歴史はさらに急激に変化して行った。 3月には「信頼して海軍が足を地からはなす事は危険千万」な人物と山本元帥に酷評されていた(昭和15年12月1日 嶋田海相宛書簡)外務大臣松岡洋介の訪独があり、 6月5日には海軍大臣に「あれで良いのか」と注意した石川信吾大佐を中心とした海軍第1委員会から「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ採ルヘキ態度」という「魔性の文書」が提出された。

 7月25日には南部仏印に進駐し、 26日にはアメリカから在米資産の凍結、 8月1日には対日石油全面輸出禁止が通告された。 追い詰められた海軍は9月11日から17日まで海軍大学校で第1段作戦の図上演習を行ったが、 演習終了後の9月26日、 山本元帥は再度「一大将ヲシテ言ハシメレバ、 日米戦ハ長期戦トナルコト明ナリ。 日本ガ有利ナ戦ヲ続ケ居ル限リ米ハ戦争ヲ止メザルベキヲ以テ、 戦争数年ニ亙リ、 資材ハ消耗シ艦船兵器ハ傷キ補充ニハ大困難ヲ来シ、 遂ニア拮抗シ得ザルニ至ルベキノミナラズ、 戦争ノ結果トシテ国民生活ハ非常ノ窮屈ヲ来シ、 .......カカル成算少ナル戦ハナスベキニ非ス。 1艦隊、 2艦隊、 3艦、 4艦隊各司令長官略同意見ナリ」と避戦を進言した。 しかし、 この進言で踏み留まれるような情勢ではなかった。 1月16日には近衛内閣が総辞職し東条内閣が誕生した。

 海軍は呉鎮守府長官の豊田副武を海軍大臣に推薦した。 しかし、 東条総理に「豊田は困る。 協調精神がない。 豊田に固執されるなら自分も総理を固辞するほかない」と拒否され、 「嶋繁はおめでたいからね」と同期の山本元帥に評された嶋田繁太郎が大臣になった。 東条首相は天皇の命令で再度、 開戦の可否の検討を行ったが日本の進路に変更は生まれなかった。 ことここに至り、 10月24日に山本元帥は嶋田海相に対し「艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦にては見込み立たず。

 結局桶狭間とひよどり越と川中島合戦とを合わせ行うの已むを得ざる羽目に追い込まれる次第」であると真珠湾攻撃の決意を述べ、 同意を求める手紙を送った。 しかし、 「大局より考慮すれば日米衝突は避けられるものなれ此を避け、 此の際隠忍自戒臥薪甞胆」すべきである。 そのためには「申すもはばかる恐れきことながらただ残されたるは尊き聖断の一途のみ」しかないとの避戦を訴えた。

(1)嶋田海軍大臣宛(昭和16年10月24日)(『人間 山本五十六 下)』
 
 さて此度は容易ならさる政変の跡を引き受られ御辛苦の程深察にたへす。 専心艦隊に従事し得る小生こそ勿体なき次第と感謝致居候。
 然る所昨年来屡図上演習並に兵棋演習等を演練せるは、 要するに南方作戦が如何に順当に行きても無理にも、 完了せる時機には甲巡以下小艦艇には相当の損害を見、 特に航空機に至りては毎日3分の2を消耗し(あとの3分の1も完全のものは殆ど残らざる実況を呈すべし)。 所謂海軍兵力が伸び切る有様と相成る処多分にあり、 而かも航空兵力の補充能力ははなはだしく貧弱なる現状に於ては、 続いて来るべき海上本作戦に即応すること至難なりと認めさるを得さるを以て、 種々考慮研究の上、 結局開戦劈頭有力なる航空力を以て敵本 営に斬り込み、 彼をして物心共に当分起ち難き迄の痛撃を加ふるの外なしと考ふるに立至候次第に御座候。

 米将キンメルの性格及最近の米海軍の思想の観察より、 彼必ずしも漸進正攻法のみに依るとは思われず。 而して我南方作戦中の皇国本土の防衛力を顧慮すれば真に寒心に不堪もの有之。 幸に南方作戦比較的有利に発展しつつありとも、 万一敵機東京、大阪を急襲し一朝にして此両都府を焼きつくせるが如き場合は、 勿論さ程の損害なしとするも、 国論は果して海軍に対して何と云ふ可きか。 日露戦争を回想すれば想半ばに過ぐるものありと存じ候。

 聞く所によれば軍令部1部等に於ては、 此劈頭の航空作戦の如きは結局1支隊作戦に過ぎず、 且成否半々の大賭博にして之に航空全力を傾注するが如きは以ての外なりとの意見を有する由なるも、 抑も此中国作戦4年、 疲弊の余を受けて米英華同時作戦に加ふるに対蘇をも考慮に入れ、 欧独作戦の幾倍の地域に亘り持久作戦を以て自主自衛10数年の久しきにも堪へむとする所に非常の無理ある次第にて、 此をも押切り敢行、 否大勢に押されて立上らざるを得ずとすれば、 艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦にては見込み立たず。 結局桶狭間とひよどり越と川中島合戦とを合せ行ふの已むを得ざる羽目に追込まれる次第に御座候。 此辺の事は当隊先任参謀の上京説明により一応同意得たる次第なるも、 一部には主将たる小生の性格並に力量などにも相当不安をいだき居る人々も有るらしく、 此国家の超非常時には個人の事など考ふる余地も無之。 且つ元々小生自身も大艦隊長官として適任とも自任せず、 従って焉(ちゅつく)に(昨15年11月末)総長殿下並に及川前大臣には米内大将起用を進言せし所以に有之候へば、 右事情等十分に御考慮ありて大局的見地 より御処理の程願上候

1、 作戦11月には将来連合艦隊と第1艦隊と分ける際には、 自分は第1艦隊長官で良いから米内大将を是非起用ありたし(将来は総長候補としても考慮し其準備も)と進言せり。及川氏は賛成、 殿下は米内復活軍事参議官とし自分の後釜とするは賛成なるも連合艦隊は山本ヤレと云はれ候。

2、 連合艦隊戦策改定の際、 劈頭航空作戦の件を加入せる際の小生の心境は之の作戦は非常に危険困難にて敢行には全滅を期せざる可らず(当時は1個航空戦隊に1個水雷戦隊位で飛び込む事も考へ居れり)。 万一、 航空部隊方面に敢行の意気十分ならざる場合には自ら航空艦隊長官拝受を御願ひし、その直卒戦隊のみにても実施せんと決意せる次第にて御座候。 その際にはやはり、 米内大将を煩はす外無からむと考居りし次第に候。

 以上は結局小生技倆未熟の為、 安全蕩々たる正攻法的順次作戦に自信なき窮余の策に過ぎざるを以て、 他に適当の担当者有らば欣然退却躊躇せざる心 境に御座候。尚大局より考慮すれば日米衝突は避けられるものなれば、 此を避け此の際隠忍自戒臥薪嘗胆すべきは勿論なるも、 それには非常な勇気と力とを要し、 今日の事態にまで追込まれたる日本が果して左様に転機し得べきか、申すも畏き事ながらただ残されたるは尊き聖断の一途のみと恐懼する次第に御座候。

(2)開戦時の述志(昭和16年12月8日)(五峯録)
 12月3日、 山本長官は天皇に拝謁し、 翌4日には海軍首脳との壮行の杯を終えて東京を去った。
 12月8日にはついに日米が衝突した。 この日、 山本元帥はその覚悟を次の通り書いた。
  此度は大詔を奉して堂々の出陣なれは、 生死共に超然たることは難からさるへし。
  たゝ此戦は未曾有の大戦にして、 いろいろ曲折もあるへく、 名を惜み己を潔くせむの私心ありては、 とて  も此大任は成し遂けましとよくよく覚悟せり。  されば
   大君の御楯とたたに思ふ身は
       名をも命も惜しまさらなむ
   昭和16年12月8日    山本五十六 華押

3 開戦およびハワイ攻撃

 南部印進駐が取りやめられたため参謀長などのを交代させたが、 歴史はされに急激に変化して行った。 3月には「信頼して海軍が足を地からはなす事は危険千万」な人物と山本元帥に酷評されていた(昭和15年12月10日 嶋田海相宛書簡)外務大臣松岡洋介の訪独があり、 6月5日には海軍大臣に「あれで良いのか」と注意した石川信吾大佐を中心とした海軍第1委員会から「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ採ルヘキ態度」という「魔性の文書」が提出された。 7月25日には南部仏印に進駐し、 26日にはアメリカから在米資産の凍結、 8月1日には対日石油全面輸出禁止が通告された。 追い詰められた海軍は9月11日から17日まで海軍大学校で第1段作戦の図上演習を行ったが、 演習終了後の9月26日、 山本元帥は再度「一大将ヲシテ言ハシメレバ、 日米戦ハ長期戦トナルコト明ナリ。

 日本ガ有利ナ戦ヲ続ケ居ル限リ米ハ戦争ヲ止メザルベキヲ以テ、 戦争数年ニ亙リ、 資材ハ消耗シ艦船兵器ハ傷キ補充ニハ大困難ヲ来シ、 遂ニア拮抗シ得ザルニ至ルベキノミナラズ、 戦争ノ結果トシテ国民生活ハ非常ノ窮屈ヲ来シ、 .......カカル成算少ナル戦ハナスベキニ非ス。 1艦隊、 2艦隊、 3艦、 4艦隊各司令長官略同意見ナリ」と避戦を進言した。 しかし、 この進言で踏み留まれるような情勢ではなかった。 1月16日には近衛内閣が総辞職し東条内閣が誕生した。 海軍は呉鎮守府長官の豊田副武を海軍大臣に推薦した。 しかし、 東条総理に「豊田は困る。 協調精神がない。 豊田に固執されるなら自分も総理を固辞するほかない」と拒否され、 「嶋繁はおめでたいからね」と同期の山本元帥に評された嶋田繁太郎が大臣になった。 東条首相は天皇の命令で再度、 開戦の可否の検討を行ったが日本の進路に変更は生まれなかった。

 ことここに至り、 10月24日に山本元帥は嶋田海相に対し「艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦にては見込み立たず。 結局桶狭間とひよどり越と川中島合戦とを合わせ行うの已むを得ざる羽目に追い込まれる次第」であると真珠湾攻撃の決意を述べ、 同意を求める手紙を送った。 しかし、 「大局より考慮すれば日米衝突は避けられるものなれ此を避け、 此の際隠忍自戒臥薪甞胆」すべきである。 そのためには「申すもはばかる恐れきことながらただ残されたるは尊き聖断の一途のみ」しかないとの避戦を訴えた。

(1)嶋田海軍大臣宛(昭和16年10月24日)(『人間 山本五十六 下)』
  さて此度は容易ならさる政変の跡を引き受られ御辛苦の程深察にたへす。 専心艦隊に従事し得る小生 こそ勿体なき次第と感謝致居候。
 然る所昨年来屡図上演習並に兵棋演習等を演練せるは、 要するに南方作戦が如何に順当に行きても無 理にも、 完了せる時機には甲巡以下小艦艇には相当の損害を見、 特に航空機に至りては毎日3分の2を 消耗し(あとの3分の1も完全のものは殆ど残らざる実況を呈すべし)。 所謂海軍兵力が伸び切る有様と相  成る処多分にあり、 而かも航空兵力の補充能力ははなはだしく貧弱なる現状に於ては、 続いて来るべき 海上本作戦に即応すること至難なりと認めさるを得さを以て、 種々考慮研究の上、 結局開戦劈頭有力なる 航空力を以て敵本 営に斬り込み、 彼をして物心共に当分起ち難き迄の痛撃を加ふるの外なしと考ふるに 立至候次第に御座候。

 米将キンメルの性格及最近の米海軍の思想の観察より、 彼必ずしも漸進正攻法のみに依るとは思われず。 而して我南方作戦中の皇国本土の防衛力を顧慮すれば真に寒心に不堪もの有之。 幸に南方作戦比較的有利に発展しつつありとも、 万一敵機東京、大阪を急襲し一朝にして此両都府を焼きつくせるが如き場合は、 勿論さ程の損害なしとするも、 国論は果して海軍に対して何と云ふ可きか。 日露戦争を回想すれば想半ばに過ぐるものありと存じ候。

 聞く所によれば軍令部1部等に於ては、 此劈頭の航空作戦の如きは結局1支隊作戦に過ぎず、 且成否半々の大賭博にして之に航空全力を傾注するが如きは以ての外なりとの意見を有する由なるも、 抑も此中国作戦4年、 疲弊の余を受けて米英華同時作戦に加ふるに対蘇をも考慮に入れ、 欧独作戦の幾倍の地域に亘り持久作戦を以て自主自衛10数年の久しきにも堪へむとする所に非常の無理ある次第にて、 此をも押切り敢行、 否大勢に押されて立上らざるを得ずとすれば、 艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦にては見込み立たず。 結局桶狭間とひよどり越と川中島合戦とを合せ行ふの已むを得ざる羽目に追込まれる次第に御座候。 此辺の事は当隊先任参謀の上京説明により一応同意得たる次第なるも、 一部には主将たる小生の性格並に力量などにも相当不安をいだき居る人々も有るらしく、 此国家の超非常時には個人の事など考ふる余地も無之。 且つ元々小生自身も大艦隊長官として適任とも自任せず、 従って(昨15年11月末)総長殿下並に及川前大臣には米内大将起用を進言せし所以に有之候へば、 右事情等十分に御考慮ありて大局的見地 より御処理の程願上候

1、 作戦11月には将来連合艦隊と第1艦隊と分ける際には、 自分は第1艦隊長官で良いから米内大将を是  非起用ありたし(将来は総長候補としても考慮し 其準備も)と進言せり。
  及川氏は賛成、 殿下は米内復活軍事参議官とし自分の後釜とするは賛成なるも連合艦隊は山本ヤレと  云はれ候。

2、 連合艦隊戦策改定の際、 劈頭航空作戦の件を加入せる際の小生の心境は之の作戦は非常に危険、    困難にて敢行には全滅を期せざる可らず(当時は1個航空戦隊に1個水雷戦隊位で飛び込む事も考へ居  れり)。 万一、 航空部隊方面に敢行の意気十分ならざる場合には自ら航空艦隊長官拝受を御願ひし、 そ  の直卒戦隊のみにても実施せんと決意せる次第にて御座候。 その際にはやはり、 米内大将を煩はす外  無からむと考居りし次第に候。
  以上は結局小生技倆未熟の為、 安全蕩々たる正攻法的順次作戦に自信なき窮余の策に過ぎざるを以  て、 他に適当の担当者有らば欣然退却躊躇せざる心境に御座候。
   尚大局より考慮すれば日米衝突は避けられるものなれば、 此を避け此の際隠忍自戒臥薪嘗胆すべき  は勿論なるも、 それには非常な勇気と力とを要し、 今日の事態にまで追込まれたる日本が果して左様に  転機し得べきか、 申すも畏き事ながらただ残されたるは尊き聖断の一途のみと恐懼する次第に御座候。

(2)開戦時の述志(昭和16年12月8日)(五峯録)

 12月3日、 山本長官は天皇に拝謁し、 翌4日には海軍首脳との壮行の杯を終えて東京を去った。 12月8 日にはついに日米が衝突した。 この日、 山本元帥はその覚悟を次の通り書いた。

  此度は大詔を奉して堂々の出陣なれは、 生死共に超然たることは難からさるへし。
 たゝ此戦は未曾有の大戦にして、 いろいろ曲折もあるへく、 名を惜み己を 潔くせむの私心ありては、 とても此大任は成し遂けましとよくよく覚悟せり。  されば

   大君の御楯とたたに思ふ身は
       名をも命も惜しまさらなむ

   昭和16年12月8日    山本五十六 華押


(3)ハワイ攻撃の戦果に対する書簡

 真珠湾攻撃に成功し国内は歓喜に沸いていた。 しかし、 山本元帥は「寝込を襲うこの一撃などに成功したりとて誉めらるる程の事は無い」。「世の中では空騒ぎをして、 がやがやしているようですが」「軍艦を3隻や5隻沈めたとて何もさわぐに当たらない」「勝つ時もあり、 少々やられる時も有ります」との手紙を長岡の先輩と実姉に書いた。 

◎実姉高橋嘉寿子(昭和16年12月18日)(『人間・山本五十六 元帥の生涯』)

 拝啓御手紙ありがとう御座いました。降雪もこれありし年末寒冷の際幾重にも御大事にお願ひ致します。いよいよ戦は始まりましたが、どうせ何10年も続くでしょう。あせつても仕方は有りません。世の中では空騒ぎをして、がやがやしている様ですが、あれでは教育も修業も増産も余りうまくは出来ぬでしょう。重大時局になればなるほど、 皆が持ち場を守ってシーンとしてコツゝやるのが真剣なので、 人が軍艦を3隻や5隻沈めたとて何も、さわぐに当らないと思います。勝つ時もあり少々やられる時も有ります。海軍はこれからだと覚悟して油断なくやるつもりですが戦争の事ですから今の今どうなるかわかりません。然し夫れは問題ではなく、 唯々力一杯自分の仕事に御奉公するだけです。幸に丈夫で勤務して居りますから御安心下さい。此手紙は年内には届くと思いますから御歳暮の印に00円(伏せ字)封入しておきますから御使い下さい。どうぞ呉々も御大切にお願いいたします。    頓首
            12月18日                  五十六
 御姉上様

◎上松蓊宛(昭和16年12月27日)(『人間・山本五十六 元帥の生涯』)
 
 御懸書拝受難有御礼申上候
寝込を襲うこの一撃などに成功したりとて賞めらるる程の事は無いと恐縮に候
唯寝首をかかれ如き米将の不覚は武人の恥辱たるべきは確と存候。英の自滅は無謀による過失にて、 言はば清正公の槍先を餌と間違い飛び付きし、 これも先方の不覚と存候。
小敵を侮らざる事は大敵を懼れざるよりも大切と感申候。
併し米英とて今日迄の大を成せしもの、用心堅固第一と心得小心翼々奉公の覚悟に御座候。
此大戦に所詮小生にも有言の凱旋など思も寄らぬ事と存居候へ共、万一再会の機ありとしても、
アッキアオラ何日だって矢つ張り高野のオジだがに。                     敬具
    昭和16年12月27日           山本五十六
 上松蓊様
  (注「アツキアオラ何日だって高野のオジだがに」は長岡地方の方言で「何をつまらぬことを言っていなさ  る。私は何時になっても高野(生まれた町)のオジ(末っ子)ですよ」)

4 述志(遺書)

 ハワイ奇襲に始まりイギリス戦艦プリンス・オブ・ウエルス、レパルスの撃沈にインド洋作戦と初期作戦は予想を上回る進展をしました。山本元帥は資源地帯の防衛態勢を強化し、 ドイツの勝利まで持久するという大本営の戦争指導に強く反対し、劣勢海軍が守勢を執り受けて立っては優勢なアメリカ海軍に対して勝算はない。 開戦初動に大打撃を与えた後は、 主導権を握って敵の主力を殲滅し、 以後「次々ニタタイテ行カナケレバ 、 如何シテ長期戦ガ出来ヨウカ。 常ニ敵ノ痛イ所ニ向ッテ猛烈ナル攻撃ヲ加ヘネバナラヌ。 然ラザレバ不敗ノ態勢ナドハ持ツコトハ出来ヌ」。 「少クモ英米両主力艦隊ヲ徹底的ニ撃破シテ太平洋、 印度洋ヨリ近東経由独逸ト自由ニ交通シ得ル態勢マデ作戦ハ一歩モ弛メ難シト存居候(昭和17年嶋田海軍大臣宛書簡)」との考えから、 第1段作戦終了後も連続的攻勢作戦を展開し日本から遠く離れたソロモンの消耗戦に引き込まれ、連続作戦を継続しついにガダルカナルの消耗戦に引き込まれ、 自身もソロモン方面の前線を激励するため訪れたブーゲンビル島のブイン上空で、 暗号を解読して待ち受けていたP-38戦闘機に撃墜され、この世を去った。

 昭和18年5月23日、 横須賀に遺骨を迎えた帰りの車中で、副官代理の機関参謀磯部太郎大佐から渡された紙包みの中に遺髪とともに次の辞世があった。

(1)述志(昭和18年4月3日)(五峯録)
 
   大君の御楯とちかうま心は、
      とどめおかし命死ぬとも」

    昭和18年4月3日 山本五十六 華印

 一方、 同じ5月18日に死後開封するようにと昭和17年4月、 経理局長武井大助中将が呉出張の際に託され、 海軍次官室金庫に保管していた紙袋の中から次の「述志」と開戦時の「述志」が発見された。 この「述志」は三国同盟に反対し続ける山本海軍次官に右翼団体の聖戦完遂同盟から「天に代わってて奸賊山本五十六を誅す」との脅迫状が送られ、 山本元帥に護衛の「憲兵ヲツケラレタ時ニ書イタモノ」であった。

(2)述志(昭和14年5月31日)(五峯録)
  一死君国ニ報スルハ素ヨリ武人ノ本懐ニミ豈戦場ト銃後トヲ問アラムヤ
 勇戦奮闘戦場ノ華ト散ラムハ易シ、誰カ至誠一貫俗論ヲ排シ斃レテ後已ムノ難キヲ知ラム
 高遠ナル哉君恩 悠久ナルカナ皇国
 思ハサルヘカラス君国百年ノ計。 一身ノ栄辱生死豈論するの閑アラムヤ
 語ニ日ク 丹可磨而不奪其色 蘭可蟠而不可滅其香ト
 此身滅スヘシ此志奪フ可カラス
   昭和14年5月31日
於 海軍次官官舎  山本五十六(華押)