日露戦争と大東亜戦争―ソ連と米国、そして中国
日露戦争と大東亜戦争

日露戦争と大東亜戦争は、いずれも有色人種の人種平等と、有色人種による民族国家の独立に寄与した戦争であった。日露戦争当時の有色人種は白色人種の支配下にあり、植民地にされ労務者や召使いになる以外に選択肢のなかった時代であった。この西欧帝国主義の植民地化の波が、ユーラシア大陸を越えて朝鮮半島に迫ってきた時に、黄色人種の日本が始めて白色人種を破り、有色人種が反撃に転じたのが日露戦争であった。日本が日露戦争に勝つと、人種平等や民族国家の独立を夢見て、アジアやアラブなどから多数の愛国者が来日したが、これらの民族主義者を受け入れ支援したのが、現在では侵略主義者とされてしまったアジア主義者たちであった。
第一次世界大戦が終了すると日本は戦勝国の一員としてパリ講和会議に参加し、連盟規約に人種平等の一節を挿入することを提案した。しかし、この修正動議は門前払いの形で退けられた。この提案は欧米諸国からは日本が人種平等を旗印に、有色人種を率いて世界を制覇しようとしていると警戒されたが、有色人種には勇気と希望を与え、欧米の植民地で人種平等や独立を求める反植民地闘争が激化した。しかし、これらの闘争は強力な西欧諸国の武力の前にことごとく弾圧され、これら植民地が西欧の支配から脱することはできなかった。それを打破し人種平等や民族国家を建設させたのが大東亜戦争であった。
米国の人種差別とモンロー海軍主義
モンロー大統領は1822年に、米国が欧州の問題に関与しない代りに、欧州諸国も米大陸には関与させないという宣言を議会で表明した。これがモンロー主義の原点であった。しかし、強国になりパナマ地帯を作り始めると、モンロー主義はカリブ海、パナマ運河が完成すると太平洋岸、さらにハワイ、フィリピン、そして中国へと拡大して行った。モンロー宣言や門戸開放宣言を米国の国是とし、自国の都合で列国を従わすには、タフト大統領の「われらの権利を擁護し、われらの利益を防衛し、かつ国際事件におけるわれらの権力を行使するには、強大なる海軍を維持しなければならない」との言葉を借りるまでもなく、強力な海軍が必要であった。特に列国の利益がからむ中国に対する門戸開放・機会均等のヘイ・ドクトリンを推進するためには、攻勢的海軍が必要であった。
日露戦争に日本が勝ち大量の移民が渡米し、白人労働者を失職に追い込むと、軍事的に強国となった日本に対する警戒心が高まり黄禍論が復活した。日露戦争の終わった翌1906年には、サンフランシスコ市で学童隔離教育令が施行され、1913年にはカリフォルニア州議会が土地所有禁止法案を可決し、1924年には米国議会が新移民制限法案を通過させて日本人移民を全面的に禁止した。

一方、米国の国内には「太平洋の地図を案ずるに、日本が将来戦争をもって地位を堅固にし、覇権を確立するために戦う国は米国以外にあらざるなり」。日本は開戦10ケ月後に100万余の兵力を送り、ロッキー山脈以東を総て占領するであろうとの、ホマー・リーの『日米必戦論』に代表される日本の脅威を過大に扇動する多数の出版物が発行され、為政者たちは海軍力の増強に人種差別問題から生じた対日警戒心や中国市場への夢を利用した。このように米国のアジア政策は門戸開放政策に発し、海軍戦略家マハン大佐によって鼓舞された海軍力の増強は国家に威信と利益をもたらすという教義から生まれた海軍モンロー主義のユーラシア大陸への拡大であった。視点を変えれば米海軍のアジア進出は、モンロードクトリンのアジアへの適用であり、それはヘイ・ドクトリンという錦の御旗を掲げた「西へ西へ」と、海外市場を求めた海のフロンティアを征服してきた海上開拓史でもあった。また、言葉を換えれば、インディアンを征服し西岸に到達した米国が、太平洋を西進し遭遇したのがアパッチ族ならぬ日本海軍であり、この「西へ西へ」の潮流が激突したのが海軍史的に見れば「太平洋戦争」であった
利用された中国―コミンテルンと英国
1904年1月1日に旅順が降伏すると、レーニンは「旅順の降伏はツァーリズムの降伏の序幕である。革命の始まりである」と書いたが、旅順陥落2週間後には首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日」事件が起こり、この日を境に革命の波が全国に広がった。そして、17年後には世界で始めての共産主義国家が誕生した。しかし、「既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを宣言する」との「共産党宣言」を発する独裁体制のソ連は、ヨーロッパの総ての国から警戒され干渉された。この対策がソ連(コミンテルン)を中心とし、世界を共産党の支配体制にする国際共産主義運動であった。ソ連は自国の安全を確保するために革命を輸出し、周辺諸国を共産主義国家に変革しようとしたが、ドイツ、ハンガリーやポーランドでは失敗した。コミンテルンが、次に「革命の輸出市場」として注目したのが、軍閥が割拠し国内が四分五裂の中国であった。また、中国の混乱に日本を巻き込むことは、東方国境の安全を確保するためにも重要であった。そこで、ソ連は中国に政治顧問や軍事顧問を送り大量の軍事援助を行い、中国が日本と和解しないように画策した。日本が中国の泥沼に深くはまり、それによって日本の軍事力がソ連極東から中国に向かうよう各種の陰謀が行われ、徐々に日本は中国に呑み込まれ大東亜戦争へと巻き込まれていった。また、漢口英国租界事件、九江事件などで中国のナショナリズムの攻勢正面に立たされた英国は、矛先を日本に変えようと国王やカンタベリー大僧正の対日非難、国際連盟での糾弾など国を挙げて日本を非難し、中国に迎合し中国のナショナリズムの矛先を日本に向けた。

一方、中国はあらゆる機会を利用して現状維持を攻撃した。顧維均に代表される中国の外交官は、ワシントン体制を支えていた条約や国際法を、中国特有の「口舌力」を利用して巧みに解消し、革命派は条約の破棄を実力で実現しようとし諸外国と対決した。1928年6月に蒋介石軍が北京に入ると、総ての不平等条約の破棄を宣言し、日本に対しては日清戦争以降に締結した総ての条約の無効を通告するなど、中国は国際条約を次々と不法に解消していった。しかし、このような中国の動きに対して、米国は自国のイニシアチブで確立したワシントン体制が崩壊しつつあるにもかかわらず、見て見ぬ態度の不干渉政策や緩和的な対応に終始した。それのみか、米国の親中国派の学者、ジャーナリスト、宣教師たちに動かされ、現実を直視することなく対日非難を繰り返し、日本を追い詰めていった。
一方、ドイツはヒトラー独裁下にあったが、ヒトラーは中学生の頃にオーストリア領に住んでいたが、日本海海戦で日本海軍が勝利すると、「クラスのみんなが悲嘆して泣いたが、私は心の中で万歳を叫んだ。それ以来、日本海軍には特別の感情を持っていた」。そのためか、日独がコミンテルンの敵とされると、ヒトラーの日本海軍への過大期待が、1936年の日独防共協定、1937年9月の日独伊三国同盟締結を推進させ、日本に大東亜戦争を不回避なものにしてしまった。

一方のソ連はドイツの再軍備や日独の接近に危機感を高め、1935年夏の第7回コミンテルン大会で、日独を対象に「反ファッショ統一人民戦線テーゼ」を採択した。これを受けた中国共産党は、8月1日に「抗日救国宣言」を発し、蒋介石に共産党軍との戦争を止め対日戦争をともに戦おうと提言した。この提言に蒋介石は動かなかったが、1936年12月に配下の軍閥に捕らえられ、共産軍に引き渡されスターリンの指命を受けた中国共産党に国共協同を同意させられた西安事件が起こった。そして半年後の1937年7月には、廬溝橋の川原で演習中の日本軍に謎の銃弾が打ち込まれ日中戦争へと戦争は拡大していった。
さらに、日本の極東ロシアへの攻撃を懸念したソ連は、KGB(ソ連邦対外諜報部)を使い米国を参戦へと誘導した。「ハル・ノート」の原案をリトアニア出身の共産党員ホワイトから、財務長官ハルミトンを通じて米国の対日回答とし日本に開戦を決断させたのである。このように、日本はトロッキーの「黄色人種の日本を打倒するには、米ソ両白色人種が協力しなければならない。いかに殻が固い日本でも、米ソが協力し両方からクルミ割りのテコのように押しつぶせば、押し割ることができる」との言葉のとおり、白色人種連合に日本は敗北したのであった。言葉を変えれば大東亜戦争は人種平等と民族国家の独立のアジア主義と、人種差別と「神の摂理」のモンロー海軍主義の米国、コミンテルンの世界共産運動のソ連の両国から、中国の泥沼にはめ込まれ東西から挟撃されて敗北したのであった。
大東亜戦争の衝撃―猫を虎に変えた日本軍
イギリスの歴史学者トインビーは「日本人が歴史に残した功績の意義は、西洋人以外の人種の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去2百年間にいわれたような不敗の神ではないことを明らかにしたこと」であったと述べているが、東南アジアの民衆は昨日まで君臨していた白色人種の主人が、日本軍のたったの一撃でもろくも敗れ去ったのを目前に見てしまった。この戦争初期の日本軍の快勝は、日露戦争の時と異なり知識人だけでなく、一般民衆にも独立への自信を与えた。また日本の唱えた「アジア人のアジア」のスローガンが独立への夢を膨らませたが、日本は3年8ヶ月後に敗退してしまった。西欧諸国は植民地を回復しようと、アジアやアフリカの旧植民地に軍隊を送り支配体制を確立しようとした。しかし、かっての植民地に西欧帝国主義諸国が再び復帰することはできなかった。

日本軍が育成した義勇軍が、日本軍が教育した南方特別留学生や興亜訓練所などの青年たちが、覚醒された各民族が、各地で一斉に民族独立の戦いに立ち上がったのである。日本軍は苦しい戦局の中でシンガポール(その後ペンナンに移設)に興亜訓練所を開設し、1000名余のアジアの青年を教育し、百2十数人の若者を日本に招き、陸軍士官学校だけでなく、東京大学や京都大学で教育した。また、日本軍を補佐するためではあったが、インド国民軍やビルマ国防軍、インドネシア軍など創設した。日本軍が占領中に猫を虎に変えたのであった。レプラは日本軍の残したものを評価するにあたっては、日本の教育を受けた「民族主義者たちは、日本軍の占領時代に身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して西洋植民地支配に対抗できたのである。日本軍の敗北の後には、二度と外国の支配を許さないと云う信念と、その信念を支える軍事的、政治的手段を身につけていたのである」と評価している。
また、日本は不利な戦局となると、アジアの民衆から戦争への協力を得ようと、1943年3月から6月にかけて、東条英機首相がアジア諸国を訪問し、各地で独立を容認することを公表した。8月1日にはビルマ、10月14日にはフィリピンが独立を認められ、同月21日には「自由インンド仮政府」が樹立された。さらに11月には、東京で大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言を満場一致で採択した。大東亜宣言は大西洋憲章を模倣したものではあったが、大西洋憲章にはない人種の平等や民族国家の独立などが盛り込まれており、ビルマのバー・モウ首相は大東亜会議は「アジアに沸き起こった新しい精神を初めて体現」したものであったと評価している。
大東亜戦争のもう一つの成果は、黒人の人権の向上であった。戦争にかり出されたアフリカの黒人兵は読み書きを習い、新聞やラジオなどで日本陸軍がインドに迫り、日本海軍がマダカスカルを攻撃したことを知ると、独立への夢と自信が生まれた。一方、米国では相変わらずの差別を受けた復員兵が、戦争が終わった翌1946年、次いで47年と、シカゴやワシントンで黒人の人権要望の大暴動を起こした。国連では1956年に「奴隷制度の廃止に関する規約」が可決され、これを受け米国でも1964年には公民権法が成立し、黒人の地位は格段に向上した。このように、日本がベルサイユ講和会議に提出し、総叩きにあった人種平等法案は、日本人が有色人種を代表し人類最初の原爆の洗礼を受け、半世紀を経て始めて実を結んだのであった。
冷戦と民族国家の独立と人種平等
コミンテルンは世界革命を達成するために、植民地・半植民地・従属国を支配する資本主義国家や、国際的ブルジョアジーをも共通の敵と規定し、民族解放戦争や独立戦争を支援した。さらに冷戦が始まり西欧諸国に包囲されると、ソ連はレーニン時代のように自国の安全保障の観点から革命の輸出を強化し、アジア、アフリカやアラブではソ連や中国の援助を受け独立戦争が激化した。冷戦は、このようにしてヨーロッパの領域を超え、アジア、アフリカに激流となって溢れていった。これに対して米国は独立運動の指導者を、「国際共産主義の手先」と誤解し、共産主義国家撲滅へと舵を取った。皮肉なことに、民主主義を追求とし日本やドイツをファシスト国家と宣伝して戦った米国が、大東亜戦争が終わると民族独立運動を抑圧し、植民地解放や人種平等運動を停滞させる主役となり、ファシスト国家と非難された。
1950年には敗者日本と連合国との講和会議がサンフランシスコで開かれ、国際連合が誕生した。しかし、国連の加盟国51カ国中に有色人種の独立国はアフリカ、アジアに3カ国、中東に7カ国があるに過ぎず、大多数の加盟国は白色人種の国であった。1955年になってもアフリカ大陸で独立国といえるのは、南アフリカを除いて僅か3ヵ国しかなく、その他の地域はなんらかの形でヨーロッパの「白い手」の支配下にあった。しかし、1965年には「人種差別撤廃に関する国際条約」が採決され、41カ国が国連に加わり、冷戦期の米ソの新興国獲得競争、新しい国連の誕生などが植民地帝国を揺るがした。国連における有色人種の国の増大が有色人種の発言権を高め、1973年には「人種差別と闘う行動の十年行動計画」が採択され、2003年までアフリカに37カ国が生まれ、国連の加入国は191カ国に増加した。そして国連では事務総長などの主要職員も有色人種から選抜されるようになり、有色人種を厳しく差別していた米国でも閣僚に有色人種が任命され、ブッシュ第1期政権では日系人のミネタ運輸長官とシンセキ陸軍参謀長の2名の日系人が閣僚に任命された。
人種平等、民族国家の独立というアジア主義の視点で日本の近代史を回顧すると、明治以来、日本が掲げ続けてきた日本の「大義」は完遂した。日本の1世紀にわたる戦争目的は苦難の歴史ではあったが達成されたと見るべきではないか。西欧の史書はフランス革命が民族国家を成立させたとしているが、民族国家独立への夢をアジアやアラブ、アフリカの国々に与えたのが日露戦争であり、その夢を実現させために立ち上がらせる衝撃を与え、民族国家を建国させたのがマッカーサーによって使用を禁止された「大東亜戦争」ではなかったか。
しかし、厳密に歴史を区切るならば、大東亜戦争の敗者はコミンテルンの筋書き通りに戦争に巻き込まれた日本であり勝者はソ連である。しかし、そのソ連も冷戦に敗北し国名がソビエット社会主義共和国からロシア共和国に国名が変わると、かつては「世界史の新しい黎明」と云われたロシア革命も、「ロシアの発展を妨げた歴史的惨事」と評価が逆転し、ロシアの歴史家は「赤い疫病」が有毒な種をまいたところでは、騒動が起こり内戦が始まり血が流され、私有財産が暴力的に奪われ、個人に対するテロと暴力が増え、「赤い疫病」は世界の至る所で嫌悪と憎しみ招いていた」と書き変えた。このように日本の敗北後40年余続いた冷戦の勝者は、日本を含む自由主義諸国であった。が、しかし、現在の勝者は、茶番劇の東京裁判の判決を「黄門の印籠」の如く振りしている中国であり、敗者は、それにひれ伏し未だに自虐史観に苛まれODAという貢ぎ物を捧げ続けている日本ではないか。