『千九百四、五年露日海戦史』解題
1.『千九百四、五年露日海戦史』復刻の価値
日露戦争開戦100周年記念年を記念して、ロシア海軍軍令部が編纂した『千九百四、五年露日海戦史(以後、露日海戦史)』が復刻されることは大きな歓びである。それは本書が100年近く前に出版されたもので、共産主義というイズムに冒されていない史書だからである。周知の通りロシアの史書は、政権によって史観が変わるのが常であり研究者泣かせであるが、本書を見ることで革命前のロシアの対日観や日露戦争観が明らかとなり、革命後のイズムに彩られた対日史観や日露戦争史観と対比できる価値は大きい。特に『露日海戦史』が編纂された当時は日露協商の帝政の時代で、スターリン時代のような極端な大国意識もイズムもなく、反日感情にも影響されていない。日露両海軍は相互に海戦史を交換し、『露日海戦史』は日本海軍が編纂した『明治三十七・八年海戦史』をも利用して編纂されている。『露日海戦史』が高い水準にあることは、開放自由化後に出版された国防省軍事史研究所のI・I・ロストーノフ陸軍中佐が執筆した『ソ連から見た日露戦争1』が、本書を全面的に利用していることからも理解できるであろう。
第2の価値は、目次だけを見ると、戦闘を中心とした戦史ではないかとの印象を受けるが、随所に当時のロシア中央政府(皇帝や陸海軍、外務省など)の意図や対応、会議における発言や報告書、電報などが記載されている。さらに、ニコライ海軍大学で行われた対日戦争の図上演習を読めば、今は日本海軍に対して劣勢であり、対日戦争は海軍力整備計画が完成するまで、避けるべきであるというロシア側の意図があった。また、ロシア海軍が早期開戦に消極的であったことや、さらに、日本に対する回答を引き延ばしていたのは、ウィレニユース少将指揮の下に戦艦オスラビア、巡洋艦アウローラ、ドミトリ・ドンスコイなど3隻、駆逐艦7隻、水雷艇4隻、武装商船3隻を極東に回航中であったことなどが背景にあったことも読みとれる。
また、バルチック艦隊の回航の経過を追えば、戦局の変化はもちろん、初期にはは好意的だったフランスやドイツの対応が、旅順の陥落、奉天の敗北など戦局が不利になるにつれて消極的となっていったこともわかる。国際関係とは、このように打算的で冷厳なものであった。すなわち、旅順が攻略され奉天の会戦にも敗れると、石炭を供給していたドイツの船会社が、マダカスカル以東へ同航し給炭することには応じられないと拒否した(後に金銭で解決)。また、フランスもマダカスカル寄港に際しては中立条約を厳正に適用し、停泊地をディエゴスワレス港から人里離れたノシベ湾に、ベトナムではフランス東洋戦隊の司令官が巡洋艦に座乗し、カムラン湾、次いでワン・フォングワンを訪れ領海内に停泊しないよう2回も申し入れている。このように、本書には随所に当時の世界情勢や諸外国の日露両国に対する対応が記載されており、本書は、これまで余り触れられなかった日露戦争をめぐる国際関係史に、新しい史実、新しい視点を提供してくれることであろう。
第4の価値は、日本海軍が寄贈した『明治三十七八年海戦史』と対比しながら、これを批判しつつ書いている点である(なお、その相違を日本海軍にも送付している2)。本書と『明治三十七八年海戦史』を読めば、日露両海軍が何を隠し何を誇張していたかが明らかになり、日露戦争の研究に新しい視点を加えられるのではないか。また、本書は海戦史などの軍事史研究者だけでなく、日露関係史を研究する人々にも大きな意義を持っている。それはニコライ海軍大学における対日戦争の図上演習に関する記事や、太平洋艦隊司令部が作成した対日戦争計画などにより、戦勝後に朝鮮や日本をどうするかが記されており、読者は日本人は「殲滅」すべきであるとの言葉に唖然とするのではないか。また、本書では日露戦争の原因をネルチンクス条約の締結にあったとしている。すなわち、ロシアの満州進出が非難されたのは、必要な「根拠地ノ用意ナク、徒ニ極東進出ノ速ナラン」と考え、武力に欠けていたため中国に妥協してアルバジンから撤退し、ネルチンクス条約を締結したため、以後「凡ソ一五〇年ノ間、黒龍江及支那ニ対シ行動スルノ自由ヲ喪失シタ」からだというのである。
2 本資料の注目すべき内容
(1)日本の開戦理由と宣戦布告前の攻撃
次に、これまでの戦史で余り触れられなかった事項について紹介しよう。日露戦争についてロシアが強く非難しているのが、宣戦布告以前に行われた旅順港外の旅順艦隊への奇襲である。1904年1月31日にラムズドルフ外相を訪問した栗野慎一郎公使は、事態の「急速解決ノ為、其ノ全力ヲ尽クス」ことを約束した。公使は「露国ガ遂ニ一層譲歩ノ途ニ出タルヲ公然知悉シ」、2月3日には日本案への回答がアレクセーエフ総督に送信されたことを知りながら、日本はその3時間前には開戦を決しており、「露国ノ平和的口調ハ斯ノ如クシテ好結果ヲ奏セサリシナリ」と書いている。さらに、栗野公使が最後通諜をラムスドルフ外相に提出したとき、「国交断絶ヲ招キタルニモ拘ラス、戦争ハ依然避ケ得ヘキ希望ヲ有ス」と述べたこと、ローゼン公使が小村寿太郎外相に国交断絶とは何を意味するのか、戦争を意味するのかと問い合わせたところ、「日本外務大臣ハ微笑ヲ漂エ『未ダ戦争ニハアラズ』」と応えたのに、その時には日本海軍が日本海や朝鮮の港湾でロシアの商船を拿捕していたと非難している。

また、ニコライ皇帝も宣戦布告文で、日本政府は「外交関係ノ断絶カ軍事行動ノ開始ヲ意味スルコトヲ予告セスシテ、其ノ水雷艇ニ旅順要塞ノ外泊地ニ在ル朕ノ艦隊ヲ突然襲撃スヘキノ命令ヲ下シタリ。朕ハ極東太守ヨリ此ノ報告ニ接シ、直ニ兵カヲ以テ日本ノ挑戦ニ応スヘキコトヲ命シタリ」と、日本の宣戦布告前の攻撃を非難している。しかし、当時は宣戦布告を必要とするという規定が国際法にはなく、外交関係の断絶をもって宣戦布告とすることが国際的慣行で、宣戦布告の必要性が決められたのは、日露戦争2年後の1907年のハーグの国際会議からであった。このため米英独の新聞は「宣戦布告なしの開戦は、米西戦争や米墨戦争など多くの前例がある。1877年の露土戦争ではロシア自身が宣戦布告をせずにトルコに攻め入っているではないかと日本を支持し、ロシアに好意的なドイツの新聞でさえ「ロシアが日本の攻撃を非難しているが、1700年から1870年に起こった120の戦争のうち、110が開戦前に宣戦布告をしていない」と日本を支持していた。
日本がロシアの回答を待つことなく開戦を決断した理由について、本書では次のように記している。イギリスのランズダウン外相は駐英林董公使に対し、「露国ハ日本ノ最後提案ニ於テ最早是ヨリ以上為シ能ハザル譲歩ヲ為シタルヲ以テ、若、日本ニシテ依然之ニ満足スル能ハズンバ、何ノ列強モ日本ヲ扶翼スルヲ至当ナラズ」と通告したが、日本は「断固開戦ト決定」した。それは対露戦争のために、すでに「数百万円ヲ投ジ」ていたからである。そして日本は、「ロシア艦隊が2月3日に旅順を出港した。行き先および目的は不明である」との芝罘からの新聞報道を口実に、戦争に踏み切ったとしている。また、ロシアの回答が開戦前に到着しなかったことについては、2月4日に発信され5日に東京に転電されたが、日本の電信局が配信しなかったため、外務省に到着したのは2月7日の国交断絶後であったとも記している。
しかし、ランズダウン外相と会談した林公使の報告とは、かなりニュアンスが違っている。ロシア公使が韓国に関する日本の「要求一切ヲ受諾シ」、満州については清国の領土保全を尊重するとの「宣言ヲ関係列国ニ発スルヲ快諾スヘキ旨言明シタ」と述べた。そこでランズダウン外相は、日本は「此事ヲ以テ満足セサルコトハ前以テ世上ニ知ラレタルコトナリ」、ロシア政府は當初から「右ノ問題ヲ討議スルコトヲ執拗ニ拒否シナガラ、今日之ニ関シ」、このような「宣言ヲ襲セシコトヲ申出ルハ何故ナルヤト尋ネタルニ、露国大使ハ此質問ニ対シ」「稍ヤ當惑ノ体ヲ顕ハシタリ」。そこで「本大臣ハ兎ニ角保障又ハ宣言ハ日本ノ意ニ副ハサルヘシ」と応えたと林公使に伝えた。そして、このようにロシア公使との会見の内容を知らせるのは、「敢テ日本ニ対シ勧告若クハ圧迫ヲ爲スノ意ニ非ス」。それは「知リ得タル所ノモノヲ以テ、本官ニ知ラシムルヲ義務ト信スルカ故ノミ」であると語っていた。3
(2)時間稼ぎの対日交渉の理由
ロシアが不誠実な時間稼ぎの交渉を繰り返した理由は、ロシアの対日戦争計画とニコライ海軍大学の対日戦争図上演習の記事を読めば理解できるであろう。最初の対日戦争計画が立案されたのは1901年であったが、その計画は朝鮮半島南端の馬山浦を確保し、そこを前進基地として旅順とウラジオストックの両部隊を集中するものであった。しかしこの案は、日本の海軍力増強が進展し、ロシア艦隊が現在は日本艦隊より劣勢なので、極東の海軍兵力が対日優位を確保できた時点で考慮することとされ、旅順に主力艦隊、ウラジオストックに通商破壊作戦のための巡洋艦部隊を配備することにされた。
一方、海軍軍務局の作戦計画担当者ブルシロフ中佐は1904年10月に次のように上申した。極東でロシアの今後の「絶対優位権ヲ確立セント欲ス」るならば、「須ク日本ヲ撃破シ」し、「艦隊保持権ヲ喪失セシメ」なければならない。現在は日本海軍が優勢であるが、2年後には日本の戦艦6隻に対して13隻、装甲巡洋艦も6隻に対して5隻となるので、当面は「縦令、多大ノ譲歩」をしても対立を回避するのが「得策」である。「今後二カ年ヲ経テ日本ニ対シ宣戦スルノ堅キ決心ヲ以テ、不撓不屈戦備ヲ修メ」るべきである。陸軍については「朝鮮ヲ侵略シ得ルニアリ」、それには2年後までにシベリア鉄道を完成させる必要がある。2年後に日本との開戦を目途とし、外務省は開戦時までに有利な国際関係を構築すべく努力すべきである。また、戦争は「日本人ヲ撃破スルノミニテハ不十分」であり、「更ニ之ヲ殲滅セサル」べからずと書いていた。
このような主張に対して、軍務局長のロジェストウェンスキー中将は、我々の目的は日本を殲滅するのでなく、「単ニ朝鮮ヲ我領土ニ併合スルニアリ」。従って海軍兵力も日本海軍を凌駕する必要はなく、「日本軍ヲ朝鮮カラ駆逐セントスル陸軍ノ努力ヲ軽減スレバ足レリ」。日本との戦争はどのような場合でも「吾人ノ利益タル能ハザル」ものである。そして、日本との戦争は欧米列強との「新戦争ヲ誘発スルコトトナ」るので、避けなければならないと反対していた。しかし、海軍軍令部が作成した対日戦争計画が裁下されることはなかった。それは極東総督のアレクセーエフ海軍大将が皇帝に直隷し、本国の各省大臣の管轄外にあるだけでなく、極東全域の文武高等官を統括し、極東領域の内政及び外交事務を処理し、陸海軍の総司令官をも兼ねていたからであった。このため、中央と現地との意志の不疎通や不一致が多々あった。その一例を示せば、軍令部長ロジェストウェンスキー中将(のちのバルチック艦隊司令長官)が基地設備を充実し、艦隊訓練を強化すべきことを旅順艦隊に通知したが、アレクセーエフは訓練を強化するのは「日本人ヲ忿怒セシム」と応じていない。
極東総督府の対日戦争計画は、1901年に太平洋艦隊司令長官スクイドロフ中将に立案が命じられ、ウラジオストックを主基地とする案が提出されたが、アレクセーエフにより旅順を主基地とすることに変更された。その後、1903年春に戦艦2隻、巡洋艦6隻、水雷艇8隻が回航されるとアレクセーエフから対日作戦計画の見直しが命じられ、1903年4月23日には艦隊参謀長エーベルガルド大佐から馬山浦を前進根拠地とする作戦計画が提出された。しかし、馬山浦は日本に近く魚雷艇などの襲撃を受ける危険性があると再検討が命じられた。その後、1903年4月に再び提出したが、アレクセーエフ総督は馬山浦前進基地構想は兵力劣勢のため、「目下採用ノ価値ナシ」としたが、優勢になった場合を考慮し「棄ツルヘキモノニアラス」と保留した。このように、兵力的に劣勢なため開戦直前の対日作戦では、積極的な攻勢作戦をとることなく、応じるのは日本艦隊が旅順に接近した時と、日本軍が朝鮮半島西岸(鎮南浦や鴨緑江口など)に上陸した場合などに反撃することとされていた。
(3)ニコライ海軍大学校の図上演習
ロシア海軍が対日戦争の図上演習を行ったのは、1894年12月から翌年1月と、1900年、1902年、1903年の4回であったが、最初の図上演習では兵力が劣勢なためロシア海軍は全敗した。その後、兵力が増強された1902年と3年にも行われたが、1903年の図上演習では、兵力を1905年の兵力とし、旅順には戦艦10隻、巡洋艦13隻、駆逐艦36隻を、ウラジオストックには巡洋艦4隻を配備した。想定や演習の実施は宣戦布告なしの開戦や、旅順港外のロシア艦隊への奇襲、旅順湾口の機雷敷設、仁川在泊中の巡洋艦が通信不能で武装解除されるなど、ほぼ実際の戦争のシナリオとおりであった。日露艦隊の主力が激突した黄海の海戦の図上演習では、日本海軍が戦艦の3分の2、ロシア海軍が2分の1を失い、ロシア艦隊は逃走する日本艦隊を追跡し済州島付近で捕らえるものの、戦艦3隻、巡洋艦2隻と駆逐艦7隻を失った。しかし、日本は全艦艇が戦闘力を失い敗北、勝利したロシア艦隊の修理を必要とする艦艇はウラジオストク、その他の艦艇は旅順に帰投して演習は終わった。
演習終了後に審判官から攻勢作戦を展開するには、ロシア艦隊は日本艦隊の1・5倍の兵力が必要であり、黄海や日本海の制海権の確保が戦争を左右する。現在の兵力では不足であり、ヨーロッパからの増援が不可欠である、日本艦隊の撃破後は馬山浦を前進基地とすべきとの所見などがだされた。1904年1月28日に海軍元帥アレクセイ・アレクサンドロウェチの司会で、陸軍大臣クロパトキン、ラムズドルフ外相、海軍総務長官アウエラン、極東特別委員会長アバサなどが参加し日本の提案に対する回答が協議されたが、海軍の意向を受け開戦を避けようとする外務省は、日本が朝鮮を占領するかも知れないが、それでも日本と和平交渉の「可能性ヲ妨ケサルベシ」と、対日妥協案を強く主張した。
一方、陸軍参謀長のサーハロフからは、日本は朝鮮に軍隊を送っており、戦争は不可避である。旅順のロシア海軍は直ちに出撃し、日本艦隊を攻撃すべきであるとの意見書を陸軍大臣に送付していた。しかし、会議ではラムズドルフ外相の「妥協すべき」との主張により、回答は「多少調和ノ精神ヲ以テ作成」された。このような妥協的な回答となったのは充分な兵力が整備されるまで対日戦争を避けたい、少なくとも極東に回航中のウエレニウース少将指揮の戦艦オスラビア、巡洋艦アウローラ、ドミトリ・ドンスコイ、駆逐艦7隻などを極東に回航中であり(開戦時ジプチ在泊)、これらの艦艇が旅順に到着するまで交渉を引き延ばしたいという計算もあったのではなかったか。
(4)アレクセーエフ総督の対応と日本軽視
アレクセーエフ総督には、まさか小国の日本が大国のロシアに宣戦を布告することはないという思いこみがあった。栗野公使が首都を退去すると、中央から「将来発生スヘキ結果ニ対シ総テノ責任ヲ日本ニ負担セシメルモノナリ」と通知された。しかし、アレクセーエフは先に送付した妥協的回答で戦争が回避できると考え、国交断絶が「宣戦布告ト同様ナリト解釈スルハ至当ナラズ」と、日本を刺激することをおそれていた。そのため、旅順の新聞社「ノーウィ・クライ」が、両国の公使が首都を去ったことを号外で出したいと総督府に許可を申し出ると、総督府は号外を出すことを「好マズ」、号外は過剰であり翌日の新聞で一般的記事とし扱い、さらに「平和的手段ヲ以テ解決スルノ望アル旨ノ説明ヲ付ス」ことを要望した。また、7日には旅順の日本人が商品を叩き売りし財産の処分をはじめ、8日には芝罘から日本領事が旅順を訪れ、日本人を英国船に乗せて引き揚げた。この引き揚げの光景を見たツイルノフ大佐は、総督府に事態が深刻なことを報告したが総督は動かなかった。また、アレキセーエフは国交断絶の電報を身近な幕僚や艦隊司令官には知らせたが、要塞司令官などには知らせなかった。
そして、警戒した艦船が防水雷網を取り付けると、日本を刺激するとアレキセーエフは激怒し撤去させた。国交断絶の報を受けて開かれた会議後に、太平洋艦隊参謀長のウイトゲフト少将などは「戦争ニハナラサルベシ」、準備は必要ないであろうと語っていた。4 このように、ロシア側が相互に公使が退去しても警戒を強めなかったのは、まさか小国の日本が大国のロシアに刃向かうことはないとの日本軽視にあった。陸軍から動員を完了するまで1ヶ月間、日本陸軍の営口上陸を阻止できるか、日本陸軍の朝鮮への上陸をどの程度遅延出来るかとの質問に、ウイトゲフト少将は「敵ノ営口上陸ハ思イモヨラザルコト」であり、朝鮮半島への上陸も「亦同断」である。わが艦隊が「日本艦隊ノ為、撃破セラルルカ如キハ到底、余ノ想像ヲ許サザル所」であり、「海上権ハ如何ナル事情アルモ日本人ニ掌握セラルルコトナカルベク」と公言していた。また、ロシア国民も日本を小国と軽視し「開戦後2ヶ月間ハ、本戦争ノ有スル国家的意義ニ就テ、左程社会ノ注意ヲ惹カサルノミナラス、海軍部内ニ於テスラ顧慮セシ者僅小ナリ」という情況であった。特に陸軍の責任者クロパトキン大将などは「日本兵3人にロシア兵1名で間に合う。われわれは13日間に4十万の軍隊を満州に集結できるし、その用意もしている。これは日本軍を敗北させるのに必要な兵力の3倍である。来るべき戦争は、戦争というよりも軍事的散歩に過ぎない」と豪語し、5「直ニ攻撃ニ出テ一挙ニ日本本土ニ殺到セントスルニアリ」というほど日本を見くびっていた。
しかし、これはロシアだけではなかった。城西国際大学の飯倉章教授によれば、英国における日本擁護派の代表的ジャーナリストのアルフレッド・ステッドは、「日本がちっぽけな国ではないということを、一般の人々に納得させることは不可能だった」。「戦争前、また戦争当初においてさえも、もっとも友好的で楽観的な諸国民でも、日本が〈北方の巨人〉に対抗して立ち上がることはできないと考えずにはいられなかった。また、初期の日本海軍の勝利があっても、この懸念を払拭することはできなかった」。「日本が戦争を始めた勇気も、自らの力を知ってというよりも、向こう見ずとみなされていた」と書いていたという。6「デイリー・ニュース(1904年2月12日)」も日本軍が旅順を攻略しても、「日本がこれから何度も抜け目なく攻撃することは疑いない。しかし、我々は日本がワーテルローに勝利するか、未だに確信が持てない」と報じていた。
3.ロシア海軍史の賞賛すべき点
自国に有利な記述となるのはいずれの国にも共通しているが、仁川沖の海戦で水雷艇が座礁したことを知りながら撃沈したとか、2月25日の連合艦隊の旅順砲撃でも「高砂ラシキ1巡洋艦ハ蒸気昇騰シテ艦体全ク之ニ包マレ……暫時ノ間、艦影ヲモ認ムル能ハサリキ」「砲台ヨリ発射シタル一弾、同艦ニ命中シタルモノナラン」とか、常磐型巡洋艦が砲台より「猛射セラレ、直ニ全速力」で「退去セリ。同艦ハ前檣ヲ破損セラレタルモノノ如シ」。我が観測所によれば「一弾ハ正ニ敵艦ニ命中セリ、然レドモ敵ハ今ニ至ルマデ之ヲ秘シツツアリ」。「我弾着ハ可ナリ良好ニシテ、老鉄山ノ於ケル観測将校伯爵ケルレル少尉ハ、我一弾ガ正シク巡洋艦日進ノ舷側中央部ニ命中セルコトヲ報告セリ」などと記され、「如シ」「命中セシモノナラン」などと戦果を過大に報じ、自軍の勇戦奮闘を多数の形容詞を使って記述している。そして、『明治三十七八年海戦史』のロシア艦艇への命中弾が38発、ロシア側の命中弾が11発で、第3戦隊は「損傷大砲及ヒ付属品ヲ予備品ト交換センタメ集合地点ニ向ヘリ」との記述に、日本の戦史には破壊された大砲の数が記載されていない。日本艦隊の命中弾数が完全に発表されるまでは、日本艦隊への命中弾数は「十一トスルノ外ナキナリ」「例ニ依リテ其詳細ヲ発表セザリキ」と、日本側の被害が少ないことを猜疑している。
また、本書の最大の長所は、作戦をめぐる対立や失敗した作戦の責任問題を明確にし責任者を実名で非難し、会議などでの反対意見や反対者、功績と懲罰がはっきりと記されていることである。本書を読んで驚くのは、マカロフ司令官の人事をめぐる信賞必罰主義であり、着任後直ちに駆逐艦艦長など22名の過半数を無能であると更迭し、有能な若い3名の大佐を少将に進級させるよう上申するなど、若い指揮官を積極的に登用した。そして、マカロフの人選をアレキセーエフが反対し、他の者を指名するように指示すると、「一度発シタル司令長官ノ命令ヲ変更セラルルニ於テハ、威厳上其ノ職ニ留マルコト能サルコト」であり、この補職を認めないのならば「職責ヲ尽スコト能サルヲ以テ、艦隊司令長官ノ職ヲ免セラレンコト」をとの電報を発するほど徹底したものであった。そして、マカロフ中将が「戦死セサリシナラバ、我太平洋艦隊ハ其戦務ヲ満足ニ遂行シ得タリシナラン」とのアレクセーエフの言葉を引用し、マカロフ中将が指揮した時には「艦隊ハ盛ニ活動セシモ、死後ハ彼ニ代リテ沮喪セル士気ヲ恢復シ得ルノ統率者ナカリシ為、我艦隊ハ遂ニ其の活動力ヲ失フニ至レリ」とマカロフ中将を讃えている。
しかし、触雷して戦死したことについては、マカロフ中将の錯誤を列挙し、敵の封鎖船の来襲を予期して「数夜安眠セサリシ為、心身疲労シテ例ノ如ク神経ヲ過敏ナラシメタル結果、遂ニ斯クノ如キ悲シムベキ事件ヲ惹起セシムルニ至リシモノナルベシ」と原因を冷静に分析している。特に目を引くのはバルチック艦隊への批判で、バルチック艦隊の敗北は各戦隊指揮官を無視し、ロジェストウェンスキー中将が直接指揮したこと、「将校ノ教育ガ全ク欠如セルハ実ニ言語道断ニシテ、其原因ハ組織ノ不完全ニ帰セサルベカラズ。加フルニ指揮法亦拙劣ヲ極メタリ」と厳しい。
特に、ロジェストウェンスキー中将に対する批判は辛辣で、中将を「訪問シタル艦長ハ無愛想ナル態接時ニ侮辱的態度ヲ以テ応接セラレ、屡々叱責セラレル常トセリ」。このため「部下ノ艦長ノ多クハ中将ヲ虞レ、其残酷ニシテ屈辱的ナル態度及全艦隊ニ対スル信號ヲ以テタスル苛酷ナル叱責ヲ恐レタリ」。バルチック艦隊には作戦参謀や参謀長もいたが、総てをロジェストウェンスキー司令官が握り、日本海海戦の査問委員会で、参謀長が「余ハ長官ノ命令ヲ機械的ニ実施スル外、何等ノ余裕ナク作戦計画ノ可否等ニ関シテ論究スル暇ナカリキ」と答えている。参謀業務はロジェストウェンスキー中将の信認があったスウェントルジェツキー大佐が行っていたが、その仕事は暗号文の組み立てや翻訳などであり、「単ニ機械的ニ作業ニ従事シタノミ」で、参謀業務は総てロジェストウェンスキー司令長官自身が行っていたという。しかし、対馬海峡突破するため「敵ニ最初ノ一撃ヲ加エン為ノ展開、又ハ戦闘中ニ於ケル行動ニ就テモ何等討究スル所ナ」く、さらに沖縄沖で石炭を搭載した1時間半の間に、精神的に過敏となったロジェストウェンスキー中将が、旗流信号を50回も掲揚したことを例に、「如何ニミ奮セルヤヲ察スルニ足ルベシ」と述べている。
これに対して日本海軍の勝因は艦艇などの武器だけでなく、艦隊の構成や多年にわたる「連戦連勝ノ経験ヨリ得タル訓練及士気ノ旺盛ナル」こと、「各級指揮官間ノ統率関係ハ明ニ規定セラレ、部下ハ許サレタル範囲内ニ於テ独断事ヲ処スルヲ得ル」こと、「各戦隊ノ連携ハ実ニ良好ニシテ、各級指揮官ハ其上級指揮官ニ対シ自由ニ各自ノ意見ヲ陳述セリ」。「各戦隊ノ協同動作ハ実ニ完全ナリ。吾人ハ旅順港下ニ於テ小艦艇間ニ会々発生シタル争闘ガ、忽チニシテ巡洋艦及主力ノ戦闘ヲ惹起スルニ至リタル実例ヨリ、彼等ガ恰モ魔力ヲ有スル如ク時機ヲ失セス集合スルヲ目撃シタリ」と、実に率直公平に日本海軍を賞賛している。日本海軍の『明治三十七八年海戦史』は、一般国民を対象としていたとはいえ、これほど公平にはロシア海軍を評価していない。しかし、これほど公平に評価していた日本海軍に対するロシア海軍の評価が、スターリン時代になると大きく変わってしまった。恐ろしきは歴史を利用するイズムである。
4.陸戦史にも新しい視点

本書は海戦史ではあるが、日露戦争の陸戦史を研究される学者や戦史研究家などにも、ロシア側の未だ知られざる多くの史実が見いだされるだろう。例えば旅順要塞の守備兵力や砲数などの戦備、備蓄弾薬や食料、燃料などの在庫や消耗状況、シベリア鉄道の輸送能力、さらには旅順要塞が陥落し、艦隊が撃滅されては「国家ノ威信ヲ毀スルコト大ナラン」。旅順陥落前に講和条約を締結するならば、「国民ノ自尊心ヲ傷ケサル条件」で講和も可能であろうとのコンドラチエンコ陸軍少将からステッセル大将への意見具申など、日本の戦史にはないロシア側の赤裸々な内情も記述されている。
陸上作戦についても、日本軍の坑道作戦、陸戦隊の揚陸、海軍兵の戦闘、203高地の戦闘(ロシア側の戦死者数)、旅順防衛をめぐる防御会議の議論、ステッセルの皇帝への上奏電報や訓辞、203高地失落の影響などが記されているが、特に注目すべきことは旅順降伏の決定である。降伏について防御会議では「列席者ノ過半ハ、皆飽クマデ防御ヲ継続スヘキヲ主張シ」たが、無益な抵抗を止めて名誉ある降伏をすべきであると、旅順防衛陸軍参謀長の「レイス大佐一人ハ断然降伏説ヲ主張」したこと、降伏は誰にも相談することなくステッセルが独断で決めたことなどが記されている。また、日本軍は203高地を占領し、港内在伯仲の艦艇を砲撃する弾着観測の「好地点ヲ得テ…….三日間ニテ第一太平洋艦隊ノ戦力ヲ全失セシメタ」。旅順要塞への「肉弾的強襲ノ際蒙リタル損害ヲ優ニ償ヒタルモノト云フベシ」と203高地への肉弾突撃の価値をも評価している。
5.戦局と国際関係と日英同盟の価値
イギリスの漁船砲撃後のイギリスの態度は強硬で、バルチック艦隊は1週間もスペインのビゴ港に引き留められたが、出航後にはイギリスの巡洋艦4隻が凄まじい示威行動を行い、戦艦2隻、巡洋艦3隻などのフェリケルザム支隊がアデンに到着すると、イギリスは先に到着していた駆逐艦は停泊期限の24時間を過ぎているので出港せよと、最初は警察署長、次いで県知事が来艦して要求した。また、ポートサイドでは400トンの真水搭載が過大だと200トンに制限したが、それから、さらに艦内の残量を引いた量しか搭載を許さなかったという。
ハル沖の事件が生起した背景にはフレデリックスガーデン所在のロシア領事館からの、デンマーク沖に「国旗ヲ掲揚セサル水雷艇7隻、海上ニ現レタリ」との情報にあったが、フランスの植民地のジプチではフェリケルザム支隊に日本海軍が水雷艇を派遣しているとの情報や、日本海軍の巡洋艦2隻、軽巡洋艦6隻がシンガポール沖を通過したとの情報があり、駆逐艦2隻を夜間は港外に配備して警戒した。また、マダカスカル在泊中には機雷を搭載した巡洋艦3隻が、マラッカ海峡で機雷攻撃をする計画があり、現在セイロン沖を遊弋中(海軍省情報)。次いで22隻の日本艦隊がシンガポールに寄港し、目下ボルネオ方面を行動中(マダカスカルの噂)、12月21日には軽巡洋艦6隻シンガポール沖を通過、モザンビーク海峡に戦艦2隻遊弋中などの情報(シンガポール領事館)などから、回航部隊は中立港の港内でも駆逐艦を港外に配備し警戒していた。これらの情報や噂が同盟国のイギリス情報部などが流したものか、日本に好意的な国や人物が流布したのかは不明であるが(華僑などのジャーナリストが日本支持の報道をしていたが)、日本艦隊出現の情報はデンマーク沖から紅海、マダカスカル、セイロン、マラッカ海峡、シンガポールからベトナム沖、台湾海峡に至るまで流れ続けバルチック艦隊乗員に緊張といらだち、士気の低下と疲労を強いたのであった。
6.敗戦後の敗軍の将の裁判
ネボガトフ少将の降伏については厳しく批判されていたが、本書には次のように極めて厳しい記述がある。「『ネボガートフ』少将ハ五千ノ生霊ヲ救ハンカ為、無益ナル流血ノ惨事ヲ回避セントテ敵ニ降伏シタリト云フ。敵ノ兵力ハ実ニ圧倒的ナリト雖、此際我艦隊ノ名誉ノ為ニ碧血ヲ流スモ決シテ無益ニハアラサルナリ。古来戦士ノ名誉アル死ハ、独リ現代国民ノ士気ヲ鼓舞スルノミナラス、子々孫々迄モ及スモノナリ。艦隊将士ノ勇敢ナル模範的行動ハ、幾世紀ヲ経ルモ国旗ノ名誉ト共ニ永久ニ朽チス。愈々陸離タル光彩ヲ放ツモノナリ。此意氣ヤ又祖国ニ殉シタル幾多ノ英霊ヲ慰籍スルニ足ルモノナリ。之ニ反シテ不名誉ナル降伏ハ後世ニ迄臆病ノ因ヲ播クモノナリ。弱者ハ自己ノ怯儒(左側が木編・7巻164頁)ナル理由ヲ斯ノ如キ誘惑的範例ヲ発見シ、益々其病菌ヲ繁殖セシメ、我軍隊ノ組織ヲ廃頽セシムヘシ。而モ敵即勝者ハ精神的ニ益々旺盛ナルト共ニ、貴重ナル戦闘単位ヲ獲テ物質的ニモ亦強大ナルヲ得ヘシ」。ネボガトフは降伏して2400名の命を救ったが、「露国民ハ感謝セシヤ」「露国ノ歴史ハ之ヲ是認シタルヤ」「救済サレタル人々スラ『ネボガトフ』少将ニ対シテ感謝シタルヤ」として裁判にかけられ死刑を宣告された(しかし、その後、特赦により終身刑となった)。
なお、本書は日本海海戦の結論を次のように結んでいる。
「叙上ノ如クニシテ、此不幸ナル我艦隊ノ行動ハ遂ニ終ワレリ。要スルニ計画極メテ杜撰ニシテ、思慮浅薄而モ何等ノ定見ナキ行動ヲ以テ終結シタリ。就中艦隊司令長官ノ行動ハ、其戦闘中ニ於ケルト準備中ニ於ケルトヲ問ハス、全然正当ナルヲ発見スル能ハス。又麾下ノ司令官ハ全部消極的ニシテ、一モ積極的ニ行動シタル迹ナシ。『ロ』中将ハ意志強健ニシテ剛胆又職務ニ忠実、而モ補給経理ノ才アルモ、悲哉軍事上ノ知識皆無ナリ。露都ヨリ対馬海峡ニ至ル『ロ』中将艦隊遠征ハ、実ニ空前ノ壮挙ナリト雖モ、一度戦闘場裡ノ指揮官トナルヤ、何等軍事上ノ才略ナク、又蘊蓄ナク戦闘ニ対スル準備指揮共ニ実ニ拙劣ヲ極メタリ。麾下ノ艦長並将校ノ多クハ、其軍人的手腕ニ於テ遙カニ『ロ』中将ノ上位ニ在リテ克ク其任ヲ尽シ、軍艦ノ名誉ヲ後世ニ残シタリ。『クニヤージ・スウォロフ』『ボロジノ』、『インペラトール・アレキサンドル三世』、『アドミラル・ウシャコフ』、『ドミトリ・ドンスコイ』、『スウェートラナ』、『ペズウブリョーチヌイ』、『グロームキー』ノ如キハ、永久ニ我露国海軍ノ亀鑑ナルヘク、又幾多ノ艦船将校中ニハ、最後迄重任ヲ果タシテ芳名ヲ後世ニ垂レタモノ枚挙ニ暇アラス。此等ハ我勇将猛卒ノ名誉アル戦死ト共ニ、此不名誉ナル敗北ト数隻ノ軍艦カ敢テシタル降伏屈辱トヲ聊カ償フニ足ルモノアラン。特ニ最後ニ於テ『ドミトリ・ドンスコイ』カ将旗十個ヲ掲ケ数十隻ヨリ成ル大艦隊ト、勇戦奮闘シタル事ハ我海軍ノ前途ニ対スル吉兆タルヲ失ハサルベシ」。なお、この「将旗十個ヲ掲ケ」というのは、マストに掲げた指揮官旗が砲撃で吹き飛ぶと、それを十回も掲げ直して勇戦したという意味である。

また、本書には敵前直角回頭のT字戦法は、「我艦隊ニ取リテハ実ニ意想外ニシテ、又甚シク乗員ヲ歓喜セシメタルモノナリキ」と、日本艦隊が敵前で回頭した時のロシア海軍の状況を次のように書いている。
「東郷提督ハ我艦隊ノ進路ヲ遮断シ、『スウォロフ』ノ左舷正横前四点三二鏈ノ所ニ至リテ、急ニ南五十六度西ヨリ北六十七度東ニ変針シ、馬蹄状ヲ描キテ左十五点ノ正面変換ヲ行ヒ、我艦隊ト殆並行ノ針路ヲ取リテ『露国艦隊ノ先頭ヲ圧迫セントシ』(東郷提督報告中ノ慣用語)、上村戦隊ハ最初稍々右ニ回頭シ、次テ同シク馬蹄状ヲ書キテ東郷戦隊ニ続航セリ」。「前記ノ如キ日本艦隊ノ転舵ハ、我艦隊ニ取リテハ実ニ意想外ニシテ、又甚シク乗員ヲ歓喜セシメタタルモノナリキ。之レ東郷提督カ殆我艦隊ノ弾着距離内ニ於テ、大角度ノ正面変換ヲ行イ、一時発砲不能ノ地ニ陥リタル行動ガ如何ニ、日本艦隊ニ危険ナリシヤ、何人モ容易ニ看取スル所ナリ、况ヤ此際両戦隊ノ十二隻ガ、一定ノ航跡ヲ通過シテ回頭ヲ了スルニハ約十分間ヲ要シ、其間不動ノ停滞点ヲ生シ、我ニ好個ノ目標ヲ提供スルニ於テヲヤ。想定ス、往時『トラファルガー』ノ海戦ニ於テ、ネルソン提督カ当時の艦船ニ取リテ致命的危険ナリト称セラレタル敵ノ縦貫射撃ヲ冒シ、又其艦隊ヲシテ一時発砲ノ自由ヲ失フノ不利ヲ顧ミス、敢テ麾下ノ艦船ヲ仏国艦隊ノ縦貫射撃ニ暴露シツツ、之ニ向ッテ二列縦陣ヲ制リテ肉薄シタル時、仏将『ウイリニヨー』及其将卒ノ歓喜モ亦実ニ斯ノ如クアリシナラン。然レドモ『ネルソン』及東郷提督ノ策戦ガ恰符節ヲ合シタル如クニシテ、其賢明ニシテ旦勇敢ナル行動ニ依リテ収メ得タル効果ノ偉大ナルモ亦酷タ相似タリ」。