孫文の2つの遺書:コミンテルンの視点から
日露戦争前史―ロシアに飲み込まれた中国
 孫文は日露戦争の勝利に覚醒され来日した留学生を核として、日本の志士と呼ばれるアジア主義者などの支援を受け、日本で資金や武器などを獲得し、失敗すれば日本を隠れ家として、革命生涯の3分の1の10余年を日本に住み、7回におよぶ失敗の後に中国に最初の近代国家の中華民国を、次いでソ連の援助を受けて中華人民共和国を建国し、現在では台湾の中華民国からも、大陸の中華人民共和国からも建国の父と仰がれているが、民主主義と共産主義の全く異なる体制の二つの国から国父とされる孫文の行動を追えば、複雑きわまりない中国人の行動の特徴や、謎に包まれる中国の近現代史の一端が理解できるのではと考え、孫文を中心にロシア(コミンテルン)の視点から論じてみたい。

 ロシアは陸路で北からアジアに迫り、1587年にはトボルスク、1592年にはペルミ、1632年にはヤクーツク、1649年にはハバロスクと版図を広げ、1689年のネルチンスク条約、 1727年のキャフタ条約、1858年のアイグン条約、 1860年の北京条約でウスリー以東の沿海州を獲得し、ここにバルト海から日本海にまたがるユーラシア大陸を支配する大帝国となった。特に日清戦争が日本の勝利に終わり、中国の弱体化が表面化すると、ヨーロッパ列強は中国への侵略を加速し次々と租借地を手に入れ、鉄道敷設権や鉱山採掘権を獲得するなど、 中国の植民地化が急速に進んでいった。ドイツはロシアが冬季の艦隊泊地として利用していた膠州湾に目を付け、1898年には宣教師殺害を口実に陸戦隊を上陸させて山東半島の租借と、青島と斉南間の山東鉄道の敷設権や鉱山開発権を得た。フランスは1848年の清仏戦争でベトナムの支配権を承認させ、1899年には広州広州湾一帯を租借し、英国は1840年に阿片戦争を仕掛けて香港を割譲させ1898年に勢力均等を名目に九龍半島と威海衛を租借した。

 これらの西欧列強の中で一番大きな野望を示したのがロシアで、ロシアは三国干渉により遼東半島を日本から返却させたことを恩義として清国に近づき、1896年には李鴻章を500万ルーブルで買収し、露清密約(別名・李鴻章・ロバノフ協定)を締結した。そして、日本の侵略には露清両国が共同で防衛すること、戦争の際には中国の港湾を自由に使用すること、兵員輸送のためシベリア鉄道を北満州を横断し、ウラジオストックまで敷設することなどを合意させた1。さらに、1898年には強引に旅順に軍艦を入港させ、旅順・大連の25年間の租借と東清鉄道に結ぶ南満州鉄道の敷設権を獲得した。このように、ロシアが長城以北と遼東半島、イギリスが揚子江流域、フランスが広東などの南西諸省、ドイツが山東省と西欧列強による中国分割が進められ、西欧列強が得た鉄道敷設権だけでも19路線に及んでいた2。

 そして、この鉄道敷設が義和団の勃興を促した。鉄道の敷設とともに外国製の綿織物や軽工業製品が流入し、土着の産業に打撃を与え、さらに土着の交通業に従事していた労働者に大量の失業者を生み、鉄道を敷設した西欧諸国に対する反感が日増しに高まっていった。また、鉄道の開通により目立ってきたのが宣教師の布教活動であったが、これは中国古来の土着宗教を否定し、伝統的な中国の価値観を破壊するものであった。そして、このような外国の搾取やキリスト教の布教活動の活発化に対する反発などから、1898年頃から白蓮教の一派である義和団が、「扶清滅洋」をスローガンに山東省などで教会を襲撃し、宣教師や信者、さらには一般の外国人までをも殺害する事件が続発した。そして、1900年6月には清国軍も義和団に加わり北京の諸外国の公使館を包囲するまでに事件は拡大した。義和団と清国軍隊に包囲された列国公使館員や在留邦人は、日英米露仏独伊など7カ国の軍隊により救出された。しかし、列国の軍隊は引き上げたがロシアはこの事件の最中に東清鉄道の防衛を名目に大軍を送り、満州をほぼ完全に支配下に置き、さらに1903年11月には極東総督エベゲニー・I・アレクセーエフが盛京将軍の増祺を脅迫して、満州を保護下に置く第二次露清密約(旅順協定)を締結した3。

 ロシア支配下の満州は「露兵跋扈ノ為メ人民塗炭ノ苦ミヲ為シ、 殆ンド其ノ命ニ堪ヘス」との圧政を受けたが、特にロシア軍の非行で有名なのがブラゴエシチェンスクの住民虐殺で、ロシア軍は同地の住民3,000名をアムール川畔まで連れだし、銃剣や銃撃で射殺し死体をアムール川に投げ込んだため4、黒龍江が血で染まり赤龍江となったと日本では「コサック兵の剣戟や 怒りて光ちらしけん 二十世紀の東洋は 荒波海に立ちさわぐ」との歌も作られ義憤を高め対露危機感を高めた。しかし、このような事件がありロシアが満州に居座っても、米国ではロシアが独立戦争時に支援したこと、ロシアに投資をしている人やロシア移民も多いことから、米露関係は日本より密接であった。また、ローズヴェルト大統領も「ロシアは欧州列強の中で唯一米国と友好的であった。ロシアは全く民主的ではないが甚だ強力であり、シベリアにシナ人が入り込むのを防いでいる」。「シナは非文明国でだからロシアの進出は利益になる」と考えていた。また、「ロシアがアジアに進出することは文明化ということで望ましいが、ロシアがフィンランドを領有することは悲しむべきことであり、ドイツがスイス、オランダ、デンマークなどを領有することは望ましくないが、アジア地域に進出することは望ましい」とも語っていた5。ローズヴェルトがこのような発言をした当時は、中国人はアフリカからの黒人奴隷の輸入が減少すると、黒人の代わりに中国人は苦カ(クーリー)として米国に供給されていたが、中国人のボーイを殴り殺した船長が、補償金20ドルを払ったと廈門の米国領事に告げると、領事が20ドルは高すぎる「たかがシナ人ではないか」と言っていた時代であったのである6。

日露戦争が中国に与えた影響―留学生の来日と文化の逆流
 中国の留学生が日本に来始めたのは日清戦争の敗北や義和団事件のショックにあったが、中国には小国の日本が大清帝国を破ったのは、明治維新により「祖法」を変えたからであり、中国も日本に見習い「祖法」を改定すべきであるとの変法論が急速に広まった。その代表的人物が康有為で、光緒帝から意見を述べる機会を与えられると、『日本変政考』を上呈したが、その跋文には「祖法を変えるのが心配ならば日本を見るが良い。日本はわが先駆である」。…..「わが国が座してこれを利用するならば、ことは容易であるし道を誤ることもない。…わが清朝の変法は日本を手本とすれば総ては足りる」と書かれていた7。そして中国からは調査団や留学生が日本に派遣されたが、この改革も西大后を中心とした旧守派が勢力を握ると、康有為や梁啓起などの変法自強派は追放され、身の危険を感じた康有為や梁啓起などが玄洋会などの志士に助けられて日本に亡命してきた。

 日露戦争が勃発すると1904年4月29日に留学生500余名が集まりロシアの中国侵略を糾弾し、特に対露強硬論者の黄興などの留学生や在日中国人の一部は、ロシアの中国への侵略を阻止しようと「拒俄義勇隊」を組織し軍事訓練を始めた8。日本政府としては、これら留学生の運動を支持すべきではあったが、日中が組めば西欧諸国に黄禍論が再発するのをおそれ、また、清朝公使の要求もあり反露組織を解散させ軍事訓練を中止させた。9しかし、留学生らの希望に応じ8月には日野熊蔵、小室健次郎などが内密に青山練兵場の近くに軍事訓練所を開設し、ゲリラ戦術や火薬の製造法などを教えた。10

 当時の中国は満州民族である清朝の支配下にあり、清朝は清露秘密協定で中露双方が日本から攻撃を受けた時には共同で対処することを協定していたが、清国は開戦翌日には局外中立を宣言した。しかし、これは建前で日本の隠密偵察隊に助手兼道案内として清国兵を付けるなど協力もしたが、一方ではロシアとも通じていた。しかし、日露戦争に日本が勝利すると日本に学ぼうと大量の留学生が来日し、その数は1805年には8000名、1906年には1万2000名に増加した11。
      1898年から1909年までの学生数

人数 人数 人数
       1898年    61名 1901年   274名 1902年  608名
1903年  1300名 1904年  2400名 1905年 8000名
1906年 12000名 1907年 10000名 1908年 3000名

 これら留学生は東京帝国大学大学などの国立大学や早稲田や慶応義塾大学、陸軍士官学校などで学んだ者もいたが、大多数の者は留学生のために創立された宏文学院、東京同文書院、経緯学堂、法政大学付属速成科、実践女学院付属中国女子留学生師範工芸速成科、東亜女学校附属中国女子留学生速成師範学堂などで学んだ。この当時、日本はヨーロッパの政治・思想・哲学などの名著を翻訳し、1902年から04年には321点の洋書を翻訳したが、その60パーセントが中国語に翻訳されていた。このように中国は自然科学からルソーの『民約論』、モンテスキーの『法の精神』、ミルの『自由論』『フランス革命』などの西欧の名著を、日本語から翻訳された中国語で読むことができたのである。12中国共産党の創設者である李大サがマルクス主義を知ったのは、河上肇や福田徳三からジャーナリストの陳溥賢が得たものであり、1920年に陳望道が訳した『共産党宣言』は幸徳香水・境利彦が翻訳した日本版を底本にしていたという13。このように中国の近代化に日本が大きな影響を与えたことは、「理念」「理性」「力学」「物理」「経済」「金融」「憲法」「政党」「宗教」「電話」「社会主義」「選挙」など、中国語になっている多数の日本語があることからも理解できるであろう。

 孫文は日本留学を通じて啓蒙された青年たちを率いて最初の辛亥革命を実現したが、孫文の片腕となった蒋介石は振武学校を経て士官候補生として高田の野砲連隊に配属されたが、この日本留学中に中国同盟会に入り孫文の知遇をえた。また、国民党の左翼から再び蒋介石派に、次いで日本に靡いた汪兆銘は法政大学の留学生であった。このほか孫文を支えた黄興(宏文学院)、宋教仁(法政・早稲田大学)、胡漢民(宏文学院・法政大学)、張継(善隣書院・早稲田大学)、陳其美(警監学校)ら革命の初期に孫文を支えたのは殆どが日本への留学生であった14。孫文の書記の革命が日本の留学生を中心として行われたことは第一革命(1913年)から第三革命(1915年)に参加した軍人の多くが、陸軍士官学校の留学生で、陸軍参謀本部の『革命後における支那各省兵力増減一覧表』や『支那陸海軍将官名簿(1913年3月13日)』などによれば、将官級の現役軍人275人中88名、32パーセントが陸軍士官学校の留学生であった15。

中華民国の建国と日本―孫文革命と日本の支援
 孫文の革命を支援したのは留学生だけではなかった。孫文は1895年に広東城襲撃計画を進めていたが、事前に発覚し同志の陳少白らの首謀者に懸賞金が掛けられると英国に亡命した。しかし、清国の依頼で英国警察に逮捕され国外追放処分を受け1897年8月に横浜に着いた。この孫文に支援を申し出たのが志士の宮崎滔天と平山周で、宮崎らは孫文を保護していることが清国に知られると、外交上支障を来すとの小村寿太郎外務次官の反対を排除し、犬養毅や時の外務大臣大隈重信、外務省参事官尾崎行雄などを説得し、滞在を認めさせただけでなく、生活費を玄洋社社長の衆議院議員平岡浩太郎に引き受けさせた。特に終世変わらずに孫文を支援したのが梅屋彦吉であった。梅屋は辛亥革命時にピストル600丁を提供して以来、中国同盟会の事務所(有楽町)や『民報』の発行資金を提供し、さらに孫文と宋慶令の仲人をするなど公私ともに孫文を支援した。なお、孫文の号の「中山」はこの亡命中に泊まった旅館の宿帳に書いた偽名で、それは宿屋に向かう時に日比谷で見た中山侯爵の表札を思い出しとっさに書いた名前であった16。孫文はこの「中山」という号が気に入ったらしく、その後は「孫中山」と名乗り、さらに1922年に軍閥の陳炯明に逮捕されそうになり、砲艦「永豊号」で脱出したが、孫文はのちにこの砲艦を「中山号」と改名させている。なお、孫文の妻の宋慶齢は同志の集まりには、ピアノを演奏して楽しませたというが、そのピアノは現在も日比谷公園内の梅屋庄吉が建てた松本楼の玄関ホールに置かれている17。

 1900年にはいると義和団事件が発生し、6月には北京の公使館地区が清国兵と義和団に包囲され、列国の目が北京に向けられた機会を利用し、日本(台湾総督府)は南シナへの影響力を高めようと孫文が挙兵すれば、台湾から歩兵1個大隊を送り協力することを約束した。そして、孫文の指示を受けた鄭士良は1901年10月6日に決起した。しかし、列国から本願寺布教所の火災(日本人僧侶の放火)で陸戦隊を廈門に上陸させたことを非難され、首相も慎重な伊藤博文に変わったため派兵が中止され恵州挙兵は挫折した。18

 孫文は恵州蜂起に失敗後も引き続き横浜に住んでいたが、1903年秋に米国経由ヨーロッパに渡り、1905年7月に再び来日したが、この間に留学生は1300名から8000名に増加していた。また、宮崎滔天の孫文の恵州蜂起までの革命運動を中心とした自伝『三十三年之夢』が、「二六新聞」に掲載されたこともあり、孫文の名前が広く留学生や華僑に知られるようになっていた19。さらに、黄興、宋教仁などの華興会のメンバーも、1904年の長紗蜂起計画が露見し亡命してきていた。こうして、東京には孫文の興中会、蔡元培、章炳麟などの光復会、黄興、宗教仁などの華興会があったが、これら3つの政治結社を結びつけたのが宮崎滔天や内田良平らの志士であった。

 宮崎は孫文が帰国すると直ちに黄興らを孫文に紹介し、革命勢力を合同して統一戦線を構築する必要性を説いた。梁啓起などの変法自強派は清朝に忠節を示し参加しなかったが、光復会、華興会などが賛同し、1905年7月29日には各派代表が坂本金弥議員宅で協議し、8月20日には孫文を総理、黄興、宗教仁、張継、朝韓民、汪兆銘などを役員とする中国同盟会が結成され、日本人では宮崎、平山と萓野長知の3名が入会した20。しかし、その後に中国各地で同盟会による決起が起きると、清朝政府から孫文らの国外追放要望があり、政府は宮崎などを介し7000円を餞別として孫文に与えることで、1907年3月に自主退去の形で追放した。

 その後、1911年10月に日本の陸軍士官学校留学者たちが指揮する「新軍」が蜂起し、11月には上海、12月には南京を占領し革命は中国全土に波及し、1912年1月1日には南京に中華民国臨時政府が樹立され、孫文が臨時大統領に選出され、ここにアジアで最初の共和制の中華民国が誕生した。しかし、日英両政府が内乱の長期化を懸念し、また、革命派内部にも早期収拾と袁世凱との協力を主張する勢力が勢いを増したこともあり、孫文は清帝の退位を代償に袁世凱を臨時大統領とすることで妥協した。しかし、総選挙では国民党が第一党となり宗教仁が総理として内閣を組織する形勢になると、袁世凱は宗教仁を部下に暗殺させた。袁世凱が議会を無視して日英仏独露独などから2500万ポンドの借款契約を締結し、さらに国民党系の都監を罷免するなど独裁政治を始めると、孫文は反袁世凱勢力を集めて1913年7月に再び蜂起した。しかし、袁世凱の強力な軍隊の前に敗北し、孫文や孫文派の主要人物が再び日本に亡命してきた。この時は日本をはじめ英仏独露独も袁世凱を支援し袁世凱政権を承認しており、政府は孫文の亡命を拒否しようとした。しかし、犬養毅や頭山満が動き頭山が庇護し、第3革命が成功する1916年6月まで日本に滞在した。21 この間、孫文は大隈重信首相に中国市場を開放し日本からの輸入を無税にするとか、対華二十一ヶ条の要求に対しても「日支両国ノ親善ヲ計る上ニ於テ妥当ノ措置ナリト信ズ22」などと述べ、渋沢栄一や大倉喜八郎などに武器購入や軍資金の調達に動いたがいずれも成功しなかった。孫文の地位の低下とともに日本人との接触も希薄となり、孫文に協力したのは中国人を教育するために浩然学舎を設立した西本願寺の中国布教僧水野梅暁、政法学校の校長寺尾亨、内田良平などに限られ、亡命中の生活費は頭山の依頼で九州の炭坑主の菅原文他が支給した。23
1915年12月に袁世凱の帝制問題に端を発した第3革命の火の手は、たちまち南方各省に拡がり、6月には袁世凱の死により段棋瑞政府が誕生すると、孫文は1917年9月に広東に軍閥の力を借りて新政府を組織し護法運動を開始した。しかし、再び敗れるとヨーロッパ経由米国に亡命し、その後、日本への亡命を犬養などを通じて再三要請したが日本政府は認めなかった。しかし、孫文は1921年5月に再び軍閥の力を借りて広東に臨時政府を樹立した。

中華人民共和国の建国とソ連(コミンテルン)
 次に孫文が建国した中華人民共和国について見てみよう。ソ連邦解体前に出版された『ソ連と中国―友好と敵対の関係史』には、「ソ中関係の分析なくしては、現代世界の真の姿を正しく把握することはできない」。「ソ中関係史は単に二国間の国際関係史にとどまるものではない。これは中国人民の民族解放革命闘争の年代記と不可分のものであり、その重大な側面を形作っているものは、ソ連がこの闘争を援助し支持したというテーマである24」と記されており、ソ連(コミンテルン)から見た孫文像を描き出すのも必要であろう。

 しかし、コミンテルンに関する史料が中国では殆ど公開されていないので、主としてソ連邦崩壊後にロシアで出版された出版物、米国などの研究書、また1938年にロンドンで出版されたK・カール・カワカミの『シナ大陸の真相』などによることとした。この本の著者のカワカミは明治期の社会主義者で、ミドル・ネームにカール・マルクスのKを付けるほど社会主義運動に没入していた人物であった。しかし、1901年に渡米後は社会主義を放棄し、在米大使館(斉藤博大使)の顧問であり、日本の主張を代弁する在米評論家として活動した米国言論界の重鎮であった。このカワカミが用いている資料は、国民政府がソ連と国交を断絶した1927年に、ソビェト大使館や各地の領事館、コミンテルン支部や同じ年にロンドンのソ連ハウス(国交がなく通商代表段が入っていたビル)から接収した文書を利用したものであり、駐日英国大使ジョン・タイリーや石井菊次郎が序文を書きフランス語(原文は英語)に翻訳されていることなどから、本書が単なる際物ではないことを理解して頂けるであろう25。

 ドイツ、ハンガリーやポーランドへの「革命の輸出」が失敗したコミンテルンが、次に「革命の輸出市場」として注目したのが、軍閥が割拠し国内が四分五裂の中国であった。1920年にコミンテルン東方部長のG・N・ヴォイチンスキーが北京を訪れ、各地に共産主義のサークルを誕生さ上海で孫文に会った。そして、中国が革命の有望な輸出国であると判断すると、1921年1月にはイルクーツクにコミンテルン執行委員会極東書記局を設置し、6月には民族植民地担当書記ヘンドリック・G・マリーン(デンマーク人)を派遣し、7月には陳独秀に上海で第1回中国共産党全国大会を開催させ、中国は「ロシア共産党をモデルとし、レーニンの理論に則って党の設立を進める」との綱領を決定させた24。この会議には毛沢東を含め13名がコミンテルンの旅費で参加したが、その当時の党員は50名余であった。26この弱体な中国共産党ではソ連の要求に応えられないと見たコミンテルンは、共産党員を国民党に入党させ、国民党を急進的な社会主義政党に改党しようと計画した。

 そして、1922年12月にグリーンが孫文の同意を得ると、10月にはミハイエル・M・ボロジンを国民党の政治顧問として派遣し、1923年1月には中華公使のアドロフ・ヨッフェと「ソ連は中国国民党が中国を統一する大事業に対し、熱烈な共感を持って援助する」との孫文ヨッフェ協定を締結し、ロシア共産党中央委員会政治局からは政治顧問と軍事顧問を派遣し「中国西部に統一軍単位の革命軍の基盤」を形成する決定を下し、国民党に200万メキシコ・ドルの資金が供与された。27次いで1924年1月の中国国民党第1回全国代表大会では、ソ連と連携する「連ソ容共」方針と、共産党員を国民党に入党させることが決議された。なお、これらコミンテルンの策動について、マルクス・レーニン研究所発行の『コミンテルンと東方』には「ソヴィエト政治顧問の粘り強い論議の中で、国民党の反帝国主義綱領が生まれた」。「1925―1927年の中国革命は、民族解放運動に対するコミンテルンの最も重要なあらゆる戦略的・戦術的方針……が実現された」と、コミンテルンが大きな役割を果たしたと記されている28。

 一方、1923年9月に軍事使節団長としてモスクワを訪問した蒋介石は、「率直に伝えたいことは、ロシア共産党を信用すべきではない。ソヴィェトがわれわれに話したことの3割しか信じられない。ロシア共産党の目的は中国共産党をロシアの従順な道具にすることであり、ロシアとわが党との協力関係が続くとは思えない。共産主義者の政策は東北部の諸省、モンゴル、新彊、チベットをソ連圏に入れることです。彼らの国際主義と世界革命は、外界を欺き迷わせるための別名の帝国主義なのです」とソ連の真意を見抜いていた。しかし、無駄であった。国民党と共産党を合体させたソ連は、あらゆる手段を使って国民党内部に共産主義者を送り込み、蒋介石らの国民党右翼の影響力を排除していったのである。1924年初めには黄浦軍学校が設立され、北伐を開始する26年半ばまで総てソ連の資金で運営され、6000人以上の将校が育成された29。

 さらにソ連は、モスクワに孫文の名前を付けた中国人専門の孫文中国労働者大学(通称・中山大学)や、スターリン東方勤労者共産主義大学(通称・東方大学)などを創設し、1928年以降、毎年400名から500名の若者に思想教育をして送り返していた。また、赤軍陸軍大学、歩兵士官学校、高級空軍学校、歩兵士官学校などで毎年200名から300名の軍人が教育を受け共産主義者になって帰国していた30。そして、これらの留学生はコミンテルンから派遣された顧問たちの指導のもとに、精力的に労働者や農民を洗脳し組織し、国民党員を左傾化して蒋介石の影響力を低下させていったのである。

 一方、ソ連は表向きには北京の中央政府を中国の代表と認めながら、内密に中央政府と対立する孫文などの広東グループ、山西省の軍閥馮玉祥に援助を与え、1925年から26年に小銃2,8万丁以上、弾薬2735万発、大砲40門、手榴弾1,1万発以上、航空機3機を供与していた31。このように各軍閥に援助を行ったのは、どの軍閥が権力を確立するか不明であったこと、中国の内戦を拡大し革命の実現を期待したからであった。しかし、これらの軍閥の中で国民党こそが、モスクワが策略を傾けるべき主役で、共産党が弱体な時期には国民党政府を支援し共産党を押さえた。これは国民党政府がソ連と国交を断絶した直後に、中国の警察がソ連大使館に突入し、ストーブの中から摘み出した次の「指令(1926年1月)」からも理解できるであろう32。

「中国の国家的独立のための政党として国民党に有利になるように扇動をすすめることが必要である。漢口事件に対して英国がとった立場を国民党の成功の証明、中国革命に対するヨーロッパ列強諸国の反対する力の弱さの証明として最大に利用すること。ヨーロッパが押しつけてくる無理難題、とりわけ英国の……〈焼失〉…に対する煽動を組織的にすることが必要である。…(焼失)……外国の干渉を呼び起こすために--(焼失)--いかなる手段も躊躇しない。ヨーロッパの軍隊と衝突した場合は、煽動のためこれを最大限に利用すること。張作霖が没落する日まではブルジョアジーを含めた全国民のあらゆる階層を国民党の中に網羅することをわすれないよう。われわれとしては断固としてボロジンに命じておいた。……目下の所は共産主義の宣伝活動をしないよう注意せよ」。

その後、中国共産党は1935年7月25日からモスクワで始まった第7回コミンテル大会の「反ファショ人民戦線戦術に関する決議」に応じ、中国代表が提出した「抗日救国のために全同胞に告ぐるの書」が、共産主義インターナショナル委員会の審議を得て8月1日に内戦を中止し全中国人が抗日戦に結集すべきであると訴える「八・一宣言」として発表された33。これを受け12月9日には北京で学生を中心とする抗日デモが発生した。しかし、蒋介石は共産党の呼びかけには応じず、抗日戦争より共産軍討伐戦を優先したため共産党は壊滅寸前まで追い込まれた。しかし、ここに奇蹟が起こった。西北掃共副司令官の張学良に共産軍の撃滅作戦を督促するために西安を訪れた蒋介石が1936年12月12日に左傾化した西方軍閥の楊虎城に捕らわれ、軟禁される西安事件が発生したのである。

 蒋介石を軟禁したとの知らせを受けるとスターリンは、周恩来に電報を打ち「張学良では器量不足だ。張学良では抗日戦を指導できない。中国共産党も将来は別として、いまの時点では抗日戦を指導する能力はない。蒋介石は憎むべき敵ではあるが、中国では唯一人の抗日戦の指導者であり、抗日戦となれば中国共産党を合作者として容れるだろう」と国共協力を指示した。この指示に毛沢東は「烈火の如く激怒したが」従わざるを得なかった34。そして、ここに第二次国共協力体制がソ連の介入で再び構築され、その半年後の1937年7月7日に盧溝橋事変が発生し、共産軍と蒋介石軍とがともに抗日戦争を戦うことになったのである。

 第二次国共同体制が合意されると、孫科(孫文のソ連贔屓の息子)、宋慶齢(孫文の未亡人)を始め、多くの共産党員が影響力を再び取り戻し、蒋介石によって抑えられていた極左勢力が影響力を取り戻し、国民会議の人員構成も共産党と国民党でほぼ平等に分けられた。投獄されていた共産党員や煽動者が釈放され、何応欽将軍や国民党右派の政治家は影響力を失っていた。その後、中華人民共和国が建国されると孫文の妻・宋慶齢は共産党副主席に任命されたが、妹の宋美齢は蒋介石と共に台湾に逃れた。この中国革命や中華人民共和国の建国をソ連科学アカデミー極東研究所が編纂した『中国革命とソ連の顧問たち』には次のように書かれている35。

 「中国革命は、民族的・社会的解放を目指す中国人民の闘いを重視するソビエトの人々から、誠意あふれる道義的・政治的支援に依拠してきた」。また「孫文政府の要請で中国に派遣された経験豊かな政治活動家や軍人たちは、革命政権の顧間として、華南における革命の成果を守りぬくのを助けた」。今日、「プルジヨア歴史学がいかに歪曲しようとも、また民族主義的気分に満ちた中国の歴史学が、中国革命におけるソビエト人の役割や、彼らが占めた地位をいかに抹殺しようとしても、彼らの無私な援助は両国人民の友好と連帯の模範として、中国の広範な大衆の胸の中にいつまでも残っている」。ソビエト国家の使者たちは、資本主義西方の代表たちと異なり、中国人民の民族的感情を大切に扱った。レーニン在世中も彼の死後も、ソビエトの人びとは中国革命にみずから参加することで、プロレタリア国際主義の本質、世界革命運動の不可分性、ソ連と中国の労働者の利益の一体性を身をもって示した」。

中国の教科書に見る孫文の遺書の謎
 北京大学の王暁秋教授は『中日文化交流史話』(台湾商務印書館)に、「宮崎滔天は中国革命を支持した最も誠実な日本の友人である」と書き、大連の遼寧師範大学歴史系講師の郭鉄柆粧(木偏に庄)は、『中国人の見た中国・日本関係史』(東方書店)の中で、「滔天は中国人民の真の友人、傑出した国際的友人であり、同時に中国人民の革命隊列の中で思想が堅く、不屈であった一人の外国人革命戦士でもあったといえる。彼は中国人民革命事業に対し、また、中日人民の友情あふれる交流に対して貴重な貢献をした。彼は永遠に日本人民の、そして中国人民の心の中にも生きるであろう」と高く評価している36。また、孫文も宮崎滔天の『三十三年の夢』の序文に「宮崎寅蔵君は、現代の侠客なり。識見が高く、抱負が非凡で、仁を想い、義の心を尊び、危場を救い、衰亡を救う志を発揮し、日々黄色人種の衰退を憂い、支那が削弱されるのを憐れみ、度々支那に旅し、賢人を訪ね、共に非凡な計画を立て、興亜の大業を成すことを望んだ。宮崎寅蔵君は、我等の支那を再建しようとする計画及び共和国創設の動きが有るのを聞き、千里の距離も遠しとせず、来たりて交流を図り、期するところ極めて深く、真摯に激励した37」と宮崎の援助に感謝している。

 また、孫文は日露戦争の勝利を「最近数百年間におけるアジアの欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、アジア全体の民族は非常に歓喜し、そして極めて大きな希望をいだくに至った38」と称えているが、中国の教科書には孫文を感激させ、独立心を奮い立たせた日露戦争に関する記述は全くない。また、宮崎などが仲介して成立させ援助した中国同盟会についても、「孫中山はヨーロッパから日本に到着し、革命の力を集中するために、華興会、光復会と興中会などの革命団体のメンバーを連合して、8月に東京で中国同盟会を成立させた。…….それとともに『民報』を創刊して、これを革命宣伝のための機関誌とした。中国同盟会は最初の全国規模の統一されたブルジョア革命政党である。中国同盟会の成立は、大いに全国の革命運動の発展を促進した」と、梅屋庄吉が事務所と『民報』の資金を提供し、末長節が印刷を、発行所を宮崎滔天の自宅とするなど、全面的に日本の支援を得て発行されていたが、これらについては全く記述されず、中国人が創設し中国人の資金で発行され、自力で革命が達成されたような書き方となっている。39また、中国の教科書には次に示す孫文から「ソビエト社会主義共和国大連邦中央執行委員会の親愛なる同士」宛の遺書が掲載されている。40

「諸君は自由なる共和国大連邦の領袖である。この自由なる共和国大連邦は不朽なるレーニンが被圧迫民族の世界に遺し与えた真の遺産である」。「私は国民党を遺す。国民党は中国およびその他の被侵略国の帝国主義制度よりの解放を完成する歴史的任務において諸君と力を合わせ協力することを願う」。「私はすでに国民党に長くここに諸君との提携を継続することを命じた。私は諸君の政府もまた従来わが国に与えられたる援助を必ず継続することを深く信ずる」。「希望は久しからずして暁を破るであろう。この時ソビエト連邦は良友として、また同盟国として独立強盛なる中国を歓迎し、両国は世界の被圧迫民族の自由を争う大戦中にあって、手を携えともに進んで勝利を獲得するであろう」。

 しかし、孫文の死の直前まで枕元にいた山田純三郎は、この遺書は偽作であると次のように否定している。41純三郎は孫文に「山田兄弟は中国革命の忠実なる同志」と書かれている弟の方で、兄の良政は孫文の恵州蜂起中止命令を現地指揮官の鄭士良に伝えに行き、清国軍に捕らわれ処刑された人物である。その弟の純三郎は兄の死後に孫文の私設秘書として孫文を支えたが、純三郎によれば「忘れもしない3月12日(1925年)、宋慶齢夫人が「山田さん、最後を見て下さい」という。そこで従弟の菊地と萱野と滔天の兄の宮崎民蔵と一緒に駆けつけた。そして私だけが病室に入れられた。奥さんは孫さんの身体をさすつている。そのときの孫さんの顔が今でも目にこびりついている。私はハンケチに水を含ませて唇を湿した。静かに死が訪れていた。私は泣いた。泣いた。泣いた。誰かに呼びに来られて、気をとりなおして別室にいった。汪兆銘、孫科、戴天仇など集まって遺言というものが発表された。「余、国民革命に力を致すこと四十年、……革命は未だ成功せず…-」と読みあげられ、これを以て国民党の同志に残す遺言とすることになった。これは汪兆銘が書いたもので、孫文の署名は息子の孫科が代筆した。「おやじの字には癖があるんで、難しいなあ」といいながら何度も練習してから、私の目の前で署名した。

 次いで、「その遺すところの書籍、衣物、住宅などは一切均しく吾が妻宋慶齢に付し、以て記念となす-…」と家族に対する遺言が読みあげられた。沈んでいた同志たちから、この遺言ではじめて軽い笑が洩れた。孫さんには財産というものは何一つない。上海の家だって二重抵当、三重抵当に入っていたからである。私は以上の二つの遺書が、すくなくとも孫さんの死に立ち会った人々の認めた遺言であると信じている。ところが新聞にもう一つの別の遺書が発表された。それは孫さんからソ連に宛てた遺書である。これはおかしい。怪しからんことだ。ソ連に宛てた遺書なるものは汪兆銘(汪精衛)がボロジンに買収されて発表させられたものだろう。汪とはそんな男だ。こうしたことに憤激した同志たちは、その後、西山に安置された孫文の遺骸の前で会議を開き、ついに汪一派と袂を分かったのである」と書いている。
 スラビンスキーによると、汪兆銘は「名誉欲が強く」、また、ソ連の顧問の活動に対して「何ら制限を設けなかったので、ボロディンや共産党に支持されていた」。また、汪兆銘とボロディンは廖仲トの謎の死を胡漢民が暗殺に拘わったと非難し、広東に追放した。「この時から国民党は汪兆銘の手中にがっちりと握られた」と書いている。42 しかし、このソ連宛の遺書は汪兆銘でなく、陳有仁(武漢政権が分裂するとモスクワに逃れたが、国共合同が成立すると、外交部長に返り咲いた人物)がボロジンと協議して書いたもので原文は英文であった。
 この孫文の遺書は3月14日には『プラウダ』に掲載され、15日にはスターリンから弔電が届けられた。一方、コミンテルンは孫文が死ぬと国民党を内部から崩壊させ、共産党が実権を握るよう指示した。この指示を受け中国共産党は国民党の政策を攻撃し、孫文の三民主義さえ批判した。このようなことから、1925年11月には国民党右派(蒋介石など)は孫文の棺のある北京郊外の西山に集まり、共産党と汪兆銘などの国民党左派に分裂した。そして、共産党と汪兆銘などの国民党左派は1926年1月に広州で国民党大会を開いた。出席者は250人であったが、100人は共産党員であった。なお、孫文は1913年に山田純三郎を伴い兄の良政の碑を全生庵に建立し、純三郎の家族に会って弔意を表した。また、純三郎が83才で1978年に亡くなると、蒋介石は弘前の貞昌寺に立てられた顕彰碑に「永懐風儀(永遠に君の情宜を忘れず)」と書いている43。

「したたか」なアジアの民族独立主義者
 アジアの指導者は「したたか」であった。ビルマのアウンサンなどは日本軍が優勢なときには協力したが、戦局が不利となると日本軍に対してクーデターを行って離れ、カンボジャのシアヌーク殿下も日本軍が優勢なときには協力していた。しかし、日本が敗北するとフランスと協定を結んで内政に関する自治を認めさせたが、1952年にはクーデターで政権を奪取し、1953年11月には国際世論の支持を背景に独立を達成した。また、チャンドラ・ボースも日本が敗北すると、ソ連の援助を得ようと満州に向かったが台湾まで来たところで航空事故でこの余を避けた。

 フィリピンのマネエル・ロハス大統領も表面的には日本軍に協力していたが、米国に内通していたのであろうか、日本軍がマニラを撤退するときには浜本正勝の護衛で脱出したが、米CIC(対情報部)に逮捕されると米軍から将官用の軍装一式を贈られ、隠れ家から米軍差し回しの将官旗を掲げた車両で立ち去った44。そして、その後に政界に復帰し大統領になっている。タイのピプン・ソンクラム政権も表面的には親日を装っていたが、裏では重慶の米国戦略事務局(OSS)と緊密な連絡を取っていた。インドネシアのスカルノは日本軍に全面的に協力したが、スカルノは「われわれは未だ準備ができていない」ので、力を蓄え「日本が敗れるのを待つのだ45」と述べていた。

 このようにアジアの指導者は、めまぐるしく変わる国際関係のなかで独立を達成しようと、国際環境のパワーバランスの変化を巧みに利用したのであり、孫文に限ったことではない。しかし、アジアの指導者の中で最も「しなやか」対応をしたのは、『三国志』を生んだ中国人の孫文であろう。孫文の革命の基調は中国伝統の「夷を以て夷を制する」「合従連射」であり、「遠交近攻」であった。最初は英国に頼ろうとしてが英国で清国の依頼で逮捕され国外追放を受けると日本に頼った。しかし、その後に日本を追われると米国、フランス、ドイツ、日本と国際情勢の変動に応じて援助先を変えたが、さらに革命勢力も「新軍」から広東や雲南の軍閥と組むなど他力本願で革命を成功させたのであった。また、中華人民共和国を建国した毛沢東も、力のない時にはソ連に頼りコミンテルンの指導と援助を受けたが、実力を付けるに従いコミンテルから距離をとり、コミンテルから派遣された軍事顧問のオットー・ブラウン(中国名、李徳・ドイツ人)を無視し、最後には追放している46。

脚注
1 大江志乃夫『バルチック艦隊 日本海海戦までの航跡』(中央公論社、1999年)136頁。
2 中国に対する列国の鉄道敷設については井上雄一『東アジア鉄道国際関係史 日英同盟の成立  および変質過程の研究』(慶応通信社、1989年)を参照。
3 古屋哲夫『日露戦争』(中央公論社、1999年)9-10頁。
4 秦郁彦、佐瀬昌盛編『世界戦争犯罪辞典』(文藝春秋社、2002年)43-44頁。
5 Howark K. Beale,Theodore Roosevelt and the Rise of America to the World Power(Washington   D.C.;John Hopkins Universty,1956),p260-262.(谷光太郎『山口経済研究叢書 米国東アジア政策  の源流とその創設者:セオドア・ローズヴェルトとアルフレッド・マハン』(山口大学経済学会、   1998年)104-105頁。
6 Sidney L.Gulick,Daniel A/Metraux,ed.,The White Peril in the Far East:An Interpretation of the   Russo-Japanese War(New York;Writers Club Press, 2003),p. 106.
7 尾形勇・岸本義緒編『新版 世界各国史 中国史』(山川出版社、1998年)349-350頁。
8 楡辛惇(左側は火編)『東アジアの中の日本歴史 孫文の革命運動と日本』(六興出版、1989年)95頁。
9 外務省編『日本外交文書 日露戦争V』第37・38(日本国際連合協会、1960年)674頁。
10 前掲、楡(左側は火編)、96-97頁。
11 前掲、楡(左側は火編)、88頁。
12 同上、91-92頁。
13 石川禎治『中国共産党成立史』(岩波書店、2001年)53-62頁。
14 前掲、楡(左側は火編)、88頁。
15 黄文雄『中国 韓国の歴史歪曲』(光人社、1997年)65-70頁。
16 藤井昇三『孫文の研究―特に民族主義理論の発展を主として』(勁草書房、1966年)14頁、黒龍会編『東亜先覚志士記伝』上巻(原書房、1966年)』617-626頁。
17 http://kyushu.yomiuri,co,jp/umeya04/umeya4-01,htm.
18 波多野勝『近代アジアの政治変動と日本外交』慶応義塾大学出版会、1995年)58-77頁、前掲、   藤井、34-35頁。
19 前掲、楡(左側は火編)、962頁。
20 同上、100-102頁。
21 今井駿也編『世界現代史 3 中国現代史』(山川出版社、1984年)94-95頁。
22 前掲、藤井、86-87頁。
23 同上、8頁。
24 O・B・ボリーソフ『ソ連と中国―友好と敵対の関係史』(サイマル出版会、1979年)7頁。
25 K・カール・カワカミ(福井雄三訳)『シナ大陸の真相 1931-1938』(展望社、2002年)328-330頁。
24  『世界の教科書シリーズ 入門中国の歴史 中国中学校歴史教科書』(明石書店、2001年)871頁、ボリス・スラビンスキ(加藤幸広訳)『中国革命とソ連 抗日戦までの舞台裏』(共同通信社、2002年)102頁。
26 前掲、石川『中国共産党史』273-275頁。
27 前掲、スラビンスキ『中国革命とソ連』109頁、前掲『シナ大陸の真相』111-114頁。
28  ア・エム・グリゴリエ「コミンテルンとソヴェトのスローガンのもとに行われた中国の革命運動」(国   際労働運動研究所編『コミンテルンと東方』(協同産業出版部。1971年)297頁。
29 前掲、スラビンスキ『中国革命とソ連』113-114頁。
30 前掲、カワカミ、57-58頁。
31 同上、カワカミ、42-43頁、スラビンスキ『中国革命とソ連』131頁。
32 同上、カワカミ、44-46頁。
33 カ・ヴェ・ククシキン「コミンテルンと中国における抗日民族統一戦線」(国際労働運動研究所編『コ   ミンテルンと東方』協同産業出版部、1971年)297頁。
34 岸田五郎『張学良はなぜ西安事変に走ったか』(中央公論社、1995年)142-145頁、前掲、前掲、スラビンスキ、351-352頁。
35  ソ連科学アカデミー極東研究所編『中国革命とソ連の顧問たち』(日本国際問題研究所、1997年)iv-v頁。
36 石田収「宮崎滔天―辛亥革命の陰の功労者」(岡本孝治編『近代日本のアジア観』(ミネルバ書房、1998年)79頁。
37 宮崎滔天(宮崎竜介・校注)『東洋文庫 三十三年の夢』(平凡社、1979年)3頁。
38 桜井敏照「日露戦争と中国の民族運動」信夫清三郎・中山治一編『日露戦争の研究』(河出書房新社、1972年)456頁。
39 前掲『世界の教科書シリーズ 中国中学校歴史教科書』780頁。
40 同上、910-917頁。
41 「シナ革命と孫文の中日連盟」(嘉治隆一編『第一人者の言葉』(東亜倶楽部,1961年)280-282頁。
42 前掲、スラビンスキ『中国革命とソ連』134頁。
43 読売新聞「梅屋庄吉伝:孫文と歩んだ30年」http://kyushu.yomiuri.co.jp/umeya/umeya-main.htm.
宝田時雄「請孫文再来 人先と孫文」http://www.rhinkjapan.gr.jp/sunwen/sun/13htm.
44 鈴木静夫『物語フィリピンの歴史ー「盗まれた楽園」と抵抗の500年』(中央公論社、1997年)221頁。
45 スカルノ述『スカルノ自伝』(角川書店、1969年)252頁。
46 姫田光義『中国革命に生きるーコミンテルン軍事顧問の運命』(中央公論社、1987年)187-203頁。