世界史を変えた日本海海戦の勝利
日露戦争における日本海海戦の意義
日露戦争が世界史に与えた影響については、アジアへの進出を阻止されたロシアが西に向かい、それが第一次世界大戦の誘因になったとか、世界最初の共産主義国家誕生の導火線になったとか、世界史に大きな影響を与えたことは良く知られている。しかし、最も大きな影響を与えたのは有色人種の非キリスト教徒が、白色人種のキリスト教徒に勝利したことから生じた人種的宗教的世界システムの変革であろう。しかし、この日露戦争の勝敗を決したのが日本海海戦の勝利であった。
日本海海戦の日本の勝利が伝えられると、英米の新聞は「ロシアは海軍国たる地位を失した。ロシア皇帝は敗北を認め国内の改革に従事すべきである。「今ヤ百計既ニ尽キ」戦争を「継統スルノ望全ク絶エタ」。未だロシアに和平の動きがないのは、「露国ノ為ニ誠ニ惜シム」と一斉にロシアに講和会議のテーブルに着くように主張した。しかし、ロシアの新聞は艦隊を失うことは強力な助手を失うことだが、助手は助手である。ロシアの威力は常に陸軍にあり、陸上における「戦争ノ継続ヲ不可能」するものではない。満洲には6十万の兵があり現在も増強中である。自殺することはいつでもできるように、屈辱的な講和ならいつでもできるなどと、戦争継続を主張し講和に応じろという新聞はなかった。
一方、フランスの新聞はロシアの最後の勝利を信じ、ロシアを援助すべきであると報じていた。しかし、日本海海戦にロシアが敗れると「ルタン」紙は、もはやロジェストヴェンスキーに期待できそうにない。敗北に敗北を重ねたうえに、またもや敗北なのか。強力な艦隊を派遣して失われていた制海権を奪い返す考えは支持し得るものだった。海戦に勝利することによって、日本軍の連絡路を断ち、港を攻撃し日本本土に戦争を持ち込むことは戦争の行方を変える可能性を持っていた。しかし、艦隊が殲滅されロシアは「制海権ノ回復ヲ断念」せざるを得ないであろう。制海権がければ戦前の状態に回復することは「到底、為シ得ヘザル所」なので、早期に講和会議に応じるのが望ましいことを、同盟国として「心胸ヨリ勧告」すると、講和会議の席に着くべきことを進言した。
ドイツの主要新聞は主義の「如何ヲ問ハス、総テ異口同音ニ海戦ノ終局セルヲ唱へ」、ロシアが今日まで陸上戦闘で成功せず、海戦の成功に賭けていたが、バルチック艦隊も消滅し、「戦運挽回唯一」の望みも「消亡シ去リ」、今後、極東において海軍力を回復することは「遠キ将来ニ至ル」まで不可能となったと、敗北を認め早期に講和に応じるべきであると主張した。このような世界の世論や国内の革命勢力の増大や、黄色人種に完敗した屈辱に対する国民の不満などを受け、ツアーは講和会議のテーブルに付かねばならなかった。アルゼンチン観戦海軍武官マヌエル・D・ガルシア大佐(のち大将、海軍大臣)は、トラファルガー海戦はヨーロッパをナポレオンの支配から救い、日本海海戦はアジアをロシアの支配から救ったと書いているが、日本海海戦は、それ以上の影響を世界史に与えた。次ぎに日露戦争が世界史に与えた影響を1世紀という視点からみてみたい。
日露戦争がアジア諸民族に与えた衝撃―アジア民族の覚醒
大陸の中華人民共和国からも台湾の中華民国からも建国の父とされている孫文は、「日本の勝利が有色人種や、大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた」と書いているが、中国では日露戦争の日本の勝利を契機としてナショナリズムが高まり、米国の人種差別に対する抗議デモや米国製品不買運動が初めて起きた。また、日本に学ぼうと留学熱が高まり、1906年には留学生は1万2000名に達した。そして、孫文は日本への留学を通じて啓蒙された青年たちを率いて、辛亥革命を実現し中国に最初の近代的国家を誕生させたのである。

ベトナムのファン・ボイ・チャウは、「日露大戦の報 長夜の夢を破る」「日露戦役は実に私達の頭脳に1世界を開かしめた」と回想しているが、ファン・ボイ・チャウは福沢諭吉の『学問のすすめ』に大きな影響を受け、「米国の虎やヨーロッパの鯨の横暴に対して、黄人種として初めて歯止めをかけた。なぜ日本がそれをなし得たか。答えは東京にある。中国、朝鮮、インドからの留学生で東京は溢れている。日本に学べ」と、若者を日本に留学させる「東遊運動」を初め、260名余の若者を日本に送った。また、ハノイには慶応義塾に倣って「トンキン義塾」も創設された。フィリピンでは日本海海戦の勝利のニュースが伝わると、マニラ領事館には多数の祝電が寄せられたが、のちに国会議員となったエンリケ・コーポラウは「アジアの時代が来た。アジアがヨーロッパに対して立ち上がる時が来た」と歓喜したと回顧している。
一方、インドのジャワーハルラール・ネール首相は「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国に大きな影響を与えた」。「ヨーロッパの一大強国が敗れた」。だとすれば、アジアはヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。「ナショナリズムは急速に東方諸国にひろがり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった」と書いている。インドの新聞「ヒタバディ」紙は「日露戦争の日本勝利が西欧に対する幻想を解消した。インドのようなおとなしい羊でも虎に変身できる。我々は羊が虎にはなれないという過ちに気が付いた。日本の勝利がインド人を覚醒し、英国と対等という前向きの思想に目覚めさせた」と報じた。
日露戦争がアラブ・回教圏に与えた衝撃―アラブの夜明け
今回の人質事件の例を挙げるまでもなく、アラブ諸国には極めて強い親日感情があるが、それは日露戦争の勝利にあった。日露戦争が始まるとアラブ社会には数多くの日本や日露戦争に関する本が出版された。エジプトでは1903年6月に、ムスタファー・カーミルの『昇る太陽』が出版されたが、カーミルは「墓場から甦って大砲と爆弾の音を響かせ、陸に海に軍隊を動かし、政治上の要求を掲げ、自らも世界も不敗と信じていた国を打ち破り、ほとんど信じ難いまでの勝利を収め、生きとしいけるものに衝撃を与えることとなったこの民族とは一体何者なのか。かの偉大な人物(天皇)とは何者なのか。いかにして全世界を照らし出す昇る太陽を、目のあたりにすることになったのか。今やだれもが驚きと讃嘆の念をもって、この民族についての問いかけを口にしているので説明する」ために、また、エジプト人を目覚めさせ、若い世代を導くために、この本を書いたと述べている。
また、エジプトの国民的詩人ハーフィズ・イブラーヒームは「日本の乙女」という詩を書いたが、この詩はエジプトだけでなく、レバンノの教科書にも掲載され、現在でも多くのアラブ人に愛唱されているという。そして、インター・ネットの日本アラブ通信に「新アラブ千一夜物(第1夜)」として、「われは日本の乙女、銃もて戦う能わずも、身を挺して傷病兵に尽くすはわが務め、わが民こぞりて力を合わせ、世界の雄国たらんと力尽くすなり」との詩が掲載されている。日本賛美はエジプトにとどまらず、他のアラブ諸国にも波及し、トルコの女流作家ハリデ・エディブ・アドゥヴァルは、1906年に生まれた次男を、ハサン・ビクメトツラー・トーゴー(東郷)と名付けた。トルコの観戦武官ペルテヴ・バシャは、戦記『日露戦争』と、講演録『日露戦争の物質的・精神的教訓と日本勝利の原因』を刊行し、「日本軍の勇敢さや国民の一致団結を讃え、国家の命運は国民の自覚と愛国心で決するものであり、トルコの未来も日本を見習い近代化を進めるならば、決して悲観すべきものではない。国家の命運は国民にあり」と訴えた。そして、トルコでは日本の勝利がトルコの祖国解放運動、近代化を推進するケルマ・アタチュルクのトルコ革命に連なっていった。

イランではホセイン・アリー・タージェル・シーラーズイーが、『ミカド・ナーメ(天皇の書)』を書き、日本が世界に新しい光を投げかけ、長い無知の暗闇を駆逐したと日本を賛美しているが、それは次の1節からも読み取れるであろう。
東方からまた何という太陽が昇ってくるのだろう。
眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。
文明の夜明けが日本から拡がったとき、
この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。
イラクでは詩人のアルーフ・アツ=ルサーフイーが「対馬沖海戦」を、レバノンでは詩人アミール・ナースィル・アッ=ディーンが、「日本人とその恋人」を発表した。また、イラン人の啓蒙思想家ターレボフは『人生の諸問題』で、日本の勝利とロシアの敗北の理由を、日本の立憲君主制の文明開化と自由、ロシアの敗北を専制君主制による未開性と抑圧と捉え、「神助を得た日本の皇帝はアジアの王たちによき手本を提供した。もし王たちが狩猟や黄金をちりばめた王宮での安眠の代わりに、その時間を少しでも王国内の諸問題の解決と、国民の福祉とを考えるために費やすならば、彼らはきっと天皇の方策を模倣することになるだろう」と述べ、さらに末巻に明治憲法を掲載した。そして、このペルシャ語訳の明治憲法が、モロッコ憲法の創案者が「日本を模倣すれば、日本が短時間で達成したものを成就することが可能である」と、憲法草案の説明文に書かれていることから東京大学の杉田英明教授は明治憲法がモロッコ憲法に影響を与えた可能性があるとしている。
日本とイスラム圏との連携―天皇をカリフに
日露戦争当時、トルコ皇帝アブドル・ハミッド二世がイスラム教徒の団結を国策としたこともあり、パン・イスラム主義がユーラシア大陸に広がっていた。このような時に日本がキリスト教国に勝利したことから、パン・イスラム主義は勢いを増し、イスラム圏ではイスラム教を日本に広げ、天皇をカリフ(盟主)とすることによって、西欧勢力に対抗しようとの動きが生まれた。トルコでは1906年に、『イジュティハート』誌にアブドゥッラー・ジェウデトが、「ロシアと日本」との諭文を書き、日本がもしイスラム国家となれば、明治天皇をカリフとするのが適当である。そうすればイスラム諸国の団結はますます強固になるであろうと主張した。イランからはタバタバーイーなど立憲派学者が、天皇に電報を打ちイスラム社会への支援と保護を求めた。
また、タタール系のロシア人アブデュルレシット・イブラヒムはトルコ皇帝の内命を受けて訪日し、国民新聞社に徳富蘇峰を訪れ、日本へのイスラム教の布教だけでなく、欧米列強のアジア進出に対して協力し対抗しようと次のように熱く語った。
「我々の目的は日本にイスラムを広めるとともに、東洋の覚醒と統一をはかり、これによって東洋を外国 の侵略から防衛するために尽力することです。東洋の生命を残酷な西洋の侵略者の攻撃から救う手立 てを考え力を尽くすことは、人間のもっとも神聖な使命と言わねばなりません。イスラム教徒を代表して日 本の助力を請い願う次第であります」。
また、1921年3月にはヘヂアスの王族アルカデリーが、イスラム民族連盟の極東駐在代表として来日し、アラビア、インド、エジプト、トルコのイスラム教徒がメッカで開かれたイスラム教徒代表者会議で、日本を盟主と仰ぐことが決議されたと伝えた。このようなイスラムの働きかけを受け、日本でもイスラム圏への関心が高まり、1909年にはアジア主義者の頭山満、内田良平、大原武慶らと、アブデュルレシト・イブラヒム、アフマド・ファドリー、ハムンド・バラカトゥッラーなどが、イスラム教の弘布とアジアの共同防衛を目的とした亜細亜義会を結成した。さらに、1921年10月には中央アジアの回教徒と連携するために、「大亜細亜協会」と「ツラン会亜細亜本部」を設立した。日本のユーラシアの回教徒との連携は、1930年代にはいるとさらに加速し、パミール高原に近い新疆のカシュガルを中心に、イスラム教徒の独立国を作ろうとホフホトに西北回教連合会本部を、包頭、大同、張家口に支部を設立した。しかし、パン・イスラム主義者たちの日本イスラム化計画は、1938年に代々木にモスクを建立し、その3ヶ月後に前総理の林鉄十郎大将を会長に大日本回教協会を発足させたにとどまった。
日露戦争のヨーロッパ諸国への波動―ポーランド・フィンランドの独立
ポーランド人は、日露戦争がロシアのポーランド支配に変化をもたらすと期待した。独立派や革命派の指導者が日本の在外公館に援助を得ようと接近し、独立派リーダーのピウスッキが来日した。ピウスッキはポーランド部隊の編成、独立派への武器や資金の提供、ロシア軍に対する情報提供や攪乱工作などを申し出たが、日本は複雑な国際政治に巻き込まれることをおそれ、日本の援助は小規模なものであった。このささやかな援助が、ポーランドの独立にどのような寄与をしたかは明らかでない。しかし、日露戦争から13年後の1918年11月に、ポーランドが独立を認められピウスッキが大統領に就任すると、日露戦争で活躍した61名の日本軍指揮官に軍徳勲章が贈られた。
フィンランドはロシアの支配下に置かれていたが、日本の勝利はフィンランド人に独立の夢を与え、1917年12月に帝政ロシアが崩壊した好機を利用して念願の独立を達成した。この時に立ち上がったのが帝政ロシア軍の騎兵旅団長として、奉天の会戦で敗北したマンネルハイム大佐であった。マンエルハイムは、この敗北から日本のような小国でも、国民が団結すれば大国ロシアにも勝てるとの自信を得たのである。その後、1939年11月にソ連からカレリア地方の割譲を要求されると、これを拒否して戦った。マンネルハイムは総司令官として善戦したが敗れ、翌年3月にはカレリア地方を割譲した。しかし、独ソ戦が始まりドイツ軍の優勢が続くと、1931年6月に失地を回復しようとソ連に宣戦した。しかし、戦局が不利になるとフィンランド国民はマイネルハイムを大統領に選び、マイネルハイムは1944年9月には降伏文書に調印しなければならなかった。しかし、フィンランド国民はマンネルハイムが死ぬと、国会議事堂に通じる大通りをマンネルハイム大通りと命名し、その大通りにソ連からの内政干渉を守るかのように、国会議事堂を背にしたマンネルハイム将軍像を建立した。フィンランド人のこうした独立心と抵抗心が、ソ連に国境を接しソ連の重圧を受けながらも、冷戦中にもソ連の衛星国にされず、議会制民主主義を維持したのであろう。
日露戦争がロシアに与えた影響―旅順陥落と血の日曜日事件

レーニンは旅順陥落の3日後に、機関誌『フペリヨード』に
「旅順は降伏した。旅順の降伏はツァーリズムの降伏の序幕である。…新しい偉大な戦争、專制に対する人民の戦争、自由のためのプロレタリアートの戦争の時機が近づいている。人々が革命を信じることは、すでに革命の始まりである」と書いた。そして、旅順失落直後の1906年1月22日の日曜日には、皇帝に食料や燃料の不足していることを誓願しようとした市民が、警備兵に撃たれ多数の死傷者を出した「血の日曜日」の惨事が起こり、この事件を境に革命の波が全国に拡がり、レーニンの予言通りに革命の歯車が止まることなく廻り始めた。そして、1918年には「20世紀の怪物」といわれたロシア連邦社会主義共和国が誕生した。共産主義体制を西欧諸国から警戒され、内政干渉を受けたソ連は、対抗策として各国の労働者や世界各地の民族独立運動を支援したが、それが世界共産化運動であり、その指揮中枢がコミンテルンであった。特にコミンテルンが重視したのが、国内が四分五裂に分裂し混迷している中国であった。コミンテルンは東方国境の安全を確保するため、中国に共産党を創設させ、国共合同を推進して日中和平の機会を妨害して日中戦争を継続させ、日本を太平洋戦争へと追い詰めていった。
一方、孤立した日本をドイツと結びつけたのは、1936年の第7回インターナショナル大会で採決された「日独をコミンテルンの敵」とする「人民戦線テーゼ」であった。日独両国はこの宣言に対抗するために、1936年に日独防共協定を締結し、それが日独伊三国同盟へと連なり、太平洋戦争を不回避なものにしたが、この三国同盟を押し進めたのがヒトラーであった。ヒトラーは「日本海海戦があったのは、私が小学生の時だった。クラスのほとんど総てがオーストリア人で、日本海海戦の敗北のニュースに落胆した。しかし、私は歓声を上げた。それ以来、私は日本海軍に対して特別な感情を持っようになった」と回想しているが、このヒトラーの日本海軍への過大な期待が、ヒトラーを日本に近づけ、日独伊三国同盟を締結させ、それが日本を太平洋戦争へと歩ませたのであった。
日露戦争が米国に与えた影響―黒人の覚醒と黄禍論
アメリカの黒人たちは日露戦争の日本の勝利を、自分たちの勝利のように誇りに思い歓喜し、日本が白人優位を覆し新しい時代を作り、抑圧されている有色人種を解放してくれるであろうと夢想した。特に、のちにアフリカ独立の父といわれたウイリアム・デボイスは、日本がヨーロッパに圧迫されている総ての有色人種を救出してくれる。有色人種は日本をリーダーとして仰ぎ従うべきであると主張した。「ニューヨーク・エイジ」紙には「行け、黄色い小さな男たちよ。天罰を加えるまでは、その剣を側に置くな。巨大な地球のホコリを、欲望の固まりのロシアを投げ飛ばせ」などとの詩が掲載された。
一方、米国人の世論は黒人同様にロシアを中国大陸から排除させるという政略的目的や、米国人特有の弱者贔屓の感情から戦争初期は極めて日本に好意的であった。しかし、日本の勝利が確定的になるに従い対日警戒心が高まり、日本が日本海海戦に勝利すると、ニューヨーク・サン紙は「今や日本海軍は、一挙に世界の海軍で卓越した地位を占めるに至った。世界第一の英国海軍といえども、凌駕せられる日遠からず。この時に当たり、わが国の如きは果たして日本海軍に当たることを得るや否や、要するに6月27日及び28日の海戦は、文明社会の大勢を一変するに至らしめた」と報じた。

ポーツマス条約調印2ヵ月後にサンフランシスコで米国労働総同盟大会が開かれたが、場所が場所だけに大会では排日気運が盛り上がり、翌年3月のカリフォルニア州議会では口を極めて日本人の欠点をあげ、「ハワイからの渡航者が毎月600人を下らず、除隊した日本兵が続々と太平洋沿岸に集まり、このままではカリフォルニアが不道徳、低賃金の群集に満ち溢れ、白人労働者は生活が出来なくなる」と、日本人労働者の入国制限を求める決議が採択された。翌1906年11月にはサンフランシスコ市学務局が、総ての日本人と朝鮮人学童を東洋人学校に転校させることを決めた(中国人はすでに排除されていた)。次いで1907年、1909年、1911年とカリフォルニア州議会には日本人の土地保有禁止法案が提出され、ついに1913年3月には国務長官などの斡旋も効果なく、カリフォルニア州議会が圧倒的多数で日本人を対象とした土地所有禁止法案を可決した。
この排日法案を黒人の新聞の多くは一斉に非難した。「ニューヨーク・エイジ」紙は、日本がこの不正に反撃し、米国はこの不正義に苦い薬を飲むことになるであろうと警告した。また、さらに移民法案をめぐって日米戦争のうわさが流れると、「ナッシュビィーユ・グローブ」紙は日本と同盟し共に戦って平等を得るべきか、あるいは中立か、あるいは日本に対して銃を取り陳腐な栄光を守るべきかとの記事が掲載された。一方「ニューヨーク・エイジ」紙や「クリーブランド・ガゼット」紙は、日本と同盟すべきであると主張した。
その後、第一次世界大戦が勃発し、ドイツが中立国の米国の世論を親英から親独に変え、日英同盟を分断しようと、黄禍論を利用したため反日論が再燃した。ハースト系の「ニューヨーク・アメリカン」紙には、「カリフォルニアに気を付けろ」という次の歌が日曜版の一ページを割き楽譜入りで掲載された。
アソクル・サムよ、われわれの警告が聞こえないのか。
彼らは微笑しながらわれわれに近づく、彼らは機会を伺かがっているのだ。
われわれのカリフォルニアを盗もうと。
東郷に気をつけろ、彼のポケットは作戦地図でいっぱいだ。
日本人を信用するな。
ベルサイユ講和会議と人種平等法案提出の衝撃
日本は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に勝利して世界の強国への仲間入りをしたが、それは非白色人種による唯一の近代国家という前例のない孤独なものであった。日本はウィルソン大統領の平和14条の美しい言葉にも触発され、国際連盟規約に人種平等の1項を挿入することを提案した。しかし、門前払いの形で退けられた。日本海海戦時にロンドンにいた孫文は、同盟国の日本が勝利したのに「英国人の大多数は、いずれも眉をひそめ、日本がかくの如き大勝利を博したことは白色人種の幸福を意味しない」と語っているが、人種平等法案の提出は欧米諸国から見れば、日本が人種平等を旗印に有色人種を率い、「世界に紛争を巻き起こす」のではないかとの警戒心を高めたのである。それは英国外務省が次のような文書を、政府部内に配布していたことからも理解できるであろう。
有色人種の中で、日本「唯一国だけ」が発言に耳を傾けさせる十分な実力を持っているが、日本がいかに軍事的に強大になろうとも、白人は日本を対等と認めることはしないだろう。日本が人種平等の主張を貫くことができれば、日本はわれわれよりも優位に立つ。それができなければ日本は劣等のままだろう。いずれにせよ、日本がわれわれと対等となることはありえない。
日本は国際連盟規約に人種差別を盛り込むことができず屈辱的な敗北を喫したが、人種平等法案の提出が有色人種を勇気付け、黒人指導者のデュボイスは「2億の黒人がこの変革期に発言権をもたないのは悲惨である」と、1919年2月には第1回汎アフリカ会議を開催した。1920年にはナイジエリア、ガンビア、ガーナ一などの黒人が、民族自決と人種差別廃止を促進するため、英領西アフリカ民族会議を設立した。インド国民議会では大英帝国のすべての自治領と植民地での人種平等を要求し、米国では1919年夏には戦争に参加した黒人兵たちが完全な市民権を要求し大規模な暴動を起こし、100人以上の死傷者を出した。日本が真珠湾を攻撃し米国政府が日本に宣戦を布告すると、黒人の中には真珠湾攻撃は人種的平等を認めさえるための攻撃であり、日本と戦争をすべきでないと主張する者もいた。黒人の新聞「ナッシュビーユ・グローブ」紙は、真珠湾攻撃は卑怯な奇襲であり、対日戦争宣言は適切である。しかし、英国やフランス、オランダ、それに米国がハワイやフィリピンを横領していなければ、日本との戦争にならなかったと書いた。
ローバート・ジョルダンなどの黒人指導者は、この戦争は日本が列強に人種的平等を求めて始めたものであり、この戦争は日本が勝ち日本が米国の黒人を解放し、さらにアジアやアフリカから白色人種を追放するであろう。私は日本のためならば無償で働くが米国のためには戦わない。白人の時代は終わった。12月8日は10億の有色人種の解放の日であるとハーレムで演説し、さらにビラやポスターなどで対日戦争への非協力を訴えた。デトロイドやハーレムでは、黒人に対するリンチ事件が起きており、黒人には米国が理想と掲げるデモクラシーも空虚な宣伝としか映らなかった。また、黒人には日本人を敵とは考えられなかった。前線に出された黒人兵士の「私の墓石には、ここに黒人が横たわっている。この人は白人を守るために黄色い人と戦って死んだ」と書いてくれという小話が、太平洋戦争に対する黒人の感情を、最も良く表しているといえよう。このような黒人の不満に、米国政府は黒人の忠誠心、戦争に対する協力を得るために、黒人の要求を受け入れざるを得なかった。一方、入隊した黒人兵士たちは国外では「枢軸国に対する勝利のV」、国内では「人種差別に対する勝利のV」の「ダブルV運動」を展開した。それが戦後の黒人の差別撤回運動に連なり、1960年代の黒人暴動へと進むマグマとなっていったのである。
日露戦争後に日本が歩んだ1世紀

日露戦争に日本が勝つと、フィリピンのアルミテオ・リカルテ、中国の孫文、インドのビバリ・ボース、ビルマのウ・オッタマ、ベトナムのファン・ボイ・チャウやコォン・デ侯、中近東からはハムンド・バラカトゥッラーやムハンマド・クルバンアリーなどが独立を夢見て来日した。明治・大正・昭和の先人たちは、これら亡命者を受け入れ庇護し支援した。しかし、独立運動は強力な西欧諸国の軍事力の前にことごとく弾圧され、これら植民地が西欧の支配から脱することはできなかった。これを打破したのが太平洋戦争であった。東南アジアの民衆は昨日まで君臨していた白色人種の主人が、日本軍のたったの一撃でろくも崩れ去ったのを目前に見てしまった。この戦争初期の日本軍の快勝は、日露戦争の時と異なり知識人だけでなく、一般民衆にも独立への自信を与えた。また日本の唱えた「アジア人のアジア」のスローガンが独立への夢を膨らませたが、日本は3年8ヶ月後に敗退してしまった。しかし、かっての植民地に西欧帝国主義諸国が再び復帰することはできなかった。日本軍が育成した義勇軍が、日本軍が教育した南方特別留学生や興亜訓練所などの青年が、各地で覚醒された民衆が一斉に民族独立の戦い立ち上がったのである。
日本の敗北2ヶ月後に国際連合が誕生したが、加入した61国中に有色人種の国は13カ国しかなかった。しかし、16年後には西欧の植民地はほとんどが独立し、権力は白人から有色人種に移行し、新しい民族国家がアジアや中近東に誕生し、1966年までに31の国が加わり、国連は117カ国に膨れあがった。国連における有色人種の国家の増加が有色人種の発言権を高め、1966年には「人種差別撤廃に関する国際条約」が採決され、1973年には総ての人間の人権と基本的自由を人種や肌の色などで差別することを撲滅する「人種差別と闘う行動の十年」の始まりとされた。国連では事務総長などの主要職員も有色人種から選抜されるようになり、また、有色人種をあれほど差別していた米国でも、国務長官や閣僚に有色人種が任命され、ブッシュ政権では日系人からも、ミネタ商務長官やシンセキ陸軍参謀長が任命されるまでに変わった。
このように見てみると、西欧の史書はフランス革命が民族国家を成立させたとしているが、民族国家独立への夢をアジアやアラブ、アフリカの国々に与えたのが日露戦争であり、その夢を実現させために立ち上がらせる衝撃を与え、民族国家を建国させたのが、マッカーサーによって使用を禁止された「先の大戦」と呼ばれる「大東亜戦争」ではなかったのか。
百年を迎え揺れる日露戦争の評価
最近では中国や韓国の歴史攻勢を受け、日露戦争が侵略戦争であったと評価が変わりつつある。特に中国は「愛国史観」を前面に、日清戦争から日露戦争、さらには沖縄処分も侵略戦争であったと非難のトーンを高めている。しかし、日露戦争はアジアやアラブの有色人種だけでなく、米英諸国や社会主義者までもが、ロシアが満州、次いで朝鮮を侵略したから日本が立ち上がったのであり、世界は「正義の戦争」「文明のための戦争」であると日本を支持していた。また、戦争が罪悪視されるようになったのは、1927年に締結された不戦条約以降であり、日露戦争当時はローズベルト大統領も「全ての戦争の中で最も正しいものは野蛮人との戦いだ」と書いていた。一方、侵略戦争が非難されるようになったのは、共産主義諸国が植民地を保有している西欧諸国への攻勢を強めた1930年代以降であった。

また、最近の日本で勢いを得ているのが、日露戦争で併合された朝鮮や戦場となった満州の民衆の苦難を無視して、「正しい歴史認識」が生まれないとの主張である。しかし、歴史は当時の歴史的背景を理解し、その時代の価値観で評価すべきであり、100年前の戦争を現在の価値観やイズムで評価すべきではない。日露戦争当時の西欧諸国の人種や国家観は、ダーウインの「弱肉強食」の進化論を国家や民族に適用したスペンサーの「社会進化論」の時代であり、有色人種は殺戮されるか、植民地とされ労働者として酷使されるか以外に選択肢がなかった。そして、アフリカの黒人奴隷が減ると「マリア・ルーズ号の中国人奴隷解放事件」の例が示すとおり、ポルトガル商人の手によって、中国人が苦力として年々数千人が売られていた。このようにアジア、アフリカが完全に欧米植民地支配に飲み込まれ、欧米の圧倒的な植民地化の波が中国大陸、朝鮮半島に迫りつつあった時に、有色人種の日本が立ち上がり、初めて白色人種を敗北させ、全世界を席巻した欧米植民地支配に対し、アジアの新興国の日本が初めて反攻に転じたのが日露戦争であった。
しかし、敗戦後に日本の歴史は歪められ、醜悪なものにされてしまったが、現在のわれわれと明治から昭和の日本人に差異があるのであろうか。明治・大正・昭和の日本人は、独立を夢見て亡命してきた多くの民族独立運動の指導者を庇護し支援した。さらに国際連盟が誕生すると南洋群島の軍備制限事項を認めるなど、国際連盟の活動にも全面的に協力した。また、日本は世界平和のためにと世界で唯一、国家の主権を制限する差別的なワシントン・ロンドン海軍軍縮条約にも応じ、さらに国民の強い反発を受けながらも中国に妥協し幣原外交も推進した。このような日露戦争後の日本の近代史に、また、先人が命を捧げて戦った日本の戦争に、一片の正義もなかったのであろうか。しかし、自虐史観に苛まれ国家観や民族意識を失った日本では、韓国の横やりで世界の海戦史上類のない完全勝利を飾った日本海海戦の舞台の日本海が東海と変わりつつあるが危機感はない。平和ボケした平成の日本人が日本海という名称を守りきれるであろうか。