150日の旅順攻防戦が世界にもたらしたもの
日露両国における旅順の価値

サハロフ陸相がクロパトキン司令官に、旅順要塞の失陥はロシアの政治的・軍事的威信を低下させ、同盟国も去るかもしれないと注意を喚起したことが示すとおり、旅順はロシアにとり政治的にも軍事的にも極めて重要な要塞であった。一方、日本にとっても旅順は大陸への進出拠点として極めて重要な地点であった。10年前の日清戦争で日本は遼東半島を租借し、列強並に大陸への進出拠点を確保しようとした。しかし、国際関係はそのように甘いものではなかった。日清講和条約を調印した6日後に、独露仏の3国の駐日公使が外務省を訪れ、遼東半島の領有は東洋の平和に禍根を残すので、中国に返還するよう干渉してきた。3国から干渉を受けた日本は、勝利の美酒も一瞬に冷め、天津沖に集まった3国の軍艦の砲口の前に、やむなく遼東半島を返却した。以後、この屈辱を胸に、日本は「臥薪嘗胆」をスローガンに、対露軍備を増強していったのであった。
しかし、旅順攻略について海軍は、開戦と同時に旅順港外に停泊している旅順艦隊の奇襲攻撃を第1案、貨物船を沈めて港口を封鎖する第2案、さらに間接射撃で撃沈する案や、機雷を湾口に敷設して封鎖する案などを計画していた。海軍は、これらの計画が漏れることを懼れ、陸軍には援助なしで旅順艦隊を処理できると、作戦会議などでは旅順には触れず、幕僚から援助を要望しないと陸軍に通知していた。一方の陸軍は、旅順攻略計画は作成検討したが、攻略には大兵力を必要とし、陸軍が決戦と考える遼陽作戦の兵力が減ることから、旅順要塞は少数の兵力で包囲孤立させるだけとし、開戦前には旅順を攻略する計画はなかった。
旅順艦隊奇襲と英米独仏の新聞論争
外交関係の断絶を通知し、日露双方の公使が首都を離れた2日後の2月8日夜、日本艦隊は大連湾の南東に到着、駆逐隊を旅順と大連に派出し、旅順港外に停泊中のロシア艦隊を奇襲した。この奇襲攻撃は緒戦であり暗夜のために混乱し、戦艦ツエザレウィッチ、レトヴィザン、巡洋艦パルラーダに2ヶ月の修理を要する損害を与えたに過ぎなかった。翌9日には主力艦も湾口に迫って砲撃を加えたが、陸上砲台に反撃され、また、遠距離射撃であったため効果はなかった。この駆逐隊の夜襲をロシアと同盟関係にあったフランスの新聞は、日本の行動は国際法違反であり、交戦慣習を無視していると非難し、国際法の専門家の違反論を掲載した。
これに対して英国の新聞「タイムズ」は、「日本が最強の敵要塞の砲台直下で攻撃をしかけた迅速さと、大胆さに世界は普通まず衝撃を受けずにはいられないだろう」、「開戦前に公式な宣戦布告が行われる事例は、近代史では比較的稀れである」。ロシアこそ、1853年の戦争にも、1877年の戦争にも宣戦布告をしていないと社説で日本を弁護した。また、「デイリー・テレグラフ」紙も、「日本は突然攻撃をしかけ、効果的にのろまな敵の愚者の楽園を一撃で打ち砕いた。文武における日本人のすばやい天才の名を裏切らず、日本は運命をかけた戦いで、戦術上の枝葉末節な問題を総て一掃してしまった」、「外交関係が断絶しているときは、どちらかが最初に弾を撃たなければならない」。外交関係断絶後の攻撃であり、戦争の「責任は外交関係の断絶を招いた側にある」とロシアを非難した。
一方、米国では「ニューヨーク・タイムズ」紙が、「この初戦の勝利の精神的な効果は、物理的な効果よりはるかに大きなものがある。この勝利は日本を元気づけ、ロシアを意気消沈させている」。外交関係の断絶によってアレクセーエフ提督は「戦争状態が存在することを十分知らされていた」のであり、ロシア政府が非難する根拠はないと日本を擁護した。また、ドイツの新聞も、「日本は満州においてロシアが行った誓約違反、国際法違反を指摘することができる」と述べ、ロシアが日本の攻撃を「裏切り」と非難しているが、1700年から1870年に起こった120の戦争のうち、110が事前に宣戦布告をしていないと日本を支持した。
このように、フランスの新聞が米英独から一斉に反論されたのは、当時は宣戦布告を必要とするという規定が国際法にはなく、外交関係の断絶をもって宣戦布告とすることが国際的慣行だったからであった。なお、宣戦布告の必要性が国際的に決められたのは、日露戦争3年後の1908年のハーグの国際法会議からであった。しかも、日本は2月6日午後4時に「最良と思惟する独自の行動を採る権利を保留する」と、武力行使を含む行動の自由を宣言しており、当時の国際法上、必要にして十分な措置を講じており、ハワイの奇襲とは全く異なるものであった。また、10日に発せられた宣戦布告は、日露間が戦争状態入ったことを世界に知らせ、中立宣言などの必要な措置をとることを列国に促すためのものであった。しかし、スターリン時代のロシアの教科書には「1904年の初頭に、日本海軍は戦争宣言なしに旅順港のロシア艦隊に襲い掛り、第1級の軍艦数隻を隊列から脱落させた」と書かれ、これが現在ではハワイ奇襲と同列に扱われ世界の定説になっている。
旅順をめぐる日露の動き
夜間の奇襲に引き続き連合艦隊は、翌朝には主力部隊を投入し砲撃を加えたが、成果は得られなかった。旅順艦隊に対する連合艦隊の攻撃は4月15日まで8回にわたって行われたが、これと平行して旅順港口の可航幅が91米しかないことから、港口に商船を沈めて閉鎖する作戦も実施された。この封鎖作戦は2月2月24日(5隻)、3月7日(4隻)、5月2日(12隻が参加、自沈は7隻)と、3回にわたり商船16隻を自沈させたが、暗夜と悪天候や陸上砲台の射撃を受け、水路を閉鎖することは出来なった。4月には湾口に機雷を敷設して旅順艦隊旗艦ペトロパブロスクを撃沈し、マカロフ司令官を戦死させる成果を上げた。しかし、1ヶ月後の5月15日には、ロシアが敷設した機雷で戦艦初瀬と山城、さらに巡洋艦吉野、砲艦龍田、駆逐艦暁と、触雷沈没が続いたため、海軍は港口閉鎖を断念し、洋上からの封鎖作戦に切り替えた。
しかし、艦艇部隊は開戦から半年近くも行動し、整備や修理をする時期に至っていた。このような状況から、増援艦隊が到着する前に旅順港の攻略が不可欠となり、海軍から陸軍に旅順の攻略が要請され、陸軍はかねてから研究していた計画により、5月29日に乃木希典中将を指揮官とし、第1・第9・第11師団などで第3軍を新編した。一方のロシアは、4月末には太平洋第2艦隊を編成し、7月に出発させると発表したが、これは4月13日に旅順艦隊の旗艦ペトロパブロスクが日本の機雷で沈没し、ロシア海軍の至宝マカロフ提督が戦死したことを知らされたニコライ皇帝が、激怒し突如決めたといわれている。このため艦艇の整備が間に合わず、多くの艦艇は出港直前まで改装工事や補強工事に追われ、1部の艦艇に至っては工員を乗せ整備をしながらの航海となった。乗員もあわただしく農村などから集められ、訓練する暇

も兵員の精神的な一体感もないまま母国を後にした。
旅順攻略作戦と諸外国の突撃戦術の賛美
乃木軍第3軍の旅順攻略戦は8月19日から開始され、12月25日の3回の総攻撃で、かろうじて1月1日に攻略することができた。しかし、この旅順要塞を「野戦築城に毛の生えた程度」と判断し軽視したことから、準備不足、作戦指導の不適切などが重なり、ロシア側の死傷者3万1306名(戦死行方不明6646名)に対して、2倍近い死傷者を出すという高い代償を支払わなければならなかった。そのため日本では、「愚将乃木」などと批判されている。しかし、英仏連合軍のセヴァストポリ要塞攻略戦は349日の長期戦であり、英国軍に3万3千、フランス軍に8万2千の損害を与えたが、旅順要塞は155日で落城し、日本軍の損害も5万9304名でしかなかった。

この日本軍の旅順攻略作戦を英国の公刊『日露戦争史』は、「結論として旅順の事例は、今までと同様に塁堡の攻防の成否は両軍の精神力によって決定されることを証明した。最後の決定は従来と同様に歩兵によってもたらされた。作戦準備、編成、リーダーシップ、作戦指導などに欠陥があったとしても、この旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として、末永く語り伝えられるであろう」と評価した。また、観戦武官として参加し、退役後にエジンバラ大学の名誉総長になったイアン・ハミルトン大将は、日本から学ぶべきものとして、兵士の忠誠心を上げ、われわれは「自国の子供達に軍人の理想を教え込まねばならない。保育園で使用する玩具類に始まって、教会の日曜学校や少年団などに至るまで、愛国的行為に尊敬と賞賛の念を抱かせるように、あらゆる感化力を動員し、次の世代の少年少女たちに働きかけるべきである」と説いた。
フランスのフランソワ・ド・スーグリェ将軍も、旅順攻略戦は「精神的な力、つまり克服しがたい自力本願、献身的な愛国心と騎士道的な死を恐れない精神力による圧倒的な力の作用の教訓となる印象深い戦例」であると、日本兵の生命を顧みない忠誠心を讃えた。このように、ヨーロッパでは日本軍の突撃精神や犠牲的精神が高く評価され、見習うべき優れた特質であると受けとめられた。このため、10年後に起きた第一次世界大戦では、ヨーロッパ諸国の軍司令官たちの脳裏に、日本軍の突撃精神が鮮やかによみがえり、突撃を繰り返し多くの犠牲者を出したのであった。
一方、レーニンは旅順要塞を失った「軍事的打撃は取りかえしのつかないものである。制海権の問題、これは今度の戦争における主要で根本的な問題であるが解決された」。極東艦隊は事実上存在しなくなり、艦隊の作戦基地そのものが奪いとられ、そのため第二太平洋艦隊は引き返すしかない。日本軍は旅順要塞を占領したことにより、朝鮮、中国、満州に圧力を加え得る重要拠点を確保しただけでなく、8万から10万の歴戦の一軍、しかも巨大な重砲をもった一軍の手を空け満州で作戦できるようにした。この日本軍の重砲が沙河に到着すると、日本軍はロシア軍に対し圧倒的に優位になるであろうと、旅順失落の軍事的重要性を強調している。
旅順要塞失落と列国、ロシア革命への烽火

日本軍の連戦連勝が続くとドイツやフランスの対応が変化した。戦争初期にドイツはロシアに好意的な態度を示していたが、旅順が陥落すると、「一般ノ人心ハ概シテ」「歓喜ノ情ヲ表シ」、新聞は争って日本軍の勇武と忍耐を賞揚していると、駐独井上勝之進大使が報告するまでに変わった。また、2月9日にはウエナー内相が旅順で日本軍が発揚した武功は、セバストポリ要塞の攻略以降「類似ヲ見ザリシ」ものであり、日本国民が一致団結し、生命財産を犠牲にしている状況は、「実ニ驚嘆ノ外ナシ」と井上大使に語った。2月12日にはビュロー首相が日本国民の「一致協力」は「賞賛ニ耐ヘザル所」であり、「世界万国民ニ向ヒ価値アル模範」を示したと語ったが、カイザー皇帝も日本軍の武勇は賞賛「能ハサル所」であり、「深ク之ヲ嘉ミ」乃木大将にプール・ル・メリト賞を贈呈することを決めたと大使に語った。
しかし、フランスの「エコー・ド・パリ」紙には「黄禍」の記事が掲載され、「ル・タン」紙には1月2日から3日連続で、児玉源太郎大将から桂太郎首相に提出された極秘文書に、日本の戦略方針が記されていたが、仏領インドシナからフランスを駆逐する計画があったとの特集記事を掲載した。また、オーストラリアの「デイリー・テレグラフ」紙には、戦争が日本の勝利に終われば、オーストラリアの移民制限に日本が反撃するであろう、との「黄禍の脅威」が報じられるなど黄禍論が台頭した。
一方、レーニンは「旅順は降伏した。旅順の降伏はヅァーリズムの降伏の序幕である。ロシアの人民は、専制の敗北によって利益を得た。…戦争はまだけっして終ってはいないが、戦争が継続すれば、それだけロシア人民のなかの動揺と憤激は限りなく拡大し、新しい偉大な戦争、專制に対する人民の戦争、自由のためのプロレタリアートの戦争の時機が近づいている。人々が革命を信じることは、すでに革命の始まりである」と、革命が確実に進行しツアー政府が崩壊するであろうと予言したが、旅順失落直後の1905年1月22日には、皇帝に食料や燃料の不足を訴えるために、宮殿に嘆願に集まった市民が警備兵に撃たれ、多数の死傷者を出す「血の日曜日」の惨事が起こった。そして、この事件を境に革命の波が全国に拡がり、レーニンの予言通りに革命の歯車が止まることなく廻り始め、1918年には「20世紀の怪物」、ロシア連邦社会主義共和国が誕生した。