日本艦隊を震撼させたバルチック艦隊が惨敗を期した理由

部下は命令に盲従すべし

 日本海海戦の勝利を英国の「タイムズ」は、「東郷の偉大な勝利の最も注目すべき戦闘上の特徴は、重要な軍艦を1隻も失わずに勝ったことである。この海戦の結果、ロシア艦隊は撃滅され、一方の日本艦隊は実質的に戦闘前と全く同じ力を持っているということである」と報じた。また、ロシア革命の指導者レーニンは日本海海戦の敗北を「殲滅」という題で書いたが、ロシア海軍の人的損害は戦死5046名(36・2%)、負傷809名(5・0%)、捕虜6106名(37・8%)であった。
 この敗北をロシア海軍はどのように見ていたのであろうか。敗北の理由を帝政時代にロシア海軍軍令部が編纂した『千九百四、五年 露日海戦史(芙蓉書房)』を基に紹介したい。なぜ、80年も前の史料で紹介するのか。それは本書が書かれたのが日露両国が同盟関係(第4次日露協商)の時代で、極端な反日感情に影響されていない史書であり、また、その後のロシアの史書が殆どイデオロギーに汚染されているからである。

 本書は敗北の理由を多々挙げているが、第一に取り上げているのが戦意の欠如で、古來幾多の戦争には幾多の軍事上の法則があるが、戦敗は主将が自から敗者なることを覚知した時に始まるというのは戦場における「一貫不変ノ法則ナリ」。ロ中将は「戦ハスシテ既ニ敗者タルヲ自覚セリ」。彼は「毫モ成功ノ予感ナク交戦地帯」に入り、その行動は最初から守勢的で何等積極的に指揮せず、「成敗ヲ一ニ運命ニ委シタルノ観アリ」。戦勝の機は戦場を制する権力を把握する時に始まる。主将たるものは戦勝を「獲得スルタメニ渾身ノ精カヲ消耗シテ惜マズ」、如何なる「流血モ如何ナル犠牲モ辞セサルノ覚悟ヲ要ス」。然るにこのように重要な「制戦ノ権」を、ロ中将は何等の代償を求めることなく「実ニ簡単ニ東郷提督ニ捧ケタリ」。このため日本海軍は意のままに、あたかも「予定ノ演習ヲナスカ如ク」戦いを進めたと批判している。

 次いで、日本艦隊が主導的に戦いを進めたのは、哨戒艦がバルチック艦隊を発見し、海戦に至るまで接触を続け情報を送り続けたからであったが、バルチック艦隊は探知されることを恐れて電波封止をしていたため、日本の無線を傍受しながら妨害をしなかったが、これは「容認スヘカラサル失策」である。また、ロ中将は司令官や艦長は戦局の推移や艦隊の作戦などを「悉ク知ラシム」必要はない。部下は「総テ単ニ命令ニ盲従スベキ」であると、12隻の戦艦を直接指揮し各級指揮官の柔軟な戦闘指揮を阻害した。さらに各艦の特質を無視して巡洋艦には運迭船の護衛、駆逐艦には「救助艦タルノ任」を与えたため、これら艦艇の本来の戦闘力を発揮できなかった。これに対して日本艦隊は3個の戦隊に分け、各隊指揮官に独立行動を取らせたが、各級指揮官間の統率関係は明確で、「部下ハ許サレタル範囲内デ独断事ヲ処スル」ことができた。各戦隊の連携は実に見事で、各級指揮官は上級指揮官に対し「自由ニ各自ノ意見ヲ陳述セリ」。「各戦隊ノ協同動作ハ実ニ完全ナリ」。要するに日本の提督は「相互間ニ嫉妬ノ念ナク」、同階級同僚間に往々見られるような「他ヲ排シテ自己ノ功名ヲ立テントスル如キ嫌忌スヘキ傾向」なく、「相互間ノ支持ハ完全」であったと評価している。

建艦上の欠陥―浮かぶタライの戦艦

 次いで艦艇の欠陥を挙げバルチック艦隊の戦艦は砲塔式のため射撃速度が低く、砲塔の配置位置の不良からで射界が制限され、しかも、予備浮力を増すために採用したダンブルフォーム(樽底型)が左右の動揺を増大し、砲の標準を困難にした。さらにリバウ出港時に弾薬や修理部品などを多量に搭載したため、乾舷が減少し傾斜が20度を超えると、舷側の砲覆いから海水が艦内に流入するため、「もし右舷に被弾し破口が生じ14度から18度傾斜したならば、直ちに面舵転舵すべし、転舵により傾斜は9度から10度に回復するので、直ちに砲扉を閉鎖し傾斜を修正し、次いで浸水を下部甲板に流し破口を修理すべし」との指示が出されていた。

 このため「天気晴朗なれども波高し」の日本海海戦では、「動揺甚タシク風上ニアル砲廓ノ砲門ヨリ海水ノ浸入スルコト甚タシク、砲ノ回転ニ困難ヲ感シ」た。また、最新鋭の戦艦ボロジノ型は「造船官ガ各自ノ所信」に従い設計を変え、さらに艤装時に艦長の「勝手ノ注文」で改造したため、同一艦でありながら排水量が増加し、同一角度で旋回を命じても隊列から離脱する艦が続出し、砲戦運動の基本である陣形変換も整斉と行うことができなかったという。

日本海軍の砲力
海戦参加艦艇の砲数を比較すると、大口径の25センチ砲以上ではロシア海軍が43門、一斉に発射される砲弾の量は14・6トンと、日本海軍の24門、12・9トンを上回っていた。しかし、1分間に発射される砲弾はロシア艦隊が138発、9・1トンであったが、日本艦隊は360発、24・1トンとロシア艦隊を上回っていた。さらにロシア海軍の炸薬は綿火薬で6・8キロであったが、日本側海軍は下瀬火薬を47・2キロも入れており、実質的な砲弾の炸裂量は15倍であったとロシア海軍は分析している。この下瀬火薬の威力についてバルチック艦隊の参謀長コロン大佐は、日本の砲弾は「爆発ト同時ニ非常ナル高熱ヲ発シ」、火災が頻繁に起り、短艇、支柱、敷板、釣床、塗料など可燃性の物は悉く燃え立ち、ある艦では甲板さえ燃えた。この高温による火災やガスで「気息ヲ塞キ火傷ノ為ニ死スルモノアリ」。炸裂した弾丸は無数の破片となり、灼熱した鉄粉を飛ばし新鮮な空気を通すべき通風筒を毒ガスの侵入路としたと述べている。

 また、『露日海戦史』は日本艦隊は充分に訓練し「習熟ニ加フルニ独特ノ妙技ヲ有シ」、照準も極めて正確で「命中率甚良好ナリキ」と日本海軍の射撃能力を評価しているが、日露海軍で大きく異なるのが命中率であった。殆どの艦艇が沈没したため命中弾数は不明であるが、日本海軍の砲術の権威である黛治夫大佐は『海軍砲術史談』で、バルチック艦隊の砲力は日本艦隊の78パーセントであったが、ロシア艦隊の命中率を黄海の海戦時と同じとすれば、その差は26パーセント、その後に日本艦隊は鎮海湾などで訓練し命中率を3倍に上げていたので、ロシア海軍が黄海の海戦の命中率と変わらないとすれば8・3%、さらに砲弾の爆発力を2倍とすれば、その差は日本海軍100に対して4・3であったと書いている。

指揮官に対する非難

 『露日海戦史』で目に付くのが指揮官への批判で、ヨーロッパから対馬海峡への遠征は、「実ニ空前ノ壮挙ナリ」とするも、ロ中将は「一度戦闘場裡ノ指揮官」となると、「何等軍事上ノ才略ナク」、戦闘に対する準備も指揮も「実ニ拙劣ヲ極メタリ」。ロ中将は「意志強健」で「剛胆又職務ニ忠実」で、「補給経理ノ才アルモ、悲哉軍事上ノ知識皆無ナリ」。対馬海峡の突破についても「敵ニ最初ノ一撃ヲ加ヘン為ノ展開」や、「戦闘中ニ於ケル行動」については「何等討究スル所ナ」く、「一モ積極的ニ行動シタル迹ナシ」。ロ中将は「思慮浅薄ク而モ何等ノ定見ナキ行動ヲ以テ終結シ」、作戦計画も「極メテ杜撰」で、その指揮は戦闘中や準備中を問わず、「全然正当ナルヲ発見スル能ハス」。沖縄沖で石炭を搭載した1時間半の間に、精神的に過敏となったロ中将が、旗流信号を50回も掲揚したことを挙げ、「如何ニミ奮セルヤヲ察スルニ足ルベシ」と批判はとどまることを知らない。

 次に非難されているのがネボガトフ少将で、如何に敵が有力であっても、わが艦隊の名誉のために「碧血ヲ流スモ決シテ無益ニハアラサルナリ」。古来、戦士の名誉ある死は、「独リ国民ノ士気ヲ鼓舞スル」だけでなく、「子々孫々迄モ及スモノナリ」。将兵の勇敢な模範的行動は、幾世紀を経るも「国旗ノ名誉ト共ニ永久ニ朽セス」。これに反して不名誉な降伏は後世にまで「臆病ノ因ヲ播クモノナリ」。弱者は自己の卑怯な振る舞いを、マカロフ少将の降伏を「誘惑的範例」とし、ロシア軍の「組織ヲ廃頽セシムヘシ」。ネボガトフは降伏して2400名の命を救った。しかし、「露国民ハ感謝セシヤ」「露国ノ歴史ハ之ヲ是認シタルヤ」と非難している。
一方、麾下の艦長や将校の多くは、軍人としての手腕は遙かにロ中将より優れ、良く任務を全うし「名誉ヲ後世ニ残シタ」。特にスウォロフ、ボロジノ、アレキサンドル三世、グロームキーなどの奮戦は「永久ニ我露国海軍ノ亀鑑」となるであろう。また、将兵の中には「最後迄重任ヲ果タシ。芳名ヲ後世ニ垂レタモノ枚挙ニ暇アラス」。これらは「我勇将猛卒ノ名誉アル戦死」とともに、「不名誉ナル敗北ト数隻ノ軍艦」が降伏した屈辱を償ってあまりあると讃えている。

ロシア海軍から見た日本海軍

 日本海軍の優越した技量は対馬海戦に先立ち、「訓練セラレタル処少ナカラス」。また、日本海軍の射撃、通信連絡、交戦中の応急修理、各戦闘員の鍛錬など、「彼ニ余アリテ我ニ欠如スルモノ枚挙ニ遑アラス」。モロトケの門下たる彼等は「頗ル大胆」に行動し、「迅速ニ且確信ヲ以テ要所ニ集中スルヲ得タリ」。戦術は戦略目的と合致し、偵察と前進や戦闘序列は実戦と「照応シテ些ノ遺憾ナカリキ」。アジアの児たる日本人は「巧ニ祖先伝来ノ鉄腕緊縛ノ戦法ヲ用ヒテ敵ヲ撃滅セリ」と日本海軍を讃えている。

 一方、T字戦法については、東郷艦隊の大角度変針は「実ニ意想外」であり「甚シク乗員ヲ歓喜セシメタ」。これは東郷艦隊の12隻の艦艇がわが弾着距離内で一定の航跡を通過し、スウォーロフが第1弾を発射した時の三笠の位置が、射撃上の「連続不動点トシテ存在シ」、わが全艦隊の左舷側砲火と大口径砲の全部に射撃の好機を与えるからであった。しかし、わが艦隊の「射撃術ノ拙劣」から、この「有利ナル状況」を利用することができなかった。ネルソン提督も一時的に「発砲ノ自由ヲ失フノ不利ヲ顧ミズ」に、致命的危険といわれた「敵ノ縦貫射撃ヲ冒シ」て、トラファルガルの海戦に勝利したが、東郷提督とネルソン提督の「策戦ガ恰符節ヲ合シ」、「賢明ニシテ旦勇敢ナル行動」により勝利を得た。この日本海の海戦はネルソン提督のトラフアルガーの海戦、テゲトフ提督のリツサの海戦の成功にも対比されるべき海戦であった。

 このように帝政時代には日露戦争を公平に評価し、レーニンの革命政府に変わっても日露戦争の敗北が帝政の崩壊に連なったことから、当時の教科書には「日本を憤激させた有力な山師たちの朝鮮における強盗的な目論見が戦争への誘因を与え、それらが交渉を決裂させ戦争に至った。ロシア艦隊に対する成功的襲撃は、日本に対して制海権を保障した」と比較的公正に書かれていた。しかし、スターリンの冷戦の時代になると「日本と米国は太平洋地域で公然と侵略に乗り出した」。「日本帝国主義者どもは、日清戦争後、直ちに極東における勢力範囲の再分割のため、ロシアとの戦争準備を始めた。日本は朝鮮を、さらには清国の東北諸州(満州)をも掠取することに驀進していた。日本帝国主義者どもは、ロシアとの戦争に備えて1902年に英国と同盟を結んだ。1904年の初頭に日本海軍は、開戦の宣言なしに旅順港のロシア艦隊に襲いかかり、第一級の軍艦数隻を隊列から脱落させた。ロシアの陸兵と海兵のヒロイズムにも拘わらず、ツァーの陸海軍は敗北を喫した。ポーツマス講和会議で日本は、満州や朝鮮、さらにはロシアが清国から租借していた遼東半島を奪い取った。それのみか、仰天したツァーは、日本の侵略者どもにサハリン島の南半分をやってしまった」と変わった。
 その後、冷戦が崩壊し大統領がエリチンになると民主化が進み、ロシアの歴史は一時的には西欧的な事実に裏付けられた歴史に戻った。しかし、プーチン大統領に変わると、「ツシマ海戦はロシア軍事史の汚辱の一頁となり、ロシア国民の国家的自尊心をいたく傷つけた」「ツアーが動転して講和に応じてしまったが、戦争を続けていれば勝てた」などとの記述に変わった。さらに、2004年末にはエリチン時代の教科書『二〇世紀の我が国の歴史』が、「一方的かつ否定的で偏見に満ちている」と使用を禁止するなど、ロシアの日露戦争史観は再びスターリン時代の愛国・大国主義史観に戻ってしまった。