「世界と日本の教科書が教える日露戦争
(『日露戦争を世界はどうみたか』(桜美林大学北東アジア研究所、2010年)

日露戦争の原因と無警告奇襲
 日本の教科書は日露戦争が他国の領土での戦争であったこと、また東京裁判やその後の左翼の影響を受け、侵略戦争であり真珠湾攻撃同様に宣戦布告をしなかったと書いているが、諸外国の教科書はどのように書いているのであろうか。ロシア革命後の一〇年間、旧ソ連の独占的な教科書であった『最も簡潔なロシア史(1)』には、「『ロシア帝国』の建設者どもは、同帝国の境界を更に押し広げようと企図し挫折を招いたのである。何十、何百億もの偉大な蓄積者(資本家)どもは、さらに新たな十億、それは甚だ不恰好に転がっていて、『ロマーノフども』の財布に入り込むかのように見えた。……….ロシアの国内情勢が戦争への拍車をかけた。革命の機運が高まり、『ロマーノフども』と彼等の取り巻き連中にたいする民衆の憎悪を他に向けさせることが必要となった。そこで、かねがね目の敵にされていたユダヤ人が対象に選ばれた。一九〇三年四月、キシニョフで大々的に『ユダヤ人征伐』が行われたが、予期した成果が上がらず、別の対象を探さなければならなくなった。そこへ、丁度よく日本人が舞い込んできた。日本人は『不信仰者』、非キリスト教徒、『邪教徒』であった。……日本のような小僧っ子なんかが、ロシアのような巨人と、何条、渡り合えようぞ?・・・…こうして、戦争の助けによって『革命的熱気を吹き散らす』ことに決定された。・・日本政府は、既に久しい前から事態が戦争に向かって進んでいることを見事に理解し、一切の予備的手段を講じつつあった(その一つは英国との同盟だった)。……….これ以上の交渉が何物をももたらさないこと、これ以上の延引はロシア側が準備を完了するのを助けるだけであることが明白になるや否や、彼等は行動に出ることを決した」と奇襲攻撃を非難していなかった。

 しかし、スターリン全盛の一九四七年に書かれた『ソヴィエト連邦史(2) 』には、開戦に至る経緯を「一九〇〇年、清国に拳匪の乱が勃発、ツァーの軍隊は東支鉄道警備の口実の下に全満州―ツアーの重臣どもは『黄色いロシア』という侮辱的な呼び名を与えられていた満州を占領した」。「ロシアが戦争の無準備なことを知っていた日本は、ロシアに突然の攻撃を加えることを決した」。「日本の駆逐艦隊が戦争宣言なしに、盗賊的に燈りを消して旅順港の外部投錨区域に襲いかかり、最優秀のロシア軍艦三隻―レトヴィザン、ツェサレーヴィチと巡洋艦パルラーダーを爆破した」と記していた。さらに、冷戦体制崩壊直前の一九七八年版の『ソ連邦史 (3)』には、「日本とアメリカは太平洋地域における公然たる争いを始めていた。さらにツァーリ一ロシアも極東における積極的な帝国主義政策をとりつつあった。……英国と米国が日本の手でロシアを太平洋から追い払い、その後に中国北部において自国の勢力を強化しようともくろんでいたのである。日本の帝国主義者たちは、極東ロシア領の全域を獲得しようとしていた。当時、ロシアはその多数の国民とともに革命へと進んでいた。ツァーリとその側近は戦争によって大衆の注意を革命から引き離すことができると考えていた。…..一九〇四年二月八日から翌日にかけて、日本艦隊は宣戦布告をせずに旅順の艦隊を襲い、三艦に損害を与えた」と書いていた。

 しかし、冷戦体制が崩壊し教科書の統制も外されると、二〇〇三年にロシア科学アカデミー極東支部が編纂した『ロシア沿海地方の歴史(4) 』では、開戦に到る経緯について「一九世紀末から二〇世紀初頭には、最後に残った未分割の領土を求めて、さらにはすでに分割された領土の再分割を求めて、大国の最も激しい競争が繰り広げられた。…….そのうちの一つがロシアと日本との利害の衝突の結果起こった一九〇四年―〇五年の露日戦争であった」。「一九〇四年一月二七日夜、日本艦隊は旅順港外投錨地のロシア艦隊を突然攻撃した。朝鮮の港仁川では巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツが攻撃を受けた」と無警告奇襲には触れていない。

 一方、英国の高等学校の歴史教科書『近代の世界(5) 』は、「新しく生まれた二つの強国 アメリカ合衆国と日本」と世界的視野で国際関係をとらえ、ペリーの来訪や開国、明治維新や近代化、日清戦争を説明し、仏露独の「三国は戦いに疲れた日本に強要し、旅順をロシアに与えさせた。この三国干渉は日本人を激しく怒らせた。….これに対するかれらの回答はもっと軍艦を建造し、ロシアを片づける機会を待つことであった」と、日露戦争の発端を三国干渉から説明し、「一九〇〇年にロシアは満州全域に進出した。イギリスは驚愕し、これを一つの理由として日本との同盟に調印した。西欧の大国との対等な協力者として認められたことは、日本にとって大勝利であった。・・・…しかしロシア人は『ちっぽけなサル』と呼んでいた相手と問題を議論することを拒み、軍隊を派遣して朝鮮を侵略した」と書いている。

 一方、アメリカの中等歴史教科書『アメリカ盛観(6) 』には、日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテの写真を大きく掲載し、「一九〇四年に勃発した日露戦争は、彼に国際的政治家として活躍するチャンスを与えた。アジアをのっしのっしと歩き回るロシア熊は、その凍傷にかかった手足を満州の不凍港、とくに旅順で温めるべく狙っていた。日本人の目から見ると、満州と朝鮮がロシア皇帝の手に落ちれば、日本の心臓部にピストルを突きつけられるのと同じだった。ロシアは一九〇〇年、義和団事件の際に満州に部隊を送り込み、当初の約束にもかかわらず撤退しなかった。ロシア皇帝としてはシベリア鉄道完成まで居残るつもりだった。だが時計の針は刻々と迫り、一九〇四年、日本は旅順に停泊中のロシア艦隊に奇襲を仕掛け、日露戦争の口火を切った。日本は不器用なロシア人に屈辱的な一連の打撃を与えた。非欧州系の軍隊が欧州勢力に対して軍事的ダメージを与えたのは、十六世紀トルコの欧州侵略以来、初めてのことだった」と書いている。

  しかし、日本の教科書は諸外国の教科書とは大きく異なり、侵略戦争であったとの書き方が多く、さらに当時は必要がなかった宣戦布告を、スターリン時代のソ連の教科書に合わせネガティブに記述し、さらに中には日英同盟が戦争を招いたとも読める書き方をとっている。たとえば、日本書籍新社の『わたくしたちの中学社会』は「イギリスはロシアの東アジア進出に対抗する同盟国を求めていた。一九〇二年、中国でのイギリスの利益と中国・朝鮮における日本の利益を守ることを認めあって、日英同盟が結ばれた。
この同盟によって日本とロシアの対立はさらに深まった」と書かれ、山川出版社の高校用『詳説 日本史』には、「日本政府内には伊藤博文をはじめロシアとの「満韓交換」を交渉でおこなおうとし日露協商論もあったが、桂内閣はイギリスと同盟してロシアから実力で韓国での権益を守る対露強硬方針をとり、一九〇二(明治三五)年に日英同盟協約が締結された(日英同盟)」と、そこには日本が追い詰められてやむなく開戦に踏み切らざるを得なかった当時の国際関係、先人の苦悩などは全く記されていない。

しかも東京書房の中学生用の『新しい社会 歴史』にはフランスの風刺画を掲載し、「『うしろにおれがついている』イギリスが日本をけしかけ、ロシアに立ち向かわせていると風刺しています」との説明だけでなく、さらに「この絵は、どんなことをあらわしているかな」との質問を掲載し、日本書籍新社の『わたくしたちの中学社会』にはフランスの新聞『ル・プティ・ジュルナル』の画像を使用しているが、ロシアの同盟国フランスの風刺画が歴史を公正に理解する史料として適切であろうか。

日露戦争の戦闘場面について

 敗戦前の日本の教科書にはロシアの教科書と同じく、戦闘場面を教え橘中佐や広瀬中佐など、指揮官や兵士の忠誠心を讃えていたが、現在の日本の教科書には全く記載されていない。日露以外で戦闘場面を詳しく書いているのは、イギリスの教科書で海洋国らしく制海権やシーレーンの重要性を次のように教えている。「実際、あらゆる点で有利であったのは、ロシアの『ゴリアテ』でなく、日本の『ダヴィデ』のほうであった。制海権を手に入れれば日本軍は船に乗って戦場にすみやかに赴くことができたのに対し、ロシアの軍隊の移動は荒野を横切る八千キロメートルに及ぶ陸路一つに頼らなければならなかった。この点の有利さはすぐに現実のものとなった。日本の軍艦がロシア側を旅順港外で破り、日本の兵士は鴨緑江を越えて満州に攻め込んだのである。制海権を握ったため日本は別の軍隊を遼東半島に上陸させることも可能となった。まもなく旅順全体が包囲されてしまった。…..秋には旅順も陥落し、ロシア軍は奉天に退かざるを得なくなった」と書いている。
 一方、『ソヴィエト連邦史(7) 』には「ロシア国民は、ツァリーズムの冒険主義のために高い付けを払った。四〇万人の死傷者や病人と捕虜、巨額の戦費、そしてほとんどすべての太平洋艦隊の喪失、がすべてであった」。レーニンは「将軍や軍司令官たちが無能でとるに足りない連中であることが判明した。……文官武官をとわず官僚は農奴制の時代と全く同様に、ごくつぶしの汚職官僚であることが判明した。将校は無教育で無知で訓練を欠き、兵士と密接な結びつきをもたず兵士の信頼を得ていないことが判明した」と強く指揮官を非難し、「なぜ、ボリシェヴィキはロシアの敗北に努力し、この行為が真の愛国主義といわれるのはなぜか」との研究命題を科している。しかし、解放改革後にはバルチック艦隊は「建造年及び武装力と装甲のレベルのまちまちの艦船を寄せ集めて編成されていた。一九〇五年五月一四日、海軍大将東郷平八郎の艦隊は、朝鮮海峡でロシア艦隊に遭遇した。二日間の戦闘の過程でロシア海軍は完膚なきまでに粉砕された。軍事的敗北と国内で始まった革命が、ロシア政府をして日本との紛争解決の平和的な道の模索へと追い込んでいった」と事実を淡々と述べる教科書に変わった(8) 。

 一方、イギリスの教科書は海洋国の教科書らしく、日本海海戦についてはドッカーバンクの漁船砲撃と英国海軍の毅然たる対応、さらに石炭補給問題などバルチック艦隊の回航なども詳細に述べている(9)。「戦争が勃発した当初、日本よりはるかに強大だったロシアの海軍は世界中に散らばっていた。……バルチック艦隊は、戦場から一万七千キロメートルも離れたところにいた。絶望的な気分になったロシア側は、バルチック艦隊を世界をぐるりと回って極東に送ることに決めた」。しかし、「この長い航海は、その出発点で危なく終わってしまいそうになった。英仏海峡を南下中、英国の漁船の間を通り抜けた際、ロシア艦隊はそれを軍艦と見誤り、発砲してしまったのである。実際の損害は軽微で漁船一隻が沈められ、ロシアの巡洋艦が自国軍の砲弾に当たっただけであったが、日本の人気が高かった英国では怒りの声が上げられた。それからしばらくの間、ロシア艦隊ははるかに強力な英国艦隊の尾行を受けたが、幸いにも一発の砲弾を撃たれることはなかった」。
 その後は「石炭補給がロシア艦隊の悩みの種となった。…..甲板の武器が喫水線の下にくるまで石炭を積み、デッキの上にも石炭の山がつくられた。ロシア政府が二つ目の艦隊を送り、先の艦隊と一緒にすることを決定したため、マダガスカルで最大の遅れが生じた。全艦隊が極東の海にたどリ着いたときには、旅順は陥落した後であった」。

 日本海海戦についてはさらに詳細で、「一九〇五年五月二七日、疲れ切ったロシア艦隊は、対馬海峡で日本艦隊と遭遇した。ロシア側のにぶい艦艇は日本の近代的な艦艇の敵にはまずなり得なかった。司令官東郷提督は砲火を一杯に開きつつ、ロシア艦隊の先頭を横切って進むことができた。このTの横棒を書くやり方は、蒸気船の軍艦にとっての最善の攻撃形態であり、勝利はほぼ確実であった。日本軍の砲撃はツァーの軍艦を木っ端微塵に打ち砕いた。たった一時間の間に八隻のロシアの艦船が沈められた。東郷は一七九八年のナイルにおけるネルソンの勝利以来最も大々的な海での勝利を勝ち取ったのである 」と、東郷元帥だけでなく丁字戦法一敵前回頭まで解説している。
さらに日露戦争の与えた影響について、「四〇年間で日本はヨーロッパの大国を打ち破るところまで近代化を成し遂げた。日本はたちまちのうちに海外領土を持つ帝国主義国となり、西欧に対するアジアの人々の明らかなチャンピオンになったのである。日本人は偉大な未来を夢見はじめた。……ヨーロッパが目覚めさせたのは美女ではなく、巨人だったのである」と、イギリスの教科書の記述は生き生きとしており、その内容は日本人が読んでも感動的であり、それでいてエスプリがあり、いかにもイギリスらしい書き方ではないか。

 一方、ロシアの同盟国フランスのL・ペルネ編纂の中学高校『教科書(10) 』の本文には、日露戦争の記述は二―三行しかないが、「一九世紀のアジア」の項では日本海海戦の錦絵を掲げ、「新しい軍事大国、日本。対馬列島沖海戦の日本艦隊、一九〇五年五月。この版画はよく知られているもの。日本軍は奉天の陸戦でロシア軍を破った。救出のためヨーロッパから来たロシア艦隊も、東郷平八郎司令官(のち元帥)の率いる連合艦隊に数時間で敗れ去った。この絵は愛国心を高めるために使われた」とのキャプションを付けている。また、文明の先進国と自負するフランスの教科書らしく、その下にはフランス人技師が日本人を指導している日本海海戦の二倍の大きさの挿絵を掲げ、「ヨーロッパの指導下に日本は議会制の外見を整え、その経済を根本的に改革した。国家と大資本がこの国の工業発展を指揮した。このような進歩は、日本に帝国主義的野心を持たせることになった。一八九四年には強力な軍隊に支えられて中国から朝鮮と台湾を奪った。されに一九〇四―〇五年の日露戦争は、日本にとって一連のめざましい勝利を獲得する好フランスの教科書の挿絵   機となった。」と教えている。

独立を達成した国々の教科書
 日露戦争が独立の夢につながったポーランドの高校歴史教科書(11) 』は、明治天皇と三笠艦橋の東郷司令長官の写真を大きく掲げ、旅順封鎖作戦や日本海海戦の作戦図を全ページを使って示し、独立運動の指導者のドモフスキやピウスツキが戦争中に相次いで来日し、外務省や参謀本部と接触した事実も詳しく言及し、日露戦争勃発直後の一九〇四年二月八日に、ポーランドの社会党員がオーストリア公使・牧野伸顕に宛てた書簡から「ポーランド人はロシアの生来の仇敵です。ポーランド人民の利益は決して日本の利益と衝突することはないので、日本は間違いなくポーランド人の共感を得られるであろう」と、「ロシアの生来の仇敵」との部分を引用して掲載するなど、日露戦争がポーランド独立の建国物語であることから多くのページを割いている。

 また、インドネシアの『高校歴史教科書(12) 』の「アジアのナショナリズム」の項では、「一九〇四年から五年における日露戦争において日本がロシアに勝利を収めたことは、インドネシアのナショナリズム運動の流れに特別のインパクトを与えた。日本の勝利はアジア民族に、西洋に勝つこともできるという自信を植え付けるとともに劣等感を払拭させ、ヨーロッパ人と同様でありたいという国民意識を育てることになった」と教えている。さらに第六章の「日本占領とインドネシアの独立準備」の項では、ペリーの来航から明治維新までの日本の近代化を詳細に説明し、日本は短期間に西洋諸国と肩を並べるまでになった。日本は旧式の国家から近代国家へ、小国から世界から恐れらる大国になったと、明治天皇とその家族の写真を大きく掲げ、その説明には「睦仁天皇とその家族。この天皇政府の下で日本はロシアに対し歴史的勝利を収めた。ロシアの敗北はアジア諸国の民族主義を興起した」と日本の急激な近代化を讃えている。

 また、「日本の近代化および帝国主義政策の結果(13) 」の項目では、「満州の占領をめぐって日本の軍隊がロシアの軍隊と衝突し、一九〇四―〇五年に日露戦争が勃発した。日本は満州でロシア軍を撃退させるのに成功した。この勝利は日本に大きな結果をもたらし、アジア諸国にも非常に大きな影響を与えた。日本は旅順とサハリン島を獲得するとともに、西側諸国と同列に序せられるようになった。一方、アジアも、アジア民族が西洋諸民族に力で対抗できた事実によって、ナショナリズムに目覚めるという大きな影響を受けた」。次いで「アジア太平洋における日本の近代化の影響」では、「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起こった。たとえば、インドネシアでは一九〇八年にブディ・トモが生まれ、ベトナムでは一九〇七年にベトナム復活同盟が生まれた。一方、それより以前にすでに民族運動を経験していた国々、なかでもインド、フィリピンでは日本の近代化のあと民族運動がいっそう活発になった。太陽の国が、いまだ闇の中にいたアジアに明るい光を与えたのである。日本は八絋為宇(Hakko Ichiu)の旗印の下、世界支配に向けいっそう精を出した。神道に従って他の民族を指導する神聖な任務を帯びていると考えており、自らをアジア民族の兄貴分とみなし、弟たち、すなわち他のアジア諸民族を指導する義務があると主張した。また、日本の支配地では日本化が広く行われたが、これはアジアにおいて西洋帝国主義の地位に取って代わろうとするためであった」。そして、日本はドイツの植民地を獲得する目的で第一次世界大戦に参加し、「植民地を持ちたいと考えるようになった」と教えている。

日本の教科書の日露戦争
 日本の教科書は諸外国の教科書と大きく異なり、日露戦争中の戦闘に関する記述が極めて少なく、戦争の悲惨さや国民生活への悪影響を強調している。三省堂の『改訂版 日本史B』には、「一九〇四年二月、日本は旅順のロシア軍を奇襲して、その二日後、宣戦布告をした(日露戦争)。戦争は満州を中心に戦われ旅順や奉天では両国軍とも数万人の死傷者を出すはげしい戦闘となったが、日本は日本海海戦に勝利した。しかし日本は一〇〇万人をこす兵力と、当時の国力をこえた一七億円以上の戦費を使い、そのうち七億円は外国で募集してまかなったもので、資金や兵器、弾薬がとぼしくなって戦争を継続できなくなった」と、当時は国際法上問題とはなっていない宣戦布告前の奇襲を特記し、さらに多数の戦死者と多額の戦費を費やしたことが強調されている。一方、実教出版の『新訂版 高校日本歴史』にも「戦没者約八万八〇〇〇人、入院戦負傷病者約三九万人、捕虜二〇〇〇人に達した。陸軍の満州方軍総司令官は大山巌、海軍の連合艦隊司令長官は東郷平八郎であった」と、陸海軍の指揮官が多数の戦死者を出した戦犯とも読める流れで書かれている。

 また、実教出版は「戦時下の国民」の項に「開戦後、幹線鉄道や大部分の外航船が軍事輸送に動員され、貿易や国内の商品流通が阻害され、不況で都市に多くの失業者がでた。やがて景気は回復したが軍需のため生活必需品の物資が高騰した。農村では多くの働き手が軍に徴集され、牛馬の徴発、肥料の不足で農業生産が困難になり、軍馬の飼料として大量の大麦が供出させられた。兵士の家族に対する援護事業が各地で実施されたが、動員兵力が予想 実教出版の挿絵    外に増加したので援護が行き届かず、家族の生活を心配した兵士の脱走や、残された家族の自殺など、日清戦争当時にはみられなかった事件が発生した」と書かれ、さらに注には日清・日露戦争の戦死者数の図表と、「歴史の窓」として靖国神社や村に忠魂碑が建てられたと、村の忠魂碑の写真を掲載するなど、国家の防衛に命を捧げた兵士の挺身的な行為よりも、戦争の悲惨さ遺族の嘆き、銃後の不自由な苦しい生活などを強調している。
また、いずれの教科書も反戦平和主義者を過大に評価し、山川出版『詳説 日本史』の註には、「対露同志会や戸水寛人ら東京帝国大学の七博士は強硬な主戦論を唱え、『万朝報』の黒岩涙香や『国民新聞』の徳富蘇峰が主戦論を盛り上げた。開戦後、歌人の与謝野晶子が『君死にたまうことなかれ』とうたう反戦詩を『明星』に発表した」と書き、三省堂の『日本史B』には、「幸徳らは平民社の機関紙として週刊『平民新聞』を創刊し、社会主義の紹介につとめるとともに反戦を訴えた」「一九〇四年に与謝野晶子は『明星』に「君死にたまふことなかれ」を発表した。詩人の大塚楠緒子も一九〇五年に『太陽』に「お百度詣で」を発表して反戦を訴えた」との註を付けるなど、日本の教科書のほぼ総てに反戦運動が不釣り合いに大きな紙面を占めている。一方ロシアの教科書には帝政時代からスターリン時代、改革開放時代、プーチン大統領、そして現在のベドヴェージェフ大統領に到るまで、一貫して勇戦した兵士の功績や指揮官の英雄的行為を名前を挙げて讃えているが、日本の教科書には自由社の『新しい歴史教科書』と扶桑社の『中学社会 新しい歴史教科書』を除いて、東郷平八郎大将の名前はない。

支援国アメリカの教科書
 アメリカの教科書『アメリカ国民(14) 』は「ルーズベルトは東アジアにおける力の均衡維持に一生懸命だった。ルーズベルトは常々、日本人の闘争心と日本人の『将来に向けての文明』に対する価値ある素地を賞讃していた。それに比べてロシアに対しては低い評価をしていた。日本が朝鮮に進出しロシアが満州に進出するや、ルーズベルトは双方が互いにチェックするものと期待した。ルーズベルトは一九〇四年、日本がロシアを奇襲し、日露戦争の幕を切って落としたと聞くとこれを歓迎した。しかし日本の勝利が続き、日本があまりうまく戦争ゲームをプレーすると、米国を東アジア市場から締め出してしまうのではないか、と多くの米国人たちは心配しはじめた。ルーズベルトはロシアに接近した。そして日本が戦争終結に関心を示すや、喜んで調停に向けてその影響力を行使した。ルーズベルトの目標は和平を達成し、パワーバランスをアジアで維持することだった。一九〇五年の日露和平調停ほど、新しい米国の存在を世界に示すシンボルはなかった」と自国中心に日露戦争を描いている。
 また、『アメリカ概観(15)』には「ルーズペルトはこの日露和平交渉の成功と、北アフリカの紛争解決の功績で、一九〇六年ノーベル平和賞を受賞した。しかしこのルースベルトの外交的栄光の代価は米外交関係にとっては高くついた。あらたに大国の仲間入りをした日本と米国は、相互の警戒心とジェラシーが強まる中で、アジアにおけるライバルになっていった。多くの米国人は日本人はこれまでの着物が着れなくなるほど身の丈が大きくなったと感じるようになった 」と書かれている。

 また、日露戦争後のフィリピンと朝鮮併合に関する日米合意や、太平洋戦争に至った理由についても一方的に日本を非難せず、『アメリカ概観』は「ポーツマス条約は日本に朝鮮だけでなく満州の支配権を与えた。ルーズベルトはこのことを十分理解していた。その見返りとして一九〇八年のルート高平合意で、米国のフィリピン支配を日本が尊重すること、これ以上日本が中国を侵害しないことを認めさせた。だが、一部の日本人はポーツマス条約はロシアからの賠償金に一切触れてないとルーズベルトを非難した。移民問題に対する米国の無神経さが日本人に悪感情を与えていた。満州では米国総領事が日本の銀行や鉄道への資本投資計画に反対する運動を積極的に行っていた。この『ドル外交』と呼ばれる政策は、ルーズベルトの後に大統領となったタフト大統領に引き継がれた。この政策は市場開拓同様、成果自体よりも政策目標としての方が大きかった。いずれにせよ、米国は日本の進路に立ちはだかった。日米戦争の噂が広がっていった」。「ルーズベルトの『ビッグ・スティック』はすでに明確だった。海軍力の増強は一〇年前に始まったばかりだが、ルーズベルト政権下で海軍は強力な兵力になっていた。一九〇七年、『太平洋はわれわれの海だ(Home Water)』ということを明確にするために、『ホワイト・フリート』を極東に送った。最初の寄港地は横浜だった。水兵たちは暖かく迎えられたが、こうした行為自体、日本の海軍主義を刺激し、それが一九四一年(著者注・真珠湾)で米国に向かってきたのかもしれない」。このようにアメリカの教科書はローズベルトを賞賛はしているが、太平洋戦争に至る要因を人種差別、移民問題に対する配慮の欠如、強硬な「ドル外交」や海軍力の増強にもあったことなど公正な中庸を得た書き方である。

ロシアの同盟国と戦場となった国の教科書
 ピエール・ミルザの『フランスの歴史(16) 』には「日本の目覚め」の中の一項目、「日本帝国主義の誕生」の中に「西欧諸国を模倣することにより日本は列強の支配下におちいるのを避けることができた。まもなく今度は日本が対外膨張を考えるようになった。人口の急激な増加(一八九〇年には四〇〇〇万人、一九一四年には五三〇〇万人)や、原料・食料の不足、さらに工業製品の販路の必要性などから、それを余儀なくさせられたのである。こうした帝国主義的な目的を持って対中国戦争に突入した。この戦争は一八九五年にすみやかな勝利によって終わったが、日本はそこから大きな利益を引き出すことはできなかった。列強が干渉して日本に満州を諦めさせたのである。一九〇四年にロシアとの間に戦争が起こったのは、この豊かな領土をめぐってであった。ロシア艦隊は一九〇五年五月に対馬沖で壊滅させられた。日本は一九一〇年に朝鮮を併合し、満州を経営して一九一四年、大戦が勃発したときには中国への経済的侵入を開始したと日本を非難している。
 しかし、自国のこととなると植民地化の過程を年表的に記載し、植民地主義に対する反対もあったが、当時の世界の国々では植民地征服を「自らの力と才能を立証し、民族的誇りを正当化し、権力意思をほしいままにする手段とみなしていた」と書き、囲み記事で植民地建設の第一は、貧しい国、人口が溢れている国に安定と仕事を与えることであり、余剰生産物を与えることにより生活を豊かにすることである。第二は「人道主義的、教化的側面であります。…….優れた人種は劣った人種に対して権利を持っているのです。……..優れた人種は劣った人種を教化するという義務があるのです」と、一八八五年のフェリー植民地大臣の「植民地建設の是非」論を掲載し、中国でフランス人が建設した鉄道の開通式の写真を掲載している。

 一方、韓国の『高校歴史教科書(17) 』には日露戦争に関する独立の章や節はなく、「日帝は第一次英日同盟(一九〇二年)を締結して国際的立場を強化した後、韓半島の支配権をめぐってロシアを先制攻撃して戦争を引き起こした(露日戦争、一九〇四年)。大韓帝国は局外中立を宣言したが、日帝はこれを無視し韓日議定書を強制的に締結して政治的干渉と軍事的占領を企てた。次いで第一次韓日協約を締結し、外交、財政などの各分野に日本が推薦する顧問を置いて韓国の内政に干渉した。日帝はアメリカとは桂・タフト密約、イギリスとは第二次英日同盟を結んだ後、露日戦争で勝利するとポーツマス条約によりロシアから韓半島への独占的支配権を承認された」と書き、中国の中学校用の『入門 中国の歴史』、高校生用の『中国の歴史』には日露戦争に関する記述もなければ年表にも記載されていない (18)。

おわりに
 第二次世界大戦では田中義一首相が、昭和天皇に上奏したとされる世界征服計画の「田中上奏文(19)」が偽造され、世界に反日包囲網を構築されてしまった。そして、インドネシアとフィリピンの教科書は、この偽造の「田中上奏文 」を用いて今も日本を侵略国家と教えている(20) 。戦争に謀略や陰謀は当然であり、引っかけられ騙された史実を解明し反論しても、それを覆すのは極めて困難で、「田中上奏文」が真偽不明と中国が認めたのは、八一年後の二〇一〇年一月の日中歴史共同研究書であったが、それも本文ではなく脚注であった(21) 。これと同じような偽造史実が「南京大虐殺三〇万人」であり、「従軍慰安婦」などであるが、真相を確かめることなく国連人権委員会では従軍慰安婦非難決議と賠償の支払いが、また米国下院でも日本非難の決議が採択され、カナダでも「南京大虐殺」などの日本の蛮行を教科書に掲載した。欧州にも同様の動きが高まりつつあるが、プロパギャンダから生まれた日本非難の歴史観と、拭い難い対日不信感が国際社会に拡がりつつあるが、日本は事なかれ主義から十分な説明や反論を避けてきた。しかし、このまま放置するならば「南京大虐殺三〇万人」や「従軍慰安婦」の偽造歴史実が、謀略文書の「田中上奏文」のように世界史に定着してしまうのではないだろうか。

 世界の教科書をみてきたが、何れの国の教科書も自国の歴史に誇りを持たせ、国を愛することを教えている。日本の教科書は文部科学省の「近隣諸国事項」の指導のためか、ほぼ総ての教科書が日露戦争を中国や韓国の視点で詳細に記述している。特に帝国書院の『わたくしたちの中学生の歴史』は「韓国の教科書に見る安重根」とのコラムを入れ、「安重根は韓国侵略の元凶である伊藤博文が、大陸侵略についてロシア代表と交渉するため、満州のハルピンに来たところを射殺した。安重根のこの行動は、日本の侵略に対するわが民族の強い独立精神をよく表したものである」と、韓国の教科書の記述をそのまま掲載している。また、日本の中学生や高校生が学ぶ日露戦争に登場する人物は、幸徳秋水、堺利彦、内村鑑三に与謝野晶子、外国人では安重根と孫文(いずれも写真付き)で、明治天皇も東郷元帥の名前もない。

 歴史教育は国家の盛衰を左右する死活的に重要な問題であり、その骨幹である教科書については、如何なる国からの干渉を受けてはならない。残念ではあるが日本の教科書で学ぶより、アメリカやイギリス、特にインドネシアやポーランドの教科書で学ぶ子供の方が、正しい日本の歴史を理解し、国際人として通用するのではないか。国際人を育てるには世界から尊敬され、世界の教科書に取り上げられている東郷元帥や、乃木大将の名前を覚えておく方が、韓国人以外は誰も知らない安重根を覚えるより重要ではないか。国際人に最も必要なことは自国の歴史を理解し、自国に対するアイデンティを確立し、初めて外国人と対等に話ができるのであり、いくら「友愛精神」を発揮してもアイデンティに欠けると国籍不明人として相手にされないからである。

 歴史は国家の骨髄であり、歴史は民族のアイデンティティの根源である。本章を終わるに際し『韓国の高校歴史教科書(22) 』の言葉、「国史教育の目標は、わが国の歴史を主体的に理解するところにある(著者傍線)。これは国史がすなわち自ら生きてきた姿であり、民族のアイデンティティの根源だからである」。「この教科書を通じて学生の皆さんが民族史に誇りを持ちながらも、健全な歴史認識と世界市民意識をともに高めることを期待する」を掲げて結びとしたい。

脚注
1.鈴木威久『日露戦争とソ連』(原書房、一九七三年)二七六―三〇〇頁。
2.同右、三〇〇―三〇八頁。
3.イ・ベ・ベルーヒン、イ・ア・フェドーソフ(倉持俊一、横手慎二訳)『全訳 世界の歴史教科書シリーズ21 ソヴィエト連邦 V その人々の歴史』(帝国書院、一九八一年)四七―五二頁。
4.ロシア科学アカデミー極東支部編『世界の歴史教科書シリーズ 8 ロシア沿海地方の歴史』(明石書店、二〇〇三年)一〇一―一〇六頁。
5.L・E・スネルグローブ(今井宏・木畑洋一訳)『全訳世界の歴史教科書シリーズ5 イギリス V その人々の歴史』(帝国書院、一九八一年)三九―四六頁。
6.Thomas A.Bailey,David M.Kennedy,Lizabeth Cohen,”The American Pageant”, Eleventh Edition,(Houghton Miffin Company,1998)pp.662-663(高浜 賛『アメリカの歴史教科書が教える日本の戦争』アスコム、二〇〇三年)五九―六二頁。
7.前掲『全訳 世界の歴史教科書シリーズ21 ソヴィエト連邦』四七―五二頁。
8.前掲『ロシア沿海地方の歴史』一〇六頁。
9.前掲『全訳世界の歴史教科書シリーズ5 イギリス V その人々の歴史』三九―四六頁。
10.L・ペルネ、R・ブランショ(井上幸治・二宮宏之訳)『世界の教科書 シリーズ歴史9 フランス3』(ほるぷ社、一九八一年)二〇八―二〇九頁。
11.Andrzej Garlicki, HISTORIA 1815-1939, Polska i swiat, Wydawnictwo Naukowe "Scholar",Warszawa 2002.Maciej Milczarczyk,Andrzej Szolc, HISTORIA 7,W imie wolnosci, Wydawnictwa Szkolne i Pedagogiczne WSiP,Warszawa,1994. 藤岡寛次『教科書から見た日露戦争』(展転社、二〇〇四年)一二〇―一二四頁。
12.イ・ワヤン・バドリカ(石井和子監修)『世界教科書シリーズ 20 インドネシアの歴史 インドネシア高校歴史教科書』(明石書房、二〇〇八年)二四一―二四三頁。
13.同右、二四一―二四四頁。
14.Gray B.Nash,Julie Roy Jeffrey,The American People:Creating a Nation and a Society, vol.II,Longman,2000)pp.537-538,同右、六二―六四頁。
15.David M.Kennedy,Thomas A.Bailey, Lizabeth Cohen,The American Pageant Since 1865, Houghton Miffin Company,1998,pp.662-663(高浜 賛『アメリカの歴史教科書が教える日本の戦争』アスコム、二〇〇三年)五九―六二頁。
16.ピエール・ミルザ、セルジェ・ベルスタン(尚徳啓太郎訳)『全訳 世界の歴史教科書シリーズ 7 フランス2』(帝国書院、1980年)145ー148頁。
17.三橋広夫訳『高校歴史教科書 高等学校国定国史』(明石書店、二〇〇六年)一二二―一二三頁。
18.人民教育出版社歴史室編(小島晋治・並木頼寿監訳)『世界の教科書シリーズ 11 中国の歴史 中国高等学校歴史』(明石書店、二〇〇〇年)および人民教育出版社歴史室編(小島晋治・並木頼寿監訳)『世界の教科書シリーズ5 中国の歴史 中国中学校歴史教科書』(明石書店、二〇〇一年)。
19.秦郁彦『昭和史の謎を追う』上巻(文芸春秋社、一九九三年)九―二四頁。
20.前掲『世界の歴史教科書シリーズ20 インドネシアの歴史』二四二頁。国際情報センター編『対訳 世界の教科書に見る日本 フィリピン編』(同センター編、一九九四年)七五頁。
21.「日中歴史共同研究報告書」『産経新聞』二〇一〇年二月一日。
22.前掲『高校歴史教科書 高等学校国定国史』七頁。