解題 海軍軍令部編『明治三七八年
海戦史』の資料的価値
はじめにー資料紹介とその価値
日露戦争開戦1ヶ月前の1904(明治37)年1月4日、日露両国の艦艇が砲艦外交を展開していた仁川港在泊中の巡洋艦千代田から、小笠原長生少佐が日露海戦史編纂主務者として軍令部参謀に発令された。海軍が開戦前に戦史編纂準備を開始したのは、軍令部次長の伊集院五郎少将が『明治二十七八年海戦史』の編纂の際、史料の収集などに困難を極めた体験からであった。また、小笠原少佐が選ばれたのは、『明治二十七八年海戦史』編纂で伊集院のもとで編纂業務に携わり高く評価されていたからであった(外山三郎『日露海戦史の研究』教育出版センター、1985年)。
1905(明治38)年3月30日には小笠原少佐が立案した戦史編纂の基本方針が、軍令部長伊東祐亨大将から海軍大臣山本権兵衛中将に提出されて認められた。それは編纂期間を5年とした予算要求(明治38年から5カ年の継続費)と、委員会制ではなく軍令部第3班が担当し数名の委員を指名することであった。定員は班長(少将または大佐)、佐官6名、編修1名、書記1名、編修書記7名、技手2名と定められた。江頭安太郎少将、次いで名和又八郎少将が班長として編纂事業の全般を監督したが、編纂の基本方針を案画し、諸業務を調整した実質的推進者は小笠原少佐(1905年7月に中佐に昇任)であった。1906年1月には「日露戦争史編纂方針」が達示され、6月2日には伊集院軍令部次長から各艦隊司令長官、各鎮守府司令長官などに、戦史編纂に必要な記録を「軍令部小笠原少佐宛ニテ途付セラレンコトヲ部下一同ニ御伝達相成度」と依頼するなど、日清海戦史の編纂過程で資料収集などに苦労した伊集院軍令部次長が側面から支援した。その後、1906(明治39)年12月21日付で海軍軍令部処務規則が改訂され、新編された第4班が戦史編纂を担当することとなった(田中広巳「日清・日露海戦史の編纂と小笠原長生(2)」(『軍事史学』第18巻第4号(1983年3月)。
本書の原典となったのは『極秘明治三十七八年海戦史(極秘海戦史)』である。この資料は日露戦争後の1905(明治38)年12月から編纂に着手され、1911(明治44)年までに150冊が完成した。一般に公刊されることはなく所要の向きに配布されたが、終戦時にほとんどが焼却され、明治天皇に提出された1セットだけが奇跡的に処分を免れた。現在「千代田文庫」として防衛研究所戦史部に保管され、閲覧も可能である。この「極秘海戦史」の各巻の構成と題名は付録として掲載したが、この他にも「大本営の命令訓令綴」、「大海情報綴」、各部隊の「戦闘詳報」など36巻の資料が付属文書として添付されている。
日本語に翻訳された日露戦争の海戦史としては、ロシア海軍軍令部が編纂した『千九百四・五年露日海戦史』(復刻・芙蓉書房出版、2004年)7冊(5巻のみ刊行されなかった)がある。『明治三十七八年海戦史』を読む場合には、是非とも『露日海戦史』と対比しながら読んで頂きたい。この2書と対比することによって、日露両国海軍が何を誇張し、何を隠したかが見いだされ、そこに新しい歴史も見えるからである。
また、第三者的な視点を加えるには、英国国防委員会(The Historical Section
of the Committee of Imperial Defense)が日露戦争全般を記述したOfficial
History(Navy and Military) The Russo-Japanese War(His Majesty’s Stationary
Office, 1910)、海戦史についてはコルベット(Julian S. Corbett)のMaritime
Operations in the Russo-Japanese War 1904-1905 (His Majesty’s Stationary
Office, 1910)がある。また、さらに細部を知りたい人には、英国の観戦武官の報告書をまとめた英国参謀本部(General
Staff, eds.)編纂のThe Russo-Japanese War:Report from Officers to the Japanese
Field(Edition Synapse,2000)も参考になるであろう。
『明治三十七八年海戦史』は、『極秘明治三十七八年海戦史』をもとして、日本海軍が編纂した公刊海戦史である。本書は形を変えて2回出版された。第1回目は、作戦を扱った3巻と「医務衛生」に関する1巻の全4巻で構成され、明治42年と42年に春陽堂から発売された。第2回目は日露戦争30周年を迎えた1934(昭和9)年に内閣印刷局朝陽会から再版されたが、時代の推移とともに掲載されている数値の価値が低下したためであろうか、「医務衛生」編を削除し2巻に再編集してている。
また、海軍軍令部は『明治三十七八年海戦史』をもとに、日本海海戦30周年の1935(昭和10)年に、日本海海戦の部分を要約し『日本海大海戦史』を内閣印刷局朝陽会から刊行している。『明治三十七八年海戦史』は、広く普及することを目的としたため、記述がよく整理されている利点がある半面、戦争が大勝利に終わり関係者が栄進したためか、全編を通じて自画自賛的な記述が多い。しかし本書は、日露戦争研究の基本文献として、多くの研究者に利用されてきた。今回復刻されたのは、春陽堂版のうちの「医務衛生」編を除く3巻である。明治海軍が後方支援をも重視していたことを理解して頂くために、「医務衛生」編も復刻したかったが、資料が膨大なこと、明治の数値的データが平成の歴史研究にはあまり寄与しないと考えあえて割愛した。
日本海軍はこの書をロシア海軍に寄贈し、ロシア海軍は本書を裏付け資料として『千九百四―五年露日海戦史』を編纂した。これを入手した日本海軍は内部資料として翻訳印刷した。つまり、『明治三十七八年海戦史』と『千九百四―五年露日海戦史』の2書、その成り立ちに置いて、密接な関連を持っており、同時に復刻出版される意義は極めて大きいと言える。戦争史の研究では、交戦した両国の史料を比較することにより研究が深化し、新しい視点も生まれ、さらにはイズムに冒されていなかった当時の資料で、新たな日露戦争史を描けるからである。以下、日露両国の海戦史を比較しながら注目すべき点を紹介しよう。
軍事と外交―宣戦布告と旅順港外在泊艦艇への奇襲攻撃
本書の編纂目的に、「海軍部内ノ参考ニ資スル」ため、「海戦ノ顛末、作戦の方針、戦略戦術ノ得失、防備施設・衛生経理ノ適否等ヲ講究スルノ資ニ供セシムルニアリ」とある。すなわち、主体は海戦史であり戦闘史である。しかし、第1章の「露国ノ満州占領」「韓国ニ於ケル帝国ト韓国トノ関係」「満韓ニ関スル帝国ト露国トノ交渉」などには、満州へのロシアの侵入から開戦に至るまでのロシアの動きと、日本の対応や外交交渉の推移の概要が時系列に従って要約されており、当時の政府や海軍の日露交渉に対する対応が理解できる。
本書の冒頭に日露両国の宣戦布告文が掲載されているが、注目すべきことは双方の主張の差異である。日本の宣戦布告文には、朝鮮半島が如何に日本の安全保障に重要であるかが記され、日本が開戦を決断した理由を、「帝国ノ重ヲ韓国ノ保全ニ置クヤ一日ノ故ニ非ス。是レ両国累世ノ関係ニ因ルノミナラス、韓国ノ存亡ハ実ニ帝国安危ノ繋ル所タレハナリ」「若シ満州ニシテ露国ノ領有ニ帰セン乎、韓国ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス」「韓国ノ安全ハ方ニ危急ニ瀕シ、帝国ノ国利ハ将ニ侵迫セラレムトス」。ここに至り帝国が「平和ノ交渉ニ依リ求メントシタル将来ノ保障ハ、今日之ヲ旗鼓ノ間ニ求ムルノ外ナシ」と記している。
そして、ロシアが満州からの撤兵を諸外国に公表しながら、「清国トノ明約及列国ニ対スル累次ノ宣言ニ拘ハラス、依然満州ヲ占拠シ益々、其ノ地歩ヲ鞏ニシテ、終ニ之ヲ併呑セムトス」。日本は「有司ヲシテ露国ニ提議シ半歳ノ久シキニ亙リテ」折衝を重ねたが、ロシアは「一モ交譲ノ精神ヲ以テ之ヲ迎ヘス」、徒に「時局ノ解決ヲ遷延セシメ、陽ニ平和」を提唱しながら「陰ニ海陸ノ軍備ヲ増大シ、以テ我ヲ屈従セシメムトス」。ロシアの「平和ヲ好愛スルノ誠意」を「毫モ認ムルニ由ナシ」と、ロシアが交渉にも誠意を示さなかったことを非難している。
一方のロシアは、日本のこうした非難に反論できなかったためか、日本政府は「外交関係ノ断絶カ軍事行動ノ開始ヲ意味スルコトヲ予告セスシテ、其ノ水雷艇ニ旅順要塞ノ外泊地ニ在ル朕ノ艦隊ヲ、突然襲撃スヘキノ命令ヲ下シタリ。朕ハ極東太守ヨリ此ノ報告ニ接シ、直ニ兵力ヲ以テ日本ノ挑戦ニ応スヘキコトヲ命シタリ」と、日本の宣戦布告なき旅順港外のロシア艦隊攻撃を非難した。しかし、当時は宣戦布告を必要とする規定が国際法にはなく、外交関係の断絶をもって宣戦布告とすることが国際的慣行であった。このため、列国は日本を支持した。なお、宣戦布告を必要とすると、国際的に決められたのは日露戦争2年後の1907年のハーグ国際平和会議からであった。そのため米英独の新聞は、「宣戦布告なしの開戦は米西戦争や米墨戦争など多くの前例がある。1877年の露土戦争では、ロシア自身が宣戦をせずにトルコに攻め入っているではないか」と日本を支持し、ロシアに好意的なドイツの新聞でさえ、「ロシアが日本の攻撃を非難しているが、1700年から1870年に起こった120の戦争のうち、110が開戦前に宣戦布告をしていない」と日本を支持していた(平間洋一『日露戦争が変えた世界史』芙蓉書房出版、2004年)。

宣戦布告で注目すべきことは、ニコライ皇帝の詔勅の宛先である。宣戦布告文の宛先には、「全ロシア独裁主及び皇帝兼モスクワ帝」が「カザンスキー帝、ポーランド帝、西伯利帝、グルジンスキー帝……………」、「芥蘭太公、エストリヤンドスキー………..「及ヒ自余ノ侯、ノーウゴロスキー……..ペルムスキー、ムスチスラーフスキー及ヒ全地方ノ君主兼大公」、「カルガリンスキー、ガバルジンスキー地方及ヒアリメンスキー州、チャルスキー及ヒゴルスキー両侯ノ命令者兼君主及ヒ自余ノ相続君主及ヒ領有者」であるトルキスタン君主、ノールウエー国王位継承者オリデンブルグスキー伯爵、さらに1〇数地方の名前を挙げ「其ノ他ニ君臨スル朕ニコライ二世ハ洽ク朕カ忠實ナル臣民ニ告ク」と、ポーランドやフィンランド、ノルウェー、ハンガリーオーストリなど、53の国や地方の国王に参戦を命じていることである。ここに列挙された国家や地域から、当時のロシアの勢力圏が、また記載順位からロシアへの従属関係の強弱などが理解できるのはないか。
また、横浜沖で行われた凱旋観艦式に参加した艦艇を見ると、日露戦争勝利直後の国際関係、すなわち軍事と外交の連接も理解できるであろう。当時、中国には義和団事件に兵を送ったドイツ、フランス、オーストリアなどの西欧諸国から艦艇が派遣されていたが、日露戦争の凱旋観艦式に参加した艦隊は、同盟国である英国の巡洋艦5隻と駆逐艦6隻、講和会議を斡旋した米国の巡洋艦ウィスコンシンで、ドイツとフランスの艦艇は参加しなかった。このように、本書を詳細に見ると、随所に当時の世界情勢や日本に対する列国の対応、対日外交を象徴する事象などが記載されており、見落とされがちだった軍事と外交の連接など、日本外交史の研究に新しい視点を加え得るのではないか。
日本海軍の危惧とその実態―日本は開戦を早まったか
本書には、旅順艦隊が、今や「戦艦七隻、装甲巡洋艦4隻、巡洋艦十隻ニシテ、之ニ砲艦、駆逐艦等ヲ加レハ、合計十九万千余屯ノ勢力ヲ算ス」、さらに戦艦オスラビヤ、装甲巡洋艦ドミトリー・ドンスコイ、巡洋艦アウローラや駆逐艦なども回航中であることが記されている。さらに、スタルク司令長官は「旅順港外ニ於テ日々戦闘操練ヲ諸艦ニ命シ、韓国仁川港ニハ常置警備艦ノ外、有力ナル軍艦ヲシテ屡々出入セシムル等、諸般ノ準備ニ忙シク、三十七年ニ入リ愈々活動シ、浦港(ウラジオストック)ノ諸艦ハ日々砕氷船ヲ用ヒテ四周ノ結氷ヲ破砕シ、汽罐ヲ焚キテ不時ノ出港ニ備へ、旅順口ノ主力艦隊ハ、1月16日頃一旦入港セシカ、2月3日ニ至リ修理中ナル『セバスポリ』ヲ除キ、他ノ戦艦6隻、巡洋艦6隻等ハ近海ヲ遊弋シタル後、4日午後ニ帰リテ黄金山前ニ羅列シテ碇泊セリ」と記されている。さらにロシア海軍の建造計画が完成すれば、日本海軍の26万余トンに対して51万余トンとなるとも書かれている。これらの記述から、放置しておけば時間の経過とともに兵力の格差が増大し手も足も出なくなるという日本海軍の開戦への「あせり」が強く感じられる。
しかし、ロシア海軍が編纂した『露日海戦史』を見ると、異なる事実が読みとれる。駆逐艦24隻中で可動駆逐艦は八隻、しかも出動演習をしたら2隻が故障、即時可動な艦艇は水雷部隊の巡洋艦2隻、駆逐艦3隻に過ぎなかった。また、艦隊は開戦間際に予備役から現役に就役させたため編隊航行を行ったこともなく、艦長も老齢で無能であり、マカロフ少将が着任すると、22名の艦長の半数を指揮官不適と更迭するなど、日本海軍が危惧していた情勢ではなく、戦争準備などはほとんど行われていなかった。また、妥協的な回答も既に送付していた(日本には未着)。このため、戦争を仕掛けたのは日本であったと非難する論者も多い。しかし、ニコライ海軍大学の図上演習やロシア海軍軍令部、太平洋艦隊が作成した対日戦争計画や、それをめぐる会議記録などを見れば、日本の開戦の決断が正しかったことが理解できるであろう。
ロシア海軍軍務局の対日作戦計画担当者ブルシロフ中佐の覚書によれば、極東で「絶対優位権ヲ確立セント欲ス」るならば、「須ク日本ヲ撃破シ」し、「艦隊保持権ヲ喪失セシメ」なければならない。現在は日本海軍が優勢であるが、2年後には艦艇の増強計画を進展し、日本海軍の戦艦6隻に対して13隻、装甲巡洋艦も6隻に対して5隻となる。したがって、当面は「縦令、多大ノ譲歩」をしても、対立を回避するのが「得策」である。「今後2カ年ヲ経テ日本ニ対シ、宣戦スルノ堅キ決心ヲ以テ、不撓不屈戦備ヲ修メ」るべきである。外交当局は2年後を目途に、開戦時に有利な国際関係を構築すべく努力すべきである。また、戦争では「日本人ヲ撃破スルノミニテハ不十分」で、「更ニ之ヲ殲滅セサルベカラズ」と上申していたのである。
一方、1904年1月13日の提案に対する日本への回答が、1月28日に陸軍大臣クロパトキン大将、ラムスドルフ外相、海軍総務長官アウエラン大将、極東特別委員会委員長アバサなどで討議され、朝鮮国境における中立地帯設定の撤回など、日本に対して「多少調和ノ精神ヲ以テ作成」された。しかし、これはウィレニース少将指揮の戦艦オスラビア、装甲巡洋艦ドミトリ・ドンスコイ、巡洋艦アウローラ、駆逐艦7隻の増援部隊が極東に回航中だったからではなかったか(開戦時はジプチに在泊)。この対日妥協案は、開戦を2年、それが不可能ならば最小限、増援部隊が極東に着くまで、交渉を引き延ばそうとした意図があった可能性も考えられる。
海軍作戦の見直しー小艦艇の活躍と日本海海戦

日露戦争といえば日本海海戦、三笠以下の戦艦部隊の大胆な敵前直角回頭を読者の多くは思い浮かべるであろうが、日本海軍の勝因の一つに小艦艇の活躍があった。本書では、駆逐艦や水雷艇、さらには各艦が搭載していた艦載水雷艇の活躍に多くのページを割いて詳細に紹介している。本書によれば、小型艦艇は旅順閉塞作戦では厳冬の寒気厳しい雪吹から濃霧の春、炎天下の真夏と、旅順港外で機雷掃海や大型艦の襲撃、封鎖突破船の監視と1年近くも厳しい行動に従事した。また、日本海海戦でも200から300メートルまで肉薄し攻撃するなど奮闘した。その一例を挙げれば、第3駆逐隊の薄雲は敵艦に接近し過ぎて「衝突セントシタ」が、「僅カニ免レ」激しい銃撃を受けながら、200メートルまで接近し魚雷3本を発射し、2番艦の霞や3番艦の薄雲は衝突を避けるため、敵の隊列間を横切って「敵艦トノ衝突ヲ辛ジテカワシ」、300メートルから魚雷を発射している。しかし、これら小型艦艇の活躍は徐々に忘れ去られ、「東郷ターン」という敵前直角回頭のイメージが強まり、日本海軍のみならず世界の海軍を大艦巨砲主義へと走らせたのであった。
日本海海戦についての本書の記述を見てみよう。
5月27日午後1時39分に敵を発見、「爾後、適宜ノ運動ヲ為シ」、2時2分に「南西微西ニ定針シ先ツ 敵ト反航スル姿勢ヲ示シ」、3分後に距離8000メートルで「急ニ東北東ニ変針シ、以テ敵ノ先頭ヲ圧セ ントセリ」。2時8分に2番艦の敷島が回頭を終わり、新針路となったのは距離7000メートルで、この時 に先頭のスオロフが発砲し、他艦もこれに続き「忽ニシテ全砲火ハ我カ先頭ノ両艦ニ集注シ、巨弾雨ノ如 ク艦ノ四周ニ落下」した。しかし、「我ハ猶ホ自重シテ応戦セス」。2時10分、距離6400メートルに至り「 第一弾ヲ発射セリ時ニ2時10分ナリ」。
これが日本海海戦の敵前大回頭の記述であり、ここには「T字戦法」や「丁字戦法」の言葉はなく、淡々と時系列に従い戦闘が記述されている。歴史は語られ書かれ、ドラマとなり、そして作られるという実例であろうか。
陸戦史から見た価値

本書は海戦史ではあるが、例えば第1巻第2編の「陸軍トノ共同作戦」には、「第一軍ノ上陸援護並ニ前進援助」、「第二軍ノ輸送上陸援護」「第十師団ノ南尖子上陸援護」「蓋平方面ノ第一次出動」「第二軍ノ金州攻撃援助」「蓋平方面ノ第二次出動」「第三軍ノ前進応援」「営口方面の警備」「済遠支隊ノ第三軍応援」陸軍輸送船「佐渡丸」「和泉丸」「常陸丸」撃沈時のロシア側の報告などもある。金州の戦いについては、「金州ニテ防御スベキカ、放棄シテ旅順ニ退却スベキカ。諸説紛々タリ」などとのロシア側の内情が、「コステンコ少将記事ノ大意ニ曰ク」などとして各所に紹介されている。ここで、コステンコ少将の記事の中から日露兵士の敵前での交流という面白い記事を紹介しよう。
旅順攻防戦では「彼等ハ甚ダ我ガ狙撃兵ノ塹壕ニ接近シ、我ガ兵ハ彼等ト語ヲ交ヘ相戯レ、石ヲ投シ罵言スルホドナリキ」。聞くところによると、我が将校は銀杯にウオッカを注ぎ、「日本人ヨ、我ガ輩ハ汝等ノ慓悍ナル武勇大胆ノ為ニ乾杯ス」と告げた。すると日本軍からロシア語で「然リ我等モ又汝等ノ勇敢ノ為メ乾杯セント欲スルモ、『ウオッカ』ナキヲ如何ニセン」との返事があり、この将校はウオッカを布に包んで日本軍の陣地に投げ込もうと、上司に了解を求めたが許可されなかった。しかし、このエピソードは「頗ル我ガ兵士ノ好スル所」であったと書いている。

第10章の「旅順要塞船ノ梗概並ニ海軍陸戦重砲隊ノ戦況」には、旅順攻略作戦に関する海軍から見た戦闘の推移や、海軍重砲隊に関する詳細が記されている。従来、陸戦関係の史書には、海軍重砲隊についてあまり触れられていないが、海軍陸戦重砲隊は15拇榴弾砲7門(うち3門損傷)、12拇榴弾砲12門(うち4門損傷)、20斤砲25門(うち6門損傷)を投入し、15拇榴弾砲約5000発、12拇榴弾砲約1万7000発、20斤砲約2万3500発を発射し、戦死者も56名、負傷者は289名に達しており、これらの数値からも、従来の陸戦中心の旅順攻略作戦史に海軍の役割という異なる視点を見出せるのではないか。
なお、陸軍関係の戦史には参謀本部編纂の『明治丗七八年日露戦史』第1〜10巻(各巻別巻の付図あり)があり、偕行社から1912年から15年に出版された。自画自賛が多いとの司馬遼太郎の批判で有名な書であるが、日本陸軍の日露戦争に関する基本となる正史である。残念ながら参謀本部編の『明治三十七八年秘密日露戦史』は編纂途中で終わり出版されなかった。海軍の『秘密明治三十七八年海戦史』に相当する陸軍の秘密の日露戦争史は『明治三十七八年秘密日露戦争史』として、巌南堂書店から1977年に出版された。これは、1914年頃から編纂が開始されたとみられる『明治三十七八年作戦経過の概要』の第1から第三巻(1904年6月までの記述)と、戦争に参加した将官たちの『日露戦役回顧談』を合冊したものである。第4巻以降の草案は完成していたが、現在、行方不明である。評価の高い元陸軍大尉沼田多稼蔵の『日露陸戦新史』は、この草案を参考にしたと言われ、陸軍関係の日露戦争史として高い評価を得ている。同書も芙蓉書房出版から日露戦争史のシリーズの1巻として復刻される。政戦略や諜報、情報活動、戦訓などを求めるならば、谷壽夫『機密日露戦史』(原書房、1971年)が参考となろう。
海軍はロシア軍令部が編纂した『露日海戦史』を翻訳印刷したが、陸軍はロシア側の戦史は翻訳していない。ロシア陸軍の行動については、参謀本部第4部が欧米諸国の日露戦争関連の資料を収集編纂した『明治三十七八年役 露軍ノ行動』(12巻、各巻別巻付図付)が、1908年から1914年に偕行社から出版され、これをロシア側の戦史に代えて使用している。一方、軍政に関しては陸軍省編『秘密明治丗七八年戦役陸軍政史』(15巻及び別冊)があり、別冊は巌南堂書店から、各種統計資料については陸軍省編『明治三十七八年戦役統計』(15巻)があり東洋書林から復刻されている。
公刊戦史の限界―戦訓は敗者に求めよ
旅順口閉塞作戦は3回実施されたが、5月3日に決行された第3回目の閉塞作戦は、荒天と悪視界、通信連絡の不備から中止命令が徹底せず、参加者158名中、収容されたのは67名(うち戦死者4名、負傷者20名)と捕虜17名を出して失敗した。しかし、『明治三十七八年海戦史』には明治天皇の「連合艦隊ハ三タビ旅順口閉塞ノ壮挙ヲ行ヒ、猛激ナル敵ノ抵抗ヲ排シ、其目的ヲ達セリト聞ク。其事ニ与カリシ将校下士卒ノ忠烈ヲ嘉ス」との勅語を記載し、5月18日に巡洋艦ノーウエクが出撃すると、「第三回閉塞以来敵大艦ノ出港ヲ見タルハ此ノ『ノーウィク』ノ出動ヲ以テ始メテトス」。これにより「連合艦隊司令長官ハ敵ノ既ニ閉塞セル港口ニ通路ヲ開キタルヲ察知シ」、ますます監視を強化したと、5月18日までは「閉塞」されていたとも読める表現となっている。そして、「ブーブノフ大佐記事ノ大意ニ曰ハク」「露国新聞ルツスコエ・スロヴォ通信員ノ発シタル電報ノ大意ニ曰ク」などとロシア側の資料を示し、隊員が如何に忠誠心を発揮し勇猛果敢に任務を遂行したか、如何に捕虜となるのを忌避したかなどを紹介しているが作戦の成否に関する記述はない。
一方、『極秘明治三十七八年海戦史』には、「港内ノ水路ハ著シク狭窄セラレ、殊ニ第二回閉塞船米山丸ハ港口最狭部ノ左方約三分ノ一ヲ閉塞シ得タルヲ以テ、港口ノ出入ハ極メテ困難トナレリ」と効果を控えめに記述し、さらに連合艦隊が大規模な閉塞を計画し、大本営に「黄海ニ於ル敵ノ根拠地ヲ失ハシムル必要アルニツキ、出来得ルコトナレバ更ニ閉塞船十二隻位ノ準備アランコトヲ望ム」と打電すると、軍令部は「今般要求セラレタル閉塞船十二隻ヲ使用シ、若シ不幸ニシテ完全ノ効果ナク、又更ニ若干隻ノ閉塞船ヲ要スルニ至ラハ、陸海軍ノ輸送ニ顧慮セサル可カラサルヲ以テ要求ノ件ハ遽ニ決シ難シ、故ニ大本営ノ使命ヲ帯ヒ、連合艦隊ニ出向シツツアル財部参謀到着ノ上、国家ノ大局ニ鑑ミ彼是勘酌シテ熟考ノ上更ニ何分ノ意見ヲ示サレタシ」と、旅順閉塞作戦に大本営が危惧を持っていたことが記載されている。
しかし、『明治三十七八年海戦史』には駆逐艦グローズヌイは「不知火ニ向ヒテ驀進進シ來リ。八百乃至三百米ノ距離ヲ以テ互ニ旋回戦ヲ爲シ……敵モ亦勇敢ニ応戦シ我カ砲弾ノ爲メ、其ノ軍艦旗落下スルヤ、直ニ再ヒ之ヲ掲揚シ、又巧ニ魚形水雷ヲ発射シ不知火ヲシテ辛ウシテ之ヲ避クルヲ得シメタリ。加ヘテ弾著モ亦良好ニシテ不知火ハ大小二十余弾ヲ被リ、右舷機及ヒ操舵機ハ使用ニ堪ヘサルニ至リ、爲メニ進退ノ自由ヲ欠キ屡一処ニ旋回シツツ敵ト戦フノ不利ニ陥リ」とロシア海軍の健闘を讃える記述が多々見受けられる。
一方、ロシアの『露日海戦史』は極めて厳正で、作戦の成否から指揮官の能力や性格などまでを辛辣に批判している。たとえば、太平洋艦隊司令長官マカロフ中将の戦死後に司令長官となったウイトゲフト少将については、「性来決断力ニ乏シク、且、周囲の状況ニ精通セザリシ為、機ニ臨ンテ徒ニ逡巡スルノミニテ何等策ノ施ストコロ無ク、結局総ノ計画ヲ水泡ニ帰セシメタリ」と非難している。また、旅順の敗因についても「将校ノ教育ガ全ク欠如セルハ実ニ言語道断ニシテ、其原因ハ組織ノ不完全ニ帰セサルベカラズ。加フルニ指揮法亦拙劣ヲ極メタリ」と厳しい
。また、日本海海戦でネボガトフ少将の降伏によって2400名の命が救われたが、これについても「露国民ハ感謝セシヤ」「露国ノ歴史ハ之ヲ是認シタルヤ」「救済サレタル人々スラ『ネボガトフ』少将ニ対シテ感謝シタルヤ」と辛辣な批判が記されている。しかし、このような記述は日本の戦史には一切ない。第5巻が発行されていないことについて、山梨学院大学のコンスタンチン・サルキソフ教授がロシア海軍公文書館などに問い合わせたところ、「何らかの内部的トラブルのため」発刊されなかったというが、このような辛辣な個人的な批判に、その一因があるとも考えられる。
自国の良いところだけを強調するのはいずれの国の戦史も同様であるが、『明治三十七八年海戦史』は普及版として広く国民を対象として編纂されたためか、不都合な部分が隠され、全般を通じて勇戦奮闘が目に付き自賛的表現が多い。小笠原中佐が忠君愛国の人で、戦死者を悼み軍人の亀鑑となる行為を歴史に残し、軍人の士気を高め、忠勇無双の軍人を育成することを意図していたからであった。これは、小笠原中佐が各艦隊司令長官と鎮守府司令長官に、「戦死者ノ伝記ハ本人ノ名誉ヲ末代ニ残シ、又後世ノ亀鑑ナルヘキモノニシテ戦史編纂上一大要録ニ有………各艦船艇ニ於テ戦死者ヲ出ス毎ニ其最後ノ実情ヲ首トシテ、苟モ本人ノ名誉ト為スヘキ美譚ハ、戦友ヲシテ細大漏サス之ヲ蒐セシメ小官迄御回相成候様致度」との依頼状を出していることからも理解できるであろう。このため、勇敢な行為や戦死者の氏名が各所に記載されてはいるが、作戦の評価や批判は見当たらない。また本書には、陸軍の戦史、例えば沼田多稼蔵の『日露陸戦新史』や谷壽夫の『機密日露戦史』などで非難され、陸軍に大きな迷惑をかけた第2軍の上陸地点の変更、旅順閉塞作戦や旅順艦隊撃滅の失敗、旅順攻略を陸軍に強く要請したことなどはとり上げていない。
ロシア側の資料を利用していることは評価できるが、「某将校記事ノ大意ニ曰ク」「太平洋艦隊司令長官マカロフノ電奏文ニ曰ク」「コステンコ少将記事ノ大意ニ曰ク」などだけで、出典が明記されていない。記述も「弾丸ノ多数ハ敵艦付近ニ炸裂シ、砲台及ヒ湾内ニ達セシモノモ亦尠カラサルモノノ如シ」「一弾ハ弾薬庫ニ命中シタルモノノ如ク」「敵艦隊ハ夜中港内深ク隠レタルモノノ如ク」などと、対照するロシア海軍の戦史を入手していたにもかかわらず「モノノ如ク」との推定的な表現も多い。また、「興国の興廃此の一戦にあり」「天気晴朗なれど波高し」などの信号や電文を発した明治海軍の特徴であろうか、文学的美文的表現や「勇猛果敢なる攻撃」「激烈なる砲火」との余分な形容詞も多い。
さらに、本書には重大な史実が隠され、また、巧みに焦点が外されている。日露戦争の最初の第1弾は日本海軍の魚雷であったが、本書には、開戦初日に仁川港外で、陸軍部隊を乗せた輸送船を護衛していた水雷艇を、砲艦コレーツが「我カ艇隊ノ近ツクヲ見テ終ニ砲火ヲ開ケリ。時正ニ午後四時四十分ニシテ、之ヲ明治三十七八年戦役ノ第一砲火トナス」と、ロシア側が最初に発砲したと書かれている。しかし、『露日海戦史』には日本の水雷艇3隻が魚雷3本を発射した。射距離はいずれも近距離で2本は艦尾を通過し、3本目は「舷側ニ達セサルコト二、3サーゼン(1サーゼンは71センチ)ニシテ沈没」したと書かれている。この魚雷発射の事実は部隊から海軍中央に報告されたが、開戦の初弾をロシアとしたい海軍中央の意向で隠蔽された(部外秘「日露戦役参加者史談会記録」10、仁川方面作戦、菊田謹典『坂の上の雲の真実』光人社、2004年、132頁)。
また、日本海軍は中国の中立を侵害した。『露日海戦史』によると駆逐艦レシィテリヌィが芝罘港に入港し武装解除を受けていたにもかかわらず、第1駆逐隊の朝潮と霞が中国の港内に進入し、追跡していないのに「敵艦長ニ我ハ彼ヲ追跡シ来リ」と、「追跡権の継続」を口実に、「武装解除ノ形跡ヲ認メサルノミナラス、乗員ハ依然トシテ艦内ニ在リ」。石炭を「搭載スルコトヲ確メタリ」と「軍艦旗ヲ掲揚セシメ」、抵抗するロシア兵を海中に投げ込み、レシィテリヌィを港外に引き出し拿捕してしまった。
中立国の中国の港湾で中国が武装解除したロシアの軍艦を日本に奪取されたことは、中国海軍の北洋艦隊司令長官・薩鎮氷提督の責任である。主権を冒された中国政府に対して日本政府に抗議すべきであるとロシア政府が迫ると、中国政府は「駆逐艦『レシィテリヌィ』ノ事件ニ対シ、在芝罘北洋艦隊司令長官薩鎮氷提督ノ執リタル処置ハ、不適当ナルヲ以テ之ヲ裁判ニ付セントス」と回答した。一方、ロシアの抗議を駐日フランス大使経由で受けた日本政府は、「日露両国戦争中、日本政府ハ貴国政府ノ抗議ヲ尊重スル能ハス。又貴国ノ指摘シタル事実ハ極メテ不明瞭ニシテ精細ナラス。尚其際日本政府ノ執リタル行動ハ全ク正当ナリト信ス」と回答した。しかし、『明治三十七八年海戦史』には追跡権の継続やレシィテリヌィ艦長の抵抗や兵士の乱闘だけが記載されている。このように、本書は自国に不利な点などを隠し、自国に有利な資料を引用するなどの問題がある。
おわりに
『明治三十七八年海戦史』の初版には序文はない。当時の出版社の宣伝用文書には「本戦史ハ海軍軍令部ノ御編纂ニ係リ、予定冊数7巻約四千頁ニ上ル大著述ニシテ、三十七八年戦役ニ於ケル海戦ノ経過ハ、本書ニ依リ始メテ明確ニ其眞相ヲ知悉スルヲ得ベシ。今回弊堂本戦史発行ノ一大光栄ヲ荷ヒタウヲ以テ、私ヲ捨テ誠竭シ印刷製本ニ注意シ、以テ国家ノ宝典タルニ恥ヂザラシメントス。明治二十七八年海戦史ト並ビテ萬世不朽ノ歴史タリ」と書かれていた。しかし、1933年の再版には東郷平八郎大将の「明治三十七八年海戦史成ル。庶幾ハクハ御稜威ト臣民ノ忠烈トニ因リ、出師ノ目的ヲ達シタル梗概ヲ示スニ足ランカ。繙者ノ體読ヲ期ス」との毛筆の序文があり、さらに海軍大臣大角岑生が「此海戦タルヤ曠古ノ偉業ヲ綴緝シタル貴重ナル典籍ニシテ、其処ニハ国体精華ノ流露ヲ観ルヲ得ベク、由テ以テ国民元気ヲ作興スベク、世道人心ニ碑補スル亦甚ダ大ナルモノアルベシ」との序文がある。
上海事件、満州国建国、国際連盟脱退などで国際関係が行き詰まり、さらに国民も大正デモクラシーの酔いから目覚めず、政界では不祥事が続き、社会が廃退した危機を感じ、大角はこのような序文を書いたのであろう。それは日本海海戦30周年を記念して出版された『日本海大海戦史』には、「今年は軍縮会議を控え、帝国としては異常なる重大な局面に」あり、「古今未曾有の大捷を博した原因を究め、静かに当時の日本国民の覚悟を想い、以て現下の重大局面に対して、挙国一致国難突破に勇猛邁進する覚悟を堅くするものである」と書いていた。日露戦争100周年を迎えた今年、日露戦争ブームとなっているが、今日の日本も道徳の低下、中国や韓国の歴史改竄攻勢を受け、民族としての誇りを失い国家溶解の危機にある。この当時と同じような危機感が、日露戦争のブームを生んでいるのかもしれない。
付録第1
『極秘明治三十七八年海戦史』の目次と冊数
第1部 戦記(本文11冊 別冊―付図付表及び備考文書6冊)
第1編 開戦前一般ノ状況及ヒ開戦(巻1)
策2編 旅順口及ヒ仁川の敵艦隊ニ対スル作戦(巻2―巻7)
第3編 陸軍トノ共同作戦(巻8―巻9)
第4編 浦塩斯徳港ノ敵艦隊ニ対スル作戦(巻1―巻11)
第2部 戦記(本文2冊 別冊3冊)
第1篇 露国増援艦隊ニ対スル作戦準備(巻1)
第2篇 日本海海戦(巻2)
第3部 戦記(本文1冊)
第1篇 日本海海戦後ノ作戦(巻1)
第2編 連合艦隊ノ凱旋(巻2)
第4部 防備及ヒ運輸通信(本文4冊 別冊1冊)
第1編 防備(巻1―巻2)
第2篇 運輸(巻3)
第3篇 通信(巻4)
第5部 施設(本文18冊 別冊1冊)
第1編 中央部ノ施設(巻1)
第2篇 海軍艦政本部ノ施設(巻2―巻6)
第3編 教育本部及ヒ水路部ノ施設(巻7)
第4編 艦隊ノ施設(巻8―巻9)
第5編から第12篇(本文18冊 別冊1冊)
佐世保、呉、横須賀、舞鶴鎮守府、竹敷、馬公要港部、旅順鎮守府、台湾総督府海軍幕僚部ノ施設(巻1―巻19)
第6部 艦船艇(本文15冊)
第1篇 艦船艇体及ヒ兵器(巻1―巻2)
箪2篇 艦艇機関(巻3―巻13)
第3編 特設船舶ノ艤装(巻14―巻15)
第7部 医務術生(本文21冊)
第1編 戦闘時医務部員ノ作業及ヒ戦闘創傷(巻1―巻5)
第2篇 出征艦船艇部隊ノ行動概要及ヒ衡生状況(巻6―巻16)
第3編 後方勤務艦団部隊ノ行動概要及ヒ衛生状況(巻15―巻16)
第4編 中央ノ衛生施設及ヒ主ナル衛生機閥(巻17―巻20)
第5編 統計(巻21)
第8部 会計経理(本文13冊 別冊3冊)
第1篇 臨時軍事費ノ予算支払及ヒ決算(巻1―巻2)
策2篇 被服及ヒ糧食(巻3)
第3編 戦利品捕獲品及ヒ拿捕品(巻4―巻5)
第4編 工事(巻6―巻8)
第5編 船舶(巻9)
第6編 官衙及ヒ艦団部隊会計(巻1―巻12)
第7編 雑件(巻13)
第9部 国際事件(本文3冊 別冊1冊)
第1編 戦争ノ開始(巻1)
第2編 国際法関係ノ法令(巻2)
第3編 開戦ノ際ニ於ケル行動(巻2)
第4編 交戦行為ノ遂行(巻2)
第5編 通信事項(巻2)
第6編 封鎖(巻2)
第7編 戦時取締処分ニ関スル事項(巻2)
第8編 占領地ニ於ル行動(巻2)
第9編 赤十字関係事項(巻2)
第10編 俘虜ノ取扱(巻2)
第11編 戦利艦船(巻2)
第12編 海上捕獲(巻2)
第13編 露国ノ中立侵犯(巻3)
第14編 逃走露国軍艦ノ処分(巻3)
第15編 交戦者間ノ協約(巻3)
第16編 韓国ノ地位(巻3)
第17編 局外中立(巻3)
第18編 戦争ノ起因及ヒ終結(巻3)
第10部 付記(全6冊)
第11部 戦局日誌(全4冊)
第1編 開戦前誌(巻1)
第2篇 戦局日誌巻2)
策12部 付録文書(全36冊)
注 付録文書中で、特に外交史の視点から参考となるのは「露国ニ関スル状況(巻21)」と、諸外国の日露戦争関連の新聞記事を翻訳・要約した「外人ノ評論(巻22)」であろう。