参考資料:世界の政治指導者・歴史学者の日露戦争に対する発言集
(英語編)

1.各国の政治指導者
中国の建国者:孫文
「これはアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、全アジア民族は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くに至った」。
(信夫清三郎『日露戦争の研究』河出書房新社、1972年)

ベトナムの王子クォン・デ侯
 「いまなお生々しく思い起すのは日露戦争に日本が勝ったときのアジアの歓びです。大東亜各国の志士と同じく、私たちもまた日本のあの輝かしい凱歌に刺激されて、独立への念願をひとしお燃え立たせたのですが、いまこの大戦争下に晴れて故国へ帰ることができますのは、全く感慨無量です。現在の戦況は日本に不利とみえますが、これは一時的のことでありアジアの正義は必ずや貫徹されるものと信じます。私達は日本と共同の理想達成のため全力全能をあげて戦います」(『朝日新聞』1945年7月30日)

ベトナムの民族主義者:ファン・ボン・チュウ
 「東風一陣、きわめて爽快の想いあらしめた一事件が起こりました。それは他でもない、旅順・遼東の砲声がたちまち海波を逐うて、私たちの耳にも響いて来たことでありました。日露戦役は実に私達の頭脳に、一世界を開かしめたものと言うことができます」。それまでベトナム人は中国やフランスしか知らず、「世界の変遷、風潮の如何の如きは、我が国民の夢想だにしなかったところで、独立の具体的計画のごときは、なお、五里霧中の状態でした」。海外に出で考えが一変したが、それは「日露戦争の余波が影響したものといわざるを得ません」
(藩佩珠『ベトナム亡国史』平凡社、1966年)65頁。

インド:ジャワハルラル・ネルー首相 
 「アジアの一国である日本の勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた」。「ヨーロッパの一大強国が破れた。とすればアジアは、昔たびたびそういうことがあったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった」。「日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった」
(ネルー『父が子に語る世界歴史』第3巻、みすず書房、1966年)。

インド仮政府代表・チャンドラ・ボース
今から約四十年前、私がようやく小学校に通い始めた頃、一東洋民族である日本が、世界の強大国のロシアと戦い、これを大敗させました。このニュースが全インドに伝わり、昂奮の波がインドを覆いました。いたるところで旅順攻撃や、奉天大会戦や日本海海戦の勇壮な話で持ちきりでした。私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬慕し尊敬しました。元帥や大将の写真を手に入れようとしてもそれができず、その代りに市場から日本の品物を買ってきて、日本のシンボルとして家に飾ったものでした。そして、インドの革命家たちは、なぜ日本が強大国をやっつけることができたのか、それを知ろうと日本に来ました。また日本からは岡倉天心のような先覚者がインドを訪れ、全アジアを救うべき精神を説きました。実に岡倉こそ「アジアは一つ」と断言した大先覚者でした。日本はインドの仇敵イギリスに対して宣戦しました。日本は私たちインド人に対して、独立のための絶好の機会を与えました。私たちはそれを自覚し感謝しています。一度この機会を逃せば、今後百年以上訪れることはないでしょう。勝利は我々のものであり、インドが独立することを確信しています(NHKラジオ放送)

ビルマ・バーモウ首相
 アジアの目覚めは日本のロシアに対する勝利に始まり、「この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった」。…..日本が「西欧勢力に対抗する新勢力として台頭したことは、日本のアジア諸国への影響をますます深めていったのである。それはすべての虐げられた民衆に新しい夢を与える歴史的な夜明けだったのである。私は今でも、日露戦争と、日本が勝利を得たことを聞いたときの感動を思い起こすことができる。私は当時、小学校に通う幼い少年に過ぎなかったが」、「そのころ流行した戦争ごっこで、日本側になろうとして争ったりしたものだ」。「こんなことは、日本が勝つ前までは想像もできぬことだった。ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。それはわれわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的にみれば、日本の勝利は、「アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点とも呼べるものであった」。
バー・モウ『ビルマの夜明け』(太陽出版、1973年)

バー・モウの第2次世界大戦観
 ビルマの独立は英国が敗北しビルマから去り、われわれが独立を宣言した1943年であったが、この重大な事実が数年後には「植民地勢力からの贈り物としてわれわれの手に入ったビルマ自身の戦後の宣言によって隠されていた。このようにして、われわれは戦争中の最も重要な歴史的業績のひとつを否定してきたのである」。すなわち「ビルマでは連合軍が勝利し始めると、反日低抗運動が生まれ」、それがビルマ人を英国や西欧帝国主義勢力の側に押しやった。ビルマの闘争のいっさいが、ビルマ人の闘争の筋書きが転換され、反英国的なものはすべてぬぐい去られ、物語は初めから終わりまで、戦争の最後の時期の反日暴動と、あふれるほどの憎悪に満ちた反日感情と反日の声のこだまでつづられていった」のである。そして、「反日低抗運動が完全に支配的となった。すべての現代のビルマ史は、ともかくも、その反日低抗運動や、その低抗を実践した人々、そして彼ら指導者の初期の活動に結びつくものでなければならなかったし、そうでなげれば、いっさいが無視された。このようにして、ビルマにおけるあの戦争はしだいに作られたのである」、日本の敗北後は「物語は半分しか語られなくなった」。同前『ビルマの夜明け』
バンドン会議
あらゆる観点からみて、それは記憶さるべき出来事だった。この偉大な会議はアジアにわき起こっている新しい精神を初めて体現したものであり、それは十二年後、アジア・アフリカ諸国のバンドン会議で再現された精神であった。この精神は、すでに一九四三年の東京での会議でうぶ声をあげたものだったのだ。アジア新秩序の五つの基本原則から成る共同宣言にしても、バンドン会議の五原則、バンチャシラの前兆になった(同前、351頁)。

ロシアの革命家:ウラジミール・I・レーニン
「旅順の降伏はヅァーリズムの降伏の序幕である。専制は弱められた。いちばん信じようとしない人々までが、革命が起こることを信じはじめている。人々が革命を信じることは、すでに革命の始まりである」。
(「プロレタリアートに告ぐ」『レーニン全集』第8巻、大月書店、1972年)

アドルフ・ヒトラー

「日本海海戦があったのは、私が小学生の時だった。クラスのほとんど総てがオーストリア人で、日本海海戦の敗北のニュースにクラスの総てが落胆したが私は歓声を上げた。それ以来、私は日本海軍に対して特別な感情を持った」(Hitler’s Secret Conversations, New York;Octagon Books,1981)。

2.歴史学者の日露戦争と大東亜戦争のコメント

歴史学者ウォーナー夫妻:日露戦争の評価
「多くのアジア人にとって日露戦争は、われわれの時代における最も重要な戦争であった。この戦争の結果、苦力(クーリー)も主人となりうるし、主人たる西欧人もまた苦力に落ちぶれかねないこととになったのである」(デニス・ペギー・ウォーナー『日露戦争全史』時事通信社、1988年)。

歴史学者アーノルド・トインビー:大東亜戦争の評価
「日本人が歴史に残した功績の意義は、西洋人以外の人種の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間にいわれたような不敗の神ではないことを明らかにしたことである」
(『オブザーバー』紙(1956年10月29日)

日露戦争から半世紀後の評価:ジョージ・ケナン(朝鮮戦争勃発1年後の1951年)
「アジアにおけるわれわれの過去の目標は、今日表面的には殆んど達成されたということは皮肉な事実である。逐に日木は中国大陸からも、満州および朝鮮からもまた駆逐された。これらの地域から日本を駆逐した結果は、まさに賢明にして現実的な人々が、終始われわれを警告した通りのこととなった。今日われわれは殆ど半世紀にわたって、朝鮮および満州方面で日本が直面しかっ担ってきた問題と責任を引継いだのである」(ジョージ・ケナン『アメリカ外交50年』岩波書店、1952年)

日露戦争から1世紀の評価:サセックス大学クリストファー・ソーン教授
 「日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国の終焉を早めた。帝国主義の衰退が容赦なく早められていったことは、当時は苦痛に満ちた衝撃的なものだったが、結局はヨーロッパ各国にとって利益だと考えられるようになった。日本自身は一時あのように落ちぶれたが、高価で無駄な軍事力増強の道を避け、かつて剣によって確保することのできたものよりもはるかに大きく、かつ永続的な富と力を得ることができた。米国は一九四一年には、使命感に燃えるヘンリー・ルースたちが、熱心に望んでいたようについに中国の側に立つことになったが、その後「目ざめた」新中国との関係は、すぐに厳しい敵対関係に変わっていった。そして「アジアで打席に立」ち、スティムソンやマッカーサーらが、長いあいだ「世界のなかのわれわれの領分」と見なしていた地域の運命を(米国自身のためだけではなく、他の国の人びとのためにも)切り開いて、米国の安全と繁栄が今後脅かされないようにし、そこでも恵み深い「米国的生活様式」を擁護して、それをもっぱら必要としていると思われる人びとに分け与える、戦争の結果、そのような時がきたと信じるようになった米国 ― 一九四五年には極東戦争のまぎれもない「勝利者」だった米国、その米国が一九七〇年代にはある意味では、長期にわたる最大の「敗者」と見られるようになったのである」。
        (クリストファー・ソーン『太平洋戦争とは何だったのか』(草思社、1989年)