「講演録 日露戦争が変えた世界史」

はじめに
 きょうは、三つの視点から日露戦争のお話を致します。
 第一の視点は、「日露戦争が世界史をどのように変えたか」、第二の視点は、「大東亜戦争は世界史に、どのような影響を与え、どう評価すべきか」という視点です。第三の視点は、「日本がアメリカなどの自由主義諸国と協力し、ソ連帝国を敗北させた冷戦が、日露戦争で開花した民族国家独立や人種平等にどのような影響を与えたか」という視点です。この三つの視点から、一世紀という時間軸で見なければ、日露戦争の偉大さは理解できないと私は考えております。

日露戦争の評価を否定する内部の敵
 
 日露戦争の影響は、中国や韓国だけでなくて、アフリカから自衛隊が派遣されているアラブにまで、広くおよんでおります。
なぜ、イラクの人たちが、サマワに派遣されている自衛隊に、親しみをもって接しているのでしょうか。その遠因は日露戦争にまでさかのぼります。日露戦争で日本が勝つまで、少なくとも近世において、イスラム教徒のアラブ人がキリスト教徒に勝つことができませんでした。そのキリスト教徒の国に勝ったのが日本でした。この日本の勝利にアラブの人々が勇気付けられ、アラブ諸国では、「明治天皇をイスラム教徒のカリフ(王様)とし、日本人をイスラム教徒に改宗し、日本と協力してキリスト教国に対抗しよう」と考えたのです。そして、多数のアラブ人が協同して、キリスト教国の侵略と戦おう、日本人をイスラム回教徒に改宗しようと来日しました。この歴史がサマワの自衛隊に対する好意となっているのです。また、現在、国連の職員が、事務総長を初め多数の職員が有色人種から選ばれ、米国の閣僚の中にも多数の有色人種が指名されておりますが、それは誰のお陰でしょうか。

 それは日本のお陰であり、その代表者が日露戦争の勝利を確定した東郷平八郎元帥です。前国連事務総長のガリ氏は、来日の度に東郷神社に参拝し、参拝は五回に及んでいます。このように、有色人種は日本の勝利により、人種的平等を得たと、日本に感謝し、日露戦争を高く評価しているのです。しかし、本年六月に来日した新国連事務総長のアナン氏は、「日本の外務省」から横槍が入り、参拝を中止しました。前国連事務総長は外務省を経由すると反対されるので、外務省を通さずに内密に参拝していたそうです。
 また、私事ですが、吉川弘文館の『日本歴史』から「はがき通信」欄の執筆を依頼され、「現在、日露戦争の研究をしているが、共産主義時代に出版された本から引用した部分は、総てが自由化後に否定され、書き直しに追われている。ということは、現在の日中関係史も、中国共産党政権が崩壊し、中国に民主的な政府が誕生すれば、全て紙くずの山になるのではないか」との研究の近況を送りましたが、没にされてしまいました。われわれは国内に、自国の尊厳や偉大な歴史を埋没させようとする「敵」をもっていることを、まず、冒頭に申し上げておきたいと思います 

有色人種を鼓舞した日露戦争

 日本が日露戦争に勝つと、中国やベトナム、インド、ビルマ、フィリピンなどから民族独立、人種平等を夢見て多くの人々が来日しましたが、日本人、特に志士と呼ばれるアジア主義者たちは、これらの亡命者を暖かく迎え援助しました。しかし、日本が第二次世界大戦に破れると、ソ連を含む連合軍は大川周明をアジア主義のイデオローグとして、東京裁判の法廷に引き出し、「アジア主義」を「侵略主義」や「帝国主義」と同列なものとし、先人の好意を全て醜悪なものとしてしまいました。 しかし、日本に亡命し、アジア主義者の支援を受けたアジアの志士たちは、日露戦争をどのように評価しているでしょうか。次に、これら志士の代表的な日露戦争観を紹介しましょう。

 辛亥革命により、初めて中国に近代国家を建国し、台湾の中華民国からも本土の中華人民共和国からも建国の父といわれている孫文は、次のように書いております。「日露戦争はアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、全アジア民族は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くに至った」。

 ベトナムから来日した代表的人物は、民族独立運動家のファン・ボイ・チャウとファン・チャウ・チンでした。
 彼らがいちばん感銘を受けたのは、福沢諭吉の『学問のすすめ』であり、国民を開化する慶応義塾でありました。ファン・チャウ・チンは、慶応義塾に倣って、ハノイにトンキン義塾を開校し、学生は三千人にも達しました。しかし、この学校で独立運動が高まると、フランスの植民地当局から開校八ヶ月で閉校を命じられ、教官は逮捕されてしまいました。また、ベトナムからは、「日本に学べ」との「東遊運動」で、二百五、六十人の学生が来日し、中国からは一万二千人の学生が来日しました。いかに、中国が日本から近代文明を取り入れたかは、現在でも中国語として使われている選挙、電気、電話、憲法、物理、力学、経済、金融などの言葉からも理解できるのではないでしょうか。

 また、インドのネール首相は「アジアの一国である日本の勝利は、アジアの総ての国々に大きな影響を与えた」。「ヨーロッパの一大強国が破れたとすれば、アジアは昔たびたびそういうことがあったように、今でもヨーロッパを打ち破ることができるはずだ。ナショナリズムは急速に東方諸国に広がり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった」。「日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった」と書いております(ネルー『父が子に語る世界史』)。また、インド仮政府の首相になり、第二次世界大戦では日本軍とともに戦ったチャンドラ・ボースは、インド国民軍を創設し、日本軍とともに戦うため、シンガポールに向けて出発する時に、NHKから次のメッセージを放送しました(1943年6月26日)

 「今から約四十年前、私がようやく小学校に通い始めた頃、一東洋民族である日本が、世界の強大国のロシアと戦い、これを大敗させました。このニュースが全インドに伝わり、興奮の波がインドを覆いました。いたるところで旅順攻撃や奉天大会戦や日本海海戦の勇壮な話で持ち切りでした。私たちインドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を敬慕し尊敬しました。元帥や大将の写真を手に入れようとしてもそれができず、その代わりに市場から日本の品物を買ってきて、日本のシンボルとして家に飾ったものでした。 そして、インドの革命家たちは、なぜ日本が強大国をやっつけることができたのか、それを知ろうと日本に来ました。日本からも岡倉天心のような先覚者がインドを訪れ、全アジアを救うべき精神を説きました。実に岡倉こそ「アジアは一つ」と断言した大先覚者でした。日本はインドの仇敵イギリスに対して宣戦しました。日本は私たちインド人に対して、独立のための絶好の機会を与えました。私たちはそれを自覚し感謝しています。一度この機会を逃せば、今後百年以上訪れることはないでしょう。勝利はわれわれのものであり、インドが独立することを確信しています」。

 一方、ビルマ独立後に始めて首相になったバー・モウは、回想録『ビルマの夜明け』に、次のように書いております。

 「アジアの目覚めは、日本のロシアに対する勝利に始まり、この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることはなかった。……日本が西欧勢力に対抗する新勢力として台頭したことは、日本のアジア諸国への影響をますます深めていったのである。それは、すべての虐げられた民衆に新しい夢を与える歴史的な夜明けだったのである。こんなことは日本が勝つ前までは想像もできぬことだった。ビルマ人は英国の統治下に入って初めてアジアの一国民の偉大さについて聞いたのである。それは、われわれに新しい誇りを与えてくれた。歴史的にみれば、日本の勝利は、アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点とも呼ぶべきものであった」。
 次ぎに日露戦争がアラブに与えた影響ですが、エジプトではナイルの詩人と呼ばれる国民的詩人が「日本の乙女」という詩を詠みましたが、この詩はエジプトだけでなく、レバノンの教科書、にも掲載されるなど、アラブ圏ではたいへん有名な詩で、インターネットの「日本・アラブ通信」の「新アラブ千一夜物語」の第一夜の物語として掲載されています。是非、帰宅されましたらネットで確認して下さい。

 砲火飛び散る戦いの最中に
 傷つきし兵士たちを看護せんと
 うら若き日本の乙女、立ち働けり
 戦いの庭に死の影満つるを
 われは日本の乙女、銃を持って戦う ことはできないが、
 傷病兵に尽くすのは、わが務め、ミカドは祖国の勝 利のため、死さえ教え賜りき
 わが民こぞりて、力を合わせ
 世界の雄国たらんと力を尽くすなり。

 なぜ、この詩がアラビア人に受けたのでしょうか。それは当時、アラブ諸国がイギリスの支配下にあり、小さな日本が白色人種の大国に勝ったことがアラブの人々に勇気を与えたからでした。また、イランでは「ミカドナーメ」、これは「天皇一代記」という意味ですが、この本には「東方から、何という太陽が昇って来るのだろう。文明の夜明けが日本から拡がったとき、この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された。どんな事柄であれ、日本の足跡をたどるなら、この地上から悲しみの汚点を消し去ることができる」と書かれています。
 トルコでは「日本は小国ではあるが、新しい制度をとり入れた結果、立派な国となり、ロシアに勝った。みんなも日本に行ってみるがよい。日本には泥棒などは一人もいない。金庫が道の真ん中に置いてあっても、誰も盗らない。西洋の悪い習慣は、みんな海岸で留められている」と、恥ずかしいほど日本を美化した詩が発表されております。 

 この日本への人気から、トルコには「トーゴー通」がありますし、トルコの代表的女流作家のハリデ・エディブは、次男にハサン・ヒクメトッラー・トーゴと名付けました。ロシアに負けてばかりいるトルコには、ロシアに勝った乃木大将や東郷元帥というのは、偉大な存在だったのでしょう。海上自衛隊には東郷家の子孫が入っておりますが…、海上自衛隊は面白いことをするところで、ユーモアがあるというのか、東郷家とは関係ない東郷という人をトルコの駐在武官に任命しました。すると、トルコ人が、「トーゴー、トーゴー」といって、他の駐在武官たちが羨ましがるくらい歓迎されたそうです。 ポーランドでは乃木という名を付けた人を集めたら、教会の礼拝堂に溢れると言われたと、牧野伸顕が回想録に書いておりますし、ハンガリー人の芸術家イシュトワンは『文藝春秋』に「パチコ・ノギ(乃木じいさん)」という一文を書いております。

 しかし、日露戦争研究上の問題は、このようなヨーロッパの小国の日露戦争史が欠落していることです。私は『日露戦争が変えた世界史』という本を書くのに、ロシアの圧制下にあった東欧のルーマニアやハンガリー、ブルガリアなどの国々にも日露戦争が影響を与えたに違いないと、随分調べましたが、語学の問題から明らかにすることができませんでした。欧米の歴史学者も、これら小国の言語に関しては私たち日本の歴史学者と大同小異でしょう。ということは、これらの国々の歴史が世界史とはなっていないということです。このような国々に日露戦争が与えた影響を研究するプロジェクトに、文部省の学術交流資金や外務省の文化交流資金を使って欲しいと思いますが、実情は中国や韓国の学者を招待し、誤報に基づく「旅順の虐殺」などを承り、「ゴメンナサイ」と、中国や韓国の被害者意識に同調し、反省しているのが現状です。
 一方、欧米先進国の日露戦争史にも問題があります。それは欧米諸国にとって日露戦争がアジアの独立運動に火を付け、植民地喪失に連なったことから、高く評価したくないという心境が根底にあるのか、私のような民族独立の視点からの日露戦争研究史は見当たりません。
  
共産主義を生んだ日露戦争

 世界史を変えたもう一つ大きな影響は、日露戦争が世界に類のない苛酷な共産主義を誕生させたことです。明石大佐がスイスに亡命していたレーニンに援助した金額は分かりませんが、旅順が陥落するとレーニンは、革命派の機関誌に「旅順の降伏はツアーリズムの降伏の序幕である。専制は弱められた。革命を信じなかった人々が革命を信じ始めている。人々が革命を信じることは、革命の始まりである」と書きました。
 そして、旅順のロシア軍が降伏した二週間後には、首都のサンクトペテルスブルグで、「血の日曜日」という反政府暴動が起こり、その後、この革命のマグマが全国に拡がり、十数年後には、労農兵による民主集中とかいう独裁国家を誕生させたのです。レーニンの言葉を借りるならば、「日露戦争の旅順要塞の失落がロシア革命の始まり」だったのです。

 この当時、ポーランドやフィンランドはロシアの属国でしたが、ポーランドの独立後に最初の大統領になったピウスキーは、日露戦争が始まると、日本に協力し日本が勝てば、ポーランドの独立も可能かも知れないと来日します。そして、ロシア軍の情報やロシア国内の鉄道の破壊、ロシア軍内のポーランド兵士への投降勧誘ビラの配布などの協力と引き換えに、武器や資金援助を要求しました。日本陸軍は明石大佐を通じて資金援助をしましたが、この日本の援助がポーランドの独立に、どのような効果があったかは不明です。しかし、第一次世界大戦末期にロシアと戦って独立を達成し、一九一八年にピウスキーが大統領になると、日露戦争に参加した五十三人の日本軍指揮官に、ポーランドの「軍功章」を授与しております。

 また、フィンランドの独立の父と尊敬されているマンネルハイム大統領は、日露戦争当時は陸軍大佐で、ロシア軍の騎兵旅団長として奉天の会戦に参加し、奉天の会戦で敗北しました。この敗北で、マンネルハイムは「あんなちっぽけな馬に乗り、猿と軽視されていた黄色人種の日本人が、世界第一の陸軍国のロシアを破った。われわれ白色人種が、なぜロシアに従属していなければならないのか」と、ロシアから分離独立を達成致しました。その後、第二次世界大戦直前の一九三八年に、ロシアからカレリヤ地方の割譲を要求されると、マンエルハイムは総司令官として立ち上がり、わずか十数万の軍隊で八ヶ月も抵抗しました。また、マンネルハイムは第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍が優勢になると、先に併合されたカレリア地方を回復しようと、ソ連に宣戦を布告しましたが、ドイツ軍の敗北で再び降伏文書に調印しなければなりませんでした。

 しかし、フィンランド国民は、ソ連に三回も戦いを挑んだマンネルハイムを大統領に選び、彼が死ぬと国会に通じる大通りを「マイネルハイム大通」と名付け、その通りにソ連の内政干渉から国会を守るかのように、国会を背にした騎馬に跨るマンネルハイム像を建立しました。フィンランド人の、このような独立心と抵抗心が、国境を接しソ連の重圧を受けながら、冷戦中にソ連の衛星国に組み入れられず、議会制民主主義を維持できたのでしょう。

日露戦争が欧米諸国に与えた影響

次に日露戦争が与えた負の影響についえ申し上げましょう。日露戦争に日本が勝つと、移民問題に絡まる人種差別問題が高まり、恐日論や黄禍論へと連なり、さらに、アメリカ海軍の日本海軍へのライバル意識などが加わり、日米が対立する関係へと急変しました。また、日米は満州の利権をめぐっても対立を深めていました。
 一方、遅れて近代国家となったドイツが、カリブ海に進出し、英米との対立を深めると、アメリカの対独警戒心の矛先を日本に変えようと、人種問題を利用し反日世論を高めていましたが、特に、第一次世界大戦がはじまり、日本が日英同盟の情義からドイツに宣戦を布告すると、「英国は黄色人種の日本と同盟して、白色人種を殺戮し、キリスト教文明を破壊している。英国はキリスト教文明の破壊者だ」と、人種問題を日英両国の分断に利用し、さらにアメリカの世論を親独反英に変えようと、人種論を前面に反日論を煽りたてました。
 一方、アメリカの黒人は、日本が有色人種のリーダーとして、インドや中国と協力し、人種平等を実現してくれると夢想しました。特に、晩年に「アフリカ解放の父」といわれたウィリアム・デ・ボイスは、「日本は強国である。有色人種は日本に従い、自由平等を獲得しなければいけない」と訴え、パリ講和会議に連動して、人種平等を訴えるアフリカ代表会議を開催し、一九一八年にはアフリカ同盟を組織しました。第一次世界大戦が終わり、パリ講和会議が始まると、日本は人種平等法案出し、有色人種に夢と希望を与えましたが、この人種平等法案の提出が西欧諸国の警戒心と、対日猜疑心を高め、日本を孤立させ、西欧諸国との対立を深めてしまいました。
 さらに不幸なことは、「日本海海戦があったのは、私が中学生の時だった。クラスの殆ど全てがオーストリア人で、日本海海戦の敗北のニュースに落胆したが、私は歓声をあげた。それ以来、私は日本海軍に対して特別の感情を持った」と語ったヒトラーが、日本海軍に過大に期待し、日独伊防共協定を推進し、日独伊三国同盟を締結し、日本を大東亜戦争へと引き入れてしまうのです。

有色人種を解放した大東亜戦争と冷戦

 パリ講和会議の日本の人種平等条項挿入提案に、アフリカの黒人たちは鼓舞され、人種平等の闘争を始めますが、西洋の植民地帝国は武力を持ち強い支配力をもっていましたので、有色人種の国々が独立を達成することはできませんでした。それを実現したのが、敗戦後に占領軍により使用を禁止された「先の戦争」と呼ばれる大東亜戦争だったのです。日露戦争と大東亜戦争が有色人種の独立運動に与えた影響の相違は、日露戦争では、新聞を読める人、ネルーだとか、スカルノだとかのインテリを覚醒させましたが、民衆レベルまでは覚醒できませんでした。
 ところが第二次世界大戦では、イギリスの歴史学者アーノルド・トインビーの言葉を『オブザーバー』紙から引用すれば、「日本人が歴史に残した功績の意義は、西洋人以外の人種の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年間にいわれたような不敗の神ではないことを明らかにしたこと」でした。日本兵が一般民衆の目の前で、不敗と信じていた白人兵を僅か半年で打ち破り、有色人種に自信と自負を与えたのです。

 また、日本は欧米諸国とは異なり、占領地、特にインドネシアなどでは自治を大きく認めました。インドネシアには十七の州がありましたが、日本人が知事になったのは三州だけでした。この間接統治によりインドネシア人は自治能力を身につけたのです。さらに日本は「隣り組」をつくりましたが、この組織が自治体の連絡網となりました。また、日本軍はオランダ語を禁止し、インドネシア語を使うことを奨励しましたが、これにより、それまで島々で異なっていた言語をインドネシア語に統一し、一国家一言語のインドネシアを誕生させたのです。また、日本軍は、あの苦しい戦局の中で、シンガポール(その後ペンナンに移設)に興亜訓練所を開設し、ボルネオ、スマトラ、タイ、ビルマ、フィリピンなどから、八〇〇名余の青年を選び教育をしました。教育内容は精神主義中心でしたが、これら青年は、この教育を通して規律、団結、義務、愛国心など、民族国家の独立に不可欠な要素を身につけたのです。

 また日本軍は、百二十数人のアジアの若者を日本に招き、陸軍士官学校だけでなく、東京大学や京都大学で教育しました。そして、この若者たちが戦後にアセアンを創設したのです。日本の敗戦後に、これら留学生が留学当時を忍びジャカルタに集まり、それが契機となってアセアンが創設され、アセアン創立の功績により、タイの外務大臣シャフィー(マラヤ興亜訓練所一期生)が、ハマーショルド賞(国連平和賞)を受領しております。しかし、このアセアンも、中国のいいなりに変わりつつあります。歴史を軽視する現代の日本人は、このような史実を忘れ、先人の汗と涙の成果を失いつつあるのです。情けないですね。
 また、インドネシアでは、オランダ軍が住民の反乱を恐れ、武器を持たせませんでしたが、日本軍は兵力不足を補うために、ペタと呼ばれるインドネシア義勇軍を創設し武器を与えました。このペタが戦後に再駐留してきたオランダ軍と戦いインドネシアの独立を戦い取ったのです。ペタの教育理念は日本軍と同様の精神主義で、規律、義務、忠誠心などが強調され、「この頃の若い軍人は、ペタ精神が欠けている」との批判が出るほど、このペタ精神はインドネシア軍の伝統となっています。

 私は日本の歴史のすべてを美化するつもりはありません。確かに日本は、最初のころは欧米諸国と同じく、アジア諸国を植民地に近い形態で保有しようとしていました。しかし、戦いが不利になると、現地の人達の協力を得るために、日露戦争後に生まれた「アジアとともに」との、岡倉天心の理想に復帰し、大東亜会議を開催し、大東亜宣言を発表しました。この大東亜会議は敗戦一年前の会議であり、その宣言は空念仏で、米英連合軍が発した大西洋憲章を真似したものでした。しかし、英米連合軍が宣言した太西洋憲章には「恐怖からの自由」、「飢えからの自由」などだけで、大東亜宣言が掲げた「人種の平等」や、「民族国家の独立」などという理念はありませんでした。連合軍は有色人種の戦争への協力を得るために、大東亜宣言に倣い、人種の平等や民族国家の独立を考慮せざるを得なくなり、国際連合の規約に人種の平等や民族国家の独立を謳わざるを得なかったのです。

 一九四五年に大東亜会議に出席したインドネシアのスカルノ大統領は、かっての西欧の植民地であったアジア・アフリカなどから二九カ国の代表を招き、バンドン会議を開催し、バンドン宣言を採択しましたが、このバンドン会議もバンドン宣言も、大東亜会議や大東亜宣言を下敷きにしたものでした。日本がアジア人の協力を得ようと、苦し紛れに蒔いた種が、日本の敗北後に実ったのです。第二次世界大戦のもう一つの成果は、アメリカの黒人の人権の向上です。日本がハワイを奇襲し、ルーズベルトが議会で対日宣戦を宣言すると、、ニューヨークのハレム街には三〇〇名の黒人が集まり、黒人の人権運動家が「この戦争はアメリカがフィリピンを植民地にするなど、アジアを侵略し、日本人を差別したから日本が反撃したのである。この戦争は日本に理があり日本が勝つ。われわれは日本に協力し、人種の平等を勝ちとろう」と演説したと言います。そして、工場では黒人労働者のストライキが起こり、兵営では黒人兵の白人将校に対する命令の不服従や暴行が多発しました。

 また、戦争に参加した黒人兵は、弾が当たれば、白人兵も黒人兵も死ぬことを体験し、人種差別の不当性を実感しました。また、黒人兵たちは「汝の敵はジャップだ」「デモクラシーのために」などと教えられましたが、復員すれば相変わらずの差別、バスの座席は後部で、レストランにも入れない。復員兵の増加とともに、この不満が高まり、戦争が終わった翌一九四六年、次いで四七年と、シカゴやワシントンで黒人の人権要望の大暴動が起こり、一九六四年には公民権法が成立し、黒人の地位は格段に向上致しました。しかし、アフリカ大陸は、日本の敗北後も西欧諸国の植民地支配体制から開放されませんでした。それを開放したのが冷戦でした。ソ連が西欧諸国に対抗するために、アフリカの民族独立運動に資金や武器を援助したのです。運命の皮肉ですが、クルトワの『共産主義黒書』によれば、内乱や争乱、投獄や流刑などで、共産主義により世界で一億が殺害されたと云われていますが、その共産主義が日本の敗戦後は、日本に代わってアジア、アフリカ、アラブ諸国の独立と人種平等の戦いを助けたのです。

日露戦争は侵略戦争か

 このように、世界的な歴史の大きな流れを考えますと、日露戦争はたいへん大きな影響を世界史に与えたのですが、日本の学者先生は、「朝鮮の支配と満州進出の夢を見て日露戦争を開始した」とか、戦場となった中国や植民地とされた韓国の民衆の悲惨な歴史を無視すべきではないなどと、日露戦争を否定的に評価するのが主流のようですが、これらの学者先生は芙蓉書房出版から復刻された『一九〇四ー五年露日海戦史』を是非ともご覧戴きたいと思います。そして、ロシア海軍の「対日作戦計画」や、ニコライ海軍大学で行われた対日戦争の図上演習のシナリオ、討議内容をご覧になって下さい。そこには、「現在の対日兵力比は劣勢であるが、二年後には海軍力増強計画が完成し、対日兵力は一・五倍になる。その暁には朝鮮を占領し、馬山浦(鎮海)を基地として、日本を敗北させることができる。従って外交当局は、二年後の対日戦争時までに有利な国際関係を確立するよう努力すべきであると書かれています。

 また、ロシア海軍軍務局の作戦計画担当者は、極東で今後とも「絶対優位権ヲ確立セント欲ス」るならば、「須ク日本ヲ撃破シ」し、「艦隊保持権ヲ喪失セシメ」なければならない。「今後二カ年ヲ経テ日本ニ対シ宣戦スルノ堅キ決心ヲ以テ、不撓不屈戦備ヲ修メ」るべきである。また、戦争は「日本人ヲ撃破スルノミニテハ不十分」で、「更ニ之ヲ殲滅セサル」べからずも書かれています。 軍事を忌避する日本の学者先生は、このような軍事関係の文書を見ず、外交文書だけを見て、「ニコライは平和を求めていたが、日本の朝鮮や満州への欲望が、旅順奇襲となり、日露戦争となってしまったと、日露戦争が日本の侵略的願望から始まった」としているのです。そして、日本の教科書は平和主義の観点から戦争を否定的にとらえ、与謝野晶子を反戦歌人に祭り上げ、「君死に給うことなかれ」などと教えていますが、もしも、あの時に日本が開戦に踏み切らなかったならば、二年後にはどうなっていたでしょうか。日本は日英同盟を締結しておりましたので、最悪の場合でも対馬が占領された程度でしょう。しかし、韓国はソ連邦が崩壊うる一九九一年まで、バルト三国のようにソ連の支配下にうごめいていたのではなかったでしょうか。

 また、日露戦争を日本や中国、韓国の学者は侵略戦争と非難しますが、当時、世界はロシアが満州を侵略したから生じたのであり、この戦争を独裁国家、専制政治の非文明国のロシアと、立憲制度が確立されている民主主義の文明国との戦い見ておりました。そして、「立てサムライ日本。汝の刀を欲望の固まりのロシアを叩き潰すまでは地に置くな」などの歌が外国の新聞に掲載されていたのです。それを今の価値観で批判し、「ごめんなさい」というのでしたら、英米仏西などの西欧諸国はアジア、アラブ、アフリカ、さらには黒人やインデオなどに謝罪し続けなければならないでしょう。 戦争が否定的に捕らえられたのは、第一次世界大戦があまりにも悲惨であったことから一九二一年に締結されたケロック・ブリアン不戦条約以降からでした。また、侵略戦争が特に非難されるようになったのは、一九三三年のコミンテルンという世界共産主義大会の決議以降でした。これはソ連がコミンテルンという国際共産主義組織を使い、自国の安全を維持するために、日独両国を侵略国家と規定し、さらに第二次世界大戦後は英米などの植民地保有国を非難するのに利用したからです。しかし、そのロシアは一体どうだったのでしょうか。地図をご覧になれば、過去、いかに領土を拡げてきたかが一目瞭然であり、侵略の軌跡が理解できるでしょう。

 また、ロシアの史書は日本海軍が宣戦布告なしに、旅順港外のロシア艦隊を攻撃したという宣戦布告なしの開戦を強く非難しています。しかし、当時の国際法には宣戦布告は必要なく、宣戦布告が条約で決められたのは日露戦争一年後の一九〇六年のハーグの国際会議からでした。このため、当時の英米の主要新聞は、外交関係の断絶を通告し、相互に外交団を引き揚げており、宣戦布告は不要である。第一、これまでの戦争でロシアはトルコとの戦争でも、フィンランドとの戦争でも宣戦布告をしていないではないかと、ロシアを非難しておりました。 

歴史解釈と中国と韓国の歴史観
 
 日露戦争を正しく理解するためには、日露戦争当時の世界の歴史を、特に当時の白色人種の有色人種に対する対応を理解し、当時の価値観、当時の歴史観で見なければ、日露戦争の歴史的評価を間違えるのではないでしょうか。歴史は現在の価値観でなく、当時の価値観で論ずるべきものなのです。当時の白色人種の有色人種に対する対応を、オーストラリアの例で示しますと、オーストラリアは白人国家建設の「白豪主義」から、アボリジニの殲滅を推進し、入植したイギリス人はアポリジニを狩りの対象とし、「今日、ハンティングに行った。獲物アボリジニ六匹」と日記に書くなど、狩の感覚で殺害したのです。こうして数百万人いたアポリジニは、現在は三〇万人に減少しておりますす。さらに悲惨なのは、タスマン島の原住民で、タスマン島には三万七千人の原住民が住んでいたのですが、全員殺されて現在は一人もおりません。オーストラリアがアボリジニを人間として認め人口調査の対象とするようになったのが一九六八年以降であるということが、いかに近世まで有色人種が白色人種から人間として扱われていなかったかを示してはいないでしょうか。
 カリブ海の国というと、みなさんは「バナナボート」という歌を思いだし、「ああ、黒人の島だ」と思うでしょう。とんでもない。カリブ海の島にはインディオがいたのです。そのインディオを全部殺し、アフリカから力の強い黒人を連れてきて働かせたため、カリブ海にある国々は黒人の国になったのです。アフリカから奴隷は、三億人くらい運ばれ、アフリカに黒人がいなくなると、次はどこから奴隷を連れてきたでしょうか。中国からです。そして、「マリヤ・ルース事件」が起きたのです。明治十七年に、中国人奴隷を乗せたポルトガル船が嵐を避けて横浜沖に錨を降ろすと、一人の中国人が逃げ出し泳いで助けを求めてきました。開国早々の日本でしたが、日本はこのポルトガル船を差し押さえ、四百六十人の中国人を解放しました。また、アメリカ人の船長が中国人のボーイを殴り殺し、遺族に二十ドル払ったと領事に報告すると、領事は「二十ドルは高い。たかが中国人ではないか」といってた時代でした。

 また当時は、ダーウィンの進化論が国家の間にも適用できるとのハーバート・スペンサーの社会進化論の弱肉強食の時代でした。そして、どこの国も侵略をし植民地を保有してしておりました。しかも、第二次世界大戦が終わると、オランダ軍、イギリス軍、フランス軍がかっての植民地を取り戻そうと、ベトナムやインドネシア、マレーシアに兵を送り、日本軍が育成した国民軍と激しい戦闘がアジア各地で起きたことを見れば、日本だけが帝国主義国家であったとの非難が正しいと言えるでしょうか。さて、さて、次は問題の中国の日露戦争に対する見方ですが、これはもう話になりません。歴史学者として反論するのも疲れます。中国の歴史観は前政権を打倒した新しい政権が、その政権の正当性を示す道具であり、歴史学者の仕事は新しい政権の正当性を歴史から再構築することなのです。
  
 現在の中国は歴史を国家の求心力や国民の不満を拡散させ、対日外交を有利に展開させるためだけでなく、共産党員や人民開放軍が、「鬼のような日本軍を撃退した」功績を示し、その特権を維持継続する道具なのです。その例を人民解放軍について示しますと、北京の軍事博物館には、軍神の部屋があります。どこの国の軍事博物館にも、勇敢に戦った軍人を崇め展示していますが、皆様、中国第一の軍神はどのような人だと思いますか。一九八六年に訪問した時は「雷峰」でした。「一九八六年の軍神」と申しあげたのは、中国は歴史だけでなく、軍神も、その時の政権の都合で変わるからです。説明文によれば雷峰は人民解放軍のトラックの運転士で、ある日、トラックを運転していると、老婆が麦の束を持ってとぼとぼと歩いていました。聞いてみると、「夫も子供も日本軍に殺された」といいました。そこで、彼は「おばあちゃん、大変だな。俺たちが助けに来るよ」と、翌日の休みに人民軍の兵士が畑に行って老婆の農作業を手伝った。これが「雷峰に学べ」と云われる中国人民解放軍の軍神であり英雄なのです。裏返すと、人民に奉仕するような軍人がいないので、軍人は「人民に奉仕せよ」ということを教えているのでしょう。 日本軍が「死んでもラッパを離さなかった」木口小平や○○城一番乗りなどの軍神や英雄をつくったのは、日清戦争や日露戦争で敵に包囲されると、降伏してしまうなど、日本兵が余りにも弱かったからです。「生きて捕虜となり、辱めを受けることなかれ」の「戦陣訓」も、このような背景から生まれたのです。

 韓国の歴史観も中国と同様に政権に奉仕する歴史ですが、韓国の歴史は政権が変わる度に書き変えますので変化に追いつきません。植民地時代に日本に協力したとか、日本軍の軍人であったとか、大統領を辞任すると殺されたり、亡命したり、投獄される国なのですから。韓国の元統合幕僚長にパク大将という方がおられいますが、パク大将は釜山攻防戦で勇戦し、始めて韓国軍に勝利をもたらし、北朝鮮軍の南下を止め、韓国を救った英雄ですが、このパク大将も「親日・反民族行為真相究明特別法」により訴追され、間もなく名誉を失うのではないでしょうか。日本尾陸軍士官学校出身者なので。現在、韓国では学校で朝鮮戦争は北朝鮮が祖国の統一を目的に始めて戦争であったが、アメリカ軍の介入により達成できなかったと教えています。この歴史は私の理解を越えておりますできません。それにしても、おかしな国ですね。

歴史は変わるか

 ビルマのバーモウ首相は、「ビルマの歴史は、日本軍が負け出した半年以降大きく変わってしまった。総て日本軍が悪いという歴史に置き換えられてしまった」。「それまで日本軍の協力していた者はぜんぶ悪とされてしまった。日本軍の敗北以後、ビルマの歴史は半分しか書かれなくなってしまった」と書いていますが、ビルマはバー・モウ首相の指摘する軍事政権の対日抵抗史、ベトナムはホーチミン崇拝の対日抵抗史観で統一されております。次ぎに、最近、歴史が変わった国を申し上げましょう。フィリピンの歴史は、今から五、六年前までは、「日本軍の占領はたいへん残酷だった。しかし、われわれはマッカーサー将軍の『アイ・シャル・リターン』を信じて、日本軍の苛酷な弾圧にも耐え忍んだ。そして、マッカーサー将軍は、その約束を果たしわれわれに自由な生活を再びもたらしてくれた」と、将軍様の北朝鮮の教科書のようでした。

 しかし、マルコス独裁政権が倒れ、フィリピンに民主的な政権が誕生すると、教科書はすっかり変わりました。現在の教科書には君が代の歌詞がタガログ語と英語で書かれ、音符も掲載されているのです。そして、「みなさん、この歌の意味は何ですか」と君が代の歌詞の意味を聞いているのです。日本の学校でも「君が代」の意味を説明する学校は、どれだけあるのでしょうか。そのうちにフィリピンまで聞きに行かねばならなくなるのでしょうか。またインドでは、日本軍とともに戦ったチャンドラ・ボースが、政敵のネルーが亡くなると、ネルーやガンジーの無抵抗運動では独立を達成できなかった。インドが独立できたのは銃を取ってチャンドラ・ボースが立ち上がったから達成できたのだと、評価が大きく上がりました。そして、国会議事堂の中庭にはチャンドラ・ボースの銅像が建ち、ラングーンの国際空港がチャンドラ・ボース国際空港と命名され、一昨年、シンガポールに「ここにインド国民軍誕生す」と英語、日本語、インド語で書かれたインド国民軍誕生の碑が建立されたそうです。

 このように、民主主義が進展し言論の自由が定着すれば歴史が変わります。しかし、ここで問題は英語で書かなければ世界の歴史として認められない。いくら日本語で書いても、英語で発信しなければ世界の歴史とはならないということです。現在、中国政府や華僑が全力を挙げて、南京事件などの対日批判の歴史を発信していますが、それに対する日本からの英語による反論は、殆ど見られません。もし、英語で反論しなければ、かって対華二十一ヵ条の要求や線路上に泣き叫ぶ上海駅の子供のやらせ写真が、二十世紀の歴史とされたように、「南京虐殺三十万人」の作られた歴史が、二十一世紀の世界の歴史として定着してしまうのではないでしょうか。

おわりにー日露戦争の一世紀の視点

日露戦争と大東亜戦争の世界史に与えた歴史的意義を述べましたが、最後に五十年と一世紀の視点で、kの二つの戦争を評価したアメリカ人とイギリス人の著名な歴史家の評価を紹介して、本日のお話しを締めく括りたいと思います。日露戦争から五十年後、朝鮮動乱が始まったとき、アメリカの外交評論家のジョージ・ケナンは、過去の歴史を忘れ、中国を知る賢人の進言を無視し、日本より中国を重視し、日本を敗北させた結果、日本に代わりアジアの安定の責任をアメリカが負担することになってしまったと、次のように書いております。「アジアにおけるわれわれの過去の目標は、今日表面的には殆ど達成されたことは、皮肉な事実である。ついに日本は中国大陸からも、満州および朝鮮からもまた駆逐された。これらの地域から日本を駆逐した結果は、まさに賢明にして現実的な人々が、終始われわれに警告した通りのこととなった。今日われわれは殆ど半世紀にわたって、朝鮮および満州方面で日本人が直面し、かつ担ってきた問題と責任を引き継いだのである」(ジョージ・ケナン『アメリカ外交50年』)

 また、日露戦争百年後に、イギリスのサセックス大学教授のソーンは『太平洋戦争とは何だったのか』の中で、次のように書いております。「日本は敗北したとはいえ、アジアにおける西欧帝国の終負を早めた。帝国主義の衰退が容赦なく早められていったことは、当時は苦痛に満ちた衝撃的なものだった。しかし、結局は、それがヨーロッパ諸国にとり利益だと考えられるようになった。日本自身は一時あのように落ちぶれたが、高価で無駄な軍事力増強の道を避け、かって剣に依って確保することができたものよりはるかに大きく、かつ永続的な富と力を得ることができた。.......一九四五年には米国は紛れもない極東戦争の勝者であった。しかし、その米国が一九七〇年代にはある意味では、長期にわたる最大の敗者と見られるようになったのである。時間の制約から、駆け足でお話ししましたが、もし、詳しくお知りになりたい方は『日露戦争が変えた世界史』(芙蓉書房出版・二五〇〇円)をご覧になって頂けないでしょうか。  (文責 上原卓)