決戦日本海大海戦
日露戦争の経緯とバルチック艦隊の東洋回航
明治維新を断行し近代国家に生まれ変わったとはいえ、当時の世界は弱肉強食の苛酷な時代であった。1900年に中国で義和団事件が起きると、満州に2万の兵を送り、そのまま居座ってしまっただけでなく、朝鮮北部に兵を進め軍事基地の建設を開始した。朝鮮半島を他国の軍隊が抑えれば、元寇の例を見るまでもなく日本の安全を大きく揺るがせる事件であった。日本は7ヶ月にわたりロシアと交渉したが、「小猿」と軽視するロシアは応じるどころか、大軍を送れば日本が妥協すると兵力を増強し対日戦争に備えた。
当時の日本は国家予算がロシアの10分の1、陸軍兵力は10倍、海軍兵力は1・8倍であった。しかし、ロシアは艦隊をヨーロッパとアジアに配備していたため、極東の海軍兵力は日本の9割であった。そのため、日露戦争開始1年前に行われたニコライ海軍大学の対日戦争の図上演習では、艦隊の増強計画が完成するまで2年間戦争を控えるべきである。また、政府はそれまでにシベリア鉄道を完成すべきである。また、アジアで覇権を確立しようとするならば、日本軍を撃破するだけでは不十分で、日本人を「殲滅すべきである」。対日戦争勝利後は日本に艦隊の保有を禁止し、朝鮮を植民地とし鎮海を海軍基地にし艦隊を配備し、満州・朝鮮の植民地を日本の攻撃から守るべきであるなどとの強硬論が対日戦争計画者から提出されていた。

元寇の例を挙げるまでもなく、有史以来、朝鮮半島は日本の安全保障上から不可欠な場所である。このまま目視すればシベリア鉄道が完成し、さらに海軍兵力の増強が続けば手も足も出なくなる。日本はこのまま放置すれば手遅れになると考え、英米の支持を受けて1904年2月にロシアに開戦した。当時の世界は総て白色人種の支配したにあり、極東の「小猿」とニコライ皇帝に軽視されていた日本が、大国ロシアに勝てると考える国は世界にはなく、開戦を勇気ある決断などと考え国はなく、向こう見ずの無謀な蛮勇と考えられていたのである。しかし、日本軍は世界の予想に反し陸軍は鴨緑江、遼陽、沙河、黒溝台、旅順、そして1905年3月26日には陸上作戦の決戦である奉天(瀋陽)の会戦に勝利し、海軍も仁川沖、黄海、尉山の海戦に勝ちロシアの極東艦隊を全滅させた。しかし、ロシア側には講和に応じるような空気は全くなかった。ロシアはヨーロッパから多数の兵力を輸送中であり、また日本海軍の全艦艇に匹敵するバルチック艦隊を極東に回航しつつあり、日本艦隊を撃破し制海権を奪えば、満州の日本軍への補給が遮断でき、勝利の女神がロシア軍に微笑むと期待していたからであった。一方の日本軍は弾薬は底を突き、第一線部隊を指揮する初級将校の多くが倒れていた。
バルチック艦隊の回航決定
1904年5月20日、ロシア政府は第2太平洋艦隊を編成し、東洋に派遣することを公表した。その兵力は新鋭戦艦7隻を含み輸送船など約40隻、司令長官は皇帝の信任の厚いロジェストウエンスキー少将(リバウ出港2日後の10月17日に中将に昇進)が任ぜられた。大艦隊を1万8000マイルの波濤を越えて東洋に派遣する史上空前の大遠征に世界は注目した。艦隊は順調に行けば1904年末には到着するはずであったが、準備が大幅に遅れ、リバウ軍港を出港したのは10月15日で、兵力は戦艦以下28隻(途中で3隻合流)であった。
しかし、バルト海を出た直後の10月20日に英国の漁船を日本の水雷艇と誤解して襲撃し2隻に被害を与え3名の漁夫を殺害するハル事件を起こしてしまった。この事件に英国国内には一大反ロシア世論が起こり、トラファルガル広場では「ロシアの野蛮な行為」に断固たる措置を要望する抗議集会が開かれた。また、英国海軍は艦隊を即応体制にし、賠償問題が解決するまで、バルチック艦隊をスペインのビゴー湾に5日間も足止めしてしまった。この英国の世論と英国政府の強硬な姿勢が、フランスやスペインなどの中立国のバルチック艦隊への協力を消極的なものとし、艦隊乗員の士気を低下させた。この状況を革命派の乗組員ノボコフ・プリボイは次のように書いている。
スペインのビィゴに入港すると、5隻のドイツ給炭船が待っていたが、スペイン当局は中立条約を楯に給炭や乗員の上陸を禁止した。最終的に何とか次の寄港地分として、400トンの給炭が認められ出港した。しかし、港外に出ると10隻の英国の軍艦が「捕獲艦隊を護衛するように」艦隊を待っていた。そして、英国艦隊は我々を挑発するように、ある時は艦隊の左舷や右舷に並び、時として針路を横切って後ろに回り込み、時には半円形の陣形を取って囲い込むなど、われわれを囚人同様に監視した。

スペインで足止めされた艦隊は11月上旬にアフリカ北端の仏領タンジュールに着き、ここで大型艦艇の主隊(戦艦など14隻)はアフリカの南を迂回し、支隊(フェリケルザム少将指揮)はスエズ運河を経由しフランス領のマダカスカルに向かった。支隊は黒海からの輸送船を合わせスエズ運河を経由して12月28日にマダカスカルのノシベに、本隊は翌年1月9日に到着した。
ロシア水兵を悩ませたのは灼熱と石炭であった。給炭船からの石炭搭載は極めて厳しく、作業に従事する兵を30分間隔で交代させなければならにほどの重労働であった。給炭船が補給相手の軍艦に横付けすると水兵が給炭船に乗り組み船倉に入り、石炭をシャベルで麻袋に詰める。0・5トンほど入った麻袋を次いでデリックで戦艦の石炭倉に落とされるが、石炭倉では別の水兵はシャベルで水兵になるようにならしながら積み込んでいった。このため、1時間に積み込める量は100トン前後であり、通常戦艦は1000トン程度の貯炭倉を持っていたので、石炭搭載が始まると前後の準備作業を含めれば10数時間の重労働に着かなければならなかった。しかも、この作業を40度を超える熱帯地方で行ったバルチック艦隊乗員の負担は、現在では想像もできないほど厳しく劣悪な環境で、このため不満が多く最大の問題であった。
さらに、戦局が日本有利に傾くと、それまでロシアに好意的であったフランスやドイツの対応が変化した。フランスは最初はバルチック艦隊の補給地をマダガスカル北端のジエゴスワレスとしていたが、日本に好意を待つローズヴェルト大統領や日本の抗議を受け人里離れたノシベ湾に変えた。ベトナムのカムラン湾でも同様であった。入港時には巡洋艦デカルトに乗艦したジョンキエルツ少将が訪れ歓迎の意を表したが、6日後には24時間以内に領海外に出るよう要求した。このため、先に到着したバルチック艦隊は、旅順艦隊全滅の報を受けて新しく追加されたネボガトフ少将指揮の第3艦隊が到着するまで、カムラン湾とウァンフオン湾の間を往復し、時には日本艦隊の襲撃を警戒しながら洋上をさまよったため、「専制政治に対する信頼を失い、何よりも大切な将兵の戦意を消耗してしまった」という。

マダカスカルでは石炭を補給していたドイツの給炭船が、マダカスカル以東への運行が危険であると拒否するなど非協力的となっていった。一方、旅順は1月1日に降伏し太平洋第1艦隊が殲滅されており、バルチック艦隊は回航する目的を失い劣勢のまま日本海軍に立ち向かうか、反転し帰国するかの状況となったが、ロシア海軍はさらに艦隊を強化しは制海権を一気に回復しようと、第3太平洋艦隊(旧式戦艦4隻を含む11隻、6万トン、司令官ネボガトフ少将)の増派を決定した。ロ中将は灼熱の熱帯の長期停泊による士気の低下、補給問題や日本艦隊の戦力回復を考え速やかに東洋進出を具申し、2ヶ月後の3月16日に同地を発した。兵力は後発隊を合わせ43隻(うち輸送船など19隻)であった。艦隊は4月4日から8日にかけてマラッカ海峡を通過し、13日にフランス領ベトナムのカムラン湾に到着し第3艦隊を待つこととした。第3艦隊は1905年2月15日にセバストポリを出港し、スエズ運河を経由し連続航海を続けインド洋を横断し、4月14日にベトナム沖で合同した。
ロ司令長官は朝鮮海峡突破を計画し、5月14日にベトナムを発った。その兵力は54隻であった。バーしー海峡で補給後に5隻の輸送船を分離し、台湾沖で仮装巡洋艦2隻を日本艦隊を欺くために分離し、西太平洋での行動を命じた。艦隊は22日に宮古島東方で沖縄列島戦を横切り、23日東シナ海で最後の洋上補給の後25日に湯オス戦など9隻を分離し上海に向かわせ残りの38隻が対馬海峡へと向かった。
バルチック艦隊は何処にー戸惑う日本海軍
日本海軍の悩みはバルチック艦隊が対馬、宗谷、津軽のいずれの海峡を通ってウラジオに向かうかであった。しかし、宗谷海峡は可航幅が狭く霧の発生など大部隊の通峡が困難なことから、対馬か津軽海峡のいずれかと考え、対馬海峡については主力艦の砲戦、夜間の駆逐艦や水雷艇の魚雷や機雷戦、主力部隊の追撃戦など五島列島からウラジオ沖まで7段にわたる連続的な作戦を計画していた。
一方、津軽海峡については奇想天外な連係機雷作戦を考えていた。この作戦は連合艦隊参謀の秋山眞之の着想といわれているが、機雷4個をそれぞれ100米のロープで結びつけたものを、敵艦隊の前方に艦首を取り巻くように投入し、敵艦がロープに引っ掛かると機雷が艦側に引き寄せられ、触接爆発するという秘密兵器であった。特に津軽海峡の潮流は常に西から東に流れており、連係機雷を西方から放流すると西航して日本海に入るのはきわめて危険である。日本海軍はロシア海軍に察知されずに機雷を放流しようと、開戦直後に拿捕したロシア武装商船エカテリノスラーフに連係機雷投下装置を装備し陸奥湾に配備していた。
バルチック艦隊は14日にベトナム沖を発った。兵力は54隻であった。ロ中将はバーシー海峡通過後に輸送船5隻を分離し、台湾沖で仮装巡洋艦2隻を日本海軍を欺くために太平洋に派出し、23日に沖縄沖で最後の洋上補給を行い、25日に輸送船など8隻を分離し上海に向かわせ、38隻を率いて対馬海峡へと向かった。
バルチック艦隊の情報がない連合艦隊司令部では、バルチック艦隊が本州東方を北上していると判断し、5月24日には艦隊の待機位置を対馬海峡から対馬海峡に移す「密封命令」を発出し、軍令部にも報告した。25日午前には三笠で指揮官会議を開いたが、第2艦隊参謀長・藤井較一大佐を除き北上を主張したため津軽回航が決定した。しかし、その直後に1番遠い錨地に投錨していた第2戦隊司令官・島村速雄少将が到着し、強く津軽回航に反対したため回航は1日延期された。会議半日後の26日午前零時5分、上海から大本営に前夜バルチック艦隊の仮想巡洋艦・輸送船8隻がウースン港に入港したとの情報があり北行は中止された。もし、この時に連合艦隊が北に向かっていれば、駆逐艦や水雷艇などによる7段構えの作戦は不完全にしか実施できず、あのような完全勝利は不可能であったろう。東郷大将を連合艦隊司令長官に抜擢した人事を案じた明治天皇のご下問に、山本権兵衛は「東郷は運の良い男ですから」と答えたというが、この北方移動の1日の延期が日本海海戦の完全勝利に繋がったのであった。

5月27日午前2時45分、哨戒中の信濃丸がもやの中に灯火を認めた。近づいて確認すると病院船であり、臨検しようとさらに接近すると周りには10数隻の艦艇がおり、バルチック艦隊の真ん中にいることに気がつくと、信濃丸は急いで隊列から離れ「敵艦二〇三地点に見ゆ、〇四四五」と打電した。その後も信濃丸はバルチック艦隊に接触しつつ、「針路北北東、対馬海峡に向かう如し」と打電し、6時45分には付近の哨区を哨戒中の巡洋艦和泉も発見し、その後は海戦に至るまで接触を続け情報を送り続けた。ロシア海軍も無線電信機を持っていたが、電波を発して所在を探知されることを恐れて電波封止をしていたため、日本海軍が無線通信を世界の海戦で始めて使用した海軍となり、日本海海戦が世界で最初に無線電信が使われた海戦となった。
“まぼろし”の東郷ターン


信濃丸が発した敵発見電報は、36式通信機により85カイリ離れた対馬の尾崎湾に停泊中の第3艦隊旗艦の厳島が受信し、60マイル離れた鎮海湾の三笠に中継し25分後の5時5分には伝えられた。この電報を受けると東郷連合艦隊司令長官は、5時15分に各隊に出撃命令を発し、「敵艦見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日、天気晴朗なれど波高し」との電報を発した。現在、この電報が波が荒いので訓練を重ねてきた我に勝算ありとの意味であるとの解釈と、駆逐隊による連係機雷作戦が不可能であることを知らせたとの解釈があるが、日本海軍が対馬海峡で展開しようとしていた連係機雷作戦とはどのような作戦であったのだろうか。
日本海軍は連係機雷作戦のために対馬海峡では、浅間を旗艦とし第1駆逐隊と第9水雷艇隊(4隻)で奇襲部隊を編成していた。その戦法は水雷艇隊が敵艦隊の斜め前方1500米から反航体制で魚雷攻撃を行い、最後尾の水雷艇は連係機雷と浮流機雷を投下し、敵の変針を防ぎ、次いで駆逐艦暁がロシア艦隊の前方を横切り連係機雷を投下し、残余の駆逐艦は敵艦隊の注目が暁に集中しないよう牽制するという作戦であった。駆逐艦暁は元ロシア駆逐艦レシテルヌイで、日本海軍が威海衛で捕獲したが、ロシアの駆逐艦が前方を通過した思わせるため装備も塗装も変えていなかった。
5時45分に海防艦や巡洋艦主体の第3艦隊、続いて駆逐隊や水雷艇隊が対馬の尾崎湾を出撃した。6時5分には第1(戦艦主力)・第2艦隊(装甲巡洋艦主体)が三笠を先頭に鎮海湾を後にしたが、荒天で水雷艇隊の襲撃が困難と判断し、途中で水雷艇隊を対馬に避泊させた。一方、バルチック艦隊の38隻の艦艇は3列縦隊で、中央列が旗艦スオロフを先頭に第1戦艦戦隊、その後に第1巡洋艦戦隊、左列に旗艦オスラビアを先頭に第2戦艦戦隊、続いて旗艦ニコライ一世を先頭とする第3戦艦戦隊、右列には第1・第2巡洋艦戦隊、第1・第2駆逐隊、それに工作艦や補給艦などの特務艦が続いていた。このような複雑な陣形となったのは、単縦列を下令したが旗艦スワロフの速力が遅く、第2戦艦戦隊の1番艦オスラビアが第1戦艦戦隊の4番艦アリヨールがと衝突しそうになり、第2戦艦戦隊の2番艦シソイウェリーキは先頭艦との距離が近づき過ぎて機関を停止し、第2・第3戦隊は針路を変え速力を微速とするなど、陣形変換の混乱の最中にあったからである。

午後1時39分にバルチック艦隊を視認すると、東郷司令長官は1時53分に「興国の興廃此一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とのZ旗を三笠のマストに高々と掲げた。 反航態勢のため距離は急速に縮まっていった。艦橋では右に回頭するのか左なのか、射撃をあせる三笠砲術長安保清種少佐からは、敵艦までの距離や「射撃準備良し」などの報告が繰り返されたが、東郷司令長官は動かなかった。2時5分、距離8000メートルで、無言であった東郷司令長官の右手が左に円を描いた。「取舵」回頭であった。そして三笠は150度の大変針をしてバルチック艦隊と同航態勢とした。これが有名な「東郷ターン」であった。回頭を終えた三笠から2時10分に初弾が発射された。距離は6400メートルであった。
ロ中将は、この大角度変針は「実ニ意想外」であり、「甚シク乗員ヲ歓喜セシメタ」。これは東郷艦隊の12隻の艦艇がわが艦隊の弾着距離内で一定の航跡を通過し、絶好の射撃機会を提供すると考えたからであった。しかし「射撃術ノ拙劣」から、この「有利ナル状況」を与えられたにも拘わらず、「沈着ニ利用スル能ハサリキ」と軍事法廷では述べている。しかし、この回頭点に砲弾を集中することは、極めて難しく不可能に近い。日露艦艇は真向かいで接近中であり相互の距離は急速に変化し、距離や方位などの射撃諸元を刻々と変えなければならないからである。この命中率が低い距離を計算し東郷司令長官は敵前の大回頭を行い有利な並航砲撃戦に挑んだのであった。
ロシア海軍が編纂した『一九〇四、5年 露日海戦史(芙蓉書房)』は東郷ターンについて、ネルソン提督も「発砲ノ自由ヲ失フノ不利ヲ顧ミズ」に、致命的危険といわれた「敵ノ縦貫射撃ヲ冒シ」て、トラファルガルの海戦に勝利したが、東郷提督とネルソン提督の「策戦ガ恰符節ヲ合シ」、「賢明ニシテ旦勇敢ナル行動」により勝利を得た。日本海海戦はネルソン提督のトラフアルガーの海戦、テゲトフ提督のリツサの海戦の成功にも対比されるべき海戦であると高く評価している。
一方、海軍軍令部が編纂した『明治三十七八年海戦史』には、5月27日午後2時2分に「南西微西ニ定針シ先ツ敵ト反航スル姿勢ヲ示シ」、3分後に距離8000米で「急ニ東北東ニ変針シ、以テ敵ノ先頭ヲ圧セントセリ」。2時8分に2番艦の敷島が回頭を終わり、新針路となったのは距離7000米で、この時に先頭のスオロフが発砲し、他艦もこれに続き「忽ニシテ全砲火ハ我カ先頭ノ両艦ニ集注シ、巨弾雨ノ如ク艦ノ四周ニ落下」した。しかし、「我ハ猶ホ自重シテ応戦セス」。2時10分、距離6400米に至り「第一弾ヲ発射セリ時ニ二時一〇分ナリ」。これが日本海海戦の敵前大回頭の記述であり、ここには「T字戦法」や「丁字戦法」の言葉はなく、淡々と時系列に従い戦闘が記述されているが、それはこの150度の大回頭により同航体制にしただけのことであったからである。
また、『三十七八年 明治海戦史』には、駆逐艦や水雷艇の戦闘について多くのページを割き、第3駆逐隊の薄雲は敵艦に接近し過ぎて「衝突セントシタ」が、「僅カニ免レ」激しい銃撃を受けながら魚雷3本を発射した。2番艦の霞や3番艦の薄雲は衝突を避けるため、敵の隊列間を横切って「敵艦トノ衝突ヲ辛ジテカワシ」て魚雷を発射したなどと小型艦艇の活躍を讃えている。しかし、時の経過とともに駆逐艦や水雷艇の勇敢な肉薄攻撃は忘れられ、三笠艦橋の東郷大将の勇姿と「東郷ターン」という敵前直角回頭が、小説となりドラマとなり歴史となっていっていったのであった。2時18分には三笠が、25分には浅間が命中弾を受けて列外に出たが、日本海軍の砲撃の正確さと砲弾の破壊力が海戦の勝敗を決した。黄海の海戦と日本海海戦に参加し旗艦スワロフに乗艦していたセミョーノフ中佐は、「この威力ある砲弾は何物かに触れると直ぐに爆発する。日本の砲弾の爆発力は鉄板をも燃焼させる。無論鉄の燃える理由はないが、一度弾丸が命中すると鉄板は真紅になる。燃焼しがたいものでも、敵弾が中ると忽ち篝火のように燃焼し始める」と『殉国記』に書いているが、「この威力ある砲弾」とは伊集院五郎少将(のち元帥)が開発した伊集院信管と海軍技師下瀬雅允が開発した下瀬火薬を装填した砲弾であった。

午後2時20分には第2戦艦戦隊の旗艦オスラビアが、艦首と中部に被弾して艦首が沈下し、中部に火災が発生して列外に出たが、2時40分には横転し沈没した。2時26分には旗艦スオロフが被弾して舵が故障し火焔に包まれながら列外に出ると、2番艦もこれに続いた。さらに2時40分にはスオロフの司令塔に1弾が命中し、ロ司令長官が人事不省に陥り、参謀長も艦長も負傷した。海戦の始まる4日前の5月33日に次席指揮官のフェリケルザム少将が死亡したが、士気の低下を憂慮し秘密にしていたため、指揮継承に混乱が生じ指揮する者がなく、バルチック艦隊の行動は混乱をきわめた。4時30分には輸送船ルーシが沈没し、イルツイシが大破し、午後5時55分には輸送船ウラールが沈没した。午後7時30分には東郷司令長官から戦闘の終結が令され、翌朝の決戦のために主力部隊は鬱稜島沖に向かい昼戦は終わった。
追撃戦と小艦艇の活躍
日露戦争といえば日本海海戦、三笠以下の戦艦部隊の大胆な敵前直角回頭を読者の多くは思い浮かべるであろうが、日本海軍の勝因の一つに小艦艇の活躍があった。たとえば、旗艦スワロフは第6戦隊(海防艦)、第4・第5戦隊(巡洋艦)に襲撃され、7時30分に沈没したが、止めを刺したのは魚雷艇であった。このスワロフの最後を『露日海戦史』は、舵機を破壊されて行動の自由を失い「敵ノ好目標トナリテ一個ノ火塊ト変シタ」。しかし、前進を続け艦尾2門の75ミリ砲で応戦していたが、7時30分には第十1水雷艇隊の4隻から4発が発射され3発が命中し、「暗黒ノ硝煙ニ包マレ火焔ヲ噴出シ」転覆沈没した。勇敢な乗組員は「成敗ヲ超脱シテ人事ヲ尽クシ一人ノ生存スル者ナシ」。「殉国ノ英霊悉ク永久ニ安静ナレ」と、スワロフの奮戦を讃えている。

また、日本海軍も『明治三十七八年海軍戦史』で、前部マストが折れ煙突も破壊され、全艦火焔に包まれながらも残存する艦尾砲で「敢テ戦イヲ挑ミ死力ヲ尽クシテ我ニ対抗セン」とした行為は、「実ニ旗艦ノ面目ヲ発揮シタルモノト称スベシ」とスワロフの奮闘を讃えている。7時には戦艦アレクサソドル三世の傾斜が増加して横転沈没、7時10分にはカムチャッカが、8時30分には刻々と傾斜を増していた戦艦ボロジノが火薬庫が爆発して水面から消えた。この夜間の襲撃に参加したのは駆逐隊5隊(21隻)と水雷艇8隊(32隻)で、これらの小艦艇が昼戦で傷ついた戦艦や巡洋艦に禿鷹のように襲い掛かり止めを刺したのである。襲撃に成功したのは駆逐艦14隻と水雷艇15隻で、発射した魚雷は53本、連鎖機雷は6組であったが、魚雷で装甲巡洋艦ナヒーモフと戦艦シソイウェリーキを、放流連鎖機雷で戦艦ナワインを撃沈し、この日の海戦で事実上バルチック艦隊は潰滅された。
翌日、バルチック艦隊は数隻ずつの小グループに分かれて北上していたが、連合艦隊は午前9時半に戦艦ニコライ一世、アリヨールなど4隻を発見、約1時間の砲戦ののち第3戦艦戦隊司令官ネボガトフ少将は降服した。降伏したのは戦艦ニコライ一世、アリヨール、海防艦アブラクシン、セニャーウィンであり、別に負傷したロ中将が移乗していた駆逐艦ベドウイも鬱陵島沖で捕獲された。
2日にわたる海戦で戦艦8隻中6隻が沈没し、 2隻が捕獲され、 装甲巡洋艦5隻が沈み1隻が自沈し、 巡洋艦アルマーズがウラジオストクに、 アウロラなど3隻がマニラに、駆逐艦は9隻中の5隻が撃沈され、 2隻がウラジオストクに、1隻が上海に逃れ1隻が拿捕され、バルチック艦隊の38隻中でウラジオストクに着くことができたのは、巡洋艦アルマーズと駆逐艦2隻と輸送船1隻だけであった。この勝利を「タイムズ」は、「東郷の偉大な勝利の最も注目すべき戦闘上の特徴は、重要な軍艦を1隻も失わずに勝ったことである。この海戦の結果、ロシア艦隊は撃滅され、一方の日本艦隊は実質的に戦闘前と全く同じ力を持っているということである」と讃えた。先のセミヨーノフ中佐は「黄海の海戦は両軍が互角の力を発揮して戦った海戦であったが、日本海海戦は海戦ではなく全くの一方的な殺戮戦であった」と書いているが、ロシア海軍の人的損害は戦死5046名(36・2%)、負傷809名(5・0%)、捕虜6106名(37・8%)で、日本海軍の損害は水雷艇3隻沈没(2隻は衝突、1隻は砲火)、戦死116名、負傷538名であった。
日本海海戦が変えた海軍戦略と世界史
海軍戦略に与えた影響
米国の海軍戦略家マハン大佐は「海戦の結果として現在及び将来の歴史上に影響すべき政治的波乱は極めて重大なものであり、
また、この海戦で得た経験は今後の列強海軍の軍備に至大な影響をもたらすであろう。
この海戦で最も重要なのは第一に大砲と水雷との関係、第2に戦艦と水雷艇との関係である。
東郷大将の艦艇使用法を見るに、戦艦および砲煩を以て海戦の目的を達するに最も有力なりとする説は毫も動じざるなり。日本からの消息によると、
益々この説の正当なるを確定するに至れり」と、日本海海戦が国際政治と海軍軍備に大きな影響を与えるであろうと指摘したが、事実はその通りに推移した。国際政治では有色人種に民族独立と人種平等への扉を開き、海軍史的には世界の海軍を大艦巨砲主義に走らせ、建艦競争の扉を開いたのであった。
最初に列国の海軍軍備に与えた影響をみてみよう。大艦巨砲主義の対極にあるのが水雷艇や駆逐艦搭載の魚雷であり、日本海海戦の経緯を詳細に検討すると、駆逐艦や水雷艇が砲撃で沈まなかった戦艦や巡洋艦を撃沈するなど勝利に大きく貢献していた。しかし、水雷艇や駆逐艦の価値を高く評価したのは、国土防衛を主任務とする仏独露海軍などの大陸国の海軍であり、英米日などの外洋海軍国では小型で航洋能力が低く、天候に左右されることから、砲力の優劣(発射速度・命中率・口径・練度・志気)、
砲戦に有利な態勢を維持する運動力(速力・運動性能)などに関心が集中した。特に、戦争初期に日本海軍の装甲巡洋艦が旅順港外で、ロシアの戦艦からアウトレンジ攻撃を受けたこと、黄海の海戦や日本海の海戦で巡洋艦の小口径砲で鋼鈑を貫通できなかったことなどから、列国海軍は争って大口径砲搭載艦を進水させた。日本海軍も日露戦争が終わった翌1906年5月に、30・5糎砲4門を搭載した香取・鹿島の2隻の戦艦を進水させた。しかし、その1ヶ月後には戦艦ドレッドノートが竣工し、この2隻の新鋭戦艦を一瞬にして旧式艦にしてしまった。ドレッドノート型戦艦は30・5糎連装砲塔5基10門を搭載し、左右に指向できる砲数が10門中8門と、それまで艦首と艦尾に各1基の連装砲しかない4門搭載の戦艦を一挙に過去の遺物としてしまった。さらに、第1次世界大戦のフォークランド沖海戦でドイツの巡洋艦戦隊が、イギリス戦艦からアウトレンジ攻撃を受けて為すことなく撃沈されたこともあり、大艦巨砲の価値が再認識され大艦巨砲主義が消滅するには日本海軍航空隊による真珠湾攻撃や、戦艦プリンスオブウエルスの撃沈を待たねばならなかった。
日露戦争に敗北していたら

歴史にIFは禁物である。しかし、日本海海戦に敗北していたらどうなっていたであろうか、満州の陸軍は補給路を断たれて撃滅され日露戦争は敗北し、満州や朝鮮はソ連邦の一国とされ、ソ連邦が解体する1991年までバルト三国のように属領となっていたであろう。日本については対馬、宗谷と津軽海峡の航行の自由を確保するために、これらの一部がソ連領となっていたとの主張もある。しかし、日英同盟を締結しており日本には手が付けられなかったのではないか。英国がどのような回答をしたかは不明であるが、ウィッテ外相は英国のハーディング駐露大使やスプリング・ライス参事官に、もしロシアが勝利すれば要求は過大なものになるであろう。東北清国及び朝鮮を併合し、北京を保護下に置いて清国政府を一歩一歩ロシアの手中に収める。また、黄海の制海権を確保するために旅順に加えて鴨緑江口の龍岩浦に海軍基地を建設する。日本については、戦闘力を奪わなければならないことにロシア政府の意向は一致している。その具体的要求は艦隊保有禁止であり、朝鮮・満州市場からの日本製品の排除であると語っていた。
なぜ、ロシア外相は日本の同盟国の大使に、このようなことを話したのであろうか。それは日本の同盟国の英国に講和会議で日本に要求すべき項目や、その程度について探りを入れたのである。日本の敗北を見越して、日本の敗北後の英国の意向を探ったのである。これは『露日海戦史』に記載されている日露戦争前年の対日戦争計画や、ニコライ海軍大学の対日戦争図上演習などの議事録や報告書を読めばさらに明確である。これらの記録には海軍兵力が対日優位になれば朝鮮半島南端の馬山浦を確保し、前進基地として艦隊を配備すべきである。しかし、現在は海軍兵力が日本より劣勢なので、艦隊増強計画が完成する1906年まで2年間は戦争を控え、その間にシベリア鉄道を完成すべきである。また、アジアでロシアの覇権を確立しようとするならば、日本軍を撃破するだけでは不十分で、日本人を「殲滅」しなければならないなどとの強硬論が、対日図上演習の席上で議論され、その所見が対日戦争計画担当者から軍令部長に上申されていた。
日本海海戦の世界史への影響

日露戦争とはアジア、アフリカが完全に欧米植民地支配に呑み込まれ、欧米の圧倒的な植民地化の波が中国大陸、朝鮮半島に迫りつつあった時に、有色人種の日本が立ち上がり、初めて白色人種を敗北させた戦争であり、それを確定したのが日本海海戦であった。インドのネール首相は日本の勝利は、「アジアにとって偉大な救いであった」、ビルマの首相バ・モーは「アジアの目覚めの発端、またはその発端の出発点とも呼べるものであった」と回想している。エジプトでは日露戦争が始まると、日本の発展を賛美する『昇る太陽』や、従軍看護婦として満州に行き、傷ついた兵士を看護したいという「日本の乙女」という詩が作られたが、この詩はエジプトやレバンノの教科書にも掲載されている。イランでは日本の近代化を推進した明治天皇を讃える『ミカド・ナーメ(天皇の書)』が出版され、トルコでは日本の勝利がケルマ・アタチュルクのトルコ革命に連なっていった。

一方、米国では「行け、行け、黄色い小さな男たちよ。欲望の固まりのロシアを投げ飛ばせ」などと、日本を激励する詩が黒人の新聞に掲載され、黒人を人権要求運動へと進ませた。また、レーニンは「旅順の降伏はツァーリズム降伏の序曲、革命の始まり」と書いたが、旅順陥落直後には首都サンクトペテルブルクで、「血の日曜日」事件が起こり、この事件を境に革命の歯車が止まることなく回り始めた。西欧の史書はフランス革命が民族国家を成立させたとしているが、民族国家独立の夢をアジアやアラブ、アフリカの国々に与えたのが日露戦争の勝利であり、その勝利を確定したのが日本海海戦であった。このように、日本海海戦は20世紀の世界の歴史に大きな足跡を残した海戦であった。しかし、総ての戦争を悪とし自虐史観に苛まれ、国家観や民族意識を失った日本では、日本海海戦の舞台の「日本海」が韓国の横やりで「東海」と世界地図では変えられつつあるが危機感はない。平和ボケした平成の日本人が栄光に輝く日本海という名称を守りきれるであろうか。