日本海海戦の真実
大陸型フランス海軍と海洋型イギリス海軍の大海戦
ロシア海軍の海軍戦略と建艦計画
日本海海戦の参加艦艇を分析する前に、ロシア海軍の海軍戦略と艦艇の設計や建造の関係を考えてみたい。どのような艦艇を装備するかは、国家の地理的位置や国際関係(仮想敵国と同盟国)、
それにともなう国家戦略は国防方針、そこから生まれる海軍戦略などで左右される。国境をヨーロッパから中東、そしてアジアに拡げてきたロシアの脅威は、義和団事件を契機に満州に侵入し日本との対立が高まる以前は、東のドイツと南のトルコであり、陸軍が重視され海軍は海上から来襲する敵艦や、上陸した敵の陸軍部隊を洋上から砲撃し、陸軍作戦を支援することを第一の任務としていた。

1855年に王位に付いたアレクサンドル二世の時代に、ロシア海軍の近代化が始まり新型艦艇の建造が開始されたが、この時期はクリミア戦争に敗北し、黒海では保有が艦艇数制限されており、海軍力の増強は主としてバルト海のドイツを対象とし、南北戦争時のアメリカのモニター艦やフランスの砲艦をモデルとし、1874年には奇想天外な円形砲艦ノブゴロド(2491トン、280ミリ連装砲2基、85ミリ単装砲2基)を建造して世界を驚かせていた。
次いでイギリスやフランスが装甲艦を開発すると、イギリスに砲艦ベルベネツ級(3277トン)の建造を依頼し、図面を輸入して2隻を国産したが、ドイツを共通の脅威として露仏同盟が締結されると、艦艇建造技術の導入先をフランスに変えた。フランスはロシア同様に国境を接する東のドイツが最大の脅威で、海軍の任務はイギリスの海から進攻を防衛することとされていた。しかし、イギリスの産業革命が進展し海軍兵力の大幅な増強を開始すると、高価な大型艦の建造で応じられないフランス海軍は、安価な機雷や水雷艇、潜航艇などにより対処すべきであるとの、エコール・ジュンヌ(青年学派)派の主張が高まった。この主張は射程が200から300ヤードではあったが、魚雷や潜航艇が実用化されつつあった時であり説得力があった。
しかし、ロシアの極東への進出とともに外洋海軍が必要となり、1898年から始めた海軍拡張計画ではイギリスの技術を導入し、アメリカにも艦艇を発注するなど外洋型艦艇の建造が重視され、日露戦争開戦時には戦艦22隻、装甲巡洋艦7隻、巡洋艦10隻で総トン数45万トンと世界第3位の海軍国に成長していた。また、戦術面でもマカロフ少将が海軍戦術論を、ウシャコフ中将が海軍戦略論を発表するなど、ロシア海軍は外洋海軍へと発展しつつあった。
日露海軍兵力の比較

海戦の勝敗を支配する要素は多いが、ここでは日本海海戦の勝敗を日露海軍の代表的な戦艦ボロジノと戦艦三笠と比較しながら日露艦艇の特質や優劣を論じてみたい。三笠には海洋国家イギリスの建艦思想が、ボロジノには大陸国家フランスの建艦思想が凝縮されていた。三笠は1902年3月にイギリスのビッカース社で、イギリスの最新鋭戦艦マジェスチェック級に倣って設計・建造されたが、排水量は1万5140トンでボロジノより1500トンほど大型であったが、主砲は305mm連装砲2基で同等であった。しかし、三笠の装甲は最初に新式のクルップ滲炭甲鈑を採用した戦艦で、この甲鈑の採用により防御力は同一厚さで20%増大していた。また、三笠には新しい技術が採用され各種の改良が加えられたため、マジェスチェック級より強力な戦艦になったため、「なぜ、輸出戦艦の方が自国の戦艦より優秀なのか」と非難の声があったほど、設計者や建造者は全力を挙げて建造し、進水当時はドレッドノート型戦艦が出現する以前の戦艦としては世界最強の戦艦であった。
ボロディノは排水量1万3516トンで、フランス戦艦ツェザレヴィッチの図面をもとに、ロシア海軍が改良を加えたため、改ツェザレヴィッチとも呼ばれている。主要な改正点は副砲を総て連装としたこと、防御鋼板を厚くして水雷防御壁を強化したことであったが、砲塔式にしたため射撃速度が低下し、さらに砲塔の配置位置の不良からで射界が制限され、重量増加により重心が上昇した。特にリバウ出港時には石炭や弾薬、修理部品などを多量に搭載した結果、排水量が1万5300トンと1800トンも増加し、平均喫水は69cmも増加した。このため傾斜が20度を超えると、75mm砲の砲廊の砲門を開くと艦内に海水が流入するなど、乾舷不足による転覆のおそれや、耐波性の不良などから、次のような指示が発せられていた。
もし右舷に被弾し破口が生じ14度から18度傾斜したならば、直ちに面舵転舵すべし、転舵により傾斜は9度から10度に回復するので、直ちに砲扉閉鎖し艦の釣り合いおよび浮力を確保し、次いで浸水を下部甲板に流し、破口を修理すべし」。
また、この欠点に加え予備浮力を増すために採用されたダンブルフォーム(樽底型)が、左右の動揺を増大し砲の標準を困難にし、「本日、天気晴朗なれども波高し」の日本海海戦では、旋回すると傾斜し海水が砲覆い内部に流れ込み、砲弾が流入した海水と動揺で砲廊内部を転がり廻り射撃速度を低下させた。この状況をロシア海軍軍令部が編纂した『千九百四、五年 海軍戦史(芙蓉書房出版)』は、「風吹キ波浪高ク戦隊ノ動揺甚タシク、風上ニアル砲廓ノ砲門ヨリ海水ノ浸入スルコト甚タシク、從テ砲ノ回転ニ困難ヲ感シタリ」。
ボロディノ型戦艦は5隻が建造されたが、「造船官ガ各自ノ所信」に従い、また艦長が艤装時に「勝手ノ注文」をしたため、同一クラスでありながら排水量で700トン、前後の喫水差は91cmにも増大し、このため各艦の旋回徑が異なり、同一舵角で一斉回頭を命じても隊列から離脱する艦が続出し、砲戦運動の基本である陣形変換運動も整斉と行えなかった。ボロジノ型は4隻が日本海海戦に参加したが、スワロフ、ボロディノ、アレクサンドル三世が撃沈され、オリオールが降伏して日本海軍の石見となり、日本海海戦に間に合わなかった5番艦のスラヴァは、第一次世界大戦中の1917年10月にリガ湾でドイツ海軍と戦ったが、大破したため海没処分されるなど、ボロジノ級戦艦は設計上も失敗作であったが、戦績も不運であった。
日露戦艦ボロジノ・三笠の性能要目の比較
艦名 |
三笠 |
ボロジノ |
排水量(基準) |
15,140 |
13,516 |
全長X全幅 |
131,7X23,23m |
121X23,22m |
主砲 |
30,5cmX連装2基 |
30,3cmX連装2基 |
副砲 |
15,2cm単装14基
76mm単装20門
47mm単装16門 |
15,2cm連装6基
75mm単装20門
47mm単装20門 |
魚雷発射管 |
450mm発射管4門 |
381mm発射管4門 |
装甲版(最大) |
水線229mm、甲板76mm |
水線190mm、甲板38mm+63mm |
機関(速力) |
150,000馬力(18ノット) |
116,000馬力(17,8ノット) |
乗員数 |
859名 |
835名 |
砲力から見た日本海海戦

日本海海戦の参加艦隊はバルチック艦隊と呼ばれた第2太平洋艦隊、黒海の基地から展開された第3太平洋艦隊で、総隻数は戦艦8隻、巡洋艦20隻など38隻、21万4320トンであった。一方、これを迎え撃っ日本海軍は戦艦4隻、巡洋艦20隻など総計91隻、20万6600トンであった。戦闘力の主体である新型戦艦は日本艦隊の3笠、霧島、朝日、冨士の4隻に対し、バルチック艦隊はスワロフ、ボロジノ、アレクサンドル三世、アリヨールの4隻で同等であったが、「浮かぶタライ」と揶揄される旧式戦艦4隻を加えれば、大口径砲ではロシア海軍が優位であった。しかし、装甲巡洋艦は東郷艦隊の10隻に対して7隻と日本が優勢であったが、巡洋艦は日本の4隻に対して6隻で中口径砲では伯仲していた。しかし、駆逐艦、水雷艇はロシア海軍の駆逐艦9隻に対して、日本海軍が駆逐艦21隻、水雷艇39隻と遙かに優勢であった。
日本海海戦の日露参加艦艇の構成比較
|
|
戦艦 |
装甲巡洋艦 |
巡洋艦 |
海防艦 |
通報艦 |
駆逐艦 |
水雷艇 |
特務艦 |
総計 |
|
日本隻数 |
4 |
8 |
12 |
4 |
3 |
21 |
39 |
9 |
100 |
|
日本トン数 |
58500 |
72200 |
40160 |
20180 |
3710 |
7310 |
4544 |
53490 |
26万 |
|
ロシア隻数 |
8 |
3 |
6 |
3 |
ー |
9 |
ー |
3 |
32 |
|
ロシアトン数 |
97170 |
20310 |
26620 |
13580 |
|
3159 |
ー |
3170 |
16万4000 |
(連合艦隊と竹敷要港の水雷艇8隻、除く第7戦隊(砲艦など7隻)

日本海海戦の勝敗を砲力で比較すると、砲力は爆発力・発射速度・命中率の総乗積で示されるが、命中率や発射速度は砲員の士気や練度によっても大きく変わる。また、舷側の副砲の射撃を可能とする有利な射撃態勢を常に維持するための相手に優る速力や旋回徑の大小などの運動性能などによっても左右される。
砲数を日露両海軍について比較すると、25cm砲以上では日本の24門に対し、ロシア側は43門、15―20cm砲では日本の238門に対して161門で中口径砲では日本艦隊が圧倒していた。しかし、一斉に発射される砲弾の量は日本海軍の12・9トンに対し、14・6トンと、ロシア海軍が日本海軍を上回っていた。また、口径はロシア側は45口径であったが、日本海軍は40口径で遠距離砲戦ではバルチック艦隊が有利であった。しかし、日本海軍の中口径砲の多くは速射砲であり、近距離砲戦では日本海軍に分があった。
日露砲力・魚雷力の比較(東郷神社・東郷会編『図説東郷平八郎』)
|
|
32-30cm |
25cm |
20cm |
15cm |
12cm |
魚雷発射管 |
|
日本海軍 |
23 |
1 |
34 |
204 |
40 |
250 |
|
ロシア海軍 |
18 |
27 |
9 |
152 |
28 |
123 |
戦後にロシア海軍が分析したところによると、ロシア艦隊がは1分間に138発、9・1トンの砲弾を発射したのに対して、日本艦隊が360発、24・1トンを発射し、さらにロシア海軍の炸薬は綿火薬で6・8キロであったが、日本側海軍は爆発力の強い下瀬火薬が47・2キロも入っており、実質的な砲火の比率はロシアの15倍とロシア海軍は計算している。とはいえ、下瀬火薬は命中の衝撃で自爆しやすく、本格的な徹甲弾がない当時は装甲を破り撃沈するには至らなかった。しかし、爆発力が大きいためあらゆる物を焼き払い、ロシア艦艇の戦闘力を急速に奪った。また、命中せずに水面に落下した場合でも高い水柱が上がり、弾着の観測が容易で射撃指揮上からも有効であったという。なお、バルチック艦隊の参謀長コロン大佐は、日本の砲弾は「爆発ト同時ニ非常ナル高熱ヲ発シ」、火災が頻繁に起り、短艇、支柱、敷板、釣床、塗料など可燃性の物は悉く燃え立ち、ある艦では甲板さえ燃えた。この高温による火災やガスで「気息ヲ塞キ火傷ノ為ニ死スルモノアリ」。炸裂した弾丸は無数の破片となり、灼熱した鉄粉を飛ばし新鮮な空気を通すべき通風筒を毒ガスの侵入路としたと述べている。
さらに、日露海軍で大きく異なるのが命中率であった。日本海海戦の命中率は多数のロシアの艦艇が沈没したため不明であるが、日本海軍の砲術の権威である黛治夫大佐は『海軍砲術史談』で次の表を示し、バルチック艦隊と東郷艦隊の砲力比は78パーセントであったが、ロシア艦隊の命中率を黄海海戦時の命中率とするならば、その差は26パーセント、日本艦隊の命中率は鎮海湾などの訓練により3倍に上がっていたので、ロシア海軍が黄海の海戦当時の命中率と変わらないとすれば、その差は8・3%、さらに砲弾の爆発力を2倍とするならば、その差は100対4・3となると書いている。
日露海軍の命中率比較(黛治夫『海軍砲術史談』)
|
砲種 |
25-30cm |
20-23cm |
15cm |
12cm |
|
日本海軍 |
17門 |
34門 |
202門 |
105門 |
|
ロシア海軍 |
33門 |
25門 |
160門 |
27門 |
|
対日比率 |
190% |
74% |
80% |
26% |

日露海軍の射撃指揮法や命中率について、『露日海戦史』には、日本艦隊は充分に訓練し「習熟ニ加フルニ独特ノ妙技ヲ有シ」、照準も極めて正確で「命中率甚良好ナリキ」、一方、わが艦隊は各艦の砲力を組織的に集中し利用する能力を欠いていたと日本海軍の射撃評価している。しかし、詳細に海戦の経緯を検討すると、多数の駆逐艦や水雷艇が戦果の拡大に大きな役割を演じていた。これら小艦艇が砲撃で沈まなかった戦艦ナワリソを撃沈し、戦艦シソイウエリーキー、巡洋艦アドミラル・ナヒーモフやウラヂーミル・モノマーフを撃沈(翌日、沈没)したのである。日本海海戦の戦闘詳報にも、「後日、捕虜の言を聞くに当夜、水雷の攻撃猛烈なりしは殆ど言語に絶し、我が艦艇に連続的に肉薄して来るので、その対応に追われた」とあるように、この海戦ほど大小様々な艦艇がシステマテイクに、その特質を発揮して勝利に貢献した海戦は世界の海戦史に例を見ないのではないか。
日露両国の海軍戦史から紐解く日本海海戦の姿
日本海海戦の推移
黄海の海戦、 尉山沖の海戦でロシア艦隊を逃した東郷艦隊は、バルチック艦隊に対しては主力艦の昼間の砲撃戦、
駆逐艦、水雷艇隊による夜間の機雷戦や魚雷戦、 主力艦による残存部隊の追撃戦、
ウラジオストク沖での昼戦や機雷戦など、五島列島沖からウラジオストック沖まで7段にわたる連続的作戦を計画していた。5月27日午前5時5分に、仮装巡洋艦信濃丸から「敵艦見ユ二〇三地点」との電報を受けると、東郷連合艦隊司令長官は6時5分に、旗艦三笠を先頭に第1・第2艦隊(戦艦主力)を率いて鎮海湾を出撃し、第3艦隊(海防艦・巡洋艦主力)が対馬の尾崎湾を出撃した。

午後1時39分にバルチック艦隊を視認すると、東郷司令長官は1時55分に三笠のマストに「興国の興廃此一戦にあり各員一層奮励努力せよ」とのZ旗を掲げた。
2時5分にはバルチック艦隊の前方で北北東に150度の大変針をし、同航態勢として2時10分に射撃を開始した。距離は6400メートルであった。これが有名な「東郷ターン」であり、T字戦法であった。
一方、バルチック艦隊の38隻の艦艇は3列縦隊で、中央列が旗艦スオロフを先頭に第1戦艦戦隊と、その後ろに第1巡洋艦戦隊、左列に旗艦 36式無線機 オスラビアを先頭に第2戦艦戦隊、続いて旗艦ニコライ1世を先頭とする第3戦艦戦隊、右列には第1・第2巡洋艦戦隊、第1・第2駆逐隊、それに補給艦などの特務艦船が続いていた。このような複雑な陣形となったのは、単縦列を下令したが旗艦スワロフの速力が遅く、第1戦艦戦隊の4番艦アリヨールが第2戦艦戦隊の1番艦オスラビアと重なり、2番艦シソイ・ウェリーキーなどは速力を停止し、第2・第3戦隊は速力を微速にするなど陣形変換の混乱の直中にあったからである。
2時18分には三笠が、25分には浅間が被弾し浅間が列外に出たが、砲撃の正確さと砲弾の破壊力で日本海軍が優っていため、午後2時20分には第2戦艦戦隊の旗艦オスラビアが艦首と中部に被弾して艦首が沈下し、中部に火災が発生し列外に出たが、2時40分には横転し沈没した。2時26分には旗艦スオロフが被弾して舵が故障し火焔に包まれながら列外に出ると、2番艦もこれに続いた。さらに2時40分には司令塔に1弾が命中し、ロジェストウェンスキー司令長官が人事不省に陥り、参謀長も艦長も負傷し指揮する者なく、バルチック艦隊の行動は混乱をきわめた。運動の自由を失ったオスラビアは僅かに残った艦尾の75mm砲2門で応戦し、通報艦千早や第4・第5駆逐隊の魚雷を回避していたが、7時30分に第11水雷艇隊の魚雷3発を受けて転覆し轟沈した。火焔に包まれながら僅かに残った2門の中口径砲で応戦したスオロフの戦闘を『明治三十七八年海軍戦史』は次のように讃えている。

火焔に包まれ列外に逸出たる「スワロフ」は、なお行進を続けたるも間もなく前部マストが折れ、煙突も破壊され全艦火焔に包まれたる惨状は何人も戦前の形態を想像することは出来ないであろう。しかも「残存スル艦尾砲を以テ敢テ戦イヲ挑ミ死力ヲ尽クシテ我ニ対抗セン」とした行為は「実ニ旗艦ノ面目ヲ発揮シタルモノト称スベシ」。その他のバルチックは被害を受けて北方に逃走しつつあったが、4時30分には輸送船ルーシが沈没し、イルツイシが大破、午後5時55分には同じく輸送船ウラールが、7時10分にはカムチャッカが沈没した。
一方、戦艦アレクサソドル三世は傾斜が増加し午後7時に横転沈没し、戦艦ボロジノは燃えながらも嚮導艦として北に向かっていたが、刻々と傾斜を増して8時30分には火薬庫に引火して爆沈した。午後7時30分に東郷司令長官は主隊による戦闘の終結を令し、翌朝の決戦のために鬱稜島沖に向かうよう指示した。一方、北方に逃走するバルチック艦隊には駆逐隊5隊(21隻)と水雷艇8隊(32隻)が追跡し、駆逐艦14隻と水雷艇15隻が襲撃に成功、約50本の魚雷と敵の艦首に4個の機雷を結び付け放流し、触雷させる連鎖機雷6組を放流し、魚雷で装甲巡洋艦ナヒーモフと戦艦シソイウェリーキ、放流連鎖機雷で戦艦ナワインを撃沈し、この日の海戦で事実上バルチック艦隊は潰滅された。翌日、バルチック艦隊は数隻ずつの小艦隊に分かれて北上していたが、連合艦隊は午前9時半に戦艦ニコライ1世、アリヨールなど4隻を発見、約1時間の砲戦ののち、第3戦艦戦隊の司令官ネボガトフ少将は降服した。降伏し捕獲された軍艦は、戦艦ニコライ1世、アリヨール、海防艦アドミラル・アブラクシン、アドミラル・セニャーウィンであり、別に負傷したロジェストウェンスキー中将を移乗させた駆逐艦ベドウイも駆逐艦漣に捕獲された。
2日にわたる海戦で、バルチック艦隊を構成していた戦艦8隻中6隻が沈没し、
2隻が捕獲され、 装甲巡洋艦5隻が沈み1隻が自沈し、 巡洋艦アルマーズがウラジオストクに、
アウロラなど巡洋艦3隻がマニラに、駆逐艦は9隻中の5隻が撃沈され、 2隻がウラジオストクに、1隻が上海に逃れ1隻が拿捕され、バルチック艦隊の38隻中でウラジオストクにたどり着いたのは、巡洋艦アルマーズと駆逐艦2隻と輸送船1隻だけであった。この敗北はレーニンの言葉を借りるならば、「ロシア帝国のように巨大な、それと同様の馬鹿げた無能の怪物」は「完全に撲滅」されたのであった。なお、ロシア海軍の人的損害は1万6171名中、戦死5046名(36・2%)、負傷者809名、捕虜6106名(37・8%)、1862名が中立国で抑留された。日本海軍の損害は水雷艇3隻(2隻は衝突、1隻は砲火)が沈没し、戦死116名、負傷538名であった。
海軍作戦の見直しー小艦艇の活躍と日本海海戦
日露戦争といえば日本海海戦、三笠以下の戦艦部隊の大胆な敵前直角回頭を読者の多くは思い浮かべるであろうが、日本海軍の勝因の一つに小艦艇の活躍があった。日本海海戦の兵力を比べると、ロシア海軍は戦艦8隻、装甲巡洋艦3隻、海防艦3隻、巡洋艦6隻、迎え撃つ日本海軍は戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、海防艦2隻、巡洋艦16隻、駆逐艦21隻、水雷艇41隻で、戦艦や巡洋艦などの大型艦艇についてはほぼ互角であり、日本海軍が優勢なのは駆逐艦と水雷艇であった。しかし、これら駆逐艦や水雷艇が禿鷹のように戦艦や装甲巡洋艦などに襲い掛かり止めを刺したのである。この状況を『三十七八年 明治海戦史』は次のように書いている。
第3駆逐隊の薄雲は敵艦に接近し過ぎて「衝突セントシタ」が、「僅カニ免レ」激しい銃撃を受けながら、200メートルまで接近し魚雷3本を発射し、2番艦の霞や3番艦の薄雲は衝突を避けるため、敵の隊列間を横切って「敵艦トノ衝突ヲ辛ジテカワシ」、300メートルから魚雷を発射した。日本海海戦の敵前直角回頭について、1909(明治42)年に刊行された海軍軍令部編纂の『明治三十七八年海戦史』には次のように書かれていた。5月27日午後1時39分に敵を発見、「爾後、適宜ノ運動ヲ為シ」、2時2分に「南西微西ニ定針シ先ツ敵ト反航スル姿勢ヲ示シ」、3分後に距離8000メートルで「急ニ東北東ニ変針シ、以テ敵ノ先頭ヲ圧セントセリ」。2時8分に2番艦の敷島が回頭を終わり、新針路となったのは距離7000メートルで、この時に先頭のスオロフが発砲し、他艦もこれに続き、「忽ニシテ全砲火ハ我カ先頭ノ両艦ニ集注シ、巨弾雨ノ如ク艦ノ四周ニ落下」した。しかし、「我ハ猶ホ自重シテ応戦セス」。2時10分、距離6400メートルに至り「第一弾ヲ発射セリ時ニ二時一0分ナリ」。

この東郷ターンについて、ロジェストウェンスキー中将は、日本艦隊の大角度変針は「実ニ意想外」であり、「甚シク乗員ヲ歓喜セシメタ」。これは東郷艦隊の12隻の艦艇がわが艦隊の弾着距離内で一定の航跡を通過し、絶好の射撃機会を提供するからである。また、『露日海戦史』には「スウォーロフ」が第1弾を発射したときに三笠は回頭を完了した時であり、スワロフが第1発を発した時の三笠の位置が、射撃上の「連続不動点トシテ存在シ」、わが第2艦隊の「好目標」となり、仮に日本艦隊が最大速力16ノットで航走するならば、「一〇分間ヨリ少カラサル時間」、わがが全艦隊の左舷側砲火の全部と大口径砲の全部に射撃の好機を与えるはずであった。しかし、わが艦隊の「射撃術ノ拙劣」から、この「有利ナル状況」を与えられたにも拘わらず、「沈着ニ利用スル能ハサリキ」。イギリスのネルソン提督も一時の「発砲ノ自由ヲ失フノ不利ヲ顧ミズ」に、致命的危険といわれた「敵ノ縦貫射撃ヲ冒シ」て、トラファルガルの海戦に勝利したが、東郷提督とネルソン提督の「策戦ガ恰符節ヲ合シ」、「賢明ニシテ旦勇敢ナル行動」により勝利を得たと東郷ターンを評価している。
これが日本海海戦の敵前大回頭の日露海軍の記述で、『明治三十七八年海軍戦史』には「T字戦法」や「丁字戦法」の言葉はなく、淡々と時系列に従い戦闘が記述されていた。また、現実問題として敵艦隊の前方で直角になるのは短時間であり、実際にロシア海軍が撃滅されたのは甲州軍学の「車掛かりの攻撃」、英語で書くならば“Rotaiting
Attack”により、敵艦隊を中心にして回転しながら全砲火を集中し壊滅したのである。この「円形戦法」は日露戦争前に海軍大学校教官の島村速雄大佐(のち大将・海軍大臣)や、山屋他人中佐(のち中将・皇后陛下の曾祖父)などが開戦前から研究していた円形陣形の変形であり、この砲戦運動は連合艦隊で行われていた戦法であった。しかし、時の経過と共に駆逐隊や水雷艇隊の肉薄攻撃は風化し、三笠艦橋の東郷大将の勇姿と敵前直角回頭が小説やドラマとなり歴史となっていったのである。
ロシア海軍から見た敗因

『露日海戦史』は、古來幾多の戦争には幾多の軍事上の法則があるが、戦敗は主将が自から敗者なることを覚知した時に始まるというのは戦場における「一貫不変ノ法則ナリ」。ロジエストウエソスキー中将は「戦ハスシテ既ニ敗者タルヲ自覚セリ」。彼は「毫モ成功ノ予感ナク交戦地帯」に入り、その行動は最初から守勢的で何等積極的に指揮せず、「成敗ヲ一ニ運命ニ委シタルノ観アリ」。戦勝の機は戦場を制する権力を把握する時に始まる。故に主将たるものは「之ヲ獲得スルタメニ渾身ノ精カヲ消耗シテ惜マズ」、如何なる「流血モ如何ナル犠牲モ辞セサルノ覚悟ヲ要ス」。然るにこのように重要な「制戦ノ権」をロジェストウェンスキー中将は「何等代償ヲ求ムルナク実ニ簡単ニ、且容易ニ東郷提督ノ磨下ニ捧ケタリ」。このため日本軍は意のままに、あたかも「予定ノ演習ヲナスカ如ク」戦いを進めた。
日本海軍が主導的に対応できたのは、哨戒艦がバルチック艦隊を発見し無線通信により情報を得たことにあったが、その端緒となったのが病院船の航海灯であり、その後に日本海軍が刻々と情報を得て有利な体勢で待ち受けられたのが無線通信であった。バルチック艦隊が強力な無線機を保有しながら妨害しなかったのは、ロジェントスキー中將の「容認スヘカラサル失策ナリ」。また、日本海軍は三個の艦隊に分け、各隊指揮官に独立的行動を取らせたが、ロジェストウェンスキー中将は12隻の戦艦を直接指揮し、各級指揮官の柔軟な戦闘指揮を阻害した。また、各艦の特質を無視し巡洋艦には運迭船の護衛を命じ、駆逐艦には人命救助を命じていた。このため駆逐艦などは「救助艦タルノ任ヲ尽シ」たるに過ぎずと任務割り当ての不適切を非難している。
ロジェントスキー中将は「意志強健」で「剛胆又職務ニ忠実」で、「補給経理ノ才アルモ、悲哉軍事上ノ知識皆無ナリ」。ヨーロッパから対馬海峡への遠征は、「実ニ空前ノ壮挙ナリ」とするも、「一度戦闘場裡ノ指揮官」となると、「何等軍事上ノ才略ナク」、戦闘に対する準備も指揮も「実ニ拙劣ヲ極メタリ」。「敵ニ最初ノ一撃ヲ加エン為ノ展開」や、「戦闘中ニ於ケル行動ニ就テモ何等討究スル所ナ」く、「一モ積極的ニ行動シタル迹ナシ」。ロジェントスキー中将は「思慮浅薄ク而モ何等ノ定見ナキ行動ヲ以テ終結シ」、作戦計画は「極メテ杜撰」で、その指揮は戦闘中や準備中を問わず、「全然正当ナルヲ発見スル能ハス」。沖縄沖では石炭を搭載中の1時間半の間に精神的に過敏となり、旗流信号を50回も掲揚し指示を連発したことをあげ、「如何ニミ奮セルヤヲ察スルニ足ルベシ」と批判はとどまることをしらない。
しかし、麾下の艦長や将校の多くは、軍人としての手腕は遙かにロジェントスキー中将より優れ、「克ク其任ヲ尽シ、軍艦ノ名誉ヲ後世ニ残シタ」と讃え、スォロフ、ボロジノ、アレクサンドル3世など10数隻の艦艇の名前を列挙し、これらの艦艇の奮戦は「永久ニ我露国海軍ノ亀鑑」となるであろうと讃えている。
一方、ロシアの『露日海戦史』は、日本海軍の勝因は艦艇などの武器だけでなく、艦隊の構成や多年にわたる連戦連勝で高められた技量と「士気ノ旺盛ナル」こと、各級指揮官間の統率関係は明確で、「部下ハ許サレタル範囲内デ独断事ヲ処スル」ことができた。各戦隊の連携は実に見事で、各級指揮官は上級指揮官に対し、「自由ニ各自ノ意見ヲ陳述セリ」。「各戦隊ノ協同動作ハ実ニ完全ナリ」。要するに日本の提督は「相互間ニ嫉妬ノ念ナク」、同階級同僚間に往々見られるような「他ヲ排シテ自己ノ功名ヲ立テントスル如キ嫌忌スヘキ傾向」なく、「相互間ノ支持完全ナリ」と日本海軍の人間関係の見事さを指摘している。これに対しバルチック艦隊の人間関係は冷たくロジェストウェンスキー中将を司令官や艦長が訪問しても、「無愛想ナル態接、時ニ侮辱的態度ヲ以テ応接セラレ、屡々叱責セラルヲ常トセリ」。このため「艦長ノ多クハ中将ヲ虞レ」、「残酷ニシテ屈辱的ナル態度」と、全艦隊宛の「信号ヲ以テスル苛酷ナル叱責ヲ恐レタリ」と『露日海戦史』には記されている。

さらに、同書は日本海軍の優越した技量は対馬海戦に先立ち、「訓練セラレタル処少ナカラス」。また、日本海軍が旅順港攻囲中に得た遠距離射撃、通信連絡、交戦中の応急修理、各戦闘員の鍛錬など、「彼ニ余アリテ我ニ欠如スルモノ枚挙ニ遑アラス」。日本海軍の行動は極度に各部隊、艦艇の特徴を「発揮シ之ヲ善用スルニ於テ殆遺憾ナシ」。モロトケの門下たる彼等は「頗ル大胆」に行動し、「迅速ニ且確信ヲ以テ要所ニ集中スルヲ得タリ」。戦術は戦略目的と合致し、偵察と前進や戦闘序列は実戦と「照応シテ些ノ遺憾ナカリキ」。アジアの児たる日本人は「巧ニ祖先伝来ノ鉄腕緊縛ノ戦法ヲ用ヒテ敵ヲ撃滅セリ」。これはネルソン提督のトラフアルガーの海戦、テゲトフ提督のリツサの海戦の成功にも対比されるべき海戦であると、日本海軍を高く評価している。