西欧中心史観を震撼させた日本の勝利

海戦は世界でどう報じられたか
 駐英林薫大使は「我戦勝ノ偉大ナルコトハ深ク欧洲ノ民衆ヲ感動セシメ」、各新聞は「海戦ノ結果ヲ驚嘆スルノ外ナキナリ」と報告したが、バルチック艦隊の38隻中、ウラジオストクに入港できたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻、それに輸送船1隻に過ぎず、戦艦2隻と砲艦2隻、駆逐艦1隻が捕獲され、艦隊の司令長官ロジェストヴェンスキー中将が捕虜となるなど、日本海海戦は世界の海戦史上に類を見ない完全勝利であった。
英国では「デーリー・メール」が「『トラファルガル』ノ戦勝ヲ凌駕ス」とのタイトルで伝え、「ロンドン・タイムズ」は次のように伝えている。

 今やロシアは海軍国たる地位を失した。ロシア皇帝は敗北を認め「国内ノ改革」に従事すべきである。「今ヤ百計既ニ尽キ」戦争を「継統スルノ望全ク絶ヘタ」。戦争を継続するならば極東だけでなく、ヨーロッパにおいても影響力を失うに至るであろう。いまだに和平の動きがないのは「露国ノ為ニ誠ニ惜シム」。また「スタンダード」は「今ヤ露国ハ極東ニ基地ヲ恢復スルノハ絶望」であり、この「大敗ハ露国ニ平和ヲ促ス」好機であり、ロシアは真剣に平和を考慮し講和に応じるべきであると報じ、さらに、日本と英国の同盟継続を妨げ、あるいは英国が同盟から生じる「一切ノ責任ヲ負ハントスル」のを阻止する「挙ニ出テントスルカ如キ」国は、国策を「誤ルモノト謂フヘキナリ」と独仏の動きを牽制した。

 一方、米国では「ニューヨーク・タイムズ」が、日本の勝利は「文明ノ凱旋」であり、「迷信ニ惑溺」し、「宗教ノ故ヲ以テ人ヲ虐クル」国の「金城鉄壁ヲ破壊セルモノナリ」。「人類自由進歩ノ最大障碍物」が崩壊し取り除かれた。スラブ種族とアングロサクソン種族間に、20世紀には決死の争闘が起きるとナポレオンが予言したが、それが事実となった。なぜならば日本がアングロサクソン種族の理想の「正当ナル承継者」であり、その「発展者」であるからである。ロシアの敗北を世界が喜ぶのは、世界がロシアの「目的卜政略ヲ悪ミ」平和を欲しているからである。「小嫗勇敢ナ日本人」の「武勇ヲ称揚シ、策略ノ巧妙ナルヲ驚嘆シ」、「万歳ヲ唱フルモノナリ」。「矮小なダヴィドが巨大なゴラィアスに勝った」と報じた。

 しかし、ハースト系の新聞の「ニューヨーク・サン」は言う。日本海海戦は「世界ノ海戦史上ニ類例ヲ見サル偉業ナリト云フモ過言ニ非ス」。日本が欧州諸国に門戸を開いたのは50年前であったが、その制度文物の模範を西洋に採ってからは僅か25年しか経っていない。しかも海軍を創設したのは僅かに10数年前である。しかるに日本はすでに大陸で至大なる陸軍国に勝ち、さらに今日、日本海海戦によって一挙に世界の海軍国中で卓越した地位を占めるに至った。米国海軍はマニラ湾やサンチヤゴ沖でスペイン艦隊に勝ったが、それは日本海軍のように「自ラ損害ヲ被フルコトナクシテ能ク戦勝ノ功ヲ収メタ」ものではない。もし日本海軍がこの勝利に乗じてさらに増強されるならば、英国海軍が凌駕されるのも遠くはないであろう。米国海軍が日本海軍に当たり得るであろうか。5月27、28日両日の海戦は、20世紀に於ける文明世界の態勢を大きく一変した」と警戒心も見せていた。

「戦うべし」とのロシアの新聞
 
 ロシアでは日本海海戦の敗北は5月30日までは公表されなかったが、5月31日に公表されると、各新聞は異口同音に「激烈ナル語調」で、「戦闘指揮上ノ過失ヲ指摘シ」責任を追及するものの、海戦には敗れたが陸軍は殆ど「致命的影響」なく、現在の国内的危難を乗り越える唯一の方法は、「陸海ノ残力ヲ巧ニ使用」して勝利を挙げ「名誉アル講和」に持ち込むべきであると戦争継続を訴えた。特に「ノーヴォエ・ヴレーミャ」紙は外国の新聞・雑誌や、外国の為政者たちが対馬海峡の大惨事から生ずる結果を議論し、少しでも早く講和条約を結ぶよう忠告している。現在の戦争に限って言えば、わが海軍が今後は軍事上で何らの影響も与えることはできない。….しかし、艦隊を失うことは強力な助手を失うことだが、助手は助手である。ロシアの威力は常に陸軍にある。自殺することはいつでもできるように、屈辱的な講和ならいつでもできると戦争の継続を主張した。

 また、「ジョルナル・ド・サン・ペテロスブルグ」紙は、われわれを襲った新しい不幸は厳しい。しかし、朝鮮海峡の戦闘は戦争の終わりではない。この戦争はロシアにとって歴史的な仕事であり、戦局がいかに困難であろうとも、敵に打ち勝たねばならない。ロシアが武器を置くのは勝利のときだけであり、傲慢不遜な敵が押しっける屈辱的な講和条約など、ロシアは絶対に調印しないだろう。このように、多くの新聞はバルチック艦隊は敗北したが、陸上における「戦争ノ継続ヲ不可能」するものではない。満洲には50万の兵がいると、戦争の継続を主張し講和会議のテーブルに付くべきであるという新聞はなかった。

 一方、レーニンは日本海海戦の敗北を知ると、革命派の機関紙『プペリヨード』に「殲滅」という題で次のように書いた。

 朝鮮海峡における海戦は全世界の注目を惹き付けた。ツァー政府は当初、自分の忠良な臣民たちに苦い真実を隠そうと試みたが、まもなく、そうした試みが絶望的であることが確信されるにいたった。全ロシア海軍の完全な殲滅を覆い隠すことは不可能なことであった。帝政ロシアの完全な軍事的挫折は、あの時(旅順陥落)すでに明確になったが、バルチック艦隊はまだロシアの愛国主義者たちに希望の影を感じさせていた。誰もが、戦争の最終的結末は海上における勝利にあると理解していた。専制政権は戦争の不幸な結末は「国内の敵」の勝利、すなわち、革命の勝利に等しいものと見ていた。それ故、全兵力を賭けた。しかし、最後の切札も破られた。ロシア艦隊はまるで野蛮人の群のように、素晴らしく武装され、最新の防御手段を施した日本艦隊に向かって真っ直ぐに飛び掛かった。かくして惨敗し司令長官が捕虜にされた。ロシア海軍は完全に殲滅された。……われわれの前にあるのは、単に軍事的敗北ではなく、専制政権の完全な軍事的破滅なのだ。国内には講和の要求が高まり、……ツァー政権の最も忠実な支柱も支持も失い始めている。国際関係における不可避の再編成、若い新鮮な日本の威力の増大、ヨーロツパにおける軍事同盟の喪失が、ブルジョアジーを恐怖に陥れている。……専制政権は冒険主義によって国民を馬鹿げた屈辱的戦争に投げ込んだが、政権はいまや終末の前に立たされている。……戦争は峻厳な裁判所であった。国民は既に、この乱暴者どもの政府に自分の判決を宣告した。革命は、この判決を執行するであろう。
このような国内の革命運動の高まりや諸外国の動向などから、ツァーは講和会議のテーブルにつかねばならなかったのである。

ロシア海軍の将帥たち

 次にロシア海軍が日本海海戦を、どのように記述しているかを帝政時代にロシア海軍軍令部が編纂した『千九百四、五年 露日海戦史(復刻・芙蓉書房出版)』から見てみたい。しかし、なぜ、90年も前の史料で紹介するのか、それは本書が書かれたのが日露両国が同盟関係(第4次日露協商)の時代で、極端な反日感情に影響されていない史書であり、また、その後のロシアの史書は殆どがイデオロギーに汚染され改竄されているからである。ロシア海軍が日本海海戦に敗北した理由については多々列記されているが、特に本書で目に付くのがバルチック艦隊司令長官ロジェストヴェンスキー中将(以後ロ中将)への批判である。戦争には幾多の法則があるが、敗戦は主将が自ら敗者なることを「覚知シタ時ニ始マル」というのは戦場における「一貫不変ノ法則ナリ」。ロ中将は「戦ハスシテ既ニ敗者タルヲ自覚セリ」。彼は「毫モ成功ノ予感ナク交戦地帯」に入り、その行動は最初から守勢的で何等積極的に指揮せず、「勝敗ヲ一ニ運命ニ委シタルノ観アリ」。ロ中将は日本海海戦において、「制戦ノ権」を何等の代償を求めることなく「実ニ簡単ニ東郷提督ニ捧ケタリ」。このため日本海軍は意のままに、あたかも「予定ノ演習ヲナスカ如ク」戦いを進めた。

 ヨーロッパから対馬海峡への遠征は「実ニ空前ノ壮挙」であり、ロ中将は「意志強健」で「剛胆又職務ニ忠実」で、「補給経理ノ才」もあった。しかし、「悲哉軍事上ノ知識皆無」で、対馬海峡突破対策については、「敵ニ最初ノ一撃ヲ加エン為ノ展開」や、「戦闘中ニ於ケル行動ニ就テモ何等討究スル所ナ」く、作戦計画は「極メテ杜撰」であった。ロ中将は「一度戦闘場裡ノ指揮官」となると、「何等軍事上ノ才略ナク」、戦闘に対する準備も指揮も「実ニ拙劣ヲ極メ」、「全然正当ナルヲ発見スル能ハス」。また、麾下の司令官も「全部消極的」であり、「一モ積極的ニ行動シタル迹ナシ」と批判している。さらに、ロ中将は司令官や艦長に戦局の推移や作戦などを「悉ク知ラシム」必要はない。部下は「総テ単ニ命令ニ盲従スベキ」であると、12隻の戦艦を直接指揮し、各級指揮官の柔軟な戦闘指揮を阻害した。また各艦の特質を無視して巡洋艦に輸送船の護衛、駆逐艦に「救助艦タルノ任」を与えたため、巡洋艦や駆逐艦本来の戦闘力を発揮できなかった。

 次に非難されているのが降伏した第3戦艦戦隊司令官ネボガトフ少将で、如何に敵が有力であっても、わが艦隊の名誉のために「碧血ヲ流スモ決シテ無益ニハアラサルナリ」。古来、戦士の名誉ある死は、「独リ国民ノ士気ヲ鼓舞スル」だけでなく、「子々孫々迄モ及スモノナリ」。将兵の勇敢な模範的行動は、幾世紀を経るも「国旗ノ名誉ト共ニ永久ニ朽チス」。これに反して不名誉な降伏は後世にまで兵士に「臆病ノ因ヲ播クモノナリ」。ネボガトフ少将は降伏して2400名の命を救った。しかし、「露国民ハ感謝セシヤ」「露国ノ歴史ハ之ヲ是認シタルヤ」と非難している。一方、麾下の艦長や将校の多くは、軍人としての手腕は遥かにロ中将より優れ、良く任務を全うし「名誉ヲ後世ニ残シタ」。特にスオロフ、ボロジノ、アレキサンドル3世、グロムキーなどの奮戦は「永久ニ我露国海軍ノ亀鑑」となるであろう。また、将兵は「最後迄重任ヲ果タシテ、芳名ヲ後世ニ垂レタモノ枚挙ニ暇アラス」。これらは「我勇将猛卒ノ名誉アル戦死」とともに、「不名誉ナル敗北ト数隻ノ軍艦」が降伏した屈辱を償ってあまりあるものであると讃えている。

ロシア海軍から見た日本海軍

 日本海軍の勝因は艦艇などの武器だけでなく、艦隊の構成や多年にわたる連戦連勝で高められた技量と「士気ノ旺盛ナル」ことにあった。各級指揮官間の統率関係は明確で、「部下ハ許サレタル範囲内デ独断事ヲ処スル」ことができた。各戦隊の連携は実に見事で、各級指揮官は上級指揮官に対し、「自由ニ各自ノ意見ヲ陳述セリ」。「各戦隊ノ協同動作ハ実ニ完全ナリ」。日本の提督は「相互間ニ嫉妬ノ念ナク」、同階級同僚間に往々見られるような「他ヲ排シテ自己ノ功名ヲ立テントスル如キ嫌忌スヘキ傾向」なく、「相互間ノ支持ハ完全」であった。 これに比べてロ中将は、司令や艦長などが訪問しても「無愛想」であるだけでなく、「時ニ侮辱的態度ヲ以テ応接セラレ、屡々叱責セラルヲ常トセリ」。このため「艦長ノ多クハ中将ヲ虞レ」、「残酷ニシテ屈辱的ナル態度」と、全艦隊宛の「信号ヲ以テスル苛酷ナル叱責ヲ恐レタリ」。

 一方、日本海軍の優越した技量に付いては次のように述べている。対馬海戦に先立ち、「訓練セラレタル処少ナカラス」。日本海軍の射撃、通信連絡、交戦中の応急修理、各戦闘員の鍛錬など、「彼ニ余アリテ我ニ欠如スルモノ枚挙ニ遑アラス」。彼等は「頗ル大胆」に行動し、「迅速ニ且確信ヲ以テ要所ニ集中スルヲ得タリ」。戦術は戦略目的と合致し、偵察と前進や戦闘序列は実戦と「照応シテ些ノ遺憾ナカリキ」。アジアの児たる日本人は「巧ニ祖先伝来ノ鉄腕緊縛ノ戦法ヲ用ヒテ敵ヲ撃滅セリ」と讃えている。
また、敵前直角回頭の「T字戦法」については、日本艦隊の大角度変針は、わが艦隊にとっては「実ニ意想外」であり、また「甚シク乗員ヲ歓喜セシメタ」。これは東郷艦隊の12隻の艦艇がわが着弾距離内で一定の航跡を通過し、戦艦スオロフが第1弾を発射した時の三笠の位置が、射撃上の「連続不動点トシテ存在シ」、わが全艦隊の左舷側砲火と前部の大口径砲の全部に射撃の好機を与えるからであった。しかし、わが艦隊の「射撃術ノ拙劣」から、この「有利ナル状況」を利用することができなかった。英国のネルソン提督も致命的危険といわれた「敵ノ縦貫射撃ヲ冒シ」、トラファルガルの海戦に勝利したが、東郷提督とネルソン提督の「策戦ガ恰符節ヲ合シ」、「賢明ニシテ旦勇敢ナル行動」により勝利を得たと賛辞している。

世界が報じた日本海戦の勝因
 
 英国の「タイムズ」は日本の勝因は「武士道」にあるとし、次のように報じた。
日本海軍の目的は単にロシア艦隊を打ち負かすことだけではなく、これを撃滅することだった。バルチック艦隊は東郷艦隊の前ではドッガーバンクで砲撃を受けた漁船のように無力だった。しかし、東郷艦隊の勝因は軍艦にも、砲にも、乗組員の熟練度にも、戦術の巧拙にも求められない。兵士の精神的資質や高遠な理想、やむにやまれぬ熱情や責任感と愛国心などに求められるべきだ。部下たちがこのような精神的資質を持っていなければ、東郷はかくも野心的で大胆な戦術を敢行し得なかったであろう。対馬海戦の勝利は義に生きる武士道によってもたらされたものであり、これは鍛錬を重ねたことによってもたらされたものだ。イギリス国民は経済的利益ばかり追求せず、もっと偉大な精神的な理想というものがあることを深く認識すべきである。

 アルゼンチンの観戦武官のガルシア大佐(のち大将・海軍大臣)は「ある人は日本海海戦の勝利は海軍軍人のみならず、日本人すべての努力によるものであるといった。これは疑いのないことであり、対馬においてロシア艦隊を敗北させた日本人ほどの熱烈な愛国心を有する国民を他に見出すことは困難であろう。呉や佐世保の海軍工廠において、修理中の水雷艇の船体に鋲を打つ慎ましい工員から、最高責任者という高い地位にある提督に至るまで、すべての国民が祖国日本に奉仕するために任務を遂行していると自覚していた。このような考えや感情は、軍事を中心とする領域に止まらず、日本の国家全体に及んでいた」と報告したが、国家指導者も国民の先頭に立っていた。総理大臣を4回も務めた元勲の伊藤博文は、もしロシア軍が日本に上陸してくるならば、銃を取って一兵卒として死ぬ覚悟であると側近に語っていた。陸軍では元帥に昇任し参謀総長となっていた大山巌が参謀総長を辞して下位の満州軍総司令官に、陸軍大臣兼内務大臣や文部大臣を務めた児玉源太郎大将が参謀本部次長を辞任して、満州軍総参謀長となって大山元帥を支えた。このように、当時の指導者は栄誉も地位も捨て、2階級も3階級も下に身を置き国家のために戦ったのであった。

 金子堅太郎から新渡戸稲造の『武士道―日本の心』を贈られたルーズヴェルト大統領が、30冊を購入し3冊を息子に、残りを政府要人などに配ったことは有名であるが、『武士道』は6年間で10版を重ね、現在も米国では『武士道』や『葉隠』などの武士道に関する本が10数冊も販売されている。また、大隈重信から旅順攻略作戦の体験が書かれた『肉弾』を贈られたローズヴェルト大統領は、その著者で、陸軍中尉に過ぎない桜井忠温に「貴下の英雄的行為は、一朝有事の際に国家に尽くすべき青年を鼓舞するであろう」との礼状を書いたが、『肉弾』は英語、フランス語、ドイツ語、アラビア語など7カ国語に翻訳され、現在もアマゾンでは五星の評価を読者から得ている。新渡戸は『武士道』で「義」は人体の「骨格」であり基盤である。人がいくら才能や学問があっても、「義」がなければ武士ではないと説いたが、この『武士道』や『肉弾』から自律心や犠牲的精神、愛国心などを学んだアジア、アラブ、アフリカなどの指導者が身を呈して人種平等や民族国家独立運動の先頭に立ったのであった。

変転するロシアの日露戦争観

 レーニンは戦争が始まると機関紙「プペリョード」に、日露戦争の原因はロシアの満州や朝鮮への野望であったと次のように書いた。
「戦争が始まった。ロシアの労働者と農民は、何のために日本人と戦っているのか? ロシア政府が略取した新しい土地『黄色いロシア(中国北東部)』のためである。ロシア政府は諸外国に中国の不可侵性を守ることを約束したが、その約束を履行しなかった。ツァー政府は軍事的冒険に暴走し、後戻りすることが不可能になった。『黄色いロシア』には要塞と港湾が造築され、鉄道が敷設され、何万の兵隊が集結された。が、ロシア国民にとって、一体、何の利益があるのか?」

 このためレーニン時代の教科書には「日本を憤激させた有力な山師たち(ベゾブラーゾフ一派のこと)の朝鮮における強盗的な目論見が戦争への誘因を与え、それらが作り出した雰囲気の下に、1904年1月14日(ロシア歴)に交渉が決裂し戦争が勃発するに至った。ロシア艦隊に対する成功的襲撃は、日本に対して制海権を保障した」と書かれていた。しかし、東京湾のミズリー艦上で日本が降伏文書に調印した1945年9月2日、スターリンは次のような演説をした。

「同志、男女同胞らよ。 本日9月2日に日本国民および軍部代表者らは無条件降伏文書に署名した。 海上および陸上において完膚なく撃破された。連合諸国の軍隊によって四方から包囲された日本は、自己の敗者たることを認めて武器を捨てた。.....日本の侵略行為は1904年の日露戦争当時から始まっている。周知の通り、1904年2月、日本とロシアとの間でまだ折衝が続けられていた時、日本はツァー政府の弱体性に付け込んで、不意に、背信的に、戦争の宣言なしに、わが国に襲いかかり、旅順港のロシア艦隊を攻撃した。…..それから37年後に日本は米国に対して、この背信的な手口をそのまま繰り返した。....日露戦争の敗北は国民のなかに重苦しい思い出を残した。 その敗北は、 わが国に汚点を止めた。 わが国民は何時の日にか日本が撃破され、 汚点が払拭される時の到来を信じて待っていた。 40年間、 われわれの古い世代の人々はその日を待っていた。 ついにその日が到来した」。
 このようなことからスターリン時代の教科書には、日本と米国は太平洋地域における公然の侵略に乗り出した、朝鮮を、さらには清国の東北諸州をも掠取し、ロシアの固有領土 ― サハリン島およびロシア領全極東までの侵略を夢見ていた。日本はロシアとの戦争に備えて1902年に英国と同盟を結んだ。1904年の初頭に日本海軍は、戦争の宣言なしに旅順港のロシア艦隊に襲いかかり、第一級の軍艦数隻を隊列から脱落させた。ロシアはツァー政府の失態によって、遠隔の戦線における大きな戦争には全く準備ができていなかった。ロシアの陸兵と海兵のヒロイズムにも拘わらずツァーの陸海軍は敗北を喫し、仰天したツァーは日本の侵略者どもにサハリン島の南半分をやってしまったと書かれ続けてきた。

 その後、ゴルバチョフ大統領の自由開放時代になると、ロシアの歴史は一時的には事実に立脚した中庸な歴史に戻った。しかし、大統領がプーチンに変わると、大国意識から再び愛国史観に戻り、2003年発行の歴史教科書には、「ツシマ海戦はロシア軍事史の汚辱の一ぺージとなり、ロシア国民の国家的自尊心をいたく傷つけた」と変わった。また、2004年1月にはロシア大統領府が主宰する歴史雑誌『ロジナ(祖国の意味)』が日露戦争特集を組んだが、その内容は「日本が奇襲攻撃を仕掛けたから敗北した。もし、宣戦布告があれば負けなかった」とか、「ツァーが講和に応じずに戦争を継続していれば勝てた」などと、スターリン時代と変わらない愛国主義的な論文が並んでいたが、2005年初頭には、エリツィン政権時代の1993年に出版された高校生用教科書『二十世紀の我が国の歴史』を、「一方的かつ否定的で偏見に満ちている」として使用を禁止した。

歴史が変えられてしまった

日露戦争当時の西欧諸国の人種観や国家観は、ダーウインの「弱肉強食」の進化論を国家や民族に適用したスペンサーの「社会進化論」の時代で、有色人種は殺戮されるか、労働者として酷使されるか以外に選択肢がなかった時代であった。日露戦争はアジア、アフリカが完全に欧米植民地支配に飲み込まれ、欧米の圧倒的な植民地化の波が中国大陸、朝鮮半島に迫りつつあった時に、日本が立ち上がり白色人種の植民地支配に歯止めをかけ、さらに有色人種が白色人種に対して初めて反攻に転じた戦争であった。

 アルゼンチンのガルシア大佐は「トラファルガー海戦はヨーロッパをナポレオンの支配から救い、日本海海戦はアジアをロシアの支配から救った」海戦であったと評価した。当時は、これが世界の日露戦争に対する一般的な史観であった。しかし、1930年代以降は、コミンテルン(国際共産主義運動の指導組織)が労働者の祖国ソビエット連邦を守るために、西欧諸国の植民地支配を帝国主義と批判し、「産業の発達や資本主義の伸展が大量の原料と市場を必要とし、西欧諸国は資源と市場を得るために帝国主義的な戦争によって、アジアやアフリカに植民地を確保した」。「日本も資本主義への発展が植民地を必要とし、満州や朝鮮に帝国主義的施策をとることを必然とした」。「露日戦争は最大級の資本主義諸国による領土の再分割のための最初の帝国主義戦争の一つであった」と変わった。

さらに、日本が太平洋戦争に敗北すると、占領軍は日本が二度と米国や世界の脅威とならないようにと、「戦争贖罪計画(GHQ一般命令第4号)」により武器だけでなく精神的な武装解除を強行した。そして、日本人に贖罪意識を植え込むために、GHQ民間情報教育局が作成した『太平洋戦争史』の主要新聞への掲載や、「真相はこうだ」などのラジオ放送を強制し、検閲や公職追放令で反論を封じ、5年間の占領時代に日本の近現代史は一方的に大きく変えられてしまった。その後、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で独立を達成するが、冷戦下には共産主義陣営の歴史攻勢を受け、「近代産業の発展が植民地を必要とし、日本は植民地を求めて満州や朝鮮に進出した」と、日本の教科書はスターリン時代のロシアの教科書と変わらぬ記述に変質した。
 次いで最近では、中国や韓国の攻勢を受け、日本は朝鮮を植民地とし満州を戦場として韓国人や中国人に耐え難い苦痛を与えたと、日露戦争を現在の価値観で評価する自虐的歴史に変質させてしまった。韓国の横槍で日本海が世界地図では「東海」と変わりつつあるが、自虐史観に苛まれた日本では危機感はない。歴史を変えられた平成の日本人が、曾祖父たちが命を懸けて戦い、世界の海戦史を飾っただけでなく、白色人種の支配下にある有色人種に民族独立の夢を与えた、日本海海戦の舞台である「日本海」という名称を守りきれるであろうか。