世界を変えた2冊の本ー
新渡戸稲造の『武士道』と櫻井忠温の『肉弾』
「小猿」と軽視されていた日本
日露戦争当時のロシアの人口は1.3億人であったが、日本は4,400万弱であり1、さらに当時の工業化を示す鉄鋼の生産量は1901年に八幡製鉄所が稼働したが、1904年の生産量は4,1万トンで、ロシアの270万トンの1.5パーセントに過ぎなかった2。また、工業も未発達で主力艦も総てが輸入であったが、海軍兵力は極東ではロシアの19万トンに対し26万トンと有利であった。しかし、ヨーロッパから回航できる艦艇を加えれば約46万トンで日本の1,8倍であった。一方、陸軍兵力に至ってはロシアの戦時動員兵力が207,6万人に対し、54万5000人に過ぎなかった3。
さらに、ロシア側には人種的偏見が加わり、日本軍の兵力や資質を低く見積もり、「ロシア軍の兵1人で日本軍兵3名に当たり得る」と一般には思われていた。このため4年間も日本で過ごしたロシアの陸軍武官ゲ・バノフスキー陸軍中佐は、日本軍は13個師団保有しているが10個師団しか戦場に投入できない」と訪日したピヨトール・クロパトキン大将に報告していた4。また、アレクサンドロヴィチ・ニコライ皇帝は来日時に沿道警備の警官に顔面を斬りつけられたことから、日本人をマカーキー(猿)と書くほど増悪の念を抱き、側近に「あの子猿が敢えて朕に戦争をしかけるなぞと、一瞬たりとも想像できない。帽子の一振りで片づけてしますさ」と語っていた5。この日本軽視は海軍も同様で、1903年の神戸沖の観艦式に参加したロシアの士官は訓練が不十分で、これでは検閲に合格しないだろうと報告し、開戦2ヶ月前に米国アジア艦隊司令官ロブリー・D・エバンス少将が、極東総督ア・エヌ・アレクセーエフア・エヌに日本と戦争になるのかと質問すると、「戦フニ及ハサルベシ」と答え、さらにエバンス司令官が日本の戦力について付言すると、アレクセーエフは「ソレハ紙上ノ勢力」であると「放言」していた。6ロシアの新聞『ノヴォエ・ヴレミア』も「われわれに対する戦争は日本にとって自殺である」と報じていた7。
このような状況であり日本擁護派の代表的イギリス人ジャーナリストのアルフレッド・ステッドも、「日本がちっぽけな国ではないということを、一般の人々に納得させることは不可能だった」。「初期の日本海軍の勝利があっても、この懸念を払拭することはできなかった」。「日本が戦争を始めた勇気も、自らの力を知ってというよりも、向こう見ずとみなされていた」と書いていた。8英国の新聞も日本軍が旅順を攻略しても、「日本がこれから何度も抜け目なく攻撃することは疑いない。しかし、我々は日本がワーテルローに勝利するか、未だに確信が持てない9」と報じていた。それほどロシアの国力、軍事力は卓越していた。しかし、この小国の日本が大国ロシアに勝ったのである。世界は驚嘆し日本を称えたが、次に注目したのが日本の勝因であった。そして、世界は日本の勝因が国民の一致団結の愛国心と明治天皇のリーダーシップにあり、その根底に武士道があると報じた。
日本の勝因は『武士道』
金子堅太郎から新渡戸稲造の『武士道―日本の心 (Bushido-The Soul of Japan)』を贈られたセオドール・ローズヴェルト大統領が、30冊を購入し3冊を息子に、残りを政府要人や友人に配ったことは有名であるが、ローズヴェルトの日本観を形成したのは若いときに読んだ第1回官費留学生・斉藤修一郎が書いた『忠臣蔵(The Royal Ronins)』で10、ローズヴェルトは柔道の練習相手の海軍武官・竹下勇中佐(のち大将)に「この戦争は忠臣蔵である。日本は三国干渉の仕返しをしているのだ」とも語ていた11。この『武士道』は英仏独西伊露中など7カ国語に翻訳され、英語版だけでも6年間で10版を重ね現在もアマゾン(米国)では高い評価を得ており、3種類のバージョンが販売され、その他の武士道に関する解説書も10数冊を数えている12。
日本海海戦の勝利を『タイムズ(1905年5月30日)』は、「東郷の偉大な勝利の最も注目すべき戦闘上の特徴は、重要な軍艦を一隻も失わずに勝ったことである。この海戦の結果、ロシア艦隊は撃滅され、一方の日本艦隊は実質的に戦闘前と全く同じ力を持っているということである」と完全勝利を讃えたが、続いて6月2日には海戦の勝因は「武士道」にあるとし、精神力や愛国心を見習うべきであると次のように報じた13。
日本海軍の目標は単にロシア艦隊を打ち負かすことだけではなかった。これを撃滅することだった。そして、決意したことを成し遂げたのだ。しかし、その理由は軍艦にも砲にも乗組員の熟練度にも、戦術の巧拙にも求められない。精神的性格や高遠な理想、やむにやまれぬ熱情や、あまねく浸透した責任感と愛国心などに求められるべきだ。部下たちが彼の敵と似たような精神的資質を持っていたのであれば、東郷はかくも野心的で大胆な戦術を敢行し得なかっただろう。……対馬海戦の勝利は武士道によってもたらされたものであり、これは鍛錬を重ねたことによってもたらされたものだ。この鍛錬はある特定の目的を与えられたとき、にわかに付焼刃で身につくようなものではない。それは幼年時代から始めなければならないものであり、イギリス国民はしばらく立ち止まって、最も安い市場で買い入れるとか、投下資本に対して最も利益を得るとかいうことよりも、もっと偉大な理想というものがあるのではないかと沈思すべきである。
アルゼンチンから派遣された観戦武官のマヌエル・ガルシア大佐(のち大将、海軍大臣)は、「ある人は日本海海戦の勝利は海軍軍人のみならず、日本人すべての努力によるものであるといった。これは疑いのないことであり、対馬においてロシアを敗北させた日本人ほどの熱烈な愛国心を有する国民を他に見出すことは困難であろう。…….呉や佐世保の海軍工廠において、修理中の水雷艇の船体に鋲を打つ慎ましい工員から、最高責任者という高い地位にある提督に至るまで、全ての国民が祖国日本に奉仕するために任務を遂行していると自覚していた。このような考えや感情は、軍事を中心とする領域に止まらず、日本の国家全体に及んでいた14」と報告したが、国家指導者も国民の先頭に立っていた。総理大臣も務めた元勲の伊藤博文は、金子堅太郎が外債募集に自信がないというと、伊藤は「もしも満洲の野にあるわが陸軍がことごとく大陸から追い払われ、わが海軍が対馬海峡でことごとく打ち沈められ、いよいよロシア軍が海陸から我が国に迫ったときには、伊藤は身を士卒に伍して鉄砲をかついで、山陰道か九州海岸において博文の生命のあらん限りロシア軍を防ぎ敵兵は一歩たりとも日本の土を踏ませぬという決心をしている」。もし、そのようになれば、「わが妻に命じて、時宗と同様に九州あるいは山陰道の海岸において粥を炊いて兵士を労え、そうしてかく言う博文は鉄砲をかついでロシアの兵卒と戦う。かくまで自分は決心している。成功・不成功などということは眼中にないから、君も一つ成功・不成功を措いて問わず、ただ君があらん限りの力を尽してアメリカ人が同情を寄せるようにやってくれ。ぜひ奮発してアメリカに行ってくれよ」と金子堅太郎に語っていた15。陸軍では元帥に昇任し参謀総長となっていた大山巌が、参謀総長を辞して下位の満州軍総司令官に、陸軍大臣兼内務大臣や文部大臣を務めた児玉源太郎大将が参謀本部次長を辞任して、満州軍総参謀長となって大山元帥を支えた。このように、当時の指導者は栄誉も地位も捨て、2階級も3階級も下に身を置き国家のために戦ったのであった。
さらに、講和会議で日本が賠償金を放棄するとステッドは、「ロシアとの戦いに彼らを駆り立てたのは金銭や領土ではなく、大義であることを示すためにポーツマス会議で切腹をしたのである」と書いた。『タイムズ』紙も「日本の古からの騎士道(武士道)精神が、単なる金銭的配慮のために戦争を遂行することを恥とさせたのである。……侍の伝統からすれば、もし今、黄金のために戦うことを命じられたとすれば、彼らの名誉は汚されることになるであろう」と報じた16。
アジアが得た日本の勝因
孫文は日露戦争は「最近数百年間におけるアジア人の欧州人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利は全アジアに影響を及ぼし、アジア全体の民族は非常に歓喜し、そして極めて大きな希望をいだくに至った17」と回想しているが、『新民叢報』は日本の勝利は「日本国民の精神にある」とし、「日本精神の原動力は日本国民の徴兵制度であり、武士道精神であり、政府の武士道精神に対する推奨にある」と書いた。また、『福建日々新聞』は「中国が得た西欧化はケーキ、コーヒー、葉巻に過ぎない」。それに対し「日本の西欧化は西欧の自由思想、独立精神に武士道、大和魂などの国粋を注入することによって助長されたのである」と、日本の勝因が「和魂洋才」にあると論じた18。
フィリピンではマニラ大学法学部の学生が非常に鼓舞され、日露戦争の所見集を成田五郎マニラ領事に贈ったが、オ・ホリリェーノ(後の最高裁判事)は「日本の勝利によって我々東洋人にも新しい夜明けがやってきたと確信した。日本があえてロシアと戦うとは誰も信じていない時に、仕掛けられた戦争を日本が受けざるをえなかったからなおさらである。ほとんど誰も日本の精神力を正当に評価しておらず、降伏する位なら死を選ぶ日本軍の精神を理解していなかった」。「我々は外国の支配者に酷使され苦しめられているが、それは真に積極的な精神が欠けていたからであり、支配者を追放するために必要な勇敢な精神を持つ日本に見習うべきである」と書いていた19。
ベトナムでは独立運動の指導者ファン・ボイ・チャウが『獄中記20』に、「日露大戦の報 長夜の夢を破る」と日露戦争の日本の勝利に覚醒され、わが国民が国を愛し同胞を愛するならば、「フランス人がわれわれを奴隷にできなであろう」と独立運動に生涯を捧げた。そして、「アジアに大国あり。東海に伯気存し、米国の虎やヨーロッパの鯨の横暴に対して、黄人種として初めて歯止めをかけた。なぜ日本がそれをなし得たか。答えは東京にある。青年たちよ、日本に行き日本に学べ21」と日本への留学を勧めた。
また、チャウは1907年3月にハノイにトンキン義塾を設立したが、「義塾」と名付けたのは、福沢諭吉の『学問のすすめ』に啓蒙され、慶応義塾に倣って創立したからであった。トンキン義塾はヴェトナムへの近代思想の導入や民族独立意識の高揚に重要な役割を演じたが、特に塾監のグェン・クェンは「農夫も兵士も、役人も苦力もみな力を合わせなければならない。力を合わせなければ独立を達成し、自由を得ることはできない。日本を鑑として平等を実現し、いつの日にか富強の民族日本と肩を並べよう」と街頭演説をしばしば行ったが、開塾半年後にはフランス植民地当局に閉塾を命じられ、クエンは逮捕された22。
一方、ジャワハルラル・ネール首相は「日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった23」と書いたが、インドの新聞『ヒタバディ』は「日露戦争の日本の勝利が西欧に対する幻想を解消した。インドのようなおとなしい羊でも虎に変身できる。我々は羊が虎にはなれないという過ちに気が付いた。日本の勝利がインド人を覚醒し、英国と対等という前向きの思想に目覚めさせた」と報じた24。デリー大学のアール・デュア教授によればインド人は日本の勝利の理由を分析し、それは国家としての団結と国民の忠誠心であり、政府のすばらしさにあると考えた。また、指導者たちは日本の勝利は国家に対する帰属意識、死を怖れぬ強い愛国心、規律、義務教育、同一言語にあると分析し、国民に指導者に従い高い規律を保持し、国家に奉仕すべきであると説いた。そして、日本の勝利がインドの未来に強い希望を、精神的には自尊心と自信を与え、1905年10月には国民議会派がスワデージ(自国産品愛護)、英国製品のボイコット、スワラージ(自治要求)と国民教育促進の4綱領を採択するなど独立への大きなうねりが生まれたという25。
アメリカ黒人への影響
日露戦争で日本に熱狂的な声援を送ったのは米国の黒人であった。ケント州立大学のケアネー・レジナルド氏の学位論文「アメリカ黒人の日本観」によると、黒人の新聞『カラード・アメリカン』紙は日本がアジアの白人優位を覆し、アジア人とともにヨーロッパの支配を吹き飛ばしてくれるであろうと報じた26。詩人のアーチバル・グリンケは「海を越え大陸を越え時代を超え、神の復讐者としてサムライが来た。サムライの刀は黒人、黄人、白人に正義と自由が平等に与えられるまで鞘に納められることはない」との詩を書いた。次いでグリンケは日本人を励まし称える「偶像破壊者」という次の詩を『ニューヨーク・エイジ』紙に投稿した。27
行け、黄色い小さな男たちよ。
そしてロシアを征服せよ。
おまえの恐ろしい刀に覆いを掛けるな。
天罰を加えるまでは、その刀を側に置くな。
汝はロシアを投げ倒せ、汝はロシアを投げ飛ばした。
汝はロシアの誇りを投げ飛ばすことを運命づけられている。
巨大な地球のホコリを、欲望の固まりのロシアを投げ飛ばせ。
一方、黒人の指導者たちは日本軍の勇敢な闘争心と保守性を自助の模範、古いサムライ精神が死を恐れぬ英雄を生んでいると見て、日本軍の規律や勇気、指導者のリーダーシップなどは武士の伝統であり、黒人も学ぶべきであると論じた。特にフィスク大学、ベルリン大学、ハーバート大学に学び、1895年に黒人として最初に博士号を得たウイリアム・E・B・デュボイスは、日本の勝利に覚醒され自信を持ち、有色人種が先天的に劣っているという誤解を日本が打破してくれた。日本を指導者として有色人種は従いわれわれの夢を実現しなければならないと、雑誌『クライシス』を創刊するなど、黒人の人権確立運動の先頭にたった。デュボイスの活動はアメリカ国内にとどまらずアフリカ大陸にも及び、日本がパリ講和会議に人種平等法案を提出すると、パリで最初のアフリカ人会議を開き人種平等を訴えた28。第二次世界大戦後にアフリカの一部の国が独立を達成し、1956年にパン・アフリカ会議が開かれると、「アフリカ解放の父」との称号を得たデュボイスは「鎖のほかに失うものはない!」「取り戻す大陸がある!」「獲得する自由と人間の尊厳がある!29」と90歳にもかかわらず熱弁をふるったが、この会議は文字どおり史上初の全員がネグロと言われるアフリカ人の会議であった。
世界を変えた櫻井忠温の『肉弾』
新井戸部稲造の『武士道』とともに有名なのが旅順攻略作戦の体験を書いた櫻井温忠の『肉弾(米国版はHuman Bullets、その他の国はNikudan)』で、この本は英語、フランス語、ドイツ語、アラビア語など15カ国語に翻訳された。1996年にはネブラカス大学から再版が出版され、アマゾンの読者から5つ星の評価を得ていたが現在は売り切れで再版の注文を受け付け中である30。『肉弾』は『武士道』以上にローズヴェルト大統領の心を捉えたのであろうか、大隈重信から『肉弾』を贈られたローズヴェルトは、陸軍中尉に過ぎない桜井忠温に「貴下の英雄的行為は、一朝有事の際に国家に尽くすべき青年を鼓舞するであろう」との礼状を書いている。また、大隈重信も「物質的に打算したならば、この攻囲軍の損害は随分夥大である」。しかし、「精神的活動の方面から云うならば、その利益は莫大」で、この旅順攻略がわが「大和民族の歴史に一大栄光を添えている」。「名誉と任務とを敬重厳守し」倒れて已まない「日本武士の本領」を発揮したと序文に書いたが、31大隈の指摘したとおり旅順陥落はツアーの威信を大きく失墜させ、ロシア革命へと連なっていった。
旅順陥落2週間後にウラジミール・レーニンは機関誌『フペリヨード32』に、日本は「戦争の主な目的を達成した。進歩的な進んだアジアは遅れた反動的なヨーロッバに、取りかえしのっかない打撃を与えた。旅順要塞はヨーロッパの多くの新聞が難攻不落だと褒め称えたものである。軍事評論家たちは旅順は6つのセバストポリ要塞に等しいと言っていた。ところが、イギリスとフラソスがセバストポリを占領するのにまる1年もかかったが、ちっぽけな、これまでだれからも軽蔑されていた日本が、8ヶ月で占領したのである。この軍事的打撃は取りかえしのつかないものである」「旅順港の降伏はツァリーズムの降伏の序幕である。新しい大きな戦争、専制に対する人民の戦争、自由のためのプロレタリアートの戦争の時機は近づいてくる」と書いた。そして、旅順陥落3週間後には首都のサンクトペテルブルクで「血の日曜日」事件が起こり、この日を境に革命の波がロシア全土に拡がり、それから17年後に世界最初の共産主義国家が誕生した。
しかし、戦後日本ではロシア軍の死傷者3万1306名(戦死行方不明6646名)に対して、2倍近い死傷者を出したことから33、司馬遼太郎などから「愚将乃木」などと厳しく批判されている34。一方、ドイツでは旅順が陥落すると各新聞は争って日本軍の「勇武ト忍耐トヲ賞揚」し、1905年2月9日には内務大臣ポサドゥスキ=ウエナーが最近日本の発揚した武功は、セバストポリ要塞の攻略以降「類似ヲ見ザリシ」ものであり、日本の真価が「突然高マリ」、「日本人ハ之ヲ自負スルニ足ルノ理由ヲ有ス」。日本国民が一致団結し生命財産を「犠牲ニ供シツツアル状況ハ、実ニ驚嘆ノ外ナク」。ヨーロッパの民衆に「好模範ヲ興フルモノト謂ツヘシ」と讃えた35。次いで2月12日にはベルナルド・ビュロー首相が日本国民の「一致協力」は「賞賛ニ耐ヘザル所」であり、「世界万国民ニ向ヒ価値アル模範」を示したと語り、カイザー皇帝も日本軍の「武勇ハ賞賛能ハサル所」であり「深ク之ヲ嘉ミ」、乃木大将にプール・ル・メリト賞を贈呈することに決めたと語った36。
また、当時、オーストリアの支配下にあったハンガリー系住民のコパチ・ノギ(コパチは爺さんという意味)という人が、口癖のように「東方にはわれわれの兄なる国、日本がある。日本は小なりといえども、大国ロシアを打ち破った素晴らしい国だ」、日本に行ったら日本人に渡して欲しいと、ハンガリー動乱で米国に亡命したデュナイ・イシュトワンに次のような手紙を渡したが、コパチ・ノギ爺は日本が何時かはロシアを再び破り祖国ハンガリーを解放してくれると、日本が第二次世界大戦に敗北した後にも期待していたのである37。
「日の出る国、大日本の紳士淑女へ 私はあなた方の弟、ハンガリー人の一農夫であります。長い長い間、私は兄なる日本に憧れていました。いかなる夷狄もあなたの神聖な日本の領土を犯すことは不可能でした。それにひきかえ我々は西方異種族の中に唯1人、1日として安んじたことはありませんでした。第二次世界大戦で我々は20万の人命を失い、15万人が西欧へ亡命し、幾千人がシベリアへ連れ去られたのです。共産統治下では1万人を越える人々が絞首台へ追いやられました。我々は滅びつつあります。雨にも風にも耐えながら私は待っています。血を分けた同胞の日本が孤独な西欧の弟を思出して下さる日を、我々の苦しみを必ず理解して下さる日を、……長くとも私は待っております。
乃木の突撃銃剣戦法が戦後日本では非難されているが、第一次世界大戦の始まる1年前にドイツ語版の『肉弾』が出版されると、カイザー皇帝は全軍に配布し本書により日本軍の真価を知れと勅令で指示した38。さらにフランス戦線で突撃を繰り返し、突撃に対する厳しい批判が起きた第一次世界大戦後の1920年に、英国国防委員会が編纂した『公刊 日露戦争史』にも「結論として旅順の事例は今までと同様に、塁堡の攻防の成否は両軍の精神力によって決定されることを証明した。最後の決定は従来と同様に歩兵によってもたらせられた。作戦準備、編成、リーダーシップ、作戦のミスや怠慢などにどんな欠陥があったとしても、この旅順の戦いは英雄的な献身と卓越した勇気の事例として末永く語り伝えられるであろう39」と書いている。
また、日露戦争に観戦武官として参加し、退役後にエジンバラ大学の名誉総長になったイアン・ハミルトン大将は、日本から学ぶべきものとして兵士の忠誠心の重要性を上げ、われわれは「自国の子供達に軍人の理想を教え込まねばならない。保育園で使用する玩具類に始まって、教会の日曜学校や少年団などに至るまで、自分達の先祖の愛国的精神に尊敬と賞賛の念を深く印象づけるように、愛情、忠誠心、伝統および教育のあらゆる感化力を動員し、次の世代の少年少女たちに働きかけるべきである40」と説いた。
一方、フランスのフランソワ・ド・スーグリェ将軍も、旅順攻略戦は「精神的な力、つまり克服しがたい自力本願、献身的な愛国心および騎士道的な死をも恐れぬ精神力による圧倒的な力の作用の教訓となる印象深い戦例」であると、日本兵の生命を顧みない忠誠心を讃えていた。英仏連合軍のセバストポリ要塞攻略戦は349日であり、英国軍に3万3000人、フランス軍に8万2000人の損害が出たが、旅順要塞は155日で落城し、日本軍の損害は5万9304人であった。セメントで砲台と塹壕を築いた旅順要塞は、その外側は地雷と鉄条網で守られ、夜間の攻撃には投光器を準備し、日本軍に数倍する機関銃で防護されていた。日本軍の突撃部隊は何らの効果的な打撃を与えることなく、無惨にも撃退され屍を築いていた。しかし、それでも執拗に攻撃を繰り返す日本軍の攻撃に、ロシア軍は徐々に戦意を失い一歩一歩後退を余儀なくされ、降伏に追い込まれたのである。これこそヨーロッパの軍事専門家達の脳裏にもっとも強く刻み込まれた教訓であり、それは当時世界に流行していた「社会的ダーウィニズム」の「適者生存」の理論、すなわち、ある集団が他の集団に打ち勝って生き残るためには、個人の犠牲がいかに莫大なものであっても必要であると考えに合致する教訓であった41。このようにヨーロッパは日本軍の突撃精神や犠牲的精神が高く評価され、見習うべき優れた特質であると受けとめられたため、10年後に起きた第一次世界大戦では、日露戦争の戦訓を学んだヨーロッパの軍司令官たちの脳裏に、突撃精神が鮮やかによみがえり突撃を繰り返し多くの犠牲者を出したのであった。
次ぎに武士道精神が発揮された歴史的背景まで掘り下げ、日本の勝因を分析したのアルゼンチンの新聞『ナシオン』を見てみよう。『ナシオン』は「西洋と東洋42」との特集で聖徳太子の「一七条の憲法」から「五ヶ条の御誓文」、さらには「教育勅語」まで取り上げ日本軍の忠誠心、愛国心の強さを次のように分析し報じた。
「外見上小さな存在であるダビデが、大きな存在である巨人ゴリアテを打ち負かしたのである。日本ではすでに604年に憲法が制定されており、その憲法は「和をもって貴しとなせ。群卿百寮、礼をもって本とせよ。それ民を治める本なり」と定めていた。それに対してヨーロッパでは、ずっと以前から暴力と高慢、無礼が、家庭、教会、そして学校で教育されてきた人間を統治する根源的な手段となってきた」。しかし「現在アジアで憲法をもつ唯一の国である日本」は、威喝によってではなく、倫理、道徳によって杜会を律し、「国家への忠、親への孝、夫婦の和、兄弟の愛が宗教人としてではなく、社会人、家庭人としての義務」とされ、力による強制よりも和による秩序維持を尊重していると分析した。さらに「五ヶ条の御誓文」の中に「旧来ノ因習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ」とあるように、日本の開明的な立憲民主主義がツアーの専制政治体制を破ったのである。日本の勝因は「大砲の大小、銃の軽重、巡洋艦、魚雷艇、装甲艦の性能のあれこれといった技術者の間で長談義される問題は、専門家の屁理屈以外の何物でもない。勝利をもたらすのは爆薬の威力ではなく人間にある。日露両国民の精神は10世紀も15世紀もかけて形成されてきたのであり、その結果として人口4500万人の日本が1億3500万人のロシアを打ち破ったのである」と結んでいる。
明治天皇に対するアラブ諸国の賞賛
次に世界が注目したのは忠誠心を尽くす対象としての国家、その国家指導者であったが、サターン制度が支配していたアラブ社会では天皇制がサターン制度に類似していることから天皇制に注目した。特にイランでは「神助を得た日本の天皇はアジアの王たちによき手本を示した。もし王たちが狩猟や黄金をちりばめた王宮での安眠の代わりに、その時間を少しでも王国内の諸問題の解決と、国民の福祉とを考えるために費やそうとすならば、王たちはきっと明治天皇の方策を模倣することになるだろう」を称え、サターンが少しでも明治天皇に学ぶことを期待した43。
次に明治天皇を称える代表的な作品を紹介しよう。エジプトでは国民的詩人ハーフィズ・イブラーヒームが「日本の乙女」という詩を書いたが、この詩はエジプトだけでなく、レバンノの教科書にも掲載され、現在でも多くのアラブ人に愛唱されている。また、日本アラブ通信の新アラブ千一夜物話「アラブ諸国の中の親日感情」には、「大国ロシアに大勝し近代国家建設に驀進している極東の島国日本の姿は、当時すでにイギリスの支配に組み込まれていたエジプト人の心に、大きな灯をともした」と次の要約が掲載されていた44。
われは日本の乙女、銃もて戦う能わずも、
身を挺して傷病兵に尽くすはわが務め、
ミカドは祖国の勝利のため、死をさえ教え賜りき。
ミカドによりて祖国は大国となり、西の国々も目をみはりたり、
わが民こぞりて力を合わせ、世界の雄国たらんと力尽くすなり。
この詩には「天皇が祖国を死の眠りから甦らせ、栄誉のために全力を尽くせと号令をかけられるや、祖国は栄光の高みを望んでその頂点に達し、ついにすべての目的を達したのです」と、明治天皇が偉大な指導者として画かれ、偉大な天皇と天皇に忠誠を尽くす国民の愛国心が、日本を近代国家に成長させたと、イブラーヒームはこの詩で近代化や独立を望むエジプト人を励ましたのである。
さらに、エジプトでは開戦直後の1904年6月に、ムスタファー・カーミルが『昇る太陽』を書いたが、それは「日本の歴史こそ、東洋の諸国に最も有益な教訓を与えてくれる、日本の発展を自らの模範と教訓とし、眠れるエジプト人を目覚めさせるために、この本を書いた」と次のように述べている45。
墓場から甦って大砲と爆弾の音を響かせ、陸に海に軍隊を動かし、政治上の要求を掲げ、自らも世界も不敗と信じていた国を打ち破り、人々の心を呆然自失させて、ほとんど信じ難いまでの勝利を収め、生きとしいけるものに衝撃を与えたこの民族とは一体何者なのか。彼らはわずかの年月にある部分では西洋と肩を並べ、ある部分で追い越すまでになったのか。今やだれもが驚きと讃嘆の念をもって、この民族について質問されるので説明すると、日本の発展の秘密を天皇以下政府の重臣、庶民に至るあふれる愛国心と教育・政治・経済・軍事の近代的諸制度にあり、日本のように強大な権力のもとに民族主義的精神が結集すれば、西洋の立憲国家が何年かかっても達成できなかった目標をなし遂げることができるであろう」。
この日本賛美や日本の理想化はエジプトだけにとどまらず、ペルシャ語圏内にも波及したが、ここではイラン人ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズイーが、叙事詩の形で発表した『ミカドナーメ(天皇の書)』を説明しよう46。この本の書名や体裁は英雄叙事詩『シャナーメ(王者の書)』にならい、明治天皇の即位以来の国造りを記述し、次いで日露戦争について「日本軍は、いかなる難問にも希望をもって耐え忍んだ」。その結果「神の慈悲が蟻(日本)を獅子に変え、この蟻によってかの象(ロシア)を打ち負かしたのだ」と、各戦闘の様子や両軍の戦果や損害、世界の反応などを織りまぜて語り継ぎ、最後は講和の締結とその余波にまで言及している。この『ミカド・ナーメ』全体を通して窺われるのは、明治天皇のリーダーシップと国民の強い愛国心であり、日本の偉大さであった。シーラーズイーイは「東方からまた何という太陽が昇ってくるのだろう。眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。文明の夜明けが日本から拡がったとき、この昇る太陽で全世界が明るく照らし出された」と、日本がアジアに新しい光を投げかけ、長い無知の暗闇を駆逐したと日本を賛美した。
一方、イラクでは詩人のアルーフ・アツ=ルサーフイーが「対馬沖海戦」を、レバノンでは詩人アミール・ナースィル・アッ=ディーンが、「日本人とその恋人」を、アフマド・ファドリーが桜井忠温の『肉弾』を1909年に翻訳したが、これがアラビア語に翻訳された最初の日本の本であった。さらにイスラム圏では日本にイスラム教を広げ、日本をイスラム世界のリーダーとし、天皇をカリフ(盟主)とすることによって、イスラム世界の強力な求心力を回復し、西欧勢力に対抗しようとの動きが生まれた。1905年にアブドゥッラー・ジェウデトは『イジテハット(調査界との意味)』誌に「ロシアと日本」との諭文を書き、日本がもしイスラム国家となれば、明治天皇をカリフとするのが適当である。そうすればイスラム諸国の団結はますます強固になるであろうと主張した47。
一方、トルコでは女流作家のハリデ・エデイブ・アドゥヴァルが、次男にハサン・ヒクメトッラー・卜ーゴーと名づけたように、トルコにはイスタンブールのトーゴー通りなどの道路名や、トーゴー靴店などの名が付けられた。また、トルコから派遺された観戦武官ペルテヴ・バシャは、『日露戦争』と『日露戦争の物質的・精神的教訓と日本勝利の原因』を刊行し、「旅順攻略軍の勇敢さ、兵士の犠牲的精神を賞賛し、トルコの未来も日本を見習って一致団結し、近代化を進めるならば決して悲観すべきものではない。国家の命運は国民にあり48」と訴えた。そして、この日本の勝利がトルコの近代化を推進する青年党運動となり、ケルマ・アタチュルクのトルコ革命に連なっていった。
さらに、日露戦争の勝利は単に有色人種間に止まらず、ロシアの圧制に苦しむフィンランドやポーランドなどへも飛び火し、1918年11月にロシアからの独立が認められると初代大統領となったユーゼフ・ピウスッキが、20年前の日露戦争で活躍した51名の日本軍指揮官にポーランド軍最高の勲章(Virtuti
Militari)を贈呈した49。また、ポーランドの有名な作家ボレスワフ・プルスは『クーリエ・コディゼニー(Kurier
Codzienny)』に「日本と日本人」を連載し、日本に見習えと次ぎように説いた50。
日本人の「最も優れているのは愛国心である。日本人の愛国心は外国人への憎しみや軽蔑に根ざしたものでなく、己に属するすべてのものに対する愛情に基づいている。軍のために何人かの者がその命を犠牲にして任務を遂行する必要が生じた場合、何人かではなく、何千人もの者が自らその任務に志願するだろう。……これが、つい2年前にはヨーロッパ人に『猿』と呼ばれていたにもかかわらず、今は敵国からも尊敬を集めている国の姿である。尊敬されたいと思うなら、皆、日本人を手本として努力しなければならない」。
その後、明治天皇が崩御されると世界各国が哀悼の意を表するとともに、明治天皇の功績を称えたが、インドの『ジヤム・エ・ジャムシエット』紙は「常に優越を誇った欧米の一大強国に日本が勝利したのは、日本人が勇敢であったとはいえ、明治天皇が不撓不屈の精神で全軍を指揮し、内政を適切に指導したからである。明治天皇の最大の功績は欧米諸国のアジアへの侵略を制止したことであり、天下無敵と自負しアジア人の戦闘力を蔑視していた欧米強国を反省させた。またアジア民族を覚醒させた」と称えた。
中国では大総統衰世凱以下が国を挙げて哀悼の意を表したが、参議院議長の呉景濂は議会で明治天皇が幼年にして即位し、「五十年来精励して統治し一国強盛の基を建て、東和平和の局を支えた」述べ、『亜細亜日報(北京)
』は世界の帝王中の帝王としては明治天皇とロシアのピョートル大帝のみであり、ドイツ皇帝ウィルヘルムや米大統領ルーズヴェルトなどは「世界の偉人」とは言えても、軍事上の功績となれば「先帝に及ばざるなり」。日本の上下が先帝の偉業を継ぎ、前代の余威を受け万世不変の皇統と皇室尊崇の伝統的衷情を保持すれば、アジアの発展が期待できるであろう」と称えた51 。
日露戦争後に日本が歩んだ一世紀
日露戦争に日本が勝つと、中国の孫文、康有為、宗教仁、黄興、インドのビバリ・ボース、ビルマのウ・オッタマ、ベトナムのファン・ボイ・チャウやコォン・デ侯(王子)、フィリピンのアルミテオ・リカルテ、中近東からはハムンド・バラカトゥッラーやムハンマド・クルバンアリーなどの民族主義者が独立を夢見て来日した。明治・大正・昭和の先人たちは、これら亡命者を暖かく受け入れ庇護し支援し、パリ平和会議では人種平等条項を国際連盟の規約に盛り込むことを提案したが、この動議は門前払いの形で拒否されてしまった。しかし、この提案が有色人種に希望と勇気を与え、アジアやアラブ、アフリカでは人種平等や独立を求める反植民地闘争が開始された。しかし、これらの独立運動は強力な西欧植民地諸国の力の前にことごとく弾圧され、これら植民地が西欧の支配から脱することはできなかった。
これを打破したのが太平洋戦争と呼ばれている大東亜戦争であった。東南アジアの民衆は昨日まで君臨していた白色人種の主人が、日本軍のたったの一撃でろくも崩れ去ったのを目前に見てしまった。この戦争初期の日本軍の快勝は、日露戦争の時と異なり知識人だけでなく、一般民衆にも独立への自信を与えた。また日本の唱えた「アジア人のアジア」のスローガンが独立への夢を与えたが、日本は3年8ヶ月後に敗退してしまった。しかし、かっての植民地に西欧帝国主義諸国が再び復帰することはできなかった。日本軍が育成したインドやビルマ、インドネシアの義勇軍が、日本軍が教育した南方特別留学生や興亜訓練所などの青年が、各地で一斉に民族独立の戦い立ち上がったのである52。
そして、独立を達成したアジア・アラブの指導者たちは、1947年にはアジア関係会議を開いたが、1955年にはバンドンでアジア・アフリカ会議を開催した。29カ国が参加したが米ソを含む白人国家は排除され、参加したのは有色人種だけであった。欧米の新聞は「西欧は排除された。アジアの運命はアジアで決定されつつあるということであって、それがジュネーブ、パリ、ロンドン、ワシントンで決められないということを意味しているのだ。植民地主義は終わった。『手を引け』が決まり文句だ。…..これは多分、今世紀最大の歴史的事件であろう」と報じた53。
日本の敗北2ヶ月前に国際連合が誕生したが、加入した51国中に有色人種の国は13カ国しかなかった。しかし、現在では国連は193カ国に膨れあがり、加盟国の増大が有色人種の発言権を高め、事務総長や主要職員も有色人種から選抜されるようになった。また、あれほど有色人種を差別していた米国でもコラソン・ライス国務長官など閣僚に有色人種を採用し、日系人からもノーマン・Y・ミネタ商務長官や、エリック・K・シンセキ陸軍参謀長が任命されまでになった。
新渡戸稲造は『武士道』で「義(正義や義務)」は人体の「骨格」であり基盤である。人がいくら才能や学問があっても、「義」がなければ武士ではないと説いたが、この『武士道』や『肉弾』から自律心や犠牲的精神、愛国心などを学んだアジア、アラブ、アフリカなどの指導者が、身を挺して人種平等や民族国家独立運動の先頭に立ったのであった。日本百年の近代史は、西欧帝国主義国家の植民地支配の解放という「義」に生き、戦い抜いた歴史であり、日本の1世紀にわたる近代史は苦難の歴史ではあったが、明治日本が求めた「坂の上の雲」に到達したと考えるべきではないか。
脚注
1 人口はB.R.Mitchell, InternationalHistoric Statistics:Africa, Asia and Oceaniam1750-2000(Basingstoke:Palgrave Macmillian,2003),p.8,B.R.Mitchell, International Historic Statistics:Europe,p.7.
2 ジャネット・ハンター「日本とロシアの経済と日露戦争」(山梨学院大学ポーツマス講和100周年記念プロジェクト編『山梨学院大学創立60周年記念誌:日露戦争とポーツマス講和』(山梨学院大学、2006年)32-61頁参照、なお数値はMitchell,Asia,p.353,p.418, Mitchell,p.Europe,p.223.
3 桑田悦「両国の戦力・作戦構想と大本営」(桑田悦編『近代日本戦争史』(同台経済懇話会、1995年)461-468頁。
4 デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー(妹尾作太郎訳)『日露戦争全史』(時事通信社、1978年)181頁。
5板東宏『ポーランドと日露戦争』(青木書店、1995年)13頁。
6前掲、ウォーナー『日露戦争全史』181頁、外務省編『日本外交文書 第37・38巻別冊 日露戦争U』日本国際連合協会、1959)962-63頁。
7鹿島平和研究所編『日本外交史 7 日露戦争』(鹿島研究所出版会、1970年)27頁。
8 Alfred Stead,”The War and International Opinion,”Fortnighly Review 82(Oct., 1904),p.652,飯倉章「強国日本の誕生―日露戦争と日本のイメージ」(『城西国際大学紀要』第8巻第2号、2000年3月)。
9 Daily News(12 Feb 1904).
10英語版はThe Loyal Ronins(NewYork:Puntum Press,1880)、永富映次郎『肉弾将軍 櫻井忠温』(青葉図書、1976年)115-117頁。
11東京日々新聞社編『参戦二十提督回想三十年 日露大海戦を語る』(東京日々新聞社、1935年)71-72頁。
12新戸部稲造『武士道』は現在もBushido:The Soul of Japan, The Way of the Warrior, Samurai Ethics and the Soul of Japanなどペーパブックを含め3種類が販売され、「星4つから4.5」の評価を受けている。
13国際ニュース辞典出版委員会編『外国新聞に見る日本B 1903-1905』本編下(毎日コミュニケーションズ、1992年)381頁、388-389頁。
14 マヌエル・D・ガルシア(津島勝二訳)『日本海海戦 アルゼンチン観戦武官の記録』(日本アルゼンチン協会、1998年)299-300頁。
15石塚正英編『金子堅太郎・回想録』(長崎出版、1986年)35-36頁。
16 Alfred Stead,”Peace in the Far East”Fortnightly Review, 84(October, 1905), p.597,”The Peace”Editional,Times(August 30.1905) 飯倉章「“異質な強国”日本の出現―日露戦争時の欧米世論における日本観の変遷」(日米関係研究所編『Outlook』1992年)118頁。
17桜井敏照「日露戦争と中国の民族運動」信夫清三郎・中山治一編『日露戦争の研究』(河出書房新社、1972年)456頁。
18『新民叢報』1904年2月14日(熊 達雲「中国のマスメディアから見た日露戦争について:『東方雑誌』『新民叢報』『大公報』などを中心に」前掲『山梨学院大学創立60周年記念誌』98-91頁。
19 “1905 Nippon victory was Windication of All Asians”Sunday Tribune Magazine(26 March 1944),p.5cited リカルド・ホセ「日露戦争とフィリピン」、同上、174-175頁。
20潘佩珠(長岡新太郎・川本邦衛編)『ヴェトナム亡国史他』(平凡社、1970年)115頁、133頁。
21「勧国民資助遊学文」(森達也『ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー』角川書店、2003年)78頁。
22 グエン・チュオン・タウ(阮章収)「ヴェトナム近代における福沢諭吉と慶応義塾」(西川俊作・松崎欽一編『福沢諭吉の百年』慶応義塾大学出版会、1999年)257頁、263-264頁。
23 ジャワハルラル・ネルー(大山聡訳)『父が子に語る世界歴史』第3巻(みすず書房、1966年)221頁。
24 R.P.Dua,The Impact of the Russo-Japanese (1905)War on Indian Politics (New Delhi;S.Chand & Co.,1965),p.29.
25 Ibid.,pp.31-34.pp.40-42.
26 Colored American,Kearney Reginald, Afro-American View of Japanese, 1900- 1945(Kent State Univeristy,1991),p.35.
27 Ibid.,pp.37-38,p.51.
28 Ibid.,p.67-68.
29 Paul G.Lauren,Power and Prejudice:The Politics and Diplomacy of Racial Discrimination(Corolado:Westview Press,1996),p.179.ポール・G・ローレーン(大蔵雄之助訳)『国家と人種偏見』(TBSブルタニカ1996年)。
30前掲、永富『肉弾将軍』115-117頁。Tadayoshi Sakurai, Human Bullets:A Soldier Story of the Russo-Japanese War (Lincoln:University of Nebraska Press,1999)pp.v-xiz.
31櫻井忠温『肉弾』(明元社、2004年)1-4頁。
32 「フペリヨード第二号」(ソ同盟共産党中央委員会付属マルクス・レーニン主義研究所編『レーニン全書』第8巻(大月書房、1978年)32―41頁。
33 Official History The Russo-Japanese War(London:His Majest’s Stationary Office, 1910), vol.II, pp.750-751.
34司馬遼太郎『坂の上の雲』第5巻(文藝春秋社、1972年)246-247頁。
35 「旅順降服役ニ於ケル独世論ノ傾向並ニ政府ノ態度ニ関する件(明治38年3月5日)」(前掲『日本外交文書 第37・38巻別冊 日露戦争U』979頁。
36 「宮中舞踏会ニ於ケル宰相ノ談話等報告の件(明治38年2月12日)同右、973-974頁。
37 デュナイ・イシュトワン「日本への恋文」(『文藝春秋』昭和38年2月号)252-257頁。
38前掲、永富『肉弾将軍 櫻井忠温』117頁。
39 Official History The Russo-Japanese War, op.cit.,vol.II, pp.37-38.
40 Ian Hamilton,A Staff Officer’s Scrapbook(London,1905)vol.I,pp.10-13.(マイケル・ハワード「ヨーロッパ諸国から見た日露戦争」(桑田悦編『近代日本戦争史』第1編、同台経済懇話会、1995年)645-646頁。
41同上、644-645頁。
42今井圭子「アルゼンチンの主要新聞にみる日露戦争当時の日本報道」(ラテン・アメリカ政経学会編『ラテン・アメリカ論集』第33号、1999年)78-81頁。
43杉田英明『日本人の中東発見 逆遠近法のなかの比較文化史』(東京大学出版会、1955年)217-220頁。
44同上、杉田、197―203頁、なおHttp://www.japan-arab.org/ara-nightにも掲載されていたが現在は見当たらない。
45同上、189―194頁。
46同上、212-219頁。
47内藤智秀「日露戦争とパン・イスラミズム」(『国際政治』第36号、1968年)90頁。
48 同上、91頁。
49 ジョージ・J・ロスキル「日露戦争とポーランドの抗露・親日運動」(黒羽茂『日露戦争と明石工作』(南窓社、1976年)286頁。
50 エヴァ・ルトコス「日露戦争が20世紀前半の日波関係に与えたインパクトについて」前掲『日露戦争と世界:100年後の視点』)156-157頁。
51宮内庁編『明治天皇記』第12巻(吉川弘文堂、1975年)827頁。
52平間洋一『日露戦争が変えた世界史』(芙蓉書房出版、2006年)の「『先の戦争』が民族国家の独立に与えた影響」の項を参照。
53前掲『国家と人種偏見』306頁。