青島攻略日英連合作戦
1 外交を巡る戦い
青島守備隊は、その数在郷軍人を含めても2000から4000名に過ぎず、その戦いはこの機会に中国進出を図ろうとする日本とそれを阻止しようとする英国との、国益を巡る戦いにもあった。大正3年(1914年)8月7日に中国沿岸に出没するドイツ武装商船を撃破されたいとの限定的武力行使を英国から受けた当時の首相は早稲田大学の創設者、立憲同志会総裁の大隈重信で、時の外相は加藤高明であった。
英国からこの申し出を受けた加藤外相は「独逸の根拠地を東洋から一掃し、国際上に一段と地位を高めるの利益」から、仮装巡洋艦の捜索撃滅に限定せず、全面的参戦を申し出るべきだと、大隈首相に進言し、
大隈首相も「参戦してしまえば、後はどうにでもなる。」と同意、即日臨時閣議を開き日英同盟の基盤に立って、全面的に参戦することを決定し、翌日には天皇に上奏し内諾を得て駐日大使グリーンに通知した。日本が、このように第1次大戦を「大正の天祐」として積極的に参戦を決すると英国は日本の野心を疑い8月10日に、前記依頼を取り消してきた。しかし、加藤外相は天皇に上奏し、裁可を得た後に参戦を取消されたのでは、内閣の存立が危ないと強硬に英国に申し出て、ついに同月11日に至り、ドイツの占領している中国領土(青島)以外の領土を占領せず、太平洋に軍事行動を拡大しないことを条件に参戦の同意を得た。
2 陸軍作戦
(1)上陸作戦および進撃
日本軍は強襲上陸となること及び青島付近は季節風の影響を受け、揚陸作業が困難であることから、中国の局外中立宣言および青島より50粁以内を交戦地域とするという山東交戦地域限定声明等を無視し、
第1陣の歩兵第24師団司令部をはじめ歩兵第48連隊の主力、騎兵第22連隊、工兵第18大隊等を9月2日に山東半島北側の龍口に上陸させた。
しかし、 悪天候のため上陸作業は困難を極め予定より完了が10日も遅れ、 さらに陸上後は100年来の洪水で橋も流失し、食糧の後送も続かず疲労と病気で倒れる者も続出する状況で、龍口から莱州まで70キロを9日もかかり、先遣隊が莱州に到着したのは9月10日となる困難な作戦であった。
このため第23旅団等は龍口上陸を山東半島南岸の労山湾に変更して上陸、 9月19日から20日には柳樹台付近まで前進し、9月27日には青島を囲む浮山、孤山等の線に達した。 しかし、 右翼隊は港内に在泊するオーストラリア巡洋艦カイゼリン・エリザット、砲艦イルチス等の射撃を受け苦戦したが、日本軍は「白兵戦と肉弾攻撃により」徐々に青島の包囲網を縮め、28日正午には浮山と孤山を結ぶ線を占領した。
(2)青島総攻撃
以後、 約1ヵ月の総攻撃準備を行ったが、その配備はモルトケ砲台と対する最右翼を浜松第67連隊、静岡第34連隊の3ケ大隊(指揮官:第29旅団長浄法寺五郎少将)、その左に第1中央軍の英軍サウス・ウエルズ・ボーダラー1大隊、インド・シーク半大隊(指揮官:バーナージストン少将)、第2中央軍を久留米第40、第56両連隊(指揮官:第24旅団長山田良永少将)を配備し、
攻撃目標を中央堡塁およびモルトケ、ビスマルク、イルチスの3砲台とした。 最左翼には佐賀第56連隊、大村第46連隊(指揮官:堀内文次郎少将)が並び小湛山堡塁とイルチス砲台をその攻撃目標としていた。
この外に陸軍の砲兵、また海軍からは日露戦争当時の旅順閉塞隊の生き残りである正木中佐指揮の海軍重砲隊も参加支援した。
総攻撃は10月31日の天長節(大正天皇の誕生日)を期して始められ、11月1日夜には第1攻撃陣地を、
11月2日夜には第2攻撃陣地を占領、激しい日本軍の白兵攻撃に11月7日朝にはドイツ軍司令官兼総督のワルデックから降伏の申出があり、ここに青島要塞は日本軍の戦死
9名、負傷 7名、英軍の戦死9名、負傷47名の犠牲において落城した。 なお、ドイツ軍の損害は捕虜4000名、戦死者は400名であった。この作戦に参加した日本軍は野戦重砲兵連隊、攻城重砲兵大隊等約51700名、
野砲および山砲50門、野戦重砲48門、攻城重砲48門、航空機5機であり、 英軍はバーナヂストン旅団少将を指揮官に、華北駐屯のサウス・ウエルズ・ボーダラーズ第2大隊の870名およびインド・シークス第36大隊の半大隊450名の2部隊、1320名の兵員と後方支援に当たるインド人、中国人等320名であった。
3 海軍の作戦
開戦とともに第1艦隊にはドイツ東洋艦隊(シュペー中将指揮の装甲巡洋艦シャルンホルスト・グナイゼナウ、軽巡洋艦ニュウルンベルヒ・ライプチッヒ)の撃破および通商保護が、第2艦隊には膠州湾封鎖、陸軍上陸部隊の護衛、上陸作戦の支援が、第3艦隊には揚子江周辺海域の警備が命ぜられた。 青島攻略作戦の支援を命ぜられた第2艦隊は司令長官加藤定吉中将を指揮官として、 巡洋艦6隻、砲艦4隻、海防艦9隻、駆逐艦・水雷艇31隻、特務艦艇18隻の合計68隻がこの作戦に派出された。 一方、英国からは旧式戦艦トライアンフ、駆逐艦アスク、商船改造の病院船デルタが派遣された。
開戦とともに第2艦隊は旗艦周防を先頭に膠州湾に迫り、27日に膠州湾の封鎖を宣言し、以後2ケ月近く湾外に止まり陸軍輸送船の護衛、陸上支援射撃、ドイツ極東艦隊の来襲や港内からの脱出艦艇の監視・警戒に当たったが、この間に10月18日の深夜封鎖任務に従事中の砲艦高千穂がドイツ駆逐艦S-90号の魚雷攻撃により撃沈され、さらに、封鎖作戦中に水上機母艦若宮を始め掃海艇弘養丸等が触雷し、駆逐艦白妙、掃海艇淀丸等が座礁する損害を出した。また、海軍は水上機母艦若宮を戦場に投入し、9月5日には第1回航空偵察に使用し、ドイツ主力艦隊の青島不在を確認する等の功績を挙げたが、以後、膠州湾封鎖作戦中爆撃、偵察等に89回の飛行を行った。
一方英海軍の作戦は、 自国陸軍部隊の太沽ー威海衛ー膠州湾間の護衛、上陸援護、膠州湾海上封鎖作戦および陸上支援射撃であったが、作戦日数は9月12日から11月7日の青島攻略まで、
駆逐艦アスクが15日間哨戒任務についたに過ぎなかった。しかし、10吋砲8門を持つ戦艦トライアンフは、
旧式艦とはいえ封鎖部隊にとり大きな戦力で、対水上戦闘においては主力部隊の第4戦隊に加えられ、陸上射撃では294発を発射し弾薬不足で周防349発、石見277発、丹後160発、沖島83発、見島44発しか射撃できなかった日本海軍にとり大きな戦力となった。
4 日英間に生じた問題
(1)海軍作戦
この作戦を日英海軍とも極めて有効な、誠意に満ちたものであつたと評価したが、英支那艦隊司令部に派遣された山梨中佐は「英国将軍等ノ堅忍不屈、能ク全局ノ観察ヲ怠ラザルコト、各艦活動ノ見事ナルコト(組織上並ビニ訓練上共)、各国人種雑居セル為秘密ノ確守行ハレアル事」とイギリス海軍を高く評価した。
また、トライアンフの修理に当たった工作船関東の技師は英海軍の士気・戦意の高さを、
第2艦隊参謀長吉田清風大佐は即応態勢の高さを称賛する等英海軍の士気・戦意は陸軍に比べ旺盛であった。
海軍には作戦期間が短く参加兵力が戦艦・駆逐艦・病院船という一つの戦術単位の参加であり、 風俗・習慣等による兵員間の文化摩擦が起こりにくいという艦艇の特質、日英海軍共通の戦術や価値観等に支えられた面も多々あったと思われるが、海軍作戦が成功したのは膠州湾封鎖のための哨戒行動と陸軍の要請に基づく陸上支援射撃という政治性のない純軍事的戦闘行為であり、日英海軍とも敵艦の撃破、敵砲台の破壊という共通の目的、共通の敵があったからであろう。
(2)陸上作戦
ア 上陸期日の問題
上陸地点を英国は中国の中立宣言および交戦区域限定宣言等を尊重し、交戦区域内の労山湾を選んだ。このため日本陸軍は龍口に上陸した主隊が山東半島を横断し即墨付近に進出し、労山湾に対するドイツ軍の脅威を陸上から除いた時点で、まず移動が難かしい重砲、攻城器材等を揚陸し、
次いで英国陸軍を揚陸する予定であった。しかし、日本軍のみで青島が占領されるのを恐れた英国軍からは、
再三にわたり揚陸期日の繰り上げが要請されたため、神尾師団長は英軍の「感情ヲ害スル」ことに配慮し野戦重砲兵連隊の揚陸と競合したが23日から24日にかけて、
華北駐屯のサウス・ウェールズ・ボーダラーズ第2大隊、 870名を先に揚陸させた。このため野戦重砲兵第2連隊の輜重隊等は、
22日労山湾に到着しながら25日になっても上陸できず、揚陸場は混乱を極めた。
イ 攻撃辞退問題
日本側では英軍がなるべく早く作戦に参加したいとの希望を表明して来たため、英軍上陸3日後の27日から開始する比較的防備の薄い石門山付近の戦闘を、
英軍の初戦闘と考え計画を進めていた。しかし、この計画は上陸後25日まで浦里に停止し休養したいとの英軍の申し出により中止された。このため、日本軍のみで進撃を開始し27日には李村河口から浮山東北にわたる線に進出、28日には孤山から浮山にいたる一帯の高地を占領した。
英軍はこの孤山・浮山の戦闘後、 インド・シークス第36大隊の半大隊(450名)を加えて、
第一線に到着しその後1カ月にわたる総攻撃準備に入った。この総攻撃でも神尾中将は英軍に対しては「同軍ノ素質ト兵力ノ関係ハ一翼ヲ担任セシムルハ過重」と考え、海岸堡塁と台東鎮東堡塁との中間にある散兵壕を台東鎮堡塁と名付け、両側から日本軍が支援できるよう攻撃分担を定めた。
しかし、総攻撃を開始し11月6日夜には第3攻撃陣地を占領する予定であったところ、その日の午後にバーナヂストン少将から第3攻撃陣地の占領不要との意見具申があった。その理由は昨夜の攻撃で台東鎮東堡塁および海岸堡塁から縦射を受け、31名の死傷者を出した。第3攻撃陣地の占領目的が前面障害物の破壊にあるならば、突撃を実施するのに十分な程度に破壊しておりその必要はない。もし第3攻撃陣地が本格陣地に対する突撃陣地として必要ならば、
第1攻撃陣地を突撃陣地としても同様である。また、第3攻撃陣地が両翼隊の翼側を防御するためのものならば、
現陣地からでも可能であり第3攻撃陣地を攻略する必要はないというものであった。
この上申に全般の戦況を考えた神尾中将は、攻撃続行を指示した。しかし、英軍は6日夜には終夜にわたる支援射撃があり、敵の砲火も少なかったが、午後11時頃には前進壕構築作業を中止し、
少数を残して後方の第1陣地に後退してしまった。 そして1時間後の午前0時30分頃には第2中央隊から午前1時30分を期して、中央堡塁に突入するとの通報を受けたが動かなかった。このため英軍の陣地構築支援に派遣されていた工兵隊の1小隊が、
第3攻撃陣地に進出し、午前6時30分台東鎮堡塁を独力で占領、更にモルトケ山に前進すると、その頃になって初めて英軍も工兵小隊に引き続き前進を開始した。このように「我等は、
ただ、政策上参加しただけだ」という意識の植民地駐屯軍に高い士気はなく、 英軍は上陸直後の休憩申し出、砲兵連隊への前進擁護命令不実行、第3攻撃陣地占領不要の具申、総攻撃不参加等の問題を生じさせた。
このため、戦闘に参加した現地部隊からは「英国陸軍ガ実戦場裡ニ於テ、頼ミ甲斐ナキ軍隊タルコトノ事実ハ事実トシテ、之ヲ認メザルヲ得ズ。大体ニ就イテ観察スル時ハ、将校ノ能力ヨリ兵卒ノ価値ニ至ルマデ、遺憾ノ点少ナカラズ。之ヲ要スルニ、英国陸軍少クトモ今回戦役ニ参加セル如キモノハ、戦友トシテ信頼シ難キモノナリト断定スルヲ憚カラズ」との所見が提出された。
イ 後方支援の問題
英軍上陸直後の日英幕僚会議で、1ケ月半分の糧食を集積したいとの英軍の要求に、山梨半造参謀長は前進陣地の攻撃が5日後であることから、「自ラ約5日分ノ糧抹ヲ携行シ、而モ日々定半量ヲ以テ甘ンズル程ノ覚悟ヲ要ス」と述べたが、この発言は日本軍が洪水と悪路、住民の抵抗から糧食の調達および輸送が困難を極め、定量より少ない糧食で苦労している時に、
肉、チーズ、ジャムからラム酒、 食用の牛まで連れて上陸した贅沢な英軍に対する不満から出たのかもしれない。また日本軍は英軍の輸送・陣地構築作業等を支援したが、支援を受ける英軍は1日の労働時間を5時間と定め、それ以上の労働を嫌い、「英軍ニ協力セル我ガ工兵小隊ハ独リ連続作業ニ従事スル」状況でもあった。
しかし、現地部隊では参謀総長の英軍に対しては作戦に支障を及ぼさない限り諸般の便宜を与え、「彼我ノ国交ヲシテ益々円滑ナラシムルニ資スルヲ要ス」との注意を考慮し、 揚陸計画や作戦計画を変更し困難な状況下に英軍への補給を優先し、 外套を持たない兵士に対しては、輜重諸隊から現に着用中の外套を取り上げて貸与する等、可能な限りの便宜を与えた。また、英国陸軍は総攻撃には加わらなかったが、 陸軍省公報は「続イテ英国軍両大隊モ亦攻撃前進ヲ起シ敵陣ニ突入セリ」、と英軍も総攻撃に参加したとも読める表現とし、その名誉に配慮を加えた。しかし、このような数々の配慮にも拘わらず日英両軍間には多くの誤解や錯誤による摩擦や対立が生じた。英国の記録によれば英軍はしばしばドイツ兵と間違えられ、誤射を受け前進を止められ、シークス大隊の一大尉等は言葉が通じないため捕虜とされ、手荒い取り扱いを受ける等の事件が発生したとも言われている。
ウ 政戦略上の問題点
また、出兵当初より山東鉄道の占領を計画している日本軍にとり、 英軍は獅子身中の虫以外の何物でもなかった。そこで現地陸軍では福島中将の北清事変の経験に依るに外国兵は決して油断ならず。
利益の獲得は兵力の多少ではなく、 国旗樹立の如何に在り。若し鉄道の一部でも英軍に占領されるならば「大事去ラン」との進言もあり、一駅でも占領されることのないよう、
英軍を山東鉄道から極力離して布陣させた。
また、日本は英国の干渉を避けるため、 青島占領後の各種占領行政等を決める開城談判委員からも外し、 11月16日の共同駐留申し込みも治安維持は日本軍だけで充分であると断られてしまった。
5 プロローグ
青島攻略日英連合作戦は中国における自国の利益を拡大しようとす日英2国の国益を賭けた戦いであり、 英国の派兵目的は日本軍を支援するためでも、 ドイツに対する敵がい心でもなかった。 英国が派兵を申し出た第一の目的は、 「日本の究極の出兵目的に対する猜疑心」であり、派兵により中国に対する発言権を得るとともに、中国に対する調停者・同情者としての利点を得て、自国の利益を確保しようとするものであった。 当時の済南駐在英国領事プラットが、 山東派兵は「英国にとり完全な茶番劇であった」と報告したが、英国がいかに日本の行動に干渉し、 自国の国益を守ろうとしても、ドイツ東洋艦隊が太平洋に、巡洋艦エムデンがインド洋に抜扈し、 極東からインド洋における制海権を全面的に、 日本に依頼せざるを得ぬ状況では、英国に日本の意に反する行動はとれなかった。このため英国は派兵目的を何一つ実現出来なかった。「英国は日本及び日本軍に対し何もコントロール出来ない歯抜けのフルドック」となってしまっただけでなく、 日本の山東半島占領、山東鉄道占領等の道づれに変えられてしまったのであった。
これこそ山県有朋が元老閣僚連合会議で「若し多少にても英国軍の参加が得らるれば、
他日中立違反の問題が起るに及んで、 日本のみが非難を受けくることを免がる可し」という、
日本が英国の参戦を認めた理由でもあった。日本が英軍に期待したのは、 その戦力ではなく日英同盟の情誼のため英国の依頼により戦うという戦争目的としての存在であった。ヨーロッパ戦線の不利から英国は参戦当初の親中国寄りの政策を転換せざるを得ず、日本軍の山東鉄道占領にさえ、
ドイツ軍が軍需輸送に使用したので日本の押収はやむをえないと日本を擁護し、
中国に日本と争うのは「無益」であると、以後中国をなだめ押さえる立場に変り、この結果日本軍が灘県を占領すると、灘県占領を青島攻撃は現に日英連合軍で行っているからと、英国も中国政府から正式に抗議を受け、フランス等からも英国が日本の山東鉄道占領に反対しないのは、
日本が山東に進出すれば日本が揚子江地域を去り、 英国が揚子江地域の支配権を獲得し得ることになるためであろうなどの批判さえ受けなければならなかった。